毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

隼Ⅱ型・ハセガワVSスペシャルホビー

2020-05-29 13:58:16 | プラモコーナー

 さてそれでは、ハセガワとスペシャルホビー(SH)の隼Ⅱ型を比較してみたいと思います。その前に隼Ⅱ型について一言したい。従来よりⅡ型には、甲と乙があるとされていた。しかし資料*によれば、陸軍戦闘機の、甲、乙、丙などの区分は武装の相違によって命名しているのであって、隼Ⅱ型の場合武装に変化があるわけではないので、甲乙の区分はあり得ない、というのである。従来Ⅱ型甲と呼ばれていたのは単なる集合排気管のもの。Ⅱ型乙と呼ばれていたのは集合排気管で推力式のもの、という区分である。

 ところが隼Ⅱ型には、環状滑油冷却器の有無、と前述のような排気管の相違もあるので、これを組み合わせると隼Ⅱ型には、4つの型があることになる、ということである。この他に推力式単排気管のものは、陸軍でも隼Ⅱ型改と呼んでいたそうなので、都合隼Ⅱ型には5つの細かい型の区分がある。実は偶然だが、ハセガワもSHも、全く同じ型を発売している。環状滑油冷却器のない、推力式ではない単なる集合排気管のものである。ハセガワで同じキットで二種類のマーキングのものを製作したので、それをまず紹介したい。ちなみに、ハセガワの作例の①と②は、3.11の震災以前に造った古いものを震災で傷んだ脚やアンテナ支柱を手直ししたものである。作った時期が違うと見る目も違うと思った次第である。

 

①ハセガワ1/72・飛行第33戦隊第一中隊長生井大尉機

 実は資料**によれば、生井大尉機は環状滑油冷却器なしで、推力式集合排気管のものである。そこで、写真のように排気管だけ、プラバンで集合排気管にした。他は②も同様だが、凹モールドを全面スジボリを入れた以外は素組みである。手間のかかるのはスジボリだけである。

 

 

 塗装であるが、戦隊マークデカールがキットのとは合わないので、マスキングと筆塗りででっちあげた。日の丸もマスキングで塗った。胴体の白帯は、ウォッシングの際に黒いコンパウンド(金物屋で買った特殊なもの)で磨いたために薄汚れたのが取れないのが情けない。

 

 上面のまだら迷彩は、数センチ角の画用紙に、千枚通しで穴を開け、ぐちゃぐちゃいじって、適当な模様にしたものを何枚も用意して、エアブラシで吹いた。わざと日の丸周囲の斑の密度を濃くするとか、機体全体で見て見栄えがするように、斑の密度は調整してある。搭乗の際の足踏みの黒いステップは、大抵の資料では左翼付根だけであるが、キットの説明書通り右翼にもつけてしまった。

 

 間違いは落下タンクである。このタイプはSHのキットと同じような落下タンクの取り付け方法が普通のはずなのである。製作当時はそこまでリサーチで気付かなかった。ただし、改造前の推力式排気管ではないハセガワのタイプの落下タンクはこれでいいのである。つまり小生が戦隊マークの都合で推力式排気管にしたから落下タンクが間違いになったのであって、ハセガワの製品の間違いではない

 

②ハセガワ1/72・飛行第55戦隊機

 この機体も①と同じ型である。従って、落下タンクの間違いも、①と同様と言うことになる。戦隊マークは、キットのものではないが、どこから調達したか資料を紛失してしまった。この機体だけはプラバンでカウルフラップを半開状態にしてみた。カウルフラップのある機種は、半開状態が見栄えがすると思っている。

 このように、ハセガワのⅡ型は、隼らしい雰囲気を良く出していて、凹モールドならば十分といったところだろう。ただし、実機写真などではわかりにくいが、キャノピーの形がやや変で、大き目な気がする。米国で再生した飛行可能な隼はキャノピーが小さいため乗りにくく、故意に大きくしたくらいだが、このキットを見ると十分大きい気がするのである。同じ日本機の再生機でも零戦はこのようなことがないから、隼のキャノピーは明らかに零戦より背が低い小さいはずであるが、そのような大きな差があるようには見えない。やはり古いキットのゆえんであろう。それにしても600円を切るのだから、パーツ取りには手頃である。

 

 下の写真で機首下面の滑油冷却器の幅が狭いのが分かる。最近の資料*によれば、幅がキットの1.3倍くらいあり、脚収容孔あたりで絞られている。また推力式排気管使用の型には、ペーパーロック防止用の、燃料冷却器が主翼下面中央についていることが多いはずだが、忘れてしまった。

 

③SHの1/72 飛行第64戦隊第中隊 愛国ビルマ日本人會献納機

 前回記事に掲載のものである。キットはⅡ型甲とうたっており、推力式排気管ではないのに、落下タンクが脚の外についていて、支持プレートと半円形の支持架でタンクを支えているのは、全くの間違いとは言えないにしても、例外であろう。ややこしいことに、資料**のカラー図には、この機体は推力式排気管の型ではないことになっている。調べればきりがないものである。

