毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

書評・山本五十六・田中宏巳・吉川弘文館

2015-04-30 16:06:49 | 大東亜戦争

 この本を読んだきっかけは、ある本で米内光正・山本五十六・井上成美の3人が日独伊三国同盟に反対した、という事実はない、と本書に書かれていると読んだからである。

 「吉田の三国同盟反対論は、第一次交渉に反対した山本や米内に比べてずっと激しいものであった。ところが戦後の所作によって、吉田の反対活動が山本、米内、井上らが強く反対した話にすり替えられたとしか思えてならない。損な役回りをした吉田は自殺未遂までし、文字通り命をかけて三国同盟に反対したにもかかわらず、歴史上注目されないまま今日に至っている。」(P153)

 残念ながら、この程度であり事実と言える程度のものはなく、心証に過ぎない。いずれにしても山本が三国同盟に反対したとしても、しなかったとしても、その動機は海軍官僚としての省益確保のためであったとしか考えられない。

 珊瑚海海戦は世界初の空母機動部隊による海戦で有名である。当然「戦訓は報告書の形でまとめられて、第四艦隊司令部から連合艦隊司令部に上げられた。」(P219)のであるが、連合艦隊司令部では、この攻略作戦の失敗は第四艦隊と第五航空艦隊が未熟であったことがすべての原因であったとして何の戦訓も得ようとしなかった。

 それどころか、報告書に「バカめ」と朱書されていたというのである。問題は「井上の司令部から上がってきた報告書を彼(山本)がじっくり読んだという記録がない。部下たちが第四艦隊と第五航空艦隊を罵倒するのを止めようともせず、それを黙認した。あとで山本は、指揮官として失格の井上は、江田島の校長に転出するだろうと部下に冷ややかに語っていた・・・(P220)」というのだから話にならない。

 しかし、このエピソードはマレー沖海戦の戦果に部下とビールで賭けをしたとか、ガダルカナルで陸軍の兵士が餓死するのをトラック島の大和で知りながら、平然と豪華な食事をして何ら救出策を講じなかったことを考えれば、意外ではない。

 はしがきに書かれているように、山本の生涯を綴った伝記は少なく、原因は書簡以外の記録が少ないためである。本書はこれを歴史学的方法論によって、山本伝説を再検討することにつとめた、としているがある程度成功しているように思われる。過度に批判的になるか、顕彰的になるかの中庸をいっているように思われる。


書評・日本列島防衛論・中西輝政・田母神俊雄・幻冬舎

2015-04-26 14:07:57 | 国防

・日本と英国の類似点と相違点について

類似点:島国という閉鎖社会だから信用が必要となる。狭いから逃げ出すところがないから、同じ人たちと長く付き合わなければならないからである。信用で生きているから慣習法のようなもので、物事が決まる。だから日英人共に大陸の人間から本音が分からないといわれる。(P47)

相違点:大陸を隔てる海峡が、英国では狭く流れも緩く、周辺の海も穏やか。日本はその逆。そのため英国人は外洋進出したのに、冒険心の強い日本が日本に閉じこもった。外国から攻めにくいが、外にも出にくい。(P62)イギリス人やスペイン人たちが、海洋に出たのは、陸路がイスラム圏に抑えられていたからだ、と説明するのも納得できるが、この説明も正しいのだろう。

・日本は戦後戦争している

 日本は朝鮮戦争の時、海上保安庁が掃海に行って死者が出ている。(P88)その通りで、平和憲法を唱える人たちが、このことを看過し、拉致問題も長く無きことにしてきたのである。戦後は憲法9条のおかげで戦争もしなければ、犠牲者も無かったという虚構が壊れるからである。竹島も奪われた。日本は戦後「平和憲法」のもとで侵略されたのである。

・アメリカは衰退する(P172)

 中東に手を出して、生きのびた島国帝国はない、というのが中西氏の命題である。英国の衰退の原因のひとつは、中東に関与し過ぎたためである。英国はインドを支配した時、通過点である中東は部族の首長を買収して間接支配していた。ところが石油時代になると本格的に干渉に言って失敗した。アメリカも中東で失敗しつつある。

 もうひとつは過度に国際化すると、国家の中心が拡散して老化する、というのである。田母神氏は、自衛隊が状況を説明する時日本地図を持ちだすが、アメリカは自国が中心にある世界地図を持ちだすと言う。中西氏は、これがアメリカが過度に国際化した証拠であり、ベトナムでの敗戦で限度を悟ればよかったというのである。世界中がアメリカである、という意識になっているのが「終わりのはじまり」だという。

 ちなみにアメリカは巨大な島国だというのであるが、かつてアメリカは中南米に閉じこもろうとする、モンロー主義とヨーロッパや支那に干渉する、国際主義に揺れ動いた。現在のオバマ大統領は世界の警察官は止めた、と言ってモンロー主義を目指しているように見えるが、アメリカの政治経済は国際主義から逃げるつもりはないようである。

