こんばんは、白黒茶々です。
突然ですけど、皆さんは「関ヶ原」といったら、何を連想されるでしょうか?「関ヶ原鍾乳洞」。確かに、あそこには有名な洞窟がありますね。自称、洞穴愛好家の私も、いつかは行ってみたいと思っていますよ。 お次は……… 「関ヶ原ウォーランド」ですって かなりマニアックというか、通ですね 私はまだ行ったことはないのですけど、そこに一度でも踏み込むと、強烈な構造物がいつまでも脳裏に残り続けるみたいです。 あとは……… 「関ヶ原古戦場」。よくぞ仰いました かつてその地では、歴史を動かすほどの大きな合戦があったのです。
ちなみに、関ヶ原の戦いとは………
慶長3年(1598年)に、天下人だった豊臣秀吉は息子の秀頼を遺して、亡くなりました。その後、彼の重臣の徳川家康と石田三成は対立し、豊臣家の配下の諸将は、家康側の武断派と三成側の文治派に分かれていきました。そして、慶長5年(1600年)に関ヶ原で家康率いる東軍と、三成率いる西軍とが全面対決をしたのでした。 それが世にいう「関ヶ原の戦い」なのです。
私は今まで、三方ヶ原古戦場(静岡県浜松市)、桶狭間古戦場(愛知県豊明市)、長久手古戦場(愛知県長久手市)、姉川古戦場(滋賀県長浜市)、川中島古戦場(長野県長野市)には行ったことはあるのですけど、関ヶ原はまだでした。ただし姉川は、バスの車窓から見ただけでしたけど。 なので、関ヶ原もそのうちにとは思っていました。
それが最近になって、「磯田道史の目からウロコの新事実!郷土の HERO 家康」という静岡のローカル番組で関ヶ原の現地リポートをやっているのを観ているうちに、私の古戦場熱に火がついてしまいました。 嗚呼、関ヶ原へいざ行かん そうと決まったら、日程や移動手段も調整して……… もちろん、箔や波にも付き合ってもらいますよ
そして、スピッツクラブ展覧会から1週間後の今月16日に、その計画は実行されました。今回は私一人で箔と波を率いていきながら、関ヶ原に点在する古戦場の痕跡を廻りたかったので、車に乗っていきました。 まずは、東名高速道路の上郷サービスエリアで一休みしておきましょう。
さらに私は高速道路を西に進んでいき、自宅を出てから2時間半ほどで関ヶ原ICに至りました。
そこは岐阜県不破郡関ヶ原町。関ヶ原古戦場を目当てにしているなら、最初に町の中心地にある関ヶ原町歴史民族資料館で、合戦の全体像をつかんでおきたいのですけど………
まずは、関ヶ原ICから程近いところにある桃配山(ももくばりやま)から見ていくことにしましょう。 ちなみにこちらの小高い丘は、関ヶ原の戦いの際に徳川家康が最初に陣を構えたところです。
672年の壬申(じんしん)の乱で、大海人皇子(だいかいじん……… ではなく、おおあまのみこ、のちの天武天皇)が将兵の士気を高めるために、大量に購入した山桃を全員に配り、見事に勝利したことから、この名前になったそうです。さらに、家康も縁起をかついでこちらに陣を置いたと云われています。
その道路をはさんだ向かい側には、見学者用の駐車場が設けられているので、車でも行きやすいです。
そうしたら、さっそくその山に登っていきますよ 東軍の総大将が布陣するほどの山だから、難攻不落でかなり険しい………
………と思いきや、麓から5分もかからないうちにたどり着いてしまいましたよ。 私たちの視線の先には………
「史蹟 関ヶ原古戦場 徳川家康最初陣地」という立派な石碑が建っていて、古戦場の雰囲気が出ていました。 その傍らには、合戦時に家康が使用したと云われている机石と腰掛石なるものがあったので………
実際に、箔と波に座ってもらいました。 彼らは、総大将の気分を味わうことができたでしょうか?しかし、あとになって考えてみたら、彼らが尻下にしていたのは机のほうでした。 やや低めの腰掛けのほうはその向かいにあるのですけど、実際にそのテーブルセットに着席すると、戦場を背にする格好になってしまうのですよ。
桃配山は、気軽に登山できてしまうところではあるのですけど、そこからは見晴らしがよく、すぐ眼下にはに東海道本線の在来線がひっきりなしに往来する様子を見ることができます。
慶長5年(1600年)9月15日の前日から早朝にかけて、関ヶ原には東軍と西軍の諸将が布陣しました。しかし、その日は朝からあたり一面が濃い霧に覆われていて見通しが悪く、両軍ともなかなか動くことができませんでした。 「戦う気マンマンなのにぃ~、早く晴れろ、霧~ 」
