波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

掛川城の天守に物語あり!

2019-06-26 02:01:36 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

実は私には、2年ぐらいの周期で以前行ったお城に再び行きたくなる習性(?)があるのですよ。 そのような流れで「日本の100名城」に数えられている掛川城が気になりだした頃に………

前々回の波狛日記で、そのお城でおこなわれた「時の記念日」関連の行事のことに触れていたら、自ら掛川城に行きたい欲に拍車をかけてしまいました。 しかもその日は、梅雨の間にできた貴重な晴れ間となっていましたし。 こうなったら、もう迷いません。すぐにでも掛川城に向かいますよ

………という勢いでやって来ましたよ 掛川城に。………と言いたいところなのですけど、正確にはまだお城には踏み入る前の段階で、私はその手前にある大手前駐車場の屋上にいるのですよ。 掛川城は遮るものがない独立した丘の上に聳え立っているので、市内の至るところから見ることができます。 
そのような中でも、こちらからはそのお城の全体像を眺めることができるので、私のオススメの場所であります。ちなみに右手前にあるのは大手門(復元)で、その左の茂みの横には二の丸御殿(現存)、さらにその左側には太鼓櫓(現存)があり、それらを見下ろす丘の上に天守(復元)が聳えています。といったトコで、今からそちら方面に行きますよ

まず最初に、私は大手門にさしかかりました。 こちらは平成7年(1995年)に木造で復元されたもので、大きさは間口約12,7m、奥行約5,4mの2階建ての楼門です。 ちなみに、本来の建物は50mほど南にありました。
それから大手門の脇には、すいのやという駄菓子屋があります。私が初めて掛川城を訪れた中学生の頃には、そのお店は太鼓櫓の下のあたりにあったのですけど、すっかりおしゃれで立派になって。 それから、駄菓子の他には静岡おでんとは微妙に違う掛川おでんとも言うべきおでんがあって、さらには14時までに訪れれば、焼きそば焼きうどん(各320円~)も食べることができるのですよ。
その大手門を潜ったところには………

大手門番所が移築されています。 安政6年(1859年)に建てられたこちらの建物は、大手門を往来する人を監視する役割りを果たしていて、明治以降は市内を転々としていたそうです。ちなみに私が中学生の頃は、改造された姿で市立中央図書館の前庭にありました。
その番所をやり過ごし、逆川沿いを歩いていったら………

お城の主要部に行き着きましたよ 天守の下の側面は、本来のお城にはあるまじきブロックの護岸となっているのですけど、この角度からならいい具合で樹木に隠れています。 そうしたら、このあたりで改めてこの城の説明をさせていただきます。 掛川城は戦国時代の明応6年(1497年)~文亀元年(1501年)に、朝比奈泰煕によって築かれたのが最初と云われていて、現在のお城から東に500mほど離れた丘の上にありました。 その後の永禄12年(1569年)以降は、徳川家康の支配下となりました。さらに天正18年(1590年)に入った山内一豊によって大改築がおこなわれ、石垣や天守を伴った近世の城郭に仕上げられました。
天守を目の前にして、テンションが上がったまま登っていきたいところなのですけど………

今回のメインとなるその建物の話はあとに持っていきたいので、二の丸御殿のほうを先に入らせていただきます。

 

こちらの建物は城主の政務や生活の場となったところで、安政2年(1855年)に建てられました。 御殿建築が現存しているお城はわずか4つだけで、国の重要文化財に指定されています。 しかし、明治以降の二の丸御殿は女学校や町役場・市役所などに使用され………

その柱には、役所となっていた頃にカウンターを設けるために削られた跡が残っています。

こちらは城主の対面所となっていた、次の間から御書院上の間を見たところです。奥行きがあって、広さを感じますね。

さらにその奥にある長囲炉裏の間には、杉良太郎さんがコレクションとして集め、掛川城に寄贈した甲冑などが飾られていました。

順路の終わりのあたりには、先日の時の記念日に地元の園児たちによって打ち鳴らされた大太鼓がありました。 そうしたら、私も……… と、叩く気マンマンだったのですけど「たたかないでネ」なんて、そんな………

二の丸御殿の他にも、城内にはこちらの太鼓櫓が現存しています。

私が昔来た時には、コンクリートむき出しの土台の上に建っていて、天守があった天守丸に行くには、その脇を上がっていって、通路を跨ぐようにして架かっていた鉄橋を渡っていくようになっていました。 ただし現在は景観を整えるために鉄橋は撤去(ダジャレ?)され、太鼓櫓の土台は石垣に覆われています。

現在、天守へ至る道はこちらからとなっています。 その建物が復元されたばかりの頃は、見物客の行列がこのあたりまで続いていたのですよ。

 

その長くてヒザにくる石段を上がっていくと………

天守丸に行き着くのですけど、その空間は狭くて天守が近すぎるので、カメラのフレームに収めるのは難しいです。
………といったトコで、ここで今回の話のメインとなる、このお城の天守の話をさせていただきます。 16世紀末に山内一豊によって建てられた天守は、外観3層内部4階で、最上階には黒漆塗りの高欄(回廊)が設けられていました。彼はこの天守をいたく気に入っていたみたいで、次の赴任先となった高知城も「掛川城と同じようにせよ」と命じたそうです。
しかし、最上階の高欄はメンテナンスが大変なうえに雨などで腐食しやすいこともあって、江戸時代に入ってからはあまり採用されないようになりました。