・中国という「共通の敵」出現は日本の幸運(P216)

 今、中国が外洋進出しようとしているのは、島国としてアメリカと対決することになろうとしている。大島国は並び立たずの原則から、日本は大東亜戦争で負けたが、冷戦の終結で再び米国と対峙しなければならなかったのかも知れないが、中国の進出は日本にとって幸運だった、というのである。


書評・嘘だらけの日露近現代史・倉山満・扶桑社新書

2015-04-22 19:18:25 | 歴史

 例によって冒頭からロシアの法則をぶち上げる。

一、何があっても外交で生き残る

二、とにかく自分を強く大きく見せる

三、絶対に(大国相手)の二正面作戦はしない

四、戦争の財源はどうにかしてひねりだす

五、弱いヤツはつぶす

六、受けた恩は必ず仇で返す

七、約束を破ったときこそ自己正当化する

八、どうにもならなくなったらキレイごとでごまかす

 

というのである。確かに日独との2正面作戦は避けたし、日本が敗戦確実になって突如攻め込んで、日ソ中立条約を破った時、かつての日本の関特演を持ちだして正当化し、日本にもその支持者すらいる。倉山氏の慧眼はロシア人は国際法に無知だから国際法を破るのではなく、深く理解しているから破るのだと喝破した。

 日本が幕末にうまく立ち回れたのは付け焼刃ではなく、江戸幕府の二人の政治家のおかげであるという。一人は徳川吉宗で、キリスト教と関係のない洋書の輸入を解禁したのが、1720年で、これにより洋学が急速に進歩した。キリスト教と関係のない西洋の書物はほとんどないから、この条件はあってなきが如しであった。

清朝でも同時期に乾隆帝が似たような策を実行するが続かなかったのが、日清の運命の差を決めたのである。もう一人は田沼意次である。田沼はロシアが日本の脅威であると明確に認識し、公儀隠密を蝦夷地に派遣し、報告書を書かせている。択捉や得撫島の探索も行わせる。(P65)日本が明治維新に成功したのも長年の情報の蓄積があったのも事実であるが、これを可能にしたのは日本人の生来の好奇心であろう。

侵略という概念を考えた時、国際法上の意味について考える必要がある。国際法すなわち「外交のルールはウェストファリア体制です。三十年戦争の講和条約である一六四八年のウェストファリア条約は、近代国家社会のルールを形づくりました。・・・ウェストファリア体制の肝は『戦争とは国家と国家の決闘である。』という考えです。」

ところが「・・・ヴェルサイユ体制でルールそのものが変わったと説明されます。・・・目的を達成したら戦いをやめる決闘から、相手を抹殺するまでやめない総力戦への変更です。」(P166)というのだが、パリ不戦条約はその結実である。侵略戦争の禁止である。だから米国は日独に対して、無条件降伏を要求した。

かつての国際法のように勝敗の見通しがついたら、講和するというのではなく、相手の政府そのものを倒すまで戦うというのである。現にドイツはベルリンまで攻め込まれて政府が崩壊した。しかし、日本はポツダム宣言という条件付き降伏をしたから、サンフランシスコ講和条約を締結した。

この意味で日本はウェストファリア体制に基づいて戦争を終えたのであって、大東亜戦争が終えたのは、国際法上はサンフランシスコ講和条約が発効した、昭和27年ということになる。国際法上の終戦が昭和27年であるというのは、常識であるといっていい。朝鮮戦争は終結したのではなく、休戦中である、という論理と同じである。

現在は、と言えば国連憲章は不戦条約を継承していると考えられるが、第二次大戦後の戦争の状況を考えると、ウェストファリア体制は消え去ったとも言えず、かといってヴェルサイユ体制に移行したとも言えず、中途半端な状態が続いている。この意味で戦争の国際法上の地位が不安定になり、強い者勝ちという国際法の本質がむき出しになった、不幸な状態ともいえる。大規模なテロの横行がこれに拍車をかけている。

面白いのは「・・・北一輝は当時から右翼思想家として知られ、とくに陸軍の青年将校に影響力を持ちました。狂信的までに、反英米を煽ります。・・・研究が進むにつれ、北がソ連に奉仕していたことがどんどん明らかになってきて」いるし、ソ連のスパイだったと断言する人さえいる(P171)というのである。

北の「国体論と純正社会主義」を読んだことがあるが、天皇は「国民の天皇」であり、私有財産の限度額を設ける、というものである。ソ連のでは貧乏人ですら実態として個人資産がない、などということはあり得ず、党幹部に至っては国家資産を私有化している、という無理かつインチキな社会主義で、私有財産の全面否定などはあり得なかったから、北が「純正」社会主義を標榜したのは、実現可能という意味で正しい。

