再読(→本欄2004年11月16日)。
まず、中国人の「面子」とは如何なる物かにつき、林思雲氏からいただいた11月23日付私信の一部を、氏のご許可をいただいて翻訳引用する(これも2004年11月23日欄からの再録)。
“中国人にとって他人に「あなたは間違っている」と指摘されるのは、非常に面子を失うことです。だから内心では自分が間違っていると思っていても、絶対にそれを認めようとせず、かえってしゃにむに自分は正しいと主張することがよくあります。(略)
中国人とつきあうときにはこの“面子”というものに特に注意しなければなりません。中国人に間違いを認めさせるのは不可能ではありません。しかし面子を立てることが絶対に必要です。側面から間接的に、相手の間違っていることを指摘するのです。面と向かっての批判は不可です。本人が自分の誤りに気づいて、みずから自分は間違っていたと認めるのなら、何も問題は起こりません。
自分で自分の非を認めるのは面子を失うことにはなりません。しかし他人に非を指摘されるのは面子から言って受け入れがたいことです。例えば南京大虐殺の問題ですが、中国人自身が30万人という数字はおかしいと言えば、他の中国人は受け入れるでしょうし、それほど激昂することもないでしょう。しかしそれが日本人であれば、中国人は大変面子をつぶされたと感じて、本来南京大虐殺の犠牲者数に疑問を持っている人々でも徹底的に擁護する側に回ります。
日本人は中国を批判する際に、中国文化における面子という要素を考慮していない人が多いと思います。中国人の面子を潰しているので中国人を激怒させ、さらには激しい罵詈雑言を招いているのです。やりかたを変えるだけで、情況はかなり変わるはずです”
というわけで、中国人の中国人論(1918年)を昨今の時節柄、コメントなしで再び紹介したいのである。
“大きな「面子(顔)」を持ったということは、法律や憲法をも凌駕する地位に立ったということである” (310頁)
(講談社 1999年7月)
まず、中国人の「面子」とは如何なる物かにつき、林思雲氏からいただいた11月23日付私信の一部を、氏のご許可をいただいて翻訳引用する(これも2004年11月23日欄からの再録)。
“中国人にとって他人に「あなたは間違っている」と指摘されるのは、非常に面子を失うことです。だから内心では自分が間違っていると思っていても、絶対にそれを認めようとせず、かえってしゃにむに自分は正しいと主張することがよくあります。(略)
中国人とつきあうときにはこの“面子”というものに特に注意しなければなりません。中国人に間違いを認めさせるのは不可能ではありません。しかし面子を立てることが絶対に必要です。側面から間接的に、相手の間違っていることを指摘するのです。面と向かっての批判は不可です。本人が自分の誤りに気づいて、みずから自分は間違っていたと認めるのなら、何も問題は起こりません。
自分で自分の非を認めるのは面子を失うことにはなりません。しかし他人に非を指摘されるのは面子から言って受け入れがたいことです。例えば南京大虐殺の問題ですが、中国人自身が30万人という数字はおかしいと言えば、他の中国人は受け入れるでしょうし、それほど激昂することもないでしょう。しかしそれが日本人であれば、中国人は大変面子をつぶされたと感じて、本来南京大虐殺の犠牲者数に疑問を持っている人々でも徹底的に擁護する側に回ります。
日本人は中国を批判する際に、中国文化における面子という要素を考慮していない人が多いと思います。中国人の面子を潰しているので中国人を激怒させ、さらには激しい罵詈雑言を招いているのです。やりかたを変えるだけで、情況はかなり変わるはずです”
というわけで、中国人の中国人論(1918年)を昨今の時節柄、コメントなしで再び紹介したいのである。
“大きな「面子(顔)」を持ったということは、法律や憲法をも凌駕する地位に立ったということである” (310頁)
(講談社 1999年7月)