毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

ウクライナはポーランドとなる

2022-01-27 15:52:14 | 政治経済
第二次大戦前、英国などの欧米諸国は、ポーランドを侵略するものには、ポーランドから武力で撤退させるという条約を結んだ、ところがソ連とポーランド分割の密約をしたドイツは、1939年9月、突然ポーランドに侵入したにもかかわらず、英国などは蹂躙するに任せて、武力行使をすることはなかった。ポーランドは英国に騙されてのんびりしていたのである。こうしてポーランドという国は地上から消えた。
 英国らは単にドイツに宣戦布告をしただけであった。これが第二次大戦の始まりであった。ところが英国などは武力行使をしないものだから、単にドイツとにらみあうという奇妙な戦争になった。英国などはドイツの侵略に何もせずに口だけで宣戦布告をしただけだったのである。
 ひるがえって現代、ロシアはウクライナの国境に軍隊を終結させている。これに対して米英諸国はウクライナに侵攻したら厳しい経済制裁を課すと言っているだけで、軍事的にウクライナを守るとはいってはいない。ロシアのクリミア半島侵略に対しても同様な態度をとったから何の効果もなかった。ウクライナはポーランドの二の舞になろうとしているのである。
 今この問題は、NATOが旧ソ連の衛星国を次々に加盟させてソ連を圧迫している、という問題に矮小化されている。NATOの侵略にソ連は怒っているぞ、というわけである。
 しかし、ことはそんなに小さな問題ではない。筑波大学にいた中川八洋氏は、ソ連の崩壊を予測した数少ない人物である。その中川氏が「大侵略」(副題:二〇一〇年ロシアはユーラシアを制覇する)という著書を早くもソ連崩壊直後の1990年に出版している。簡単に言えばソ連は二〇一〇年までに、分裂独立した旧ソ連の共和国を再び侵略して、かつての強大なソ連が復活する、というものである。
 二〇一〇年ということははずれたにしても、現代ロシアのクリミア半島併合などをみるとロシアの行動は長期的に中川氏の予言通りにしているではないか。ベラルーシなどの旧ソ連量は着々とロシアの影響下に収められている。中川氏の言う通りなのである。ウクライナはポーラランドと同様、軍事的に対抗しなければロシアに併合される。その他の旧ソ連の共和国の運命も同様である。
 ちなみにウクライナから核兵器を撤去するとき、米露はウクライナの領土の保全を約束した。ウクライナに核兵器がある限り、ロシアはウクライナに侵攻できないからである。その条約はすでにクリミア半島で反故にされている。

MiG21のバリエーション

2022-01-16 15:39:53 | プラモコーナー
MiG21は長い間使われてきただけあって、バリエーションも多く、実験機すらある。ここで゜は、MiG好きの小生の作ったプラモで紹介する。MiG21はバリエーションが多い上にNATOのコードネームがあるので 混乱する。ここではin actionシリーズの分類を主として使うことにする。


この機体はチェコで使われたものだが、最終型に近いMiG21bisだと思うが実は胴体はKPのものを削って凹モールドにして、主翼周りや脚、ピトー管などの小部品は、はフジミのものにしたのだが、これがぴったり合うのである。ちなみにフジミのシリーズは、胴体が太すぎて使い物にならないのだが、このことを描く模型ライターはいない。しかし長年通っている模型店の店主は簡単に「フジミのは太すぎてだめ」と簡単に言ってのけた。


1113号機の側面。この機体はソ連解体後のチェコの機体で機首の女性のノーズアートが有名である。東欧がソ連に開放された中の自由な雰囲気の中で、このようなノーズアートが描かれたのだろうか。ノーズアートなどデカールは全てフジミだったと記憶している。


この時期に多数作られたリフトエンジンをつけた短距離離着陸型で、「SOVIET XーPLANES」によればMIG21PDである。ベースは中期型のMIG21PFM フィッシュベッドFだろうか。この時期にはMiG23の固定翼型にもリフトエンジンをつけているが意図はわからない。いずれにしてもソ連航空界の意気軒昂な時代であった。


