こんばんは、白黒茶々です。
最近の私は展覧会やチロルに恵まれ、箔日記のネタに事欠くことがないのですけど、バランスを保つためにも、しばらく扱ってなかったようなテーマに挑戦してみようと思います。
改めて眺めてみて、カテゴリーの中で回数が少ないものは……… やはり「人物伝」でしょうか。 しかし私がやるだけあって、地元の遠州三河地方にゆかりがあるか、徳川家康関連の人物になってしまうことが多々あるような………
ちなみにこれから出てくる人物も、一応その流れをくんでいます。そのような感じで、今回は家康の側室の西郷の局を採り上げてみようと思います。
西郷の局ことお愛の方は、天文21年(1552年)に西郷村の西郷氏のもとに生まれました。 若くして嫁いだ夫にはすぐに先立たれたのですが、再婚した西郷義勝の間に一男一女をもうけます。それにしても、ここまで「西郷」だらけですね。
しかし、その義勝もすぐに討ち死にしてしまいます。
その後、彼女は伯父の西郷清員の養女となり、浜松城の奥勤めをしているときに家康の側室に望まれます。 その時、彼女は27歳。その翌年にはのちに徳川幕府の二代将軍となる三男秀忠を、さらに翌々年には四男忠吉を出産します。また、浜松在城時代の家康は長篠、小牧・長久手などの合戦に明け暮れ、その苦しい台所をお愛は見事に切り盛りし、家康を陰ながら支えてきました。
浜松市の遠鉄遠州病院前駅の近くには、秀忠誕生井戸というモニュメントっぽいものが造られています。 秀忠が生まれたのは、このあたりでしょうか。
その後お愛の方は、天下人となった家康とともに駿府(静岡市)に移り住むのですけど………
静岡駅からほど近いところに、宝台院という寺院があります。 ちなみにこちらの写真は、以前にも箔日記で触れたことのある、珍百景なお寺の応声教院の山門で、大正時代に宝台院から移築されてきました。
一方、静岡市にある宝台院のほうは、昭和15年の静岡大火で全焼してしまい、現在はこのような近代的な建物となっております。 なので先術の山門は、かつての宝台院の面影を伝える貴重な遺構ということになります。
その宝台院の境内には………
お愛の方の廟所があります。彼女は新天地の駿府に移り住んでから間もなくの天正17年(1589年)に38歳の若さでこの世を去りました。
お愛の方は、美人で温和誠実な人柄で、周囲の家臣や侍女たちにも好かれていました。 また、そんな彼女のことを、家康は最も寵愛していたそうです。また彼女は、強度の近眼ということもあって、盲目の女性などの生活を保護したりもしました。
しかしその一方では、築山殿に仕えていた侍女の殺害、毒殺説もあります。
また、この宝台院は徳川慶喜公謹慎之地にもなり、その史実を示す石碑が建てられています。
すでにお気付きの方もいると思いますけど、今回の私の歴史探訪の写真には、箔がちらほら写っていますね。 私が彼を連れてきたのには、実はもう一つの理由があるのです。 静岡駅前の竹千代君の見送りを受けたあと、私たちはさらに列車を乗り継ぎ………
「あれっ、ない、ないっ 」自宅を出たのが4時半頃なので、途中お腹が空くだろうと思い、前もって朝ごはん②を用意してきたのですけど、先ほどの竹千代君の近くで荷物の整理をしている時に、外に出したまま置き忘れてきてしまったみたいです。 誰か、私の代わりに食べちゃってください。
そのあと、熱海駅前の足湯も堪能しました。 今回はゆったりと浸かれるほど、余裕があったのですよ。
そこから先も列車を乗り継ぎ、向かった先は………
北鎌倉駅です。 この日私たちは、その地域でおこなわれるHALママさん主催の湘南オフ会に初めて参加することになっていました。 遠くのほうには、そのお仲間らしき人やワンコたちが集まっているのが見えてきましたよ。「みなさん、こんにちは~ 」
なお、気になる湘南オフの内容については、次回触れさせていただきます。
「前置きが長~い!」と思われた方は、こちらに投票してやってください。
