毎日のできごとの反省

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書評・ナポレオンと東條英機・武田邦彦・ベスト新書

2016-12-27 17:22:48 | 歴史

 小生としては初めて、米国は対独戦参戦のためばかりではなく、日本を潰すための戦争を企画していた、という小生の考え方と一致した論考を発見したのは幸甚である。しかも、小生の考えは、単に日本本土爆撃計画、その他の米国政府や民間の動向から、この主張を導き出したのに過ぎない。

 本書が貴重なのは、米国の動機を論証したことである。欧米人は日本が支那と同様に、白人、すなわちアーリア人種のルールと秩序に従って行動すれば、日本を受け入れて戦争になることはなかった。しかし、日本は白人と有色人種は平等である、という抜きがたい思想を持っていて、満洲国建国など、白人の既成の植民地秩序を破壊する意志と能力を有する、唯一の有色人種の国であった、ということである。

 それ故、ルーズベルトを始めとする欧米人は、アーリア人種が造り上げた秩序を守るためには、結局日本を叩き潰すしかない、という結論になったというのである。大航海時代以降、世界で欧米に支配されなかったのは、日本以外には、エチオピア、タイ、支那だけであった。(P76)

しかし、エチオピアは風土病がひどく、ヨーロッパ人は入りたがらなかったため、タイは外交上手だったのと、英仏の対立の緩衝地帯として残され、支那は唯一「白人に寝返って」(つまり蒋介石はアメリカの、毛沢東はソ連の傀儡であった、など)、完全な植民地化を避けられた、というのである。その他のベトナムなどは果敢に戦って敗れ、植民地化され、唯一日本だけが軍事力、すなわち実力で独立を保持したのである。

 次に本書の主題である、東條英機がナポレオンに比べ貶められているが、初めての有色人種の国際会議である、「大東亜会議」を主宰するなどして、多くの植民地の独立を促し、白人優位の秩序を壊した、立派な指導者だった、という論考にも大いに共感する。大東亜会議については、深田祐介氏が好著(黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち)を出しているので読まれたい。

 小生は昭和史、あるいは日本近代史の人物では、トップが昭和天皇で、次いで東條英機を推しているので、東條の再評価は喜ばしい。

 ここで、間違いを指摘しておく。「フランスはアメリカが独立するのを嫌って」独立戦争に介入した(P51)というのだが、これは逆ではないか。「対大英同盟を率いたフランスが勝利し、アメリカの植民地は独立します。(嘘だらけの日英近現代史P128)」というのが事実ではないか。

 米西戦争の原因となった米国船を「メリー号」と書いているが実際はUSS Maine なので、普通日本語では「メイン号」と表記される。繰り返し書かれているので、表記ミスではなく、記憶違いであろう。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが「・・・日本軍が敷設した魚雷を避けつつ・・・」とあるが、機雷の間違いである。

 以上、本書の本質と関係ない、些末な間違いを指摘したが、単純なものなので版を改める時、訂正したらどうかと思う次第である。


日米の制空権下での艦隊決戦思想の相違

2016-12-22 13:40:47 | 軍事技術

 倉山満氏は「飛行機で戦艦を守れるようにしよう。制空権を取って艦隊決戦を有利にしようとしました。艦隊決戦主義から、制空権下での艦隊決戦主義になったということです。」(1)(P175)と書いている。一方で日本も航空機の発達から制空権下での艦隊決戦主義に移行したと言われている。だがその中身には当然相違があったと思われる。

 双方に共通しているのは、弾着観測に航空機を活用し、砲の命中精度を上げるために、観測機を守るための制空権確保、ということである。それでも違いはある。日本の場合は弾着観測機を艦上戦闘機で守ることを考えた。零戦の航続距離が異常に長いのは、艦上攻撃隊の援護や陸上攻撃機の援護のためではなく、艦隊上空を観測機援護のために長時間飛行するためである。そのことをはっきり指摘したのは兵頭二十八氏と記憶している。

零戦の開発が開始されたのは、支那事変が始まった当時であり、戦闘機無用論もあった位だから渡爆撃機の援護の重要性が全く認識されておらず、当初の要求仕様は航続距離ではなく、滞空時間で示されていた。

 米海軍の場合は、敵攻撃機は艦上戦闘機と、両用砲の対空砲火の二種類によって守ることとしたと考えられる。敵艦の中でも、特に空母を主として攻撃し、敵空母の航空機運用能力を無くすことを主任務にしていた。だから米空母の場合、艦上戦闘機と艦上爆撃機の比率が日本に比べて高く、雷撃機の比率が低い。戦闘機は艦隊防空と攻撃隊の直掩に使うからで、爆撃機は空母の飛行甲板を破壊して航空機運用能力を無くせばよく、必ずしも撃沈する必要はないと考えた。こうして制空権を握った上で、主力艦の決戦を行う。

