毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

日本の歴史戦の苦境の原因とは

2016-01-31 13:45:49 | 歴史

 現代日本において、慰安婦や南京事件の問題で、特に中韓から非難されているのを保守系の人たちは「歴史戦」と呼称することがあるが、日本の未来の安寧にとって正に戦争に等しい、という意味では正しい。だが歴史戦は苦境である。そしてなぜ日本だけが歴史戦を戦っているのか。

 かつてはドイツも、ユダヤ人の大虐殺、という歴史戦を戦っていたが、完全にそれが終えた訳ではない。元西ドイツのヴイツゼッカー大統領は「荒れ野の40年」という演説をして一応の決着をみたと考えられている。これは噴飯もので、実はドイツが行っていたとされる残虐行為には一言も謝罪していないのは、きちんと読めば分かる。例えば「ことにドイツの強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人を思い浮かべます。」(岩波ブックレットP11)と書かれている。

最大の残虐行為とされる、ユダヤ人虐殺に対して「謝罪する」とは言わず「思い浮かべる」だけなのである。思い浮かべるのだけなら、被害者のユダヤ人だって「思い浮かべる」であろう。なのに多くの日本人は、ドイツは謝罪した、と騙されている。騙されているのではない、日本を批判する口実にしているだけである。

 いずれにしても、ドイツは全ての批判をナチスに押しつけて、ドイツ民族の罪ではない、と逃げることに一応成功した。だが、事態が沈静化しただけで、よく考えればドイツ民族全体にも罪がある、ということを完全に否定することに成功した訳ではない。ドイツの歴史に突き刺さった棘は、完全には取り除かれてはいない。

 なるほどナチスドイツは無辜の何百万人と言うユダヤ人を殺害したのであろう。しかし、共産ロシアの殺害した人々、毛沢東が殺害した人々の人数は遥かに大きい。アメリカにしても、黒人の奴隷を大量に輸入し獣扱いした。アメリカインディアンを正義の名のもとに、事実上の民族絶滅をさせた。米国が、フィリピン独立運動や第二次大戦中にフィリピンや日本で殺害した民間人は百万人どころではない。欧米諸国やロシアのユダヤ人虐待は常態化していた。ナチスドイツの迫害を知りながら、亡命しようとするユダヤ人の受け入れを拒否したのは、他ならぬ米国であるが、そのことに口を閉じている。

 なのに日独だけが歴史戦で圧迫されているのは、何故であろうか。ことは簡単である。戦争に負けたからである。敗戦民族が勝者に歴史を奪われるのは、古来、東西を問わず常識であった。しかし、ヨーロッパにおけるウェストファリア条約以来の、戦時国際法の成立によって、戦争はルール化されて、勝者が賠償を取り、講和条約の成立をもって戦争は清算されることとなった。

 勝者が正義を主張する必要のない時代が成立し始めたのである。国家間の紛争は戦争で決着し、正義を問わない時代が、少なくともヨーロッパでは成立した。幕末の日本は「国際公法」をそのように理解し、文明国として国際法の世界に参加する権利を得ようとし、日清日露の戦役で、目的は達成せられたかにみえた。

 これを破壊したのは米国である。南北戦争とは米国内の内戦という事にされているが、実は北軍と南軍という国家間の戦争であった。それを隠蔽する為に北軍は奴隷解放と言う、虚偽の正義のスローガンを掲げ、勝利すると南軍の指導者に悪のレッテルを貼り、苛酷な処分をした。

 第一次大戦では、勝者がドイツ皇帝を訴追する、という正義を主張したが亡命されて、失敗した。あまりにも戦争による被害が大きかったために、ドイツに天文学的な賠償を要求し、ウェストファリア体制は崩壊の兆しを見せたのである。さらに第二次大戦ではエスカレートし、米国は日独の無条件降伏を宣言した。

 負けを悟った国が、講和を申し出て戦争が終わるという、ウェストファリア体制は無視されたのである。無条件降伏は、単に和平交渉を拒否するだけではない。勝者の絶対的正義を前提とするのである。その結果、従前の国際法になかった、政治家を含む戦争指導者を処刑するという、ニュルンベルグ裁判、東京裁判なるものを強行した。元来国際法で戦争犯罪で処断されるのは、民間人や捕虜の違法殺害という戦時国際法違反者に限られていたのである。

