2024/03/30放送
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
今週は、イエス・キリストがどうして十字架につけられたのかをご一緒に考えてきました。
イエス様は、何の罪も偽りもないのに十字架につけられました。しかしその十字架は、私たちの罪の身代わりであったこと、そして私たちの罪が赦される道がイエス様の十字架によって完成したこと、またイエス様を救い主として信じ受け入れることは永遠の御住まいまでもが約束されることをご一緒に考えてきました。
イエス様のあの十字架の周りには、いろんな人たちがいました。そこにはローマ兵がいました。彼らはイエス様を嘲(あざけ)り、罵(ののし)りながら十字架に付けた人々です。
でもどうでしょうか。今日もキリストをあざけり、まるでもう一度イエス様を十字架に付けてしまうかのような、そんな生活の中にいる人がいませんか?
イエス様は何と言われたか思い出して下さい。イエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのかわからないのです」と、なお弁護して下さる方です。
またイエス様のもとには、当時の宗教家たち、祭司長、律法学者たちがいました。自分の正しさ・義を盾にしながら平気で偽りの証人を立てる人たちでした。彼らはイエス様の十字架をあざ笑っている人たちでした。
しかしどうでしょう。「私は正しい人間ですから、イエス様のお世話にならなくても立派に生きていきますよ。自分の力でなんとかなります。」 ま、そう言っている人がいませんか?
イエス様をただの煩わしい存在としか見ていない人も大勢います。
また多くの傍観者たちがいました。我関せず、という態度です。キリストと私とは無関係です、と考えている訳ですね。
でも本当にそうでしょうか? イエス様は傍観している一人一人のためにも実は十字架についてくださったのです。身代わりの十字架ですから。
そして十字架のもとで涙を流して膝まづく人たちもいました。十字架のもとでイエス様の姿をじっと見ていたローマの兵隊の長はこう告白しました。「この方は本当に神の子であった」と。
パウロは第一コリント1章18節で、
「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」と書いています。
「十字架のことば」とは、十字架のストーリーそのものです。十字架のストーリーを受け入れ、イエス様を救い主として信じることは、まさに救いを得させる神の力となるのです。
あなたは十字架のどこにいますか?
( PBA制作「世の光」 2024.3.30放送でのお話しより )
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