katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

中学生教室2組

2022-08-14 04:21:40 | モザイクタイル教室

今日は中学生教室2組。まずは小鉢の子から。いよいよメインの人物の顔に入ったのだけれど、同じぺきぺきを使っても、まるで別物のような感覚になるものだったりするのね。例えば、料理だったりすると、包丁を初めて使ったとする。

これがざく切りね・・・って言われたのなら、ほぼ失敗は無いのね。つまりそれがクラッシュってランダムな切り方だったりすると、蕎麦のように一定な細さに・・・になれば、きんぴらみたいな事になる。そうなると、うどんになったら、細さ

を調整しないとならなくなる。つまり切り直しが必要になるのね。でも当然そこに失敗の確率が増える。これが難易度が変わった瞬間だったりする。でも小鉢は小さいから、数も少ないし偶然の成功でも乗り切ったりも出来るのね。

そこに難しさは無い訳じゃ無いけれど、痛みが少なく、よもすれば痛み無しでも進めたりもするのね。それが大作になると、仮に難しさは無い事でも、徹底的に数勝負になると、今度は果てしない気分になる。それは小鉢には無い感覚。

これが大作だったりする。小物の小鉢とは違い、数時間で1作、区切り良く終わる事は無いのね。あれこれとやらない事が多く、やってもやってもキリが無かったりする。しかもそこに難易度も加われば、痛みが少ない小鉢と違い、心は折れる。

更に厳しいのは、人の顔って言うのは、世の中には整形する人だっている。つまりへっぽこな顔は好かれない。例えば、眉毛ならうどんで済む。多少太くてもきしめんになる位で、工藤静香さんの若い頃なら、それも流行っていたんだから、好み

って位で済むだろうが、アイライン的な部分が細く切れずにうどんになったら、眉毛と同じになる。もはやいくら一生懸命やっても、滑稽な仕上がりになるのね。ここが良くある落とし穴で、方向性として全てが出来たと出来ないの関係。

例えば、眉毛は出来たとする。そしてアイライン的な部分と比較すると、蕎麦にならないといけないのに、うどんになった。つまりダブルうどんになる。もう見なくても、この表現だけで笑いさえ起こる。ただ厄介なのは、そこじゃ無い。

問題は意識なのね。つまり眉を作っている、アイラインの部分と意識すれば、同じ太さの訳が無いと言う意識が、出来ないながらも違いを出そうとするのね。しかし、ただ下絵の通りにタイルを切るだけ・・・って思っていると、顔を作る

意識が無いから、これで良いか・・・と進める事だけを優先してしまうのね。勿論、それで良いやって言えるのなら、それも結構なんだけれど、大抵離れて見た瞬間、何か変・・・って言い出すのね。それは当たり前なのね。それが意識。

そもそも習いに来ていて、労作展に出すって趣旨での制作なんだから、人に見せる前提なのね。それは日曜の自分だけの昼飯作りと、知り合い程度の人に振る舞わないとならない料理とでは、意識が変わらないと、何でも良いよね?って、

出せるのなら、ダブルうどんで良いっか・・・って顔の仕上がりでも平気だろうが、知り合い程度とは言え、多少意識して、マズいだけは避けたい・・・と思えば、少なからず丁寧に・・・っていつもより意識する事で、マシにはなる。

勿論、全て良い事と悪い事は背中合わせだから、意識し過ぎて失敗はするし、意識しない事でいつも通りに出来るなんて言い方もあるが、大きく違うのは、それは独りの時の話であって、先生がそこにいるのだから意識を持つべき事なのね。

ダメ出し無しなら、独りでやっているのと同じなのね。そんな中の指導は、要するに意識を持つ事と、それと並行に、都合良い方を優先するんでは無くて、都合悪い方を優先する考え方もある・・・って事なのね。例えば、全力でうどんに

なったとする。もはや全力では、今の実力はうどんなんだから、うどんが最高になる。それでは最高のダブルうどんになる。でも最高でも納得出来ない・・・どうする?って話になるのね。その時にうどんベースで考えずに、蕎麦ベースで

考えるから、無いものねだりになるのね。もし今の腕がうどんなら、ダブルうどんさえ防げば良いのだから、うどんをアイラインにして、きしめんを眉毛にすればメリハリも付くと思うのね。これなら出来るはずなのね。