 従って、東京裁判などでは、勝者が正義を主張するために、平和や人道に対する罪、などというかつてない罪状が主張された。そのために南京大虐殺なるものがねつ造された他、日独の残虐行為だけが誇張された上に、一方的に裁かれた。これに対してドレスデン空襲や東京大空襲、原爆投下、ベルリンなどドイツにおける米ソの膨大な残虐行為などは、歯牙にもかけられなかった

 よく知られているように、国際連合という訳は正確ではなく、枢軸国に対する連合国の意味である。従って国連の根本的性格とは、第二次大戦の連合国の正義を固定化するもので、それに反するものを許さないのである。それを象徴するものが、いわゆる国連憲章の旧敵国条項である。

 第53条には、強制行動は安全保障理事会の許可を必要とするが、107条の規定又は旧敵国の侵略政策を防止する場合は、許可を必要としない、とされている。107条とは、国連憲章のいかなる規定も、旧敵国に対抗していた国が、戦争の結果としてとった行動と得たものを無効にしない、ということが書かれている。

 煎じ詰めて言えば、日独などの旧敵国の行動が、連合国の一部の国に気に入らない行動をとった場合には、安保理事会の許可なく、当該国は旧敵国に対して軍事行動とる自由がある、という事である。これは解釈の幅がある恐ろしい条項である。尖閣や北方領土問題で日本が、中国やロシアの気に入らない行動をとった場合に、戦争をしかけてもよい、ということにもなりかねないのである。

 もし、旧敵国条項が廃止されたとしても、日本は連合国の正義の範囲の中で行動しなければならない、ということに変わりはない。大東亜戦争は侵略ではなく、英米に追い詰められた自衛行動であった、などと政府が公然と主張することはまかりならぬ、ということである。全ての歴史戦の不利の根本原因はここにある。

 多くの愚かな日本人は、歴史上初めての外国による占領とWGIPという日本人洗脳計画による、宣伝、検閲等によって、日本の戦前戦中の行動を全て悪と看做すようになった。この結果「南京大虐殺」などというものが事実として固定化された。何と慰安婦問題などは、日韓条約締結後、何十年と問題にされていなかったのに、吉田某の慰安婦強制連行の虚言や、朝日新聞のキャンペーンによって、脚光をあびてしまった。

 韓国人の立場になって考えても見るが良い。慰安婦がいたのはかれらも百も承知であったが、売春と言う行為を公然と語りはしなかった。ところが当の日本人自身が、慰安婦の強制連行や、性奴隷などと言い始めたのである。それならば、韓国人は日本人を非難しないわけにはいかないのである。

 韓国人がアメリカで慰安婦のキャンペーンをしているのを非難する保守系の人間は多いが、そうしなければならないように追い込んだのは、WGIPによって日本の過去は全て悪で、悪を嘘までついて弾劾することが正義だと信じ込まされた、倒錯した日本人自身である。彼等の考えが変わらぬ限り、歴史戦は負けるであろう。

 その点ドイツ人は賢明である。彼等には日本に対するほど周到なWGIPはなかったし、勝利も敗北体験し慣れている。彼等は敗者としての立場をわきまえ、周到に行動し、いつか汚名を晴らすであろう。少なくとも事実に反するものを訂正し、連合国の悪事も追求し、正当なバランスをとるようになるであろう。既にワイツゼッカーの「荒野の40年」にはその萌芽がみられる。ドレスデン爆撃に対する非難等の連合国の非道もきちんと批判しているのである。その観点から言えば慰安婦問題や南京大虐殺、靖国問題の歴史戦で日本が劣勢にある根本原因は日本人自身にある。

 

 


戦前反戦だった米国民が日本との和平に反対したと言うのは奇妙

2016-01-24 15:10:39 | 大東亜戦争

 竹田恒泰氏の「アメリカの戦争責任」には昭和20年6月のギャラップ調査によれば、「・・・アメリカが日本を占領せずに条件を付して降伏を容認すべきか、敵を完全に打ち負かすまで戦争を続けるべきかという質問に対して、約九対一の割合で『完全な勝利』が支持されている。アメリカ政府は、国民の真珠湾攻撃への恨みを煽って戦争に邁進してきた。アメリカ国民は真珠湾攻撃を恨んでいて、大統領には日本を叩き潰すことを望んでいた。」(P102)と書かれている。

 これは戦前のギャラップ調査が、欧州への戦争に参戦すべきか、と聞いた時の結果と真逆である。この両者を比較すると、実に奇妙な感に打たれる。戦前厭戦であったはずの国民が、真珠湾攻撃だけによって、ここまで正反対に国民感情が変化するものなのだろうか。実は元々米国民は好戦的なのではなかろうかと思わざるを得ない。

