河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

消えゆくすばらしいもの

2008-01-31 | 研究・講演
今朝届いたちょっとしたメールから巡り巡ってとんでもないことが判明した。

実はもうかなり前のことだが、オージー技研で開発中の体幹筋力測定装置を岡山県南部健康作りセンターに持ち込んで1000人以上の健常人のデータを取ってもらった。
体幹筋力測定装置で健常人の標準値をきちんと計測しているものは他にはないので、この器械は非常に貴重な計測器になった。
GT350の型番で発売されたが、実際にはあまり売れなかったそうだ。

今朝のメールは知り合いの先生からオージー技研からGT350を一時的に借りたいのだが口をきいて欲しいというものだった。
そのことをオージーに投げかけたらすぐに電話が返ってきた。

その内容が衝撃的で、実は薬事法が改正されて、その影響でGT350も再度薬事を通さなければならなくなったのだが、これまでは書類を提出するだけで良かったのが、今後はやっかいな検査データをそろえたりずいぶんとお金がかかることになってしまったのだそうだ。
それで、膝周りの筋力を測定するような売れ筋の物はコストをかけても維持するが、GT350のようにあまり台数がでない物は製造中止でカタログにも載せないことにしたのだとか。

そういう事情があってデモの申し出にも対応できなかったのだそうだ。

しかし、GT350は比較的安価で計測に時間もかからずさらに1000人以上もの基礎データがあるというのに、何とももったいないことである。

これからはWiiFitのようにネームバリューがあって大量に安価に供給されるような物しか生き残れないのかもしれない。


同じような話を最近ネットで読んだ。
それはマック専用のソフトを作っているエルゴソフトがEGワードというソフトの販売を中止するという記事である。
Appleのパソコンは欧米ではiPodの販売に伴って若年層にもかなり売れているのだそうだが、日本では昔からのマックユーザーしかマックを購入せずに確実にユーザーの高年齢化が進んでいるのだそうだ。
日本でしか売れない日本語ワープロソフトのEGワードはこれからはビジネスにならないと判断されたらしい。

結局いくら良い物でもビジネスにならなければ商品として提供することは不可能なのだという厳しい現実がそこにある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私と歩行分析 8

2008-01-31 | 私と歩行分析
3次元動作解析システム・エリートはその後何度も業者さんが来て調整を繰り返したがいつまで経ってもぱっとしない。
そうこうしているうちにそれまでMS-DOSベースだったのがWindows95で動く新しいバージョンになると言うので大いに期待した。
キャリブレーションもそれまでの大型のフレームを使用する方法からワンドを振る新しい方法になるとのことだった。
しかし、この期待も裏切られる。
とうとう堪忍袋の緒が切れた。

それでどうなったかというと、イタリアから学会で来日していたBTS社の副社長(だったと思う)に会って直談判した。
そうすると、
「これまで多大なご迷惑をおかけした。ついては特別サービスの用意がある。」
とのことで、なんと無償でカメラがそれまでの4台に加えて2台追加されたのである。

カメラが増えたことでモーションキャプチャーは不安定ながら何とかできるようになった。
それでも、時々調子が悪くてデータが欠損することがある。

もうこの頃になると、消耗してしまって調子の悪いエリートに触るのがいやになってきていた。

その一方で、吉備国際大学での取り組みもだんだん成果を見せ始め、自前で研究費が取れるようになってきた。
一貫してCKCの研究を行ってきていたのだが、まずはCYBEXのレバーアームの先にフットプレートをつけてその基部にロードセルを仕込んでCKCでの足部出力を計測するようなことを始めた。

いらいらするエリートの計測よりもこちらの方が単純で、知りたい計測値がすぐに出るので、それからは研究費を取ってきては自前で計測システムを作って研究を行うやり方に自然とシフトしていった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私と歩行分析 7

2008-01-30 | 私と歩行分析
絶不調の3次元動作解析システム・エリートと格闘を始めてしばらくして、やはり最新の知識を身につけなければと思い、第2回と第4回歩行分析実習セミナーに参加した。平成7年と平成9年のことである。

この時、現在の臨床歩行分析研究会会長の畠中先生やニューズレター編集委員長の金承革先生と一緒になった。
現在の運営委員の多くのメンバーがこの頃参加していたように思う。

この時の感想を求められて返信した内容が残っていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
江原先生、先日はどうもありがとうございました。御依頼のありました感想文を送らせて頂きます。

