毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

BMP1(1985年)

2020-01-30 14:37:08 | プラモコーナー

 このプラモは、旋回砲塔と主砲を備えているが、戦車ではない。旧ソ連の歩兵戦闘車BMP1である。皆さんは1985年、と言う言葉を覚えているだろうか。共産主義の計画経済が行き詰まり、打開策として、ソ連のひきいるワルシャワ条約機構軍が、突如戦術核ミサイルを西ドイツに打ち込むのを合図として、一斉に西ドイツ国境を突破してなだれ込み、西欧諸国を占領してしまう、というものである。

 それが、1985年に発生するだろうとして「1985年」と言うような軍事シミュレーション小説が書かれたものである。有名なオーウエルの「1984年」ではない。昭和50年代後半には、この1985年ワルシャワ条約軍侵略危機説が大真面目に欧米諸国で論じられたものである。この軍事シミュレーション小説の巻頭の挿絵でさっそうと登場したのが、NATO軍の陣地を蹂躙する、BMP1である。73mm口径ながら滑腔砲と対戦車ミサイル・サガーを装備して、最低限の対戦車戦闘能力を持つ。

 従来の歩兵戦闘車は車載の火器を使えるが、目的は歩兵を戦場に運ぶだけの「戦場タクシー」だったのがBMP1は、乗車した歩兵が、銃眼から小銃を打ちながら戦闘できる、乗車戦闘が可能な画期的なものとして、西側にいわゆるBMPショックを起こしたのである。実は、小さな銃眼で揺れる車両から歩兵が効果的な射撃をすることは、現実的には困難であると後には分かったのではあるが。残念ながらネットで「1985年」と調べても1985年危機のことは検索できなかったから、人間は忘れることは早いものである。だから、この記事は、ほとんど小生の記憶を頼りに書いております。

 実際に起こったのは、ソ連の戦術核ミサイルSS21の国境配備に対して、西ドイツにアメリカのパーシングミサイル配備で対抗し、均衡が保たれ、軍拡に伴なう経済危機からソ連が崩壊し、東欧の衛星国(体のいい植民地)はソ連のくびきから解放されたのだった。当時の日本の大衆は何をしていたか。忘れもしない。SS21が先に配備されたことには目をつぶり、パーシングミサイル配備反対運動が大々的に行われたのである。しかも日本とは遥かに離れた、西ドイツでのできごとであった。小生は近所の公園でパーシングミサイルの実物大らしい模型を振り回して行われていた、労働組合による反対運動を目撃したものである。

 彼らに悪意はなく、ソ連の戦術核ミサイルの方が先に配備されていた情報は与えられず、善意での反対運動をしていた。要するに間接的にソ連に利用されていたのに過ぎない。今もそのことに対する反省はなく、相変らず中共などの外国のプロパガンダに振り回される人士が多いのは憂慮に堪えない

 このプラモは、古いイタリアのエッシー社製で、ディティールはいい加減だが、全体のデッサンはしっかりしているし、何よりも手軽に組み立てられるのがいい。いかにも尖鋭なBMP1らしい姿である。小生は戦闘車両は興味本位で作るだけだから塗装はいい加減で、ロシアングリーン一色で済ませた。履帯カバーで隠れて、どういう角度からでも見えない部分の履帯は省略する始末である。戦車マニアなら、許せないような出来なのは百も承知ではあります(;^_^A


浮世絵の天才

2020-01-22 21:46:02 | 女性イラスト

 浮世絵という発明の天才的なところは、絵画を大量印刷することにより、廉価で大衆に販売することにより、生活の糧を得ることを可能にしたことである。糧を得たのは絵師ばかりではない。刷り師、彫り師、版元などである。製造から販売までのシステムが確立していたのである。組織の広がりの大きさとシステマチックな点は同時期のヨーロッパ絵画の比ではない。ヨーロッパの絵画の多くは一枚しかないから大衆に大量販売する、ということはできない。それまでの日本の絵画も同様である。