 米西戦争のきっかけになったメイン号爆沈にしても、マスコミが騒いだだけで、犯人がスペイン政府である、という証拠が全くなかったのは、当時も米国内でよく知られていたのである。ベトナム戦争への本格的介入となった、二度の北ベトナム魚雷艇による米駆逐艦攻撃と言う、トンキン湾事件も一度目は北の誤認によるもので、二度目は米軍によるやらせであった。

 ベトナム戦争も、突然戦争が始まったわけではなく、トンキン湾事件の何年も前から米軍は介入している。米国における、ベトナム反戦運動も、一気に起きたわけではなく、共産側が仕掛け、ベトナム戦争の勝利があり得ない、と分かって徐々に米国内に広がったものである。日本への無条件降伏要求と同じく、米国民の軽薄さと好戦的なことを示しているのに過ぎない。

 イラク戦争でも同じである。湾岸戦争と同じく、簡単に勝利が得られると米国民は支持し、正規戦が終わっても、いつまでたってもテロやゲリラ攻撃によって、米兵の死者が徐々に増えると、米国民の風向きは、徐々にイラクからの撤退を求めるようになった。ISとの戦いでも、オバマ大統領は、爆撃はするが、兵士の犠牲が出る可能性がある、地上軍の派遣はしない。米政府と米国民の軽薄さに気づいた結果生まれたのが、世界各地で発生するテロとISというテロ組織である。

 対日戦について言えば、従前より言うように、元々米国民は日本を潰すことを求めていたのであり、戦争の勝利が確実だと分かると、好戦的な本性をむき出しにしたのに過ぎない。硫黄島の戦いでも、苦戦であったことを隠し、米国旗を立てた四人の英雄を仕立てあげてキャンペーンをすると、戦時国債はよく売れたのである。


改憲反対論のバカバカしさ

2016-01-23 14:11:34 | 政治

 安倍政権になってから、改憲論議がちらほら出ている。以前も書いたことだが、再掲する。漱石の吾輩は猫である、にこんな挿話がある。

儲け話を教えてやる、というのだ。人に六百円貸したとする。返すのは月五円づつでいい。すると一年に六十円返すから10年で完済になる。ところが、毎月返し続けた結果、返すことが習慣になって、10年過ぎても返さないと不安になって返し続ける。

バカバカしい話である。だが日本の現実は、この話を笑えない。米国人がわずか1週間で書き上げた「日本国憲法」のドラフトを翻訳して、国会審議して帝国憲法の改定を強制させられた。当時の国会議員は真相を知っているから、ほとんど全員がいつか自前の憲法を作ってやると思っていた。

共産党はその最先鋒で、国防ができない憲法などだめだ、と言っていた。そもそも、共産主義は私有財産権など否定しているから、政権をとったら全面改憲する、というのは理の当然である。ところが時が経つと事態は逆転した。ほとんどの政党が改憲反対となった。

共産党の中枢幹部は、本心は政権を取ったら共産主義憲法に変えようと言うのであろうが、末端の支持者は改憲絶対反対である。党の綱領に自主憲法制定をうたっている自民党ですら、多くの改憲反対議員がいる。

その根本原因は、米国による徹底した検閲と洗脳であるにしても、時間の経過そのものにも原因がある。現に改憲反対論者ですら、現在では日本国憲法が米国から押しつけられたことを知るようになった。国の基本法規を他国から押しつけられたことを、恥とも思わなくなってしまったのである。

何年か前、霞が関界隈でデモに遭遇した。政府の政策に反対する労働組合である。当然考え方は改憲反対である。マイクでがなる声を聞くと、外国から押しつけられた法律は、たとえ内容が良くても、だめだ、と叫んでいる。唖然とした。同じ頭で日本国憲法は押しつけられたものでも内容が良いから変えるべきではない、と考えているのである。時の経過は恐ろしいものである。

 


明治の元勲はどうやって誇りを維持していた

2016-01-21 16:04:04 | 維新

 伊藤博文などの明治の元勲と言われる人たちの多くは下級武士の出身である。ふと下級武士上がりの明治の元勲は、どうやって誇りを維持していたのか、という疑問を抱いた。そう思っていたら、たまたま読んでいた会田雄次氏の「勝者の条件」(中公文庫)にひとつの答えがあった。