第4回歩行分析実習セミナーに参加して
 今回、国立リハセンターで行われた第4回歩行分析実習セミナーに参加させていただきました。そもそも私が本会に入会したきっかけは今からもう10年近く前に吉備高原医療リハビリテーションセンターで坂道歩行の解析を行っていたからであり、1989年に第2回歩行分析セミナーに参加しております。その時のテーマも今回と同じ歩行分析における関節モーメントでした。難しい講義でしたが歩行分析の将来の可能性を感じたことを覚えています。吉備国際大学で将来PTになる学生にエリートなどを使って身体運動学実習を指導するようになり、昨年8月補装具研究所で行われた第2回歩行分析実習セミナーに久しぶりに参加致しました。今回は昨年に引き続き2回目の実習セミナー参加です。
 日程は5日間で初日は講義とグループ分け、第2日目に実際のデータ収集、その後グループ毎にデータ処理を行い最終日にプレゼンテーションを行うというのが大まかなスケジュールでした。私は椅子からの立ち上がり動作の解析を行うグループに入れていただきました。もともとスクワット時の下肢の筋活動に興味があったからです。データ収集は国立リハセンターの機器を使用させて頂いたのですが、床反力計が何枚もあって椅子からの床反力と右足左足の床反力がそれぞれ別個に計測できました。計測自体はVICONを使用しましたが、このような恵まれた環境は日本では他にはないのではないでしょうか。EXCELを使用してのデータ処理、グラフ化の作業も順調に進み、毎晩9時過ぎまでグループ全員で頑張り、最終日に無事プレゼンを終えることができました。
 最近のコンピューターの発達には目を見はるものがあり、歩行分析機器も日新月歩です。関節モーメントの計算手法は昔からありましたが、実際の計算は速く簡単に行えるようになってきたことが今回の実習で理解できました。以前、床反力のみ計測していた頃は臨床的有用性はあまりないように思えましたが、関節モーメントは人間がどのように動いているのかが実によくわかるので臨床的価値は大きいと思います。実は私は現職に就く前に1年間アメリカの整形外科バイオメカニクスの研究室に留学していたのですが、約半年の間、研究のかたわら歩行分析のお手伝いをしていました。一番驚いたのは、アメリカでは歩行分析が医療行為として行われていることであり、紹介された患者一人一人に筋電図を含む歩行分析を行って詳細なレポートを作成し、大体1500ドルくらいの料金を請求していました。もちろん保険も適応になります。歩行分析がシステムとして完成しているのです。一方日本ではほとんどが研究レベルでの歩行分析であり、設備の面でもマンパワーの面でも十分な環境にはないように思います。例えVICONのような一流の機械があったとしてもそれを操作する人には十分な時間がないのが現状ではないでしょうか。臨床や教育の片手間では十分な仕事はできません。今回この実習セミナーに参加された方々も私も含めてせっかく技術を習得しても現場に帰ると雑事に振り回されてなかなかまとまった仕事はできないのではないでしょか。結局高価な機器もそれを使いこなしてこそ生きてくるという平凡な事を痛切に感じている今日この頃です。
 最後に、この良心的でハイレベルの実習セミナーをボランティアで支えて下さった江原先生をはじめとするスタッフの皆様に心より感謝いたします。
吉備国際大学保健科学部 助教授 河村顕治
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腰痛のバイオメカニクス

2008-01-29 | 研究・講演
全日本病院出版会のMB Medical Rehabilitationと言う雑誌から「腰痛のリハビリテーション」の特集号を出すと言うことで原稿依頼が来ていた。
私の担当は「腰痛のバイオメカニクス」である。

昨日一日自宅にこもってだいたい原稿を書き上げ、今日やっと脱稿することができた。
もちろん1日で書いたわけではなく、昨年末から少しずつ準備していたのだ。

こういう原稿依頼は、いいところと悪いところがある。
良いのは、締切があるのでいやでも勉強して知識の整理ができると言うことで、悪いところはただでさえ忙しいのにめちゃくちゃ忙しくなることである。

しかし、どんなに忙しくてもアカデミックな仕事の依頼は断らないことにしている。
1回断ったら次が来ないからだ。

今回はローカル安定化メカニズムとしての深部筋に分類される腹横筋と腰部多裂筋の同時収縮というあたりにポイントを置いて原稿を執筆した。
深部筋の同時収縮というコンセプトは膝関節周りのCKCでの筋収縮とも結びつき、非常におもしろいところである。


ちょっと一段落で、次は補助金をもらっている保健福祉研究所の紀要原稿を1週間で書き上げなくてはならない。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大雪

2008-01-29 | 大学
昨夜から雪が降り積もり、今朝は車での通勤はあきらめて電車で出校した。
岡山市内に比べて高梁市は気温が2~3度低く、予想通り辺り一面雪景色であった。

写真の中央には、現在建設が進んでいる保健福祉研究所(=オープンリサーチセンター)が見えるが、ほぼ建物は完成しており、2月末には予定通り竣工の見込みである。

私は年度末に向けて、研究費の残務整理を行わなくてはならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私と歩行分析 6

2008-01-28 | 私と歩行分析
4.吉備国際大学初期(平成7年4月~)

1年間のアメリカ留学から帰国し、すぐに吉備国際大学に赴任した。
当初、私には理学療法士を養成するという4年生大学というものがどのようなものか、全く分からなかった。
医局からの指示だったので、当面大学病院で診療を手伝いながら講義のある日には出校して授業をするのかと思っていた。
そんな状態だったので個人研究室があると知ってびっくりした。
それだけでなく、理学療法士を養成すると言うことでCYBEX 6000があったし、筋電計があったし、3次元動作解析システムが整備されていた。
これらの教育研究機器は、理学療法士養成校には必ず設置しなければならないとのことだった。
私の講義担当は1年生にリハビリテーション概論、リハビリテーション医学、身体運動学実習を教えると言うことになっており、いきなり1年目から講義が始まった。
それだけでなく、後期からは身体運動学実習で実習を行わなくてはならないとのことで、その準備を前期の間にしなくてはならなかった。
身体運動学実習であるから、CYBEX 6000も筋電計も3次元動作解析システムもすべて使いこなさなくてはならない。
結局、毎週のように業者の方に来ていただいて、機械の操作法を教えてもらう事になった。
いろいろな機械がそろっていて嬉しいような困ったような状況だった。

中でも困ったのが3次元動作解析装置で、本校にはイタリアBTS社製のElite Systemが導入されていた。
ところが、これが性能通りには動いてくれないのである。
しょっちゅう業者の方が来て調整してくれるのだが、なかなか良いデータが取れない。
どうも、床反力計の設置場所が良くなかったようだ。
壁際に偏って設置してあり、天井の隅に取り付けたカメラから足下を映すと鋭角過ぎてうまく認識しないのである。
この3次元動作解析システムには部屋の工事費も含めると1億円くらいかけたそうで、これでデータが取れないのでは話にならない。
その後の長い苦悩の始まりであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆっくりステップ(ザビックス)

