波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

検証・列車での大移動

2020-11-14 01:26:08 | 探求シリーズ

こんばんは、白黒茶々です。

今年も早いもので、気付いたら残すところ2ヶ月を切っているのですけど、皆さんはやり残したことはないでしょうか? とはいってもコロナ禍の影響で、できなかったことが多々あることと思います。そういう私は、野球観戦全般だけではなく、映画鑑賞、夏の列車旅、………など、波狛日記のカテゴリーの項目となっているものも多数含まれています。
そのような状況の中で、日本スピッツ協会の展覧会(以下、スピ協展)が約1年ぶりに開催されることになりました。

スピ協展とは……… 文字通り日本スピッツ協会主催の展覧会で、毎年春と秋に東京都江戸川区の新左近川親水公園というところでおこなわれています。 私にとっては、横浜で開催されていた日本スピッツクラブの展覧会のほうが地理的に行きやすかったので、そちらのほうに重心を置いていました。しかし、スピクラ展のほうは2年前に終了してしまいました。 そういうこともあって、今度はスピ協展のほうに行く機会を狙っていました。

話せば長くなるのですけど、なんとか箔母さんからスピ協展行きの許可を得ることができました。 それを機に、その具体的な計画作りに取り掛かる段階に入ることに。の両方を連れていきたかったら、車で高速道路を走っていくのが真っ当な手段なのですけど……… 今まで首都圏を運転したことがなくて、不案内な上に危険も伴うので、私の中では、時間的にも予算的にも長距離の移動は鉄道を利用したほうがいいという流れとなりました。

「ワンコを連れて列車で?」と思われた方もいると思うので、改めて説明させていただきます。 スピッツぐらいの大きさのワンコなら、専用のキャリーに入れれば、一緒に列車に乗ることができるのですよ。 ただし、その際には手回り品切符(290円)が必要となるので、駅の窓口でご購入くださいませ。
私は過去に何回もウイズワンコ乗車をしてきたのですけど、体力的にも1人で持てるキャリー in ワンコは1コが限界でした。 なので、箔波の頃からどちらか1頭を連れていき、もう1頭は家で留守番というのが定番となっていました。

しかし、今回はコロナの感染リスクを避けるために、極力乗り換えの回数と寄り道を減らすようにします。 そうしたら、波と狛の2頭とも連れていけないでしょうか? いや、彼女らは9kgほどのちょい重スピで、キャリーも含めた重量はかなりのものとなり、それが2倍にもなったら、私が耐えられるでしょうか? う~む……… あれこれ考えるだけではわからないので………

スピ協展の4日前となる平日の夜に、波と狛を伴って駅にやって来ました ちなみにこちらは、家から最寄りの新○○駅にございます。 果たして、1人で2スピを抱えて難なくその構内を移動できるのでしょうか?今から実際に駅の中を歩いて、検証してみます。 まずは彼女らに列車用のキャリーに入ってもらって、改札口を通り………

ちなみに白キャリーには波、黒キャリーには狛がそれぞれ入っています。 それから、白キャリーの底にはコロが付いているので、引きずって移動することもできます。黒キャリーのほうのコロは着脱式となっているのですけど、安定感とズッシリ感を見るために、無しモードにしておきました。
次に、エレベーターにスムーズに乗り込むことができるかやってみました。 これは難なくできたので、次の試練、いや、段階に入ります。

エレベーターと橋上の通路を使って、線路の向こうのホームまで来ました。 そうしたら、今度はそのホームの端から端まで横移動してみます。

こちらも無事にクリアできました。 さらに、ちょうどホームに入ってきた列車での乗車体験もしてみたいところなのですけど、検証はここで終わりにします。いや、用意した項目にはないのですけど、あともう1つ。 波狛キャリーを抱えたまま、階段を上り降りできるかどうかもやっておきましょう。 その結果………
2頭とも東京のスピ協展に連れて行けるという結論に至りました 今回の上下左右運動で、ちょっと腰の具合が怪しくなったのですけど、本番までには治しますし、そこに負担がかからない所作も学習しました。 あとは、せっかくこちら方面に来たので、新居関所の夜景を見ていくことにしましょう。 全国で唯一現存する関所建築の面番所は、いい感じでライトアップされている………

………と思いきや、漆黒の闇の中に沈んでいました。

それでも、近年復元された高札や………

大御門は、照明によっていい感じに浮かび上がっていました。 こちらの門は国道の歩道を跨ぐ形で建てられている上に黒塗りなので、歩行者や自転車がぶつからないようにこのようにしているのかも知れません。
週間天気予報では、スピ協展の日は雨っぽいのですけど、私は検証の翌日に列車の切符を買って、退路を断ちました。 この勢いは、もう止められません。 展覧会は雨の場合でも、地下駐車場を使っておこなわれるのですけど、できることなら広い空の下がいいですよね。その当日に、強力な晴れ男や晴れ女が現れ、天気予報が覆ることを願っています。



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塩郷の吊り橋での思惑

2020-08-12 02:55:28 | 探求シリーズ

こんばんは、白黒茶々です。

前回から、私はとともに静岡県の大井川沿いの川根路を訪れています。 目的のメインは時期限定で運行しているきかんしゃトーマス号なのですけど、それを見ただけで帰るのもナンだったので、その方面に行ったらハズせない場所にも寄っていくことにしました。 それはどこかといいますと、すでに今回の日記のタイトルに出ているのですけど………

そうです 塩郷の吊り橋であります。 大井川と線路と民家をまたいでいて、長さは220mほどです。

この橋は正式名は「久野脇橋」というのですけど、「恋金橋」という呼び名もあるそうです。 若い(?)男女がスリル満点の吊り橋を渡れば、吊り橋効果で恋が燃え上がること間違いナシ ってトコでしょうか? 今回は連れてこなかったのですけど、箔母さんは高くて不安定なところでも平気で、1人でスタスタ行ってしまうので、彼女には吊り橋効果は通用しません。

その吊り橋には、私たち以外にも家族連れなどが来ていました。 お父さんは平気という前提なのですけど、ほとんどのお母さんは嫌がって、すぐのところで引き返していました。 ところが、幼稚園児くらいの幼子は、1人でもグイグイと行ってしまって、まわりを驚かせていました。そんな彼に、私は下から拍手を送りました。

その一方で、波はどちらかというとこのようなところはニガテなのですけど、前を行く者がいれば付いてきます。 狛はというと……… 昨年に初めて連れてきた際には、恐がって動けなかったので、私が「大丈夫だから」と励ましつつ、一歩ずつでも進むように促していったら、なんとか渡り切ることができたのでした。
とはいっても、あの時はちょっと強引だったかも知れません。なので、今回は無理強いはしないで、少しでも躊躇する様子が見られたら、諦めるようにします。 あれから1年経ったので、狛に変化があるかも知れないのですけど、果たして………

なんと、平然と渡り出したではありませんか

前日までの雨で大井川は増水したうえに、流れが激しくなっているというのに。 川床までの高さは11mもあるそうですけど、それより近いようでかえってスリルが増していますよ。

一方の波は、仕方なく付いてきているといった感じですね。 ちなみにデコの汚れはケージをスリスリした際に付いたものなので、染み付いてしまってなかなか落ちません。
川の急な流れのおかげで私は錯覚を起こし、歩いているのに前に進まず、橋のほうがルームランナーのように動いているように感じてしまいました。 明らかに昨年よりは難易度が上がっているのに、それでも動じることなく先頭を行くなんて……… 狛さん、アンタはスゴいヤツです

そのような感じで、スムーズに渡り切ることができました。 明治時代に廃藩置県が施行され、紆余曲折を経て静岡県となるまで、大井川を隔てた東側は駿河(するが)、西側は遠江(とおとうみ)でした。 なので、私たちは自分の足で旧国境を越えた(渡った?)ことになります。それよりも、皆さんが「恋がねの鐘」なる案内看板が気になるご様子なので、今からそちらに向かいます。

その鐘は、吊り橋からの坂道をちょっと上がったところにあります。

せっかくなので、皆さんの恋愛が成就することを願い、私が代行して鳴らさせていただきます。  カンカンカン………
こんな感じでよろしいでしょうか?

吊り橋を渡ったら、やはり同じところを通って帰ることになります。 なので、その距離は2倍見ておかなければなりません。それでも、復路のほうも狛は迷うことなく進んでいってくれたので、難なく戻ることができました。
その後、私たちは大井川鐵道の田野口駅方面に行き、さらに塩郷駅の近くできかんしゃトーマス号を迎え討つ(?)ために、再び塩郷にやって来ました。 そうしたら、トーマス号が姿を現すまで少々時間があるので……… 私は調子に乗って再び塩郷の吊り橋を渡ることにしました。

ところが、橋の渡り口まで来たところで、狛が突然拒否したのです しかも、一歩も踏み出せないなんて……… 先程の勇ましさは何だったのでしょうか こうなってしまったからには、やはり彼に無理強いはできません。 とはいっても、私の渡りたい欲は抑えられなかったので、彼を抱えて対岸を目指すことにしました。 それでも、波のほうの私が進めば付いてくる方針は変わらず。 一方の狛は、より高い位置での移動となって、体をこわばらせるか私にしがみつくと思いきや、なぜかリラックスしていて快適そうでした。 これは……… ただ単にズルしたかったのでしょうか? それよりも、私は両腕を塞がれ、10kgの米袋の負荷をかけられたような状態で渡るハメになって……… これは何かの罰ゲームでしょうか? やはり帰りも同じでした。

吊り橋を渡ってみたら、相方たちの性格や意思が見えてきたので、「恋金橋」と同じところに刻まれた「奥大井サスペンス(ブリッジ恋愛事件)」はあながちウソではなかったみたいです。 それにしても、狛は1回目では順調に渡って、私を感激させておいてから、橋渡りを拒否するなんて……… こうなったら彼の成長を見るために、来年もこの場に立たなければなりません。


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シルクロードミュージアムってどこですか?

2020-08-05 01:15:37 | 探求シリーズ

こんばんは、白黒茶々です。

すべてはスマホのLINEのガラガラポンから始まりました。 私はそのアプリで地元の金融機関を友達登録していて、そちらではたまに何かの抽選がおこなわれたりしました。 その景品は、うなぎの白焼きや寿司屋の食事券など、食べ物関連が多く、私は毎回根拠のない自信を持って挑んでいました。

しかし連戦連敗で、当たったためしがまったくありませんでした。 そのような中で、どこかの入場券の抽選があったので、とりあえず引いてみることにしました。 そうしたら、もうすっかり儀式となっている、ハズして沈むlineくまブラウンの哀愁漂う後ろ姿を見て………

ところが、今回は当たったのです ま、まずはバンザイ それよりも、当たったものは……… シルクロードミュージアムというところの入場券だそうですけど、聞いたことのない施設ですね。それってどこにあるのでしょうか?
抽選画面にも添付されていたのですけど、それは静岡県内の磐田市でも山深い旧豊岡村の上野部地区にあるそうです。 それからしばらく経った7月最初の日曜日となる5日は天気が不安定で、を連れて出かけるのは厳しかったこともあって、私は単独でシルクロードミュージアムなるところに行ってみることにしました。 ただし、その施設と家を往復するだけではナンなので………

その通り道からかなりハミ出していて、ついでに寄る部類には入らないのですけど、浜松市東区丸塚町にある珈琲パーラーアイアイさんなる喫茶店に行きました。 それにしても、どこか懐かしい昭和レトロ感漂うお店ですね。 こちらでの目的は、もちろんモーニングですよ

最近は、豊橋モーニングが続いていましたね。 浜松はそちらよりはモーニングをやっているお店は少ないのですけど、探せば見つかります。 それにしても、ドリンク代に少し加えるだけで、ちょっと豪華なモーニングメニューがいただけるなんて、ありがたいですね。

その後、私の席にこのようなメニューが運ばれてきました。はい、ホットサンドのセットにございます。 ドリンク代(コーヒー、450円)+150円で、ゆで玉子、サラダが付いてきました。それにしても、盛ってある器が昔ながらで味がありますね。
お腹も心も満たされた私は、本来の目的地のシルクロードミュージアムに向かいました。 その際に、近道となる天竜川の堤防道を走って行ったのですけど、前日の雨で川は増水していました。

前置きがかなり長くなってしまいましたけど、ようやく目的地の手前まで来ました。 シルクロードミュージアムはその名前からして、私は鉄筋コンクリート製のモダンな建物を想像していたのですけど………

なんと、築250年ほどの古民家を活用していました。 土蔵もありますし、江戸時代の豪農ってトコでしょうか?

この看板がなかったら、「普通の民家だったらどおしよ~」とビクビクしながら入るところでした。

こちらは、地元企業の浜名梱包輸送さんが社会貢献のために収集した仏教美術を展示・公開している博物館とのこと。 紀元前3千年頃から15世紀頃までの彩文土器、磨研土器、イスラム陶器、ガラス器などの美術品が見られるというので、楽しみですね。

その内部は畳敷きで、昔ながらの日本家屋の佇まいでした。 その1階には………

主に日本の伝統工芸品が展示してありました。 これらもコレクションの一部で、日本はシルクロードの延長線にあるので、またこれもアリかと。 いや、美濃焼薩摩焼は人間国宝の作品で、美術的な価値があるのに加えて、かなり凝った作りとなっていました。

案内人によると、こちらの伊賀焼を手掛けた番浦史郎氏は、「美味しんぼ」山岡士郎のモデルになったとのこと。 名料理人でもありながら、お店を持たなかったそうなのですけど、山岡さんは実在していたのですね ちなみに「士郎」という名前は、彼からいただいたそうです。

出だしからパンチの効いた展示品と出くわしてしまいましたけど、ペースを上げて紹介していかなければなりません。 九谷焼の菓子入れは、色彩が凝っているのに加えて、重量感もありますね。

こちらの九谷焼の陶器は、ただの湯呑みではありません。 内側には細かい文字がびっしりと書かれているのですけど、どうやって筆を入れたのでしょうか?

こちらの硝子細工も、どうやって作ったのか気になります。 曼荼羅の模様も、この作品を引き立てていますね。それらを堪能してから、私たちはいよいよ2階へ。

そこから世界観がガラッと変わって、中国や中東など、シルクロードの圏域で出土した美術品などがメインとなりました。 ちなみにこちらは、パキスタンのガンダーラ地方で見つかった、3世紀の石製の菩薩立像にございます。

仏陀頭部(仏頭)も、ガンダーラで出土。こちらは3~4世紀に作られました。案内役さんによると、このような仏像の類いは見る角度によって表情が変わるそうで、斜め下からがオススメとのこと。 その通りにしたら………

穏やかで優しい顔になりましたよ これからは仏像や地蔵があったら、その位置に回り込むようにします。

しかし、これはどうやって見ても、悪い顔にしかなりません。 説明書きは「仏陀立像」となっているのですけど、いったい………

その一方で、「アプサラス」は翔んで、いや、躍っています。 男性を惑わす悪女の像で、パキスタン・バクシャリから出土した7~8世紀のテラコッタ(素焼きの土器)であります。

駱駝の像もありましたよ ちなみに乗っているのは、すでに滅んでしまったソグド人という民族です。 6~8世紀のもので、中国山西省から出土したのですけど、保存状態がいいですね。

こちらはパキスタン・バロチースターンから出土した、紀元前3000~2600年の土器なのですけど、鳥や魚の絵がファンシーですね。 子供にもウケそうです。

羊形リュトンは、芸術的にデフォルメされています。 紀元前1000年頃の酒などを入れる土器で、前足に付いている乳首……… ではなく、栓のところが注ぎ口となっています。

こちらもカワイイですね 紀元前2500~2000年のパキスタン・クエッタの聖牛の夫婦にございます。

あと1品よろしいでしょうか?中国山東省から出土した、唐の時代(8世紀)の加彩武官俑であります。こちらは写実的で、本当にこのような人がいそうです。

………と、たくさんの展示品を紹介していきましたけど、これはほんの一部です。 しかも所蔵品はもっとあって、半年おきに展示物を入れ換えるというではありませんか
どちらかというと私は美術品には疎いほうなのですけど、案内の方の解説を聞きながら見て廻っていったら、ありがたみが増し、引き込まれていきました。 いずれのものも価値は高く、「開運!なんでも鑑定団」に持っていったら、高額の査定が出そうです。
さらに、展示品はストロボを焚かなければ撮影し放題で、ケースなどに入っていないものは自由に触れられるときたもんだ

今回私は無料で入らせてもらったのですけど、正規の料金の900円でも安いぐらいです。 静かな環境(片田舎)の中で、シルクロードの古美術を身近に感じることができるシルクロードミュージアム。皆さんもぜひ1度、足を運んでみてくださいませ。


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袈裟切り地蔵の快

2020-06-24 00:43:26 | 探求シリーズ

昔々、東海道の白須賀宿というところに、あるウワサ話がありました。 それは……… 真夜中に旅人がその峠道を越えようとしたら、大入道や一つ目小僧が突如現れたというのです 「ひいいいっ 」旅人は驚いて腰を抜かしたのですけど、化け物は笑っていたそうです。

その話を聞いた若いお侍さんは「私が退治してみせましょう」と、自信満々に立ち向かっていきました。 そしてその夜、彼の目の前にウワサ通りの化け物が現れたました ………なんか、大入道と一つ目小僧がごっちゃになっていますね。 それでも、お侍さんは少しも怯まずに、一つ目大入道をバッサリと斬り捨てました。
翌朝、宿場の住民たちがそのあたりを見に行ったら、六地蔵のうちの1体が袈裟懸けに切られていました。 それ以来、化け物は出てこなくなり、人々はその地蔵のことを「袈裟切り地蔵」と呼び、災難避けの対象として信仰したそうです。 めでたしめでたし?

皆さまに、私の地元に伝わる昔話をお伝えしたくて、いつもの波狛日記と違う書き出しをしてみましたけど、いかがだったでしょうか? ということで、話は再びGWに戻ります。 その「主に自宅で過ごすGWシリーズ」の最終話となる今回は、近くに住んでいながらも今まで1度も訪れたことがなかった袈裟切り地蔵を、を伴って旧東海道から攻めていこうと思います。

そのちょっとした散策は、街道から少し奥まったところにある蔵法寺からスタートさせていただきます。 こちらのお寺には、17世紀中頃に漁師の網にかかった潮見観音が祀られていて、海上安全の信仰の対象となっています。

私たちはその脇の坂を上がっていきました。 こちらは樹木に覆われて薄暗いのに加えて、細くて急な道なので、車で行くのにはかなりの覚悟が要ります。 その坂を300mほど上り、その道からちょっと外れたところには………

うないの松という立ち寄りスポットがあります。 「うない」はうなじのことで、松があったのが潮見坂の首にあたることから、そのように呼ばれたそうです。初代の松は切り株のみとなっていて、そのすぐ傍に2代目となる若松が植わっていました。 さらに、この松のことを詠んだ久内和光の歌碑と、小ぢんまりとした今川義忠公のお墓が

蔵法寺からの坂道は、ここで本来の旧東海道の潮見坂と合流します。そちらは先の坂ほどではないのですけど、やはり曲がりくねっていて細くて急です。 たつぴは小・中学生だった9年間、毎日この坂を上って登校していたのですよ。 かつて彼が歩いた道を、私たちも辿っていったら………

ハアハア……… 上りきったところには、白須賀宿の資料館と休憩所を兼ねたおんやど白須賀があります。 しかし、この時はまだコロナ禍の影響で休館していました。

かつての東海道は、こちらの白須賀中学校の中を突っ切るルートとなっていました。 江戸時代が終わり、明治天皇が新たな首都となる東京に行幸される際には休憩所が設けられ、その跡地は学校ができるまでは潮見坂公園となっていました。

そのすぐ近くには、明治天皇に関わる場所と潮見坂公園の跡を示す石碑があり………

さらに、白須賀宿の案内図も設置されていました。 その中に、私たちが目指している袈裟切り地蔵もあるのですけど、かなりアバウトですね。 それでも、私は事前に調べておおよそのアタリをつけているので、迷うことはないでしょう。たぶん、きっと。

そこからちょっと西に行ったところから旧東海道を外れて農道に入っていくのですけど、袈裟切り地蔵の案内標識のようなものはありません。

私たちより先に行った方の実地調査ブログによると、畑の端と2代目の潮見坂となる国道42号線の間を通してある、狭くて切り立った道の突き当たりに、例のお地蔵さんがあるそうなのですけど、木々によって完全にブロックされていました。

そのもうちょっと北側に、それっぽい藪と人が入れそうな隙間が見つかりました。 もしかしたら、この中に………

あった ありました。ウワサに聞いていた袈裟切り地蔵が、私たちの目の前に

確かに、そのうちの一体は袈裟懸けに斬られたように、バッサリといっていますね。 ………なんて言っておきながらも、実はその地蔵は私たちが発見した時は後ろに倒れている状態だったので、撮影するために立てておいたのですよ。 それが、下半分とピッタリと合ったので、本来はこのような姿をしていたと思われます。
昔話の通りで、六地蔵で1チームとなっているのですけど、なぜか袈裟切りとなっている物以外でも首がなかったりして、まともなものは一体もありませんでした。ひょっとしたら、自信満々だったというお侍さんは実はビビっていて、手当たり次第に斬りまくったからこうなったのかも知れませんね。

そうしたら、立ち去る前にお地蔵さんたちと記念撮影をしておきましょう。 私がここに来る前に見たブログ等の写真では、すべてと言っていいほどこれと同じ絵となっているので、訪問者はみんなして私みたいに撮影時に袈裟切りさんの上下を合わせたということになります。 しかし、このままの状態で放置しておいたら、何かの拍子で倒れて袈裟切りさんが損傷する恐れがあるので、私は帰る前にまた倒れていた場所に戻しておきました。

その後、私たちは旧東海道の潮見坂を通って帰りました。 桑名から宮(名古屋市熱田区)の七里の渡しの先の街道は内陸部を通っていて、旅人はこの潮見坂でようやく海を仰ぎ見ることになります。 その同じ場所からの現在の風景は………

こうなっています ちょっと曇っていますけど、雑木を伐採して視界がより開けたこともあって、解放感がありますね。

この波狛日記によくコメントを残してくださる袈裟切り地蔵さんはこの地域の出身で、そのハンドルネームは言うまでもなく袈裟切り地蔵にちなんでいます。 しかし、私たちが訪れてきた六地蔵はお墓と一緒に祀られていたので、祟りがあるから絶対に手を触れてはいけないとも云われています。
う~む……… 撤収する前に私は丁重に手を合わせ、さらに今回の日記で袈裟切りさんたちの魅力(?)を世界中に発信したので、どうかそれで相殺してくださいませ。
………と言いつつも、この話で袈裟切り地蔵に関心を持ち、私たちに続きたいという方がいらっしゃるとしたら、袈裟切り群は深い藪の中にあるので、蚊やダニが発生するこれからの時季は避け、冬場に訪問することをオススメします。


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お城に行けないのなら、築いてしまおう!

2020-06-13 00:46:18 | 探求シリーズ

こんばんは、白黒茶々です。

GWは派手な外出や浜松まつりへの参加をしなくても、着々と時間が過ぎていきました。 早いもので、気付いたら後半に入っていて、そのあたりには子供の日が組み込まれていました。 ということで………

今年も波狛部屋に兜を飾りました。 「なんで二段重ねになっているの?」と囁かれたそこのアナタ、いい質問ですね 下段のケース入りの飾りは、たつぴが初節句を迎えたときに、そのお祝いに私の叔母からいただいたものです。 それから上段のものは、今からン十年前の昭和時代に、私のほうの初節句の際に、私の叔父が贈ってくれたものであります。 そちらの兜は、先代犬の箔も含めて、白黒茶々家の男子はすべてかぶってきたので………

今回はにかぶせましょう いかがでしょうか、似合っているでしょうか?なんか、ひこにゃんの犬バージョンみたいに見えてきましたよ。 そうしたらしばらくの間、心の中で彼のことを「ひこわん」と呼ばせていただきます。 それからこのノリでいけば、烏帽子も似合いそうですね。
話は変わって、GWは行楽の時季でもあります。 今年はコロナ禍の影響で、その期間中でも列車や新幹線はガラ空きだったそうです。このような状況では、私の好きなお城めぐりも憚(はばか)られられる……… というよりは、全国各地のお城自体閉鎖されているのですけど。 よく考えてみたら、今年に入ってから私はまだメジャーなお城には行っていなくて、列車にも1度も乗っていませんでした。

いずれにしても、GW中にお城を訪問するのはムリなので、こうなったら今回の日記のタイトルで謳っている通り、築くことにしましょう
………とはいっても、本物のお城は広大な敷地や莫大な費用、経験豊富な職人集団などを揃えなければならないので、ちょっとムリ、いや、できません。 そこで、私が目を付けたのは………

ファセットさんが取り扱っている、ペーパークラフトのお城でした。 現在、ラインナップは43種類にまで増えてていて、すべて300分の1の縮尺率となっています。それらの中には、現存するものや復元されたものに加えて、かつて存在したお城があります。 やはり作るのだったら、今は失われているものの、いずれ再建してもらいたいのがいいですね。 そのような思いを巡らせ、私が選んだものは………

米子城にございます そのお城は鳥取県の最西端に位置する米子市の、中海の湖畔の標高90mの湊山にありました。 天正19年(1591年)頃に吉川広家によって築かれ、さらに慶長5年(1600年)に城主となった中村一忠が大改修をおこなって………

今日見られる、山陰最大級の規模となりました。 その際に、吉川広家の頃から存在していた3層4階の天守はそのまま残し、さらにその脇に4層5階のもっと大きな天守を建てたのです 元祖の天守は副天守もしくは四重櫓に降格となったのですけど、米子城は山上に大小の2つの天守が並立する珍しい城となりました。
しかし、明治初期に廃城となって建物は格安で競売に出され、天守は古物商の山本新助が30円で買い叩き、壊して風呂の薪にして燃やしてしまったと云われています。 今からすると、なんてもったいないことを………
現在は石垣を残すのみとなっているのですけど、私は風光明媚なその地に天守が再建されることをずっと望んでいます。 ちなみにこちらのお城には、過去に2回ほど行ったことがあります。その米子城がペーパークラフトで甦るなんて、嬉しいですね。 失礼ながら知名度の低いこのお城に目を付け、ペーパークラフトにしてくださったファセットさんのゲル総帥石原茂代表)には、とても感謝しています。
ところが、米子城のペーパークラフトを取り寄せ、すぐに作りたい欲満々の私に「待った 」がかかりました。

そういえば、私には作りかけのお城があったのでした。 1年近くも前に江戸城のペーパークラフトに着手したのですけど「なかなか時間がない」という理由で、土台となる天守台ができたところで中断。半年ぐらい経ってから天守の上層部分を作りかけ、さらに作業が止まっていました。
江戸城は、江戸氏の館があったところに太田道灌が……… って、そのお城の歴史を語ったら長くなりそうなので、徳川将軍家のお城で、3代将軍家光が史上最大規模の天守を築いたで、ヨシとさせていただきます。
とにかくGW中に米子城を作りたかったら、その前に江戸城を完成させなければなりません。 ということで、毎日のように手がけていったら………

3日後には、上から3層部分と千鳥破風(三角形の屋根飾り)が完成。

さらにその翌日には、4層になり………

工事を再開させてから1週間ほどで、完工と相成りました。 よく考えてみたら、江戸城の天守は大きいうえに屋根が複雑に入り組んだりしていない層塔型の単純な構造なので、意外と簡単でした。これで、米子城への布石が出来上がりました。
ここでキリがよくなったので、ペーパークラフトのお城の作り方を最初からお伝えします。

まずは、材料となる部品図を広げて確認します。 米子城には、A4サイズの厚紙が7枚入っていました。

次に、それらの折り込む線に折り目を入れていくのですけど、その際に私はインクが切れたボールペンを利用しました。

さらに、ハサミで丁寧に切り取っていきます。 なかには細かい部品もあるので、なくさないように気をつけなければなりません。 特にシャチホコは小さくて難易度が高いのですけど、予備も用意されているので、気を楽にしていってくださいませ。

それらが済んだら、いよいよ糊を塗って組み立てていきます。 本物のお城は普請という土木工事から入るので、私もそれに則って土台から作るようにしています。 米子城の場合、湊山の頂上に石垣や山肌、石段が複雑に入り組んでいるので難易度が高く、全体の7割ほどは土台が占めているといってもいいでしょう。

なんとか天守台を中心とした土台部分が完成したのですけど、4連休のうちの3日も要してしまいました。 とにかく間を置かずに作事(建築工事)に取り掛かります

しかし、こちらでも妙なこだわりが 吉川時代の3層4階の天守が先にあったことから、私もそちらから作っていきました。とはいっても、こちらは小さくて細かいうえに、初層が不等辺5角形の複雑な構造で、苦労させられました。

副天守(四重櫓)はなんとか出来上がったのですけど、残念ながらここで時間切れ

メインとなる天守は、切り取られてバラバラの状態のまま連休明けとなりました。 それでも、その後もコツコツと作っていったら………

その6日後に、ようやく仕上がりました。 あとはそいつを天守台に据えて、オマケの樹木等を植え付け(糊付け)すれば………

米子城の完成です 小さいながらも、久しぶりに本格的な築城の擬似体験をしたら、今まで以上にお城への愛着が湧いてきましたよ。 できることなら数年以内に本物の米子城を訪れ、そこでかつての天守群の偉容を偲びたいです。 そうしたらせっかくなので、先に完成させた江戸城と並べてみることにしましょう

う~む……… あまりの大きさの差(略して大き差)に、圧倒されるというか、踏みつぶされそうな威力です。 なんか、徳川政権の圧倒的な威厳を見せつけられているみたいで、悔しいというか……… もちろん、江戸城も好きですよ!ただ「大きいだけがすべてじゃない」とだけ言わせてください。



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今、豊橋が熱い!

2020-05-02 01:46:52 | 探求シリーズ

こんばんは、白黒茶々です。

非常事態の中、季節は新緑の5月へと入っていったのですけど、波狛日記はまだ3月末頃の話です。 ということで、前回から私・の白黒茶々家の1人と2頭は、豊橋市に来ています。

こちらは豊橋公園市役所のすぐ近くにある豊橋市公会堂にございます。 昭和6年(1931年)に中村與資平氏の設計によって建てられたロマネスク様式の建築物です。国の登録有形文化財となっているのですけど、現在でも公会堂として使われています。

創建時に屋根を飾っていた鷲の像は地上に降ろされているのですけど、かなり大きいですね。 それに、手前の白い子羊たち(?)がさらわれてしまいそうな迫力です。 そうそう、豊橋といえば………

現在放送中のNHK連続テレビ小説「エール」で、古山裕一(窪田正孝)の相方の関内音(二階堂ふみ)が在住しているということもあって、しばしば登場しています。 音のモデルとなった古関(旧姓内山)金子さんも、実は豊橋出身なのですよ なので、市内でロケがおこなわれたりもしました。第1話に出てきたホールは先述した公会堂で、これからも音楽ホールとしてしばしばドラマに出てくると思われます。 それから、幼少期の(清水香帆)が父安隆(光石研)に励まされる場面で背景に映っていた石垣は、吉田城のものであります。

その公会堂から程近いところにあるハリスト正教会は大正2年(1913年)に建てられたもので、こちらは国の重要文化財に指定されています。 「エール」に出てきた教会か?と思われた方もいらっしゃるかも知れませんけど、残念ながら違うのですよ。 ちなみに双浦環(柴咲コウ)が唄ったのは明治村の教会で、裕一少年(石田星空)が音ちゃんの唄に聴き惚れたのは、福島にあるヤツでした。

それから、13階建ての豊橋市役所の東館の最上階にある展望ロビーは、土日祝日でも開放されています。 せっかくなので、上ってみることにしましょう。 あ、建物内はペット不可なので、波と狛は車の中で待機していてくださいませ。

眼下の豊橋公園や先ほど見てきたハリスト正教会はもちろんのこと、中核都市の豊橋市には高層建築がほとんどないこともあって、ここからは市内を一望することができました。 また、その一角には「手筒花火体験パーク」なるものがあるというので、さっそくそちらに行って体験してきましょう

うおおおお~ すごい迫力です。
手筒花火は、豊橋が発祥の地と云われています。むしろや縄を巻いた竹筒に火薬を詰めて作った花火に火をつけ、そいつを縦に担ぐと、10数mもの高さまで火の粉が上がります。 私の地元の遠州新居に伝わったものは、そいつを脇に抱えつつ練り歩くのですけど、本家本元の手筒花火はその場で直立不動。そして、底がズボッ と抜ける「はね」をもって、その花火は終わります。
ひょっとして皆さんは、いきなり私が手筒花火を上げたと思い込み、ドキッとされたでしょうか?もしそうなら、私の思うツボです。 ちなみにこの絵は、昨夏に湖西市であったお祭りに、豊橋の手筒花火が出張してきたものであります。

ということで、現実の絵はこちらになります。 火の粉が降りかかっても焦げたり穴が空かないような厚手の法被と、空の手筒花火の小道具は、その場では貸し出し自由。 皆さまもこちらにお越しの際には、それらを使ってなりきり写真を撮ってみてくださいませ
しかし、大迫力の手筒花火のジオラマが壁一面にある撮影コーナーは、私の手前横の位置でした。帰った後にそのことに気付いた私は、沈みました。

そういえば「エール」では、縁日デートに行った裕一と音の目の前で、手筒花火が披露されていましたね。 2人の恋はそれ以上に燃え上がって、スピード婚となって……… ドラマの今後の行方からも目が離せません。

そうそう、音のモデルとなった古関金子さんが豊橋出身ということもあって、地元出身で在住もしている漫画家の佐野妙さんが、「まんがでわかる!古関金子さん」なる小冊子を手がけました。

金子さんの略歴を、わかりやすく愛嬌をもって描かれたこの漫画を読めば、「エール」の面白さも倍増することでしょう。 なお、この小冊子は豊橋市役所1階のじょうほうひろばJR豊橋駅の改札外などで配布しているのですけど、Webでも見ることができます。
さらに今年の2月には、佐野妙先生の作品の………

「だもんで豊橋が好きって言っとるじゃん!」の1巻が発売されました。 豊橋に引っ越してきた女子高生の国元ほのかが、ボランティア部の吉田ちぎり先輩と出逢ったところから物語は始まるのですけど……… 根っからの豊橋の地元民で三河弁を使いまくるちぎりに、ほのかは翻弄されまくります。 そのつかみとなる話が「豊橋は530運動発祥の地」なのですよ さらに読み進めていったら、530運動にちなんだモニュメントが市役所の前にあるというので………

さっそく行ってみました 確かにインパクトありありの構造物なのですけど、豊橋市民でもこの存在を知っているのは、1割にも満たないとのことです。

それから豊橋には、手頃な値段で美味しいお菓子のブラックサンダーの製造元でもある、有楽製菓の工場もあります。 そういうこともあって、「だもんで豊橋………」にもブラックサンダーはしばしば登場するのですけど………

同市内を走る路面電車のなかで、ブラックサンダーカラーにラッピングされた車両を見かけたら、私でもついテンションが上がってしまいます。
その他には豊橋モーニングやうずらカッターなど、「だもんで豊橋………」は豊橋のローカルネタが満載で、作者の地元愛がひしひしと伝わってきます。 しかも、特集本として単発で出たというワケではなく、これからも続きが出るなんてスゴいことです 私は静岡県の最西端に住んでいて、県境を隔てた豊橋市のお店のチラシが新聞に入ってきたり、そちらも行動圏に入っていることから、もう片足を突っ込んでいるようなもので、親しみを感じています。

残念ながら今はコロナ禍のおかげで私との間に見えない高い壁ができてしまいましたけど、世の中が落ち着いたら片足とは言わず、腰ぐらいまで浸かりに行きたいです。



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待ってました!きかんしゃトーマス号

2019-07-24 01:34:25 | 探求シリーズ

こんばんは、白黒茶々です。

「きかんしゃトーマスとなかまたち」は1984 年にイギリスで放送が始まって以来、世界の子供だけではなく大人にも愛されています。 その前には絵本も出ていたそうですけど、当初はおもちゃ(鉄道模型)を使った実写版で、私の中でのトーマス像はずっとその姿をしていました。 ところが、近年はCGアニメ化されて、動きや表情がよりリアルになっているそうです。 それだけでも驚いたのですけど、さらに彼らは進化して、ソドー島を飛び出して世界を旅しているというではありませんか それに伴って………

彼らが訪れた国のなかには、女子の機関車もいるというのですよ その事実と容姿に、私は腰を抜かしてしまいました。
………という創作の中でのトーマス事情はこのくらいにしておいて、今回は私・の白黒茶々家の1人と2頭が大井川沿線で見てきた、きかんしゃトーマス号の話をさせていただきます。

ということで7月7日の、ワンコを連れての外出に最適だった曇った日に、私たちは島田市の山間部にある道の駅川根温泉にやってきました。

こちらは、ナトリウム塩化物温泉で湧出する湯量は毎分730Lと豊富で、さらに湧出温度48,7℃の天然温泉であります。 その入浴施設から大井川に流れ出ているところに手を入れたら、こちらもいい湯加減でした。

足湯にも入っておきたいところなのですけど、ワンコ連れで時間もあまりなかったので、手を突っ込んで「手湯 」でヨシとしておきました。 その道の駅からちょっと離れた第2駐車場があるゾーンには………

ウワサにも聞いていた無料のドッグランがあったので、その中で波と狛を遊ばせることにしました。 ただし、トーマス号を出迎える時刻が迫っているので、自由時間は5分ほどでお願いします。

こちらでは、久しぶりに全力疾走する狛の姿を見られると思っていたのですけど、彼はその囲いの中でチキンの骨のようなものを見つけてきて、バリボリとやり出したではありませんか 慌てた私はそいつを奪い取って投げ捨てたのですけど、それ以外にもまだ何個かありました。そのおかげで、波と狛はドッグランで宝探しの体制に入ってしまったので、もう走る姿がどうとか期待することはできません。 もぉ~ 後始末が悪いのは、どこのどなたですかっ

ま、まあ、それはさておいて、2年前と同じように今回もこちらで、きかんしゃトーマス号がやって来るのを待ち構えるようにします。 でに同じ目的と思われる方たちが、たくさん来ていますね。

トーマス号の撮影スポットは探せばたくさんあるのですけど、こちらの大井川第一橋梁は、私からもオススメです。 わりの景色がきれいなうえに、遮るものもほとんどなく、さらにトーマス号が汽笛を鳴らして減速しながら渡るという魅せる運転をしてくれるので、撮影もしやすいハズ だし、なるべくカメラを構えた先客のジャマにならないところで待つようにしましょう。 そして11時18分になって………

 

きたきた、来ましたよ!きかんしゃトーマス号が!