北の国民の天皇などというのは、天皇を否定する訳にはいかないための方便とも言える。天皇の権威と天皇に対する畏敬を本質的に否定しているからである。当局が発禁にするのも、当時としては当然であった。ソ満国境で日ソが衝突しているにも関わらず、ソ連に対する危機意識を言わず、反英米だけを言うのは、明らかにソ連を利するものである。ソ連スパイ説があっても不思議ではない。

日本政府や軍の中枢にソ連シンパやスパイがいた、という事自体はゾルゲ事件でもはっきりしているが、全貌は分からない。しかしノモンハン事変の「・・・第二十三師団を率いた小松原道太郎中将は、ハニートラップにかかっていたことが、日露の研究者により指摘されています。」(P201)というのには呆れる他ない。ただ倉山氏の本全般に言えるのだが、出典を明記しないことが多いのは少々困る。

P220に「韓国人の研究者が発見した資料でわかったのですが、スターリンはわざと国連総会を欠席して、アメリカが提案した国連軍を組織することを邪魔しませんでした。」というのも、なるほどと思うだけ、出典を知りたいのである。

ファシズムとは、党が国家の上位にある体制のことです。」(P227)という定義は明快で、巷間言われるように、全体主義だとか、軍国主義だとかいうのは定義になっていない。ナチスドイツもソ連も中共も、確かに党が国家を支配しているからファシズムであり、日本は大政翼賛会の時代ですら、政府が最上位にあった。ポツダム宣言受諾は軍や政党が決定したのではなく、日本政府が御前会議で決定したのである。

すると「ソ連はロシア帝国を乗っ取って成立した国家です。」(P243)という言辞も理解できる。だからゴルバチョフがソ連共産党書記長になってその立場で大統領に就任したとき事実上、ファシズム体制が崩壊したから最終的にソ連帝国が崩壊したというのも納得できる。

読後感であるが、相変わらず知らされることが多いと感じた次第である。


米国は戦前から日本本土空襲を考えていた

2015-04-21 13:47:16 | 大東亜戦争

米国は戦前から日本本土空襲を考えていた

 

 「幻」の日本爆撃計画、という本によれば米国は真珠湾攻撃以前から、300機の大編隊で日本本土空襲を計画していて、その前段階として「義勇軍」航空隊なる、フライングタイガースという戦闘機部隊を大陸に派遣していたことは以前書評に書いた。この本には、B-17なら支那大陸の飛行場から日本をカバーすることができるとも書かれている。その他の中型双発爆撃機では、航続距離が不足するのである。

 つまり、米国は現実に開戦してから日本本土空襲を企画したのではなく、恐らくは対日戦の想定として、かなり以前から日本本土空襲は計画の一部にあったのではないか。そして、B-29はもちろんとして、B-15、B-17、B-24といった爆撃機が四発の大型機になったのも、日本本土空襲ということをも考慮していたのではないか。

 確かに大型にすれば爆弾搭載量は飛躍的に増える。しかし、無理しなくてもヨーロッパ戦線を想定すれば、B-25、B-26といった中型機でリスクなく開発ができる。高コストの高リスクの四発機の開発も厭わなかったのは、日本本土空襲と言った、対日戦をも想定していたのではないか。現に比較的航続距離が短いB-17は次第にヨーロッパ戦線に限定使用され、太平洋戦線ではB-24に置き換えられ、航続距離が長いB-29はヨーロッパでは全く使われず、日本本土空襲専用になったのである。

 そしてついに、昭和16年になると、日本爆撃計画を実行に移すことになる。既に昭和14年から、ヨーロッパでは戦争が始まり、米国も中立法を改正し、大規模な軍事援英を行うことになる。中立法の改正とは名ばかりで、国際法の中立を犯して英国に軍事支援するものである。

 タイミング的には米政府が欧州大戦にのめりこんでいった時期と一致するから、対日戦によって欧州大戦に全面的に参戦するのが目的であったのだろうか。日本攻撃の規模と方法からして、裏口からの参戦にしては大仰過ぎると思われる。

 ブロンソン・レーの「満洲国出現の合理性」には、コミンテルンや蒋介石政権による米国での反に津活動の他、本気で日本を潰すべきだと考えている米国人の存在があった。それは満洲事変以後のことではなく、恐らくは日露戦争以前にまで遡ると小生は推定する。

 昭和12年から支那事変が始まると、日本は膨大な戦費と人的損害を受けてきた。小室直樹氏によれば、その戦費で飛龍クラスの空母が何十隻も作ることができたそうである。昭和16年ともなれば、欧米諸国には日本が極めて疲弊して、さらにほかの国との戦争ができる状態ではないと見えていたはずである。日本爆撃の実行計画は、このような状態の日本の重工業にとどめを刺して、日本の軍事力を壊滅させる目的だと考える方が、合理的であると考えられる。