それでも、8時くらいになったら視界が開けてきて、待ってました とばかりに東軍の井伊直政隊が西軍の宇喜多秀家隊に攻撃を仕掛け、戦いの火蓋は切って落とされました。総勢8万4千の西軍に対して、東軍は7万4千人。当初は山や丘などの地形をうまく押さえた西軍が圧倒的に優位でした。
「この展開なら、どっちに付いたらいいものか………」
と迷っていたのは、関ヶ原を一望できる松尾山に陣取った小早川秀秋。彼はいちおう西軍に属していながらも、家康との密約で彼のほうに味方することになっていました。しかし、負けてしまったら元も子もないので、なかなか動くことができませんでした。
不利な戦況に苛立った家康は、陣を戦の中心地の近くに移動させました。 なので、私たちのほうもそちらに移動します。
家康隊が次に布陣したのは、陣場野というところです。そこは見晴らしのいい小高い丘のようなところではない平坦地で、現在は公園となっております。
家康の床几場だったところは、江戸時代になってから神君家康公ゆかりの聖地として整備され、記念碑を石垣で固めたうえに、まわりを土塁で囲ったりもしました。 そしてその両脇には、白い狛犬……… ではなく、スピッツが。
そこは陣が置かれただけではなく、戦のあとに首実験もおこなわれたそうです。 それにしても今からすると、昔の人は生首相手に野蛮なことをしていましたね。
そこで箔はなぜかブンブンをし始めました。 まさか、彼には生首の空中遊泳でも見えたのでしょうか 頼むから、妙なものを呼び寄せるのはやめてくださいよ。 いやただ単に、私が括り付けたリードを外しに来たのを喜んでいただけなのかも知れません。
怖くなったからというワケではないのですけど、いったん陣場野公園から出ます。 そこから程近いところにある田中吉政陣跡を見ながら東のほうに歩いていくと………
先述した関ヶ原町歴史民族資料館に行き着きます。こちらには、関ヶ原の戦い関連の資料だけではなく、臨場感あふれる解説付きの大型ジオラマもあり、合戦の全体の流れをつかむことができます。 また、併設されているミュージアムショップでは、おもに関ヶ原の戦いに関わった戦国武将関連のグッズを買うことができるのですよ。
それだけではありません。その施設の玄関前には、私の好きな書き割りもあるのですよ やはりここは………
箔波ちゃんに装着してもらいましょう まず現れたのは、箔川(はくがわ)家康にございます。彼と全面対決するのは………
石田三波(みつなみ)であります。なんか、いろんな意味でハマっていますね。
しかし、資料館の中にまでは一緒には入れないので、彼らが踏み込めるのはここまでです。 それでもこれまでの史蹟探訪で、彼らはそこそこ疲れていて休みたいモードになっていたこともあって、自ら進んでクレートの中に入っていきました。さらにそいつを車の中にイン そうしたら、彼らが休憩している間に、私は資料館をじっくりと観るとにしましょう。 このようにすれば、お互いにムリすることなく別行動ができるので、食事の際にも応用できますね。………なんて言っていたら、小腹のほうも空いてきたので………
先ほどの資料館から北に7分ほど歩いていったところにある、ココカフェに入ることにしましょう こちらのカフェは関ヶ原の決戦地や石田三成が陣を構えた笹尾山からも近く、そのあたりの歴史に詳しい歴女のお姉さんが切り盛りしているそうです。ちなみに私はそのことを、先述の「磯田道史の目からウロコの新事実!郷土の HERO 家康」で知りました。それから「7分ほど歩いて………」などと書いてしまいましたけど、今回は箔と波のためにも彼らがインした状態の車ごと移動しました。
そのお店は、お姉さん一人でやっていることもあって、入ったら先にメニューを注文して会計を済ませ、水とおしぼりを持って座席につくというセルフ方式になっています。 店内には、甲冑やパネルが飾られていて、さらに古戦場関連のパンフレットなどは、ご自由にお取りください状態となっております。とかなんとかやっているうちに、ほら貝の効果音とともに注文した品が出てきましたよ
石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県彦根市)の跡の近くの専門店から調達した「三成コーヒー」等のドリンク類を午前11時までに注文すれば、トースト、ゆで玉子、ミニサラダなどが付いても同じ値段というモーニングサービスを受けることができます。 これは名古屋モーニングの勢力が及んでいる岐阜県の流れを組むものでしょうか?