 しかもキットのパーツには、ハセガワと同じ取り付け方法の落下タンクがついているから、これを使えば良いのだが、説明書には何も書かれていないので、取り付け位置が分からない。

 作例では支持プレートと落下タンクが随分離れているように見えるが、下の実機写真(Ⅲ型だが)でも案外離れている。落下タンクは主翼より離れていた方が干渉抵抗が少ないのである。それでもタンクは0.5mm位上げたほうが見栄えが良いと反省はしている。

 

 この角度から見ると機首の垂れが気にならないが、これは機銃覆いでごまかされているためである。また明らかにキャノピーの大きさが、ハセガワに比べると小さいが、小生の山勘では、SHの方に形も含めて分があるように思われる。機体全体がほっそりしているところも、SHの方が好感が持てる。

 

④ハセガワとSHの比較総評

 72の図面でカウリング前端から尾翼までの全長を比較すると、ハセガワが1mm弱長く、SHが0.5mm位短い。ハセガワの全長が長いのはカウリング全長が長いためである。しかもカウリング全幅はやはりハセガワの方が少し大き過ぎるようである。このように全体的にハセガワの方が太って大きいようだが、イメージを壊すほどではない。

 SHの方はスジボリなところや、キャノピーの大きさと形の良さ、隼のほっそりしたイメージが長所であるが、繰り返し述べた、カウリングの前下がりは、相当イメージを悪くしている。これは修正困難なだけに困る。

 といった訳でタミヤあたりに、隼Ⅱ型の決定版を出して欲しいと思う次第である。隼は塗装バリエーションが多いから簡単に多数作れる72が欲しいのである。私事だが、タミヤは静岡市の駿河区にあるが、旧清水市との境目あたりにある。母と仲良しだった叔母さんが今でも清水区に住んでいる。だから子供の頃叔母さんの家にはよく遊びに行ったのだが、タミヤが近くにあるとは知らなかった。

 

資料* 世界の傑作機No.67 陸軍1式戦闘機「隼」(P13)

資料** モデルアート臨時増刊No.395「隼」


武漢コロナウイルス陰謀説・パート3

2020-05-27 17:01:16 | 支那大陸論

 事態が進展してきたので、香港デモ対策としての、武漢コロナウイルス陰謀説という仮説をさらに展開したい。

 武漢コロナウイルス対策で、初期の頃、日本はクルーズ船対応でも、病院での対応でも失敗したと言われていたのである。5月末になって、日本が最も良い対応だと言われているのに比べ、わずか三カ月で隔世の感がある。

 日本の対応が悪いと言われたのは、クルーズ船でも、病院でもウイルス感染者と非感染者を同じ施設に置いておいたために、船内感染や院内感染を誘発したのである。これに対して中共の手際は際立っていた。武漢でのコロナウイルス流行が隠せない事実となってきた2月上旬の頃のことである。

 人は少し前のことさえ忘れ去るが、このころ日本の国会では政府が対策会議を設置して、対策をしていたのにもかかわらず、野党は国会でウイルス対策はほったらかしで「桜を見る会」の追求に明け暮れると言うざまだったのである。ところが中共はいち早く武漢に僅か1~2週間で、武漢コロナウイルス専用の仮説病院を更地に急遽建てるという異様な対策を始めて世界を驚かせた。

 これは当時は異様な対策に見えたが、今振り返ってみると、感染者だけ完全に隔離する病院を作ると言うのは、院内感染などを防ぐには最適の手法だったのである。またエレベータのボタンを押すのにつまようじを用意している、中共の光景も早くに流された。あれだけ素ボラなはずの支那人が、このように繊細な気遣いを早くにしていたのは、今から考えれば不可解である。小生はこのような素早い対策が取れたことに疑惑を抱くのである。中共以外の国が武漢コロナウイルスの性質がわからず、試行錯誤を繰り返していたのにもかかわらず、中共の素早さは際立っていた。

 実は中共の感染者も死亡者も実際は公表値の50倍から80倍あるのではないか、という疑惑さえあるので優等生とは言えないにしても、ウイルスの発生源国としては極めて被害が少ないとは言えよう。専用の施設を更地に急遽建てるという、水際立った対策やエレベータのボタンに触らないなどの対応を早期にできた、というのは、初めから武漢コロナウイルスの性質を知り抜いていたと言うことに他ならないのではないか。その情報を適度に流していたのである。つまり、武漢コロナウイルスは、自然界より発生していたとしても、武漢の研究所で研究していたのが漏えいした、というアメリカの非難は正しいのであろう。だからウイルスの性質は既に知っていたのである。

 そればかりではない。最近尖閣でも、スプラトリーでも盛んに領土問題を挑発している。これはウイルス問題で他国が手いっぱいになっている最中に、漁夫の利を得ようとしているのだ、と言うのが一般的見方である。

 しかし、同時に中共がしようとしていることを見ると別な側面が見えてくる。今ごろになって中共は、香港に「国家安全法」を導入しようとしている。これが導入されると、香港デモなどはテロ行為として取り締まられ、一国二制度による自由は完全に抑圧される。香港がチベット、ウイグル、南モンゴル化してしまうのである。この重大事が、領土問題や武漢コロナウイルスの、米国による非難などによってかすんでしまっているのである。だから沈静化していたはずの香港デモは、ウイルス感染もなんのその。再燃しつつある。