 18世紀末に発明され、19世紀にヨーロッパに広まったリトグラフも大量印刷の可能性はあったが、絵画としては結局はそのような道を歩むことがなく、限定生産に止まった。いや、大量印刷販売の可能性はあったのだが、希少価値がなくなるとして敢えて限定印刷として、版を破棄した。つまりリトグラフは手描き絵画の延長である。

 当時の洋画は既に没落していた。元々ヨーロッパの絵画は王侯貴族などのパトロンで存在していた。王侯貴族が没落すると既に存在する理由はない。だから多くの絵画の才能ある者は自己に没頭した。芸術至上主義と言う観念にである。江戸時代の日本でも狩野派のように、幕府や藩などをパトロンとしたグループがあった。浮世絵とはそれとは別個の存在である。洋画のさらなる敗北は写真の登場である。だが既に西洋絵画は写真が芸術と呼べる段階以前に没落していた

写真の芸術としての台頭が絵画を駆逐したのではない。作家が制作にかける労力に相当する収入を得る道は既になかったのである。ゴッホを見よ。たった一枚しか売れない素人である。だからゴッホは元々別に本職を持っていたのであって、制作に没頭するようになってからは、弟に寄生していた。

考えても見よ。AKB48より上手く歌える素人はいくらでもいる。しかし、それでもAKBは歌で生業をたてることができるプロの歌手である。AKBよりはるかに上手い素人は、歌で生業をたてることができない故に、誰も歌手とは言わない。それをゴッホに適用してみれば、小生の言わんとしていることは全く突飛な事ではない。

ゴッホの作品の評価は死の前から高まっていたと言う。だがそんなことは何の意味もなさない。それでもゴッホの作品を大枚をはたいて買うものは現れなかったのである。それでは現在ゴッホの作品が何億もするのは何故であろうか。投機的価値である。ゴッホの作品が欲しくて何億も金を出す、というのは単に投機的動機を、芸術という観念で糊塗しているのである。そもそも書いた本人が受け取ることができない大金は、制作のインセンティブにはならない。芸術の洗練は制作のインセンティブがもたらすものである。それがないから、芸術や個人の内面的信条と言った、鑑賞者に理解不能なものに逃げ込むのである。

芸術の価値というものは、作品が作られたとき取引された価格である。だから浮世絵の価値も現在のような高価なものではなく、大衆が入手することができる程度の価値である。それを可能にしたのは木版による大量印刷である。その形式を基に、いかにしたら大衆に売れるかということがインセンティブとなって作品を洗練させていった。北斎も晩年は画狂老人と称して、売れない不可解な肉筆絵画を描き始めた。洋の東西を問わず、社会的地位が低い絵描きにとって芸術と言う観念は、陥りやすい陥穽である。

さて女性イラストですが、あっさり仕上げました。


中国の戦争宣伝の内幕・日中戦争の真実

2020-01-16 16:34:44 | 支那大陸論

 フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ・田中秀雄訳・芙蓉書房出版

  この本の価値は、日米戦争以前に米国人ジャーナリストにより書かれて、支那事変の様相と、支那の巧妙なプロパガンダを記述していることにある。逆に言えばいかに日本の対外宣伝が拙劣であったことの証明でもある。

 従って当時の支那の真実を余すところなく、抉り出している。対中外交をする政治家や日本の近現代史の研究者には、基礎知識として是非読んで欲しい本である。何故日本が大陸で戦争をしなければならなかったか、何故今に至るまで欧米人が中国を哀れな被害者、日本を加害者と誤解し続けたかを見事に説明している。原著は古いが、翻訳は現在でも図書館や書店でも入手できる。

 本書によれば、ソ連共産党の謀略と西洋列強がともに反日を中国に仕掛けているのだ。これは現代西尾幹二氏が主張していることとほぼ等しい。日本は「侮辱と周期的な自国民殺害に至っても平和的であろうとした」(P22)。しかし蒋介石が反共政策を続けたために反日の実行は上がらない。そこで、西安事件を起こした。この本は数ページにわたって西安事件を記述している。西尾幹二氏は反日の日本人が故意に西安事件を取り上げない、と批判したが確かにそれほど致命的な事件である。そのことを著者は充分知っているから詳述したのだ。

 阿羅健一氏はドイツ軍事顧問団が支那事変の後ろ盾になっている事を著書で論述した。西安事件の後盧溝橋事件は起きた。しかしすぐに起きたわけではない。蒋介石は西安事件で脅迫されて反共を止めて日本と戦うことにしたと軍事顧問団に伝えると、激怒して日本と戦うだけの軍隊にするには二年かかると告げた。そしてそのことをロシアに告げて猶予してもらったことを喜んだ。ところが当時ロシアは赤軍の大規模な粛清をしていて、蒋介石を支援するどころではなかった。そのことを蒋介石は後に知るが後の祭りだった(P29)。スターリンは自分に都合の悪いことを隠して蒋介石に恩を売ったのだ。ちなみに盧溝橋事件は、二年後ではなく1年弱で起きている。中国共産党は滅亡しかかっていたから待てなかったのだし、蒋介石を督戦する意味もあったのだ。

 阿羅氏が論述したようにドイツ軍事顧問団は純粋に軍事的支援をしていただけではなかった。顧問団は「あなたは一人では勝てない。ロシアは今はここにいない。協力者が必要でしょう。イギリスに頼みなさい。しかしながら力のある干渉者となると好ましいのはアメリカです。」と言ったのだ。「シンパシーという点では、最初から中国の方にあった。日本人は侵入してきたのだ。彼らは侵略者なのだ。中国の領土を奪い、帝国を広めようとしたのだ。一旦中国を征服したならば、中国人を組織し、世界を征服するのだ。これはモスクワとロンドンのエージェントが世界に送り出した最大のプロパガンダだ(P40)。これは、偽文書の田中上奏文をはじめとして、現代日本が教育された偽の近現代史そのものである。

 日本軍が戦闘に於いていかに一般民衆や外国人を巻き添えにしないようにしているのに対して、中国軍は計画的に逆のことをしている。「・・・中国軍が密集市街地の中心に塹壕を掘り、外国人の資産を遮蔽物にして銃器を据え付けていること、銃眼の付いた胸壁に第三国の旗を立てていることなども報じないのだ。何度も何度も日本軍指揮官は中国軍側に市民に近いところから戦闘地域を移動するように、・・・しかし中国軍とその兵隊はこの人道的な日本側指揮官の請願を拒否するだけでなく、警告もなくこのあわれな中国市民の身体と掘っ立て小屋を、敵への遮蔽物や生餌にしたのだ。」(P49)

 「蒋介石配下の共産主義者が陸伯鴻を暗殺したのは上海の街中であった。・・・自分のことより中国のことを思っている数少ない中国人だった。・・・彼は私に中国のこと、蒋介石のような者たちのためにどんなに苦しめられているかを語っていたのだ。・・・日本人が混乱の中から秩序を回復させ、上海を暗い絶望の淵から引き上げようとしたとき、また中国軍が逃走した後に、群れをなして町に帰ってくる数えきれない人々のために食料を与えようとして、食糧の手配ができないか乞うてきたとき、陸伯鴻は日本人と協力して、飢えた者たちや病人のための食料や薬の分配システムを作り上げたのだ。・・・彼が日本赤十字と共に数千人の人々を死から救おうと働き始めた矢先、彼は殺された。・・・蒋介石は表の戦争では負けていても、裏側のテロの世界には君臨し続けているのだ。・・・マークした中国人を群衆内に見つけたら、女や子供、外国人がいようが関係ない。爆弾を投げつけるのである。」(P64)これらはわれわれが今教えられていることの正反対であるのは明瞭である。日本人は支那民衆を助けようとし、支配者はそれを妨害する。汪兆銘が支那民衆を助けようとした例外であるように、陸伯鴻のような人もいたのだ。

 中国にはカソリックの宣教師がアメリカから派遣されていた。彼らは遠慮なく支那人に殺害されても本国には知らせないのだ。「過去23年間で二百五十人もの宣教師が中国兵や非俗に誘拐されて身代金を要求されたり、殺されたりしている。これに対して戦争が始まってから日本人に殺されたのは十人か十二人である。これらの事件が起きたとき、中国人に責任がある場合は知れ渡らないように目立たないように伏せられた。しかし宣教師が日本兵に殺された場合は、絶対数ではるかに少ないのに凶悪事件として世界に告知されたのだった。宣教師は中国の「目立つ場所」にいると・・・そこは中国兵と匪賊、共産主義者に取り囲まれているところであり、日本側に立って言えば、いかなる事情があっても彼らの死を意味するところと言われなければならない(P132)」。

 宣教師の殺害は日本人によるものであると宣伝されていたのである。そればかりではない。「支那事変国際法論」の書評で述べたように、戦闘中の地域に入り込んだ民間人が誤射されたとしても国際法の戦争犯罪とはならない。著者はそのことを言っているのであって、まことに公正な論表と言わなければならない。これに対して支那人は金品強奪のために誘拐殺害するので、戦争とは関係のない犯罪そのものである。

 いかに宣教師たちの嘘の報告がアメリカ本国に間違って伝えられているか。「中国のプロパガンダに利用されたこれらの幾つかの宣教師たちの恐怖の手紙と、著しい対照は泰安から来た二つの手紙である。書いたのは戦争を最も恐ろしい段階で経験していた司祭たちである。彼らは日本ではなく、中国の兵隊によるアトロシティーを非難していた。いわゆる非正規兵であるが、匪賊とほとんど変わらない程度の連中で自国民を獲物にしていたのだ。彼らは書く。『こちらの状況に関するアメリカの新聞報道は一方的であり、大袈裟すぎます。-しばしば本当のような嘘が反日のためのプロパガンダとしてはびこっているのです。我々は中国人に捕まり、殺された囚人の首が棒の先に突き刺されているのを見ております。中国の農民は中国の非正規兵による掠奪で一番苦しんでいるのです。もう匪賊と変わらない程度の軍隊なのです』・・・『日本兵は統率が取れています。そして我々をどんな形でも決していじめたりしません。・・・しかしながら日本人についての真実は語られておりません。彼らは私たちに親切です。泰安の爆撃の間、私たちの伝道施設はひどく破損しました。町の陥落の後、日本軍将校たちがやってきて、遺憾の意を表明しました。そして教会の再建用にと三千円を提供してくれました。また役に立つからと車を提供してくれ、宣教師の建物を保護するよう一筆書いて掲示してくれました。』(P135)」

 これが真実である。中国の軍隊が匪賊と同様で、彼らが略奪などの金稼ぎの目的で軍隊に入るのに過ぎないことはパール・バックの「大地」にも書かれている。大地は中国を美化しすぎていると論評されることもあるが、きちんと読めばそうでもない。唯一の欠点は、最後に登場する毛沢東の紅軍を、過去の中国になかった統制のとれた立派な軍隊であるかのような期待で書かれていることである。パール・バックは共産軍の本質を知る前に書いてしまったのである。

 アメリカ人が中国寄りのプロパガンダに乗せられるもうひとつの理由も書かれている。「我が国民に対する憎悪の感情を知って中国から帰ってくると、この国においては中国人へのほとんど感傷というしかない同情心を見出すのは皮肉なことである。もちろんこれはプロパガンダによって育てられているもので、一般的には多くの情報源がある。そしてこの国には母国を支援している中国人がかなり住んでいる。しかしアメリカで生まれた彼らの多くは中国に行ったことがなく、その生活のことも親の世代も知らない。

 それでいて母国に住む中国人より本当に愛国心が強い。アメリカ生まれの中国人が完璧に嘘偽りがなく、我国のアメリカ人のほとんどと同じように、冷酷で野望に満ちた征服者に侵略されていると本当に信じていることは疑えない。・・・彼らが救援と軍需品購入のために軍閥が送った巨額の金がどうなり、どう使われたかを追跡してみればいい。ただの一例二例でいい。このお金が軍閥どものポケットに直行し、預けられたにしても、一銭も救援や軍需品に使われていないことを発見するのはなんと恐ろしいショックだろうか。・・・チャイナタウンから航空機一機購入のために南京に送られた二万五千ドルのうち、たった五千ドルのみが最終的受領者の下に届いたという話は、上海のカフェで傑作な笑い話となっている。数百万ドル以上を注ぎこんでも日本と戦う飛行機が一機もなかったこと・・・」(P74)

