はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

わからなくて幸せ?

2011-05-03 13:47:36 | はがき随筆
 危篤の知らせにまだ明けきれぬ道を病院まで走った。89歳という年齢からして覚悟はしていた。苦しむことなく人生を終えた父の最期の姿に、私は素直に神様に感謝した。
 同時に母のことが頭に浮かんだ。母は父の死を理解できるだろうか? 理解してほしいという思いで、父が安置されている教会へ母を連れていった。しかし母は、安らかに眠る父の顔を見ても人ごとのようで悲しむ様子もない。居合わせた人たちも、わからないだろうという目で母をみている気がした。
 でも私は母を信じよう。だって六十数年連れ添った夫婦じゃない。ほんの数ヶ月前まで父に会っていたじゃない。思い出してよ!
 最期の別れをするために再度母を連れていった。でも、私がどんなに説明しても「ええ、死んだのねぇ」と言うだけで涙一つ見せない。母が父の死を理解できないという現実に涙がこぼれた。近所の方々は「お母さん、わからなくなって幸せだと思いますよ」と慰めてくだったけれど。
 母が暮らすホームを訪ねると、いつも屈託のない笑顔で迎えてくれる。そんな母の笑顔を見ているうち、私もやっと認知症という病気のおかげで母は悲しまずに済んだのだと思えるようになった。
 「父さん。今日も母さん元気だったよ」
 父の遺影に語りかける。
 「母さんを大事にしろよ」
 父の声が聞こえる。
  長崎県大村市 岩瀬五十鈴 2011/5/3 毎日新聞の気持ち欄掲載

無職が続く

2011-05-03 13:41:52 | はがき随筆
 今、無職の生活。1日をどう過ごすか。慣れぬ生活ゆえに戸惑う。正装して出掛けることもなく、ずーっと家にいる訳にもいかない。
 この1ヶ月間を振り返る。ウオーキング、日記、電子辞書、DVD、創作に1時間ほど運転して2時間ほどの除草。午前中集中してやっても、昼寝も伴っての時間の流れに過ぎない。生きがいをどう見つけ出していくのか。前向きの姿勢がおぼつきない。
 まず、喜寿までにどう生活するか、月間賞やうれしい事にどれほど出会えるのか。神社参拝や墓参りがどこまで続くやら。
  出水市 岩田昭治 2011/5/3 毎日新聞鹿児島版掲載

教えられました

2011-05-03 13:30:38 | 女の気持ち/男の気持ち
 昨年10月、スイスに住む娘が次男を出産しました。赤ちゃんが6カ月を過ぎた頃に帰国するとのことだったので、お祝いはその折にでもとそのままになっていました。
 ところが先日、スイス人の娘婿から「お祝いは大地震で被災された方たちのために役立ててほしい」と、娘を通じて連絡がありました。
 すでに彼は震災直後にスイスの赤十字社を経由して個人的に寄付をしていたので、さらなる今回の申し出は驚きでした。
 同じ日本に住みながら、直接被害をうけなかったがために、ややもするとこと未曾有の大災害を遠目で見がちな私たち。そんな自分を省みつつ、改めて助け合うこと、困難に遭った人を思いやる精神の大切さを教えられたような気がします。
 長い間に身にこびりついた島国根性のかたまりのような生き方を改めねばとの思いです。
 近々予定していた一家4人での帰国は、万が一でも放射能汚染の影響が幼子に及んではという懸念から、残念ながら延期になるようです。
 けれど近い将来、日本が元気で美しい国に復活したら必ず会えると信じて、楽しみに待つことにしました。
 国の内外を問わず大勢の人々の応援と思いを受け、一日も早い復興と、孫のすこやかな成長を願いながら、義援金を送らせていただくつもりです。
  北九州市 森田希和子 2011/5/2 毎日新聞の気持ち欄掲載

家庭の声

2011-05-03 13:23:55 | はがき随筆
 新年度早々いい話を聞いたので、さっそく家内に伝えることにした。まず、明るい家庭には「三つの声」があると聞いたけど、どんな声だと思う? そう尋ねてみた。あまりにも唐突な質問に家内はとまどっていた。
 実は「三つの声」の一つは「話し声」。次は「笑い声」。三つ目は「歌声」であったことを話した。すると、家内笑ってのたまわく、私にないのは「歌声」かな、という。歌謡番組はよく見るが、歌うのは不得手のようだ。でも、作詞家や作曲家については案外詳しい。住職である私が、つい口ずさむのは「ハレルヤ-ハレルヤ-」である。
  志布志市 一木法明 2011/5/2 毎日新聞鹿児島版掲載