2008-01-26 | 研究・講演
今日は少しおもしろいことがあったので歩行分析の話ではない事を書く。

1年前の日本体力医学会でザビックスのことを初めて知った。
ゲームを利用したエクササイズで、今はやりのWiiFitの先駆けとも言える製品である。

興味があったのでモニターとしてデータを取ってあげた。
この製品は立位でバランスや運動能力の評価や訓練ができる。

一方、数年前から岡大整形外科の先輩の小西先生が、高齢者にステップを踏ませるエクササイズを行っていることを知っていた。
専用のリハ機器を作りたいとしてアドバイスを求められた事があったからだ。
その時には、新規にリハ機器を作るのはとても難しいことなので、既成の製品を利用して工夫すべきだというアドバイスをしていた。

ザビックスを見て、これはまさに小西先生のアイデアにぴったりだと思い、メールでそのことを知らせてあげた。
簡単なお礼のメールが来たきりで、そのことは忘れていた。

今日、研究会で小西先生に会ったら、
「先生のおかげで製品ができて本も出版できた。本当にありがとう。」
と言われ、いったい何のことかいぶかしく思った。

話を聞くと、小西先生は私の情報を元にザビックスの会社に手紙を書いたのだそうだ。
そうすると、ザビックスのシリーズには子どもや成人の利用できるゲームはあったものの、高齢者が利用できるソフトがなくて、渡りに船とばかりにとんとんと商品化の話が進んだのだそうだ。

また、そのソフトの解説本も1万部出版されたそうだ。
http://item.rakuten.co.jp/book/5369321/

まさかそんなことになっていようとは、今日話を聞くまで全く知らなかった。
ちょっとした情報ですごいことになったものだと驚いた。
それでも、滅多にない嬉しい話で、心が躍った。

実は、私もゲームを利用したCKCトレーニングのアイデアを持っており、この話を聞いて任天堂にでも相談してみようかと本気で思い始めた。
自宅に帰って家族にこの話をしたら、小学生の息子は夢中になって
「パパ、絶対にそれやって。パパがWiiのゲームを作ってくれたらおれはそうとう自慢できる。」
と、普段は私の仕事には全く興味がないくせに異常に盛り上がっていた。

やってみようか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私と歩行分析 5

2008-01-26 | 私と歩行分析
アメリカの歩行分析を経験して一番驚いたのは、それが医療行為として行われていることであり、紹介された患者一人一人に筋電図を含む歩行分析を行って詳細なレポートを作成し、大体1500ドルくらいの料金を請求していた。医療保険も適応になるとのことだった。

当時の記憶をたどってその頃の様子を記載してみる。具体的に何か記録していたわけでなく、記憶が正確であっても私がいたところだけの特殊事情かも知れないことをお断りしておく。

まず、歩行分析をするに至ったのにはかなり複雑な背景があった。
当時ジョンス・ホプキンス大学の関連病院であるベネットインスティテュートはスポーツ医学と小児病院を兼ねた専門施設で、そこではDr.Chaoの前任の研究者が毎週2回の臨床歩行分析を助手1名とPT1名の補助とで行っていた。それだけでなく、病院として大リーグからの委託研究で、ピッチャーの投球動作の研究を行っていた。それをそのまま我々のラボが引き継いだのである。
アメリカでは研究業績が上がらなければその研究者は首を切られる。そして次の有能な研究者が乗り込んでくるのである。
前任者にしてみればDr.Chaoは自分の地位を奪った憎きライバルである。
Dr.Chaoは業務をスムーズに引き継ぐために、実務を熟知していた助手はそのまま雇い続けるつもりだった。
ところがその助手はボスの首を切ることになったDr.Chaoとは仕事はできないとして辞めてしまった。
それだけならまだしも、パソコンのハードディスクがクラッシュしてそれまでに蓄積されたデータは全てなくなってしまったのである。それが事故なのか、故意なのかは誰にも分からない。
とにかく、週2回の歩行分析は業務として行わなくてはならないし、大リーグからの委託研究は締切までに結果報告を出さなくてはならないが締切はすぐそこに迫っている。
このプロジェクトの責任者になったBruceはすぐにインターネットを利用して世界中の研究者に情報を求めた。驚いたことにすぐに反響があり、続々と貴重なアドバイスが電子メールで送られてきた。
我々はグループで歩行分析ができるようにシステムを調整すると同時に、投球動作の解析も進めなくてはならなかった。
通常の歩行分析の設定から、投球動作の解析ができる設定に変更するには、床反力計をマウントの形状に再設置する必要がありほとんど丸一日かかった。元に戻すのにも同じ時間がかかった。
とにかく当初は険悪な雰囲気が漂い、とにかく毎日が大変だった。

それでもがむしゃらにやっているうちにだんだん落ち着いてきて、投球動作の研究報告も何とか形を整えることができた。

当時ベネットで使われていたのはMotion Analysis社製の3次元動作解析システムとKistler社製の床反力計2枚であった。
それと無線式の8チャンネル筋電計も同時に使っていた。
毎回キャリブレーションをきちんと行い筋電計のチェックを行い、可能な限り周到な事前準備を行った。それでも初期の頃は調整がうまくいかず、予定していた歩行分析をキャンセルせざるを得ないことが何度かあった。

セッティングがうまくいくと予定時間に患者さんがやってきて、反射マーカーと筋電図の電極を貼り付ける。
この仕事はPTの担当者が行った。
被験者となる患者さんは脳性麻痺で足部の手術を予定されている子どもがほとんどだったが、足部の内反の原因となる後脛骨筋の筋電図を取るためには表面筋電図ではだめでファインワイヤー電極を刺す必要があった。
私はアメリカでは医師資格は無効なのでこれはできなかった。
針の刺入をやったのはやはりPTの担当者であった。
彼女に資格としては大丈夫なのかと聞いたら、自分は特殊なトレーニングを受けているので問題ないのだとのことだった。

とにかく彼女の技は見事なもので、ぐずる子どもに
『あなたは今からクリスマスツリーのように飾られるのよ。楽しいでしょー。』
等と声をかけながらすばやく反射マーカーを貼り付けていく。
ファインワイヤー電極の刺入は本人がそれと気づかぬうちにチクッと刺してしまう。
今でも私にはこのような事はできないと思うくらい上手だった。

そんなこんなで何とかデータが取れると、後はトラッキングなどの事後処理をしてレポートにまとめる。
そして、そのレポートとビデオを見ながら毎週Dr.Chaoと担当医がディスカッションして結果を報告書にまとめる。
最後に二人がサインする。
そこまでして全ての過程が終了となる。

とにかく大変な作業だった。

だんだん落ち着いてくると、工学部学生を二人ほどアルバイトで雇い、計測の手伝いとレポートをまとめる作業を任すようになった。
面倒でアルバイトとしてはあまりいい仕事ではなさそうだったが、Tonyという男子学生は文句も言わずに明るく作業を行ってくれた。
彼は工学部を卒業したら医学部に進学したいと言っていたが、その時このアルバイトをしていた経歴とDr.Chaoの推薦状がものを言うのだ。
ある意味冷静な計算があるわけだが、彼は文句なく好青年だった。
将来は整形外科医になって工学の知識を生かして人工関節の開発をやりたいのだと夢を語っていた。

こうして毎週毎週歩行分析を行った。
随分苦労もしたので何とかデータをまとめて論文の1本でも書きたかったが、期間が短かったのと対象が脳性麻痺で結果の個人差があまりにも大きく、ついに研究としては全くものにならなかった。
しかし、この時の経験は得難いものであった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私と歩行分析 4

2008-01-25 | 私と歩行分析
3.アメリカ留学時代(平成6年4月~)

平成5年4月に岡山大学医学部附属病院に呼び戻され早朝から深夜まで働く毎日になった。
大学病院で特に良かったのは週2回行われていた筋電図外来を担当できたことで、神経伝導速度検査、針筋電図検査などある程度こなせるようになったことである。これは現在行っている動作筋電図の計測に非常に役立っている。
病棟では整形関連の腫瘍患者を受け持つことが多かったが、これも大学病院ならではの経験であった。

そんな中で、留学の許可が出たので、吉備高原医療リハセンター時代に論文を読んで知ったメイヨークリニックのDr. Chaoに手紙を書いた。結局、手紙はメイヨークリニックではなくジョンス・ホプキンス大学から返ってきた。

以下の文章は、留学中の私が岡大整形外科の同門会誌に寄稿した文章である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                  アメリカ留学記
                    河村顕治