 駆逐艦の主砲に対空兼用の、両用砲を全面的に採用することによって、他の海軍と異なり米海軍は駆逐艦にも防空能力を持たせた。大戦後半の圧倒的防空能力とはいかなくても米艦隊は効果的な対空火力を持っていた。既に緒戦の珊瑚海海戦で日本海軍の艦上機搭乗員は、そのことを身を持って知り、戦訓として上申したが海軍上層部の取り上げるところとはならなかった。

 ミッドウェー海戦では、多数の米雷撃機を零戦が撃墜し、一本の魚雷も命中させられなかったことから、敗北の結果となっても、米艦隊の防空能力の高さを認識することはなかった。運が悪かったことを意味する「魔の五分間」という神話の罪は重いのである。澤地久枝氏の「滄海よ眠れ」にも書かれているように、全体の戦死者は日本側が遥かに多かったにもかかわらず、パイロットの戦死者は米側の方がずっと多い。これは、米空母を攻撃したのは飛龍だけだったことによる。要するに、敵艦隊攻撃に参加した航空機は米海軍の方が遥かに多かったために搭乗員の被害の絶対数が多くなったのである。

 日本海軍の場合は軍縮条約で劣勢に立たされた主力艦比率のために、まず決戦の前に主力艦を少しでも減らすことを考えた。そのために艦攻による雷撃ばかりではなく、陸上攻撃機を太平洋の島嶼に配置して、攻めくる米艦隊を雷撃する、陸上攻撃機なる、他の海軍に例のない機種を発明した。

日本はあくまでも、艦隊決戦以前に主力艦をより多く撃沈する意図だったのである。だから、主力艦を撃沈可能と考えられた雷撃を敵艦攻撃の主力とした。後で再浮揚したことや戦略的要素を考慮しなければ、多くの戦艦を破壊した真珠湾攻撃は、この意図からは成功だった。マレー沖海戦は、陸上攻撃機が主力艦撃沈に有効であるという幻想を日本海軍に抱かせてしまった。

わずか90機程度の陸攻が戦艦を2隻も撃沈したのだから、陸攻に期待するのも無理はない。しかし、その後の陸攻は期待に外れ、恐るべき被害に比べて戦果は挙がっていなかった。マレー沖海戦の幻想が、戦果を過大評価させ、現実の戦果を見誤る結果となったのである。

では陸攻が海軍から無用になったのか、といえばそうとも言えない。陸攻の思想を結果的に受けついたのは、ソ連だった。ソ連は戦闘爆撃機や爆撃機に対艦ミサイルを搭載して、米空母を飽和攻撃によって撃沈しようとしたのである。魚雷に替わって対艦ミサイルがソ連の「陸攻」の兵装となったのである。

まともな空母を運用できなかったソ連は、陸上から発進する爆撃機によって主力艦となった米空母に対抗しようとしたのである。航続距離の長い爆撃機から、米空母の防空圏外から、長射程の対艦ミサイルを米艦隊の防空能力を超える多数を同時発射して、撃ち漏らした対艦ミサイルで米空母を撃沈しようとした。

正に陸攻の理想とした能力を備えたのだった。ある時期に米ソ海軍が衝突したら、この企図は成功していたように思われる。しかし、よく知られているように、米海軍はイージスシステムを開発して、敵機の同時対処能力を飛躍的に増やして対処した。ソ連がカタパルトを持たないとはいえ、正規空母を持とうとしたのは正解であろう。

しかし、本質的に大陸国であるロシアが、旅順艦隊とバルチック艦隊の全滅以来、本格的な外洋艦隊を持たないのは、ロシアの宿命であるかも知れない。ソ連崩壊によってロシアは世界帝国であることを止めた結果、外洋艦隊を持つ必要はないのかも知れない。かつてはロシア帝国とはいっても、ヨーロッパ外交の1プレーヤーに過ぎず、ソ連崩壊によって、ロシアは世界帝国から元の地位に戻ったのである。

 

(1)負けるはずがなかった!大東亜戦争・倉山満

 


書評・大西郷という虚像・原田伊織

2016-12-11 16:09:27 | 維新

 本論に入る前に、本書が奇妙なのは前著「明治維新という過ち」では、西郷について、比較的遠慮しながら批判していたのに、忽然と西郷の全否定のような書物を出したことである。それはさておき内容に入ろう。

 まず結論から言うと、本書はその目的であろうと思われる、西郷伝説が間違いであり、狡猾で人望のない人物に過ぎない、ということを読者に納得させることに成功していないように思われる。西郷が鷹揚さの反面で、陰謀などをめぐらす二面性のある人物である、ということは西郷を称賛するほとんどの人もが指摘するところであり、今更言われるまでもない、というのがひとつの理由である。

 もうひとつは、「もともと粗暴である点を以て全く人望がなかった西郷が・・・(P103)」等の粗暴で人望がない、と一方的な指摘をしているのに、「『田原坂』とは、中央政府という大人社会に怒った若衆たちの宿の『稚児』たちの蜂起を『二才頭』として放っておくわけにいかなかった西郷の仕上げの舞台・・・(P302)」というように何回か「二才頭」であった経験から人の上に立つことができた、と具体的論証では人望があった、ということを証明している。このように西郷の批判に関しては、具体的証明のない決めつけに近いのに、具体的な指摘となると、西郷を持ち上げる、結果しか生んでいないように思われる。