それらに私は「陣地ーズケーキ」をチョイスしてみました。 ベイクドチーズケーキに関ヶ原で採れたベリーのジャムをかけ、さらに戦国武将の旗印を差したもので、ネーミングといいそのお味といい、こちらに来たらぜひ食べておきたい逸品です。ちなみにこちらの蝶々の旗指物は、池田輝政のものですね。
それらを食べながら、歴女のお姉さんと戦国武将の話で盛り上がったのかというと……… 遠慮とテレがあって、そのような話はほとんどできませんでした。 それでも、そのお店が「石田三成を大河ドラマの主人公に」という署名を呼び掛けていたり、その他のメニューにも彼関連のものがあることから、歴女のお姉さんは石田三成のファンだと見受けられます。
それからそのお店の窓からは、紅葉で色づき、のぼりの旗がなびいている石田三成の笹尾山……… らしき山が見えていました。 腹ごしらえが済んだらそちら方面を廻ってみることにします。それから私が語ってきた徳川家康は、陣場野に移動してきてからもイライラした状態のままですし。それらの様子については、次回触れさせていただきます。
「なぜココで歴男の正体を伏せるのか!?」と思われた方は、こちらに投票してやってください。
突然ですけど、皆さんは「関ヶ原」といったら、何を連想されるでしょうか?「関ヶ原鍾乳洞」。確かに、あそこには有名な洞窟がありますね。自称、洞穴愛好家の私も、いつかは行ってみたいと思っていますよ。 お次は……… 「関ヶ原ウォーランド」ですって かなりマニアックというか、通ですね 私はまだ行ったことはないのですけど、そこに一度でも踏み込むと、強烈な構造物がいつまでも脳裏に残り続けるみたいです。 あとは……… 「関ヶ原古戦場」。よくぞ仰いました かつてその地では、歴史を動かすほどの大きな合戦があったのです。
ちなみに、関ヶ原の戦いとは………
慶長3年(1598年)に、天下人だった豊臣秀吉は息子の秀頼を遺して、亡くなりました。その後、彼の重臣の徳川家康と石田三成は対立し、豊臣家の配下の諸将は、家康側の武断派と三成側の文治派に分かれていきました。そして、慶長5年(1600年)に関ヶ原で家康率いる東軍と、三成率いる西軍とが全面対決をしたのでした。 それが世にいう「関ヶ原の戦い」なのです。
私は今まで、三方ヶ原古戦場(静岡県浜松市)、桶狭間古戦場(愛知県豊明市)、長久手古戦場(愛知県長久手市)、姉川古戦場(滋賀県長浜市)、川中島古戦場(長野県長野市)には行ったことはあるのですけど、関ヶ原はまだでした。ただし姉川は、バスの車窓から見ただけでしたけど。 なので、関ヶ原もそのうちにとは思っていました。
それが最近になって、「磯田道史の目からウロコの新事実!郷土の HERO 家康」という静岡のローカル番組で関ヶ原の現地リポートをやっているのを観ているうちに、私の古戦場熱に火がついてしまいました。 嗚呼、関ヶ原へいざ行かん そうと決まったら、日程や移動手段も調整して……… もちろん、箔や波にも付き合ってもらいますよ
そして、スピッツクラブ展覧会から1週間後の今月16日に、その計画は実行されました。今回は私一人で箔と波を率いていきながら、関ヶ原に点在する古戦場の痕跡を廻りたかったので、車に乗っていきました。 まずは、東名高速道路の上郷サービスエリアで一休みしておきましょう。
さらに私は高速道路を西に進んでいき、自宅を出てから2時間半ほどで関ヶ原ICに至りました。
そこは岐阜県不破郡関ヶ原町。関ヶ原古戦場を目当てにしているなら、最初に町の中心地にある関ヶ原町歴史民族資料館で、合戦の全体像をつかんでおきたいのですけど………
まずは、関ヶ原ICから程近いところにある桃配山(ももくばりやま)から見ていくことにしましょう。 ちなみにこちらの小高い丘は、関ヶ原の戦いの際に徳川家康が最初に陣を構えたところです。