「アメリカ」という国は私にとって常にあこがれの対象であったような気がします。中学生になって英語を習い始めた頃、英語を一生懸命勉強していればそのうちアメリカにも行けるかもしれないなどとぼんやり考えていました。医学生の頃も、大学を休学してアメリカに行った友人がうらやましくて仕方がなかったことがありました。ついに卒後10年目という節目にチャンスに恵まれ1年間アメリカで勉強ができるようになり、長年の夢が叶ったというわけです。
 昨年6月に、井上教授よりどこか留学できるところを探してみなさいと声をかけていただき、だめでもともととばかりにとりあえずメイヨークリニックのDr. Chao宛てに手紙を送ったのがそもそもの始まりでした。返事ももらえるかどうか判らなかったので、その後もいろいろとつてを頼って留学先を探していましたが、何と8月になってジョンスホプキンス大学(JHU)からDr. Chaoの返事が返ってきたのです。私は知りませんでしたが、Dr. ChaoはメイヨークリニックからJHUに移ったばかりだったのです。その後9月に来日したDr. Chaoと東京で面会し、留学を許可していただきました。しかし、正式の手続きの過程で、今から思うと簡単なことでしたが、知識がないため色々な行き違いがあり非常に苦労しました。年が明けてJ1ビザを取るのに必要なIAP-66が届いたときの嬉しさは何とも言えないものでした。(後になって判ったことですが、何のつてもなく受け入れが許されたのは、たまたまDr. Chaoがリハビリテーション関係の新しいプロジェクトを始めようとしていた時期にタイミングよく私の手紙が届いたためで、非常に幸運でした。メイヨークリニックなどは無給という条件にもかかわらず、世界中から50人近い留学希望者がいて、よほど強い関係がないとすぐには受け入れてもらえないと聞きました。)そのような経緯で、1994年4月1日より1年間の予定でメリーランド州ボルチモアのジョンスホプキンス大学整形外科で、Dr. Chaoの指導の下、リサーチフェローとして研究生活を送っています。
 ボルチモアはアメリカの都市の中でも最も古い町の一つで、北へ車で4時間走ればニューヨーク、南へ1時間走ればワシントンという地理的位置にあります。ここにはインナーハーバーと呼ばれる美しい港が町の中心部にありいつも観光客で賑わっています。アメリカ人ならば誰もが知っていますが国歌が誕生した町でもあります。港口にはフォート・マックヘンリーという要塞が今でも残っていますが、独立後間もない1812年アメリカはイギリス海軍の攻撃をうけ、首都ワシントンを一時的に占領されるという恥辱を受けました。勢いに乗ったイギリス軍はその後ボルチモアを攻めにかかるのですが、この時ワシントンの検事フランシス=スコット=キイは捕らえられて敵軍の船上から観戦させられるはめになります。激しい戦闘の後一夜明けて、フォート・マックヘンリーに白旗が掲げられるのではないかと恐れていた彼の目に映ったものは、城壁に依然としてひるがえる星条旗だったのです。キイがこの時の感激を一気に書き上げたのが、今のアメリカ国歌『スター=スパングルド=バナー』なのです。
 ジョンスホプキンス大学は昨年に引き続き、大学総合で全米で最も優れた医療機関として選ばれ、整形外科単独でも全米で第4位にランクされました。JHUの整形外科の初代教授はRobert Alexander Robinsonで頚椎前方固定などで有名です。現在はProf. Staufferを筆頭に人工膝関節で有名なDr. Hungerfordを始め、脊椎、ハンドなど各分野で著名な人材を有し、さらにバイオメカニクスを研究するDr. Chao とBMPなどの分野を研究するDr. Reddiの主宰する二つの大きな研究室があり基礎的研究を推進する大きな力となっています。
 JHUでは今年度ちょうど百年祭が行われています。つまり1893年10月に設立されたのですが、これは主にJohns Hopkinsという個人の貢献によるものです。彼はタバコ農家の次男としてメリーランドに生まれ、17歳の時にHopkins Brothers商会を設立します。その後商才を顕し一生の間に財を貯え、結婚もしなかったためこれをすべて自分の夢であった大学設立のために投じました。彼は知識と人間性を愛していたので、ボルチモアにその中心となる大学と病院を作りたかったのです。こうして、1867年に700万ドルを基金としてJHU設立委員会が発足しますが、このような莫大な基金でも医学部設立にはまだ不十分でJohns Hopkinsは自身で夢を果たすことなく1873年に志半ばで亡くなってしまいます。しかし彼の理想は今日に至るまで生き続けているのです。
 さて、アメリカの生活は英語を喋る以外は基本的に日本と何ら変わるところがなく、1カ月も経ったころにはすっかり慣れてしまいましたが、研究室の生活はなかなか大変です。Dr. Chaoは仕事となると非常に厳しい人で、毎週月曜日のリサーチミーティングで、一人一人研究の進行状況を報告させられています。また、毎週金曜日にはスタッフミーティングがありDr. Chaoから1週間分の伝達事項やいろいろなお話があるのですが、先日のミーティングでは、Prof. StaufferとDr. Chaoの目標として、"To become the best ACADEMIC
Orthopaedic Surgery Department in the world within ten years."ということが強調されていました。また、論文の書き方とか、人生論・哲学のようなことにまで話が及びます。ミーティングにこれほど時間をかけるのは、今この研究室が成し遂げようとしていることに対する共通認識を形成することと、お互いが仲間であり助け合いながら仕事をしていくのだと言うことを徹底させるのが目的のようです。Dr. Chaoのお話は多分に教訓的で、日本人には理解できますが、アメリカ人スタッフにはなぜそこまで細かなことを言うのか理解できないようです。私自身アメリカのフランクな雰囲気を期待していただけに、日本以上に厳しい環境に戸惑っています。研究は全て個人のスタンドプレーで行うのではなく、グループで行うのが基本です。バイオメカニクスという研究の性質上、コンピュータープログラミングのようなテクニカルな問題は主に工学部卒のPh.D.が受け持ち、クリニカルな問題はM.D.が受け持つというのが一般的です。毎日そここでディスカッションしている風景が見られます。
 アメリカではDr. Chaoのようなビッグネームでもグラントが取れないと研究室の存続すらできず、またそれだけでは不十分で企業の研究を請け負ったり、大学や病院から補助を受けたり、とにかく研究に割く努力よりも、経済的援助をどのようにまかなうかが第一のように見えます。資金がないことには研究そのものができないのでやむをえません。現在アメリカでは研究費は縮小の傾向にあり、どこの研究室も危機的な状況にあるように聞いています。そのような状況の中でも、Dr. Chaoは3カ所もの研究室を運営しているのですからただ者ではありません。JHUの大学内とグッドサマリタン病院および小児病院内にあるベネットインスティチュートにそれぞれ岡山大学医学部整形外科の医局の広さ程の研究室を持っています。特にベネットなどはまるで体育館のようで、ここでは動作解析の研究を行っています。野球をする人にはうらやましがられるかもしれませんが、大リーガーのピッチャーの投球動作の分析等も行っています。といいますのも、ボルチモアにはオリオールズという古い球団があるのです。
