きちんとしていれば忘れない

2008-11-25 12:45:43 | 塾あれこれ
忘れる、ということは
先に覚えていることが必要です。
覚えていないことを忘れることはできません。

駅の雑踏ですれ違った人を後で認識できなくても
忘れた、とは言いません。
もともと覚えていないのですから。

覚えていたことがあって、初めて忘れるのですね。

確かに十分に覚えていなくても「忘れた」という場合
もあります。名刺はあるが顔は忘れた、なんてね。

それは、今認知できない、あるいは思い起こせない
という使い方ですが、記憶することを(忘れた)に近い
といえるでしょう。

通常は、忘れるとは覚えていたことに対して使います。

あるいは、覚えていなければならないことを忘れる
または、覚えていてもよいことを忘れる・・

繰り返しますがキチンとしたインプットが前提です。


さて昨日書いた大学教授の話です。

分数は出来ないのか、忘れたのか。

じつは二者択一にはならないことです。
(究極の選択には気をつけねば)

大学生になった時点で「できない」ので
忘れていても「できない」のです。
「出来ないじゃなく忘れた」というのは少し変。
(できないのは忘れたから、ならありうる話)

では分数について(忘れた)ということが当てはま
るでしょうか。
忘れてよいものかどうか、私は年号を覚えるのとは
ワケが違うと思います。

分数ができないということは割合の考え方ができない
ことであり算数数学では致命的です。
実生活においても同様で割合の考えができないと
たいへんです。

大人になって微積分やルートの計算ができないのとは
違いますね。

分数はできていなければならないものです。
お金の数え方と同じくらい、といえばオオゲサかな。

とにかく、忘れたでは済まないことで、だから
『分数ができない大学生』がショックだったのです。

ルートができない、とは違いますね。

そこで、忘れたというよりも、もともとマスターが
できていなかったと思われるのです。


大学の教授が「忘れた」というとき、もとはマスター
していたというイメージを与えますよね。

やりかただけで対処することをマスターすると
思っておられるのかなあ。

本当はマスターしていれば忘れる類の話では
ないのですけれども。

若干、現状肯定的な話に聞こえますね。

一流大学の生徒を相手にしているので認識が甘い?

忘れたらまた勉強すればよい、では不十分で
なぜ「忘れる」ような勉強になっていたかが問題です。


上記の話よりさらに重要なことは

分かっていないことを大人が把握できていない、
分かってなくても次第に分かってゆくような成長を
しない、
分かっていなくても進学できてしまう

これらが問題です。

一斉授業形式から少人数個別に変わってより強く
感じるようになったことです。


実は阪大教授の話にはもう一つ大きな?が。
教科書作りにも関わる方だけに気になることです。

・・いずれ別の機会に。