河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

善通寺へ初詣

2024-01-28 | Private
昨日、愛媛の実家の近くにある病院の理事長のお別れの会があり出席したところ、真言宗善通寺派の導師が読経されていた。

本日、思い立って善通寺へ初詣に行ってきた。

今年は何となく初詣に行きそびれていたのでよい機会であった。

お参りの後、おみくじを引いたところ、大吉であった。

「何をやっても順風満帆」とのことで、昨年の「八方塞がり」からは脱したようで幸先がよかった。


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山田方谷と岡山大学医学部5

2024-01-20 | 歴史
【福西志計子と石井十次】
福西志計子が順正女学校の前身となる私立裁縫所を高梁に開設した頃、明治15(1882)年に宮崎県から石井十次(いしいじゅうじ)が岡山県医学校に入学してきました。
十次は金森通倫を通して新島襄の教えを受け、2年後金森から洗礼を受けました。
福西志計子と石井十次には密接な交友があり、十次の妻品子は、明治18(1885)年に新しく設立された順正女学校に入学して第一期生として学んでいます。
石井十次は孤児を救う活動に没頭したため卒業試験に失敗して医師になるのを断念し、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。

石井十次は医学部四年で退学していますが、のちに偉業をたたえ鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に第三高等中学校医学部明治22(1889)年卒業者として掲載されており、このようなことは岡山大学医学部の長い歴史で他に例がありません。
石井十次が入学した岡山県医学校について調べると、明治13 (1880) 年に設立後、明治15(1882)年に甲種医学校に認可され4年間の教育を受けた卒業生は無試験で医師開業免状の交付が認められました。
岡山県医学校の学生数は1学年75人前後であり、これに対して卒業生は毎年20人前後でした。
鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』は明治17(1884)年から始まっており、名簿に氏名が記載されている卒業生は明治17(1884)年11人、明治18(1885)年15人、明治19(1886)年9人、明治20(1887)年10人、明治21(1888)年4人です。
教育が厳格であったため卒業するのはきわめて難しく、明治21 (1888) 年に第三高等中学校医学部へ移行するまでこの状態が続いています。
そのような厳しい状況の中で石井十次は孤児救済のために医学を捨てざるをえなかったのだと思います。



【山田方谷から石井十次への連鎖】
山田方谷は信頼する部下の川田剛を通して新島襄とつながりました。
新島襄の転機となったのは方谷が備中松山藩のために購入した快風丸での初航海でした。
快風丸と松山藩士の助けによって新島襄はアメリカへ密出国しました。
そしてアメリカン・ボード宣教師として帰国した新島襄はアメリカ人宣教医師のJ. C.ベリーと絆を結び共に関西で活動を行いました。
J. C.ベリーは岡山大学医学部創成期の岡山県病院に招聘され学校・病院の改革に意欲的に努めました。
J. C.ベリーは高梁にもしばしば訪れ、新島襄も招かれて高梁で演説を行いました。
この演説は方谷の弟子でもあった福西志計子に深い影響を与え岡山県で最初の女学校である順正女学校の開設につながりました。
宮崎県出身で岡山県医学校に入学した石井十次は福西志計子ともつながり、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。


 
澤田瞳子さんの歴史小説「孤城春たり」をきっかけとして、山田方谷と岡山大学医学部に深いつながりがある事に気づかされました。
我が岡山大学医学部に、こんな豊かな物語があったことを嬉しく思います。
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山田方谷と岡山大学医学部4

2024-01-19 | 歴史
【新島襄・J. C.ベリーと福西志計子】
岡山時代のJ. C.ベリーは岡山県病院で活躍しただけでなく、岡山県内の主な町(倉敷、総社、高梁など7カ所)に診療所を設置して患者を治療し、医師を教育することでキリスト教の伝道に当たりました。
キリスト教の伝道については、同志社で新島襄から受洗し明治13(1880)年に創立された岡山教会の初代牧師に就任した金森通倫(かなもりみちとも)が共に活動していました。
特に高梁では、ベリーは金森通倫が開設した伝道所に診療所を併設して宣教活動と一体化した形で診療を行いました。