 香港デモが、習近平政権どころか、共産党独裁に対する最大の脅威であることは以前の記事で既に述べた。いずれ武漢コロナウイルスは他のコロナウイルスと同様に人類は対策をしつつ共存することになるのであろう。しかし、香港問題は、いまや香港独立の声さえ出るようになっている。

 これは中共独裁政府の解体の初めの一歩であって、中共政府の到底容認できるものではない。武漢コロナウイルス問題どころではない。意図的に生物兵器を流出したにしても、そうではないにしても、武漢コロナウイルス問題や、領土問題など他国との軋轢を強めて香港問題の影を薄めて、香港を中共政府の圧政下に置いて共産党独裁政権の延命を図ろうとしているのは間違いない。


エンジンの音轟々と隼は征く雲の果て

2020-05-24 17:17:20 | プラモコーナー

 順調にスペシャルホビー(SH)の隼Ⅱ型が完成しました。マークは加藤隼戦闘隊で有名な、矢印ですが、ちょっと変わっているのは、矢印の上に、クジャクの模様が大きく描かれていることです。この模様が描かれているのは、機体が「愛國ビルマ日本人會献納機」なのです。インターネットを調べると、非公式ながらクジャクの一種が、ビルマ(現在のミャンマー)の国鳥とされているからだと思います。細かい考証は次回にゆずるとして、基本的な点だけ述べます。

 ガレージキットとは言いませんが、立派なパッケージの割には、簡易インジェクションなので接合ピンはほとんどありませんので注意を。例えばアンテナ支柱は取り付け箇所すら不明なので、位置決めをして、ピンバイスで穴を掘ってつけます。

 

 このキットの外形上の最大の欠点は、このように、エンジンカウリング上面が垂れてしまっていることで、こればかりは修正しようもないし、シルエットを損ねています。デカールはキット付属のものを使わず、全て静岡のPHUデカール製にしましたが、扱いやすいものです。このキットを作ったのは実はこの尾翼のマークを貼りたかったからというのが、本当の話です。キャノピーは固定風防とスライド部のすり合わせが不十分で段差がついてしまいました。

 

 このアングルから見ると、ほっそりした隼がうまく表現されています。

 

 ドロップタンクは後期の支持プレートと半円形の支持架で取り付けるタイプです。支持プレートを介してドロップタンクをつける、というのはおそらく隼が初めてで、現在のジェット軍用機にも多用されている先進的なものです。

 ドロップタンクの取り付け位置は、説明書に機体中心線から26mmと指定があるだけで、取付穴と取り付けの真鍮ピンは適当に自分でつけます。支持プレートと半円形の支持架の取り付けも、同じようにすれば良かったのですが、面倒なので、支持架の先端を尖らせて、支持プレートに大きめの穴を開けて、流し込み接着剤で固定しました。汚しはウォッシングを軽く施しただけで比較的綺麗なものです。

 ところで、加藤隼戦闘隊とは、陸軍飛行第六十四戦隊の事で、戦時中映画にもなって、国民によく知られていました。ちなみに実写の多い映画ですが、敵機の炎上墜落シーンなどの特撮はかの円谷英二氏です。円谷氏は戦前から活躍していたのですね。映画の主題歌ともなった、部隊歌が加藤隼戦闘隊の歌です。歌詞の冒頭は以下の通り。

エンジンの音 轟々と

隼は征く雲の果て

翼に輝く日の丸と

胸に描きし赤鷲の

印はわれらが 戦闘機

以下略

 

 小生、十年以上カラオケに行っていませんが、昔は加藤隼戦闘隊歌も歌っていました。イントロが長調で途中から短調に変わり、また長調になる、なるといった凝った歌です。この曲は今もカラオケにあるのでしょうか。ところで、歌詞と隼のプラモのマークは話が違うではありませんか。隼の前の九七式戦闘機の頃までは、陸軍機は胴体に日の丸を描かず、主翼にだけ描いていましたから「翼に輝く日の丸」なのです。それから加藤建夫中佐(戦死時)が戦隊長に着任してからは、戦隊マークは下図(*)のようなキャノピー下の胴体に描かれた赤鷲から、プラモのような矢印になっています。

 加藤は九五式戦闘機、九七式戦闘機、隼Ⅰ型と乗り継いでいて、加藤が搭乗機の胴体に赤鷲を描いて活躍していたのは、九五戦と九七戦の途中までです。従って、加藤隼戦闘隊の歌の「胸に描きし赤鷲の」というのは、語呂がいいから歌詞に使ったフィクションと言うことになります。胴体に赤鷲を描いた隼は存在しないのです。ちなみに、小生の知る限り、加藤機の九七戦の胴体に赤鷲を描いた資料は存在しません。

