毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

一式双発高等練習機見学記

2021-12-15 14:47:55 | 軍事
 先日、一式双発高等練習機(キ-54)の見学会に行ってきた。平成24年に十和田湖から引き揚げられ、青森の三沢航空博物館に展示されていたものを、今回、製造元の立川飛行機の後身の立飛ホールディングスに移管されたものを展示、それも無料だというので、最終日に行くことができた。三沢でも塗装等若干の補修がなされたようであるが、基本的には引き揚げられたそのまま、ということである。アメリカなどでは、完全に復元して展示されるのが常であるが、引き揚げられたままのおかげで、認識を新たにしたことがある。
 それは、飛行機というものがいかに繊細で脆弱な構造物であるか、ということを腐食で穴だらけになって構造をむき出しにした機体にみることができたことである。毎年恒例になった鳥人間大会に参加する木や発泡スチロールでできた機体を見て、我々は何と繊細で脆弱なものだと思うが、立川で見たキ-54は負けず劣らず繊細で脆弱なものだったからである。それもこれも引き揚げられたままに近い展示だったおかげである。飛行機は繊細で脆弱だから軽くて飛ぶことができることを思い知らされた。遊就館に展示されている零戦も中身を見れば同様なのに違いない。必ずしも全く引き揚げられたそのままとは言えないようなので、小生の無知による誤解もあるかも知れないが、撮ってきた写真を厳選して解説を加えたい。

 キ-54というマイナーな機体にもかかわらず、テレビニュースで流されたこともあってか、屋外に2百人以上並び、一時間以上待たされる盛況であった。展示建屋に入るとこのような引き揚げ機体の解説や引き揚げ状況等の映写があったのは親切だった。


展示建屋は戦前に建てられたという立川飛行機由来のものであった。


このエンジンにはカウリングが喪失しているが、反対側にはカウリング付きのエンジンがあった。


機首側面のアップである。日本の戦闘機などの高性能機は昭和十年頃から、リベットの頭が機体表面から飛び出さない、平滑な沈頭鋲が使われていた。しかし、見る限りこの機体には沈頭鋲は使われておらず普通の凸リベットである。米軍機では、P2Vなどで、乱流となる胴体後半には、工数のかかる沈頭鋲をあえて使っていないのを見たことがあるが、この機体はそんな配慮ではないように思われる。低速だからおそらくは工数のかからない全面凸リベットである。端っこに見られる点検孔の蓋には取り外し用のマイナスねじが使われている。


スピンナーキャップだが先端には、エンジン始動用の棒に溝が切られている。発動機始動車と嚙合わせるためで、日本では陸軍機専用の装備である。模型では1/32スケール位でないと正確には再現できまい。


着陸灯である。よく見るとお椀型の反射板の中央に電球がついている。これで夜間滑走路前方を照らすのだろう。なお、この機体には左右に着陸灯があった。


翼端灯である。注意してみると翼外板の内側にさらに金属板が見える。電球の交換のための構造だろうか。右翼だから青色光なのだがガラス板が着色されているのか、その時は確認し忘れた。写真では青っぽく見える。




補助翼作動用のトルクチューブがむき出しになって見える。上下に張り出したテーパーの棒をワイヤーで引っ張るのだろう。


羽布は腐って無くなっているが補助翼の骨組みだけ残っている。右下の金属板は、トリムタブである。写真では分からないが、トリムタブは、パイロットが操作できるものである。よく見ると表面には凸リベットがある。



水平尾翼で、左右を繋ぐ二本の桁がある。リブには軽め穴が開けられている。


フラップの位置の主翼外板に書かれた「ノルナ」の文字だが小さくて目立たないし、筆書きのようで粗雑である。引き揚げ後にタッチアップしたものかどうかすら分からない。


右翼後方からのショットでカウリングは残っているが、その後方の外板は失われている。エンジン後方のドーナツ状のリングはエンジンの導風板である。


胴体側面の、水平尾翼のやや前の位置に書かれたステンシルである。ご存じのように、「ココヲノセル」とは、運搬などで機尾を持ち上げる必要がある時、ここを支点にして支えること、という意味である。通常は支えの棒を突っ込む穴が開いているものだが、この機体には無いようだったと思う。文字は様子から、紙を切り抜いたものをスプレーで吹いたように見える。オリジナルであろう。


垂直尾翼は取り外されていた。先端の黄色と部隊キークの赤が薄っすら残っている。右下の看板に正確な部隊マークを親切に再現してくれている。説明があったはずだが、どこの部隊か小生は撮影に夢中で確認し忘れた。


胴体尾端に近い箇所で、水平尾翼のフィレットが胴体側に付けられていることが分かる。水平尾翼も垂直尾翼も引き揚げられてから取り外したようだ。


尾端部分で、ガラスが失われて、電球が露出している。


胴体内部を後方から見たもの。壁や天井には桁が露出しているが、元々壁材などは張られていなかったのだろう。前方は操縦席の隔壁とドアらしきものが見える。


操縦席の窓である。窓枠下部は、胴体外板の上に重ねられ、リベッとで止められていることがよく分かる。。平面窓の中央の縦枠にはリベットが打たれておらず、窓ガラスを抑えているだけのように見える。リベットはここも沈頭鋲ではなく、普通の凸リベットであることが分かる。



機首先端の上半部である。ここは三次元の曲面のカーブが比較的箇所なので外板の一枚一枚が幅の狭い、細長い板をプレスしたものである。外板の継ぎ目のリベットは一列なので継ぎ手は、突合せ継ぎ手ではなく、重ね合わせ継ぎ手である。前方は外板の腐食による喪失部が多いため、外板の継ぎ目の一本に骨格のリブが一本づつ配置されていることが、透けて見える。


操縦席は取り外したとみえて、別に展示してあった。操縦席は並列で、操舵輪が二組あるのは、複操縦式なのだが、教官用と訓練生用なのかは不明である。練習機ではなくても、飛龍爆撃機は並列複座の複操縦式である。フットバーは機体内に残されているものか確認しなかった。操縦席は一枚板で、零戦のような軽る目孔は開けられていない。



看板に書かれている通り、主翼の胴体への結合部である。引き揚げてから分解したのだろうから、結合部のピンを抜いてから、また差し込んだのだろう。同じような結合部がもう1か所あったから片側2か所で結合されているのだろう。


