こんばんは、白黒茶々です。
箔日記のネタは詩歌や俳句、武道、天文学など、様々な分野に及んでいるのですけど………
※今のところ、それらの分野には手を出していませんよ。(編集部注)
このあたりで、しばらく触れていなかったネタをやってみようと思います。 そこで「何かリクエストはない?」と、箔母さんに聞いてみたところ、「猫ネタやって~ 」という返事がありました。猫ネタですか……… そういえば、しばらく黒・銀・京の出番がありませんでしたね。 最近の彼女らというと……… ストーブの前やこたつの中で寝てばかりいるような……… いやいや、それでお仕舞いではあんまりなので、ここは現在取材交渉中ということで、またの機会に触れさせていただきます。
そうしたら、今回は久しぶり……… ではないのですけど、歴史ネタをやってみようと思います。 ただし、お城ではないほうなので、カテゴリーは「お出かけ」扱いとさせていただきます。そうしたら皆さん、私がご案内致しますので、ずいずいと付いてきてくださいませ~
そのような流れで、私と箔は浜松城公園にやって来ました。いうまでもなく、こちらは浜松城跡の主要部とその周辺一帯を公園にしたところで、現在は市民の憩いの場となっています。 今からここを起点にして、今回の話の舞台となるところに行かなければならないのですけど………
浜松城のほうでどうしても気になるところがあるので、ちょっと寄り道してもよろしいでしょうか? と言いつつも、すでにそちらのほうに足が向いているのですけど。
その浜松城では、模擬天守のある天守曲輪の正面入口で天守門の復元工事がおこなわれ、今月中には完成する予定です。 2月中旬の取材時の段階では、まわりが工事用の壁で囲まれてはいるものの、外観はすでに仕上がっていました。 そうしたら、さらに近付いてみますね。
浜松城の天守は、江戸時代初期にはすでに失われていたので、こちらの天守門が城内で最も目立っていたと思われます。 いや現在では、模擬天守の前に立ち塞がる形となっていますよ。それでも、かつての姿や工法に則って復元されたので、浜松城では初めてマトモな城郭建築ができたということになります。 また、資材には地元産の天竜杉が使われているので、この門を潜ったら、新築の木の香りがすることでしょう。
………って気付いたら、すっかり浜松城にのめり込んでしまいました。 これから本題に入るので、どうか懲りずにお付き合いくださいませ。
浜松城公園から北西のほうに歩いていくと、レンガで造られた亀山トンネルが見えてきます。
かつて浜松には、奥山線という軽便鉄道が走っていて、こちらのトンネルはその軌道となっていました。 軽便とは、写真に見られるようなミニSLのことで、のちに電化されたのに伴って、ミニ列車に変わったりしました。ちなみにその路線は遠鉄浜松(現在のクリエイト浜松付近)から奥山(奥山高原の麓)まででした。その列車には、私の両親も乗ったことがあるのですけど、交通の主力が自動車に移っていったこともあって、昭和39年(1964年)に廃線となってしまいました。
そうしたら、箔と一緒にその亀山トンネルをくぐっていきます。 それにしても、高さはあるのですけど、横幅はけっこう狭いですね。 このようなところに、よく列車が通っていたなぁ~と思いつつ歩いていったら………
トンネルを抜けたら、そこは雪国……… って、浜松はこの冬は雪は降っていません。 とにかく、出口なのですよ。
そして、このあたりが軽便の広沢駅の跡となります。そこからも遊歩道が続いていて、さらに1キロほど北に向かっていくと………
犀ヶ崖(さいががけ)というところにたどり着きます。実はこちらも、かつて古戦場だったところなのですよ。元亀3年(1573年)、甲斐の武田信玄は西に進撃してきて、浜松城の支城の只来城、二俣城などを次々と落としていき、徳川家康のいる浜松城に迫っていました。その軍勢は、2万7千人とも云われています。しかし、そこを素通りするような経路を取ったので、家康は織田の援軍を加えた1万1千の軍で討って出ることにしました。そのようにして、三方ヶ原の戦いは始まりました。 しかし、徳川軍は完膚なきまで叩きのめされ、家康は命からがら浜松城に逃げ込みました。 地元には、その敗走の途中で彼がお粥をごちそうになったとか、小豆餅を食い逃げしたとか、恐怖のあまり脱糞したとか、様々な伝説があります。