MiG21の初期型である。初期型にも多少のバリエーションがあるので゛わかりにくにいが、垂直尾翼の赤の部分の形を見るとチェコ製のMiG21F-13、NATOコードネームフィシュベッドCであろう。



この機体は、他の初期型と異なって、後方視認窓がふさがれている特色がある。F-13が皆そうというわけではなく、例外的なものと思われる。後方視認的がふさがれているのは中国製にもみられる。これはプラモのマスキングも楽なのだが、すっきりしていて好きなので故意に塞いだ次第である。


このアングルは飛行機の典型的なものであるが、MiG21の初期型の場合、細い胴体と取ってつけたような小さな主翼が魅力的である。MiG21の場合、胴体や垂直尾翼はいじくりまわしているが、不思議なことに主翼と、水平尾翼は少なくとも外形に変更がない。



 Tu144の主翼の模型をつけたMiG21Iアナログである。平面形を見ればTu144によそっくりなことがわかる。



 Tu144はコンコルドフスキーと揶揄されたが、このような地道な努力がなされたのである。





戦後日本が失ったもの-風景・人間・国家

2022-01-06 23:18:47 | 歴史

書評・戦後日本が失ったもの-風景・人間・国家 東郷和彦 角川書店

 著者は言わずと知れた開戦と終戦時の外務大臣東郷茂徳の孫である。失われたアイデンティティーという項目に期待して読んだが、勘違いであった。景観の話が以外に長かったのには少々うんざりしたが、傾聴に値する。しかしなぜ日本の街並みが醜くなったかについては別に論ずることとしたい。 

ここでは脱ダムについてだけ論ずる。下流の生態系の破壊や土砂流出の遮断による弊害はその通りである。本書では明確には書かれてはいないものの、あたかもダムが不用であるかのような論調である。そしてダムの役割を治水だけに限定している。これは脱ダムの論者がよく使う論法である。植林などによる緑のダムによってダムの治水機能の代替は可能であるからコンクリート製のダムは不用である、というわけである。時折群馬の草木ダムや高知の早明浦ダムの水位が渇水で低下して、給水制限が行われる、などというニュースが流される。脱ダムを主張する人たちはこれをどう考えているのだろうか。現に民主党がいったん中止した八ツ場ダムですら、水を利用したい周辺の都府県の反対で建設を再開したではないか。普段当たり前のように恩恵を受けながら黙して、困った時だけニュースを流すのはあまりに御都合主義である。脱原発問題で言われる再生可能エネルギーには水力発電は入っていないようだが、技術的に言えば再生可能エネルギーである。これらを閲するに元官僚の東郷氏の景観に関する主張は少々エキセントリックに過ぎるようであるのは意外であった。それどころか氏の考え方は官僚らしい保守思想はなく、左翼のリベラリズムに近いものさえ多い。 

ナショナリズムの章で、大平洋戦争が侵略戦争あり、その首謀者は「平和に対する罪」として断罪されねばならないという、極東裁判検察と多数判決の論理を、我が家では、一秒たりとも肯定したことはなかった(P137)と書く。しかし、同じページで、日本は、徐々に、戦争によってどのような被害を相手国に与えたのかという点について、学び始める、とも書く。ここで書かれている相手国は米英というよりはいわゆるアジア諸国であるように前後から読み取れる。しかしアジアで独立国であり日本と戦ったのは中国だけに過ぎない。それなのに当時米国領であったフィリピンを持ちだすのだ。どう読んでも氏は日本がアジア諸国に対する侵略国であったと考えているとしか読めない。ラトビアなどの現在のバルト三国の地域は、ドイツに蹂躙されたが、これはソ連に侵攻したのであってバルト三国に侵攻したのではない。しかもこの地域の人々には、独立のためにドイツに協力した人々さえいたのだ。 