なぜクマラスワミ女史はスリランカ人か

2015-04-16 16:36:31 | Weblog

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 「慰安婦問題」で国連にクマラスワミ報告を書いたクマラスワミ女史は、スリランカの出身でインターネットを調べたら1953年生まれで、ハーバード大学などの米国の大学で学士号などを取得している。現在はニューヨーク大学教授であり国連で活躍したこともある。スリランカは1948年にセイロンとして英国から独立したから、彼女は英国の支配時代は知らない。

 それにしても、スリランカはインドと共に、英国から過酷な支配を受けたから、彼女のように人権活動家であって、過去の人権問題を告発するなら、まず祖国と隣国の英植民地時代の英国による過酷な支配を告発すべきであろう。小生は、彼女がそうしないで、アジアで独立維持のために唯一戦った日本の「慰安婦問題」の虚偽報告まででっちあげた理由を考えたいのである。

GHQ焚書開封10「地球侵略の主役イギリス」から英国の過酷な支配をざっと見る。インドの紡績産業をつぶすために、紡績工全員の指を切断した。拷問殺害は当たり前、態度が反抗的だという口実だけで投獄あるいは殺された者は、何万何十万か知れない。インド人を徴兵して関係ない国の戦争に参加させ、徴兵に応じない者は苛烈な拷問にかける。

 農業を破壊し尽くしたために、人口の3分の1の一億人は常に飢餓にある。学校は壊されて60%あった識字率は7%に激減した。これらのことは、全てイギリスがインドから収奪して冨を得るためである、というから強欲のために残虐な仕打ちをしたというのだから、ひどいものである。植民地とはそのようなところを言うのであって、日本のように朝鮮や台湾にインフラ整備をしたり、教育に熱を入れたりするのは、少なくとも西欧では植民地とは言わない。

 そこでクマラスワミ女史である。前述のように女史の教養と働き場所は全て欧米である。元英国植民地の常として上流社会の彼女は英語のバイリンガルであろう。つまり、アウンサン・スー・チー女史と同じでメンタリティーは欧米人なのであろう。

 このような人たちの常として、かつて父祖が欧米の苛酷な植民地支配を呪詛し、独立を渇望したことを忘れている。欧米流教育によって忘れさせられている。そして、わずか数年の日本の軍事占領を声高に批判することを無上の喜びとしている。日本は東アジアの欧米の領土を軍事占領しただけで、植民地支配したのではない。欧米の旧植民地の国民が宗主国を批判しない根本的原因は、欧米の支配により恐怖が骨身にしみているのであろう。欧米は出て行ったとはいえ、彼らに屈服したのではなかった。

フィリピンは米国から独立を与えられ、インドネシアは40万人もの犠牲を出す独立戦争に勝ちながら、オランダから独立のための賠償を奪われた。インドのガンジーが非暴力の独立運動を讃えられるのは、英国に都合がいいからである。ガンジーが非暴力独立運動をしたのなら、イギリスの支配が苛酷ではないと錯覚させる。だがインド独立はガンジーの非暴力運動で得られたのではない

かつての欧米の植民地だった国の人々は、未だに宗主国を恐れている。だから英語のバイリンガルであることを誇りに思い、欧米流の歴史観を持つことを自然であると、上流社会の人々が思うのは当然であろう。だからクマラスワミ女史が韓国や反日日本人の嘘を容易に受け入れ、日本が性奴隷を使ったと報告することに信念すら抱いているのである。

今の日本人の情ない状態はさておく。日本人はガンジーやネール、スカルノといった東アジアの強い指導者は戦前にも戦後にもいなかったと嘆く。ならば、どうしてそのような指導者を輩出する、かの国々は容易に植民地になり、日本は欧米の植民地にならなかったのであろう。答えは自ずから明らかであろう。


日本の日露戦争継戦不能はばれていた

2015-04-14 11:55:00 | 日露戦争

  福富健一郎氏の「重光葵」によれば、五高時代のドイツ語教師のハーン博士(ラフカディオ・ハーンではない)の家に書生として住み込んでいた。当時、日露戦争で日本が勝ったのに、賠償も取れず、小村寿太郎を非難する声があふれていて、重光自身もハーンに「小村全権は、なぜ賠償金もとらずに条約に調印したのですか・・・」と聞いた。

彼は「日本は、確かに勝利しました。しかし、ロシアは国内で共産革命が激化し、日本との戦争を早期に終結したかった。それで講和が成立したのです。日本の弾薬は底をつき、戦争の継続は不可能だった。ウィッテは、さらなる戦争の継続も辞さない態度で小村を責めたのです。」と答えて欧米の新聞を差し出した。

それで重光は「日本に、これ以上戦う力がなかったのですね。」と納得した。そして「重光に日本のマスコミ報道と国際世論の落差を知らせた。」(P51)というのだ。これは意外なことではなかろうか。日本の講和交渉については、一般に小村らの日本側交渉団は弾薬が尽きかけて継戦不能に近いことを隠し通して交渉した、ということになっている。