主翼付根の拡大写真である。特に右方の腐食が激しく、外板が失われてリブが浮き上がっている。赤線は「ノルナ」の範囲を示したものだが、マスキングして正確に直線を引いてあるように見える。



左主翼で日の丸が残されている。注意してみると、日の丸の円形は正確だが、刷毛跡が見られたので周囲をマスキングして塗装は刷毛のようだ。日の丸を左右に貫通しているテーパーした帯状のものは、主桁のうちの一本の位置だと思う。腐食の激しいのは主桁・補助桁とリブの位置とみられるから、それらの配置がわかる。



操縦席と機首である。木枠で補強しているのは、そのままでは腐食のため原型を保っていられないからだろう。操縦席内部も横断見学できるのだが、見学者が多く押されてじっくり観察撮影できなかったのは残念だったが仕方ない。


計器盤である。省略したが取扱説明書からコピーした計器盤の配置が展示されていたが、速度計や旋回指示器などいくつかの計器は左右に二組配置されていた。これは複操縦式のためなのか、練習機のためか小生には知識がない。なお、右席側には左には無い計器がみられたが、右席が主操縦席か教官用なのだろう。キ-54には輸送機型もあるのが、計器盤の配置は同じとみられる。


着陸灯の拡大写真である。周辺がマイナスねじで止められているのは、ガラス板を外して交換するためだろう。黄色は敵味方識別色で、余談だが、マスキングして塗装してあるのが、マスキングから染み出した失敗部分も見られたのは面白い。



スピンナーキャップを外したプロペラ軸が見える。プロペラ軸のすぐ上の円盤は、遠心力で開きプロペラ回転数をコントロールするための調速器(ガバナー)であろう。外観図面を見る限り、カウリング外面には気化器空気取り入れ口も滑油冷却器取り入れ口も、露出していないことから、斜めに見える網状のものは、そのいずれかであろうが確認できなかった。



 ここに示したものは展示撮影したほんの一部であり、気化器や伝声管、計器その他の小物も丁寧に展示されていたが省略した。休日で無料だというのに親切に対応していただき、メモ用紙らしきものやペットボトルのお茶までいただいたのは、多くの案内員を動員してくれたのとあいまって、望外の感謝である。いつかこのような展示を再開するようなので興味ある諸氏は行かれたい。マイナーな機体ながら得るものは多い。






























世界最強だった日本陸軍

2021-07-08 15:36:22 | 軍事

福井雄三著・PHP研究所刊 

 本書はマクロに言えば精強だった日本陸軍に諸外国が恐れをなしたことが、世界史を動かした、という視点である。ヤルタ会談でルーズベルトの要請でスターリンはドイツ降伏後3か月以内の対日参戦を約束した。ところが実際に参戦したのは約束の最後の日であった。ここまでスターリンが躊躇したのは、ノモンハン事件で日本陸軍の強さに懲りていたからである(P192)というのだ。このことは時間の不足や満洲や樺太での日本陸軍の抵抗で、北海道東北への侵攻ができず、日本が分断国家にならなかったという幸運を招いたという。筆者は最後にノモンハンの英霊への謝辞で締めくくっているが、その通りである。

 また、ノモンハンで手を焼いたスターリンは、ヒトラーに日本との調停を依頼し、そのため独ソ不可侵条約を結び、ドイツに急接近した(P27)というのだ。これが真実なら正に精強陸軍は正に世界史を変えたのだ。

 筆者の意外性は悪名高き参謀の辻政信への好評価である。大本営の不拡大方針を無視して、陸軍航空隊が越境しタムスク飛行場を攻撃し、大戦果をあげたのは辻の独断によるものだった。このことで辻は批判されているが、筆者は敵地の基地を叩かずに航空戦はできないから、辻の判断は正しい、と言うのである。筆者は独ソ開戦後に北進していればソ連は崩壊し日本の勝利はあったと言っていることと言い、軍事的合理性を優先している。しかし小生は、軍事的には正しかったとしても、日本が条約違反をしなかったことは、今でも国際関係における日本の財産であると考える。ソ連攻撃を進言した松岡洋右の判断力を筆者は高く評価しているが(P54)前述のように、軍事的合理性からは正しいのであろう。かの関特演は動員された兵士は高齢であり本気で戦争をするつもりではなく、一種のフェイントに過ぎないとゾルゲがソ連に報告している(P63)。東條英機が東京裁判の宣誓供述書であっさりとただの演習に過ぎないと言っていることが、正しいことに納得した。

 また、緒戦のマレー半島上陸後の占領後の治安の安定は、辻の徹底した指導により日本軍兵士の規律が厳しく守られ、掠奪暴行は皆無に近く現地人の日本軍への信頼が高まったためである(P99)という。辻の規律の厳しさは有名で、慰安所開設に反対し、堅物と兵士には嫌われたそうだから皮肉である。辻を評価するなら、ガダルカナルの惨状を現地調査して撤退を進言したのは辻であることを小生は付記する。マレーの華僑については、「・・・宗主国たるイギリスの手先となり、国民に寄生している搾取階級として、怨嗟の的になっていたのである。(P121)」有名なハリマオこと谷豊は満洲事変以後マレーで暴徒化した華僑により妹を惨殺されてさらし首になったのを知り、華僑を襲う義賊になったのだと言う(P120)日本軍による華僑の粛清はスパイや反乱と言ったものに対する自衛であり、国際法上正当であったことも付記する。支那人の残虐性は古来よりのものである。

 ノモンハン事件の原因は、支那事変の勃発によりモンゴル人民共和国内に日本と協力してソ連を追放しようと言う反乱計画があったため、スターリンは大弾圧を行うとともに、対外戦争を起こしモンゴル人の不満をそらすためだった(P23)というのだ。この説は初めて聞いたと思うが、従来の「日本に対する威力偵察説」より合理的な解釈である。