話は現代に戻って、犀ヶ崖は崖というだけあって、現在でもかなり深く切り立った断崖となっております。 ちなみにその高さは13m。しかし家康の時代には、その7倍ほどの深さがあったそうです。
また犀ヶ崖の近くには、敗走中に家康の身代わりとなって討死した、夏目吉信の顕彰碑もあります。 この付近で彼は、迫りくる武田勢の前に立ちふさがり、命を落としたと云われています。
さて、浜松城に戻ってからの家康ですけど、のちの教訓にするために惨敗直後の惨めな姿を絵師に描かせたり、かがり火をガンガン焚いて城門を開け放ち、味方兵を迎え入れたりしました。そのあまりの大胆な行為に、武田軍は「これはワナに違いないから、深入りして攻めたりしないほうがいい」と警戒したそうです。
その武田勢はその後、犀ヶ崖付近に夜営していました。 そのような状況の中で、家康はせめて一矢を報いようと、ある作戦を立てたのです。その秘技とは………
漆黒の闇に沈んだ犀ヶ崖に布をかけて、橋のように見せかけておいてから、武田軍を急襲したのです。 土地勘のない彼らは次々と崖から転落し、多くの死者を出したそうです。このようにして、三方ヶ原の戦いは終わりました。
犀ヶ崖には、「岩角に 鎧くだけて 椿かな」という、江戸時代中期の俳人・大島廖太の句碑も建てられています。 その周辺には椿が群生しているのですけど、その句からは鎧武者が岩にぶつかり、血を流しながら転落していく姿も想像させられます。
その後、浜松に平穏な空気が戻ると思いきや、三方ヶ原の戦いの翌々年あたりから、夜更けになると犀ヶ崖の谷底から人や馬のうめき声が聞こえるようになりました。 それだけではなく、その付近でケガ人が続出したり、イナゴの大群が発生して、農作物に多大な被害をもたらすようになりました。人々は、これらは犀ヶ崖の戦死者のたたりと怖れることに。
「これはイカン 」と家康は、犀ヶ崖の上に戦死者を祀るための宗円堂を建立し、三河から僧侶を招き、七日七晩鉦と太鼓を鳴らして供養しました。そうしたら、たたりは鎮まったそうです。
その念仏躍りが発展したものが、この地方に今に伝わる遠州大念仏です。その遠州大念仏は、初盆の家などによく招かれたりしています。
現在の宗円堂は、大正~昭和初期に再建されたものです。 その建物は昭和57年(1982年)にリフォームされ………
なんということでしょう 内部は三方ヶ原の戦いや遠州大念仏の資料を展示した、犀ヶ崖資料館となったではありませんか。 ちなみに入場料は無料で、さらに管理人のおいちゃんが親切丁寧に説明してくださいました。
またそこには、昨秋の全国ゆるキャラグランプリで優勝を逃し、一時的に「出家大名」となった家康くんも修行に来たみたいです。
宗円堂こと犀ヶ崖資料館は、地元民にも愛されている施設なのですけど、近年になって屋根が歪むなど老朽化が目立つようになってきました。そういうこともあって、今月いっぱいで閉鎖されることになってしまいました。それに加えて、来年には取り壊されるというのですよ。 そのことに対して、市民から「展示施設を残してほしい」という声があがるようになり、市のほうは宗円堂の隣接地に、代替えの施設を建設することにしました。しかし、それにはちょっとした懸念材料が………
新しい犀ヶ崖資料館が完成するのは一年後の予定なのですけど、それでも現在の資料館は今月いっぱいで閉鎖されるというのです。 その間、空白時間が生じるということに。それだけではなく、新資料館は当初は小規模なプレハブ造りにするようなことも言われていたのですよ。その後の計画変更で、多少はグレードアップしてくれるのでしょうか?