 ところで、肝心の私の仕事の内容ですが、動作解析、リハビリテーションに関するプロジェクトが担当です。例えば膝のリハビリテーションのプロジェクトについて説明しますと、Dr. Chaoの研究室ではこれまでにかなりの年月をかけて開発を続けてきたワークステーション上で動く膝関節の3次元シュミレーションモデルがあり、これにいろいろな膝関節のリハビリテーションのデータを入力して、ACLや関節面にかかる力を求めようというものです。そうした研究の目標はコンピューターを用いて、膝関節の理想的なリハビリテーションを開発しようということです。このように書くとなんとも簡単に聞こえますが、とんでもない大変な仕事です。
 3次元シミュレーションモデルを作るノウハウは秘密だから漏らしてはいけないと言われていますが、こっそり報告致します。まず、冷凍した cadaver(屍体)を2~3mm毎にハムのように薄切りにして行き、1枚1枚その切片の映像をコンピューターに取り込んでいきます。10日程かけて1体で400枚位のスライスを作ります。このスライス全てについてシリコングラフィックスという映像に強いコンピューター上で特殊なソフトを用いて骨や筋肉をトレースすると、3次元の立体モデルが構成されるわけです。これはまだ下準備で、このモデルに靭帯や軟骨の設定を加えてやらなければならず、完成までにはまだまだかかりそうです。このモデルの上で数種類のリハビリテーションのデータを入力するわけですが、そのデータは実際に被験者にその動きをさせて、膝関節トルクや筋電波形を計測しなければなりません。
 Dr. Chao の研究室の主要なテーマは3次元 Rigid Body Spring Model(RBSM:剛体バネモデル)によるforce analysis及びpreope. planningであり、手関節、股関節、足関節、さらに脊椎に関するリサーチも行われております。これらの研究は OASISの延長線上にあるものだと私は理解しています。0ASISというのは Osteotomy Analysis Simulation Softwareの略で、Dr. Chaoがメイヨークリニックで完成させたシステムです。HTOや膝関節の上下のDouble Osteotomyについての2次元シミュレーションシステムで現在では既に市販されています。2次元での研究は既に数多く発表されていますが、3次元での研究はまだまだこれからで、現在激しい競争が行われています。
 コンピューターシミュレーションがどうして医学的研究の対象になるのか判らないという方も多いと思いますが、確かにコンピューターの上で理屈をこね回すだけでは研究とは言えず、それを証明(validation)しなくてはなりません。しかしまさか生体で確かめるわけにも行きませんので、cadaver(屍体)等を用いる訳です。アメリカでこのような研究が盛んに行われているのはcadaverがふんだんに手に入るということと無関係ではありません。余談ですが、運転免許を取りに行ったときdonorになるか否かというチェック項目があったのですが、もしYESにチェックを入れると免許証にその旨記載され、万が一の場合いやおうなく病院に運び込まれて貴重な実験材料の一体となるそうです。この話は他の研究室で実際にcadaverを用いて脊椎のバイオメカの研究をしている先生から直接伺ったので、信憑性は高いと思います。ちなみに私はよく判らなかったせいもあり家内と相談した上とりあえずdonorの欄は空白にしておきました。後でほっと胸をなで下ろした次第です。何故と言って、たとえ死んでも異国の地でハムのようにスライスされるのはごめんですから。
 研究だけでなく、臨床の勉強をするチャンスも無数にあり、毎週木曜日と土曜日には早朝からJHUの整形外科全体でクリニカルカンファレンスがあり、最先端の情報に触れることができます。また、各施設毎にレクチャーが行われています。例えば月曜日にはグッドサマリタン病院でDr.Hungerfordの講義があります。これは早朝の6時半からわずか4~5人のレジデント対象にHungerford自らが講義をしてくれるというものです。6時半と言ってもサマータイムですから実際には5時半です。こちらでは大学のあるポスト以上の人は教育をきちんと行うことが義務になっているようですが、それにしてもレジデントにとっては恵まれた環境です。大体3カ月単位で脊椎、ハンド、スポーツ医学などの特徴のある病院をローテイトして教育を受けるようです。
 また、JHUでは色々な学会が催されるので、それに無料で参加できるのも魅力です。たとえば、6月上旬には Bone Morphogenetic Protein のInternational Conferenceが行われました。これはDr. Hari Reddiが主催したもので、日本からもたくさんの参加者がありました。特に名古屋大学からは岩田教授が学会運営委員会のメンバーであったことから大勢の参加があり、学会前夜に家内共々岩田教授と教室員の先生方をメリーランド名物のかにを食べさせるレストランにご案内したところとても喜ばれました。このレストランはスパイスで味付けしたかにを新聞紙の上にぶちまけて木槌でたたき割りながら食べるという当地では有名な店です。肝心の学会は私には少々難解でしたが、BMPの発見者である Dr.  Marshall R. Uristの記念講演を聞くことが出来たのは幸いでした。最終日の夜のパーティーはちょうどDr. Uristの80数回目の誕生日でもあり、みんなで起立してHappy Birthday to Youを歌いました。まるでDr. Uristをたたえるための学会であるかのようで、心温まるすばらしい一夜でした。
 最後に日本人フェローが必ず直面する問題、すなわち英語について触れたいと思います。結論から言うとどうも短期間に本物の英語力をつける虫のいい方法はなさそうだということです。私自身の経験ですが、最初Dr. Chaoの研究室のミーティングに出席した時、みんなの喋っていることがほとんど聞き取れず、これで本当に1年間仕事になるのだろうかと呆然としました。しかし、1カ月、2カ月と経つうちにいろいろなバックグランドの情報が蓄積され、急速に話の内容が判るようになっていきました。アメリカ人は普通に喋るとスピードが速いことに加えて、イディオムや略語を多用するので、日本でいわゆる英会話をいくら勉強しても限界があります。スーパーで買い物をしてレジで支払いをしようとすると必ず『Paper or plastic?』と聞かれます。一瞬plastic moneyなどという言葉が脳裏をかすめキャッシュ(紙)かカードかどちらで支払うのか聞いているのかなと思いますがさにあらず。これは紙袋とビニール袋(plastic bag)のどちらに物を詰めますかと聞いているのです。『ASAP.』と言われて何のことか判るでしょうか。これは『As soon as possible.』のくだけた言い回しです。一時が万事この調子です。
 とにかくこの研究室はまだまだ研究が軌道に乗ったわけでなく、初期の不安定さのためDr. Chaoは非常に苦労しているように見受けられます。もちろんその下で仕事をしている我々も同様です。仲間同士で教え合いながらなんとかやっている現状です。しかしながら、できるだけ見聞を広め、何らかの成果をあげるべく努力したいと思っています。
 末筆ながら、このような機会を与えて下さった井上教授をはじめ、お世話になりました諸先生方に厚く御礼申し上げます。 
                        (昭和60年入局)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私と歩行分析 3