そうした中で新島襄も岡山に招かれ、明治13(1880)年2月に快風丸での旧知を訪ねる目的もあり、かつての備中松山藩であった岡山県高梁町(現在の高梁市)へと赴き、滞在中に伝道と文化改革を目的とした演説を行いました。
この新島の演説は、のちに備中松山の地で高梁基督教会堂の設立発起員の一人となり女子教育に注力する事になる福西志計子(ふくにししげこ)に深い影響を与えました。
福西志計子は、松山藩士の長女として生まれましたが7歳のとき、父を失い母1人で育てられました。
志計子の母は、動乱の時代を生き抜くには何よりも教育が重要と考え、志計子に山田方谷の門をたたかせました。
当時、方谷は元締兼吟味役で藩財政再建のため奔走していましたが、男子を対象とした私塾である牛麓舎に寛大にも志計子を受け入れたのです。
山田方谷の弟子であった福西志計子が、方谷のおかげでアメリカに渡った新島襄の演説に啓発されたことに不思議な因縁を感じざるをえません。
福西志計子は山田方谷の理念「至誠惻怛」(誠をもって人に接し他者に慈しみを施すこと)を基礎としてキリスト教の「人類愛」を受け入れたのでした。

この福西志計子が岡山県初の女学校である順正女学校を設立し、その跡地に吉備国際大学を運営する学校法人順正学園は誕生しました。
順正学園では平成28(2016)年4月30日に、創立50周年記念事業として女学校の寮として使われていた順正寮の修復保存工事を完了して順正記念館としての開所式を行いました(写真2)。




写真2:順正記念館開所式
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山田方谷と岡山大学医学部3

2024-01-18 | 歴史
【新島襄とJ. C.ベリー】
岡山大学医学部創成期の歴史ではオランダ医学から米英医学へ、ついでドイツ医学に移っていったという流れがあります。
明治3(1870)年に岡山藩医学館にオランダ軍医のロイトルを招聘しましたがロイトルは約1年で辞任しています。
その後医学館は明治4(1871)年の廃藩置県による混乱を経て明治6(1873)年に岡山県病院となり、同年8月にアメリカ人宣教医師ワーレス・テイラーを招聘しますが12月には辞任してしまいます。

岡山大学医学部創成期に一番貢献した外国人医師は、新島襄と同時期にアメリカン・ボードから日本に派遣されたアメリカ人宣教医師のJ. C.ベリー(John Cutting Berry)でした。
ベリーは兵庫県で活動を開始していましたが、その目覚ましい業績に目をつけた岡山県令の高崎五六によって明治12(1879)年4月に医学顧問として招聘されました。
ベリーは明治17(1884)年3月に辞任するまでの5年間、岡山県病院・岡山県医学校を改革すべく意欲的に努力し、患者の診療とキリスト教の伝道に当たりました。
しかし、J. C. ベリーと新島襄の絆は強く、新島は岡山で活躍していたベリーを最後は京都に呼び戻しました。
当時、新島はキリスト教主義の医学部設立を中心に考えており、明治8(1875)年に開校した同志社英学校を、帝国大学に次ぐわが国2番目の総合大学に育て上げようとしていました。
そのために明治20(1887)年の京都看病婦学校・同志社病院の創始については、そのほとんどをベリーに任せています。
その結果、ベリーは明治17(1884)年から帰国する明治26(1893)年まで9年間を京都で過ごしました。

新島の死後、資金的な支援が望めなくなり病院は閉鎖されましたが、長年の過労のため46歳11ヶ月の若さで没した新島襄がもしあと10年健在であったなら、今頃J. C.ベリーを初代院長とする同志社大学医学部が存在したかもしれません。
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山田方谷と岡山大学医学部2