同様にマレーなどで日本軍が快進撃をしたのは欧米からの独立を期待した現地の人たちの協力があったからだ。まず欧米のアジア侵略があった事に端を発している。日本が守勢に転ずるとこれらの地域の人々が連合国への協力に転じたのは、現実的対応としてやむを得ないのであって根本に反日感情があったのではない。東郷氏にはこれらのアジアの植民地の地域の人々の心の機微が全く分からないのだ。アジア諸国への侵略や日本軍の残虐行為など、結局東郷氏の書きぶりは東京裁判の結論に忠実である。氏の前掲の主張は平和に対する罪で断罪されるべき人々の中には、祖父茂徳だけは入っていない、と主張しているとだけしか読めないのだ。 

田母神空将との対話で、当時アジアへの勢力拡大の指導者であったひとたちから、アジアにおける日本の戦いに関する痛切な自己批判が繰り返し述べられている、として戦前の日本人の二例を挙げている(P146)。 

明治維新後、日本人は民族国家を完成するため、他民族を軽視する傾向が強かったことは否定できません。台湾、朝鮮、満洲、支那において、遺憾ながら他民族の心を掴みえない最大原因がここにあることを深く反省することが・・・(石原莞爾)

もとより南京政府はすでに樹立され、汪精衛氏以下の諸君は、興亜の戦いにおいて我らと異心同心になっておりますが、支那国民の多数派その心の底においてなお蒋政権を指導者と仰ぎ・・・(大川周明) 

だが日本とこれらの地域の関係を、欧米諸国とその植民地に置き換えたとき、この文章のような批判を免れる国はない。それどころか李登輝氏が日本の統治に感謝しているように、日本の統治は欧米のように過酷なものではなかったし、台湾や朝鮮は収奪を目的とした植民地ではなかった。まして二人は兵士の残虐行為を批判しているのではない。石原や大川は李登輝氏が感謝するようなことすら許せないほど理想主義で潔癖だったのである。今日ですらロシアや共産主義諸国、独裁国家などにおいて、国内でこのような批判をすることができる国は皆無である。当時よくもここまでの言論の自由があったと賞賛すべきである。氏がこのようなナイーブな国際感覚で外交官をしていた外務省の危うさを空恐ろしく感じる。

国民の総意に基づく国体(P159)と題して、日本国憲法が作られた過程をあっさり述べるのだが、国際法に違反して憲法や制度を次々と変えて日本を蹂躙した米国のやり方に対する怒りは微塵もない。それどころか、皇室の安泰は新憲法によって維持され、象徴天皇は日本の伝統に合致すると安易に是認する。

「皇室の安泰」とは何だったのか(P162)、と題して、皇位継承問題と敗戦間際指導者が国家の存亡をかけて「皇室の安泰」を護ろうとした意味を問いかけている。そして我が国の皇室の安泰とは何だったか、と言い、

・・・私にも、よく分からないのである。けれども、この原点にたちもどるとき、なぜか、涙がこみあげてくる。それ以上に答えがないのである。

と言う。東郷氏は「皇室の安泰」という章を設けながら、天皇の存在が日本の統治の根源であり、皇室なくして日本という国は存在しえない、という認識はない。皇室に対する畏敬も感じられない。だからポツダム宣言受諾に当たって、日本が全滅する危機にあっても国体の護持に固執する指導者に不可解なこだわりを持っていたために無用に終戦が遅れた、という視点しか示さない。

当時の指導者は東郷外相も含めて、皇室の安泰すなわち国体の護持がなければ、物理的存在として日本が残っても、本当の日本は消滅する、という危機感を共有していたのである。彼らは狂信的なのではなくて、ごく常識的な日本人だったのである。そのことは東郷氏には全くの理解の埒外である。正に東郷氏は皇室とは日本にとってどのような存在なのか「よくわからないのである」。東郷氏は祖父茂徳氏とは皇室観を全く異にしている。祖父を尊敬してるようだが、祖父の考え方のどこを尊敬していたのだろうか。ただ涙がこみ上げてくる、というのは無意識の皇室への尊敬の念と解したら誤解だろうか。