2008-01-24 | 私と歩行分析
2.香川県身体障害者総合リハビリテーションセンター時代(平成2年4月~)

平成2年4月に香川県身体障害者総合リハセンターへ医局人事で異動となった。
ここは元々はひかり整肢学園という肢体不自由児施設であったところで、香川県の事業団として成人の病棟が整備されて小児だけでなく成人の治療もできる総合リハセンターに生まれ変わった病院であった。
中には更生相談所もあり、我々は毎週身体障害者手帳の診断書を書いたり、手帳で車椅子や装具を交付するための業務にも携わった。
今でも身体障害者手帳の診断書を書くのは苦にならないが、この時の経験が大きい。

香川リハに移るとそこにもアニマの大型床反力計が設置されていた。
ここのシステムについていたのはなんと8インチのフロッピーユニットであった。

患者さんは小児であれば脳性麻痺、成人では脳卒中片麻痺が多かったので、そのデータを取ることになった。
私は主には成人担当と言うことで、この頃脳卒中片麻痺患者の内反尖足矯正手術を盛んに行っていた。
そのため手術前後のデータをよく計測した。

当時行っていた手術はPerryの術式に則ったもので前脛骨筋腱を二つに裂いて外側を移行したり、後脛骨筋腱を骨間膜に穴を開けて前方に移行するなどかなり複雑な事をやっていた。数をこなすとかなり上手になり、当初2時間くらいかかった手術が1時間以内で行えるようになった。
症例数もかなりたまったので学会発表や論文にもしたが、ある時、関東のリハ専門医の先生と雑談していたとき、関東ではそんな矯正手術が必要な脳卒中片麻痺患者は見たことがないと言われた。
その時、はたと気づいたのが地域特異性で、香川では脳卒中の早期リハが普及しておらず、そのため徒手的には矯正不可能な内反尖足が生じてしまうと言うことだった。
当時は急性期の治療は第一線病院でだいたい3ヶ月行われ、その後リハセンターに転院してくると言うケースが多かった。
初期の3ヶ月はまともなリハは行われずに内科治療が中心だったのだ。
それに気づいてからは恥ずかしくて学会発表はやめてしまった。

香川リハには3年間いたが、その間にリハ専門医試験を受験したり結構忙しく、歩行分析ではたいした仕事はできなかった。

この頃一つ問題になったのがアニマ社製床反力計のメインテナンスで、突然ぶらりとやってきたアニマ社のサービスマンが無料で床反力計の状態を見てくれるというので見てもらったら、このままではまともなデータが取れなくなるので調整が必要だという。そしてその調整費用がちょっとびっくりするくらい高額だったのだ。
今でもその時の調整が本当に必要だったのかどうかはよく分からないが、アニマがそういうのだからと信用して、病院にお願いして予算を捻出していただいた。
経営状態は決して良くはなかったので、その後事務の方からは折に触れてイヤミを言われることもあった。
この頃から、歩行分析にはコストがかかる割りにはリターンが乏しいというイメージが強く残るようになった。

しかし、莫大な投資を行った歩行解析設備を使えない状態にするのはなかなかできないので、コストをかけても維持するしかなくなる。
その後時間をかけて8インチフロッピーのデータを3.5インチディスクに移し替えたり、将来にわたって使っていけるように自分としては頑張ったつもりだった。
今、あのシステムはどうなっているのだろうか。

この頃、必要に迫られてMS-DOSの勉強を随分行った。ほとんど独学だったが、小児科の先生でパソコンおたくのような方がいて、分からないことはその先生に教えてもらった。

MS-DOSのコマンドは今でも時々役に立つことがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私と歩行分析 2

2008-01-23 | 私と歩行分析
昭和64年(平成元年)頃だったと思うが、吉備リハで歩行分析を始めたので臨床歩行分析研究会の前身である臨床歩行分析懇談会が開いた第2回歩行分析セミナーに参加した。
20年近く昔のことなので記憶が定かでないが、東京の補装具研究所が会場であったと思う。
江原先生や山本先生と初めてお会いしたのはこの時だったと思う。
床反力の基礎的なことや関節モーメントの概念などを教えてもらったように思う。

この時、一つだけ良く覚えているのが床反力の可視化のデモである。
イタリアのBTSのDigivecとか言うシステムを借りて、実際にビデオ画像に床反力ベクトルをリアルタイムに重ね合わせて見せてくれた。
この時の印象は強烈で、最近になって同じようなシステムを科研費で導入した。
見えない力を目に見えるようにするというのはいろいろな意味でおもしろい。

臨床歩行分析研究会に参加して歩行分析が何となくおもしろそうに思えた。
帰ってきてからは歩行分析に関する先行研究の文献などもたくさん集めたのだが、その中にひときわ優れた研究として後に留学先となったDr. Chaoの論文もあった。

吉備高原医療リハセンターには3年間お世話になったが、とりあえず坂道歩行の論文は完成し、床反力についてはだいぶ理解が深まった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私と歩行分析 1

2008-01-22 | 私と歩行分析
1.吉備高原医療リハビリテーションセンター時代(昭和62年4月~)

昭和60年3月に岡山大学医学部を卒業し、1年間大学病院で研修を行い、2年目に水島中央病院で臨床の第一線で整形外科外傷のトレーニングを受けた。年間手術件数が1000例を超えるような病院で自分が人間の修理工になったような気分だった。
年が明けて昭和62年になり、医局から次は新しくできた吉備高原医療リハビリテーションセンターへ行くようにと指示が来た。
吉備リハの初代院長は岡大医学部卒業生なら知らぬものはない泣く子も黙る武智先生である。
4月の赴任まで眠れぬ日が続いた。

昭和62年4月になり吉備リハに赴任し、病院に併設された宿舎に入った。
病院は6月がオープンでまるまる2ヶ月準備作業だけという毎日となり、それまでの外来と手術、当直、自宅待機という24時間労働体制からいきなり何もない自由な生活になってしまった。
恐れていた武智院長は意外と優しく、好きに過ごせばよいと言って下さった。

新しくできた吉備高原医療リハセンターには予算を惜しむことなくあらゆる設備が整っていた。
その中の一つがアニマ社製の床反力計測システムだったのだ。

何しろ暇でやることがないので、医局でタイプライターに向かってブラインドタッチの練習をしたり、いろいろな計測システムの使用練習をしたりしてあとは医局でコーヒーを飲みながらただだべっていた。
何事も良い面もあるわけで、このとき暇に任せて練習したタイプライターの練習が、今パソコンのキータッチに役立っている。