背中を押した春

2011-05-03 13:13:48 | 女の気持ち/男の気持ち
 今年でもう30年にもなる。
 「ダメヤッタ」と、高校の合格発表を見てきた息子が言った。万が一の望みを絶たれた息子に「どうする?」と問うと「予備校に行く」という。
 慌てて電話帳をめくり、黒崎の大学受験校に電話した。中学生はテストの結果で受け入れるので明日がテストの日ですと言われ、即申し込んだ。
 結果の報告に学校へ行くという息子を、私の前に座らせて、母親としての思いを話した。落ちたことはつらいし、悲しいし、少しは恥ずかしい気持ちもあると思う。でも、世間様に後ろ指をさされるようなことをしたわけではないのだから、ご近所の方には今まで通りに、元気にきちんとあいさつすることを約束してほしい。私も今までと同じ元気母さんでいるからと。そうすることで私自身の背中を「強くあれ」と押したのだ。
 学校から戻ってきた息子の顔は、すっきりしていた。先生に予備校のテストのことを伝え、友達とも話ができてよかったと話してくれた。
 息子と2人、予備校の玄関に立った日のことを、春がくるたびに思い出し、胸の奥が痛くなる。
  福岡県飯塚市 村瀬朱美 2011/4/29 毎日新聞の気持ち欄掲載

小さなエール

2011-05-03 13:07:35 | はがき随筆
 45年ぶりにサッチャンの声。柔らかな日差しの校庭で、バイオリンを手にしたおかっぱ頭のサッチャンが友達とはしゃぐ姿が一瞬にしてよみがえる。クリクリした瞳のサッチャンには花壇のチューリップがよく似合う。「住まい、移ったんだね」「そうだね、いろいろあってね」。電話の声だけなのだが、サッチャンは私の思い出の中の中学生のままだった。その後、送られてきたメールに「全介助の娘と二人三脚で日々楽しんでいます」とあった。妻に相談し、私は青空を背景に桃の花を撮って絵はがきにした。サッチャンへの小さなエールとして。
  霧島市 久野茂樹 2011/5/1 毎日新聞鹿児島版掲載

生きて

2011-05-03 13:02:22 | はがき随筆
 東日本大震災の宮城県の避難先で、恵美雅信さんは自宅も絶望的なのに、カギを取り出して「ほれ、オレには、これがあるから大丈夫」。そう言って笑わせた。読みながら涙がこぼれ、本紙の記事をぬらした。
 5年前の県北部の水害で、私は家財道具のすべてを失った。水害の半月後に、私は初めて笑った。私たち以上に表情がこわばる。被災者の方々の緊張を解くには、笑いが一番の特効薬だ。
 擦り傷程度の被害で泣いた私は恥ずかしい。家も仕事も失ったあなたたちへ励ましの言葉も探せないけど「どうか、生きてください」。
  出水市 道田道範 2011/5/1 毎日新聞鹿児島版掲載

感慨無量

2011-05-03 12:57:25 | はがき随筆
 東日本大震災の翌日、東京の4歳の孫息子からメールが着信した。
 「じいちゃん、ばあちゃん、このまえ、なにかくれたね、ありがとう。じいちゃん、ばあちゃんにあいたいです」
 地震の時はママと一緒に逃げた。恐怖のあまり祖父母を思いついたのか。かな書きのメールに孫の心が素直に伝わった。4歳の孫がメール。感慨無量。かな文字は優しく柔らかく温かさを感じる。覚えたとのかな文字メールの心遣いは何ものにも替えがたい。余震も連日続くが、無事に元気でいてほしいと励ましのメールを送る。
  姶良市 堀美代子 2011/5/1 毎日新聞鹿児島版掲載

問屋ソロバン

2011-05-03 12:51:57 | はがき随筆
 遠くの岡から、いわし雲が広がってきた。団地の文房具店で原稿用紙を1冊買う。
 「この団地が出来たころは子どもが多くてね。ノートや鉛筆がよく売れたんですけど、今は便せんの方が売れるんですよ」
 店の女主人が言った。店内を見回すと小ぎれいに整頓されていて、レジの隅から古びたソロバンがのぞいていた。当時から半世紀たっているにの、よく持ちこたえたものだ。
 そう思うと、女主人のつつましい暮らしがしのばれて、私は胸の内がホッと温かくなった。帰りしなに大福餅を三つ買って帰る。
 鹿児島市 高野幸祐 2011/5/1 毎日新聞鹿児島版掲載