ただ問題なのは、ここからなのね。これなら出来る・・・今の実力と持ち時間を考えての話なのね。しかし、もしそれに乗れないと、どうしても蕎麦にしたい・・・になってしまうのね。そうなると、もしかすると今日はそれだけしか、

出来ないかも知れないし、出来れば良いが、出来ないまま終わるかも知れないのね。出来ないかも、の選択肢が無いから。でもここにご両親がいるのなら、それでも結果なんだから、満足するかしないか?だし、過程を見ているから良いが、

2人の場合、これだけしか進まなかった・・・って理由も判らないし、今までの進み方と違うのは何故?って疑問が沸いても仕方無いのね。こんな状況の中、何とか顔を逃げ切ったのね。ただもうヒトヤマあるだろうけど・・・。

そして午後から・・・となるのだけれど、時間が押してこっちも慌てていたのね。送迎があるし・・・と。片付けして、若干慌て気味に、パンを買って食べつつ駅で待つ事になるんだけど、昨日も勘違いして時間を間違えたんで、カレンダー

を確認すると、送迎要らないんじゃん・・・って事に気が付き、慌てて戻るといらした・・・って2日続けてのミス。そんなこんなで午後からは、

景色の子なんだけれど、ここまでは順調で、さっきの子とは逆で、前半にメインが終わっているから、後はバック部分になっているのね。つまりここで良く使う、後は時間が解決する方向にあるのね。ただそこに落とし穴的な話があって・・

さっきの子の場合、小鉢で順調に進んでいる分、ここへ来て進まなくなったのは何故?みたいな悩みなんだけれど、今度は逆で、メインにあれだけの時間を費やした・・・そしたらまだこんなに残っている・・・こんな判断になるのね。

ではなったのは誰?それはご両親なのね。そりゃ気が気じゃないのね。だってあんなに掛かっているのに、まだこんなに残っている・・・でも、後はバックって話なら、色は決まっているから悩まないし、同じ事の繰り返しだから、難しい事は

何も無いのね。だから必要な時間は決まって来るだけなんだけれど、見ていないと、どうなっているのか?理解しずらい。では仮に理解されたとする。では後はバックね・・・その時にもし理解されたとして、もう終わる事を確信したとする。

問題はここからなのね。では質問。良いのが良いか?悪いのが良いか?って聞いたら、どっちが良い?まぁ大抵は良い方が良いって言うのね。こんなの質問じゃ無いでしょ?つまり0点が良いか?100点が良いか?は質問じゃ無いのね。

問題は47点寄りか?63点寄りか?これこそが一番必要な質問なのね。それもこうして数字で説明するから判りやすいだけなのね。だって50点なら半分なんでしょ?じゃ美の50点って何?・・・算数や国語じゃ無いのね。

つまり47点寄りは、出来れば満足であって、63点寄りは、美しいに決まっている側寄りって事なのね。それを踏まえて、残り時間として、危なければ47点寄り指導になり、余裕があれば63点寄り指導も出来る・・・そう、でもただ出来るだけね。

やるのは本人だから。ただもう最初に決まっているのね・・・実は。例えば最初から63点寄りでスタートしたとする。そして最後に時間が無いから47点寄りで・・・その子、納得するかな?では逆に47点寄りのスタートだったとする。

そのままならそのままだけれど、人って簡単には変わらないって言うけれど、簡単に変わらないのが一般的だからなのね。もし変わったらどうなる?それが向上心ってものなのね。もっとと思えば、もっとになるし、まっ良いかって思えば、

まっ良いかの仕上がりになる。ただそれだけ。でも時間制限がある制作なのね。どれもこれもが良い事と悪い事は背中合わせ。短期集中は身になるし結果が早いのね。何せ特訓化するから。忘れる前に身に付くから。ただ時間制限がある。

はいここまで・・・って事になるから、最後は滑り込まないと・・・になる。これが月に1回だとしても、永遠に慌てず1回の繰り返しなら、慌てる事も無ければ、その内に終わる事になる。これがうさぎとカメの仕組み。

ピョンピョン良くも良し。ノロノロ良くも良し。どちらでもたどり着けば必ず、たどり着いたって結果は出る。その時の結果は、プロセスでどうして来たか?の結果であって、もっと言えば、終わらなければ、どんなに良くても白紙扱いになる。

どちらにしても、厳しい時間帯に入った感じなのね・・・いよいよ終盤になったのね。後少し・・・頑張って。


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