 いずれにしても、「隼」の名は、映画のヒットと陸軍の宣伝の効果で、今と違い零戦がほとんど知られていなかったのに比し、広く銃後の国民に知られていました。零戦が有名になったのは、戦後の堀越技師の奥宮正武氏の共著「零戦」によるものと、戦後米軍による零戦の評価が流布したことによるものと小生は想像しています。米軍パイロットの多くは零戦と隼の区別がつかず、隼も零戦と一緒くたにして、手強い敵とみなしていた節があります。

 さて隼Ⅱ型の72のキットは他に、古いハセガワのが今でも店頭にあります(ヨドバシカメラで何と税込み¥583!)が、このキットも捨てがたいので小生の作ったものと、SHとの比較を次回の記事でしたいと思っております。

*丸メカニック第49号(1984/11)(P56)による

 


アカボシゴマダラ夏型

2020-05-22 20:29:52 | Weblog

 クラキンさん(自己満足日記)が、珍しいアカボシゴマダラの春型の写真を載せておられたので、小生が4年位前、神田川沿いの江戸川橋の緑道で見た、アカボシゴマダラの夏型の姿をのせます。蝶には、オスとメスの区別の他に、春型、夏型、秋型、のように季節による分類があります。通常は、ツマグロヒョウモンやウラギンシジミのように、オスとメスで色や模様が違う場合が多く、春型、夏型、秋型の区別では、大きさだけが違う場合が多いようで、アカボシゴマダラのように、季節によって模様が違う場合は少ないと、小生は思っております。

 ところで、小生が見たのは10月でしたので、実は秋型で、夏型と秋型は模様が同じなのだと思います。東京は都会の割には緑道公園など、案外緑が多いので、蝶が見られるのです。先日も近所の公園をジョギングしていたら、アオスジアゲハがコースをよたよた歩いていて踏みつぶされそうだったので、木の葉の上にのせたら、間もなく飛んでいきました。多分サナギから蝶になったばかりだったのでしょう。

 アカボシゴマダラは確かに珍しいのですが、緑道公園など緑のある場所を一時間も散歩していれば、4~5種類の蝶は見られるものです。例えば、ヤマトシジミ、モンシロチョウ、モンキチョウ、あとはカラスアゲハのたぐいなどはどこにでもいます。注意して観察すれば楽しいものです。

 


正しい判断のための情報

2020-05-19 16:31:25 | 政治

 以前記事に書いたかもしれないが、一九八〇年代に以下のような経験をした。近所の公園に子供を連れて行くと、労働組合が大きなロケットらしき、張りぼての模型をかついで、大きな声を出している。看板もある。パーシングⅡミサイルを西ドイツから撤去せよ、と言うのがその主旨らしいのである。

 当時東西に分かれていた、西ドイツにアメリカ製のパーシングⅡミサイルが配備されたのである。いわゆる戦術核ミサイルで、戦争が起きると敵の軍隊に向けて発射する小型の核弾頭を積んでいる。ICBMが大都市に向けて発射されるもので、核抑止のためのものであり、一般市民の被害も計り知れないので、実際に使われることはまずあり得ない、とされている。

 これに比べると、戦術核ミサイルは、大型の大砲のようなもので、相手が軍隊に限定されるから、比較的実戦に使うことがあり得る、とされている。だからこそ、核戦争の引き金になる危険な兵器であるとされている。そんなものを、冷戦下のNATOとワルシャワ条約機構軍が対峙する、西ドイツに配備するのは危険だから撤去せよ、というまっとうな主張に聞こえるのである。この運動に参加している労働組合員は本気でそう信じて運動しているのである。

 ところが、事実は、ソ連がNATOの正面に戦術核ミサイルSS21を先に配備していて、それに驚いた西ドイツがアメリカに頼み込んで、SS21に対抗すべく、パーシングⅡミサイルを配備したのだった。そのことを隠していれば、パーシングⅡミサイル反対運動が起ってもおかしくはないのである。このように、情報は一部だけ知っていると、判断に狂いが生じる、と言う見本である。本来はパーシングⅡミサイルとともにSS21も撤去せよ、と言わなければならないのである。

 情報の偏りというのはそれにとどまらない。労働組合にパーシングⅡミサイルの配備だけを知らせて、反対運動をさせたのは、日本の某政党である。小生が知っている位だから、某政党がSS21の配備を知らないはずはない。故意に知らせなかったのである。それは某政党がソ連の味方をして、偏った情報を流したのは、長い目で見れば日本の共産化に役に立つと考えたからに他ならない。

 そんなバカな日本人がいたのか、と思わないのは、小生が当時、ソ連とその衛星国を理想の国家と本気で信じる某政党員でもある労働組合員に知己があったからである。某政党にとっては、偏った情報で人々を騙そうと、日本の共産化という目的が正しいと信じていたから、騙すということは悪徳であろうと方法論としては正しい、というロジックが成立するのである。この記事に「正しい判断のための情報」というタイトルをつけたが、このように正しい情報を知っていたとしても、正しい判断ができるとは限らない。いや、人によって正しい情報から導かれる正しい判断と言うのは、ひとつであるとは限らない。人の世の中は、そう単純ではないのである。まして政治の世界も単純ではない。

 