 ナチスと共産主義の評価も興味深い。ヒトラーは民主的に選ばれ、国民もベルリン陥落まで忠誠心は衰えなかった。ユダヤ人はドイツ国民と見做していなかったから、自国民への迫害ではなかったというのだ。これに比べれば、ソ連をはじめとする共産主義各国における、例外のない国民への迫害のすさまじさはユダヤ人迫害など児戯に思えるほどだという(P180)。さらに「・・・ドイツ国民は、表向きはじっと沈黙を守りながら、心の底で信じているはずだ。将来いつかは分からぬが、過度におとしめられ歪曲された自国の歴史が、地道で冷静な歴史研究によって修正される日の来るであろうことを。」(P175)これは小生と同一の説である。ドイツ国民は自虐的日本人ほど愚かではなく、理性的である。ただ小生は歴史の見直しが始まるのはドイツ統一のときであると考えていたことを告白する。ドイツを取り巻く世界情勢はそれほど浅いものではなかったことのだ。福井氏の説が正しいのは、日本とともに闘ったはずのドイツ人が、日本軍による残虐行為批判が起こるたびに、声高に同調することでも証明される。彼等はドイツの歴史は間違っていないと心底で考えている証拠なのである。

 筆者も山本五十六をはじめとする海軍批判をしているが、他の書評でも述べたので追記しない。ただ、他書にも述べられている山本権兵衛による陸海対等による弊害は、山本権兵衛の間違いとしてもっと追及すべき用に思われる。山本五十六などはそのレールに乗った、国より組織維持を優先した典型的官僚に過ぎないのだから。山本の連合艦隊の指揮ぶりには軍人としての闘志が感じられない。井上成美をはじめとする「海軍善玉」論の典型として挙げられる海軍軍人にはそのような人物が多い。

 余計な事を言う。福井氏の見識には尊敬すべきものが多いが、西尾幹二氏の重層的な思考には及ぶべくもない。ただ一点、西尾氏がおそらくは日本弁護の方便で言っているナチスのホロコースト批判はいつしか再考すべきものであると考える。


書評・勝つ司令部 負ける司令部

2021-06-22 16:15:00 | 軍事

勝つ司令部 負ける司令部・東郷平八郎と山本五十六 生出寿

 

 「凡将山本五十六」の著者だから内容は想像できる。対米戦に反対で三国同盟に反対していたからと、信奉者が多い山本だが、軍人としての山本は欠陥だらけだと言わざるを得ない。山本の気概とは、日米戦争が始まったら「さすが五十六さんだけのことはある」と言われたいという意味の手紙を郷里の友人に送っている(P43)という人なのだ。一方で対米戦が長期は持たない、と言っておきながら、これは見栄っ張りというべきであろう。いい格好したい、という気持ちで指揮をとられたら前線で闘う兵士はたまったものではない。筆者同様、小生も山本も開戦後の派手で隙だらけの行動から推定して、さきの手紙が身命を賭して闘うと言う決意を表わしたものとは到底思われない。

 ラバウルでの飛行隊の出撃を、皆が着ている緑の第三種軍装ではなく白い第二種軍装を着て山本とその参謀がパイロットを見送ったことについて「大西が開戦後の山本、白い服を着て若いパイロットたちに神の如く崇められていた山本をどんなに忌み嫌っていたか、私の脳裏のテープレコーダーは、父の声で何百遍もくり返しております」という手紙(P313)を紹介している。大西瀧治郎は「山本の白服は芝居だとみていたのだろうか」と書くがそのとおりであろう。大西は生粋の軍人だったのである。大西は毀誉褒貶の多い人物だが、山本の見栄を極度に嫌ったのは納得できる。

 山本はマレー沖海戦に出撃した中攻隊が出撃すると英戦艦を撃沈できるかどうかと参謀とビールを賭け、ミッドウェーで南雲艦隊の攻撃隊が発進しようとするときに、部下と将棋を指し始めた(P69)。「部下が生死を賭けて戦っている最中に、それにビールを賭けたり、将棋を指すなどとは、長官、参謀とも、ふまじめな振舞いとしかいいようがない。それをだれも止めようともしない山本司令部というのも、マトモなものとはいえないであろう。」というのは本当である。山本は戦闘中に最高指揮官は何をすべきかを知らなかったのではないのか、とすら思える。だから賭けをしたり将棋を指したりして暇をつぶしていたのだ。

 実は攻撃隊が発進しようとしたのではなく、防空の戦闘機が発進しようとしていたのであるが、いずれにしても、戦闘中の総指揮官のやるべきことではなかろう。既に艦隊は雷撃機に襲われていたのである。陽気で冗談ばかり言うと言われる米軍でもこんな指揮はしない。職務放棄である。東郷は日本海海戦で参謀が防弾堅固な司令塔に入ってくれと言われた東郷が「自分はとしをとっているからここにいる。みなは、はいれ」と言って(P291)陣頭指揮をとりT字ターンのタイミングと発砲のタイミングを自ら命じたのは有名な話である。日本海開戦前には、東郷は毎日朝から晩まで弁当持ちで訓練の状況などを視察して回って歩いた。米海軍のニミッツは若い頃から東郷を尊敬して学び合理的で堅実な作戦で日本海軍と戦ったと「あとがき」に書くが、山本を尊敬し学ぶ米海軍軍人はいまい。

 山本の指揮の不徹底は多い。真珠湾攻撃で参謀が一致して「もういちど真珠湾施設を攻撃してこれを徹底的に爆砕するよう、また敵空母部隊をもとめハワイ列島を南に突破する作を敢行すべき」と山本に上申すると、山本は自分もそれを希望するが被害状況がわからないから指揮官に任せる、と言った上に「南雲はやらないだろう」と付け加えた(P93)と言うが指揮任務放棄である。南雲中将に皆任せると約束したから、というのだが、そもそも遥かかなたの瀬戸内海にいたのだし、遠方にいてもいいが指揮に必要な情報を集めて分析、判断し指示する努力すらしていないのだ。山本の真珠湾攻撃の意図は、開戦劈頭に米海軍に徹底した損害を与えて、米国の士気を喪失させ短期講和に持ち込む、はずだったのだから、この判断は全く矛盾している。

 ミッドウェー海戦でも大和が米空母らしい無線を傍受すると山本は「赤城『機動部隊旗艦』に知らせてはどうか」と提案すると参謀たちは無線封止中だし、赤城も受信しているはずだ、と反対されて止めてしまった(P174)。連合艦隊司令部が無線封止を理由に反対したのは、山本自身の艦隊の位置がばれて米潜水艦などに狙われるのを恐れたと書くが、その通りである。むしろ南雲艦隊から500キロも離れた山本司令部の船が無線を発信すれば、米軍に南雲艦隊の位置を大きく誤認させる陽動作戦にすらなる。その後例の利根四号機が敵空母発見の第一報を発信すると山本は「どうだ、すぐやれといわんでもいいか」と聞くが事前に指導してあるから無用だと反対されるとまたもや引っ込めてしまう。山本は、戦闘中の重大な判断も部下に反対されると撤回を繰り返してばかりいる。山本は何を指揮していたのだろうか。