2024-01-17 | 歴史
【川田剛と新島襄】
幕末の文久2(1862)年、備中松山藩は1万8000ドルでアメリカから大型帆船「快風丸」を購入しました。
これは川田剛が山田方谷の命をうけて行ったことでした。
当時、川田剛は江戸において親戚藩である安中藩(現在の群馬県)の藩儒不在の穴を埋めるため、江戸安中藩の臨時講師として漢学を教えていました。
その中に新島七五三太(しめた)がいました。
新島七五三太は後の新島襄であり、同志社大学の基となる同志社英学校を設立することになります。
青年時代の新島は封建制度の暗黒面ばかりが覆っているように感じられる江戸藩邸の中で、学問に精を出すことでその空気から逃れ出ようともがいていました。
そのような精神的葛藤の中で川田剛と巡り会い、以後終生にわたる子弟の絆で結ばれます。
そして川田剛は七五三太を快風丸の試運転に参加させたのです。
当時、玉島は備中松山藩の飛び地であり、初航海は江戸から玉島を往復するというものでした。
新島襄は後に19歳の時の快風丸での航海について「この航海によって私の精神的な視野がうんと広がったことは明らかである。」と記しています。

 
この航海を経験した後、アメリカの本や禁制の旧新約聖書(漢訳)を読むことで、新島は鎖国下の封建国家日本を密出国して自由なアメリカに渡ることを考え始めました。
これを助けたのがやはり川田剛を始めとする備中松山藩の仲間達でした。
元治元(1864)年新島は再び快風丸に乗って函館まで運んでもらい、そこからアメリカへ飛翔することができたのでした。
ちなみに、この時新島を上海からボストンへ乗船させてくれた船の船長が新島にジョー(Joe)という名前をつけてくれたのが、新島七五三太が新島襄に生まれ変わるきっかけとなりました。
アメリカでの新島襄は船主のハーディーに「脱国の理由書」を提出し、それに感銘を受けたハーディー夫妻は新島の養父母となり、全米屈指の名門大学であるアーモスト大学へ進学させてくれます。
日本人として最初の学士(理学士)となった新島襄はさらにアンドーヴァー神学校に入学し、研鑽の末、明治7(1874)年に牧師資格を取得し、その後アメリカン・ボード(プロテスタント教会の海外伝道組織)宣教師の資格も得て母国日本でのキリスト教伝道の任も帯びて帰国の途についたのでした。

「歴史にifはない」と言われますが、もし山田方谷が備中松山藩の財政改革に成功しなければ快風丸の購入はなく、快風丸と川田剛はじめ松山藩の仲間がいなければ新島襄がアメリカに渡ることもなく同志社大学もなかったでしょう。
同志社大学は快風丸をとても重要視しており、2010年に同志社創立135年を記念して快風丸1/30模型を製作して展示したり、新しく建設した研究施設に快風館と名付けたりしています。
同志社人である澤田瞳子さんが山田方谷を題材にした歴史小説執筆を引き受けた理由も、山田方谷に縁を感じているからに他なりません。
新島襄は19歳の時の快風丸での初航海で玉島に来ましたが、その時宿泊した倉敷市旧柚木家住宅西爽亭には、同志社玉島新島研究会が同志社大学からもらい受けて寄贈した快風丸模型が飾られています(写真1)。



写真1:倉敷市旧柚木家住宅西爽亭の快風丸模型
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山田方谷と岡山大学医学部1

2024-01-16 | 歴史
私が勤務する順正学園吉備国際大学は平成2(1990)年に高梁市と公私協力方式で社会学部のみの単科大学として開学し、令和2(2020)年に30周年を迎えました。
初代学長は岡山大学医学部第三内科教授で岡山大学学長を務めた大藤眞先生でした。
平成7(1995)年に保健科学部及び社会福祉学部を増設することとなり、この時私も教員として招聘されました。
それから四半世紀が経過し、令和3(2021)年4月1日より学長に就任し現在に至っています。

吉備国際大学のメインキャンパスがある岡山県高梁市は、かつては備中松山藩であり大学の裏手にある臥牛山山頂には国指定重要文化財の備中松山城が、またすぐ傍には国指定名勝の庭園を有する頼久寺がある風光明媚な地方都市です。
歴史的には江戸時代末、松山藩の藩政改革に取り組み多大な成果をあげた陽明学者の山田方谷(やまだほうこく)が有名です。
令和5(2023)年2月から12月にかけて直木賞作家の澤田瞳子さんが山陽新聞に山田方谷を題材に歴史小説「孤城春たり」を連載したことから、私は山田方谷と岡山大学医学部の関係に興味を持ち調べてみることにしました。

【山田方谷と三島中洲・川田剛】
岡山大学医学部の歴史は明治3(1870)年に岡山藩医学館を設置したことに始まるとされています。
山田方谷は文化2(1805)年に生まれ明治10(1877)年に没したので、岡山藩医学館の関係者が山田方谷の教えを直接受けた可能性はありますが、私が調査した範囲内ではそうした記述は見当たりませんでした。
しかし、方谷は明治元(1868)年に備中松山城を征討軍に無血開城した後、明治6(1873)年に閑谷学校を再興し、閑谷精舎として子弟の教育に努めたので、その中に関係者がいても不思議ではありません。
山田方谷が直接教えたわけでなくとも、方谷にはその教えを後世に伝えた二人の重要な弟子がいます。
一人は後世において方谷の一番弟子と称せられるようになった三島中洲(みしまちゅうしゅう)であり、もう一人は幕末から明治維新の備中松山藩を支えた方谷のもっとも忠実な部下である川田甕江(かわだおうこう)です。

三島中洲は山田方谷が没した明治10(1877)年に東京に二松學舍(にしょうがくしゃ)という漢学塾を創建します。
現在は二松學舍大学となっていますが、夏目漱石は若い頃二松學舍に通って三島中洲の教えを受けています。
また、渋沢栄一は11歳年長の三島中洲に傾倒し、中洲没後は二松學舍の舎長に就任し二松學舍を守り続けました。
渋沢栄一が現代日本に与えた影響は大変なもので、「日本資本主義の父」と呼ばれ、新1万円札の顔に決定されました。
山田方谷の教えは三島中洲を通じて渋沢栄一に伝わり、現代日本にも貢献しているのです。

川田甕江は一般的には方谷から与えられた剛毅の一字、剛を名のって川田剛(ごう)の名前で知られています。
藩主板倉勝静の護衛役をつとめた熊田恰(あたか)が玉島で割腹した時、覚悟の時を告げた目付役が川田であったし、勝静の新政府への自首を勧める並々ならぬ役割を背負ったのも川田でした。
その後、川田甕江は明治17(1884)年に、東京帝国大学教授に就き、明治第一等の名文家と称せられて明治天皇皇后に御前講義をし、皇太子(後の大正天皇)の教育係(侍講)を務めました。
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なでしこリーグ・WE リーグ合同メディカルスタッフ会議

2024-01-13 | 大学
2024 年 1 月なでしこリーグ・WE リーグ合同メディカルスタッフ会議がオンライン会議(Zoom)で行われた。

私は吉備国際大学Charme岡山高梁 チームドクターとして参加した。

ドーピングの問題、つけ爪によるリスクの問題、メンタルの問題など、現場を知らないと分からないようなテーマについて議論が行われた。
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西田圭一郎先生教授就任記念祝賀会

2024-01-07 | 医学・医療
岡大整形同門の西田圭一郎先生が、岡山大学病院運動器疼痛センター教授に就任し、記念祝賀会がANAクラウンプラザホテル岡山で行われた。

普段の同門会以上に人が集まり、盛大な会であった。

普段はなかなか会えない同期の先生も、これを言い訳に東京から帰省して出席したりして賑やかな楽しい会となった。


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仕事始め式

2024-01-05 | 大学
元旦から能登半島地震が発生し、大変な年明けとなったが、本日、仕事始め式が行われた。

平穏な1年であって欲しいが、今年も甘くはないだろうと覚悟している。

どうか無事に1年が過ぎますように。
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岡山経済同友会2024年新年祝賀互礼会