その頃には、掛川城の天守の最上階は木の板で覆われ、頭でっかちな外観となっていました。 そのような姿になっても、江戸時代を通して存続した(慶長の大地震で倒壊後に再建されたという説も)のですけど、1854年に起こった安政の大地震によって大破したため、取り壊されてしまいました。

それ以降は天守台のみが残っていて、明治時代になってから、その上には平和観音像が設置されたりしました。

現在その平和観音は、同市内の富士見台霊園に移されています。 私はその日のうちにそこを訪れ、約30年ぶりにその像と対面しました。確かに昔掛川城で見た観音様がそこにありましたよ。 しかも、霊園内で最も高いところに鎮座していて。やはりそのような場所のほうが落ち着くのでしょうか?
話は掛川城のほうに戻します。昭和に入ってから天守を再建したいという声は数多く聞かれました。しかし財政的な問題などがあって、なかなか実現しませんでした。

現在、掛川市役所の敷地内には、昭和52年(1977年)から平成17年(2005年)まで7期28年にわたって市長を務めた、榛村純一氏の銅像が立てられています。 彼は在任中に掛川市の生涯学習都市宣言をして、その後も東海道新幹線の掛川駅や東名高速道路の掛川インターチェンジの開設などに尽力しました。 それらの事業で市の財政にあまり余裕がなかった頃に、彼のもとに白木ハナヱさんという、確か同時90歳ぐらいのお婆さんが訪ねてきていました。彼女は「掛川城(の天守)を再建するのには、4億円ほどかかると聞きましたけど、そのお金は私が出しましょう」と申し出てきたのです 4億円とはいっても、再建に必要な最低価格で、昔からある天守台の上にそのまま鉄筋コンクリート製の天守を建てた場合そうなると思われます。 ちなみにこれが木造となると、倍以上の費用がかかるのですよ。 白木さんはすでに「生涯学習の活動に役立ててほしい」と言って1億5千万円を寄付していて、さらに東京に所有している土地を整理したりして、合わせて5億円を用意しました。 榛村氏はのちにその時の心境を「天にも上るような思いだった」と語っていました。 そのことが起爆剤となって、掛川城の天守の復元計画はトントン拍子に進んでいって、そのことを新聞などの報道で知った私も、テンションが上がりまくりでした。

 

「やはり復元するのだったら、本格的にやりたい」ということで、江戸時代初期に描かれた「正保城絵図」や天守台の発掘調査の結果、さらには掛川城をコピーしたとされる高知城天守を参考にして、図面を画きました。さらに「史上初の本格的な木造復元」を謳い文句に、当時としては珍しい木造で建てることになりました。そして市民からの寄付も含めた総工費10億円で、平成時代に入ってから工事が始まりました。 しかし、既存の天守台は安政の大地震の損傷を受けているうえに風化も進んでいて、まるごと造り変えなければなりませんでした。 そして着工から6年ほど経った、平成6年(1994年)に完成しました。 白木さんはその翌年に亡くなったのですけど、美しい姿でよみがえった天守を見ることができて、よかったです。

この天守は竣工から4半世紀が過ぎたこともあって、今では風格さえも感じられるのですけど、どのような構造になっているのか、皆さんにもご案内いたします。 南側に取り付けられた付櫓から入っていき………

1階は天井が高く、そこからまっすぐに架けられた階段は長くて急です。

それから4隅に設けられた石落しは、天守台を登ってきた敵兵に鉄砲の玉を撃ち込んだり、石や煮え湯、糞尿などを浴びせたりするのに使うそうです。

2階の頭上空間は1階ほど広くはないのですけど、張り出した窓に開けられた火燈窓などから外を眺めることができます。

3階は屋根裏部屋で、簾で仕切って「武者隠しの間」と称していますね。その内側をこっそりと覗いてみたい気もしないではないのですけど、何かの資材などが押し込んであって「見なければよかった」となる可能性が大なので、やっぱりやめておきます。

それはさておき、それと同じような空間が、高知城の天守にもあるのですよ

そして、私は掛川城の最上階となる4階まで上がってきました。 この階は四方に通路が開けられているのですけど、安全性を考慮したからなのか、外の高欄には出られないようになっています。

ちなみにこちらは高知城の最上階です。 それにしても、掛川城のものとソックリですね 高知城の天守は江戸時代中期に火災で失われたものと同じ姿で再建されたので、現在の掛川城天守は、初代掛川城天守のコピーのコピーのコピーということになります。

 

それから掛川城のほうからは、掛川市内を一望できるのはもちろんのこと、小笠山や粟ヶ岳に加えて、富士山も臨むことができます。 さらに新幹線が往来する様子もよく見えるのですけど、大多数を占めるのぞみ号やひかり号は、掛川駅を素通りしていってしまうのですよ。

掛川城の天守には、その構造だけではなく歴史にも魅力があります。 改めてそれらを検証していったら、私は先日行ったばかりなのに再び訪れたくなってしまいました。 こうなったからには、マイルールにしている2年縛りを撤廃してしまいましょうか?それに付随して、次回はすいのやの焼きそばやおでんも堪能しておきたいです。

 


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