 

どんどん………

 

どんどん近づいてきましたよ!

 

きかんしゃトーマス号、キターーー!

私たちのテンションは上がりまくり、同じようにテンションが高くなって客車から手を降っている乗客たちに、手を振り返しながら走り去るのを見送りました。

そんなトーマス号を、涼しい木陰から見ていた波と狛。 ちょっと離れた場所とはいえ、ビビったりはしていませんでした。トーマス号はこのあと、終点の千頭駅で折り返してきて、約2時間半後に再び姿を現すのですけど、もちろんそちらのほうも見ていきますよ
その機関車だけに帰還するトーマス号をどこで迎え撃つか、悩んだ末に私が決めたところは………

2年前と同じ、塩郷駅でした。 こちらは塩郷の吊り橋の近くにある無人駅で、そのホームはすぐ横を通っている県道77号線と同じレベルにあります。 私たちがこの駅にたどり着いてから間もない、14時39分に………

 

何の前触れもなく、きかんしゃトーマス号が姿を現しましたよ とにかく大慌てで撮ったこの1枚をよく見てみたら、バスのバーティーと並走していて、さらにその後ろが渋滞しておられる

 

あ、あわわわ………

とととと、トーマス君………

はっ 波と狛は……… なんか、驚いたり興奮したりする様子もなく、普通に見送っていますね。

ああ、もう行っちゃった 失敗が許されない一発勝負だというのに、私がもたついている間にもトーマス号は手を抜くことなく全力で走り去っていってしまいました。 やはり、蒸気機関車独特の風圧と石炭のニオイを残して。

このようなアタフタ感って、昨年のプロ野球の優勝シーンの中継でもありましたよね。 勝負が決したときの様子を、欲張っていろんな角度から撮ろうとして、カメラがあっちこっちに行ったりして、その結果落ち着きのない映像になってしまったヤツ。 あのような場合、歓喜に満ちた選手たちが駆け寄っていったマウンド付近だけを映していればいいのでは?と、私は思います。 しかし、私はトーマス号を前にして、それと同じようなことをしていました。
きかんしゃトーマス号の撮影にもう一度挑戦したいという気持ちもあるのですけど、やはりアレは大人の(?)私にとっても、何回見てもいいモノです。 なので、自らが決めた2年縛りのルールを気にすることなく、行ける時間があったら今年中にもまた挑戦してみたいです。その際には、新たな撮影スポットを探したり、波と狛を連れていって楽しめる場所も見つける所存にございます。

ここからはオマケというか、お土産の情報です。 大井川鐵道の路線の近くの島田市川根町身成という地区には、加藤菓子舗という洋風のおしゃれなお店があります。 こちらでは洋菓子も扱っているのですけど………

やはり、川根のお茶を使った生クリーム大福が人気で、私からもオススメです。 「川根大福」とも呼ばれているこの大福の中身には、あんこの層のさらに内側に生クリームが詰め込まれているのですよ 和洋折衷なのですけど、甘くて柔らかくて美味しいです。 4コ、6コ、8コ、10コ、12コ、15コ、20コの単位で売られているので、皆さまも川根路を訪ねられた際には、ぜひお買い求めくださいませ。



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吉胡貝塚のワンコ(三河田原歴史散歩その3)

2019-05-29 01:49:51 | 探求シリーズ
こんばんは、白黒茶々です。
私・による三河田原の歴史散歩は、今回が最後となります。 歴史の流れでいくと、古墳時代 → 江戸時代 → ときたら、今回は懐かしの昭和時代あたりが来ると思ったそこのアナタは、大ハズレです。 結果的には私たちが訪れた順番に沿っているのですけど、やはり最後には最も盛り上がるところを持ってきたかったので、時代区分的にはおおよそ12歩ほど進んでから、130歩も後戻りすることになります。 ということで、今回は縄文時代後期から晩期にかけて人々の生活の場となっていた、吉胡貝塚を採り挙げさせていただきます。



私が初めてこの地を訪れた頃は、畑に囲まれた傾斜地に遺跡の位置を示すこの石碑が立っているだけだったのですけど、現在は史跡公園として整備されています。



その中には、このような大きな岩が 矢崎岩と呼ばれるこの岩は、縄文時代からこの場所にあり、吉胡貝塚のランドマーク的な存在となっています。 昭和26年(1951年)に本格的な発掘調査がおこなわれたときには、若い考古学者たちが記念撮影をした場所でもあります。



こちらの公園には、縄文時代の遺跡ではシンボル的な存在となっている復元住居のようなものはないのですけど………



貝塚(縄文時代のゴミ捨て場で、その頃の生活の様子を知る手がかりになる)が発掘されたときの様子が再現されていて、その断面などを観察することができます。 そこ(底?)をよく見てみたら、屈葬された人骨が しかし、ご安心くださいませ。それらはリアルに再現された模型なので。
それらの野外展示を見終わったら………



吉胡貝塚資料館に入りますよ 私がこちらを見学している間は、波と狛は車の中で休んでいてくださいませ。 入場料(大人200円)を払って、順路に沿って入っていったら、ヨシさんという女性の声が案内と解説をしてくれました。彼女は吉胡貝塚のイメージキャラクターで、私は8年前にこちらの資料館を初めて訪れた時には、可愛らしいゆるキャラを想像していました。



ところが実際のヨシさんは、屈葬された人骨だったのです。 ちなみにこれは、昭和26年に矢崎岩の近くで出土した19号人骨を再現したものです。ヨシさんは50歳代で、両腕には貝の腕輪がはめられ、朱(顔料)が撒かれていることから、長老的な特別な女性だったと考えられています。 そんな彼女が、アナウンス役を務めている……… という形を取っているのですよ。



この資料館は傾斜地に沿った2階建てで、1階の上の空間には縄文時代の生活の様子を再現した展示がされていました。 その中には、ワンコの姿も



その1階には、貝塚から出土した食べカスの貝殻や………



石斤などに使われた石器などが並べられていました。



それから先ほど触れたように、縄文人はワンコと一緒に生活していたみたいですね。 狩猟の手伝いやペットとして可愛がられていて………



その遺骸は丁重に埋葬されていました。



その他には、自分の顔を写してその容姿が縄文人に近いかどうかを判定するコーナーもあったので、試してみました。 彼らはエラが張っていて、眉や鼻、唇は厚く、濃い顔だったのですけど、私の縄文度は33%。なんとか現代風だったみたいですね。



資料館の2階からは直接外に出ることもできるのですけど、そこは体験学習室にもなっていて、申し込めば貝の首飾りや勾玉の製作、火起こしなどを気軽に体験することができます。 ということで、私は「縄文の造形(ミニ土偶づくり)」をやってみることにしました。



