書評でも論じるから重複するが、東郷和彦氏は「戦後日本が失ったもの」と言う著書で、ヨーロッパの街並みに比べ日本の風景は特に戦後醜く雑多になった事を長々と論じている。そして雑多な町並みは全国同じような風景でかつてのような地域による個性が無いとも言う。同書でも紹介しているように、幕末に日本を訪れた欧米人は日本の街並みの美しさに感動したというのは複数の文献から証明できる。東郷氏は今日の雑多で醜くなった日本の街並みを作ったのは昔と同じDNAを持った日本人とは思われないと言う。ここまでは反論の余地が無いように思われるし、このことは定説と化している。
私は「同じ日本人が」と言うところに実は疑問を持った。同じ日本人が違う事をしているのではなく、同じ事をしているのではないか。それはメンタリティーが変化する原因が見当たらないからである。だから江戸期の日本の街並みが綺麗にそろっていて整然としていたのは、メンタリティーに起因しているのではないのではないか、と考えるしかない。考えられる一つの原因は、テクノロジーが低かったからである。似たような材料で似たような低い技術でしか作ることができなかったのである。メンタリティーの問題でも現代ヨーロッパのように法律などで景観を統一したのでもなく、似たようなものしか作れなかったと考えるのが最も自然である。
人々は皆が等しく、地元産の素材を使い受け継いだ同じ技術で営々と街並みを作っていった。だから質素で統一的な景観が出来るのである。その上幕末明治の欧米人の紀行文に書かれているように、不潔できたない支那や朝鮮と異なり、日本人は清潔好きで清掃も行きとどいていて綺麗である。もうひとつは、各藩が独立していて交流が少ないから自然とその地域の材料を使った独特の技術を養ったから、地方ごとに統一された独自の景観が養われて行った。地域ごとに個性的な建築ができるよう地域の景観の個性がはぐくまれていったのは、実に藩の間の交流が禁止されていたという、現代ではありえない条件に支えられていたのである。さらに寺社と違い木造の、安価で居住を条件とする家屋が技術的に高層にできようはずがないから高さも統一される。高層建築は寺社が稀に作るものだから一種のランドマークになる。こうして西洋人が感動する街並みが出来た。
ところが貧しかった戦前と異なり豊かになって行った日本は欧米の技術を用いた建築を庶民まで安価に作ることが出来るようになっていったのである。元々景観を守ると言う発想で景観を統一したのではなかったから、西欧の技術で安価に多種の建築ができるようになってくるとそれを積極的に導入した。元々日本人は外国のテクノロジーに対する好奇心が強い。そして戦後はとみに建築業者の大手が全国で大量に安価な建物を供給すると、雑多ではあるが、どこの地域の街並みも同じような地域の個性がない建物ができると、地域の景観の個性がなくなった。東郷氏が言うように「公」としての日本が何かということが、我々のDNAから欠落してしまった(P128)という事ではなかろうと思う。江戸時代の日本人が「公」の意識から景観を統一したという証明は東郷氏もしていない。
景観無視のコンクリートの護岸も同様である。戦後治水や下水道のために町中の河川がコンクリートで安価に整備することができるようになった。景観よりも機能の充実が喫緊の課題であった。それらが充実して満たされると、必然的に景観の重視を求めることができるゆとりができると、醜いが安価で当座の機能を満たしたコンクリートの護岸が果たした役割が忘れられて、非難の的になっていったのである。正に衣食足りて礼節を知る、であった。醜い電柱と電線も同様である。電線を地中に埋めるよりも電柱を使う方が安価であり、急速に増える戦後の電化需要を満たすには電柱も仕方なかったのである。電化の普及が終わると、張り巡らされた電線の醜さに気付くゆとりが生まれ、電線の地中化の事業が始まったのだがタイミングが遅すぎた。公共事業削減のあおりを受けて、機能上問題が少なく景観にも良い電線地中化の事業は細々と続けるしかなくなって現在に至っているのである。
一方で東郷氏が言うように、確かに欧米の建築は長持ちして家主が変わっても建物は変わらない。日本の木造建築は法隆寺などのように歴史的建造物はともかく、木造では庶民レベルで長持ちするものを作るものは無理だったのである。庶民とはかけ離れているが伊勢神宮がわずか20年で立て替えるのに象徴されるように古来建物は立て替えるものだ、と言うのが今も続く日本人の意識なのであろう。現に住居を頻繁に立て替える、というのは東郷氏が景観を称賛する江戸時代もそうであった。江戸市中は火事が多いため、焼けて立て替えることを前提としている。個人住宅で白河郷のように長期間持つ建築というのは例外なのであろう。小生には検証するすべがないが、江戸時代の白川郷の茅葺屋根の木造住宅が何百年ももつとは考えられない。近年になってあのような木造建築は、現代ではコストから立て替えが困難になって、立て替えのインターバルが長くなったのではなかろうか。白河郷の人たちにしても、観光のために我慢しているのであって、当座の生活を重視すれば安普請の現代建築に住みたいのであろう。
私は醜く雑多で地域の個性のない現代日本の街並みを改善すべきである、という主張に反対しているのではない。その原因が日本人の考え方が変わったことにあるのではない、と言いたいだけである。その改善には法律で強制するのではなく、人々が受け入れることができる適切な動機付けが必要であろう、と言うことである。現に東郷氏が小樽の例を挙げて、小樽のレトロには生活の香りがなく観光のための努力の跡だと述べている(P111)のは私の言わんとすることと同じだと言うことは理解していただけると思う。さらに小樽の運河がオランダの運河に比べてなにかしっくりこなかったのは、運河が街全体の生活の中に溶け込んでいなかったからだろう、と述べているのも私の意見と同様である。観光のために無理やり過去の景観を保全しても、運河が現実に使われると言う必要性で存在しているオランダの自然さにはかなわないのである。