隼Ⅱ型1/72スペシャルホビー・その1

2020-05-18 14:08:45 | プラモコーナー

スぺシャルのホビーの72だが、簡易インジェクションながら、昔のハセガワより全体的に良くなっている。チョンボもあるが。最もいいのは、全面筋彫りになっていることで、ハセガワの凸モールドを2機も全面スジボリにした小生からすると嬉しい。組み立てはすらすら行く。水平尾翼は貧相なピンだけだが、流し込み接着剤だけでパテもなしで、繰り返しのマスキング剥がしにも耐えた。

 

 これが機体上面色で全面塗装をした姿で、通常下面色を先にするのだが、下面が剥離しやすいアルミ色なので、上面色を先にした。着陸灯の透明部品を後付けにしたので、木工ボンドでマスキングした。透明部品の四周をマスキングテープを貼り、ボンドを塗ってから素早くテープを剥がすと、四角なボンドのマスキングができる。

 

これは正面である。

 

アンチグレアの黒は塗装済。固定風防枠のマスキングである。マスキングテープで枠の周囲を挟んでから、塗装しない部分を木工ボンドでカバーする。ボンドが半渇き位で、最初にクリアーを塗り、次に三回ばかり上面色を筆塗り、乾いたらテープを剥がすと窓枠一本出来上がり、こうして一本づつ枠を塗っていく。

 

 これが機首下面のオイルクーラーだが、右の大きいのがSHで左がハセガワ。公刊された図面を見ると平面形も含めSHが正しい。さすが新製品である。

上は、水平尾翼のアルミ塗装のマスキング。胴体と主翼下面と一緒にマスキングするよりは、尾翼だけ先の方が、この場合楽と判断した。

 下は、尾翼だけアルミ塗装をした後だが、大失敗。尾翼と補助翼下面は、明灰緑色C128なのだからマスキングを剥がす前にC128を塗れば、マスキングの手間が最小で済んだ、という次第である。

 

という訳で補助翼下面も塗り直して、デカールも貼ったのが、この姿。最近までは、72でも日の丸はサークルカッターによるマスキングで塗っていたが、最近のデカールはできがいいので、手を抜いた次第。ただし、48はデカールは使いません。

 

 ここでSHの手抜きをひとつ。何と主脚のトルクリンクが説明書にも部品にもないではありませんか。それで72ならと、プラバンでちょこっとつけただけ。防塵ゴムの黒塗装はまだです。

面倒そうだったのは、ドロップタンク。二型の後期型なら取り付けラック板はSHにはありますが、ハセガワにはなしなので、一般論としてはSH式が事例としては多いのでしょう。接着が面倒そうだったので、主翼に穴をあけ、主脚柱を取り付けたらすぐドロップタンクをつけられるように準備しました。ラック板と半円形の支持金物の取り付けは、穴の位置も分からないし、ピンもないしでひと苦労でした。

 最後がデカールも全部はって、プロペラ、ドロップタンク、脚などをつけたらお終いなのが、下の姿。有名な64戦隊の塗装なのですが、スペシャルバージョンのデカールの説明は次回のお楽しみ。


改変される歴史

2020-05-15 14:01:33 | 東京の風景

 隅田川左岸の遊歩道、丁度牛嶋神社の南の外れ当たりに、一連の碑が置かれている、その碑の由来が時によって変遷するのを見るのは、人の世の常とは言え、辛いものがある。まずは「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」である。

 これが正面である。次が背面である。

 隣に比較的新しい由来が、現代文で書かれている。それを見よう。

 

 この由来は、碑文を要約したものだが、大切なことが抜け落ちている。それは、明治天皇がここに玉座をしつらえて、漕艇を見た所以である。明治天皇は単にボートレースを見学したのではない。海軍の軍人が訓練の一環として、漕艇競争をしているのをまじかに見て、励ましたのである。この説明は戦後の常として、このような軍事的側面がすっぽり抜け落ちている。もちろん隅田川レガッタのはしりともいえるのではあるが。

 

 次は同じ場所に最近新しく建てられた記念碑である。

 隅田川ボート記念碑建設委員会なるものが建てた、記念碑である。明治以来と書かれてはいるものの、玉座の場所であったことはおろか、海軍の訓練場所であったことは微塵も触れられてはいない。そうであろう。委員長は東大ボート部OBの半藤一利氏なのである。この記念碑は、学生ボート競技の記念碑なのである。次の写真には、読みにくいが明治以来、現代にいたるまでの、隅田川のボート競技の歴史がつづられている。しかし、明治天皇が玉座を4回も置かれたことは省かれ、昭和16年には玉座の記念碑が設置されてことも書かれていない。否。無視したのである。

 

 次に奇妙な破壊された碑があるのを紹介する。昭和16年11月とある日付は、明治天皇の玉座の記念碑が建てられた日付である。ところが、左のタイトルが、ノミか何かで見事に削られている。隠ぺいしたのである。目を凝らして跡をたどると「隅田川聖蹟顕彰會」となんとか読める。つまり本来は最初に紹介した「玉座の記念碑」とペアになるはずである。その痕跡を破壊しようとしたのである。

 