 「優越感こそ成功者の倫理」というのである。人間は幼児の時から、自分で変えられない出自などの環境に優越感がないと成功者にはなれない、というのである(P212)。「むかしから成功した人間-これは立身出世という狭い意味でなく、革命家でも宗教家でも何でもよい、とにかく人々の真の指導者になった人という意味だが-の出身は、伝説的に下層とはいわれていても、そのほとんどが、実はそうでなかったことが明らかにされる傾向にある。」

 ヨーロッパやアメリカは日本より遥かに階層社会である、と言われているが、最下層の人間でも成功者は、その階層における指導的地位にあったというのである。要するに何らかの優越感が必要で、劣等感だけの人間は成功できない、というのである。その例は豊臣秀吉で、出身は最下層の百姓であっても、名主百姓の出身で、百姓仲間でなら村の支配層であった、ということである。

 そのプライドを持っていたことが秀吉の幸運である。そして秀吉が真に天才的なのは、与えられた階層のトップに安住せずに、さらに上の武士の世界に飛び込む挑戦をしたことである。そう考えると、明治の元勲は下級武士と言われても、百姓より上の武士である、という優越感が彼等を支えていた、という結論になる。単に劣等感だけでは、成功者になれない、というのは本当であろう。成功者になると言わずとも、そもそも人間がまともに生きるには、劣等感だけではだめだ、というのも本当であろう、と思うのである。


シネマ紹介・戦火の馬

2016-01-19 16:41:34 | 映画

 第一次大戦に軍馬として使われた英国の馬の話である。原題はWar horseというのだから、直訳すれば、軍馬というのになるので、味気ないから工夫したのだろうが、最近のようにウォー・ホースなどと直訳されるより、よほど気が利いている。監督はかのスティーブン・スピルバーグである。昔、「激突」というスピルバーグの映画があったが、ストーリーは全く異なるものの、同様にスピルバーグらしい、味わいある映画になっている。

 元々原作に人気があるらしく、スピルバーグの目の付け所が良かったというところであろう。ろくに金もない父が、高値で馬を競売で落札したので、農耕馬として育てると言った、息子アルバートは馬にジョーイと言う名をつけて訓練した。ところが、英軍騎兵に目をつけられて、軍馬として買われることになった。

 そこからジョーイの運命の変遷が始まる。ドイツ軍に引き取られたり、少女に飼われたり、気性の激しい馬との友情が芽生えたり、ジョーイの生活は次々と変わる。数々の戦場を駆け抜けたジョーイは、終戦とともに結局少女の祖父に競売で落札されたが、彼の好意でアルバートのもとに戻った、というハッピーエンドの物語である。馬は多くの苦労をしたので、ハッピーエンドは有難い。

 何故かジョーイに出会った青年たちはジョーイに惹かれ、一種の友情が芽生える。ジョーイを象徴するのは、最初にアルバートにつけられた赤白の三角布である。日本でも馬と人間との情愛は知られている。西洋人にも同様な感情があるのだと実感させられた。靖国神社にも戦火に倒れた軍馬を象徴するブロンズ像が飾られている。

 馬は犬以上に人間になつき、時には死を賭して働くそうである。小生の家は農家だったから、小学生の途中まで農耕馬がいた。馬を扱ったことはないが、副収入を稼ぐため、山羊や牛も飼っていた。山羊や牛を放牧の為に連れ出すのだが、強情で素直について来ないので、苦労した覚えがあるが、馬はそんなことはなかったろうと思う。

 だから牛が食用として売られていくときに、何の感傷もなかった。だが馬が売られていった時のことは鮮明に覚えている。当時最新の耕耘機を買ったので、馬がいらなくなったのだ。夜、裸電球で照らされた下で祖父が、最後の餌として、桶に切った干し草や、糠を入れて水でこねたのだ。

 電球に照らされた馬の、パッチリした大きな目は、潤んでいたが悲しかった訳ではあるまい。今でも馬を見ると、目が気になる。当時は珍しい、競馬馬を運ぶような箱形のトラックに乗せられて行ってしまった。馬は若くはなかったので、どうなったか見当もつかない。悲しかったかどうか記憶はないが、その時の光景は、よく覚えている。

 


ソ連の崩壊でアメリカの覇権が消えた

2016-01-16 14:54:07 | Weblog

 オバマ大統領は、アメリカは世界の警察ではない、と言ったことに象徴されるように、米外交としては消極的で、それが中東やウクライナ情勢を不安定化させたと言われている。だがこれらの根本原因は、アメリカの対外的消極性にあるのではない。ソ連の崩壊によって、アメリカは欧米、すなわち西側世界の盟主である理由を失ったのである。