のびる

2011-05-03 12:45:10 | はがき随筆
 「裏庭で取ったのびるだ。夕方食べよう」と妻に言う。
 「うーん」。返事は重い。
 のびるは緑の長い茎と白い地下茎まで皮が薄くむきやすい。しなやかなのびるを湯がき、昆布巻きのようにしめると出来上がり。キビナゴと竹の子の刺身が食卓に色を添える。たれは自家製の酢みそ。瑞々しいのびるを口にほおばると、ネギに似た匂いが鼻を突く。懐かしい味に戦中戦後、食べられる野菜を教えてくれた両親の顔が浮かび、胸を熱くする。
 妻は食べたことがないので遠慮すると言う。お陰で焼酎と食欲が増した夕餉になった。
  出水市 清田文雄 2011/5/1 毎日新聞鹿児島版掲載

娘と相生して

2011-05-03 12:38:36 | はがき随筆
 「え~、太陽の黒点4000度、太陽は6000度、おもしろい」
 中学3年生の理科の問題を解く。
 「えっ、母ちゃん、宇宙人なのに知らなかったの? そうだ、太陽は熱すぎて暮らせなかったんだね」と、14歳の娘はカラカラと笑う。
 「うん、まあね」と、私もニタリ。
 「地球に来て、お父ちゃんを好きになって元の星に帰れなくなったんだね」
 「ムフフ、そうなんだよね」
 玉響の人生を娘と相生して生きていると強く感じている。
  鹿児島市 萩原裕子 2011/4/30 毎日新聞鹿児島版掲載

心に残る惜別

2011-05-03 12:31:40 | はがき随筆
 3月花冷えのたそがれ時、ぺん友Yさんの娘さんより電話。「父が今日5時30分に亡くなりました」の声に思考が止まる。3日前に突然みえられ「アイスクリームを買ってきます」に驚き、妻と3人で美味しく頂く。その後ご自分のエッセーの載った本をわけて頂く。プロ感覚の文章内容に感動が残る。雑談され、いつものように飄然と「また来ます」。今思うとあれが最期のお別れだ。中国のことわざ「今日感会、今日臨終」の厳しい惜別に。今は大好きな古里熊本の持ち山上空をご夫妻で千の風になられ。無限の時空を仲良く過ごされているだろう。
  鹿屋市 小幡晋一郎 2011/4/29 毎日新聞鹿児島版掲載

老いざる薬

2011-05-03 12:23:47 | ペン&ぺん
 9万6567人。鹿児島県内で独り暮らしする65歳以上の数だ。6年ほど前のデータで、今は人数も変わっていよう。
 1年経過すれば、人は皆365日分、齢(よわい)を重ねる。
   ◇
 老いを避けたい。そう願うのは、アンチ・エージングが叫ばれる昨今だけの話ではない。
 秦の始皇帝の時代。不老不死の霊薬を求め、若い男女3000人を率いて、船出した伝説上の人物がいる。徐福、またの名を徐市。日本各地に、老いざる薬を求めて徐福が来たとの伝承が残る。
 その一つが、いちき串木野市にある。旧市来町は、徐市が来た場所から名付けられたとの説がある。徐福は山に登り、景観を絶賛し冠を山頂で脱いだ。その山を以後、冠岳と呼ぶ。徐福が、紫のひもを留め置いた山を紫尾山と称する。そんな由来も伝えられている。(「鹿児島大百科事典」など参照)
 だが「市来町郷土誌」によれば、市来の名が公的資料に登場するのは鎌倉時代。余りに年月がずれている。むろん、かつて鹿児島の地に老いざる薬があり、徐福が持ち帰ったとの記録はない。
   ◇
 「お薬を出します。物忘れがひどくならぬよう進行を抑える薬です」
 そう医師は言った。独り暮らしの母を診察に連れて行った時のことだ。
 机の上。パソコン画面に頭部を撮影したMRIの画像が映る。側頭部に脳の萎縮があるという。
 「お薬は1日1錠。2週間分です。それで副作用や物忘れの度合いなどをみていきます」
 同席した私は、もしもと思う。もしも、母の症状が老化に伴うものならば、老いを止めることはできない。できるのは老化の進度を、わずかに抑制することだけだろう。
   ◇
 薬は2週間分。その間14日分、老いは進む。徐福が求めた老いざる霊薬は今も、ここにはない。
 大海の東の果て。日いずる所に、願いを捧(ささ)ぐ輝きのごとく、だれもが求める薬は、あるのかもしれない。
 鹿児島支局長 馬原浩 2011/5/2 毎日新聞掲載