 ここに書かれているのは現代にも通じる話である。いや、この本に書かれた全ての嘘とペテンが現代の中国にも通じる事実である。アメリカ政府にしても蒋介石政権につぎ込んだ何百兆円にも相当する金が軍閥の懐に入るだけで、何の役にも立たなかった。それにもかかわらず米国は経済的利益を求めて中国と「仲良く」しようとしていたのである。日本も戦前膨大な西原借款を与えながら、得られたのは反日である。借款がびた一文も返済されなかったのは当然である。


ある顕彰碑その2(忠霊塔)

2020-01-10 19:20:23 | 大東亜戦争

 前回「ある顕彰碑」に書かれていた言葉は、実は「忠霊塔」に付随するものであったことを、改めて昔の写真を見返して思い出した。写真は全て平成十六年に撮影したものである。顕彰碑の他にもセットで「忠霊塔改修の詞」が掲げられているのであるのにも気づいた。その要点となる一部を取り出して下記に記す。

 

忠霊塔改修の詞

 この忠霊塔の本体は、旧御殿場町当局、在郷軍人会会員および町民の絶大な御支援御協力奉仕によって、昭和十七年夏に起工して翌年夏に功成ったものであります。時あたかも十七年六月のミッドウェー海戦を境に戦局は急転を告げ、軍需資材はむろん、日常生活物資も窮迫その極に達し、所要石材等の入手難から遠く茨城の産地に赴き、諸種手を尽くして資材を確保、加之輸送もまた意の如くならない中を万策を講じ精魂の限りをこめて建立して下されたものであります。

中略

 昭和五十年終戦三十周年を記念して関係者相議り、先ず塔の両そでに殉国英霊の芳名を刻むことを一決、続いてこの機会逸せず碑石その他を改修して聖域を整備することとなりました。

 

昭和五十年十一月十六日

 

 顕彰碑の本体である、忠霊塔は昭和十七年の夏、すなわち国民にとっては、大東亜戦争大勝利の連続であった緒戦の時期に計画建設されていたのであった。ミッドウェー海戦の大敗などと言うことは戦後知られたのであって、当時は連戦連勝であると信じられていたのである。

だから緒戦の勝利に酔っていたと言われている時期にもかかわらず、殉国の英霊を供養する、忠霊塔なるものを建設したということは、大東亜戦争が、日清日露の戦争と比べても、大変な国難であることを国民は直観していたのに違いない。

 

 顕彰碑は、昭和五十年の忠霊塔改修にともない設置されたものであり「忠霊塔改修の詞」にある通り、改修の際に,忠霊塔の両そでに御殿場町出征の英霊の名前を刻したのである。ちなみに顕彰碑には三百九十余柱とあるが、近傍に建てられた木杭には、戦没者三百六十八柱と墨書されている。この違いは大東亜戦争戦没者とそれ以前の戦没者も含めたものの違いかも知れないが、真相は不明である。英霊には、二十二歳の若さで戦病死した、小生の叔父も含まれていることを付言する。

 いずれにしても、当時の御殿場町の人口は一万人程度であったから、町民の三十人に一人が戦没した。当時の一家族は十人近いのも稀ではなかったから、三~四家族に一人は戦没者がいたのである。考えてみれば当時の日本の人口は一億に満たず、三百万人余の犠牲者を出しているから、御殿場町の戦没者数は全国平均的なものであったろう。ちなみに忠霊塔は小学校校庭の四角の一辺を成す、陵墓にも似た小山の裾を利用して建てられており、階段を含めれば高さが10mを超える壮大なものである。すぐ近くには浅間神社がある。

 

 さむらい小平次さんより「このような碑が作られ、いまだに撤去もされないのは御殿場の土地柄との関係があるのではないか」という意味の貴重なコメントをいただいたので、元市民として、今の御殿場市民が忘れたであろう、小生の知ることを簡単に記す。