 ミッドウエー敗戦が明らかになると、山本は南雲らをかばい、敗戦責任を究明し責任者を首にしなかったのは、部下の責任を追及すると自らの責任も取らなければならないからだ(P189)と書く。米国は真珠湾の陸海軍の責任者を査問しなかったが、辞職させた。査問しなかったのは機密の保持という理由があった。機密は未だに明らかにされていない。草鹿少将などは「将来ともできることなら現職のままとして貰い・・・」(P186)と言ったとして筆者は軽蔑的言辞を書いている。当然である。黄海開戦で駆逐対が残敵掃討で攻撃が消極的なため全く雷撃の戦果をあげなかったとして、参謀の助言で、東郷は全駆逐隊の司令と艦長を全員更迭した(P218)。山本の処置は日本的人情人事とばかりは言えないのである。本書には書かれていないが、ミッドウェーの敗戦を隠すために下級兵士を隔離したり過酷な戦地に送ったりしたのは有名な話である。自分たちが責任を逃れながら、兵士に過酷な処置をしたことは山本司令部も関与しているはずなのである。

 戦訓の学び方にも東郷司令部と山本司令部には差が大きい。黄海海戦は勝利したとは言え不徹底であった。しかし海軍はその教訓を学び訓練し戦法を改善した。珊瑚海海戦では日本海軍は勝利したと判断した。しかしレキシントンの沈没は気化ガソリンへの引火というラッキーパンチによるもので攻撃隊の損害は日本海軍の方が大きかった。空母祥鳳は雷爆撃で滅多打ちにされて沈没した。日本空母の搭乗員は米海軍の防空能力に恐れをなしたと言ってもいい位米軍の防空陣は厳しいものであったと言うのは戦記を読むと分かる。この戦訓を航空戦隊指揮官が山本や参謀たち司令部に報告したが無視されて戦訓としようとはしなかった。(P126)その戦訓はミッドウェー海戦に役立つものであった。山本司令部は珊瑚海海戦の実情を知らず、米空母など鎧袖一触、と公言する者が多かった。連合艦隊の解散に当たって東郷が「勝って兜の緒を締めよ」と言い、参謀の秋山が、日本海海戦は奇蹟の連続であった、と言っているのとは大違いではないか。

なお、珊瑚海海戦は、じっさいには、大平洋戦争中の数ある海戦のなかで、指折りの勝ち戦であった(P132)というのは承服できない。作戦目的のポートモレスビー攻略は阻止されたからである。ポートモレスビーは補給が続かないからしなかったからかえって良かったと言うこととは別である。海戦とは補給や上陸作戦、補給阻止や上陸阻止などの作戦目的の遂行の結果生起するもので、海戦そのものが作戦目的ではあり得ない。戦闘で大きな損害を与えたか否かより作戦目的を達成したか否かである。日露戦争の陸戦などはほとんど日本軍死傷者が多い。第一戦闘に勝ったと言われる珊瑚海海戦ですら航空機と搭乗員の損失は日本軍の方が多い。大東亜戦争の主要な海戦で日本海軍は作戦目的を達成したことは一度もない。ガダルカナルの上陸以降一度も米軍の上陸を阻止したことはない。硫黄島で水際阻止をせずに上陸させてから攻撃して大きな戦果を上げたと言うが、これは戦略の常道ではない。上陸側の体制が整わないうちに行う水際阻止が正攻法で正しいのである。日本軍が水際阻止に常に失敗したのは、上陸する艦隊に対して早めに、阻止する艦隊を適時に派遣することが一度もできなかったのである。もちろんベストなのは、ミッドウェーや珊瑚海海戦のように上陸前に撃退することである。硫黄島の戦いのように上陸を許した上に、艦隊の援護がなければ、いくら敵に大きな損害を与えてもいずれ占領されるのは間違いない。

 筆者は日本海軍が戦艦による艦隊決戦主義に囚われて航空中心に転換しきれなかったというのは間違いであると言うがその通りである。そもそも日本海軍は空母が健在のうちは戦艦で戦おうとしなかった。しかも海軍航空部隊の戦果は少なく、損害ばかり甚大だった(P235)。山本はこのことに気付かずにい号作戦で艦上機を陸上に挙げて漫然と艦隊攻撃して損耗した。筆者の提案は空母に戦闘機だけ載せる位徹底して艦隊を護り、大砲と魚雷による攻撃をする、というものだが、珊瑚海海戦や南太平洋海戦などの勝利といわれる海戦を見てもその通りである。以前から小生が言うようにレーダが無くても米海軍の防空能力は日本海軍とは隔絶している。

 日本艦隊の主砲の命中率が悪かったのは、アウトレンジ戦法によって遠くから打っていたからであって、東郷艦隊のように肉薄攻撃すれば、日本戦艦や重巡の実弾射撃訓練の実績からも米軍の三倍の命中率を上げるのは可能であった(P243)、というが私にはそうは思われない。以前「海軍の失敗」で紹介したように、大和級とアイオワ級戦艦が初弾の命中を得るのに要する時間は、射撃砲と火器管制システムの差から数値計算して、二倍以上の差があるから、大和はアイオワに負けると断言している。小生はこれが正しいと思うのである。

 山本が愛人に手紙でミッドウェー海戦の予定を間接的に漏らしていた事は省略する。だが連合艦隊の贅沢三昧にはあきれる。大西中将が昭和一七年二月に南方作戦から帰って山本を訪問すると長時間待たされるので勝手に入ると、莫大な慰問品や内地の名産などに囲まれた山本は、返礼の手紙を書くのに忙しかったのだと大西が知人に証言している(P164)。山本と参謀たちでの大和での食事は、軍楽隊のクラシックや軽音楽の演奏つきで、フルコースのフランス料理である。夕食は好きなものを注文しステーキでも何でも出、ビール日本酒ウイスキースコッチなど何でもある(P163)。ガダルカナルに派遣されていた陸軍参謀のかの辻中佐がトラック島の大和に行って「・・・将兵は、ガンジーよりもやせ細っている」と補給を訴えた。夕食でいつもの豪華な料理が出ているのを見て辻が怒ろうとすると、副官が、辻のように前線から帰ってくる人をねぎらうのだと誤魔化した(P254)。自分たちが贅沢三昧をしている間にも、兵士の飢えていることを知ったはずの山本司令部の感覚は尋常ではない。評判の悪い辻だが自らガダルカナルの戦場に赴き、兵士の惨状を見てガダルカナル撤退の上申をして実行させたのは他ならぬ辻である。辻の参謀としての指揮は人間性を非難されるが、この場面では辻の方が山本司令部よりよほどましである。

