波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

逆忠臣蔵(吉良上野介の言い分)

2014-04-19 00:18:58 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
忠臣蔵の話は、あまりに有名ですよね。 その話はこれまでに、映画やドラマだけではなく、歌舞伎や芝居、舞台、ステージなどで演じられてきました。
※後半のあたりは、かなりかぶっているような……… (編集部注)
それでも、おさらいや確認の意味も含めて、今からそのあらすじをできるだけ簡潔に辿らせていただきます。



ときは元禄14年3月14日(1701年4月21日)、ところは江戸城本丸御殿の松の廊下。播州(兵庫県)赤穂の大名の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は、そこで吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)と行き合いました。そこで吉良は浅野に対して、侮辱する言葉を投げ掛けたのでした。 例えば「この、田舎侍 」のような。それに腹をたてた浅野は、抜刀して吉良に斬りかかったのです。 「おやめくだされ浅野殿、殿中でござる 」「いたい、いたい………」その際に吉良は、背中と額を負傷したそうです。 世にいう「松の廊下の刃傷事件」です。当時は、江戸城の御殿内で刃傷沙汰を起こしたら、厳しい処分が下されることになっていました。浅野は即日切腹を言い渡され、世継ぎがいなかったので浅野家は断絶。赤穂の領地も没収され、大石内蔵助良雄を含めた彼の家臣たちは職を失って浪人となってしまいました。
一方、吉良のほうの処分は……… 当時はあらよるところで「喧嘩両成敗」が適用されたのですけど、彼だけはお咎めなしでした。



その処分に、赤穂の浪士たちは黙っていませんでした。「あんなに優しい殿(浅野内匠頭)だったのに……… 殿中で抜刀したらどうなるのか重々承知していたハズだから、よほどのことがあったのだろう 」浅野は吉良からずっと嫌がらせを受け続け、またあるときは陥れられて大恥をかいたそうです。それでついに堪忍袋の緒が切れ、あのような事件を起こしたと、皆は思いました。そうしたら、憎きは吉良上野介でこざる 赤穂浪士たちは浅野内匠頭に忠義を尽くすためにも、吉良を討つという方向に向かっていきました。



しかし筆頭家老だった大石内蔵助は、酒や芸者に入り浸りの生活を続け、のらりくらりとした態度でハッキリしませんでした。 しまいには「この昼行灯(ひるあんどん) 」とまで言われる始末。
ところが、それは「敵を欺くのには、まず味方から」という彼の作戦で、水面下では吉良を討つ計画が着々と進んでいました。 やがて、彼のもとには46士(内蔵助も含めると47人)が集結し、さらに江戸の吉良邸に討ち入るのは、浅野の月命日でもある元禄15年12月14日に決まりました。



そしてその日の夜、雪が積もった江戸の町を進んでいく一つの集団の姿がありました。そうです 赤穂浪士たちです。内蔵助が打ち鳴らす太鼓の音を合図に、彼らは吉良邸の門を打ち破り、屋敷を襲撃 狙うは吉良の首です。しかし、いくら探しても、吉良の姿は見当たりません。もたもたしていたら、夜が明けてしまう。 そうなってしまったら、一巻の終わりだ。一刻も早く吉良を見つけ出せ
もはやこれまでと思われたまさにその時に、屋敷内の炭小屋で吉良を発見 そして彼のお命を頂戴し、討ち入りを果たし、そのことを浅野の墓前に報告しました。



主君に忠義を尽くした赤穂浪士のウワサは江戸中に知れ渡り、彼らは英雄視されました。しかし、それに困ったのは当時の将軍の徳川綱吉。 当時は仇討ちと同じように討ち入りも認められていたのですけど、大石内蔵助たちは討ち入りの届け出をしていなかったのです。それがなかったら、謀反(むほん)ということになり、彼らには厳しい処分を下さなければならなかったのです。とはいっても届け出ていたら、吉良に逃げられてしまいますし。綱吉は、できることなら赤穂浪士を赦したかったのですけど、立場上そうすることはできず、全員に切腹を命じました。
赤穂浪士は生き延びることには執着せず、みんなが腹を切って再び大好きな殿のもとに集まりました。