最近の私は展覧会やチロルに恵まれ、箔日記のネタに事欠くことがないのですけど、バランスを保つためにも、しばらく扱ってなかったようなテーマに挑戦してみようと思います。
改めて眺めてみて、カテゴリーの中で回数が少ないものは……… やはり「人物伝」でしょうか。 しかし私がやるだけあって、地元の遠州三河地方にゆかりがあるか、徳川家康関連の人物になってしまうことが多々あるような………
ちなみにこれから出てくる人物も、一応その流れをくんでいます。そのような感じで、今回は家康の側室の西郷の局を採り上げてみようと思います。
西郷の局ことお愛の方は、天文21年(1552年)に西郷村の西郷氏のもとに生まれました。 若くして嫁いだ夫にはすぐに先立たれたのですが、再婚した西郷義勝の間に一男一女をもうけます。それにしても、ここまで「西郷」だらけですね。
しかし、その義勝もすぐに討ち死にしてしまいます。
その後、彼女は伯父の西郷清員の養女となり、浜松城の奥勤めをしているときに家康の側室に望まれます。 その時、彼女は27歳。その翌年にはのちに徳川幕府の二代将軍となる三男秀忠を、さらに翌々年には四男忠吉を出産します。また、浜松在城時代の家康は長篠、小牧・長久手などの合戦に明け暮れ、その苦しい台所をお愛は見事に切り盛りし、家康を陰ながら支えてきました。
浜松市の遠鉄遠州病院前駅の近くには、秀忠誕生井戸というモニュメントっぽいものが造られています。 秀忠が生まれたのは、このあたりでしょうか。
その後お愛の方は、天下人となった家康とともに駿府(静岡市)に移り住むのですけど………
静岡駅からほど近いところに、宝台院という寺院があります。 ちなみにこちらの写真は、以前にも箔日記で触れたことのある、珍百景なお寺の応声教院の山門で、大正時代に宝台院から移築されてきました。
一方、静岡市にある宝台院のほうは、昭和15年の静岡大火で全焼してしまい、現在はこのような近代的な建物となっております。 なので先術の山門は、かつての宝台院の面影を伝える貴重な遺構ということになります。
その宝台院の境内には………
お愛の方の廟所があります。彼女は新天地の駿府に移り住んでから間もなくの天正17年(1589年)に38歳の若さでこの世を去りました。
お愛の方は、美人で温和誠実な人柄で、周囲の家臣や侍女たちにも好かれていました。 また、そんな彼女のことを、家康は最も寵愛していたそうです。また彼女は、強度の近眼ということもあって、盲目の女性などの生活を保護したりもしました。
しかしその一方では、築山殿に仕えていた侍女の殺害、毒殺説もあります。
また、この宝台院は徳川慶喜公謹慎之地にもなり、その史実を示す石碑が建てられています。
すでにお気付きの方もいると思いますけど、今回の私の歴史探訪の写真には、箔がちらほら写っていますね。 私が彼を連れてきたのには、実はもう一つの理由があるのです。 静岡駅前の竹千代君の見送りを受けたあと、私たちはさらに列車を乗り継ぎ………
「あれっ、ない、ないっ 」自宅を出たのが4時半頃なので、途中お腹が空くだろうと思い、前もって朝ごはん②を用意してきたのですけど、先ほどの竹千代君の近くで荷物の整理をしている時に、外に出したまま置き忘れてきてしまったみたいです。 誰か、私の代わりに食べちゃってください。
そのあと、熱海駅前の足湯も堪能しました。 今回はゆったりと浸かれるほど、余裕があったのですよ。
そこから先も列車を乗り継ぎ、向かった先は………
北鎌倉駅です。 この日私たちは、その地域でおこなわれるHALママさん主催の湘南オフ会に初めて参加することになっていました。 遠くのほうには、そのお仲間らしき人やワンコたちが集まっているのが見えてきましたよ。「みなさん、こんにちは~ 」
なお、気になる湘南オフの内容については、次回触れさせていただきます。
「前置きが長~い!」と思われた方は、こちらに投票してやってください。