そういうこともあって、今回私たちは久しぶりに犀ヶ崖を訪れたのでした。そのときには気付かなかったのですけど、宗円堂の梁には、太平洋戦争中に艦砲射撃で海岸から撃ち込まれた砲弾の傷跡が残っているそうです。その建物を見るのは今回が最後となりそうですけど、その後犀ヶ崖がどのように整備されるか見逃せませんね。 宗円堂の犀ヶ崖資料館は今月いっぱいまで公開されているので、気になる方がいましたら、早いうちにお駆け込みくださいませ。
衝動的に小豆餅が食べたくなった方は、こちらに投票してやってください。
箔日記のネタは詩歌や俳句、武道、天文学など、様々な分野に及んでいるのですけど………
※今のところ、それらの分野には手を出していませんよ。(編集部注)
このあたりで、しばらく触れていなかったネタをやってみようと思います。 そこで「何かリクエストはない?」と、箔母さんに聞いてみたところ、「猫ネタやって~ 」という返事がありました。猫ネタですか……… そういえば、しばらく黒・銀・京の出番がありませんでしたね。 最近の彼女らというと……… ストーブの前やこたつの中で寝てばかりいるような……… いやいや、それでお仕舞いではあんまりなので、ここは現在取材交渉中ということで、またの機会に触れさせていただきます。
そうしたら、今回は久しぶり……… ではないのですけど、歴史ネタをやってみようと思います。 ただし、お城ではないほうなので、カテゴリーは「お出かけ」扱いとさせていただきます。そうしたら皆さん、私がご案内致しますので、ずいずいと付いてきてくださいませ~
そのような流れで、私と箔は浜松城公園にやって来ました。いうまでもなく、こちらは浜松城跡の主要部とその周辺一帯を公園にしたところで、現在は市民の憩いの場となっています。 今からここを起点にして、今回の話の舞台となるところに行かなければならないのですけど………
浜松城のほうでどうしても気になるところがあるので、ちょっと寄り道してもよろしいでしょうか? と言いつつも、すでにそちらのほうに足が向いているのですけど。
その浜松城では、模擬天守のある天守曲輪の正面入口で天守門の復元工事がおこなわれ、今月中には完成する予定です。 2月中旬の取材時の段階では、まわりが工事用の壁で囲まれてはいるものの、外観はすでに仕上がっていました。 そうしたら、さらに近付いてみますね。
浜松城の天守は、江戸時代初期にはすでに失われていたので、こちらの天守門が城内で最も目立っていたと思われます。 いや現在では、模擬天守の前に立ち塞がる形となっていますよ。それでも、かつての姿や工法に則って復元されたので、浜松城では初めてマトモな城郭建築ができたということになります。 また、資材には地元産の天竜杉が使われているので、この門を潜ったら、新築の木の香りがすることでしょう。
………って気付いたら、すっかり浜松城にのめり込んでしまいました。 これから本題に入るので、どうか懲りずにお付き合いくださいませ。
浜松城公園から北西のほうに歩いていくと、レンガで造られた亀山トンネルが見えてきます。
かつて浜松には、奥山線という軽便鉄道が走っていて、こちらのトンネルはその軌道となっていました。 軽便とは、写真に見られるようなミニSLのことで、のちに電化されたのに伴って、ミニ列車に変わったりしました。ちなみにその路線は遠鉄浜松(現在のクリエイト浜松付近)から奥山(奥山高原の麓)まででした。その列車には、私の両親も乗ったことがあるのですけど、交通の主力が自動車に移っていったこともあって、昭和39年(1964年)に廃線となってしまいました。
そうしたら、箔と一緒にその亀山トンネルをくぐっていきます。 それにしても、高さはあるのですけど、横幅はけっこう狭いですね。 このようなところに、よく列車が通っていたなぁ~と思いつつ歩いていったら………
トンネルを抜けたら、そこは雪国……… って、浜松はこの冬は雪は降っていません。 とにかく、出口なのですよ。
そして、このあたりが軽便の広沢駅の跡となります。そこからも遊歩道が続いていて、さらに1キロほど北に向かっていくと………
犀ヶ崖(さいががけ)というところにたどり着きます。実はこちらも、かつて古戦場だったところなのですよ。元亀3年(1573年)、甲斐の武田信玄は西に進撃してきて、浜松城の支城の只来城、二俣城などを次々と落としていき、徳川家康のいる浜松城に迫っていました。その軍勢は、2万7千人とも云われています。しかし、そこを素通りするような経路を取ったので、家康は織田の援軍を加えた1万1千の軍で討って出ることにしました。そのようにして、三方ヶ原の戦いは始まりました。 しかし、徳川軍は完膚なきまで叩きのめされ、家康は命からがら浜松城に逃げ込みました。 地元には、その敗走の途中で彼がお粥をごちそうになったとか、小豆餅を食い逃げしたとか、恐怖のあまり脱糞したとか、様々な伝説があります。