 国際法にも一言しよう。宣戦布告に先だって日本海軍が旅順港を攻撃したことを「日本は卑怯な不意打ち攻撃をした」とロシアが批難すると、米国の国際法の権威が、開戦前に外交断絶していることや公式の宣戦布告が必要だと言う確定した原則はない、として日本を弁護した(P76)。以前支那事変の国際法の研究書で紹介したように、大東亜戦争当時も宣戦布告なき「国際法外」の事実上の戦争が認められていたのだから真珠湾攻撃を弁護する余地は充分ある。単に日露戦争は米国にとって都合良かったので擁護論が通り、大東亜戦争は参戦のきっかけに米国には都合良かったので擁護論は出る余地がなかったのに過ぎない。

 山本の巡視による戦死には「覚悟の自殺」、という説を筆者は否定するがその通りであろう(P320)。山本は考えが甘く、スキを衝かれた(P324)のであろう。米軍を舐めていたのであろう。そのことは真珠湾やミッドウェーの手抜かりと同じ(P324)なのだろう。とにかくハワイやマレー沖海戦の戦果による航空戦への過信や情報管理の大甘さが山本の欠陥である。山本が頭部と体への被弾により機上戦死という俗説を記しているのも、海兵出身の元軍人としては不可解である。何度も他のコラムに書いたと思うが、P-38の12.7mmや20mm機銃弾を頭部に受ければ、頭はまともな状態で残らないが、あらゆる記録は例外なく、山本の頭部に大きな損傷はなかったとしている。筆者は分かっていて疑問を呈さずにいたとしか思われない。

筆者の言うように大東亜戦争を日露戦争のように勝利するのは困難であるにしても、もっとましな戦い方はあったのだろう。かの井上茂美の「日本は多数の潜水艦をハワイ、米本土に配し、米国の海上交通破壊戦をおこなう・・・」という提言を戦前出していた(P158)が傾聴すべきものである。米本土はともかく、ハワイは占領しなくても潜水艦により封鎖すれば、米本土から西太平洋の戦地への補給や軍艦の移動はできないから米軍は日本軍と戦えないのである。井上は戦闘下手と言われたが山本より戦略眼はある。ともかく日本軍兵士は大東亜戦争をよく闘ったと考えるものである。


米国の「海外緊急作戦」予算廃止は台湾侵略の布石

2021-04-23 15:00:06 | 軍事

 『米「海外緊急作戦」予算廃止の意味』というタイトルの、コラムが産経新聞令和3年4月22日に載った。如何に立派な演説を行い、同盟国と共同声明を出しても、先立つものがなけば、行動にはつながらない、として、日米首脳会談が、対中強硬声明を出しても、予算の伴う実行措置がなければ、意味がないということを言いたいのである。

 後段では、「海外緊急予算の廃止」によって海外で突発事態が起こってもり、米軍が緊急出動する特別予算は組めず、基本予算を組み替え費用をねん出しなければならないというのだ。これは尖閣などで緊急事態が発生しても、米国は海外緊急予算は廃止されたのだから、米大統領は即応して使える予算がないから、日本が単独で持ち堪えなければならない、というのが結論だが、これには重大な意味がある。

 中共が台湾に軍事侵攻しようとしたとき、尖閣をベースに素早い対応で、米国が軍事阻止する前に台湾占領を済ましてしまうことができることになる。大統領が即応的に使える「海外緊急予算」が廃止されたのだから、米軍の即応力は無くなり、気が付いたら台湾占領が完了している、ということである。

 バイデン大統領は事あるごとに、対中強硬発言をしている。しかし、これは言辞に過ぎない。実際にやっていることは、中国ウイルスとは呼んではならない、とか、孔子学院への制限を緩めるとかいうことである。そこに、海外緊急予算の廃止は決定的である。台湾侵攻があったとしても大統領の独断で素早い措置を取れない、ということである。

 バイデン大統領は台湾侵攻の布石を打ったのである。バイデン政権は北京冬季五輪のボイコットには動くまい、とすれば北京五輪は無事行われる。そのとき既に抗議のボイコットはやりようもない。とすれば、台湾侵攻は北京五輪終了後に行われるのであろう。ウクライナから核兵器が撤去されたとき、代替措置として米露はウクライナの領土保全を約束した。それはクリミア半島の併合としてあっさり破られた。軍事的措置を伴わない、制裁などは何の役にも立たないのである。台湾についても同じことは言える。


日本人だけが知らない・世界から絶賛される日本・黄文雄・徳間書店

2021-03-13 14:23:45 | 軍事

日本人だけが知らない・世界から絶賛される日本

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 これは書評ではなく、メモランダムである。神風特別攻撃隊について紹介した1項がある。そこには

 「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦わずとも祖国護持の精神が残り、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」

 永野修身軍令部総長が昭和十六年九月十六日の御前会議で述べた言葉として紹介されている。この言葉が御前会議で述べられたものかどうか小生には確証はなく、言葉も微妙に相違したものが世間には流布されている。曰く「戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして滅びるのは真の亡国である」という核心の部分に変化はない。

 これは政府および陸海軍幹部の共通した認識であった。決して強大な米国の国力を見誤り、無謀な戦争に突入したのではなかったのはこの言葉が証明している。日本は日露戦争と同様に国家の存亡をかけて戦争に突入していたのであって、昭和の日本人は愚かなのではなかった。だから国民は体当たり攻撃という異常な事態の発表があった時、必死に耐えたのである。

 一人だけ夜郎自大であった人物がいる。山本五十六である。陸上攻撃機などの海軍航空戦力が充実すると、航空機による主力艦攻撃によって米艦隊を暫減すれば艦隊決戦で勝利して、米国と有利に講和できることが出来ると考えた。そして真珠湾攻撃が成功すると欣喜雀躍して、開戦時の大本営の決定を破って戦線を拡大していった。補給さえおぼつかないミッドウェー攻略を強引に進め大敗した。ミッドウェー攻略は楽勝だなどと愛人に漏らしていたというのだから、守秘もくそもない。ミッドウェーの敗北にショックを受けると、ラバウルで単調で意味のない航空線を延々と続けて戦力を消耗し尽くした上に自殺してしまった。

 草柳大蔵の「特攻の思想」の新聞記者の大西瀧治郎へのインタビューを紹介している。新聞記者が「神風まで出して、はたして敗戦を挽回できるかどうか」と質問すると

 「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか、一つの藩が最後でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれぬ」

 「それなら、なおさら特攻を出すのは疑問でしょう」

 「まあ、待て、ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし青年たちが困難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」

 この会話を如何に感じるかは皆さんの問題である。特攻の父とされる大西瀧治郎は毀誉褒貶の多い個性的な人物である。だが決して非合理的な精神の持ち主ではない。渡洋爆撃で九六陸攻が戦闘機の迎撃で大きな被害を受けたことから、一式陸攻の開発に際して航続距離を減じてもいいから、燃料タンクの防弾をせよと、最も強硬に主張したのはほかならぬ大西瀧治郎であった。ちなみに一式陸攻の初期型には全く防弾装備がなかったと言うのは間違いで、不完全ながらインテグラルタンクには防弾用ゴムが使われている(一式陸攻・・学習研究社)。世間に流布された常識とは当てにならないものである。


バイデン政権はやはり親中

2021-02-24 15:57:40 | 軍事

 門田隆将氏と石平氏の共著「中国の電撃侵略」にはバイデン氏が骨がらみの親中であることが、縷々書かれている。「中国はすでにバイデン家を『一家ごと買収済みだ』」(P57)とまで述べて、息子などの親族が買収されていることを例証している。

 これに対して、日本の保守勢力ですら、アメリカは議会も共和党、民主党ともに反中だから大丈夫だ、という楽観論がある。ところが産経新聞令和3年2月23日の記事によれば、バイデン大統領は、アジア系米国人への差別を取り締まる大統領令で、政府関連文書で「中国ウイルス」とか「武漢ウイルス」という用語の使用を禁じた、というのだ。

 トランプ前政権は終始「中国ウイルス」と呼んでいたのと真逆なのだ。そればかりではないトランプ大統領は「孔子学院が米国の多数の大学で講座を開くのは中国共産党の独裁思想の拡散やスパイ活動のためだとして刑事事件捜査の対象としてきた。同政権はその政策の一環として、米側の各大学に孔子学院との接触や契約があれば政府当局に報告を行政当局に報告を行政命令で義務づけてきた。」という。

 ところが何とバイデン政権はこの行政命令をなくす措置をとったばかりか、この措置を敢えて公表しなかった、というのだ。これらの一連の行動をみればいくら、バイデン氏が「中国は戦略的競争相手だ」と公式には声明しても、有名無実であることがわかるだろう。バイデン政権は、議会向けに表向き反中のポーズをとるが、先の措置のように、実行面では、対中融和を逐次実行していくであろう。台湾に対するトランプ政権のような援助も逐次取りやめるだろう。門田氏らは著書で、バイデン政権の誕生によって、中共が4年以内に台湾に何らかの形で軍事的侵略をするだろうと、預言する。

 バイデン大統領の一連の行動をみれば、なし崩しに中国を抑え込む措置を解除していって、台湾が危機となることは明かであろう。バイデンはやはり骨がらみの親中なのである。


香港は亡命政府を

2021-01-08 17:02:41 | 軍事

 中共では、香港民主派を令和3年1月6日に53人も逮捕した。罪状は国家政府転覆罪で最高刑である。すでに香港の一国2制度は崩壊している。香港の多数派は既に中共の支配を望んでいない。その時に香港の政治指導者がめざすべきことは何か。

 前例はフランスにある。ナチスドイツはフランス占領後にどうしたか。ペタン政権である。ペタン政権は現実のフランス支配に現実的対応をして、ドイツに従う政府を擁立した。しかし、ド・ゴールは英国に亡命政府を設立し、ペタン政権に対応した。

 その教訓に習うとすれば、香港の民主派たちは、アメリカに亡命政権を成立させることである。香港の多数派住民の意志は、香港の独立である。それならば、次々と逮捕される香港の自由主義者は何をすべきか。

 中共国内に留まる限り、香港住民の意志は反映されない。それを解決するためには、ろくでもない国であっても自由のあり、中共と対峙している、アメリカに亡命し、自由香港政権を擁立することであろう。


尖閣諸島の島嶼奪還は日米安保の対象にはならない

2020-12-17 13:48:28 | 軍事

 米国は、日本の施政権のある尖閣諸島は日米安保の対象となる、と言い続けている。しかし、これには「施政権が日本にある」という条件付きである。言い換えれば施政権が日本になければ対象とはならない、ということである。現在の尖閣の状況はどうか。毎日中共の公船がやってきて、日本の領海での漁の妨害をして、中共の領海での漁を禁止する、とうそぶいている始末である。

 そもそも日本は強襲揚陸艦なるものを保有して、逆上陸の訓練をしている。これは、中国人が尖閣に上陸してしまったことを意味する。尖閣には日本人もいなければ、守るべき施設もない。それに中国人がいるということは、既に施政権が中共の手に渡ったことを意味する。

逆上陸とは、尖閣の施政権が中共に奪われたことを意味する。日本に施政権がなければ、日米安保の対象とはならないのである。

 逆上陸で島嶼の奪還をするということは日本単独で行わなければならず、米軍の援助は期待できないのである。日本は尖閣に灯台などの施設を作り、公務員を常駐させ、中国人の上陸を迎撃する体制を至急に作る必要がある。日本人がいて、日本の施設があるから、それを攻撃したら、施政権のある尖閣諸島に中共が侵略したということになるのである。そうでなければ、無人の尖閣に上陸した中共軍を侵略したと主張されるであろう。


支那事變國際法論

2019-12-20 20:46:03 | 軍事

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書評・支那事變國際法論・立 作太郎・松華堂・昭和13年5月

 神田の古書店でタイトルに惹かれて買った本である。何年も放置した後に一気に読んで読み終えた。読み飛ばすと面白くないが、意味を正確に読み取るように精読すれば、国際法が理解でき腑に落ちることが多いので面白く読めることが分かった。もっとも法律の素養がない小生には、読み切れていない部分も多いはずである。同じ論旨の繰り返しに思える部分も意味があるのであろう。繰り返しに思えるのも小生が素人であるのが原因である。読んでいる最中に論理の展開の仕方が、パール判事の東京裁判の判決書に似ている事に気付いた。同じ国際法の専門家であることがなせるわざである。面白いのは、外国の都市や国名の漢字表記が一部に一般的なものではないと思われるものが使われていることである。これは単に当時の外国の都市や国名の漢字表記が現在よりバリエーションが多く、それらの一部が現在では忘れられたと言うことなのだろう。

 タイトルからして、支那事変の日本軍の行動を国際法を援用して弁明しようとする本だろうと言う予想は外れた。むしろ戦時国際法の教科書にしてよい位であろう。それこそ国際法の創成期から当時の国際法の説への変遷まで引用しているのである。小生にとってのポイントの一番は、事実上の戦争と国際法上の戦争の区分である。日本が戦時の中立条項によって、アメリカから石油やクズ鉄などの物資の輸入が止まらないように宣戦布告をしなかったのはよく知られているが、支那事変のような事実上の戦争に置いても交戦法規は適用される、という点である。

  同時に、意外にも思われる事実は、当時は宣戦布告した国際法上の戦争は少なく、ほとんどが事実上の戦争であったと言うことである。事実上の戦争が常態化している、という事により真珠湾攻撃が宣戦布告なしに行われた、ということは何ら国際法違反ではなく、交戦法規さえ守れば良いということが論理的帰結である。ちなみに本書は冒頭に記した通り、真珠湾攻撃の3年以上前に出版されているから、真珠湾攻撃の擁護のためではなく、当時の戦争の実態を述べたものであることは言うまでもない。

 アメリカの中立法についての記述も時代を反映したものである。アメリカは時々国際法を無視した行動や立法をするが、中立法もその典型である。アメリカの中立法は、必ずしも国際法の中立の概念とは相いれない、身勝手なものである。欧州大戦が始まってからも中立法を改正して、参戦していないのにもかかわらず米国はヨーロッパに大量の武器援助をするという国際法上の中立義務違反をした。この時の中立法についての立氏の見解を聞きたいものであるが、残念な事にまだ大戦は始まっていなかった。中立法については、著者は淡々と解説をしているだけであり、特定の国を批難する言辞はなく、著者が純粋に法律的立場から論じていることが分かる。

三章の支那事変における空中爆撃問題は、解釈を拡大すれば米国の日本本土空襲を国際法違反としない見解も生まれかねない危険なものである。例えば、

1.P75「・・・政庁の在る建物・・・の中央幹部の置かれる建物の如きは、支那軍作戦の中枢と緊密の関係あるを以て、之が破壊又は毀損を為し得ると為すの説は有力であると言わねばならぬ。(以下すべて新仮名遣いに直した。)

2.P91「・・・将来の戦争に於いて人民の大聚団(great center of population)に爆弾を投下することが行わるべく、国際法は之を禁ずること無く、倫敦の如き都市が無防守の都市として空襲を免かるるためには、敵の航空隊に降参するの外なしと説けるに端を発し、ホランド教授も参加するに至れる論争に関連して、スペート自身の説を著者中に於いて述べた際、無防守とは軍により占拠されず、其他武力的抵抗を為すの地位に在らざることを意味すると為し、倫敦の如き都市は、陸戦条規又は海軍力を以てする砲撃に関する条約に依りて攻撃を受けざるを得ることとならぬ旨説いたのである。

 その後に、国際の慣行が教授の説く所に一致するに至らざることは云々と書いてはいるものの、2.の説はまさに東京への空襲を是認したごとくである。1.にしても、天皇が大元帥であるを以て国会議事堂のみならず、皇居の空襲をも許容されるごとくである。日本軍は誤爆を除き支那の民間施設を破壊したことはないのだから、このような説は日本軍の弁護のためではない。しかもこの本の説くところは、交通機関は軍事利用されるを以て空爆の対象となる。

 次の興味は七章の九カ国条約と支那事変である。米国のフェンウィック教授が国際法専門誌に、宣戦布告があろうとなかろうと支那と戦争をしているのは、九カ国条約違反である(P219)と書いたのは九カ国条約と不戦条約を混同しているばかりではなく、不戦条約も自衛戦争を禁止していない、と説くのは当然であろう。しかも自衛戦争か否かの判断は国家主権に属するとの留保をしたのは他ならぬ米国である。しかも九カ国条約の言う門戸開放とは、元来「支那に於いて領土を占領せる者が、従来支那の行へる如く、自由に其門戸を開放すべき」(P237)であったのが、支那の全土に適用されるように変更されたのが九カ国条約である、というのである。九カ国条約は、要するに日本をも含む欧米諸国が支那で自由勝手に行動して良いというひどいものなのである。

九カ国条約の義務については、結論から言えば、支那の赤化に伴う抗日運動の激化は、国際法の言う事情変更の原則によって、条約義務が消滅している、と説く(P259)。もちろん事情変更の内容によっては義務が消滅する内容は限定される。いずれにしても支那の抗日運動は現在想像される範囲を超えたテロの連続、と言うべきものであった。イラク戦争終結後のイラクでのテロと同然であった。これに対して日本は国際法上の正当な権利を行使すべきであったのに、日本の政治家はしなかったのである。日本政府は支那の在留邦人をテロから守るために国際法上の権利を行使すべきだったのである。英米は支那の外国人への暴行に対して一致して砲撃した。しかし共同行動を要請された幣原外相は断った。

その他は紹介しないが、いかに当時の日本人がいかに真面目に戦時国際法を研究していたか良く分かる。戦後大東亜戦争について、この本の程度に於いて戦時国際法上の研究をした論文を知らない。日本の侵略をあげつらうものが、戦時国際法をつまみ食いして利用した程度のレベルが低いものしか見ないのである。今の日本ではまともな戦時国際法の図書を寡聞にして知らない。まだまだこの本に教えてもらえることはある。例えば国際法は、国際的慣習と国家間の条約により成り立つものとされている。しかし、条約にも、国際法となるべき慣習をなすものと、単に条約関係国相互の約束に過ぎないものがあると教えている。