 第二次大戦後、ソ連は東欧と一時的にもせよ中共を支配し、さらにはベトナムなどの東南アジアに触手を伸ばし、いつの間にか世界の半分の覇権を握る存在になっていることに、米欧諸国はようやく気付いた。この結果NATOを作るなどして、米国は欧米の盟主にならざるを得なかった。盟主となることが期待されたのである。

 その結果米ソの二極の世界ができたかに見えた。米ソの軍拡競争において、ソ連の軍事的弱点は日本海軍に滅ぼされた海軍であった。米国に対抗できる空母建造に、一気にいけなかったために、航空巡洋艦なる空母もどきを造った後、本格的な空母らしきもの(これも航空巡洋艦と呼んだ)を建造したがカタパルトが開発できない以上、CTOL艦上機の運用が困難な空母もどきに過ぎなかった。

 英国の真似をして、スキージャンプ滑走台を備えたが、これはハリアーのようなVTOL能力のあるものの、搭載量を増やす目的のもので、カタパルトの代用には不十分である。

 恐ろしく高速の水中速度を持つ小型原潜から、第二次大戦前の戦艦に匹敵する巨大な原潜まで造った。その他航空機や戦車などの開発もしたが、最も金がかかるのは巨大な海軍力の維持である。ソ連を経済的に崩壊させた最大の要因は、アメリカに対抗しようとして肥大化させようとした、海軍戦力にあるだろう。

 ソ連が崩壊すると、ヨーロッパは自由になり、ソ連成立以前の大国のゲームの世界に戻った。米国もロシア同様、ゲームのプレーヤーの一国に成り下がったのである。しかし、人の意識は簡単に変わるものではない。父子のブッシュ大統領がイラクに戦争を仕掛けたのは、覇権意識の残滓もあったのに違いない。逆に第二次大戦中までの米国は、英帝国がドイツに滅ぼされようとして、大帝国の地位から落ちかけたとき、全世界の覇権を握ったと考えたのであろう。

 ところが、ソ連は、大国のゲームをして、欧米のどこかの国と利害関係によるパートナー探しをしていたロシア帝国とは異なり、ユーラシア大陸に覇権を確立しつつあった。それどころか、コミンテルンを使って、米国の政権中枢にまで入り込んでいた。過去の情勢意識の惰性に流された米国は、ソ連のこれらの伸長を見過ごして、見当違いな対日戦さえ仕掛けた。

 今やISを始めとするイスラム問題が、世界情勢の課題の中心となっている。中国の台頭は本質的には恐るべきものではあるまい。近代の衣をまとった古代国家支那は、いずれ崩壊する砂の巨人である。崩壊に対する備えさえしておけばいいのであって、本気で軍事的対決するために備える必要はない。前述のように、ロシアも大国ゲームのプレーヤーの一国に成り下がった。

だが、イスラムの知識のない小生には、イスラム問題が、どの程度本質的に世界を動かすことになるのか分からない。答えは大川周明などの、戦前の日本のイスラム研究の先駆者に聞いてみるのもひとつの手かも知れない、としか言えない。


堀越先生から習ったのは飛行機の重量だけ

2016-01-09 14:37:24 | 軍事技術

 平成22年11月5日の日経新聞に、三菱重工相談役(当時)の西岡喬氏が「私の履歴書」に、東大航空科時代の想い出を書いている。その中に有名な零戦設計者の、堀越次郎氏の教師としての想い出を書いている。教授メンバーは守屋冨次郎氏の他にもそうそうたる人たちが揃っているのだが、西岡氏の語る堀越氏の授業は異色である。

 「習ったのは最初から最後まで重量についてだけだった。・・・週一回の講義に見えては、グラム単位で、主翼など機体の重量や重心の計算ばかりする。」というのだ。

 堀越氏の言葉で「航空機は重量が命だ。小数点以下まで細かく計算をしなくてはだめだ」というのを今でも覚えているそうだ。防大で堀越氏から授業を受けた人も、全く同じように、重量計算だけやらされた、と証言していたのを読んだ記憶があるから、どこで教えても同じだったのだろう。

 堀越氏の授業を受けた両氏とも、尊敬している風なのだ。しかし、いくら重量軽減が大切だから、と言って重量計算だけしかしない、というのは余りに偏頗ではなかろうか。堀越氏らの世代は、戦後の日本人航空技術者と違い、何機もの航空機の設計の主務をした貴重な経験を持つ。その経験から、若い技術者の卵に教えることのできることは、重量以外にもいくらでもあるのではないか。余りにもったいない気がするのである。


何故浮世絵の美人の顔は同じなのか?

