毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
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書評・「坂の上の雲」では分からない、日露戦争陸戦・別宮暖朗

2014-11-30 18:33:03 | 日露戦争

 著者を信頼して読めば面白い視点の好著である。しかし、学術論文に匹敵すべき内容を包含している、という観点からすれば、学術論文としては論証に精緻を欠くし、かといって一般図書として読めば、難解である、というのが小生の読後感である。

カバーの裏の短評にあるように、日露戦争は兵力に劣った日本陸軍が、作戦能力の良さでカバーしたという司馬遼太郎の持論は間違いで、参謀本部の出来の悪い作戦計画を現場でうまく修正した優秀な指揮官と献身的な兵士がいたから勝てたと言うのである。そもそも兵力量では、ほぼ対等であったと言うのである。

確かに司馬の見方は一般的に偏見と先入観に満ちている。その意味では、今後実証すべき指摘である。以前横須賀の三笠記念艦に行ったとき、艦内の講話で、元海上自衛隊員だったと思うが、日本海海戦での日露の兵力は、日本の方が多かったから勝てるのは当然だ、と話していたのを思い出す。ただし、秋山眞之が述懐しているように、あれほどの完全勝利は奇跡には違いないのである。

児玉源太郎が奉天会戦の勝利後、帰国して、戦争を終結させるために来た、と語ったことを司馬が、日本軍は辛勝したのに過ぎずこれ以上の経戦能力はなく、今後も常勝する保証はないと判断した結果で、適切なアドバイスであるとしていて、多くの識者も同意している。しかし、本書では児玉の判断は根本的に変だと言う(P197)。別宮氏の言うのは、そもそも勝者が停戦をすることは、圧倒的に勝利して屈伏させる例外的なことなのだから、相手から講和を申し込ませるなら徹底的に経戦するしかないはずで、講和は敗者が先に申し込むものである、と言うのが大きな理由である。

小生は別な意味で児玉の講和工作に違和感を感じる。それは山本五十六が、米国には勝てないから戦争に反対した、と称揚する意見に対する違和感と同じである。児玉も山本も軍人である。軍人が政治に口を出せる最大限度は、戦争の見通しであって、開戦や終戦の判断をするのは政治家である。山本を称揚する理由や児玉の講和工作は、その限界を超えている。別宮氏が、政治家は優れた軍事知識を持つ必要がある、と書いているのはその意味で正しい。

サッチャー首相が、アルゼンチンのフォークランド島占領に対して、軍の最高指揮官に、この戦争に勝てるか、と質問し勝てると断言したので開戦を決断した、というエピソードを聞いたことがあるが、これこそ理想的に近い政治と軍事の関係であろう。ただし、日本が対米開戦を決断したことは、この理想からは例外ではあるが、正しいと言わざるを得ない。あの時点で開戦しなければ日本民族は本当に滅びていたのである。

別宮らしきユニークな指摘はまだある。それは、伊藤博文らが開戦に反対していたという通説は、誤解による間違いで、開戦に積極的だった人々と、消極的だった人々は通説は全くひっくり返しの評価であると言う。このことを無隣庵会議に言及して証明している。恐らく指摘は正しいのであろう。


保守の心得・倉山満・・・倉山氏の経済考(2)

2014-11-29 13:38:15 | 政治経済

 戦後日本が高度成長を続けた結果、欧米に追い付けば、当然外国、特に東アジア諸国との物価差も表面化してくる。平成5年頃、アメリカに短期出張した時、一緒に行った他の会社の人は、日本製のゴルフのクラブや高級カメラなどを買って日本に送っていた。運賃を払ってもよほど安かったのだそうである。日本では同じものを高く買わされていたのである。当然、日本には物価を下げるべき圧力がかかる。小生はデフレは、根本的にはこれが原因であると考えている。世界水準からは、今でも高い物価がこれ以上上がったら、発展途上国との物価差が埋まらない。特に外国との競争のある商品は、物価差は重大な障害になる。これがひとつのデフレ圧力であると思う。つまり金融政策ではデフレはなくならないと思うのである。

 倉山氏は、日本の借金は国債として国民に借りているから心配ない(P111)というが果たしてそうだろうか。国債発行残高は千兆円を超えた。この大小はさておくとしても、問題は国債つまり国の借金が増え続けていることである。このままでは無限に増え続けて行くことになる。これはどう考えても無理がある。少なくとも国債発行の残高を減らすことは必要である。建設国債を除く赤字国債の発行はそもそも法律で禁じられているのであり、現在の赤字国債は特例として一時的に認めたのが延々と続いている違法状態である。

赤字国債を発行して均衡財政から離脱したのが、昭和四十年でそれ以来国債残高は増え続けている。つまり、それまでは健全財政、財政均衡を続けていたのである。赤字国債を続けよというのなら、健全財政から離脱し続ける理由を説明してもらわなければならない。

若槻禮次郎は「・・いざ戦争となれば、増税をしなければならず、外国から借金もしなければいけない、したがって平時は健全財政を行うこと」(P116)と回顧録に書いている。これが正論だと倉山氏自身が言っているのである。ところが今の財務省は田中角栄によるトラウマから「金融緩和や積極財政は悪い者。増税だけが正義」(P117)と主張している。しかし倉山氏が何と言おうと若槻はあくまでも健全財政を行い、借金はしてはならない、ということを前提としている。

ところがこの前提がいつの間にか飛ばされて、増税は戦争のような緊急事態でしかしてはならない、ということだけをピックアップしているから話が理解できない。倉山氏はなぜ国債残高が無限に増え続けてもかまわない理由を説明をしないから、小生にはその説の真偽が判断できない。倉山氏は若槻の主張を是としている。それならば、「平時は健全財政」を行うべきである。支出を減らさないとすれば増税しか道はないのである。現に欧米の高福祉国家は消費税10%とは低い方である。

また、国債は日本国民が持っているから、というがその状態がいつまで続くのか。また金利がゼロに近いからいいが、その状態がいつまで続くのか。国債発行が多くても構わない、という説明は現在の条件が無期限に続くことを前提としている。この世界では、何かの原因でハートのエースがジョーカーに化けるか予測が出来ないのである。

維新直後の政治家は立派で、大正昭和の政治家はだめになったというのは倉山氏ばかりでなく、多くの論者も語るが皮相的ではあるまいか。確かに近衛首相のようにマルキストに取り囲まれた愚かな政治家はいた。そのため、支那事変は終わらなかった。しかし、日本が孤立したのは、非白人国家で大国の仲間入りした、というのが根本的理由であった。明治の日本は弱小であり、欧米には利用すべき価値があったが、大国となった日本には、その価値が無くなったのである。小生は思う。大日本帝国が滅びんとする時、体当たり攻撃をも辞さなかった昭和の日本国民の指導者が、根本的には愚かであったはずがないのである。

現在では評判のかんばしくない、永野軍令部総長ですら開戦決定の御前会議後「戦うも亡国、戦わざるも亡国である。だが戦わざれば魂も滅び、真の亡国である。」という主旨のことを語ったのは有名である。現在の日本の指導者でこれだけの見識がある者がいるであろうか。

増税でアベノミクスが腰砕けになり、景気が悪くなり国力が低下するから外交にも悪い、というのは飛躍している。景気が上下変動するのを阻止するのは不可能である。景気変動があることは当然である。だからといって国力は低下しない。現に日本は世界三位のGDPがある。戦後の高度成長期の間にも、好景気も不景気もあった。

景気は良くなったり悪くなったりするものであるが、長いスパンでGDPが漸増すればいいのである。いつも好景気を維持するのは不可能である。だから目先の増税で景気が悪化するから増税はすべきではない、という理屈には無理がある。景気が悪化局面にはいってしまえば、減税すれば必ず景気が良くなると言うものでもない。世論を見よ。景気が良ければ、好景気維持のため減税せよといい、景気が悪ければ景気を良くするために減税せよと言う。自分勝手なものではないか。


俯仰天地に恥じる

2014-11-23 13:40:33 | 自虐史観

 「加害と赦し」という本が出版された。「わが南京プラトーン」という著書で、当時の上官の嘘の虐殺事件を書いたとして名誉毀損で訴えられて敗訴した、かの東史郎氏とその支援者が、裁判の弁明を行ったものである。この本に「東日記を改竄した二審判決」という項があったので、国会図書館で判決のコピーを入手した。この判決は本の改竄どころか面白い指摘が多数なされていた。

 ①東氏は日記の原本は展覧会に貸したときに紛失されたと供述しているが、展覧会側はそのようなものはなかったと言っており信憑性がない。

②東氏らは300cc程度のガソリンで事件の再現実験を行っているが、自らの供述とも異なる少量で実験を行ったのは「作為的にしたものと推認せざるをえない。」

③東氏は一審では手榴弾が爆発するまでの時間を十五から二十秒と供述したが、そのようなものが存在しないことが指摘されると供述を変えた。当初の供述は殺人を準備するのにその位の時間を要することから逆算した作為による。

④東氏は現場を訪れて更に記憶がはっきりしたとして、本に書いていないことまで供述しているが、現場は当時とは風景が一変しており、「極めて不自然であり…右供述は到底信用することができない。」

⑤東氏は使用したガソリンを1合と供述したのは実験に合わせたと考えられ、本による袋の燃え方の記述と合わず「信用できない」

⑥ガソリンを抜き取った自動車の位置の供述を変更したのは、元のままでは事件を実行できないと指摘されたためである。

⑦一審では袋をかついで投げたと供述しているのに、二審では蹴り落としたと変更した。これは自らの実験で人の入った袋を放り投げるのが困難と分かったためである。

 以上のように判決では裁判官が東氏のことを、虚言癖のある信用ならない人物だと判断していることが分かる。判決によれば東氏は作家ないし新聞記者志望で文才もあり、戦地から友人に戦況を書いた手紙を送ったところ、感激したので雑誌に発表したいと言われたところ、拒絶して「そうするとしても、もっともっと訂正せねばならない」と書き残している。要するに東日記は「事実や出来事の記録ではなく」「従軍回想記ないし戦記」のたぐいで一種の文学である。

 驚いたことに昭和二十一年に東氏は「青年団報」というものに、当時の風潮を憤り「日本共産党の指導者を口を極めて批判するとともに、天皇制に対する熱烈な賛美に満ちて」いる文章を投稿したということを判決は暴露している。

 かの家永三郎氏も戦後の一時期までは、熱烈な尊皇の文書を発表したことが知られ、時流に合わせた卑劣な変節漢だというのが事実である。要するに東史郎なる人物は本来尊皇思想の持主であったが、文才があるため世に文章を発表する希望があったので、チャンスが来ると時流に迎合した「日記」を公表したが、嘘がばれた、というところであろう。

 「加害と赦し」でははるかに多い文字を要しているにもかかわらず、判決に関する反論は少ない。判決の方はよほど短いが簡潔かつ論理的な記述であり、実質的な内容は遥に多い。この本では再現実験を行って事件が可能だとしている。ところが、二審判決では実験自体が事件の再現性がないことを論証しているのにもかかわらず、これに対する反論が全くない。かくの如き次第で、実は東氏に関しては、南京大虐殺派の本多勝一氏らもあきれて相手にしていないとのことである。

 俯仰天地に恥じず、という言葉がある。嘘で塗り固めた、東史郎の行動は、これと正反対で、俯しても仰いでも恥の塊である。自身が有名になりたいと言う虚栄心のために、日本人全体を貶めて恥じない。東の子孫自身にしても、残虐な日本兵の子孫として給弾されることもあろう、ということに些かな思いもいたさないのである。

 


保守の心得・倉山満・・・倉山氏の経済考(1)

2014-11-16 15:28:14 | 政治経済

 ここでは倉山氏の経済の見方に対する異論を述べる。「二十五年連続の不況に耐えながら世界第三位のGDPを保ち」(P35)なのだそうである。つまり倉山氏はバブル崩壊以来、日本は不況が続いている、というのである。これは政府の発表する、景気動向指数による景気動向判断によれば、明白な間違いである。時期についての正確な記憶はないが、戦後最長とされる、いざなぎ景気を超える長期の好景気がバブル以後に、確かにあったのである。

 不可解なことに、その当時の報道の文言は「戦後最長のいざなぎ景気を超える、長期の景気回復」であった。いざなぎ景気は「好況」あるいは「好景気」である。それをなぜか「景気回復」と置き換えたのである。まさか倉山氏はそれに眩惑されたのではあるまい。とにかくバブル崩壊以後、好景気と言う言葉は使われなくなった。事実平成十一年には平均株価は二万円を超えていたときがあったのである。

 ところで、倉山氏は「嘘だらけの日韓近現代史」で、景気について次のように書いている。

  小泉政権によって景気は回復軌道にあったとはいえ、根本的にはデフレが続いていました。「史上最長の好況」と言われても、平常に戻るまでに時間がかかりすぎ、・・・日銀総裁が量的緩和の解除という形で裏切り、景気回復策を続けられなくなったのです。(P229)

  これはどういう意味だろう。冒頭に引用した文では、二十五年連続の不況と言いながら、ここでは一転して好景気があったことを認めているのである。次の「平常に戻る」とは何のことだろう。それにしても、好況が長く続いたのは氏も認めているのである。しかも景気が良い状態を維持している時に「景気回復策」が続けられなくなった、というのは言葉の使い方として変ではある。好況が続いている時にすることは「景気回復策」ではなく、「好景気維持策」というのであろう。

  さらに不可解なのは、「おわりに」で

  しかし、二十年続いた不況がさらに二十年続いたら。私と同い年のロストジェネレーション世代は、人生の最も重要な四十年かを希望のない時代として過ごすことになります。(P247)

 と書くのである。再びバブル以後、好景気はなかったと言っているのである。小生は揚げ足取りをするつもりではない。だが矛盾は明白過ぎる。前述のようにバブル崩壊以後、日本の景気報道は、「好景気」という言葉を使うことに極度に慎重になって「景気回復」という言葉で誤魔化している。戦後からバブル崩壊以前までの長い期間は、好況が来たと言ってどんちゃん喜び、不況になったと言って、政府何とかせいと文句を言った。戦後その繰り返しだったのである。それがバブル崩壊で人々の意識は確実に変わった

 変わったのは単に実態のないバブルという状況にはしゃぎ過ぎたことへの反省ばかりではない。バブル期より少し前から、日本経済と世界経済との関係が、それまでとは変わってきたのである。それまでは、戦後のどん底から好況不況の波はあっても、マクロには経済成長まっしぐらだったのである。

 それがとうとう世界のトップランナーの一員になってしまったのである。賃金は上がって相対的に近隣諸国より遥かに高給取りになってしまった。しかも、中国が改革開放政策で、外国資本の導入を始めると、安い賃金で中国人が使えるようになって、国内の製造業は中国にシフトしていった。つまり戦後の高度成長期の日本を取り巻く環境は、バブルの直前から変わっており、バブルとは環境の変化の象徴である。つまり、バブルより前の好景気とは、製造業が、安くて品質のいいものを国内外に販売した結果である。

しかし、日本の賃金水準が高くなり、物価が高くなると、そのような好景気を作るのが簡単ではなくなった結果、土地の転売や株式投資という、生産ではなく金融で儲けるのが一番手軽な好景気の作り方となった。その結果がバブルである。バブルのきっかけは皆様忘れたろうがNTT株の公開である。プロしか株に手を出さなかったのが、主婦までが株を買い漁れば、株への投資資金が増加するから、株価が上がるのは理の当然である。倉山氏は政治や歴史についてのついでに経済を語っているので仕方ないが、それにしても、上述のような単純な矛盾を犯しているのは不思議である。

 


米戦艦は航空攻撃に勝っていた

2014-11-14 13:29:30 | 軍事技術

米戦艦は対艦攻撃機より強い

 第二次大戦で、戦艦に対する飛行機の優位が証明された、とするのが定説である。しかし、第二次大戦中の米戦艦に関しては、話は別なように思われる。英戦艦に関しては、九六式陸攻や一式陸攻といった大型鈍重な機体さえ、独力では排除できなかった。二隻の戦艦に対して随伴するのが、巡洋艦なしで、駆逐艦だけ四隻と言う貧弱かつ変則的な編成であったのも英海軍の間抜けさであった。

それでも、戦闘機の防空体制があれば、陸攻の攻撃は極めて困難であったと考えられている。日本海軍は、大戦果にそのことを等閑視して勝利から戦訓を得ず、陸攻によって容易に戦艦は撃沈できると考えて、ラバウルでの航空戦を戦って機材とパイロットの損耗を重ねた。

ラバウル航空戦を含め、大東亜戦争の期間中、真珠湾攻撃と言う停泊中の奇襲攻撃を除けば、日本機が米戦艦を撃沈したことはない。米戦艦に撃沈に至らずとも、航空機より大きな戦果をあげたのは、潜水艦であった。多くの戦記を読めば、航空機に対して米戦艦は自艦の対空砲火で防御することができていたようと考えられる。逆に日本機は駆逐艦ですら航空攻撃にてこずっている。

米海軍では、随伴の駆逐艦はほとんどが、両用砲で対空射撃ができたから、エスコートの役割が可能であったが、他の海軍はこのような駆逐艦を持たなかった。両用砲がなければ、駆逐艦の40mm以下の機銃では、有効射程距離からして自艦の防御をするのが、せいいっぱいであったろう。

単独航行していても、米戦艦に日本機は大きな被害を与えることができなかったのであろう。このことは、複葉機すら撃退できなかったドイツ戦艦や、陸攻に撃沈された英戦艦、もちろん日本戦艦もであるが、米戦艦の個艦防空能力は隔絶したものがあるように思われる。

小生はこの相違は、以前書いたように、対空火器管制システムの優劣だと考えている。とすれば同一システムが英国に供与されていなかったことになり疑問を感じるが、マレー沖海戦の戦闘航海中の英戦艦が、二隻でたった三機の陸攻しか撃墜できなかった事実から、Mk.37などの米国製火器管制システムあるいは、類似のものが技術供与であっても提供されていなかった可能性が大である。少なくとも昭和16年の時点ではそうであったのに違いない。開戦時に二隻の英戦艦が相手にしたのは、防弾装備の優秀な米軍機ではなく鈍重かつ防弾装備がないか、なきに等しい陸攻であったからである。

戦後、ソ連が米艦隊に対して考えた対艦攻撃法は、実に理にかなったものである。米艦隊への有人の攻撃機では確実に撃墜され、人的にも機材にも被害が大きすぎる。第二次大戦後、ミサイル誘導技術が飛躍した結果、無人の対艦ミサイルが実用化された。しかし、小出しに対艦ミサイルを撃ち込んでも確実に撃墜されて戦果は得られない。そこで飽和攻撃を生み出した。いくら対空火器が優秀でも、防空戦闘機が守っていても、対応可能なミサイルの数にはシステム上の限界がある。

従って、その限界を超える数のミサイルを撃ち込めばいいのである。これが飽和攻撃である。それに対して米国が発明したのは、多数の敵機を同時に処理できるイージスシステムである。この発明によって処理可能なミサイル数が飛躍的に増え、飽和攻撃は現実には困難となった。これが現在までの艦艇と航空機の矛と盾の争いの経緯である。従って第二次大戦中はもちろん、戦後もしばらくは、米戦艦への対艦攻撃は極めて困難であった。すなわち米戦艦は航空機よりも強かったのである。