武智院長からせっかく設備があるのだから床反力計を使って何か研究をしなさいと言われ、とりあえずとにかく正常データを取ってみようと研究計画を立てた。
吉備リハのシステムの特徴は床反力計の上に3度、6度、9度、12度の傾斜の坂道を設置できることだった。
このようなシステムが導入されたのは、武智院長が病院の構想段階で名古屋の労災リハ工学センターの設備を視察したからではないかと想像している。
私もずっと後になって知ったのだが、労災リハ工学センターには早くから坂道の歩行路が設置されていた。

そこで、男性20人、女性20人くらいの坂道歩行のデータを取ってみようとした。
被験者は全員若い病院職員で、男性はPT,OT等の職員、女性は若い看護師に依頼した。
やる気満々で計測を始めようとしたら院長室に呼び出された。
何事かと思いおそるおそる出頭すると、無断で看護婦に被験者をやらせるとは何事だとすごい剣幕でしかられた。

その頃はまだ分かっていなかったが、労災病院の看護部は強力だった。
床反力の計測をする時には当然体重を計測するわけで、今も昔も若い女性は自分の体重を他人に知られるのは極端にいやがる。
今考えるとセクハラとかパワハラで訴えられてもしかたがなかったかもしれない。

私は研究をやるぞと高邁な理想に燃えていたのだが、被験者を依頼した若い看護婦さんは体重を計測すると分かってとたんに憂鬱になり、婦長に伝え、婦長が看護部長に伝え、看護部長が院長に怒鳴り込んできたという次第だった。

武智院長は、当初の研究計画を話すと、歩行に男女差などあるわけでないから、女性の被験者はいらないとおっしゃる。
そんなものかと、実験計画は若年健常男性だけ計測することになった。

当時の計測システムはNEC9801で、フロッピーディスクは5インチだった。
なつかしいパソコンがやっと社会に普及し始めた時代だった。

男性の計測だけに絞り込めば計測にトラブルはあるはずもなく、順調にデータは蓄積されていった。
この時の研究結果で一番特徴的だったのは、坂道歩行でも立脚期と遊脚期の比率は平地歩行と全くかわりのない6:4であるという結果だった。
これらの結果は学会発表も行い、英文で論文も書いた。
その頃、論文を書くのに使ったパソコンはやはり出たばかりのNEC9801 LS5というプラズマディスプレーを持ったラップトップで重量が10キロもあった。
それを病院と宿舎と持ち歩いて原稿を書いていたのである。

思い返すと、床反力だけで分かる情報は非常に限られており、その割にはシステムは非常に高価でコストパフォーマンスの悪い研究だったと思う。
当時は関節角度を計測するのにはジャイロセンサーを使っていたが、これもデータのキャリブレーションが難しいやっかいなシステムの割には高価であった。

時代はバブルが始まろうかという頃で、西日本で初めて公立の大きなリハセンターを作るというプロジェクトと、岡山県で長期にわたって知事を務めた長野県知事が最後の大仕事として岡山県のど真ん中に山を削って保健福祉を中心とした吉備高原都市を造るという話が一体化して吉備高原医療リハセンターが作られた。
その一環として、歩行分析システムも整備されたので予算を惜しむことがなかったのだろうと思う。

私は幸か不幸かそのようにして歩行分析に巻き込まれていったのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨床歩行分析研究会のニューズレター

2008-01-20 | 私と歩行分析
臨床歩行分析研究会のニューズレターの編集委員長から「随想」の原稿依頼が来た。
原稿の締め切りは2月15日で、3月1日発行予定とのことである。
他の雑誌の原稿締切と重なってしまうが、引き受けることにした。

いきなり原稿を書き上げるのは大変なので、このブログに少しずつ昔のことを思い出しながら記事を書いていき、最後にそれをまとめて提出することにしようと思う。

まずはあらすじから。

1.吉備高原医療リハビリテーションセンター時代(昭和62年4月~)
   初めて床反力計をつかって歩行分析を始めた。坂道歩行の研究を行った。臨床歩行分析懇談会に初めて参加した。
2.香川県身体障害者総合リハビリテーションセンター時代(平成2年4月~)
   脳卒中患者や脳性麻痺患者の床反力計測を行った。
3.アメリカ留学時代(平成6年4月~)
   本場での臨床歩行分析を体験した。投球動作解析も行った。
4.吉備国際大学初期(平成7年4月~)
   エリートで3次元動作解析を始めた。歩行分析セミナーに参加した。
5.吉備国際大学現在(平成19年3月~)
   MAC3Dでリアルタイム3次元動作解析を始めた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

MacBook Air

2008-01-16 | Private
予想どおりMacBook Airが発売された。
スリムでMacらしい製品だ。
1.36kg、バッテリー駆動時間5時間というのは出張にはうってつけだが、USB Ethernet Adapter (別売) を利用しないと有線ネットワークが使えないというのはちょっと不便だ。また、単体ではDVDも見られないというのはつらい。

現在使っているPowerBookに不具合があればすぐにでも乗り換えたいところだが、今のところまずまず使えているのでもう少し様子を見ることにする。

MacBook Proのスリム版が出る可能性もあるのでそちらがよいかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Macworld

2008-01-15 | Private
Macworld が今日からサンフランシスコで開催される。
会場である Moscone Center は3月のORSの会場でもある。
現在、入り口には「2008 There's something in the air.」(空中に何かがある)という予告フレーズが書かれてバナーが掲載されているとのことだが、待ちに待った小型軽量のノート型が発表される見込みである。
とても楽しみだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする