「バチが当たる」ということをよく耳にする。
「親不孝をするとバチが当たるぞ!」とか、「女遊びのバチが当たったのだ」
そんな言葉の使い方だ。
そのたび、あまり深刻に考えもせず、その言葉に納得している自分がいる。
いや、「信じる」というより、「特に反論をしない」とか、「反発をしない」という態度でやり過ごしているのだ。
そもそも「バチ」とは何か?
「バチ」の語源は知らないが、日頃の私は、「神仏の罰を受ける」という軽い意味合いで、言葉を受け止めている。
「神仏の罰」を、「軽い意味合いで………」と言っているようでは、私の心がいい加減なのかもしれない。
しかし、「バチが当たる」という言い方からは、なぜか深刻さが感じられない。
それに、「神仏が罰を与えるとすれば、そいつはよほど悪いヤツ」と思っているので、自分のこととはと考えていない。
聖人君子ではない私だが、バチが当たるほどの悪人ではない。それほどの度胸もない。
「バチが当たる」と言われるより、むしろ「化けて出るぞ!」と言われるほうがイヤだナ。語感に凄みがあるではないか。
「藁人形に釘」を打たれるほうは、さらにイヤなことだ。手が込んでいるだけに、根深い執念がありそうだ。
ゆめゆめ油断っすることなく、そんなヤツには出会わないことにしよう。特に女人は要注意。
写真の雲は今日の午前中の撮影。。厳寒の冬空で、かくもゆったりと浮かんでいる雲だ。
目的もなく、流れ行く先も決めていない。
このような自分でありたいと思った次第。