2016-01-07 14:54:22 | 芸術

 長い間、浮世絵について疑問に思っていたのは、同じ絵師だと、美人画の顔がほとんど同じである、ということである。例えば街の美人を描いた浮世絵は、当時の有名な美人で名が知れた者を何人描いてもほとんど同じで、見る者はヘアスタイルや、衣装などでしか区別できないのである。

 これについて、こういう仮説を立てた。同じように見えても、浮世絵を見慣れた同時代人は、目が慣れているから、区別がつくのだ、と。つまり現代人は浮世絵の表現に目が慣れていないからだ、というのである。これも客観的に考えればかなり無理のある仮説だった。明らかに同じ角度から描かれた、同じ絵師が書く女性の顔は、目鼻の造作や顔の輪郭などが、類型的に同じように描かれているのである。そこで仮説はずっと頓挫したままだった。

 ある時秋葉原の街を歩いていて答えは見つかった。一枚の絵にアニメやコミックの女の子のキャラクターが何人か描かれているポスターがある。すると、そこに描かれた全ての人物は別人を表現しているはずである。ところが、当たり前の話だが、一人ひとりを区別しているのは、ヘアスタイルと衣装だけなのである。体型ですら似ている

 秋葉原あたりに氾濫している、大抵の女性の漫画のキャラクターは、体型はともかく、顔は大人というより少女に近い。同じ漫画家が描く少女は顔の輪郭、目口鼻耳といった造作は基本的に同じである。今は不思議な時代で、戦車と漫画のキャラクターを組み合わせた、ギャルパンツァーなるものが流行っている。無理して流行らせているようにも見えるのだが。

 だから小生が買ったミリタリー系の雑誌にも女性のキャラクターをメインにした漫画がある掲載されている。同じコーナーに表紙にフィギュアの原型のような漫画の女の子が書かれた、雑誌があったので中を見てみると、戦史関連のものだったのには驚いた。一人の漫画家が描けば、同じ年代を想定した女性の顔は類型的に同じである。今手元にある戦史雑誌にも漫画があり、二人の女性が描かれているが、顔の造作と体型は同じで、同じ飛行服を着ているから、区別ができるのは、髪の毛だけなのである。それでも見慣れれば違和感は感じない。

 なぜこうなるのかは、正確には分析できていない。だが根本は、線描という簡素に省略された表現手段が持つ、描き分けの限界ではないかと思うのである。油絵の場合、写真と似たように、リアルに描くことが出来れば、個人の顔の特徴をリアルに反映できるから、一人一人の顔を違って描ける。線描故に、それが困難なばかりではなく、無理して特徴を捉えようとすると絵画としての面白さが失われるのではなかろうか。このあたりは漫画家自身が良く承知しているであろう。

 だから年代が同じで、可愛らしい美人、という設定をして、同じ漫画家が描くと同じ顔になってしまう。それどころか、秋葉原のポスターなどに描かれた漫画の女性は、漫画家が違っても類型的によく似たものが多いと思われるのである。これは単に真似しているのではなく、同じように見えることによって、同時代の流行を故意に作っているか、流行に乗ろうとしているようにも思われる。

 これは浮世絵にも言えることで、時代が近ければ、絵師が違っても顔の描き方や体型も似ているはずである。一方で、女性ではないが、写楽の歌舞伎役者の浮世絵は、役者の特徴を捉えていて、一人づつモデルとなった役者と似ているはずである。はずである、と言ったのは写真などの客観的資料がないから断言できないからである。しかし、違う役者は違う顔の造作や輪郭をしていることは明白である。

 役者絵がこのようなことができるのは、役者の特徴を誇張して描くことが、絵としての面白さを失わせるどころか、増幅するからである。役者の顔立ちには癖があり、役によって化粧も違う。その癖を誇張し、化粧をきちんと描くと、役者毎の区別がつくし、それによる面白みも増す。

もし役者絵を同じ年代の、癖の少ない典型的な二枚目の男の役者の舞台化粧をしない素顔を描く、という条件を設定してしまうと美人画と同じく、絵師が同じならば、同じような顔になってしまう、ということになるはずである。はずである、と言ったのは、そのような設定の役者絵は存在しないから、実証的に証明できないからである。今たどりついた、当面の結論を言おう。浮世絵の美人画の顔が同じなのは技法と絵師の都合と時代によるものである。