何かの本で、戦前は、ゲリラ等の政府ではない団体は交戦団体と認めなかった、と書いたものを読んだ記憶がある。しかしそれは間違いであった。本書によれば、「・・・内乱の現在の事態および内乱後の将来の事態に関して利害関係を有する第三国は、政府と叛徒との間の闘争に関して対等の地位を認むるの必要を感ずることあるを以て、国際法は、特に交戦団体の承認の制度を認め、・・・(P19)」と書いてある。つまり反政府ゲリラは無条件ではないにしても、当時より戦時国際法の交戦団体と認められることがあったことが分かる。

 さてこの本は今では国会図書館位でしか見られないから、皆様読みたくなっても、入手不可能に等しいから( ^^;)と考える次第です。


戦陣訓への誤解あるいは嘘

2019-09-24 21:55:20 | 軍事

  戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」と書かれていたから日本兵は捕虜にならずに自決や玉砕を選んだ、と言うのが今では定説の如くである。同時に捕虜にならないよう教えられていたから、当然のように投降する連合軍兵士を虐殺するのだと言う。
 結論から言えば後者は明らかな間違いである。戦陣訓をきちんと読むがよい。誰も引用しないが、戦陣訓には

 苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。仮令峻厳の威克く敵を屈伏せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。

ともあるのである。意味は説明しなくても分かろう。激しい戦闘があっても、戦闘が終え降伏した敵は、慈悲の心で大切に扱え、と言っているのである。戦陣訓を忠実に守って死ぬような人間が、この条文だけ無視するなどと言う事は考えられない。日本軍の残虐行為、などと言う作られた物語を信じる人間は、たとえこの条文を知っていても無視するのである。


  そもそも私には、支那事変開戦以来幾年も経て、大東亜戦争開戦の1年前にもならない昭和16年の1月に作られた戦陣訓が、その後の兵士の行動を決定するほど徹底していたとは信じられないのである。日本兵であった山本七平は、戦陣訓などは聞いたこともなかった、と言っているが、これが真相であろう。極端に現実的な日本人が、一片の紙に書かれた言葉のために、恐怖を乗越えて敢えて死を選択するのが一般的であったとは考えられないのである。兵士であった父から、金持ちの子弟が軍に寄付をして将校になるのをカネ少尉と言うのだが、実力がないからカネ少尉は部下に馬鹿にされて、かえってつらい思いをしたと聞いた。

 親が軍隊で楽をさせようと思ったのが災いしたのである。また、指揮が下手で威張り散らす上官は、戦闘中に後ろから来た弾で戦死する、という噂があったそうである。真相の真否は確かめようもないが、うわさがあったことだけは事実らしいのだ。忠君愛国教育が徹底していたと言われる戦前の日本人も、このように現実的なのである。それだから一片の文章のために投降しない、などというのは到底信じられないのである。

 そもそも戦陣訓が作られたのは、長引く支那事変で兵士に厭戦気分が蔓延して、軍紀が弛緩していたのを引き締めるためである。その中に捕虜になるな、と言う条文が入れられたのは、支那事変の最中に支那兵に捕縛された日本人が残忍な方法で殺害されていたからだ、ということである。支那兵が敵を殺害する方法は長く苦しみを与える残忍な色々な方法によっている。それならばいっそ自決した方が苦しくはない、と言うのは本当の話だろう。支那兵による惨殺体は数多く目撃されており、日本兵は支那兵が残虐行為をするのが当たり前であることを知っていたのである。そのことは日清戦争の折にも、既に帰還兵士の体験談として、多くの日本人に知られていた。

  それならば大東亜戦争の場合はどうか。私たちは、捕虜を人道的に扱う連合軍、捕虜を虐待する日本軍、と言う嘘を信じ込まされている。ここでは米軍の残虐行為を記述した事で有名な「リンドバーグの戦時日記」の関連部分を引用する。1944年の項である。ちなみにチャールズ・リンドバーグは、大西洋単独無着陸横断飛行に初成功し、著書「翼よあれがパリの灯だ」や映画で一躍英雄になった人物である。彼は民間人として米軍とともに行動したのである。以下に米軍の日本兵扱いの記述を示す。

 話が、たまたま日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、一人の将校が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」 「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる。・・・中略
 わが軍の一部兵士が日本捕虜を拷問し、日本軍に劣らぬ蛮行をやってのけていることも容認された。わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが、太平洋におけるこの戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う。・・・中略
 ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとしない、なぜなら両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るより明らかだから。・・・中略」

 「海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。激戦であった。わが方も将兵の損害が甚大であった。敵を悉く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる物はいないかと質問する。英語を話せる物は尋問を受けるために連行され、あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という。

 以上のリンドバーグの証言でお分かりだろう。戦争の初期には日本兵にもかなり投降者はいたのだ。そして投降をしなくなったのは拷問され、あるいは殺されることを日本兵が知ったからである。米軍に拷問されたという日本兵の証言は知る限りほとんどない。ところがリンドバーグの証言のように、日本兵への拷問は行われたのである。これは何を意味するか。拷問の挙句に殺されたのである。そして生き残った捕虜は優遇された。こうして人道的な米軍と言う伝説が戦後流布されることになる。米軍は「文明ための戦い」の宣伝をしたのである。


  太平洋の島々では日本軍は万歳突撃をして玉砕した、と言われる。しかし兵頭二十八氏は、ほとんど全員死んだのは、米軍が戦傷者を殺したからであるという。リンドバーグの証言からも、これは納得できる。万歳突撃して射撃を受けても負傷して戦闘不能となり生存する兵士は残る。通常の戦闘では戦死者の2~3倍程度の負傷者は出る。万歳突撃が死亡の比率が高くても同数の負傷者が死体の間に意識を失って倒れているという可能性は充分ある。米軍は負傷して呻いている日本兵にとどめを刺したのである。これについてもリンドバーグが次のように書いている。

 わずかな生存者は茫然自失の状態で坐るか横になっているかして、アメリカ兵を目にしても身じろぎさえしなかった。第一報では一名だけ捕虜にしたとあったが、後刻、歩兵部隊の将校が私に語ったところによれば、「一名も捕虜にとらなかった」という。「うちの兵隊きたら全然、捕虜をとりたがらないのだ」
 
 説明の必要はあるまい。米軍は戦闘終了後の生存者を、原則全員殺したのである。そして洞窟に無傷で残った日本兵は、米軍の残虐行為を恐れて自決した。これで玉砕、という訳である。戦陣訓に書いてあったから日本兵が捕虜にならなかった、という伝説が間違いであることがご理解いただけたろうか。

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