………ぐしゅっ、書いててつい泣けてきてしまいました。 忠臣蔵は、なんて素晴らしい話なのでしょう。 赤穂浪士の忠誠心には、感動させられます。
いや、今回は吉良のほうをメインにするのでしたね。 そうしたら、まずは彼の人物像から入らせていただきます。

吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は寛永18年(1641年)に、源氏の流れを受け継ぐ名門の家に生まれました。寛文8年(1668年)に、28歳で家督を相続。 旗本(1万石未満の武家)なのですけど、やがて従四位下侍従兼上野介の肩書きというか、位を賜りました。それは、後西天皇の謁見が叶うほどの身分だったのです。また、彼は若い頃は美男子だったとも云われています。



白黒茶々家は今月の初旬に、吉良の領地だった愛知県西尾市の吉良地区を訪れました。 そこには黄金堤(こがねづつみ)という堤防が残されていて………



その時季にはそこの桜が満開となっていて、たくさんの花見客で賑わっていました。

昔、この地域はしばしば洪水が起こり、その度に農作物に被害が及んでいました。 そこで吉良はこの場所に堤防を造ることにしたのですけど、隣国の西尾藩はそのことに猛反対。それでも彼は粘り強く説き伏せ、なんとか堤防の工事にこぎ着けることができました。そんな彼のもとに、領内の老若男女が集結し、たった一晩でこの堤防を完成させたと云われています。



のちにこの堤防が黄金堤と呼ばれるようになったのは、領民の吉良に対する思慕の念からでしょう。 地元では、現在でも彼のことを親しみを込めて「吉良さん」と呼んでいます。



その領地を、吉良さんはしばしば赤馬に乗って視察していたそうです。 その銅像が、黄金堤のもとにあります。



その際に彼は、白い犬も連れていたそうです。白くてふわふわの犬は、領内でも大人気に。 「吉良さん、それはなんという犬でしょうか?」「うむ、須比津の箔千代と申す」なんて会話も交わされて………
なんて、このくだりはウソです。 それにしても、吉良さんの像がやや小さめだからでしょうか?箔千代、いや、箔が巨大に見えます。



吉良さんは、領内では黄金堤の他に治水事業や新田開拓にも携わり、人柄もいいことから名君とされていました。銅像のお顔も、穏やかで優しそうですね。そんな彼が、本当に浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)を罵倒したり陥れたりしたのでしょうか?

浅野は気が短く、キレやすい性格だったとも云われています。殿中での礼儀作法もわきまえてなくて、田舎者まる出し。本当に困ったモンです。そんな彼に、吉良さんは親切丁寧に指導しようとしたのかも知れません。ところが「儂に意見するとは何事か 」あろうことか、浅野はそこが江戸城の本丸御殿内であるにも関わらず、抜刀して吉良さんに斬りかかったのです。 それに対するお上からの処分は、公平だったということに。

しかし、吉良さんは赤穂浪士たちに逆恨みされ、命を脅かされることに。 そして元禄15年12月14……… いや、日付をまたいでいるので、正確には15日。いやいや、そもそもその日は旧暦なので、1703年1月31日に赤穂浪士たちに襲撃され、命を落としてしまいました。それだけではなく、悪人の汚名も着せられたまま、今に至ります。

今回は、タブーとされてきた吉良さん目線からも、忠臣蔵の一件を語ってみました。今まではその逸話は浅野側から語られてきましたけど、角度を変えて見るとガラリと変わりますね。しかし、それは忠臣蔵の美談を否定することにもつながるので、ちょっと勇気が要りました。 とはいえ、この他にも吉良さんをメインにした忠臣蔵事件簿は実在するみたいです。歴史は生身の人間が語るモノなので、あらゆる角度から見たほうが真実に近づけると思います。


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コメント (10)
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