毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

少子化で何が困る。

2019-07-21 17:33:54 | 社会

 少子化というのは本当に困った問題なのだろうか。答えのひとつは中共にある。中共は一人っ子政策をとっている。人口の膨張をふせぐためである。あたりまえだ。人口が際限なく増えたら困るのは当然である。

 いくら科学技術が進んで養える人口が増えようとも、そこには限界がある。一体人口減少を憂う人たちは、どこまで人口が増えたら満足するのか。日本の国土に見合った適正人口があるはずである。それを私はある資料で四千万と書いているのを見たことがある。これは極端にしても、すでに過剰なのは間違いない。

 なぜ日本は少子になったのか。自分の胸に手を当てれば、実は答えは皆知っているのである。逆説的に昔はなぜ子供が多かったのかが答えである。答えは簡単である。避妊技術の問題である。昔でもたくさん子供が欲しくはなかった。そして現在では教育に金も手間もかかる。だから子供は最低限となる。たとえ国からいくら金をもらっても、手間はどうにもならない。第一、2 ~3人もいれば子育ての満足感もある。

  次は結婚観の推移である。昔は大部分が見合い結婚であった。社会だから年頃の男女がいれば年寄りが面倒を見て見合い結婚させてしまうのが当たり前で、当人たちも疑問を持たなかった。疑問を持たないことは幸せである。

 しかし日本の社会は崩壊し会社社会に移行した。近隣への帰属感より会社への帰属感が強くなる。ところがの年寄りのように会社の上司が結婚の面倒を見ることは少ない。すると手段は社内恋愛結婚が主流となる。早い話が、同じ会社の中で自主的に見合いをしているのである。

 そしてテレビや洋画などの普及に伴い、若者は恋愛結婚にあこがれる。だが恋愛などというものは心の病気である。若者に特有な一種の脅迫神経症である。あるいは惚れたり惚れられているに違いないと勝手に思い込む加害妄想ないし被害妄想である。一対の男女が精神病的妄想に陥ったのが恋愛である。

 だから恋愛は青年の特権で、いい年をして恋するなどというのは尋常な神経の持ち主ではない。見合いは日本では本来、健全な結婚システムなのだ。そもそも恋愛結婚などというものは遊牧民族社会に特有な、略奪結婚を基礎にしている。だから西洋には見合いというシステムがないそうな。民族のシステムは民族の必要が開発するものである。

 だから日本人で恋愛結婚などというものをするものはろくでなしである。情におぼれて本来の社会のあり方を忘れたろくでなしである。だが今は親も見合いをすすめない。

 そもそもこの頃は、親が子供の見合い相手をさがせない。しかし本来日本では恋愛結婚は例外なのだから、誰でも恋愛結婚するわけではない。だいいち恋愛をしても結婚するとは限らない。だいたい昔の見合いは即結婚である。恋愛はそうではない。

 自由である。だから結婚率が低下する。夫婦当たりの子供の数が減り結婚する率が減るのだから子供が減るのは当然である。だが以上のような説明を公然としたら袋ただきにあうことは目に見えている。だから誰も本当のことは言えない。

 言えないから対策は減税だとか、報奨金だとか見当違いなことになる。だから効果はない。効果はなくても何かしなければ批判されるから、効果がないと分かっている対策を次々と打ち出す。報奨金や減税は教育費に比べたらすずめの涙にもならない。金を与えて子供を生ませるなどとは人権無視もはなはだしいではないか。

 はなから効果がないことを皆暗黙のうちに知っているから誰も無意味な対策を批判できない。人口減少はいつか止まる。適正人口になったときに必ずとまる。少子化が困るのは人口減少によって人口の年齢構成がいびつになることである。適正人口まで減る過程が問題なのである。

 年金なら少数の若者が多数の年寄りを支えるから困るのである。すると人口が適正になって安定すれば支障はなくなる。ものごとは変化があるから困るのである。江戸時代のような変化のない安定社会は永続できる。だが日本は世界に門戸を開いた途端に、社会に変化を起こすことになったために支障をきたしている。

 だから現在なすべきは少子化対策ではなく、変化に耐える方法を考えることである。例えば年寄りになればどんなに収入があってもためた年金はもらえる。高齢の政治家でうん千万円の収入があるのに、一方で90万円の年金だけをもらっていると所得番付の発表があった。

 この90万円は無収入の人には大切だが、この政治家には何の意味もない。高収入の年寄りに年金はいらない。彼らには税金だと思ってもらって、年金を受ける権利を放棄してもらうのである。例えばの話である。

 とにかく少子化は止まらない、日本の人口は過剰であると自覚することが必要である。夫婦当たりの子供の数が少ないのも、若者が結婚したがらないのも天が仕組んだものである。

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創氏改名

2019-07-21 16:52:30 | 歴史

 山本七平氏に「洪思翊中将の処刑」という著書がある。朝鮮人の日本陸軍軍人の物語である。この名前を見て不思議に思わないだろうか。当時日本では朝鮮や台湾に創氏改名を強制したと巷間では騒ぐ人士が多い。

 しかしそれならばこの名前は何であろうか。しかも陸軍の将軍が朝鮮名である。洪中将は陸軍大学の同期のトップグループで中将に昇進している。だから彼の同期で大将はいないのである。当時黒人は劣等人種だから将校になることはおろか、武器さえ持たせてもらえず、物資輸送や調理などにもっぱら使われていた米軍とは正反対である。

 それならば洪中将は創氏改名はしていなかったのか。正確にいえば創氏はしていたが改名はしていなかった。誤解されているが、創氏とは日本風な苗字をつけるという意味ではない。朝鮮や中国のファミリーネームは姓である。正確に言えば姓はファミリーネームではないがとりあえずこうたとえる。

 姓は結婚しても変わらない。血族のファミリーネームを引き継ぐのである。例えば蒋介石の妻は宋美麗である。日本では欧米と同じく結婚すると夫婦は同じファミリーネームにする。本当の意味のファミリーネームであろう。嫁は家に入るのである。家族の絆が近代社会の要件であると考えた日本は創氏を朝鮮と台湾で行った。

 現在の洪という名前を氏として登録する。するとその妻も洪という氏を名乗ることにする。ただし戸籍には妻の元の姓は保存記録されている。例えば金氏が金田という日本風な氏を望めば、金田という氏を名乗ることができるが、金という姓は戸籍に残る。

 洪中将の場合は日本風な名前を申請せずに放置したために、自動的に洪という姓を家族の氏(ファミリーネーム)としても、そのまま当局が勝手に登録したのである。つまり洪氏は自動的に創氏されていたのである。改名の方は強制ではなかったから、日本風な名前を欲しいものだけが申請して改名された。

 創氏改名の動機は当時満洲や外国に進出していた朝鮮系の人たちが日本風名前の方が商売など仕事に有利だというので、改名の要望が多かったからである。従って改名した者は当然、氏も日本風なものが欲しかったために、氏名ともに改めてしまったのである。

 従って洪中将のように名前を変えないものは氏も新たに作ることはないから朝鮮名が全て保持されたように思われるが、創氏は行なわれたのである。ちなみに同化や民度の相違ということで朝鮮では改名は申請だけで済んだが、台湾では許可制で必ずしも認められなかった。洪中将の例の様に日本風に名前を改めなくても陸軍は差別しなかった。それどころか優秀だというので陸軍大学の同期で最初に中将にする位公平だったのである。小生の父は、陸軍軍人として出征した。口癖に「軍隊は金持ちも貧乏人もない、公平なところだ」と言った。貧富ばかりではなく、民族差別もなかったのである。

 私事だが平成5年に不思議な体験をした。米国出張の際にシカゴのホテルで、トラベラーズチェックを現金に換える際に30歳過ぎ位の東洋系の女性のキャッシャーがトラベラーズチェックを見ると、あなたのファーストネームは「トミオ」かと聞いてきた。会話はもちろん英語である。トラベラーズチェックには真似されないようにわざと漢字で書いてあったから漢字を読めるのに違いないと思い、日本人かと聞き返した。

 すると彼女の父の名前もトミオと言い、台湾出身だと答えた。会話はそれで終わった。その時は何も気づかなかったが、考え直すと奇妙である。彼女は台湾出身なのに漢字の「富雄」をトミオと日本風に読めたのである。年齢からして彼女の父は戦前生まれである。そして父は娘にトミオという日本読みを教えていたのてはなかろうかと思うのである。そのことにとっさに気付いていればもう少し事情を聞けたのに後の祭りであった。

 ちなみに、台湾系日本人(帰化人)の黄文雄氏は、戦前生まれで、親は、文雄を日本風につけたのだろうと小生は推測している。

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書評・日本兵を殺した父・デール・マハリッジ・原書房

2019-07-20 14:09:07 | 大東亜戦争

 太平洋戦線で戦った、元海兵隊の息子が書いたもので、父の部隊の戦友たちにインタビューなどしてまとめたものである。公式文書は残っていないものの、多くの図書でも明らかにされているように、太平洋戦線で米軍は、上官から捕虜をとるなと命令され実行している。特に海兵隊は徹底していたと言われている。しかし、著者の父は戦闘でただ一人の日本兵を射殺しただけである。読後の全般の印象だが圧倒的戦力で日本軍を蹴散らしたと考えられている、ガダルカナル、グァム、沖縄などの戦闘で米地上軍は苦しい戦いを強いられていたということである。

海兵隊には日本女性を強姦する癖のあるものがいる。(P62)強姦は2人が証言しているが、ばれても絞首刑にもならず、上官の教唆などにより足を撃って病院送りになって刑を免れている。12人の証言者のほとんどが、投降した日本兵を殺害したり、負傷して息のある日本兵を撃ったりナイフでとどめをさしたことを証言している。「アメリカ軍は日本兵が最後のひとりまで闘ったと宣伝し、多くの歴史家もそれを信じている。」(P87)というのが嘘なのだ。日本兵にも白旗や手を挙げて投降したものが多くいたが、皆殺してしまった。それが知れ渡ると当然投降者は減って死に物狂いで闘うしか無くなる。

捕虜の殺害には、皆で石をぶつけて殺したと言う非道なものさえある。誤解による殺人もある。陰部を切り取られて胸の上に置かれている海兵隊員を発見した。近くにいた日本兵を犯人として撃ち殺した。(P106)同様な事件が起こったが、調査隊が調べると海兵隊員は手劉弾で死んだこと、陰部は手榴弾で吹き飛ばされたことが分かった。(P122)日本人には死体の陰部を切り取る趣味はない

人種偏見も露骨である。「捕虜が極端に少ないのは、こちらが生きのびるにはそうするしかなかったからだ。敵は確実に殺せと部下に教えこむ必要があった-やつらは異教徒みたいなものだ。ジャップを殺すのは、油断のならないガラガラ蛇を退治するのと同じだった。ヨーロッパではこんな気持ちにはならなかった。ドイツ兵でも、こいつにも家族がいるんだと思ったよ。だけどジャップは別だ。ガラガラ蛇を殺すような気持だった。」(P143)というのだから日本人は獣扱いである。そもそも「アメリカ軍のほうも捕虜を連れて移動する体制をとっていなかった。」(P144)のだからバターン死の行進どころではない、移動させするのが面倒で殺してしまったのだ。

反対に日本人に好意的な見方をする兵士もいた。中国の青島に行って、日本兵の降伏に立ち会うとホフマンという兵士は、「中国人は泥棒や詐欺師の集団だった。だが日本人はひたすら礼儀正しく、私たちが正式に引き継ぐまで秩序をしっかり維持していた。」(P256)前に紹介したのは黄色人種に対する、あらかじめ刷りこまれた偏見であり、後者は現実の中国人と日本人に相対したときの感想であるから当然であろう。

アメリカ兵士の多くがしている不可解な行動がある。既に知られているが、米兵は日本兵の死体から、金歯を抜いて集める者が多いのだ。酷いのは、生きているものから抜く場合もたまにある。いずれにしても、偶然ではなく多くの兵士が、このような行動をとるのは理解不能である。また死体から耳を削ぎ取るのも例外ではないようだ。これはベトナム戦争でも行われたが、自分の戦果を誇示するための様である。戦後欧米の行動の間違いに気付く者もいる。「アメリカ、ヨーロッパ諸国、イギリスがみんな中国を狙っていて、ジャップをのけ者にしようとした。日本人はこう言いたかったんだ-おい、なんで俺たちを締め出すんだ?パイのひと切れをもらったっていいだろう?資源の取り合い、要するにそういうことだ。戦争はそこから始まるんだよ。」(P268)と戦後勉強したブラザーズという元兵士の言葉である。

沖縄で闘った米兵は、ワセリンではないと消せない白燐手劉弾を使った。「燐の炎は衣服を燃やし、肉を焼いて骨に達した。その苦しみようはすさまじく、とくに子供は見ていられない。二人の海兵隊員が大声で笑っていた。極限の恐怖に耐えきれず、残忍さをむき出しにしている。」(P210)これが人道的な米兵の姿である。消す手段がない、燐という「科学的」兵器で合理的に残虐行為を行うのが米軍の特色である。

著者はアメリカの過去の批判も厳しい。グアムを征服すると、ある上院議員は「我々は世界の交易を手中に収めてしかるべきでありましょう・・・これはアメリカが果たすべき神聖な使命であり、我々に利益をもたらし、人間に許される最大の栄光と幸福を実現するものであります。」(P82)と演説した。すなわち世界征服宣言を公然と行ったのである。白人のマジョリティーの精神とは、今もかくのごときものである。

米西戦争でフィリピンを騙して奪うと「アメリカ支配を良しとしない人びとが反乱を起こしたが、アメリカ軍兵士は彼らを虐殺し、囚人を処刑し、水責めの拷問で何千人も死に至らしめた。」(P82)イラク戦争でも米軍は水責めの拷問をした。水責めはアメリカ人の得意技であるようだ。「この国は戦争が好きなんだ・・・土地を手に入れるためにインディアンと闘った。カリフォルニア欲しさにメキシコを敵に回して、まんまとものにした。」(P182)と著者がインタビューした元海兵隊員が語っている。

これらの米兵の残虐行為に対して、沖縄の日本人の証言は全く異なる。アメリカ兵に連れられて行った日本人は応急措置を受けたことを感謝して「これが日本兵だったら、殺されるか、放置されて死ぬかどっちかだったな。」(P315)というのだ。どの日本人の証言も似たようなものである。この日米の認識の落差が沖縄の反戦運動の淵源である。だが矛盾であろう。米兵は人道的であり、日本兵が非人道的であるのなら、なぜ反米基地闘争をするのであろう。もちろん中国の謀略に踊らされている面もあろう。だが本当は米軍も残忍に日本の民間人を殺したことを心底のどこかに、記憶しているのではなかろうか。

筆者はある沖縄女性のインタビューに関して「直接会って話を聞いたときにはあえて反論しなかったが、アメリカが近代戦で民間人に配慮していたという大西正子の主張は誤りだ。大国アメリカの歴史を振りかえると、軍部も市民も民間人の犠牲は看過してきた。沖縄でもそうだったし、いまも変らない。」(P363)という。これが事実である。だからこそ、多数の父と同じ部隊の元海兵隊員をインタビューしたなかから信憑性のおける12人の証言だけをセレクトしたと言う、検証をおろそかにしないはずの著者が、でたらめな、アイリス・チャンの本を読んで、南京大虐殺について疑いもしないのだ(P364)。つまり、米軍だってグアムで、沖縄で、イラクで民間人を虐殺した。だから日本軍だって同じなのだと思うのだ。筆者はアイリス・チャンの友人だったそうである。ピューリッツアー賞を受けたほどのジャーナリストで、本書の証言に慎重にチェックをしたものを選んだほどの著者ですら、彼女のでたらめを信じている。まして他の米国人一般は推して知るべしであろう。


少子化異見

2019-07-19 22:17:38 | 社会

 私には少子化は世間で論ぜられているほど絶対悪だとは思えないし、少子化そのものの対策があるとも思えない。少子化についての意見が見当違いなのは、突き詰めれば少々品のない言葉を使わなければならないこと隠すからである。この点はご容赦願いたい。

○少子化の原因
 少子化の最大のものは誰も口にしない。昔の子だくさんだって、そんなに子供などほしくはなかったのである。だから江戸時代などは間引きなどというものが行われたという。現代の日本では子供がたくさん欲しくなければ、そのようにコントロールできるようになっただけのことである。

 第二の原因は若者が結婚しなくなったことである。私は昔の社会と現代の核家族あるいは会社社会と言われる両方の状況の経験者である。昔なら相応の年齢の男女は近隣で面倒を見て見合いさせてしまった。昔の見合いは、結婚前に顔合わせをするだけのことだから、即ち結婚である。

 狭い体験による偏見かも知れないが、このような結婚は多くの不幸な女性を生んだと私は考えている。昔は結婚は義務であったのである。多くの女性は不幸に甘んじて、年老いてやっと不幸を忘れることができる。社会のなくなった現代社会にはこのような義務はない。だから多くの男女は結婚しないという自由を選択できるようになったのである。

 かくいう私は見合いの経験がない。一緒にいたいという女性がいて、一緒に暮らし始めたというだけのことである。私は好きでもない女性と一緒に住むという傲慢に神経が耐えられない。だから多くの男女が結婚するかしないかということを自由に選択することを望む。何も職業に専念するためにキャリアウーマンになるからなどという屁理屈をこねなくても良いのである。

 それに私のような自堕落な世代の人間は、支えて叱責してくれる人がいなければ、今日まで生きてきたかあやしい。世評と逆だが、それに比べれば現代の青年ははるかにしっかりしているように思える。おとなしい私ですら、独身寮の窓ガラスを割って自室に帰ったなどという野蛮をした。酔っ払い運転は公認だったのである。とにかく結婚は減るべくして減った。これらの理由により少子化は当然である。

○愚かな少子化対策
 以上のように少子化の原因を考えれば、少子化対策なるものが全くだめとは言わないにしても、焼け石に水であることは間違いない。子供がたくさんいれば減税するとか、教育費の補助をするとか、そんなことで子供を増やす家庭がどれほどいるか、胸に手を当てて考えればわかる。

 産休を長くするとか、男にも産休を取らせるとかすることがどの程度実効性があるか。経営が大変な大多数の会社ではこのような対策は迷惑であろう。そのためにリストラがでかねないのである。実現可能なのは、このような対策がなくても困らないような企業に勤めている人たちがほとんどではないか。つまり必要のない会社に対策をしているのではないか。また産休が充分取れるからもう一人子供を、などという家庭があるとも思えない。このような対策で子供が増えるという発想こそ、子供の生命を軽んじているように思う。

○少子化は悪か
 人口が減ると困るという人に聞きたい。日本の人口は増え続けたらどうなるのかと。日本の国土では既に人口過剰であろう。日本の適正人口は四千万人であるという説を聞いたことがある。これが正しいか否かを別にしても、適正人口はあるはずである。色々な原因があろうが、日本で少子化が起きているのはマクロの意味で人口過剰に対する自然の摂理のように思われる。日本の人口が一方的に減り続けて適正人口も割り、しまいに日本人がいなくなるような日は来ないと思うのである。

○少子化対策その1
 少子化を防ぐ対策はないと言った。それは少子化対策がないの意味ではない。現在が過剰人口であるとすれば、適正人口に近づくのはむしろよいことである。問題は人口が減少するという変化が起きていることである。初めから人口が今の半分でも、その状態で変化しなければ困らないのである。

 つまり人口が減少する過程では、若年に対する高齢者の割合が増えていることが障害を起こすのである。つまり労働人口に対して、働けない被扶養者が増えることが問題なのである。

 少子化の最大の問題は年金対策であろう。これには二つのことが考えられる。現代の高齢者は三十年前に比べれば、10年は肉体的にも精神的にも若い。昔の60才は、今の70才に相当するというのが一般的であろう。しかし60才定年である。再雇用の道はあるが役員などを除いて嘱託で、しかも給料は大幅に下がる。

 団塊の世代が定年となって困るといわれているが、実際働けるのなら正職員として働いてもらえば良いではないか。定年をあくまで変えないというのは、企業のエゴである。定年を変えずに嘱託にすることによって、団塊の世代の技能や知識を生かせる上に、大幅減給することによってコスト削減ができる。しかし当人はかつての部下に使われるという、屈辱を味わうが仕方ないとあきらめる。

 このような議論がでないのが私には不思議でならない。働けるのに60才定年でしかも、年金は出ないというのは理不尽である。国策でせめて65才定年を基本にすべきである。そうすれば国民年金の支払いも増えるのである。人によっては70才定年でも良い。その場合、給与条件が良ければ年金は支払わないのである。

 もうひとつは、年金受給資格年齢になっても高収入の人には年金を支払わないことである。高齢で高収入の人は意外にいる。1500万円の年収の人には年金が必要とは思われない。しかし一方的に権利を剥奪するだけでは困る。高齢になり収入もあるとなると人は名誉が欲しくなるものである。

 従ってこのような人には叙勲などの名誉を代替措置として与えればよい。公務員に偏る現代の叙勲制度は、多くの民間人の高齢者にも年金を受給しない条件だけで、叙勲を与えることにより不公平が是正できる。

○少子化対策その2
 少子化で困るのは労働人口の絶対値の減少である。そこで外国人労働者の雇用が考えられる。実はこれは不公平である。外国人労働者しか働かないというのは、言いたくはないが、3Kであったり少ない給与しか支払えない仕事である。国際貢献などときれいごとを言っても、事実は日本人がやらない仕事を薄給でやらせるのである。体のいい差別である。

 この原因は必ずしも少子化ばかりではない。3Kでも何でも日本人がやっていた時代がある。父もその時代の人であった。専業農家で現金収入が少ないため、建設労働者として農閑期に働いていたのである。このような時代は、実は日本の給与水準が欧米より低かったのである。根本の原因は日本人の高所得化にある。

 日本人の給与水準が世界のトップ水準になると、一面で不都合が出るのは当然である。輸出産業ですら全てが高給に耐える、高付加価値のものばかりではない。工業製品は外国の工場の安い労働力に頼れるが、商店や建設産業はそうではない。あくまでも国内で働かなければならないからである。

 最初の対策はパート化であった。付加価値の少ない仕事はパートにやらせる。そうすると正職員に比べ、社会保険などの諸経費がかからない。露骨に言えば正職員なら暇でも給与を払わなければならないが、パートなら仕事があるときだけ時間給でやとえばよい。これは差別の極致である。

 それもこれも国内外の給与格差の拡大が原因である。農家でも家電製品は買いたい、子供は大学にやりたい。現金は高付加価値産業労働者と同じく必要である。私の祖父の時代のような、自給自足で現金のいらない農家は今はない。しかし花や果実など特殊なものでない限り、高く売れない。だから安い野菜は外国産なのは、一面から言えば当然である。

 そこで対策である。日本人の給与水準を時間をかけて下げることである。高付加価値の製品を開発し続ける努力も必要である。しかし国内で働かなければならない産業には、高付加価値が不可能なものも多いのである。また国内でしか働かなければならない産業は、必要なのだから給与を上げるべきである。

 それには海外労働者の参入を段階的に減らすことである。3Kであろうと単純労働であろうと必要なのである。労働力が不足するなら給与は上がるのが必然である。そうすれば日本人が働けるだけの給与水準でバランスがとれる。つまりそれなりの賃金が払えない企業は淘汰されなければならない。以上のようにして労働力不足は解消できるというわけである。
 
 労働組合の幹部にいいたい。労働者の給与向上は聖なる任務だと思っているのに違いない。しかしベースアップによる外国との給与格差の拡大は、実は日本国内でも新たな労働者間の差別を生んでいるのである。

 このブログには不穏当な発言があると批判されるのは覚悟している。しかし専業農家に生まれ、父は3人の子供を大学に行かせるために、広かった田畑をほとんど売ってしまった家に生まれた私の実感でもある。そして今の少子化論議はきれいごとのうそが多いと思わざるを得ないのである。

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書評:日本人は何に躓いていたのか

2019-07-19 00:13:15 | Weblog

西尾幹二著・青春出版社

 外交、防衛、歴史、教育、社会、政治、経済の7分野に分けて、日本の問題点を記述したものである。外交、防衛をトップに置き、経済を最後に持っていったところに著者の意識がある。例によって興味あるコメントを取り上げる。

①外交:貴族制度に取り巻かれていない天皇制度というのは危ういのではないか(P45)というのは盲点であった。男系の減少や妃候補の不足といった問題は全てこれに関連しているからである。貴族制度などは封建思想の差別の極致などという、戦後米国によって流布された硬直した発想に囚われているのである。

 ギリシャ、ローマとヨーロッパの間には千年のアラブ人の支配されていて、地中海はアラブ世界で、ヨーロッパ人はギリシア人の末裔ではなく、ローマ人とゲルマン人は混血するが、文明としては千年の断絶がある(P64)と綺麗に整理してくれている。今日残るゲルマン神話は、アイスランドに残っていたアイスランド・サガを元にして、古代ゲルマン神話はこんなものだろうと後世作り上げたもの(P65)だそうである。

 こんな神話まででっちあげるのだから、ヨーロッパ人の歴史コンプレックスは相当なものである。ハリウッド映画では昔から、ギリシア、ローマの神話をテーマにしたものを多く作っているのはその最たるものである。現代ヨーロッパがギリシア、ローマの文明と断絶しているのは、現代の支那が漢字を発明し、四書五経の古典を書いたオリジナルの漢民族と完全に断絶しているのと同様である。だからこそ、中国4千年の歴史などと言う法螺を吹くのである。現代ヨーロッパは、蛮族ゲルマンが辺境から現れ、ヨーロッパ大陸を蹂躙した結果である。しかもゲルマンは自らの神話を奪われキリスト教徒に改造されてしまったという歴史の断絶を繰り返している。

②歴史:大局に於いて正しかった日本の大陸政策(P158)という項を設けているが、日米戦争はやらなければならなかったと言う持論と言い、小生が西尾氏を尊敬するゆえんである。

 「十六~十九世紀の世界は、明、清帝国、ムガール帝国、オスマントルコ帝国、ロシア帝国(ロマノフ王朝)の四つの帝国があって、それに先立つ時代に西洋は狭い、小さい遅れた地域でした(P160)」と言う。これらの帝国の内ロシア帝国以外の3つは物質的に恵まれ、技術も進み、ひとつひとつの帝国が一つの世界政府を成しているのだと言う。遅れたヨーロッパは貧しいから外に出て行き、植民地を獲得し本国に送金しなければならなかった。十四~十七世紀のヨーロッパは、わずか三年以外は戦争の連続であった。(P161)日本人は世界史についてこういった俯瞰をする必要がある。

 司馬遼太郎は日本は日清、日露戦争までは立派だったが、その後傲慢になって大局を見誤ったと言う説である。これに対し西尾氏は、傲慢になったのではなく、勝利で大国となったのだがその自覚がうまくできずに、適応しきれなかったと述べる(P166)。恐らくそれが正解である。どこの国にも傲慢なものはいる。それと戦争への勝利をリンクさせて傲慢な人間を強調して見誤ったのが司馬である。司馬は眼前の敗戦に呆然とし、目の前の同胞の愚かさだけが目につき、日清日露の戦役に勝利した日本人が偉大に見えたのである。戦前の日本人は欧米人に比べれば遥に謙虚であった。今の日本人が愚かになったのは、アメリカの占領政策が根本原因である。日本人は変えられたのである。そして日本人は今のアメリカだけを見て、ペリーの時代も大国であったと誤解しているが、実際には五大国の中には入っていなかった。第一次大戦の終了後は現在のイギリスの歴史の教科書に「二つの若き大国の出現」と書いてある(P168)のだそうである。

 意外なのか意外ではないのか、アメリカは、日本やヨーロッパと異なり、共産主義に好意的であったということである(P170)。だからアメリカがシベリア出兵したのは、日本が支援するシベリア極東共和国を倒して、自前のシベリア極東共和国を作って、トロッキーと組んでシベリア開発を行うことだった(P171)。このアメリカの甘さが、全てを無に帰すことになったのである。確かにアメリカは共産主義を民主主義の一種と誤解し、ファシズムと区別していた節がある。

 西部邁、小林よしのりは保守と言いながら不可解な人物である。両氏は反米テロを礼賛する。西部氏に至ってはビンラディンをキリストになぞらえる(P189)のだ。小林氏はニューヨークへの9.11テロを特攻隊になぞらえる漫画を描いている。だが、特攻隊は軍艦を攻撃したのであって、民間人を標的にしたテロリストとは全く異なる。小林氏は女系天皇容認論まで唱えており、彼の思想には時々混乱が認められ、不可解ですらある。最近の言動を見ると小林氏はただカッコ良いことを言いたいだけなのだろう。その証拠に彼自身をいつまでも若くてハンサムに描いている。

③政治: いわゆる55年体制の自民党の派閥の説明は、これまでの蒙昧を晴らしてくれた。自民党長期政権の時代には、自民党独裁と言われたがそうではなく、派閥の主流交代によって党内で政権交代が行われているのも同じだと言う言説が保守の側からなされていたし、小生も何とはなしに同意していた。これ自体は間違いではないのだが、西尾氏はもっと深く分析している。

 派閥は結局は派閥であり、各々の思想を持った政党ではなかったというのだ。派閥は結局は思想の異なる人たちの集団で、人脈と金で離合集散していたのに過ぎない。自民党全体としては右から左までの日本国民が持つ思想の分布の人間から構成されていたのであって、決して左翼に対抗できる保守政党ではなかった(P272)のだ。ただ自民党の思想の数的分布が国民の思想の数的分布に比例していたから、全体としては左翼政党となることを避けることが出来たのである。

これが平成22年に政権についた「民主党」と異なる。民主党の組織票は極左翼の労働組合しかない。これでは永遠に政権は取れない。そこで「保守的」「あるいは「自由主義的」な組織票を持たない人物が表に出ることにより、あたかも自民党に類似した政党に見せかけて、無党派層の票も取り込んで政権を取ることに成功したのである。これに対して社会党と共産党は確信的なマルクス主義政党であったから、国民は一定以上の議席を与えなかった。これで自民党に野中広務や加藤紘一のような、思想的には左翼としか思われない人間が長老として存在していた一間不可解なことが理解できた。彼らは利権の亡者というところだけが自民党らしかったのに過ぎない。

④経済: ここでも歴史で述べた司馬史観が否定されている。「・・・日本人は同じ健気さと、同じひたむきさで生き続けたと思っております。にもかかわらず、自分が日露戦争の戦勝の後に大国となったということに気がつかなかった明治人、そして現実が急変し、その後アメリカが新しい悪意を示して太平洋に変化が起こるのですが、その現実に対し大国としてのルールで渡り合う気概と計略が欠けていたことが問題だったのです。つまり、環境が変わったのに、今までと同じやり方、考え方、日露戦争まで上向きになって一所懸命獲得してきた日本人の劣勢の生き方というものを続けていた結果の失敗です。決して傲慢になったからではなくて、現実が変わり、アメリカが戦争観を取り換えたという、その現実の変化を見ながらそれに堂々と適応できなかったのが失敗の原因ではないかと思います。(P303)

 戦前の日本の失敗をこれほど的確に示したものは少ないであろう。日本はヨーロッパの権謀術策のルールは学んだし、学ぶことは可能であった。だがアメリカの対応というものは不可解で予測不可能であったのである。だから司馬遼太郎のように傲慢だと切り捨てるのではなく、戦前の日本人に万感の哀惜を持つのである。

 日米構造協議などにおいて、日本の国内に「植民地型知識人」が多数いるという。例えば堺屋太一や天谷直弘で、米国の対日圧力を、「日本の消費者の役に立つ提案を米国はしてくれた」と日本のマスコミに呼びかける(P319)。西尾氏はたとえ良いことでも外国の意志で行えば、自国を裁く基準を外国にゆだねることになるというのだ。日本国憲法が米国製だと分かっても護憲派と呼ばれる人たちは、良いものは良いのだと言って恥じないのも同じ精神構造による植民地根性なのであろう。

 西尾氏が郵政民営化に反対するのは分かるが「国鉄の民営化は成功したといわれていますが、地方線が廃線になって苦しんでいる人は多いのです。公平が安心感を与え、統合が国力を産む明治以来の国民的努力はあっさり否定してよいものでしょうか。(P323)」というのは一面だけの真実である。戦後の経済成長は自動車産業と共にあった。同時に道路も整備されていった。これらが鉄道との調整なしに行われたために、鉄道の衰退の予兆はあった。そればかりではない。国鉄は労働組合の巣になっていて、国鉄を悪くすることが革命の狼煙である、という思想から故意に国鉄を悪くしていったのである。

 国鉄民営化の真の目的は労働組合潰しである。遵法闘争なるものを繰り返して営業の妨害をするから、労働運動を正常化するためには民営化するしかなかったのである。過激な組合活動をしても首にできない官公労はどうにもならない存在であるからである。国鉄をあのまま放置すれば、組合活動によっていずれ国鉄は潰れたのである。この点が国鉄民営化以後に行われた各種の民営化と異なる点である。

 西尾氏に欠けているところが唯一あるとすれば、過激な左翼思想の労働組合、という視点がないことであろう。政党においても左翼の力の源泉は労働組合、特に官公労である。西尾氏はそのようなものに対峙した経験がないのであろう。教育の項でゆとり教育の批判をしているが、それにも労働組合の視点はない。多くの公務員が週休二日制になっているのに、教師だけが週休二日ではないから、何とかしてくれという、労働組合の要求がゆとり教育の始まりだと私は考えている。単に休みを半日増やすのでは変だから、教育の密度を減らして「ゆとり教育」ということにした。

 考えてみれば授業時間を短くすれば、教育の密度を増やさないと同じ授業の進捗率が保てないのは当然である。それで、ゆとり教育という名のもとに授業の進捗率の低下など、教育密度の低下を容認したのである。これは日本的な言葉の詐欺である。その詐欺がまかり通ったのである。左翼思想に支配された労働組合の繁栄は日本を亡ぼす。

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日本軍の敗因 「勝てない軍隊」の組織論 藤井非三四 学研

2019-07-18 23:51:49 | 大東亜戦争

 近年の著書なので、意外性を期待したが、従来の日本軍批判と大差なかった。根本が戦後流布された日本罪悪史観に汚染されている。ポツダム宣言が無条件降伏を言っているのは国際通念に対して異常だから、説明を求めて有利な条件を引き出すことができたはずた、(P38)というのだが、これは一部の人と同じく、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏を求めているのに、国家の無条件降伏と混同しているとしか考えられない。それに、向こうは交渉する気がないのに、この期に及んでどんな有利な条件が引き出せたのか、不可解な論としか言いようがない。

 ・・・ほとんどの日本人はアジアの人々を蔑視していたのが実情で、そのアジアの人々のために死んでも構わないと考えているものがいたとしたら、それはごく少数の奇特な人だけだったろう(P35)。現実にはインドネシアですら、3千人の日本兵が残留し、戦い千人が亡くなっている。これだけの人たちは残ったが、現地に心を惹かれても望郷の思いから帰国を選択した人々が多かったのは当然である。

 奇特という言葉には、もの好きだと言う厭味が感じられて仕方ない。これだけの多数が他国の独立運動に敢て残ったと言うのは、歴史上稀であろう。現在では無視されようとしているが、アジア各地ばかりではなく、支那でさえ日本兵と現地人との心温まる交情はあった。著者はこれらを無視するのである。ものごとは相対的なものである。欧米人が有色人種を人間ではなく、獣扱いして残虐行為を繰り返していたのとは、日本人のアジア人蔑視とは桁が遥かに違う。幕末の西欧の接触と共に、ほとんどの日本人がアジアの植民地化に憤ったのは事実である。

そして対米開戦と共にその気持ちを明確にしたのである。母は尋常小学校出であるが、対米開戦と聞いて、それまでの曇った気持ちが晴れ晴れとしたという意味の事を言ったが、子供の頃だったから聞いた当時は意外であった。今にして思えば、アジア人同士が戦う支那事変でなく、真の敵である米英と戦うことの正々堂々の気持ちを実感したと理解できるのである。一部知識人は例外として多くの庶民はそう思ったのである。勝てない戦争が始まったと思って暗澹たる気持ちになったなどと言うのは、ごく少数の例外に違いないか、嘘つきであろう。

 昭和十八年に東條首相が海外放送で「・・・正に戦いに疲れ、前途の不安に襲われ、焦燥する彼ら指導者が・・・洵に笑止の至りである」と語ったのは、国内向けとしてはいいが、戦争は理念の戦いだから、海外に対しては「大東亜新秩序」について鮮明に語るべきであった。(33)というのだが、日本を叩きつぶそうとして日本人の言葉など無視している欧米に、大東亜新秩序の理念を語ったところで「笑止」されるだけである。

 日本は大東亜会議においてアジアの植民地の独立を鼓舞した。日本の理念を聞いて行動してくれるのは欧米諸国ではなく、被植民地民族なのである。そして日本はそれを語ったと共に戦った。その結果日本が負けても、被植民地民族は決起して成功したのは歴史的事実である。結果論に過ぎないと言うなかれ。西欧の産業革命は、西欧の欲望と有色人種からの搾取の結果である。産業革命は技術面の結果的利点だけを特筆したのである。日本自身が、植民地解放の偉業を語らずして、誰が日本の偉業を語ろうか。

 日本兵が捕虜ではなく、降伏敵国要員として扱い「・・・戦争捕虜として抑留されているのではないから、イギリスには最善の待遇をする義務がない。そのためイギリスが与える休養は最低限のものとなり、しかもその代償として課せられた労働は、苛酷かつ恥辱にみちたものとなった」(P100)と書くのだが、一見英軍の非人道的扱いへの非難に聞こえるが、実は日本兵に対して酷薄で英国の非道を擁護する記述である。

 降伏敵国要員と言う言葉は使われたことはあるが、ハーグ条約などの戦争法規にはない言葉である。なんという用語を使おうと降伏して武装解除されて、相手国に収容されたら、それは国際上所「捕虜」なのである。捕虜ではないから苛酷な扱いをしても国際法違反ではない、と著者は言っているごとく聞こえる、とんでもない記述である。英国の苛酷な捕虜の扱いの例として「アーロン収容所」という本の例を出すが、会田雄次氏が書いたのは、日本兵は捕虜ではなく、降伏敵国要員だから苛酷な扱いを受けたから仕方ない、と書いたのではない。

降伏した日本兵を故意に死に至らしめたり辱めたりする、英国人の捕虜に対する残虐行為を非難しているのである。のみならず、会田氏の体験は一兵士の体験だから、氷山の一角より遥かに少ない事例である。例えば佐藤亮一氏の「戦犯虐待の記録」にはいかに連合国が日本人を虐待したかが読むのも辛いほど書かれている。これですら欧米兵士の残虐行為の氷山の一角に過ぎないであろう。多くの虐待された捕虜は、拷問の挙句に殺されたから、大部分の英米軍による犠牲者は証言できないのである。

小生は悲しく思う。日本人は、維新以後、世界で最も善意を尽くして生きていたにもかかわらず、支那や欧米に残虐非道な目に合わされ続けた。だが、逆に日本人が残虐非道なことを行ったと言うプロパガンダに洗脳されてしまった。そして自らの思考で考えている、とまで信じきった悲しい状態である。この本はもちろん読む価値はないとは言わない。しかし、ここに至って読むのを放棄した。

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戦争は好きですか

2019-07-13 00:33:46 | Weblog

 戦争は好きですか、と聞かれて正面切って好きですと答える人はいないだろう。だがそれは本当の気持を答えたのだろうか。大河ドラマ「風林火山」は特に人気があったという。人気があるというのは好んで見る人が多いということである。だがこのドラマの時代は戦国時代である。日本中が戦争をしていた時代である。しかも物語りは武田信玄が軍師の山本勘助を使った戦いがメインテーマである。

 なるほどこのドラマには毎回戦闘シーンが出るからいやだと見ない人もいるだろう。しかし多数派は好んでみているから視聴率が上がる。もし戦争は嫌だからといって、このドラマから戦闘シーンを抜いたらドラマが成立しない。クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」も同様である。手榴弾によるむごたらしい自決シーンもある。日本軍の絶望的な戦闘シーンがメインテーマである。私のように日本兵が米兵を機関銃でなぎ倒すシーンを見て心の中で快哉を叫んだ人も多いはずである。

 日本が勝っているシーンは、たとえ戦争であっても素直に喜ぶのである。それは本当ではないのか。それでも戦争は凄惨だからいやだ、では矛盾しているではないか。いや、矛盾はしていない。今からそれを説明しよう。そもそも、戦争はいやだと言う意見も、戦勝に快哉を叫んでいるのも、戦争の多面性の一部を表しているのに過ぎない。

 戦争にはいくつもの側面がある。このことをほとんどの人が理解していない。特に戦争は悲惨だからいやだと一方的に主張している人にこの傾向が強い。戦争の多面性とは何か。戦争にはいくつかの異なった見方ができる。それは

①政治の延長としての行動、②歴史、③叙事詩、④自己の直接体験、⑤軍事技術的側面

 実は戦争にはこれだけの多数の面がある。多くの日本人はこのことを理解しないから、世界の常識から取り残される。それを説明しよう。

①政治の延長としての行動
 イラクがクエートを電撃的に占拠併合したとき、米国はイラク軍の撤退を要求した。これは外交交渉である。しかしこれを拒否したために、アメリカは撤退期限を設定し、期限が切れても撤退しない場合は開戦すると通告した。イラクはこれを単なるブラフで開戦する気はないと見て無視したために、アメリカはイラクに侵攻して、湾岸戦争が行われた。

 この結果米国は、クェートの独立という政治目的を達成した。米国政府が行った、外交交渉も戦争も、クェートの独立回復という政治目的の手段に過ぎない。外交交渉で目的が達成されないから戦争と言う究極の手段にやむを得ず訴えたのである。

 政治としての戦争は単に政治家とってばかりではない。他国による侵略に対して個人が憤りを感じて、開戦と言う政治的判断に積極的に賛成するということもある。まさにパレスチナの人たちがイスラエルに絶望的な戦いを続けているのは、指導者の判断だけではできない。こうした国民の多数の支持がなければできない場合が多いのである。

 日本人の誤解はこの個人的な判断を過少視するか無視していることにある。独裁国では独裁者の命令により国民がいやいや戦争に駆り立てられることがあるという偏見である。独裁者スターリンですら、ドイツの侵略による祖国滅亡の危機を訴えて多くの国民の支持のもとに第二次大戦を戦った。スターリンは大祖国戦争と命名し、それまで弾圧したロシア正教会にも要請し、信者は命を惜しまず祖国のために戦った。
 
 ヒトラーはベルサイユ条約で奪われた領土を軍事力により回復し、国民は快哉を叫んだ。ドイツの「ヒトラー」という映画を見よ。ドイツ自ら起こした戦争であるにもかかわらず、侵攻する米ソ軍に対しても絶望的な戦いをしながらも、ドイツ軍は最後まで整然と戦い、国民は支持した。北朝鮮の金日成による韓国侵略は独裁者の過誤であるにもかかわらず、北朝鮮人民は祖国統一の戦争に嬉々として参戦した。

 繰り返す。独裁者がいやがる戦争に国民を駆り立てるというのは、歴史的になかったか、あるいは例外である。かのインド遠征をしたアレクサンダー大王でさえ、将兵の歓呼により進撃したが、将兵が戦争に疲れて厭戦すると故国に退却しなければならなかった。

②歴史
 歴史の一部に戦争も含まれる。戦争を歴史の一環として捉えるのである。戦争抜きに歴史は成立しない。なぜ戦争が起こったのか。政治家や軍人の戦争指導はどうだったのか、軍事技術の運用が適切であったかなどである。これは純粋に歴史を学問として捉える場合と、①の政治に生かすための実用的な側面を持つのは、歴史研究一般の持つ側面と同じである。

③叙事詩
 叙事詩すなわち物語である。先の風林火山や硫黄島からの手紙などがこれに属する。抒情詩ではなく、叙事詩は過去に起きた事実に基づくドラマである。ドラマだから、必ずしも歴史的事実としてあったことの羅列ではない。人間の内面的心情などの描写もある。だから事実ではなく、ライターの想像もある。戦争は人間の生命をかけたシリアスなものだから、ドラマとしては緊張感のある素晴らしいものができる可能性がある。

 この面を捉えれば戦争は確かに「面白い」のである。もちろん面白おかしいという意味ではない。戦争の緊張感がドラマの素材として適したものである蓋然性は高いのである。

④自己の直接体験
 戦争に行った身内が戦死する。あるいは自ら負傷するなどという実際の体験である。無事に戦争から帰ってきたとしても、人を殺したという体験によるトラウマは残るかも知れない。直接体験だけには限定すれば、戦争は悲惨なことだけに過ぎないということになる。私とて戦争により身体が不自由になれば、絶対的反戦を叫ぶのに違いないのである。

 ①の政治としての戦争などの他の意味を閑却すれば、戦争はただ人を殺し、傷つけるための活動に過ぎないということになる。遊び帰りに高速道路で事故にあった中年夫婦を知っている。夫は即死した。妻は奇跡的に助かったが下半身不随になってしまった。妻は周囲に死にたいと繰り返していた。

 この妻にしてみれば自動車などなければ良いと言うに違いない。戦争は悲惨だから絶対反対と叫ぶ人でも、自動車廃止に賛成はしまい。なぜだろう。自動車交通は悲惨な自己体験ばかりではなく、流通や交通の必要な手段という多面性を持つものだからである。自動車をなくせば現代文明は停止するからである。戦争には自己体験を絶対視して他の側面を無視するのに、交通事故だけは自己体験を軽視して、他の側面を重視するのは明らかな矛盾である。

 戦争と交通事故を同一視するのはおかしいというなかれ。日本では一時期は毎年一万人前後が交通事故死した。これは一年続いた日清戦争の死者に等しい。交通事故死を減らすことに努力が払われているにもかかわらず、これだけの人は確実に死んだのである。その犠牲の上に自動車の便利さが成り立っていると言えない事もないのである。

 戦争にしても、一方的に行われるのではない。湾岸戦争でも軍事的圧力を背景にした外交が成功すれば、戦争しなくても済む。それでも外交的圧力は、戦争も辞さずという姿勢がなければ成功しない。わざわざ戦争するよりは、軍事的圧力だけで、犠牲者なく政治的目的を達成する方が政治としては上策である。戦争においても好んで犠牲者を作り出すのではないのは自動車交通と同じである。

⑤軍事技術的側面
 現代の飛行機や宇宙飛行などは軍事技術の産物である。飛行機は戦争の道具として極度に発達した。旅客機も同様である。DC-3という軍事用の輸送機は戦争のために、何万と大量生産された。第二次大戦が終えていらなくなったDC-3は安く大量に民間に払い下げられて旅客機として使われた。その安さが民間の飛行機旅行を可能にした。それで得た資金と需要で航空機メーカーは次々と旅客機を作って今に至っている。

 コンピュータの授業を受けると最初に教えられるのは世界初のデジタルコンピュータENEACである。ENEACは大砲の砲弾の弾道計算のために作られた巨大なものである。マイコンのはしりは飛行機の機関銃の照準機に組み込まれた、アナログコンピュータであろう。

 このブログに使われるインターネットも、軍事資材の運用管理や戦車など軍用機械のマニュアルの統合運用のためのコンピュータネットワークとして開発されたものである。インターネットとして民間に解放された現在でも、軍事利用の側面は飛躍的に拡大を続けている。戦争がいやならインターネットも使わぬがよかろう。インターネットの民間への普及はコストや運用技術の発展も含めて、戦争の技術の発展を支えている。つまり戦争に協力している。

 以上戦争の多面性について述べた。このような説明を私自身聞いたことがない。だが自己体験だけで戦争絶対反対を叫ぶ人には、それでも戦争がなくならないのはなぜか、という肝心なことに故意に目をつぶっているように思われる。

 戦争反対という声が日本に満ちて多数派になったのは、戦後のことである。日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満洲事変と日本は明治維新以来多くの戦争を戦った。一部に反戦の声があったものの、多数派は戦争賛成であった。それが戦後突然変わった。これは偶然ではない。なぜか。

 あけすけに言おう。大東亜戦争の敗戦までは勝った戦争である。人々は勝てるから戦争に賛成したのである。戦争に勝って領土や賠償金を得たから賛成する、負けて犠牲だけで利益がないから反対する。一面にはそんなことなのである。戦争に絶対反対の人は、勝てる戦争なら賛成するのに違いないのである

 ベトナム戦争末期に米国では反戦運動が起こり、とうとう多数派になり政治を動かして戦争は終わった。反戦運動はソ連や北ベトナムの謀略と言う側面もある。第二次大戦ですら米国にも日本の謀略による黒人の反戦運動があった。かたや反戦運動が成功し、かたや失敗したのは何故か。ベトナムでは米国は10年戦っても勝てる見通しがなかったからである。米国民はいつまで経っても戦争に勝てないとわかったから反戦に転じたのである。それだけの話である。何と現金な反戦運動。

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正義の女神

2019-07-12 23:58:52 | 東京の風景

時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には
また理性が虚偽から
その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを
要求するであろう

 このせりふをテレビで見た記憶のある人は、それなりの年である。最近リメイク版が出たが、テレビの連続ドラマ「逃亡者」の最初か最後に必ず、このせりふが出てくる。話はご存知のように、妻殺しの冤罪を受けた医師が、逃亡して犯人を追い詰める、という話である。

 つまりこのせりふは、冤罪はいつか晴れるといいたいのである。そこで上の写真である。靖国神社の比較的目立たないところにある「パル判事」の碑である。パル判事は東京裁判で、米軍に訴追された日本の指導者に全員無罪の判決を下した人である。

 その判決書の最後に書いてあるのも、この文章であり、碑には和英両文が刻まれている。朝日新聞などはパル判決のことを、単に法的に裁けないというだけで、パル判事は日本軍を道徳的にも無罪としたわけではない、などとパル判事の息子まで利用して主張している。

 朝日新聞の主張が見当違いなのはこの碑文でも分かる。パル判事は日本の指導者を勝手に裁いたこの裁判を、熱狂と偏見により正義が失われたといっている。東京裁判そのものに怒っているのである

 当然である。植民地インドの住民として、インドが独立するかしないかの瀬戸際である。アメリカにもイギリスにも怒っているのである。それにしても、二日の発効停止で米軍に犬のごとくしっぽを振った朝日新聞に対して、決然と無罪を主張したパル判事の勇気は稀に見るものである。

 朝日は戦前は軍に媚を売り、負けると米軍に媚を売り、次はソ連。ソ連が怪しくなると中国様と、次々に強きものに平身低頭して恥じない、朝日新聞はジャーナリズムだろうか。ちなみに「日本軍を道徳的にも無罪としたわけではない」ということは実は後日、パル判事自身が述べた言葉でもある。パル判事の息子は、そのことを繰り返したのに過ぎない。この言葉はパル氏の法律家としての誇りを言ったのである。
 


再び、零戦の堀越技師について

2019-07-12 23:29:13 | 軍事技術

 以前、有名な零戦の設計者、堀越二郎技師について、飛行機設計技術者の見識について疑義を呈した。その第二段である。左は昔作ったプラモの写真である。パイロットの座席を覆う部分をキャノピー、あるいは風防(と天蓋)という。このHe112は現在の戦闘機にも広く使われている、バブルキャノピーを世界で最初に採用した実用戦闘機である。He112は旧式なオープンコクピットから始まって、さまざまなキャノピーを模索試験して、ようやく写真のようなバブルキャノピーに到達した。

He112は本国ドイツでは、不採用扱いだったが、輸出されて実用もされているので、実用機といっていい。一見して日本の零戦が、非常に良く似た形のキャノピーをしているのは分かると思う。Fw190が後方まで透明でも胴体と直線的に接続しているのと違い、機体ラインから突出しているのが特異である。

 バブルキャノピーは機体の外に飛び出しているので、特にパイロットの後方の視界が良く、戦闘機に適している。このドイツ製の戦闘機を日本が輸入して、それを見た、堀越技師は当時設計を始めたばかりの零戦の試作機に急遽採用したのに違いない。この点を指摘した航空機評論家を寡聞にして知らない。零戦の場合、旧式なレザーバックキャノピーを採用した風洞模型の写真も残っているから、間違いなかろうと推定する。

 零戦は日本で始めて引込み脚を採用した、実用戦闘機であるが、これも輸入した米戦闘機の機構を真似た。こちらは現在では定説である。技術は模倣から始まるから、そのこと自体は恥ずべきことではない。問題は、堀越技師がバブルキャノピーや引込み脚の採用の経緯を隠していることである。しかも、これらの模倣を戦後、米軍の事情聴取に堀越は、ことごとく正直に語ったというから、欧米コンプレックスがあったのである。

 技術者の将来への糧として、この経緯を残すのは貴重なことなのに、である。堀越技術は、著書「零戦」で技術上の特筆事項を得意げにいくつも挙げているのに、引込み脚とバブルキャノピーについては、全く言及しない。あたかも物まねを恥じているかのようである。そこまでは日本の技術史にありがちな隠蔽である。

 そこから事態は意外な展開をする。開戦の翌年の、昭和17年の6月、アリューシャン列島で米軍は飛行可能な零戦を手に入れた。零戦などの日本の戦闘機に手を焼いていた、米軍は徹底的に調査して、長所短所を発見した。バブルキャノピーが戦闘機に極めて有効だと判断して、以後同盟国の英国ともども、戦闘機にはバブルキャノピーを採用した。

 有名なマスタングやスピットファイアなどの既成の戦闘機も、ことごとく、バブルキャノピーに改造してしまった。だが、これが零戦の物まねである事は、堀越技師と同じく、英米の技術者も語らない。だからこれは、私の新説である。本家本元ののドイツでは、かなり遅くまで、本格的なバブルキャノピーは採用しなかった。だから英米が零戦を真似たのは事実であろうと思う。

 米国が、こういうことに関してフランクだと言うのは嘘である。実質はともかく、日本の大和級戦艦が、世界で最大の主砲と装甲を持っていたのは事実である。ところが当時のアメリカは、世界一を自称していたために、そのことが気に入らなかった。そこで何をしたか。戦後、大和級戦艦の砲塔の装甲板を手に入れて、米国最大の戦艦の主砲で砲撃した。

 みごとに米戦艦の大砲は、大和級の戦艦の装甲を打ち抜いた。世界一の戦艦は米国のものである、というわけだ。ところがわずか、数百メートルに置いた装甲板を撃ったのだ。インチキである。これでは打ち抜けるのは当然である。実際には想定する戦闘は、10kmとか30kmで行われる。それを誤魔化したのである。

 米海軍ですら、世界一を自負したいために、かくのごとき嘘をつく者たちなのである。だから、英米が零戦を模倣したなどと言うはずがない。堀越技師と同じく皆うそつきである。アリューシャンで回収した零戦の試験結果はことごとく零戦の欠点を強調して、零戦対策に資している。実は日本で実用機に最初にバブルキャノピーを採用したのは、陸軍の97式戦闘機である。設計者の小山技師は、試行錯誤をして、ようやくバブルキャノピーにたどりついたのは、ドイツのHe112と同じであるのは、技術史を考えると素晴らしい事実である。

 しかし小山技師のオリジナルは、完全なバブルキャノピーの寸前であった。設計の時期から考えて、97式戦闘機が、最後に完全なバブルキャノピーに脱皮したのは、He112の実物を見てからだと考えられる。それでも、オリジナルで直前までたどりついた小山技師のオリジナリティーは、真似をして語らない、堀越技師とは比べ物にならないと思われる。結論から言えば、零戦の最大の遺産は、後世の戦闘機をことごとくバブルキャノピーにした実績である。


中国語の普通話とは・・・中国百年の!歴史

2019-07-12 19:55:56 | 支那大陸論

小生のホームページ「日本の元気」の中の「支那論」に下記のような記事を載せた。小生のホームページ「日本の元気」アクセスするには、ここをクリックしてください。

 

北京語とは支那言語訛りの満洲語である
 2章の最初に述べたように、mandarinは北京官話と訳される。北京官話とは、北京の宮廷で使われる言語の事である。大雑把に言えば、現在の北京語すなわち、支那の標準語は北京官話をアレンジしたものであると言われている。北京官話が宮廷で使われている言葉であるとすれば、最後の北京官話は満洲語である。

これまでに論じてきたように、少なくとも康熙帝の時代には宮廷では漢人といえども満洲化して、満洲語を話していた。康熙帝伝の宮中では、使われている言語と言えば満洲語と漢文しか登場しない。漢文とは繰り返し述べたように、四書五経のような書き言葉であり、広東語のような話し言葉とは何の関係もない。そして乾隆帝の時代の公文書は満洲文字を使った満洲語で書かれていた。

 さらに難解な漢文の四書五経などの支那の古典は全て満洲語に翻訳されていた。この意味するところは明瞭であろう。現在の北京政府が普及しようと努めている標準語、普通話とは、満洲語を基礎としたものなのである。満洲語を話す漢人が、魯迅などの白話運動によって漢字表記ができるように改良されたものである。この事は日本でも明治期に、二葉亭四迷などによって、これまでの文語体しかなかった文章が、落語などの江戸言葉を基礎として口語文に改良され、これが基になって標準語が出来た経緯と似ている。いや、白話運動とは日本語の口語文成立の過程に触発されたものなのである。

 繰り返し述べたように被支配民族は強制であれ自発的であれ、支配民族の言語を習得するものなのである。しかし土着の言語があるから、その言葉は土着言語の訛りがある。例えばフィリピンやパキスタンの英語はフイリピングリッシュとかパキスタングリッシュとか揶揄される。これはフィリピン訛りあるいはパキスタン訛りの英語、と言う意味である。我々が現在中国語と称している支那の標準語とは、支那訛りの満洲語を改良したものなのである。英語で北京官話の事をmandarinと書くのは満の音をなぞったものと私は想像している。

 康熙帝より後の北京で満洲語が使われていたことを証明する資料はない。しかし康熙帝時代まで北京を首都として百年近く経つ。このころまでに北京の宮廷では満洲化した漢人が当たり前になるほど、満洲文化は普及したのである。当然満洲化した漢人や宮廷に出入りする漢人によって、これらの満洲文化は周辺地域に広く普及していった。この事は言語ばかりではなく、支那服や京劇が満洲文化オリジナルであることからも証明されるように、満洲化の傾向は康熙帝以後強まる事はあっても弱まる事はないと考えるのが自然である。さらにその後の乾隆帝の時代にも、公文書が満洲語で書かれていた事は「琉球貢表」で証明した。満洲人が漢化したと主張する人に聞きたい。支那服や京劇をあたかも漢民族文化であるごとく主張する現代中国人の倒錯をいかに説明したらいいのか、と。

 東洋で英国やフランスの植民地だった地域は言語や文化まで宗主国に染まっていたのと同じことが支那大陸ででも起きていたのである。そう。支那は満洲人の植民地だったのである。孫文らが滅満興漢と叫んだのは、彼らの独立運動である、との意識の表れである。独立を果たしてもインドが公用語として英語を採用しなければならなかったのと同じ事情か中華民国や中共にも起きた。インドやパキスタンあるいはフィリピンではそれぞれ、ヒンズー語やウルドゥー語あるいはタガログ語がメジャーであるとはいえ、多言語国家国家である。そこでどの民族語に属さずに、既に習得もなされている外国語たる英語も共通言語としての公用語に採用されたのである。

 このアナロジーが支那大陸でも発生した。漢民族といっぱひとからげにいっても、広東語、上海語といった多言語の地域である。そこで共通語として採用されたのが首都北京周辺で一般化していた支那訛りの満洲語を採用したのである。同時に、孫文などの辛亥革命の指導者はそれこそ満洲文化にどっぷり浸かっていたのである。袁世凱にしても漢人とは言え、清朝の軍人であったから、宮廷に出入りしていたから満洲文化が当然身に付いていたのであろう。同じく支那大陸を支配していたモンゴル人との違いは何か。モンゴル人は帰る土地を持っていたのである。すなわち朱元璋が反乱を起こして、元朝を倒すとハーンはゴビ砂漠の北方に逃げ、そこに王朝を移動した。明朝成立以後でもモンゴルの皇帝のハーンは存在した。モンゴル王朝は支那の支配を止めて故地に帰ったのであって、消滅したわけではなかったのである。

 当然北京周辺には、モンゴル化した漢人はいたのであろう。しかし彼らは漢人の報復を恐れて家族ごとモンゴル人について行ったのである。モンゴル化した漢人のモンゴルへの帰属意識がいかに強かったかについては、明朝に投降を呼びかけられた南方の漢民族出身の元朝の軍人の多くが投降を拒否して処刑されたことからも分かる。彼らは南方にいたために皇帝ハーンと共にモンゴルについて行くことが出来なかったのであろう。一方清朝最後の皇帝の愛新覚羅溥儀は袁世凱に騙されて北京の紫禁城に残る道を選んだ。恐らくは故地の満洲の地がロシアに軍事占領されていたり、漢人が入植していたりして、もはや帰るべき土地ではなくなっていたからでもあろう。こうして満洲人は満洲化した漢人に混じって支那北部に土着していった。それがモンゴル語が内モンゴルという一部地域に限定される地方言語になったのとは逆に、標準語として採用されるようになったのは皮肉である。

 インドやパキスタンで英語が公用語であるとはいっても、英語が通用するのは首都などの大都市周辺だけである。実際には香港では広東語が話されているように、標準語による統一が成立するとは私は思わない。現に日本で発行されている中国の反体制新聞の「大紀元時報」(平成22年8月12日付け)は、広東語擁護を掲げ市民抗議デモ、という記事を書いている。ここには「広東語は、海外の華僑圏でも広く使われている言語であるとともに、最も古い中国語の要素が残っている方言として、北京語を基礎とした普通話(標準語)が代表する文化とは大きく異なる固有の文化を育んできた」という興味深い記事がある。さらに「彭氏は、普通話は満洲族の言語の影響なども受けた北方方言の一つであるのに対して、広東語は二千数百年前の春秋戦国時代からすでに存在しており、文化的基盤が深淵である上、広東語のほうが真の中原文化を伝える言語であると述べた」と書く。私はこの主張を「普通話は北方方言の影響を受けた満洲族の言語である」とひっくり返しているのである。

 大紀元時報の主張はあたかも、たかだか数百年の支配の歴史しかない満洲族の言語文化を拒否しているようではないか。そして滅満興漢の主張のようではないか。話を基に戻すと、支那大陸では二千年続いた北方民族の侵入の繰り返しにも拘わらず、言語の分化は強くなっているように思われるのである。そして北方民族の侵入と土着化による多言語化はむしろ満洲王朝は例外ではなく、多くの異民族王朝の崩壊に伴う一般的な現象なのである。つまり広東語や上海語などのいくつかの言語のうちの多くは、かつて倒れた王朝の民族の残滓である。つまり支那大陸の言語の分布はかなり民族分布を代表していると考えられる。その事はヨーロッパの現在とのアナロジーがある。つまりドイツ語を話すドイツとオーストリーはゲルマン民族であり、フランス人はラテン系の民族であると言ったように、言語と民族の分布には、全くイコールではないにしても相関関係がある。

 こう考えると支那大陸に侵入した北方民族の興亡としては、満洲人は標準的な過程を経過したのであって、モンゴル人が例外なのである。現在漢民族と呼ばれる人たちのほとんどは漢字文化を成立させたオリジナルの漢民族からいえば、侵入者たる異民族だったのである。その点で満洲族が漢民族の一部である、と言われるのも逆の意味では当り前であろう。私がオリジナルの漢民族と考えているのは客家と呼ばれる人たちである。しかし客家語は必ずしも広東語など他の言語のようのような明瞭な地域分布がない。あるいは客家と呼ばれて中国各地に分布している場合が多い。つまりオリジナルの漢民族は外来民族に蹂躙されて、大陸の各地に分散したのである。このことは、ユダヤ人と似ているともいえる。外来民族が定住の地を得たのに対して本来土着とも言える民族が定住の地を持てないというのは皮肉である。

 ちなみにモンゴル語だけが明瞭に非漢語であるとされるのは単純な理由である。前述のように、ともかくも北方に逃亡して支那大陸以外に民族国家を維持し続けたからである。だから内蒙古と書こうとも、支那にいるモンゴル人はモンゴル人であり漢民族ではない、とされるのである。別項でも述べたように支那大陸の歴史や言語はやはりヨーロッパとのアナロジーで考えるのが正しいのである。

 10年近く前にアップした小生のホームページの記述は、以上であるが、補足すると「康熙帝伝」(東洋文庫)は康熙帝時代に清朝宮廷にいたフランス人宣教師が書いたものである。そこには「韃靼語」は宣教師皆が簡単に習得したが、「漢語」はたった一人だけが苦労して習得した、と書かれている。「韃靼語」は原文に何と書かれているか不明だが、小生は満洲語と解すべきと思う。また「漢語」を漢文と理解すれば、西洋人に習得が極めて困難なのも理解できる。

 当時の清朝の宮廷では、話し言葉は満洲語だけであり、広東語や福建語といった現在「漢民族」と呼ばれる人々の話し言葉は全く使用されていなかった。書くだけの文章である漢文だけが「漢語」として使われていたのである。康熙帝らの支配民族は漢文を読みあげたと、フランス人宣教師言った。漢字の読みは同じ漢字でも「呉音」「唐音」等いくつかの全く異なる発音がある。しかし、康熙帝の読み上げた漢文の発音はどの発音かは書かれていない。同じ漢字でも時代や民族により発音がちがうなどということは、表音文字しか知らない西洋人には想像もつかなかったのである。

 確かに満洲人の支配者は「漢人」に比べ少ない。しかし、インド、パキスタン、フィリピンでも、宗主国の支配者はごく少なかった。しかし、被支配者の中でも地位の高い者は流暢な英語を話し、地方でも訛りはあるが英語を話す者は多い。あるインド映画を見たら高級軍人は英語だけを話すが、階級が下がると英語の割合が減っていって、末端の兵士に至っては、数字だけ英語だったのには驚きもし納得もした記憶がある。満洲人は少数でも支配者の満洲人の言語や文化を多くの被支配者が取り入れたことは不思議でも何でもない。

繰り返すが、西洋の宣教師にとっては、同じ漢字が時代や民族により読み方が違うなどと言うことは想像の埒外であったろう。アルファベットなら表音文字だから、英仏語間で、ジョージをジョルジュと読む程度の違いしかないが、文字により音が規定されているのは当然なのだ。康熙帝の読み上げた漢文はどの音だったか。宣教師たちには全く分からなかったのである。かの有名な李白杜甫の漢詩を、李白杜甫が読んだ音ではない、音で読んだとしたらひどいことになろう。しかし、日本人は漢詩を日本語読み下しを詩吟にしてけっこう悦に行っている。支那人が聞いたら滑稽なのかも知れないが、日本人には感動ものなのである。

 以上のような、北京語(普通話)とは満洲語がもとになっている、というのは「康熙帝伝」の記述と那覇で見た「琉球貢表」からひらめいた小生の仮説である。補足すると琉球貢表とは琉球王朝が乾隆帝に貢いだもののリストであり、清朝向けの公文書の言語として満洲文字が使われている。その文字は印刷したようにそろった美しい者だった。満洲文字とは、モンゴル文字によく似ていて漢字とは全く異なるものである。逆に琉球側の公用語である漢字が、下手くそな文字で書かれていた。

 この仮説と初めて同じ見解を述べた本を見つけた。正確にいえば小生が初めて出会ったのに過ぎないのかも知れない。

 その本は楊海英氏の「逆転の大中国史」である。この本の主たる主張は、支那大陸の歴史は、清や元などの例外的な異民族王朝の間に、連綿として宋や明といった漢民族王朝の歴史があった、というのは間違いで、宋や明といった「漢民族」王朝の時代にもイスラム系やモンゴルなどの諸民族の国家が並立していて、宋や明の時代ですら漢民族と呼ばれる人々による、広大な統一王朝はなかった、というのである。

 なるほど支那大陸が漢民族によって統一されていた時代は極めて短いという説は、最近珍しくはない。しかし、漢民族の統一王朝と言われた時代ですら、実はイスラム系やモンゴルなどの諸民族の国家が並立していて、漢民族王朝などはそのうちの一国に過ぎない、というのは初めて読んだ。考古学的、言語学的な証拠によれば、そもそも「漢民族」とよべるような人びとはいなかった、という壮大な説である。

 岡田英弘氏など東洋史の専門家によれば、漢字漢文を発明した「漢民族」は五胡十六国時代あたりに激減して、その文化やDNAを継ぐ者はほとんどいないと言う。オリジナル漢民族は絶滅したのである。それはローマ帝国とイタリア人の関係に似ている。単に同じところに住んでいるのに過ぎないのである。

しかし、支那の周辺から侵入した「非漢民族王朝」の随や唐王朝ですら、自らの支配を正当化する歴史の記述に、漢文による歴史の記述と言う共通した手法を用いたことにより、漢民族王朝神話は、継続した。小生の解釈であるが、ヨーロッパのように、いくつもの民族の国家が並立する中で、その中の一国に過ぎないのに、自国の歴史的正当性を主張するために、わざわざ漢文の歴史書を書いた。それが現在では、ある時代にはあたかもその一国しかなく宋や明のように、漢民族王朝が繰り返し再生したかのような偽史現在では「中国史」として流布している。「漢民族王朝」が分裂していたのは何も「南北朝」というような例外的な時期だけではなく、恒常的なものであったといえよう。

しかし小生が注目したのは楊氏の著書の言語である。次のように書かれている。

 「・・・いまの中国で使われている標準語は北京語をもとにしたものだが、北京語は英語でなんとよばれていたかというと、Mandarinである。このMandarinは、「満大人」から来ている。「満大人」とは「満洲の大人」「身分が高い人」のことをさす。つまり「旗人」だ。満洲旗人が話していた言葉が、いまの中国語「標準語」となったのだ。P267」と明快に言う。

 小生はかつてMandarinをManの音から満洲を意味すると想像したが、ほぼ当たっていたのだ。「中国の標準語(普通話)は満洲語が基だという小生の仮説と同じである。だが、その後奇妙な記述が続く。

 「いま現在、マンジュ語を話せる人、読める人は少なくなっている。中国(漢族)への同化がすすんだからだ。しかし新疆でくらす、中国がシボ族と称する数万の人びとは実は満洲人である。かれらは故宮博物院に眠る膨大な量のマンジュ語で書かれた文書の整理をおこなっている。・・・『チャイナドレス』のことを中国では『旗袍』(チーパオ)という。『旗人のドレス』という意味だ。チャイナドレスは漢人の民族衣装ではなく、満洲の女性が着ていたドレスなのである。深く入るスリットは、馬に乗るためのものなのだ。日本人が「中国」「漢族」のものと思っているさまざまなものが、じつはそうではないということを知ってほしい。」

 チャイナドレスが満洲人の民族衣装であることなどは既に書いたしかし、マンジュ語云々というのは一見前記の記述と矛盾する。満洲語が普通の基となっている、と一方で言うのに、わだわざ「マンジュ語」と言っているのだ。この矛盾を解きたい。

 中国の標準語(普通話)は北京語すなわち満洲語がもとになっているのなら、マンジュ語は普通話として普及しているのではないか、と考えるのは確かにあまりに単純である。小生が前述したように、満洲語は北京官話として宮廷で話され、従って北京市内でも普及していった。それどころか北京周辺に拡大普及していった。しかし、その後北京語を漢字表記する白話運動が起ると、満洲語は変わっていった。

 ちょうど日本語が明治期の、言文一致体の標記の普及によって、英語などのヨーロッパ言語の影響も含めて変化していったのと似ている。元々満洲語の文字表記はなく、モンゴル文字を真似て満洲文字が作られた。従って、満洲文字は漢字と異なり表音文字だから、言語と文字表記にはそれほどの乖離は生じなかったであろうが、一方で満洲語を漢字表記したことで、満洲語は変化はしたのに違いない。

 さらに北京官話は宮廷言語だから、必ずしも庶民の言語と完全に一致するものではあるまい。方言程度の差異がもともとあったのに違いない。ある言語学書で、支那の四書五経などの古典の全ては、清朝によって漢文の解釈も加えて、満洲語すなわち満洲文字に翻訳された、という。漢文は解釈が難しいどころか、漢文自体が文字表記法としては原始的過ぎ、一義的に解釈するのは不可能に近いから、直訳では理解できないのである。

それどころか、直訳では文章にはならない。なぜなら漢文には文法もなく、品詞もないからである。漢文は前述のように西洋人には読解不能に近いから、現代の西洋人の四書五経などの支那の古典の研究者は漢文を習うのではなく、満洲語すなわち満洲文字を習得して、研究するのだということが「世界の言語」という本に書いてあった。この本にはイデオロギー的傾向はなく、事実を淡々と述べているのに過ぎないから信頼できる。

 まさに楊氏の言う「かれらは故宮博物院に眠る膨大な量のマンジュ語で書かれた文書の整理をおこなっている。」というのはこのことと同じなのである。つまり今シボ族と呼ばれる満洲人は北京官話すなわち満洲文字に翻訳された、故宮の支那の漢文の古典を読めるのである。しかしやはり漢字表記された普通話と、満洲文字をそのまま使っている満洲語との差異はあるのではあろう。それにしてもルーツは同じ満洲語であるのに違いない。

 楊氏ですら満洲人が漢化した、と書く。しかし、満洲語ルーツの普通話を全国で使おうとし、チャイナドレスを中国民族衣装と言い張るのは、逆に「漢民族」が満洲化しようとしているとは言えまいか。ただ、文字表記が漢字であることが違う。現に広東語などの普通話以外を話す地域では、広東語などの保護運動が起きている。

しかし普通話が漢字もどきの簡体字を使っているのは、既に漢字から離れつつあるのに違いない。既に清朝は古典の漢文の満洲文字化という事業を行い、中共に至っては、漢文と言う「漢民族王朝」の伝統である、表記方法を放棄し、漢字を表意性の少ない、簡体字のような記号に置き換えてしまった

元々漢字を発明した民族は大昔に滅亡していたばかりではない。中共は漢字漢文を使って漢民族を自称する王朝の後継者の資格すらなくしてしまったのである。かつての支那の正統を主張する王朝は、漢文による「歴史」をねつ造して、現王朝の正当性を主張することを繰り返した。しかし、中共はそれすら放棄し、自らの正当性を共産主義や抗日運動による建国に求めている。さらに支那の王朝は独自の元号持つ。しかし、中共は支那の歴史的に初めて、キリスト教オリジナルの西暦を採用する、という歴史的転換をしている。

このように、中共にはかつての「漢民族王朝」との絶対的な断絶がある。だから言う。満洲文字を持った清朝に支那大陸と周辺国家が帝国支配され始めた時が、漢民族王朝と言う擬態が亡くなる始まりだったのである。

宮脇淳子氏は「日本人が教えたい新しい世界史」で中国4000年の歴史などと言うものはなく、始皇帝に始まる「シナ二二〇〇年なのです。(P113)」と書かれるが、小生の説では、清朝崩壊から始まる中国1〇〇年の歴史しかない。清朝の崩壊は皇帝がいなくなったばかりではない。漢文で書かれた「正史」で正統化された「擬制」による漢民族王朝は消滅した。宮脇氏の言うように、それ以前には中国と言う国はなく、中国とは中華民国から始まった(P98)のである。