・・・敗戦ショックからすこしづつ立ち直る過程で、日本国民の中に、まず中国における日本軍の行動が、その一部において相当ひどいことがあったのではないかという情報が伝えられるようになった。東京裁判における残虐行為の追及がその端緒であったが、その後の動きは、占領軍の指示によるものとはいえない、日本人自身による発信を基礎としている。中国において戦後戦争犯罪人として収監され、共産党指導下で「学習」してきた人たちが、一九五六年から日本に帰り、一九五七年から中国帰還者連絡会を設立し、認罪運動を始めた。・・・どこまで真実を物語っているかについての、学問的判断は非常に難しい。しかし、普通の日本人にとっては、このようなことがあったのではないかという認識につがる基礎になっていったように思われる、と書く。

氏の筆致は淡々として客観的であるかのように思われるがそうではない。P136で江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」を挙げているのだから、占領軍による「戦前の日本は何でも悪い」という作為的情報の中にしか戦後の日本人が生きていけなかったことは知っているはずだ。だから日本軍の残虐行為は占領軍の検閲や指示の結果であり、日本人自身の発信とはこれらに洗脳された結果なのだ。こうした閉ざされた情報の中では、嘘をついてまで日本軍の残虐行為を述べる元日本兵は例外ではない

私自身も帰還者連絡会による本を二冊読んだ。これによれば大陸にいた日本兵は例外なく人間性を喪失したおぞましいほどの残虐な人物で、反対に中国人は心優しく勇気ある抵抗者として描かれている。また、恥ずかしくなるような美辞麗句を連ねて毛沢東と共産党指導部を褒めたたえている。まともに読めば中共政府の洗脳による全くの作文としか読めない代物としか考えられない。信ぴょう性のかけらさえ読み取れない。学問的真実など検討する必要さえない。今の中国では政府がテロ集団に等しいデモ隊を止めるどころか、バスで運ぶなどの支援あるいは命令している形跡さえある。これは義和団事件の暴徒と共同して日欧の外国人を襲った清朝の行動と酷似している。政府と国民のこのような自己中心の狂態と比較すれば、認罪運動に描かれた清廉潔白な中国人が全くの虚構であることは冷静に考えれば分かる

彼らは10年間拘束されて徹底した洗脳を受けて帰ってきて対日政策に利用されたのだ。氏の言う普通の日本人の認識、というのは直接帰還者連絡会の本を読んだためではあるまい。刻苦してこれらの本を読んだ一部の作家やマスコミ人などが間接的にコラムやドラマという形で広げたものであろう。これらの戦争犯罪の告白本、というのは荒唐無稽で気持ちが悪く、読みとおすのは困難な代物だからである。しかし外交官をした人間が国際間にはこのような熾烈な情報戦争が行われている事を知らないし考えもしない、という東郷氏と同様の官僚が外務省では当り前であるとしたら、他国と比較して日本の外務省は外交を担当するに値しない。教育の章では、近現代史を教えない日本の学校教育、という章を設けているが、氏が教えるべきと考えている近現代の日本史とは何か、と心配になる。

旧陸軍の親睦団体の偕行小社の「南京事件」を調査して3千人から1万3千人の不法殺人があったとして「中国国民に深く詫びる」(P139)とした結果を発表したことを書く(P139)。偕行社も罪な事をしたものである。確かに3千人でも不法なら大問題である。だが偕行社が不法殺人として数えたのは、安全区に逃げ込んだりした便衣兵の処刑である。偕行社は戦闘中の射殺などではないから、不法殺人としたのである。だが国際法上は戦闘中に戦闘員が民間人の衣服に着替えて民間人になりすました者、いわゆる便衣兵は、そもそも捕縛されても捕虜となる資格がないのである。

