書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

民主党「メール」問題検証チーム 『報告書』

2006年04月06日 | 政治
 →http://www.dpj.or.jp/news/200603/20060331_07mail.html

 結局どうしてああなったのかいま一つ解らなくて詰まらないかと思えば、いっそのこと馬鹿馬鹿しくて却って面白くもあり・・・・・・。

(民主党、2006年3月)

▲今日からトラックバックは「受け取らない」ことにした。あしからず。

葦津珍彦選集編集委員会編 『葦津珍彦選集』 全3巻

2006年04月06日 | 人文科学
 第3巻所収「竹内好さんの風格」(1978年)は、この人物の懐の深さをあらためて感じて、非常に興味深かった。これは『思想の科学』に寄稿した追悼文であるが、思想的には対極もしくは敵といっていい位置にあった竹内好という人物を、十分な尊敬とともに、一種の好感をすらもって描いている。

“竹内さんは学者としては非常に公正につとめた人だった。しかしただの公正を期して、時事に無関心に研究に没頭するには、あまりにも多情多感であった。(略)時評家としての竹内さんは、自らの時局判断によって、剛直な文を書いたが、そこでは、その豊かな知識のなかの一側面が鮮やかに表現されてゐて、黙したままに終はった側面の知識が少なくないやうに私には思はれる。それは啓蒙、教育者としての立場から来るもので、(略)吉野作造を語るのに頭山満の名をあげて、より詳しく知ってゐる寺尾(亨)との間を語らなかったとか、日中交渉史でも今の時代に「教育的」に無用、マイナスと判断したことは書かなかった。/しかし学者としての公正の堅持を欲する故人は、自ら語るを欲しなかった「真実」を否定するやうなことは決してしなかった” (第3巻、650頁)

 「公正」で「多情多感」で「剛直」な人格の持ち主であるがゆえに、葦津は竹内を認めたのだろう。というより、葦津は竹内に自分と相似する精神を見いだし、そのゆえに思想の違いなどといういわば表層にすぎない差異を超えて共鳴したのではなかったか。
 「今の時代に『教育的』に無用、マイナスと判断したことは書かなかった」、しかし「公正の堅持を欲する故人は、自ら語るを欲しなかった『真実』を否定するやうなことは決してしなかった」といった評は、葦津本人の生もすでに終わってしまった今日から見れば、彼自身に対する評価としてそのまま通用するだろう。
 いまにして思えば、以前読んだ『時の流れ』(→本欄2002年9月22日)もそうだった。

(神社新報社 1996年6・9・11月) 

▲「Sankei Web」2006年4月5日、「中国の対日感情、民間は改善の兆し」
 →http://www.sankei.co.jp/news/060405/kok006.htm

 中国人の激烈な日本批判の言動にはすべからく「ナーンチャッテ」の一句を補うべきかもしれない。もちろん、彼等の過剰な日本讃美についてもである。
 そもそも「文は人なり」はフランスの警句であって、中国の諺ではないのである。

▲「Sankei Web」2006年4月5日、「『日系企業相手に民間賠償訴訟中国で起こす』反日団体責任者」
 →http://www.sankei.co.jp/news/060405/kok031.htm
 「人民網日本語版」2006年4月5日、「外交部、昨年のデモにコメント『本質を明確に』」
 →http://j1.peopledaily.com.cn/2006/04/05/jp20060405_58742.html
 
 反日派必ずしも反体制派ではない。当分中国で反日デモは起こらない。現在は政府が許可しないからである。無許可でやれば弾圧される。我が身は罪に問われて獄に繋がれる。己の生活が破滅する。彼等はそこまではしないということである。つまり畳の上の愛国者ということだ。安全な範囲でだけ意気がる、こういう種類の人間を、関西弁で「イチビリ」という。

“中国は宋末と明末に二度国が亡びたことがあるが、その亡国の原因の中で最も大きく最も著しいものは、本音を吐かぬ点にあつた。心の中に思つてゐることと口の先にいふことが一致しないのである。そこで最も都合のいいやり方は、自分が責任を負はずに、他人の出具合を見てゐる。和を媾ずる時に当つてはやみくもに和をいひ立て、戦ひをなす時に当つてはやみくもに戦ひをいひ立てる。ところが和すれば損をし、戦へば敗れることがあるために、最も都合のいい方法は、自分だけ当り障りのないところにゐて、どうせ他人が死ねばいい、といふものである。是において、明の熊廷弼は屍首を九方に分たれ、明の袁崇煥は市場にまづ四肢を断ち次に喉をゑぐるなぶり殺しの刑に処せられたのである。悲しむべきは、彼らが生命を断たれたことに在るのではなく、かくの如く皆が本音を吐かないやり方に在るのだ。責任を負はない空気の中では、八方塞がりであり、一死もつて責を塞ぐのほかは、まつたく切り抜ける路がなかつたのである” (汪兆銘「誰もが本当のことをいはねばならならぬ、誰もが責任を負はねばならぬ」、1937年8月4日。桶谷秀昭『昭和精神史』「第十七章 汪兆銘和平運動の悲劇」より)