2024-01-04 | 大学
岡山経済同友会2024年新年祝賀互礼会が岡山国際ホテルで開催され、出席してきた。

写真は閉会挨拶をする岡山経済同友会代表幹事の中島義雄氏である。

中島さんとは古い付き合いでよく存じ上げている。

中島さんは株式会社システムズナカシマ 代表取締役社長である。

昔から、ナカシマメディカルの研究会でご一緒してよく知っている。

最近は学校法人中国学園の理事長にもなっておられるので、私とは同業とも言える。


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石井十次はなぜ岡山県医学校をやめたのか(続き)

2024-01-03 | 大学
岡山県医学校のことを調べた結果、以下の様に書き改めた。

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【福西志計子と石井十次】
福西志計子が順正女学校の前身となる私立裁縫所を高梁に開設した頃、明治15(1882)年に宮崎県から石井十次(いしいじゅうじ)が岡山県医学校に入学してきました。
十次は金森通倫を通して新島襄の教えを受け、2年後金森から洗礼を受けました。
福西志計子と石井十次には密接な交友があり、十次の妻品子は、明治18(1885)年に新しく設立された順正女学校に入学して第一期生として学んでいます。
石井十次は孤児を救う活動に没頭したため卒業試験に失敗して医師になるのを断念し、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。
石井十次は医学部四年で退学していますが、のちに偉業をたたえ鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に第三高等中学校医学部明治22(1889)年卒業者として掲載されており、このようなことは岡山大学医学部の長い歴史で他に例がありません。

石井十次が入学した岡山県医学校について調べると、明治13 (1880) 年に設立後、明治15(1882)年に甲種医学校に認可され4年間の教育を受けた卒業生は無試験で医師開業免状の交付が認められました。
県医学校の学生数は1学年75人前後であり、これに対して卒業生は毎年20人前後でした。
鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』は明治17(1884)年から始まっており、名簿に氏名が記載されている卒業生は明治17(1884)年11人、明治18(1885)年15人、明治19(1886)年9人、明治20(1887)年10人、明治21(1888)年4人です。
教育が厳格であったため卒業するのはきわめて難しく、明治21 (1888) 年に第三高等中学校医学部へ移行するまでこの状態が続いています。
そのような厳しい状況の中で石井十次は孤児救済のために医学を捨てざるをえなかったのだと思います。
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追記

社会福祉法人石井記念友愛社のホームページでは以下の様な記述がある。

ーーー
明治14年、石井十次(16歳)、内埜品子(15歳)と結婚。
上江小学校教師。翌年、宮崎警察官の事務官。
明治15年(17歳)、宮崎病院院長、荻原百々平の勧めで岡山県甲種医学校(現 岡山大学医学部)に入学。

医学への思いも断ち切れずにいた十次は、明治22年、「人は二主に仕ゆること能わず」との聖句に従い、医書を焼き医学校を退学。
この時、児童福祉・教育に専心する覚悟を決める。
十次23歳の時であった。
ーーー

多くの資料で岡山県甲種医学校という表記をしている。
岡山大学医学部の資料では岡山県医学校と記録されている。

甲種医学校というのは明治15(1882)年の太政官達により一定の条件を具えた医学校の卒業生も無試験で免状を得ることができるようになり、同年の医学校通則によって医学校が 甲・乙 2 種に分けられたことによる。
甲種医学校は修業年限が4年で、東京大学医学部の卒業生3名以上の教師が必要とされたが、卒業生は無試験で免状を与えられることになった。

したがって、岡山県甲種医学校という表記は間違いであり、岡山県医学校が甲種医学校に認可されたというのが正しい。
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愛媛県立三島高校昭和53年卒業同窓会