だが、知らなかったのは日本の大衆だけで、欧米ではマスコミに広く知られていたのである。何せ遠く日本にいる外人の語学教師すら新聞で読んで知っていたのである。つまり小村を誉めるべきは、事実を隠し続けて粘り強く交渉したことではなく、相手に弱みを知られながら、賠償がとれずとも、ともかくも日本が勝利した体裁で講和をまとめたことであろう。


山本五十六の余計な口出し

2015-04-13 14:48:15 | 大東亜戦争

 よほどセンスがいい人でない限り、事務屋が技術に口を出し過ぎると、間違いを犯す。この類が山本五十六の海軍航空の推進であった。山本は軍人の肩書はあるが、武人ではない。誰の評論であったろうか。山本は海軍次官や大臣といった行政職につくべきであって、連合艦隊司令長官、と言った軍人としての指揮官としては不適格であるといった。いわば軍政畑の資質の人であった。

 確かに日露戦争で指を失うという、海上戦闘経験を有している。しかし、その経験も山本の資質を変えることはできなかったのであろう。話を戻すと、ワシントン条約やロンドン条約で対米七割の海軍力が確保できなくなると、山本は対策として航空機による主力艦の漸減作戦を考えた。もちろんこの時の航空のトップは山本ではなかった。

 だが積極的に推進し、航空攻撃の虜になっていき、真珠湾攻撃、マレー沖海戦という形で結実したのはまぎれもない事実である。山本なかりせば、この二つの作戦は別な形で行われており、海軍の対米作戦が航空偏重となることもなかったであろう。航空偏重はそれまで培ってきた戦備と訓練の多くを無駄にした。「負けるはずがなかった大東亜戦争」で倉山氏はサッカーの例を挙げて、守って勝つと言う練習と人材を集めたチームが、突如実戦で攻めまくる作戦に監督が切り替えたら、試合にならない、という意味の事を言っているが、正に山本はそれをしたのである。

 確かに軍事上の技術革新は必要である。しかし、それまで海軍が対米有利としてきたのは、在来型の主力艦による戦闘であり、航空機の急速な発展に短期間にフォローアップできるポテンシャルもなかった。山本は在米経験から、日米の工業力の比が隔絶しており、航空機の大量生産については、米国が圧倒的に有利であったことは承知していたのである。これに比べ主力艦である戦艦は、短期間で建造できるものではなく、戦前からの準備が必要であるから、日米の差が工業力の差ほどの開きは出ない。

元々、陸上攻撃機を開発して軍艦を攻撃する、という構想は、軍縮条約で不利になった艦艇の比率を潜水艦や航空機で漸減して、対等に近い状態にするための、補助手段であった。しかし、ハワイ、マレー沖海戦で航空機単独での攻撃に成功すると、その後の作戦は航空機単独となることが圧倒的に多くなった。山本は戦前の海軍の戦争準備の方法を覆してしまったのである。つまり山本という軍政屋が軍事技術に大きく介入して指導したために、有利なフィールドで戦わず、不利なフィールドに突入する指導的役割を果たしてしまった、と言わざるを得ない。

 米軍ですら航空偏重になったわけではなく、水上艦艇、潜水艦と航空機をバランスよく組み合わせて使っている。米海軍は、建造中止となったモンタナ級や一部のアイオワ級の建造中止にした以外に、対日戦開戦以後、ノースカロライナ級以下10隻の戦艦を実戦配備したのに対して、日本では大和級の2隻だけである。しかも、日本の艦船を最も多く撃沈したのは航空機ではなく、潜水艦であることは、よく知られている。


戦艦の砲撃術について

2015-04-11 13:05:59 | 軍事技術

戦艦の砲撃術について

 

 「戦艦十二隻」という本がある。その中で旧海軍の黛治夫元大佐と吉田俊雄元中佐が、戦艦の射撃について書いている。その中の、吉田氏の射撃砲に関する記述は意外であった。黛氏も吉田氏も砲術の専門であり、吉田氏は後述のサマール沖海戦で、大和の副砲長をしていたというのである。

 戦艦が射撃をするには、発令所にある射撃盤という大型の計算機があって、入力するデータは、目標までの距離、目標の進路、速力、自艦の速力などである。これによって、射撃諸元を計算して、指揮所と各砲塔に電気信号として送信する。(P124)

 ところが、敵艦の進路、速力は極めて重要な要素であるにもかかわらず、自艦上から測定する装置はまったくない、というのである(P130)というのには驚いた。その前段で、30kmの距離で敵艦が30ktで走っているとすれば、弾着までに900m動いていると、書いているのである。方向も分からないのだから、この誤差はさらに拡大する。

 進路と速力を補正するのには、飛行機の観測によるか、周囲の状況から推定するしかなかったというのである。推定とは、目視により構造物の向きで進路を、艦首や艦尾の白波の立ち方で、速力を判断する、と言うことである。日本海軍が零戦の滞空時間を恐ろしく長く取って、観測機を援護しようと考えたのは至極妥当なことであった。