672年の壬申(じんしん)の乱で、大海人皇子(だいかいじん……… ではなく、おおあまのみこ、のちの天武天皇)が将兵の士気を高めるために、大量に購入した山桃を全員に配り、見事に勝利したことから、この名前になったそうです。さらに、家康も縁起をかついでこちらに陣を置いたと云われています。
その道路をはさんだ向かい側には、見学者用の駐車場が設けられているので、車でも行きやすいです。
そうしたら、さっそくその山に登っていきますよ 東軍の総大将が布陣するほどの山だから、難攻不落でかなり険しい………
………と思いきや、麓から5分もかからないうちにたどり着いてしまいましたよ。 私たちの視線の先には………
「史蹟 関ヶ原古戦場 徳川家康最初陣地」という立派な石碑が建っていて、古戦場の雰囲気が出ていました。 その傍らには、合戦時に家康が使用したと云われている机石と腰掛石なるものがあったので………
実際に、箔と波に座ってもらいました。 彼らは、総大将の気分を味わうことができたでしょうか?しかし、あとになって考えてみたら、彼らが尻下にしていたのは机のほうでした。 やや低めの腰掛けのほうはその向かいにあるのですけど、実際にそのテーブルセットに着席すると、戦場を背にする格好になってしまうのですよ。
桃配山は、気軽に登山できてしまうところではあるのですけど、そこからは見晴らしがよく、すぐ眼下にはに東海道本線の在来線がひっきりなしに往来する様子を見ることができます。
慶長5年(1600年)9月15日の前日から早朝にかけて、関ヶ原には東軍と西軍の諸将が布陣しました。しかし、その日は朝からあたり一面が濃い霧に覆われていて見通しが悪く、両軍ともなかなか動くことができませんでした。 「戦う気マンマンなのにぃ~、早く晴れろ、霧~ 」
それでも、8時くらいになったら視界が開けてきて、待ってました とばかりに東軍の井伊直政隊が西軍の宇喜多秀家隊に攻撃を仕掛け、戦いの火蓋は切って落とされました。総勢8万4千の西軍に対して、東軍は7万4千人。当初は山や丘などの地形をうまく押さえた西軍が圧倒的に優位でした。
「この展開なら、どっちに付いたらいいものか………」
と迷っていたのは、関ヶ原を一望できる松尾山に陣取った小早川秀秋。彼はいちおう西軍に属していながらも、家康との密約で彼のほうに味方することになっていました。しかし、負けてしまったら元も子もないので、なかなか動くことができませんでした。
不利な戦況に苛立った家康は、陣を戦の中心地の近くに移動させました。 なので、私たちのほうもそちらに移動します。
家康隊が次に布陣したのは、陣場野というところです。そこは見晴らしのいい小高い丘のようなところではない平坦地で、現在は公園となっております。
家康の床几場だったところは、江戸時代になってから神君家康公ゆかりの聖地として整備され、記念碑を石垣で固めたうえに、まわりを土塁で囲ったりもしました。 そしてその両脇には、白い狛犬……… ではなく、スピッツが。
そこは陣が置かれただけではなく、戦のあとに首実験もおこなわれたそうです。 それにしても今からすると、昔の人は生首相手に野蛮なことをしていましたね。
そこで箔はなぜかブンブンをし始めました。 まさか、彼には生首の空中遊泳でも見えたのでしょうか 頼むから、妙なものを呼び寄せるのはやめてくださいよ。 いやただ単に、私が括り付けたリードを外しに来たのを喜んでいただけなのかも知れません。
怖くなったからというワケではないのですけど、いったん陣場野公園から出ます。 そこから程近いところにある田中吉政陣跡を見ながら東のほうに歩いていくと………