2024-01-02 | Private
高校卒業後まもなく行われた同窓会には出席したが、その後年末年始は忙しくて出席することができなかった。

今回お誘いがあったので、今後出席できるかどうかも分からないので参加することにした。

久しぶりなので会場で浦島太郎状態になったらどうしようと不安だったが、行ってみればそんなことはなくとても楽しい会だった。

びっくりしたのは、今回挨拶を交わした限られた同級生のうち二人が、子どもを吉備国際大学へやったと言ってくれたことだった。

これには本当に驚かされた。

一人は今回同窓会の会場になったホテルのオーナーで、最初、大阪の大学へ行ったのが水が合わなくて、自然あふれる吉備国際大学へ翌年入り直したのだとか。

当時、吉備国際大学には国際環境マネジメント学部というのがあって、大阪の水で苦しんだ子どもさんにとっては魅力があったのだとか。

もう一人は息子さんが高校時代野球をやっていて、吉備国際大学野球部監督の羽野先生がスカウトしたらしい。

「羽野先生に四国中央市の石川ですとよろしく伝えてください。」と言われた。

思いもかけず、こんなつながりがあったなんて本当に驚いた。
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石井十次はなぜ岡山県医学校をやめたのか

2024-01-01 | 大学
昨年末に以下の様な文章を書いて、大学の教職員何名かに読んでもらったらいろいろと疑問が寄せられた。

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【福西志計子と石井十次】
福西志計子が順正女学校の前身となる私立裁縫所を高梁に開設した頃、明治15(1882)年に宮崎県から石井十次(いしいじゅうじ)が岡山県医学校に入学してきました。
十次は金森通倫を通して新島襄の教えを受け、2年後金森から洗礼を受けました。
福西志計子と石井十次には密接な交友があり、十次の妻品子は、明治18(1885)年に新しく設立された順正女学校に入学して第一期生として学んでいます。
石井十次は孤児を救う活動に没頭したため卒業試験に失敗して医師になるのを断念し、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。
石井十次は医学部四年で退学していますが、のちに偉業をたたえ鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に第三高等中学校医学部明治22(1889)年卒業者として掲載されており、このようなことは岡山大学医学部の長い歴史で他に例がありません。
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疑問というのは、本当に退学した石井十次が岡山大学医学部の卒業生名簿に掲載されているのかというものであった。

これについては最新の鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に掲載されていることを確認した。

しかし、私自身も十次が孤児救済の社会事業をするにしても医師であった方がより活動の幅が広がると思うのに、なぜ退学してしまったのか疑問であった。

年末年始に時間があったので、岡山県医学校について調べてみた。

岡山医学同窓会報を読んでいたら以下の様な記述があった。

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「東の東大、西の岡山」と天皇行幸
明治16年(1883)8月27日甲種学校として岡山県医学校が認可されてから、明治17年(1884)6月に第1 回の卒業式が行われた。
卒業生は首席で卒業した21歳 の津下(守屋)甫一郎(後一等軍医正)以下11名であった。
その中に、日本人として初めてパスツール研究所 に留学し、「グラム染色」 を我が国に紹介し、明治20 年(1887)に初めて「免疫」 という用語を用いた、大正 6年(1917)に海軍軍医総監になった矢部辰三郎(写真)がいる。
当時、他の医学校では卒業生は未だ出ていなかった。
岡山県医学校では教育が厳しい為に、300人を超す生徒中、卒業試験合格者は毎年20人前後と少なく、卒業出来ない者は、医術開業試験を受けて医師となった。
明治17年(1884)に、この厳しい医師の養成をしている岡山県医学校を視察した文部大臣 森 有礼は、関西第一の医学校として、「東の東大、西の岡山」と絶賛したという。
更に、各県の医学校への明治天皇の行幸は、代理を遣わす習わしであったのに、岡山県医学校へは、明治 18年(1885)8月6日に異例の天皇行幸があった。
明治21年(1888)1月の第9回で、岡山県医学校卒業試験は最後となったが、9回迄の卒業生の総数は90名であった。
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このような厳しい岡山県医学校の教育と孤児救済の活動を両立することは石井十次にはできなかったのだろうと納得できた。
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