 ところが、栗田艦隊は比島沖海戦の際に、早期に艦隊の全観測機を陸上基地に帰してしまった。吉田氏は、サマール沖海戦の際に大和は初弾から命中弾を与えて敵空母を撃沈した、と書くが(P135)、事実は、大和も長門も一発の命中弾も与えていない。スコールや敵駆逐艦の煙幕展張の妨害にあっているが、観測機があれば、支障なかったであろうし、そもそも護衛空母を正規空母と見誤ることもなかったであろう。

 ここで疑問に思うのは、米海軍の射撃方法である。米海軍のMk37射撃指揮装置は対水上、対空兼用であり5in両用砲用のものである。対空射撃では日本の九四式高射装置に比べ、格段の高成績を挙げている。対空用で精度を上げるには、飛行機の進路や速度も知らなければならないから、当然Mk37はこれらのデータをレーダー以外の何かで得ていたはずである。戦艦霧島の撃沈はレーダー射撃によったと書いてある資料があるが、米軍とて当時、レーダーは補助手段であって、厳密な意味でのレーダー射撃はできなかった

 古本であるが丸スペシャル「砲熕兵器」によればMk37の計算機は、目標距離11,000mでの射撃データ計算時間は10秒であったとされている。例えば、飛行機の位置の何箇所かのデータから、飛行機の針路や速度を計算し、砲弾の到達時点での飛行機の位置を計算していたのであろう。アナログコンピュータであるにしても、10秒は長いが、これは観測データ入力から計算機の出力の間に人間が介在していることが原因ではあるまいか。

 遥かに高速であり、三次元の動きをする飛行機で、このようなことが可能であれば、鈍足かつ二次元の動きしかしない、艦艇ではより容易であったろう。そう考えるのはMk37が対水上用も兼ねているからである。とすれば、5in用のMk37ばかりではなく、同時期の戦艦の主砲用の射撃指揮装置も同様に、敵艦の進路と速度も得ることができていたのに違いない。もしそうならば日米の戦艦の主砲の命中率には大きな差が出る。特に初弾においては甚だしいであろう。

 戦艦十二隻の中で黛氏は、米海軍の砲術進歩の調査を命じられて、昭和九年に渡米留学し、昭和十一年七月に帰朝したとしている。この間に米退役軍人から得た「一九三四年度米海軍砲術年報」を分析すると、米海軍の大口径砲の命中率は日本の約三分の一であった。その原因は散布界の過大にあることは間違いない(P239)としている。これは、この時点での日米の射撃指揮装置自体に優劣はなく、命中率の差は主砲の散布界の大小だけによる、ということになる。軍艦の射撃訓練は、固定目標ではなく、艦艇で標的を曳航していたのである。ということは、この当時米海軍でも、計算機で敵艦の針路や速力を得てはいなかったということであろう。

 ところで「砲熕兵器」によれば、Mk37は昭和十一年に開発が開始され、昭和十四年に実用化の目途がついたとされる。黛氏が米国から帰ったころ開発が開始されていたのだから、その後日米関係が悪化の一途を辿ったことを考え合わせると、それ以後の米国の砲撃術の情報は入ってこなかったのであろう。従って、Mk37と九四式高射装置の差と同様の差が、日米の戦艦の主砲の射撃指揮装置にもあったとしても不思議ではない、というのが小生の今のところの結論である。

 小生は昭和五十二年刊行の黛氏の「艦砲射撃の歴史」という本を入手した。これにも昭和十一年ころまでの日米の戦艦や重巡の大口径砲の射撃についての記述がある。昭和十五年ころのデータについては、戦艦に関しては、米国のものは無いようで、読む限り海自の元海将から最近(多分昭和五〇年ころ)米海軍当局から入手した米重巡の20cm主砲のものしかないようである。(P306)つまり黛氏の米海軍の戦艦の主砲の砲術についての知識は、昭和十一以降は全く欠落しているということになる。昭和十一年以降に改良がなされていたとしても、分からないのである。

艦砲射撃の歴史は、実はほとんど読んでいないので、今後読み解けるものがあるかもしれないが、このような訳で多くは期待できないと思う。日米戦の新戦艦のノースカロライナ級、サウスダコタ級、アイオワ級と大和級の主砲の射撃指揮装置の相違について知りたいと思う所以である。


対米開戦は日本の米国に対する国際法上の侵略戦争ではない

2015-04-09 11:46:48 | 大東亜戦争

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 小生には、従前より兵頭二十八氏の持論に理解しがたいものがひとつある。それは、対米開戦は日本の米国に対する侵略戦争である、ということである。ここでは兵頭氏の「北京は太平洋の覇権を握れるか」を例にして、この点を論じる。

  「・・・一九二八年の『パリ不戦条約』が公許した戦争は、『セルフディフェンス』(自衛)のみであった。この価値観は、こんにちなお近代国家のあいだでは維持され、支持され、承認され続けている。」(P241)というのである。