 戦闘中に兵士は公然と武器を保持していなければ、裁判もなく処刑されるのは国際法上当然である。軍服を着て階級を表わすものを身に着けて公然と武器を保持していなければならない。それがハーグの陸戦条約である。停戦していないのに民間人になり済ませば、隠し持った武器でテロを起こす可能性があるからこのような条約が作られたである。現に支那兵はそういう戦術もとった。恐ろしいことに米軍はサイパンの民間日本人を洗脳して沖縄に多数送り、日本兵に手りゅう弾を投げさせたそうである。ベトナム戦争でベトコンは女子供まで使ったゲリラ戦術を行ったから、興奮した米兵がソンミの虐殺などの不法行為を起こした。もちろんソンミの虐殺は断罪されて当然である。しかし一方で米軍に融和的な村長などを、ベトコンが見せしめに虐殺した事実も知られるべきである。これが共産主義の本質でもある。

だから便衣兵を処刑しても合法である。裁判を行っていなかったから不法であると言う論者がいるがこれも間違いである。完全に停戦したら便衣兵はきちんと便衣兵か否か認定する簡易裁判もできようが、停戦していない最中に裁判ができようはずがないから裁判は不用である。皮肉な事に偕行社の人たちは国際法を知らないから、捕虜になる資格のない便衣兵を処刑したのを、捕虜を処刑したと考えたのである。

ちなみに、映画プライベートライアン、で捕虜にしたドイツ兵を射殺しようとした主人公をフランス語通訳の米兵が止めて、戦闘を止めて国に帰れと諭して解放する。ところが最後に、かのドイツ兵が戦闘に参加していた。ドイツ軍不利となるとそのドイツ兵はフランス語通訳の前に現れて、武器を捨てて助けてくれと投降するが、怒りに駆られた通訳兵は即座に射殺する。皆様これは国際法違反でしょうか。正解は、違反ではありません。ライフルは捨てたから武器はないようだが、もしかすると拳銃を隠し持っているかも知れない。だから完全に武装解除を確認して身柄を確保するまでは捕虜ではないのである。だから通訳のしたのはあくまでも戦闘行為の一環である。厳密には全く白とは解せないかもしれないとしても、戦時国際法は自国に有利に解釈する慣行があるから、米軍が軍事法廷を開けば間違いなく通訳兵は無罪である。

P139には森村誠一の「悪魔の飽食」が紹介されているが、これは歴史関係書としてはきわ物というべきで、まともなものではないのが東郷氏には分からない。「中国の旅」と同様に中国側のそろえた証言者の言う通り書いたもので、著者が検証した形跡がないし、書かれた人体実験は残虐行為であることを強調するだけの行為であり、人体実験の意味があるか疑問なものばかりだからである。731部隊の主任務は防疫である。大陸ではコレラなどが大発生したから防疫部隊が必要だったのである。防疫部隊は中国の民間家屋の消毒や治療も行っている。健康優良児だった小生の叔父も満洲に出征してわずか1か月もたたずにコレラで亡くなった。大陸とはそういう風土だったのであるから防疫が必要だったのである。

世界各国のほとんどの軍隊では、毒ガスや生物化学兵器対策として、極秘に人体実験を行っている事実がある。731部隊が人体実験を行っていたとしたらそれと同レベルである。別項にも書いたが現に米国ですら、戦後プルトニウムによる人体実験を行い、かなりの犠牲者を出している。永遠に明るみに出ないであろうが、英仏独ソでも行われたはずであろうことは間違いはない。何せ中世の昔から英独は人体実験の本場なのである。中国などは現在でも言葉にできないような残酷な拷問をチベットやウイグルで行っているから、BC兵器対策として人体実験を現在でも行っていても不思議ではない。他国もやっているからといって許されるものではない、という論者もいるであろう。国家にも生存のために最低限の悪が必要であり、それは秘匿される。日本軍が人体実験をしたことを批判する者は、それを極限にまで残虐に歪めて表現し、故意に最低限の悪を超えている印象を与えると言う詐欺的手法を取っている。

読後感であるが、氏は海外の経験豊富で良識の人であろう。何回も書いたが氏のようなナイーブな人が外交の最前線で国益をかけて戦っていたという点については、不可解に思える部分があると言わざるを得ない。氏の国益とは外国の長所を学び日本にとりいれ、何がなんでも外国と「仲良く」する、という事ではなかろうか。その点を頭に置けば、我々が経験できない幅広い海外経験については一読の価値があると思う本である。