話は現代に戻って、犀ヶ崖は崖というだけあって、現在でもかなり深く切り立った断崖となっております。 ちなみにその高さは13m。しかし家康の時代には、その7倍ほどの深さがあったそうです。
また犀ヶ崖の近くには、敗走中に家康の身代わりとなって討死した、夏目吉信の顕彰碑もあります。 この付近で彼は、迫りくる武田勢の前に立ちふさがり、命を落としたと云われています。
さて、浜松城に戻ってからの家康ですけど、のちの教訓にするために惨敗直後の惨めな姿を絵師に描かせたり、かがり火をガンガン焚いて城門を開け放ち、味方兵を迎え入れたりしました。そのあまりの大胆な行為に、武田軍は「これはワナに違いないから、深入りして攻めたりしないほうがいい」と警戒したそうです。
その武田勢はその後、犀ヶ崖付近に夜営していました。 そのような状況の中で、家康はせめて一矢を報いようと、ある作戦を立てたのです。その秘技とは………
漆黒の闇に沈んだ犀ヶ崖に布をかけて、橋のように見せかけておいてから、武田軍を急襲したのです。 土地勘のない彼らは次々と崖から転落し、多くの死者を出したそうです。このようにして、三方ヶ原の戦いは終わりました。
犀ヶ崖には、「岩角に 鎧くだけて 椿かな」という、江戸時代中期の俳人・大島廖太の句碑も建てられています。 その周辺には椿が群生しているのですけど、その句からは鎧武者が岩にぶつかり、血を流しながら転落していく姿も想像させられます。
その後、浜松に平穏な空気が戻ると思いきや、三方ヶ原の戦いの翌々年あたりから、夜更けになると犀ヶ崖の谷底から人や馬のうめき声が聞こえるようになりました。 それだけではなく、その付近でケガ人が続出したり、イナゴの大群が発生して、農作物に多大な被害をもたらすようになりました。人々は、これらは犀ヶ崖の戦死者のたたりと怖れることに。
「これはイカン 」と家康は、犀ヶ崖の上に戦死者を祀るための宗円堂を建立し、三河から僧侶を招き、七日七晩鉦と太鼓を鳴らして供養しました。そうしたら、たたりは鎮まったそうです。
その念仏躍りが発展したものが、この地方に今に伝わる遠州大念仏です。その遠州大念仏は、初盆の家などによく招かれたりしています。
現在の宗円堂は、大正~昭和初期に再建されたものです。 その建物は昭和57年(1982年)にリフォームされ………
なんということでしょう 内部は三方ヶ原の戦いや遠州大念仏の資料を展示した、犀ヶ崖資料館となったではありませんか。 ちなみに入場料は無料で、さらに管理人のおいちゃんが親切丁寧に説明してくださいました。
またそこには、昨秋の全国ゆるキャラグランプリで優勝を逃し、一時的に「出家大名」となった家康くんも修行に来たみたいです。
宗円堂こと犀ヶ崖資料館は、地元民にも愛されている施設なのですけど、近年になって屋根が歪むなど老朽化が目立つようになってきました。そういうこともあって、今月いっぱいで閉鎖されることになってしまいました。それに加えて、来年には取り壊されるというのですよ。 そのことに対して、市民から「展示施設を残してほしい」という声があがるようになり、市のほうは宗円堂の隣接地に、代替えの施設を建設することにしました。しかし、それにはちょっとした懸念材料が………
新しい犀ヶ崖資料館が完成するのは一年後の予定なのですけど、それでも現在の資料館は今月いっぱいで閉鎖されるというのです。 その間、空白時間が生じるということに。それだけではなく、新資料館は当初は小規模なプレハブ造りにするようなことも言われていたのですよ。その後の計画変更で、多少はグレードアップしてくれるのでしょうか?
そういうこともあって、今回私たちは久しぶりに犀ヶ崖を訪れたのでした。そのときには気付かなかったのですけど、宗円堂の梁には、太平洋戦争中に艦砲射撃で海岸から撃ち込まれた砲弾の傷跡が残っているそうです。その建物を見るのは今回が最後となりそうですけど、その後犀ヶ崖がどのように整備されるか見逃せませんね。 宗円堂の犀ヶ崖資料館は今月いっぱいまで公開されているので、気になる方がいましたら、早いうちにお駆け込みくださいませ。
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