  氏は、パリ条約を文言通り解釈して日本の対米侵略を言うのである。そこで国際法の専門家の見解を閲してみよう。「パル判決書」が本の山の中に埋もれて見つからないので、孫引きになるが、中村粲氏の「大東亜戦争への道」では「パル判決書」による、自衛権の問題に関してのケロッグ国務長官の言明を紹介している。(同書P286)

 「自衛権は、関係国の主権の下にある領土の防衛だけに限られてはゐない。そして本条約の下に於いては、自衛権がどんな行為を含むか又いつ自衛権を発動するかについて各国みづから判断する特権を有する。その場合、自国の判断が世界の国々によって是認されないと云ふ危険はあるのだが。合衆国は自ら判断しなければならない。・・・そしてそれが正当なる防衛でない場合は、米国は世界の世論に対して責任を負うのである。単にそれだけのことである。」

  これに対して日本政府では、田中外相が同意を表明している。これは自衛の範囲は自国領土に限られないと主張したものである、と中村氏は説明する。そして中村氏は張学良の満洲政権に対してソ連が侵攻したことに対して、米英仏伊は不戦条約の義務の注意喚起をしたが、ソ連は自衛行動と反論して、第三国の干渉を拒絶したことを記している。また、米国は条約に公式留保をしたわけではないが、上院外交委員会は、自衛権とモンロー主義のために戦う権利及び違反国に対して条約を強制しない権利を留保する「解釈」を提出したことも記している。

要するに不戦条約は締結早々事実上の無効なものになっていたのであって、兵頭氏の言うような「この価値観は、こんにちなお近代国家のあいだでは維持され、支持され、承認され続けている」というような事実は大東亜戦争時点では、豪も認められないのである。ところが「東京裁判」では突如として日本の不戦条約違反が持ちだされた、という次第である。

パル判事と同様に日本の国際法の専門家であった立作太郎氏の「支那事變國際法論」にもパリ条約への言及がある。以下引用は、旧漢字と仮名使いは適宜、新漢字新仮名使いに改めた。

「亜米利加合衆国の不戦条約に関して為せる言明に依れば、亜米利加案に於いて留保されたる自衛権なるものは、各主権国の当然有する所にして、一切の条約に含蓄さるる所であるとし、自衛上戦争に訴うべき事態を存するや否やを認定するを得る者は当該国の他に存せぬと為したのである。・・・是の如くなれば不戦条約は、少し語を強めて言えば、実際上初めより有れど無きに等しきこととなるのである。」(P10)と断ずる。更に注釈に米国の態度について次のように記す。

「不戦条約に関する千九百二十八年六月の亜米利加合衆国の通牒中に於て、次の言明を存する。

不戦条約の亜米利加案中に於て、自衛権を制限し又は之れを侵害すべき何物をも存せず。自衛権は各主権国の当然有する所にして、一切の条約に含蓄さるるものなり。各国民は如何なる時に於ても、又条約の規定如何に関係する所なく、他の攻撃又は侵入に対して其領土を防衛するを得べきものにして、自衛上戦争に訴うべき事態を存するや否やを認定するを得る者は当該国の他に存せず。若し適正の場合なれば世人之を賞賛し、其行為を非難すること無かるべし。

不戦条約に関する亜米利加合衆国元老院の外交委員会の報告書中に於ても、各国民は常に、又条約の規定に関係なく、自ら衛るの権利を有し、何が自衛権を有し、何が自衛権を組織するや並に自衛権の必要及び範囲の点の唯一の判定者であると為した。亜米利加合衆国は屢々モンロー主義を以て自衛権に基くとするの主張を為したことに注意すべきである。モンロー主義の主張が国際法上の厳正の意義における自衛権の範囲に極限されぬことは言を俟たない。」(P11)

当然英国も又自己都合の留保を声明しているのは言うまでもない。

 立氏は当時の日本の国際法の権威であり、前掲書は支那事変の最中の昭和十三年に出されたものであり、当時のほとんどの戦争が支那事変と同様に、宣戦布告を伴わない、不正規の「事実上の戦争」であったことを前提とし、国際法が支那事変にいかに適用されるべきかを論じたものである。ちなみに、現在までを振り返っても、宣戦布告をして開始された戦争は例外である。

現今の日本の史家が、国際法を自分の思想に合わせて勝手に解釈しているのに比べると、立氏は立論は流石であり、このような著作が書かれたこと自体、当時の日本人が如何に真剣であったか感心する次第である。そして日本は日清日露戦争時代と違い、支那事変や大東亜戦争においては国際法を顧慮することがなかったとする言説が、いい加減なものであることを、この本は立証している。

いずれにしても、不戦条約が如何に理想的言辞を並べようと、空証文に過ぎないと国際的に扱われていたという見解は、中村氏にも立氏にも共通するが、立氏は中村氏よりさらに踏み込んで、自衛であるか否かは、当該国が解釈するものである、という留保と通念があったことを明確に示している。

 また兵頭氏は「・・・『経済制裁』の実施は、戦時国際法上の、『先に手を出した』ことには該当しない-という国際慣行についてだ。(P241)」、としてこんな常識も知らぬ人間が日本には多い、というのだが、これは誤解を招く表現である。「嘘だらけの日米近現代史」で倉山氏が「侵略戦争の定義は『徴発されないのに、先に手を出した』です。」として、「米国内日本人の資産凍結や石油禁輸などの経済制裁、『日本は中国から撤退せよ、満洲事変以降に日本がしたことは認めない』との内容を意味するハル・ノートなどは完全に挑発に当たります。中立国のくせに中国の肩を持ち『制裁』などと介入しているのだから完全に挑発です。ハル・ノートの内容にしても、アメリカが逆のことを言われたらどうでしょう。『ハワイをカメハメハ王朝に返せ』『アメリカ大陸を先住民に返せ』などと言われて、アメリカが黙っているでしょうか。」(P89)と言うのたが、正に至言である。頭氏の言説は倉山氏の見解が間違っている、と誤解させるのである。

立氏は自衛か侵略かは当該国が判断すべき、と紹介しているが同時に「若し適正の場合なれば世人之を賞賛し、其行為を非難すること無かるべし。」という言辞も紹介している。すなわち日本は米国に挑発されたのだから、侵略ではなく自衛であると主張するのは正に正当である、ということであり、倉山氏の言うことと符合するのである。つまり日本は米国などの言う「自衛か否かの解釈権は当該国にある」と言う解釈を使って、大東亜戦争は「自衛戦争である」と言っているだけではなく、国際的にも正当と認められるべきものである、ということである。不戦条約が現実と乖離した単なる理想的言辞ではなく、国際法上の有効性を持たせるには、日本の対米戦争を不戦条約違反ではないと認めなければならないのである。


なぜ戦後七〇年談話か

2015-04-05 16:02:23 | 政治

 平成27年3月30日の産経新聞で、櫻田淳氏が、「安倍談話」に重き置き過ぎるな、という論説を正論に書いた。曰く、安倍談話の有識者会議のメンバーを見る限り、常識的なものになるだろう、と言うのだが、西洋植民地主義と同じことをした、と櫻田氏自身が言うのだから、メンバーの北岡紳一氏が日本は侵略した、と言って欲しい、と早々に語ったのも、櫻田氏には常識的な範囲なのであろうから、私には理解しかねるのである。

 また、旧植民地との和解と友誼だとか言うのだが、果たして日本を取り巻く状況や外交が、そのようなもので動いていると考えておられるのだろうか。建前としての友誼はいいのだろうが、西欧諸国は過去の植民地地域に和解など求めてはいない。今の目で見れば犯罪的な植民地支配についても、知らぬ顔である。それを今になって、まだ日本だけが侵略の植民地支配、のということを世界中に発表しようと言うのである。

根本的なことを言おう。戦後70年も経って首相が談話を出すことについて、櫻田氏は不思議に思わないのだろうか。敗戦国であるが故に、一国の政治の最高責任者がこんなにも後になって談話を出す、というのは日本以外、古今東西前例がない。

ドイツの例を持ち出す人は、ヴァイツゼッカー大統領の「荒れ野の40年」のことを前例だというだろう。別稿でも述べたが、小生はこれを岩波のリーフレットで読んだ。大雑把に読むと、反省の文言があるように錯覚する。しかし、子細にチェックしてみた。ところがいくら読んでも、ドイツによる侵略の「謝罪」など一言も述べていないのである。単に「心に刻む」というフレーズが何度も繰り返されているだけである。従って「荒れ野の40年」は侵略の謝罪の前例ではない。

唯一の前例が戦後60年の「村山談話」なるものである。当時の村山首相が外交に影響を与えるなどについて、政治的考慮もせずに、自己満足から、戦後60年談話なるものを出してしまった。これとて前例もない思いつきに過ぎない。中身は日本が過去に侵略したとして、明瞭な謝罪をしてしまって、外交にその後ずっと利用されて続けてきた。

安倍首相の考えを忖度するに、村山談話により日本が不利な立場にあるので、新談話を出して、村山談話の影響を断ち切りたい、ということであろう。そうでなければ戦後70年も経って、わざわざ「戦後談話」なるものを再び出す理由はないからである。未来志向の文言を入れたところで、村山談話の「侵略の謝罪」が残っているのなら新談話を出す意味はない。そこに前述の北岡発言である。今のところ、安倍総理の信念を信じるしかない。

何年位前だったか記憶が定かではないが、櫻田淳氏が保守系の論客として言論界に登場した時、氏の意外な着眼点に新鮮さを感じ、今後を期待したものであった。しかし、最近の氏の主張を読むと、結局は江藤淳氏の言う「閉ざされた言語空間」の中で呻吟しているように思われる。