 これが全景であるが、何と二本の支柱が錆びたボルトで結合されている、という無残なものである。次に背面を見よう。

 四文字が書かれているが、破壊されて判読できない。ところが左の小さな文字は破壊されていなかったから、判読できたのである。曰く。

 隅田川聖蹟顕彰會幹事海軍中将有馬寛謹書

 とある。想像するに、GHQあたりの眼を恐れて、この碑を破壊しかけたのである。しかも、元々は最初の玉座記念碑とペアであったのであろう。それが、海軍中将の名前があった故に、泣き別れさせられたのである。想像するに、と言ったが、東京都内の神社には、たまに昔彫られていたものをノミで破壊した形跡のあるのを見ることがある。大抵は揮毫したのが軍人なのであろう。勝てば官軍負ければ賊軍、日本人の心の退廃の象徴のひとつであろうと、長々と紹介した次第である。以上のように、玉座阯と有馬中将による碑が分離せられた経緯を知る方は、教えていただければ幸甚である。

 小生思うに、明治天皇が海軍の漕艇競争を天覧されたのは、日々お国のために訓練する軍人の努力を励ますと言う意味があったはず。そのことは、天皇時代の現上皇陛下が東日本の震災のお見舞いにいかれたり、南方の戦地に追悼の行脚をしたことと通底するものと考える。震災へのお見舞いを称揚する一方で、天覧の碑の一部を損壊するという行為に出たのを見ると、日本人もさもしい人も出るようになったものだと、嘆かわしい思いがする。


日本の思想の分裂

2020-05-11 16:05:11 | 自虐史観

 日本では、反日左翼だとか、右翼だとかいう思想の大分類がなされている。これは明治維新以降、ことに米軍に占領された以後の実態からすると、あまりに左右の対立軸だけにとらわれた発想ではなかろうか。

 日本を含む多くの国は歴史的経緯から、単純に左右の対立軸以外のものがベースとして存在する。典型的なのが旧ソ連の支配地域で独立した国々である。例えばバルト三国やウクライナなどにおいては、元々の住民をシベリア開発のために、強制的に移住させた。その代わりにシベリアより環境のいい、これらの国々には、ロシア系の人々が送り込まれた。

 元々は、これらの国々に送り込まれたロシア人とて、好き好んで住み着いたわけではないが、何十年も住み着いて、世代が変われば、もはやそこは自分の故郷となる。従って、非ロシア人の共和国には、何割にもなる、多数のロシア系住民が住み着く。すると彼らは親ロシア系住民となる。多くロシア系住民は、ロシアによって併合された方が良いとすら考えている。そのような人たちが国内に何割もいれば、国論の分裂は当然であり、左右の思想問題ではない。

 このような紛争が現に東部ウクライナの、ロシアとの紛争として現れている。ロシア系住民はロシアから送られた特殊部隊と呼応して、東部ウクライナのロシア併合を画策して紛争になっている。このように単純な思想問題よりも根底に、歴史的経緯に起因する根源的な問題を抱えている国は多いのである。

 ミャンマーのロヒンギャ問題は、英国統治の残滓だから、アウンサン・スー・チー女史と雖も解決は容易ではないのである。実は日本にも歴史上初の外国統治の結果として、大きな思想分裂を起こしている。それは七年間による米国統治による、反日思想がそれである。米国が、マスメディアに対する徹底的検閲によって、戦前の日本は悪の塊であった、という思想をすりこんだ。

 戦前からのノーマルな思想を持つ人物は、公職追放によって、マスメディア、思想界、教育界、政界、財界等から徹底的に追放されたから、教育も報道も、全て日本は悪い国だった、ということがベースとなっている。多くの日本人は、意識しようとしまいとこれらに囚われているのである。これらの事情は江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」などの一連の著書で明らかにされている。

 社会人になったばかりの頃、戦前生まれの人生の大先輩の知人から「手紙と言うのは皆開けられて検閲されているのだよ」と聞いて驚いた。戦前に検閲があったとは聞いたが、マスコミの話であろうと思っていたのである。この先輩はあたかも現在も私信の検閲が行われているごとくの口振りだったから呆れた。この先輩は、届いた手紙が開けられた形跡があった記憶があったのであろう。このような私信の検閲については、生活に窮して私信の検閲をさせられた人の著書に詳しい。かの先輩は、かつての経験から戦後何十年たっても、私信に検閲があると信じていたのである。

 このようにして、GHQによって日本の思想の基層は歪められていった。そればかりではない。戦前からの共産主義運動は暴力革命の地ならしとして、日本そのものを忌避したくなるような思想を注入していたのだから根は深い。かくいう小生自身にしても、これらの思想の歪みは自覚的には知ってはいるのだが、無意識には顔を表すことなしとはしないと自覚している。保守を自称するひとたちにも、思想の基層にGHQあるいは共産主義プロパガンダによる歪みがあることを垣間見ることが多い。それほど日本人の思想の歪みは大きいのである。