先述した関ヶ原町歴史民族資料館に行き着きます。こちらには、関ヶ原の戦い関連の資料だけではなく、臨場感あふれる解説付きの大型ジオラマもあり、合戦の全体の流れをつかむことができます。 また、併設されているミュージアムショップでは、おもに関ヶ原の戦いに関わった戦国武将関連のグッズを買うことができるのですよ。
それだけではありません。その施設の玄関前には、私の好きな書き割りもあるのですよ やはりここは………
箔波ちゃんに装着してもらいましょう まず現れたのは、箔川(はくがわ)家康にございます。彼と全面対決するのは………
石田三波(みつなみ)であります。なんか、いろんな意味でハマっていますね。
しかし、資料館の中にまでは一緒には入れないので、彼らが踏み込めるのはここまでです。 それでもこれまでの史蹟探訪で、彼らはそこそこ疲れていて休みたいモードになっていたこともあって、自ら進んでクレートの中に入っていきました。さらにそいつを車の中にイン そうしたら、彼らが休憩している間に、私は資料館をじっくりと観るとにしましょう。 このようにすれば、お互いにムリすることなく別行動ができるので、食事の際にも応用できますね。………なんて言っていたら、小腹のほうも空いてきたので………
先ほどの資料館から北に7分ほど歩いていったところにある、ココカフェに入ることにしましょう こちらのカフェは関ヶ原の決戦地や石田三成が陣を構えた笹尾山からも近く、そのあたりの歴史に詳しい歴女のお姉さんが切り盛りしているそうです。ちなみに私はそのことを、先述の「磯田道史の目からウロコの新事実!郷土の HERO 家康」で知りました。それから「7分ほど歩いて………」などと書いてしまいましたけど、今回は箔と波のためにも彼らがインした状態の車ごと移動しました。
そのお店は、お姉さん一人でやっていることもあって、入ったら先にメニューを注文して会計を済ませ、水とおしぼりを持って座席につくというセルフ方式になっています。 店内には、甲冑やパネルが飾られていて、さらに古戦場関連のパンフレットなどは、ご自由にお取りください状態となっております。とかなんとかやっているうちに、ほら貝の効果音とともに注文した品が出てきましたよ
石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県彦根市)の跡の近くの専門店から調達した「三成コーヒー」等のドリンク類を午前11時までに注文すれば、トースト、ゆで玉子、ミニサラダなどが付いても同じ値段というモーニングサービスを受けることができます。 これは名古屋モーニングの勢力が及んでいる岐阜県の流れを組むものでしょうか?
それらに私は「陣地ーズケーキ」をチョイスしてみました。 ベイクドチーズケーキに関ヶ原で採れたベリーのジャムをかけ、さらに戦国武将の旗印を差したもので、ネーミングといいそのお味といい、こちらに来たらぜひ食べておきたい逸品です。ちなみにこちらの蝶々の旗指物は、池田輝政のものですね。
それらを食べながら、歴女のお姉さんと戦国武将の話で盛り上がったのかというと……… 遠慮とテレがあって、そのような話はほとんどできませんでした。 それでも、そのお店が「石田三成を大河ドラマの主人公に」という署名を呼び掛けていたり、その他のメニューにも彼関連のものがあることから、歴女のお姉さんは石田三成のファンだと見受けられます。
それからそのお店の窓からは、紅葉で色づき、のぼりの旗がなびいている石田三成の笹尾山……… らしき山が見えていました。 腹ごしらえが済んだらそちら方面を廻ってみることにします。それから私が語ってきた徳川家康は、陣場野に移動してきてからもイライラした状態のままですし。それらの様子については、次回触れさせていただきます。
「なぜココで歴男の正体を伏せるのか!?」と思われた方は、こちらに投票してやってください。