29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

1990年代に「読書する意味」の転換点があったという

2024-06-22 09:57:58 | 読書ノート
三宅香帆 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書) , 集英社, 2024.

  日本近代読書史。タイトルを見て「労働時間と余暇時間がトレードオフにあることは当たり前じゃね」とまず思うだろう。これに対し、昔の日本人はもっと長時間労働をしていたはずだと著者は反論する。ならばいったいどの時間帯に何を読んでいたのか、そして読者は読書に何を求めていたのか、という疑問を著者は掘り下げる。

  章立ては明治から現在までの通史となっている。読書の中心層は、明治には高学歴インテリ男性だったのが、大正から昭和になるとサラリーマン男性となり、1980年代以降になると女性もまた重要になってきた。その間、読むものには自己啓発書、教養書、円本、大衆小説、司馬遼太郎などのブームの変遷があった。まず読書に求められたのは娯楽である。一部「教養」を読書に求める向きもあったが、それは仕事上の利益に必ずしも直結していたわけではなかったが、長期的期待においてまったく無関係というわけでもないものだった。

  転換点はバブル経済崩壊後の1990年代以降である。教養主義に代表されるような内面の向上や社会意識の形成が無駄なものとされる。なぜなら、そのような曖昧な知識獲得の努力をしても自分を取り巻く世界は変わらないから、卑近な言い換えをすれば経済の停滞下においてそれは仕事上の待遇を向上させることがないからである。替わりに台頭してきたのが、(自分でコントロールできる狭い範囲の)仕事上の利益に直結する行動変容の努力であり、それは自己啓発書を読むことを促すものとなる。あるいは、ネットでの問題解決的な情報の収集となる。このような変化によって、余暇もまた仕事に従属する時間となってしまい、これまでの読書がもたらしてきた余剰(著者は「ノイズ」と呼ぶ)を許容できなくなってしまった、と著者は言う。

  解決策として、仕事に打ち込む強度を低めるという働き方改革を著者は訴える。具体的には労働時間の短縮が提案されているが、それだけはなく私生活まで仕事に従属しないような働き方が目標となる。しかしながら、読者としては、働き方改革という解決案は「違う」という印象を持つ(娯楽としての読書は復活するかもしれないけれども)。昔は長時間労働の中でも読書できていたわけで、本書は、これまで教養的な読書で得られた世界観が1990年代以降になると無力なものとみなされるようになったこと、これを働いていると本が読めなくなる原因としている。したがって、この点について対処する提案が欲しいところだ。

  以上。驚くのは、著者が1994年生まれにもかかわらずすでに10冊以上の著書があること。いったい生涯に何冊の本を残すことになることやら。続きも期待している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする