書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

林語堂著 鋤柄治郎訳 『中国=文化と思想(My Country and My People)』 

2005年04月18日 | 文学
 再読(→本欄2004年11月16日)。

 まず、中国人の「面子」とは如何なる物かにつき、林思雲氏からいただいた11月23日付私信の一部を、氏のご許可をいただいて翻訳引用する(これも2004年11月23日欄からの再録)。

“中国人にとって他人に「あなたは間違っている」と指摘されるのは、非常に面子を失うことです。だから内心では自分が間違っていると思っていても、絶対にそれを認めようとせず、かえってしゃにむに自分は正しいと主張することがよくあります。(略)  
 中国人とつきあうときにはこの“面子”というものに特に注意しなければなりません。中国人に間違いを認めさせるのは不可能ではありません。しかし面子を立てることが絶対に必要です。側面から間接的に、相手の間違っていることを指摘するのです。面と向かっての批判は不可です。本人が自分の誤りに気づいて、みずから自分は間違っていたと認めるのなら、何も問題は起こりません。  
 自分で自分の非を認めるのは面子を失うことにはなりません。しかし他人に非を指摘されるのは面子から言って受け入れがたいことです。例えば南京大虐殺の問題ですが、中国人自身が30万人という数字はおかしいと言えば、他の中国人は受け入れるでしょうし、それほど激昂することもないでしょう。しかしそれが日本人であれば、中国人は大変面子をつぶされたと感じて、本来南京大虐殺の犠牲者数に疑問を持っている人々でも徹底的に擁護する側に回ります。  
  日本人は中国を批判する際に、中国文化における面子という要素を考慮していない人が多いと思います。中国人の面子を潰しているので中国人を激怒させ、さらには激しい罵詈雑言を招いているのです。やりかたを変えるだけで、情況はかなり変わるはずです”

 というわけで、中国人の中国人論(1918年)を昨今の時節柄、コメントなしで再び紹介したいのである。

“大きな「面子(顔)」を持ったということは、法律や憲法をも凌駕する地位に立ったということである” (310頁)

(講談社 1999年7月)

魯迅著 松枝茂夫訳 『魯迅選集』 11

2005年04月18日 | 文学
 再読(→本欄2003年3月11日)。
 同上。

“(中国人は)「面子がある」ようにするためなら、自分がどうなろうと、全然かまわなくてもよいといったところがある” (第11巻「且介亭雑文」、「面子について」 、1934年。83頁) 

(岩波書店 1964年7月改訂版第1刷)

魯迅著 増田渉訳 『魯迅選集』 6 

2005年04月18日 | 文学
 再読(→本欄2003年2月12日)。
 以下もまた。

“「集団的自負」「愛国的自負」は、仲間を組んで自分たちとちがうものをやっつけることで(略)、彼ら自身には何ら人に誇るべき特別の才能がない、そこでこの国というものをもって来て背(うし)ろだてにする。彼らはその国の習慣制度を高くかつぎあげて、大へんな讃美をする。彼らの国粋がそれほどにもかがやかしいものであるのだから、彼らもむろんかがやかしいものになるのだ! もし攻撃されたところで、彼らは自分で応戦しなくともよい、このような背ろだてをよいことに、目をいからし、舌をさえずらしている人の数は極めて多いのだから、ただモッブの得意の手で、一しきりワイワイさわげば、勝利は得られる。勝ったとなると、自分も集団の中の一人であるから、むろん勝ったのである。もし負けたときは、集団の中にはたくさん人がいる、必ずしも自分だけがやっつけられたということにはならない。(略)これがつまり彼らの心理である。彼らの行動は、みたところは猛烈なようだが、その実はかえって卑怯である。それによって生じた結果については、復古、尊王、扶清滅洋等々が、もう十分に教えている。だからこの「集団的愛国的自負」をたくさんもっている国民は、まことに哀れむべきで、まことに不幸だ!” (第6巻「熱風」、「随感録三十八」、1918年。 24-25頁)

(岩波書店 1964年4月改訂版第1刷)

実藤恵秀編 『近代支那思想』 

2005年04月18日 | 東洋史
 今年2月21日欄の再録。

“現在、民族運動が普遍化しているのは、必ずしも西洋伝来の民族主義思想が多数人民に理解されたからではなく、却て少数の先覚者が大衆の原始的民族感情、換言すれば義和団的亢奮を合目的に指導したからである。/われわれはこの点を明確に認識する必要がある” (橘樸「支那思想の将来性」 343頁)

 橘樸が1942年の中国民衆を指して形容したごとくに、こんにちの愛国的分子の理性を喪失した興奮は義和団的である。サッカーアジア杯の際、テレビの取材班に「日本人なら殺してやる」と青竜刀を持って叫んでいた女性などがその例である。外国人を殺すことが愛国である。
 これは極端な例による極端な論かもしれない。しかし反日を叫ぶ若年層の言動に、記録に残る五四運動時期の頭に血が上ったやみくもな学生たちの叫びをだぶらせるのは私だけか。「直ちに青島を取り戻せ!」「日貨排斥!」と「直ちに釣魚島を取り戻せ!」「日貨排斥!」。本当にできるのか、できると思っているのかと訊きたい。

(光風館 1942年6月)

 本日付で以下を追加する。
 
“中国は自分のやり方で近代化に向けて緩慢だが着実な足取りで歩んでいるのだということを認めるよりは、もし外国が侵略しなければ中国は物質生活の面ですでに列強と肩を並べていたのだと声高に叫んでみせることのほうが遥かに容易なことなのです” (林語堂『中国=文化と思想』、パール・バック 「序言」 1935年)