 戦前富士の裾野は陸軍の演習場があつた関係だろうと思われるが、戦後米軍が進駐して基地の町となった。要するに戦前から軍隊との関連は強かったのである。榴弾砲の弾着があるたびに、薄っぺらな小生の家のガラス窓は、ビリビリと震えた。弾着地点からは十キロは離れていたのにである。繁華街の一角には、米軍様専用の歓楽街があった。

 小生などの子ども達は米軍ご用達の飲み屋に、道端のカタツムリを集めて売るバイトをした。エスカルゴ、というわけです(^^♪。だから米兵などは無教養の馬鹿だと思っていた。しかし金髪の米兵の落とし子がいたくらいなので、怖い連中だとも思っていた。

 演習場で薬莢拾いのバイトをしていたおばさんが射殺される事件も一度や二度ではなかったと思うが、何ら問題にもされなかった。対策は何と演習時間の町民への周知徹底だけだった。小生の記憶には米兵の射的遊びの犠牲者だと信じるだけの傍証はある。米軍の横暴は現在の沖縄の米軍の比ではない。だから人道的米軍などということは、到底信じないのである。そんなこんなが御殿場の風土にはあった、と今にして思う次第である。

 


ある顕彰碑

2020-01-07 20:48:36 | 大東亜戦争

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富士山の麓の街を旅して、ある小学校の校庭に「顕彰碑」なるものを見つけました。次に記すのは、縦書きを横書きにしただけで、文体等はそのままです。

顕彰塔誌 

 霊峰富士を仰ぐ、この地に建立されたこの忠霊塔には、西南の役以来幾多の戦役に従軍し、一命を 皇国にささげられた旧御殿場町在籍の英霊三百九十余柱が鎮まります。

 顧みれば、英霊は明治維新の大業成り、国民皆兵の義務のもと、皇国の防衛と国権の維持に力を注ぎ使命感に徹し忠君愛国の精神を堅持して、西南の役日清日露両戦役に従軍し国威を全世界に宣揚した勇士や続く満州事変日支事変に際して国家の権益擁護に敢闘し一死国恩に報じた列士、更には八紘一宇の大理想と東亜被征服民族を開放し、万邦をして各々その所を得しめんとの、大義名分を旗印とする大東亜戦争に及ぶや感泣勇躍、陸海空を所狭く転戦中忠孝の道きわまり散華した義士であります。この聖戦に散男女青少年学徒、一家の柱石等総力を傾注して戦い、天に三百十余万の生命を犠牲にしましたが昭和二十年八月十五日終に敗戦といふ結果を招きました。

 国破れて山河あり。この冷厳な事実を直視した国民は異口同音に日本を再建しなければならない、その再建は日本人自身の不屈の努力によらなければならない、他人の援助や偶然を期待してはならないとの眞剣な自覚を促すにいたった。この自覚の由来は実に英霊が身を以て実践垂範せられた遺産に外なりません。一度は敗れたとはいえ 外、東亜諸民族は相次いで独立した。正に英霊は身を殺して仁を為すと称せらるべきもの。内にしては、焦土と化した大小都市に高層建築を林立せしめ、剰え今日世界屈指の経済大国を形成せしめた。これまた、英霊各位の遺徳偉勲の賜ものに外なりません。終戦三十周年に当たり顕彰塔詞を建立して、その遺徳を万世に伝える次第である。

    昭和五十年十一月十六日

 私は、この碑が昭和50年と言うそれほど古くない時代に、しかも戦後30年の記念として作られた事に驚いている。現代日本のように、自虐史観が跋扈すると同時に大東亜戦争を肯定的に評価する書籍も多く出ている時代と違い、戦時中に青春を過ごした人たちが多く生き残って、戦争の実相を知っていたのにもかかわらず、人々は戦争について黙して語らなかったからである。この碑のように維新以後戦後までの日本の歩みについてこれほど簡潔に述べたものを私は知らない。当時の市井の人々は語らずとも、精神は健全だったのである。

 そのわずか10年後の昭和60年には、国会においては、侵略戦争の謝罪決議などと言う運動が出てきた。その間に日本は洗脳されつくされたのである。現代にこのような碑を学校のような公的な場所に建てようとしたら、反対運動で実現不能であるのは間違いない。