 まして、自由な思考をしていると信じている多くの日本人には、意識せずして、これらの思考の歪みがあるのである。大手マスコミ、例えば朝日新聞は、昭和20年9月に、米軍の批判をしたかどで、2日間の発刊停止を命じられて、論調が180度変わったことは有名な話である。このように日本には、というか日本にもというべきか、単純な左右の思想対立よりも歴史に根差す深い思想の歪みがある。

 同じ敗戦国でも、ドイツはうまくやった方であろう。ユダヤ人虐殺は全てナチスの犯罪であって、ドイツ民族の犯罪ではない、という立場を貫いている。ドイツ民族もナチスの被害者なのである。有名な「荒野の四十年」は日本では、ワイツゼッカーによる謝罪の書であるとされている。しかし、同書を丹念に読むが良い。ドイツ民族による謝罪の言葉などは一言半句も書かれていない。それどころか連合国による都市無差別爆撃批判の言葉すらある。ドイツは勝つことにも負けることにも慣れているのである。だから謝罪などせず、いちはやく国軍を復活している。軍需産業も再建著しい。何せヨーロッパで最も使われる主力戦車のほとんどは、ドイツ設計のものなのだから。


玉ノ井異聞

2020-05-08 17:26:47 | 東京の風景

 以前の話だが、平成27年9月26日のテレビ番組の、アド街ック天国は、向島百花園だった。9月半ばに萩のトンネルがピークで、見に行ったばかりなので、期待していた。東武線の東向島駅下車で、番組でも紹介されていたが、旧駅名は玉ノ井である。玉ノ井といえば永井荷風が通って、墨東奇譚の舞台となった、往年の花街である。

 東武線、東向島駅(当時玉ノ井駅)

 

ここは、玉ノ井の近く、墨田区の鳩の街である。ここも玉ノ井と同じく花街だったが、売春防止法施行とともに普通の商店街に生まれ変わったのである。

 

 歌手の木の実ナナが、地元だと言って話し出した。近所に玉ノ井の女郎が住んでいたのである。ご出勤のときは、真っ赤な口紅を塗って出ていくのが羨ましくて、早く大人になりたい、と思ったそうである。

それが昭和30年代の売春防止法の施行で、花街が閉鎖になる当日の話である。閉鎖の時間になると、蛍の光の音楽が流れてきて、ご近所の女郎たちが泣き出した、というのである。性風俗を全く知らない小生でも、ホロリとくる話である。嫌な職業から解放されるなら泣く者はいまい。この逸話だけで日本の女郎、すなわち売春婦がいかなる身分か分かる。

 女郎は決して性奴隷ではない。日本に奴隷がいたことはない。米国にまで行って慰安婦を性奴隷と言いつのる、反日日本人はよく考えるべきである。米国人は、奴隷が人間扱いされない、如何に悲惨な人たちか、歴史的記憶があるはずである。まして性奴隷とは奴隷の中でも最低である。性奴隷と言う言葉によって米国人に日本人は残酷な民族だと言う間違いを広めると同時に、いいつのる自分自身をも貶めていることに気付かないのである。おそらくこれら日本人は、性奴隷と言う言葉を、もののたとえとして使っているのに過ぎない。彼らにとっては、現代の性風俗嬢も彼らにいわせれば、「性奴隷」なのである。これほどの言葉のすれ違いもなかろう。

  永井荷風は向島界隈の女郎部屋に入り浸っていた。荷風が晩年、現金と預金など金融資産一切を入れた鞄を常に持ち歩き、その鞄を落としてしまったと言うエピソードは有名である。小生がママチャリで玉ノ井周辺をうろうろしているとき、なぜかスーパーに、その事件の詳細を記したパンフを見つけたのである。総額二千万円余の落とし物を、占領軍米兵が発見して届け出て、多額の返礼を期待したら、数十万しかもらえなくて吝嗇にあきれて憤慨した、というようなエピソードが書かれていた。

 戦後も玉ノ井周辺の娼家で散財して、年老いてからは娼婦たちから、金回りのいいお爺ちゃんと好かれた荷風は、結局、今ならば何億のカネを鞄に常に持ち歩いて残して、孤独死したのである。遊び人永井荷風の面目躍如と思う次第である。荷風の遊びは半端ではない。若い頃落語家に弟子入りして、朝寝坊夢之助の名で一年ばかり高座に上がっていたのを、親にバレてやめさせられたことさえあったのである。小生は漱石全集と、二葉亭四迷全集は読破したが、荷風は読みたいと思いつつ文庫本で済ましているから限界がある。終生鴎外の漢籍を師として博識に依拠した、永井荷風の現代口語文は、鴎外漱石をも越える名文と思うのある。はて玉ノ井から脱線しました。丁度時間もよろしいようで。

 


MiG-21PDとドモデドボ・ショック

2020-05-06 13:49:48 | プラモコーナー

★MiG-21PD完成

 さてMiG-21PDは完成です。操縦席後方にあるドアが、リフトエンジンの空気取り入れ口です。デカールは至って簡単。国籍標識の6枚と、機首と水平尾翼前にある黒い十字が左右で4枚。ジェット機には珍しい少なさです。手抜きの小生でも、これ以上手抜きはできません。黒い十字は、テスト飛行での写真撮影記録用のターゲットだと思います。デカールは一度光沢クリアーで定着させ、全体が完成後艶消しクリアーを全体に吹いて、半艶消し位に落ち着かせます。新品しかない、ということで汚しはしませんでしたが、違和感はありません。