その参考資料や型となるものがあるので、その気になればそこそこのモノが作れそうです。 実は、私はこのような粘土細工はン十年もやっていないのですけど、作りたいもののイメージはあるのですよ。 それから10分ほど経ったら………



このようなものが出来上がりました。 皆さん、いかがでしょうか?イヌに見えるでしょうか? そんな私に、資料館の方は「型とかに頼らず、フリーハンドでいきなりここまで仕上げるなんて、素晴らしい 」とベタ褒めでした。 さらにこれをオーブントースターで15分ほど焼いてもらえば、完成となります。

今の段階では、イヌに見えれば上出来なのですけど、さらに欲を言えば、やはり日本スピッツの姿にしてみたかったです。 たとえ縄文時代には存在していなかったとしても、構いません。 そうしたら、スピッツアートに長けている凛ママさんに弟子入りするしかありません 皿洗いでも、ビラ配りでも、何でもやります 凛ママさん、私にお教えを~


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1Q79と家康のビフォーアフター

2019-02-27 01:27:54 | 探求シリーズ
こんばんは、白黒茶々です。
突然ですけど、皆さんは昭和54年(1979年)には何をやっていたか覚えていらっしゃるでしょうか? なかには、まだ生まれてもいなかったという方もいらっしゃるかも知れませんね。 いずれにしても、その頃の時代背景を振り返るためにも、その年にあったことを抜粋させていただきます。
その年の1月に、江川卓選手をめぐる「空白の一日」事件が起こり、阪神と読売の特にファンの間に遺恨が残りました。4月からは、大山のぶ代さんが声優を勤めた先代の「ドラえもん」が放送開始。 7月には、やおきんがロングセラー商品となる「うまい棒」の発売を開始し、9月には日本の初代ジャイアントパンダでもあったランランが死亡しました。

さらにその年に浜松市博物館が開館し、今年で40周年になることから、昨年の12月には同施設で昭和54年(1979年)にスポットを当てた特別展がおこなわれました。 その頃に浜松市で青春時代を過ごした箔母さんを博物館に誘ったら、行く気満々に せっかくなので、たつぴも付いてきなさい。



ということで、やって来ましたよ 浜松市博物館……… ではないのですけど、駐車場に車を止めたら、その近くにある蜆塚遺跡を通って、博物館に行くような導線となっているのですよ。 こちらは縄文時代の遺跡なのですけど「縦穴式の住居がやけに新しいような………」と思われた方もいらっしゃるでしょう。これは、最近茅の屋根を葺き替えたばかりなのです。 忠実に復元された住居の、気になるその内部は……… 天井に火災報知器のセンサーが設置されていたのは見なかったことにしましょう。



前置きが長くなってしまいましたけど、今度こそ本当に浜松市博物館にたどり着きましたよ いきなり特別展に行くのもナン……… というよりは館内の順路に従って、常設展から観ていきます。



その展示室に入ってすぐのところには、巨大なナウマン像の骨格標本があって、この博物館のシンボル的存在となっています。



そのすぐ近くには、蜆塚遺跡から屈葬の常態で出土した人骨が展示してあるのですけど……… 白骨死体でもあり、なかにはショックを受ける方もいるかも知れないので、自主規制でモザイクを入れさせていただきました。



古墳時代に作られた馬形埴輪人物埴輪には、愛嬌すら感じますね。



さらに浜松城から出土した、本物のシャチホコのカケラも展示してありました。 これによって、そのお城には天守が存在したことが証明されたのですけど………



ここでシャチホコの説明をさせていただきます。 それはお城の天守や櫓などの屋根を飾るもので、炎を嫌って水を吐く性質があることから、火災よけの効果があるとされています。竜や虎のようなイカつい顔に、サカナの身体という姿が一般的なのですけど、カケラから復元されたシャチホコは、顔がのっぺりしているうえに出っ歯ときたもんだ さらに、鼻のつき方もヘンですし。なので浜松城には、ゆる~い部分もあるのですよ。



その展示室の真ん中にありましたよ 徳川家康のリアル「しかみ像」が。 その像は製作されてから、浜松市役所、浜松城天守門、………と、転々としていったのですけど、ようやくこの場所に落ち着いたみたいですね。ただし話の展開上、ここでネタばらしするワケにはいかないので、またしてもモザイクを入れさせていただきます。
※最近の箔波日記には、モザイクが多くないですか?(編集部注)



いつもにも増して前置きが長くなってしまいましたけど、いよいよ特別展の昭和54年の世界に入らせていただきます。 昭和54頃の浜松市は………



浜松城公園の現在は日本庭園となっているあたりに動物園があって………



昭和初期に造られた浜松市公会堂の建物を利用した児童館が、子供に人気で………



松菱百貨店が、西武百貨店とともに繁盛していました。 ただしこれらのものは、今回の展示にはありませんでした。



展示品の大半は写真のパネルだったのですけど、その時代の浜松に皆さまを誘います。



浜松市の玄関口でもある浜松駅は、昭和54年までは木造でした。 箔母さんは、今でもその駅舎のことをハッキリと覚えていると言っていました。



しかし、国鉄東海道線(今のJR)の列車が地上を走っていたことから、駅の近くの平田(なめだ)の踏切は閉じている時間が長く「開かずの踏切」とも呼ばれていました。 そのおかげで、その付近の道路はいつも混んでいたそうです。



そんな悩みも、昭和54年の鉄道の高架化によって万事解決 それに伴って駅舎も場所を移し、リニューアルしました。さらに昭和63年(1988年)にその隣接地に駅ビルが建てられ、現在に至ります。



市営浜松球場も、その年に建て替えられました。 ただし、収容人員は3万人となっていますけど、実際にはその半分程度です。



あと当時出回っていた、ステレオタイプのカセットレコーダーや………



その後大ヒットした、ゲームウォッチファミリーコンピューターなども見ることができました。
昭和どころか平成も終わろうとしているので、これらの風景はより遠くなっていくように感じますね。 そうしたら今見られるまわりの景色も、いずれは変わるかも知れないので、脳裏に焼き付けておくようにしたいですね。



話は変わって、ここからは「徳川家康像」の話をさせていただきます。 先ほど博物館で先送りしたことと大いに関係あるのですけど、事の発端は昨年の秋に岡崎公園でおこなわれた、サモスピによる紅葉狩りでのアルパパさんが発した一言からでした。彼は同公園にあるこの家康の石像を見て「本当にこんな姿になったのか?」と仰っていました。 「これは、家康が描かせた『しかみ像』を立体化させたもので………」と説明している間に、私は浜松にはもっとリアルな『しかみ像』があるということを思い出しました。 さらに、その数時間前の彼の姿を生々しく再現した像の存在も………

話は今から400年以上も前の、元亀3年(1572年)の12月にまでさかのぼります。 その頃、上洛を目指していた武田信玄は2万5千(諸説あり)の兵を率いて、西に進んでいました。浜松も通ったのですけど、徳川家康のいる浜松城には目もくれずに、そのまま兵を進めていきました。 そのことに腹を立てた家康は、織田の援軍を含めた1万1千(諸説あり)の軍で迎え撃ったのですけど………



前回の箔波日記に出てきた元城東照宮にある家康の銅像は、歴史家の磯田道史先生の監修によって、その出陣前の血気盛んな彼の姿を再現したものであります。 それだけではなく………



浜松城の模擬天守内には、その姿をよりリアルにした像(蝋人形?)があるのですよ これは、現在まで多数伝わる老年期の家康の肖像画から彼が若い時の姿を推定し、3D化したもので、二重まぶたに大きな瞳、それに引き締まった顔や体型は、男前と言ってもいいでしょう それだけではなく、浮き出た血管や毛穴までリアルに再現されているので、私はこの像のことを「毛穴家康像」と呼んでいます。