さて下の写真、機首の黒十字の下を見て下さい。例の訳の分からないセンサーだかアンテナだかがついています。前回紹介した問題のパーツです。これを最後に完成したのです。ただし取り付けは真鍮棒1本なので、今後どこに消えるやら。

 

 さて側面ですが、分かりにくいですが、機首のショックコーンがやたらに大きいのです。このままでは、空気が入っていきません。キットの元のはもっと大きくて、2~3mmは切って長さをつめたのですが、これ以上切ると、インテーク内の手抜きがバレるのでやめました。。また上開きになっている、リフトエンジンのドアですが、適当につけましたが、ヒンジがどうなっているのか分かりません。無理やり接着しただけです。

 

 反対の側面ですが、何か足りません。前輪のドアです。当然でしょう。本機は固定脚なので、引込み脚のドアなどいらないのです。ところが説明書には前脚のドアをつけるように指示していますが、どの写真をみても、前脚のドアはありません。それならば、主脚のドアもイラナイはずなのに、何故かついているのです。しかもこの機体、MiG-21のパーツを流用しているはずなのに、他のタイプと違って、主脚ドアがペタンコであっさりしています。要するにキットの手抜きです。おかげで手軽に完成したのですが。

 

 さてこれが下面です。リフトエンジンの排気口に整流板らしきカバーが付けられています。前輪のカバーはないのに、引込み用の穴だけ開いているのはお笑いです。どうせまともに使えないのだからと整形の手間も省いたのでしょう。主脚も脚柱の引込み穴だけ開いているのも、ご愛敬。胴体に主車輪収容スペースがないのも歴然としています。

 

 

★ドモデドボ・ショック

 さて小生が航空少年だった、1967年、航空ファンや航空情報と言った、航空雑誌に驚く記事が写真満載で載りました。その年の夏にモスクワのドモデドボ空港で航空ショーが行われ、ソ連の新型機が大挙して発表されたというのです。当時は秘密主義のソ連では、新型機はこっそりデビューして、遠くからちらっと見えただけでも大騒ぎ、というのですからこの航空ショーは話題になりました。ドモデドボ・ショックなどという言葉があったかは定かではありませんが、ショッキングなできごとでした。そこに登場した新型機(?)のひとつが、紹介したMiG-21PDというわけです。たまたま興味本位に作っていたら、ドモデドボショーに登場した機体があったので紹介します。

 まずはYak-36です。製作記事は、小生のHPの「飛行機倶楽部」を見ていただきたいと思います。シーハリアーと同じく垂直離着陸VTOLで、海軍の空母搭載機の実験機として作られたもので、後にYak-38として実現されたものですが、Yak-38とは外形は全く異なりますが、設計思想は同一と思われます。不細工なのが魅力的という機体です。排気ノズルなどがレジン製で壊れやすく(二度も壊しました(;^_^A)、少々手強いキットでART MODEL という今はあまり聞かないメーカーの製品です。下手にいじると壊しかねない、というので汚しなどは一切していません。また資料を見ないと製作に疑問点が多いキットです。試作機以前の実験機なのに武装がついているのは、実用機と誤認させるためでしょう。

 

 次はミコヤン23-01ですが、この名称は前回載せた資料の記載による名前で、正式名称は分かりません。実は古いキットではないのですが、説明書を紛失したので、キットの名前もメーカーも分かりません。キットのできはいいと思います。ただ、MiG-23の可変後退翼をデルタ翼に変更して、胴体を延長してMiG-21PDと同じくリフトエンジンを搭載したSTOLです。ミサイルなどの兵装がついていますが、ショーの時はなかったと思います。こちらの方は、さほど作りにくかったと言う記憶はありません。

 面倒だったのは、空気取り入れ口の青いマークだけです。デカールと塗装を組み合わせました。このキットも汚しはしていません。写真のようにスタイルはいいのですが、平凡です。リフトエンジンがなければ、MiG-23をデルタ翼にしたという感じです。

 

 ドモデドボ・ショーには、他には可変後退翼のMiG-23やSu7の原型など、一部は後日実用化されたものがあったのですが、ともかく新技術をどんどん取り入れたソ連航空技術の革新性、といった雰囲気が満載のショーでした。本当の中身が分かるまでは、一時米国には相当なショックを与えたようです。ソ連の航空技術恐るべし、と思わせたショーだったのですが、VTOL機はYak-38,Yak-141などと作られますが、ハリアーほどの実用性はなかったようです。可変後退翼もミラージュのそっくりさんだったようです。ただ、専用のリフトエンジンを使う、という発想は、飛行中はデッドウエイトになるだけ、というので日本では、計画時にキャンセルされるので、やってみるだけロシア人には柔軟性はあった、という気がします。

 以上ロシア(ソ連)の珍機ばかりよく作ったものだと思いますが、ついでに次回はMiG-21の変形各種を紹介したいと思います。