まず皆さんは、この家康の姿をよく覚えておいてください。
武田の大軍に半分以下の徳川軍が挑んでいったのは、無謀なようにも思えますけど、合戦の勝敗は決して兵の数で決まるとは限りません。 浜松城の北に広がる三方原台地を進んでいく武田軍が祝田坂を下っていくと推定した家康は、その背後から奇襲する作戦を立てました。 それは、武田軍に勝てる唯一の戦法でもあったのです。ところが、信玄は家康の動きを読んでいて、幾重にも軍が重なる「魚鱗の陣」の態勢で待ち構えていたのです いわゆる、ドラゴンクエストでいうところの「まわりこまれてしまった 」状態です。 これによって、世にいう「三方原の戦い」が始まりました。
あとには引けなくなった家康は、横一線に軍が平がる「鶴翼の陣」で斬り込んでいったのですけど……… 武田軍によって完膚なきまでに叩きのめされてしまいました。 家臣の夏目吉信らが身代わりとなっている間に家康は敗走し、命からがら浜松城に帰りました。 その間に食い逃げをしたり、恐怖のあまり脱糞したり、………と、いろんな伝説ができたのですけど。さらに何を思ったのか、家康は城に絵師を呼び寄せて、敗戦直後の最も情けない自分の姿を描かせたのです。 その肖像画は蓬左文庫のある徳川美術館に伝わり、それを立体化かつリアルにしたのが………



先述した浜松市博物館にある、リアル「しかみ像」なのですよ 蒼白した顔は恐怖でひきつり、右手は震える足を抑え、左手で首が繋がっていることを確認しています。 戦の前の血気盛んな毛穴像とのギャップがあまりにも激しすぎて、同一人物とは思えない程です。いや、失礼ながらギャグ漫画の域と言ってものかも。
戦に惨敗した直後の極限状態の中でありながらも、家康は冷静さを取り戻し、彼にとってはどん底にいるときの姿を残すことによって、若気のいたりで大事な家臣や多くの兵を犠牲にしてしまったことを反省し、その後も自らを戒め教訓とするために、常にその「しかみ像」を傍らに置いていたそうです。

徳川家康といえば「タヌキおやじ」とか「ズル賢い」とか「織田信長豊臣秀吉の手柄に乗かった」とか、かなりイメージが悪いのですけど……… 彼はその三傑の中では幼少期から最も苦労し、敗戦から多くのことを学び、信長や秀吉の片腕となって働きました。そして何よりも、戦のない世の中を実現させた功績は大きいです。 徳川幕府に対しては賛否両論あるのですけど、260年以上も平和な時代が続き、その礎を築いた家康を、私は尊敬しています。 なので、彼の未来の姿でもある出世大名家康くんのことを少しでも誉めていただけると、嬉しいです。


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「ヌートリアに逢いたい!」佐鳴湖編

2018-09-08 00:44:50 | 探求シリーズ
こんばんは、白黒茶々です。
ヌートリアは、ネズミ目ヌートリア科に属する哺乳動物で、原産地は南米となります。



水辺に住んでいることから、沼狸などの別称があります。カピバラに似ていて、愛くるしい姿をしているのですけど、本来分布していない日本でも繁殖し、農作物への被害や在来の生態系の破壊を伴うことから、特定外来生物に指定され、駆除の対象となっています。
そのヌートリアが、最近は浜名湖を通り越して、伊場遺跡のすぐ近くを流れる堀留運河や、佐鳴湖でも目撃されたというのですよ も、そのヌーさんに逢ってみたい



………ということで、私たちは佐鳴湖にやって来ました 実は私がワンコを連れてこちらを訪れるのは数年ぶりで、波にとっては初めてとなります。外周が5,5kmもあってかなり広いのですけど、以前にも散策したことがある西岸から攻めていくようにします。



まずは、その湖岸を歩いていってみます。 なんかこの段階から、ヌートリアがいそうな気配がしていましたよ。 それから間もなくして………



私たちの目の前を、カニが横切りました。彼らは湖岸のすぐ近くに穴を掘って住んでいるみたいですね。そんな彼らに波ちゃも興味津々のご様子ですけど、それ以上近付いたら、ウケを狙ったワケではなくても「(ハサミで鼻を)挟まれた~ 」というギャグになってしまいますよ。



さすがに暑くなってきたので、園内にある「あづまや」でひと休み。 お波さん、ヨダレがスゴい……… って、危うく前回の日記の再現VTRになるところでした。 この波ちゃは後ろ足が真横に開いているのですけど、決してヨガのポーズを意識しているというワケではありませんよ。
ここまでは私の直感を頼りにして捜索してきたのですけど、ヌートリアはおろか、足跡や糞といった彼らの痕跡さえも見つかっていません。 なので、作戦を練り直すことにしましょう。佐鳴湖とはいってもあまりにも広いので、その全域を探し歩くのはさすがに厳しいです。それならば、多くの目撃情報がある場所を重点的に探せば、きっと見つかるハズです そのような流れで、私がはじき出した場所は……… 「あずまや」から約500m先の、佐鳴湖の西岸中央を西に入っていったところにある、根川湿地というところでした。



………ということで、やって来ましたよ こちらは人工的に造られた湿地帯で、葦などの植物が生育していて、佐鳴湖の水質浄化に一役買っているそうです。 さらにそこにはボードウォークも設置されているので、湿地の中心までグイグイと入っていくことができます。すると、そこで私は水面で動くものを見つけたのです
「あっ あれは………」
そこで、私たちが目にしたものは………



ミシシッピアカミミガメでした。いわゆるミドリガメが成長したもので、ヌートリアと同じ特定外来生物ではあるのですけど、本命とはあまりにもかけ離れています。 気を取り直して、湿地をくまなく探していったら………



今度は、ウシガエルがいました。それにしても、先ほどのカメより大きい ウシガエルは、食用としてアメリカから輸入されたという経緯があることから、食用ガエルとも呼ばれています。 私も小さい頃に、親に連れられて入った炉ばた焼きのお店で、このウシガエルのモモ肉の唐揚げを食べたことがあるのですよ。淡白で鶏肉に似ていて美味しかったのですけど、食べるところが少なかったことはよく覚えています。 あとで調べてみたら、ウシガエルまでもが日本在来の生態系を荒らす特定外来生物となっているというではありませんか なので、ミシシッピアカミミガメやウシガエルを捕獲された方は、再びもとの池や沼などに放したりしないで、うまく調理して食べるなりしてくださいませ。



そういえば、ヌートリアも食べられないこともないみたいで、実際に中国の広東料理にもあるそうです。 しかし、私がそのヌートリアを捕獲&精肉して、箔母さんに「晩御飯の食材にどうぞ」と差し出しても、喜んでもらえないと思います。
いや、今回は食べるつもりはありません とにかく、この日にひと目逢うことができるだけで充分です。その後も粘り強く探してみたのですけど、波のヌートリアセンサーは1度も作動しませんでした。



話の流れからとはいっても、食べる妄想をしたのがいけなかったのでしょうか? いや、私の作戦に問題があったのかも知れません。波の獲物センサー(名前が変わっているような………)という強力な装備がありながらも……… 彼女は、私が言うのもナンですけど、カワイイ顔をしていながらも野生的で、最近は猫の銀ちゃに闘いを挑んだり、私が止める間もなくセミを捕食したりするのですよ。 たぶん、前世は獣系の生き物だったと思われます。
※犬なので、現世も獣系なのでは?(編集部注)
しかし、この野獣ちゃんは狩猟願望はあるものの、スズメやハトを狙っても逃げられたり、銀姉さんには返り討ちに遭ったり、………と、戦闘には向いていません。 つい、波ちゃの弱点(?)まで暴露してしまいましたけど、いつか彼女とヌートリアのご対面が実現することを願っています。


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