 小生は西郷などのように、世に立派な人物として称賛される人たちが、他の人たちと異なる特異な性格を持った、神のごとく立派な人物である、とは考えていない。称賛される人たちにも欠点もあり、人としての悩みを抱えた普通の人間であって、ただ、結果として大きな事績の代表者として、その人物にスポットライトが当てられたのであろうと思う。

 太田道灌が江戸城を作った、というような言い方は、太田道灌が江戸城建築と言う大事業の象徴である、という意味である。太田道灌が設計から建設作業の全てを行ったわけではもちろんない。道灌という象徴的名前の下に、無数の人たちの功績や努力が隠れているのである。西郷も明治維新という大事業の象徴の一人であると小生は考える。

 西郷を有名にしているひとつの本に内村鑑三の「代表的日本人」がある。そのドイツ語訳版後記に面白い記述がある(ワイド版岩波文庫P181)。「何人もの藤樹が私どもの教師であり、・・・中略・・・何人もの西郷が私どもの政治家でありました。」というのである。内村は著書に書かれた人たちを特殊な人物ではなく、日本人の中に西郷などに比すべき人物は多数いる、と言っているのである。正に代表的日本人あるいは典型的日本人なのである。こう考えれば「大西郷」などは虚像である、などといきり立つ必要はあるまい、と思うのである。

 故意としか思われないエピソードの無視がある。西郷の記録として重要な資料に「南洲翁遺訓」がある。これは、敗戦にもかかわらず、西郷によって寛大に扱われた、庄内藩の人たちが書いたものである。このことを著者が知らぬはずはない。それはこのエピソードを書いたら、それは「大西郷」は虚像である、という説明と対比して、都合が悪いからとしか思われない。

 

 本書は「明治維新という過ち」の完結編であると著者自身が言っている。そのシリーズに共通して、繰り返し述べられている維新の過ちというのを大ざっぱに三つ挙げると

①明治維新を行った尊皇の志士とは狂暴なテロリストに過ぎず、新政府の構想などの展望を持ってはいなかった。

②幕府には有能な外交経験者と政策能力のある有能な人材がいて、明治政府を支えたのはこれらの人物である。これに反して薩長には、新政府を支える人材はいなかった。

③薩長が討幕したのは、尊皇攘夷などのためではなく、関ヶ原の戦いなどで敗れた藩の復仇に過ぎない。

というものであろう。統治する側の内部での政権交代なのだから、著者の言うように、明治維新とは革命ではなくクーデターである、というのはその通りである。この観点も含めて、上記三点を考える。

①について:クーデターにせよ、革命にせよ、暴力によって実行される。平和的革命などと言うものは比喩に過ぎない。だから、現政権側からいえば、暴力は違法なのだから、単にテロとしか言えない行為も含まれている。それを全くなしにクーデターができるはずがない。問題は他のクーデターや革命と比べ、暴力や非道な行為の程度が不必要に多いか否か、である。

 クーデターを行う側の人物にも色々いるから、全く非道な行為はあってはならない、とうのは現実的には無理な注文である。日本は治安がよい、といっても犯罪が全くない、というのはあり得ないのであって、他の国と比較しての相対的なものである。この点著者は、薩長の非道なテロ行為を挙げるが、世界史的にどうか、という視点が全くない。これでは論証にならない。ロシア革命後のボリシェビキによるクーデターの悲惨非道と比べればよい。権力闘争としての文化大革命と比較するがよい。明治維新が世界史的に見て、犠牲が少ない大変革であった、というのは事実である。

 また新政府の構想の展望については「五箇条の御誓文」をあげればよいであろう。幕府が行おうとしていた、公武合体その他の構想も、そのような政治体制で、当時の西欧諸国と伍していくことができたであろうか、という疑問は消えない。そして著者もその論証をできているようには思えない。

②について:他の国の革命やクーデターと異なり、榎本武揚のように、幕府側の有能な人材が明治政府では活用されていた。これはむしろ誇るべきことであろうと思う。ルーツは同じでも、日本の将棋だけが、相手から取った駒を味方にすることができる。これは日本人の性格の長所であると言われているのである。

 著者が指摘するように、伊藤博文は女癖が悪かった。だが時代背景を考えると異常とは言えまい。また、伊藤の帝国憲法作成については、素晴らしい功績である。これだけをもってしても、薩長には人材がいなかったとは言えまい

③について:尊皇攘夷がいつのまにか、開国になっているということの不可解さについては、多くの識者が分析を試みて納得できる答えを出しているので省略する。なるほど中西輝政氏も書いているが、薩長は関ヶ原の敗者である。それは討幕のエネルギーのひとつが敗者による復仇だった、ということであるが、それが全てではない。それが全てであったなら、明治政府はあのような体制とはせずに、薩長の支配が永続できる体制としたであろう。

 現に藩閥政府打倒の運動があり、それは徐々成果をあげて政府や陸海軍における薩長閥のカラーは払拭されている。大東亜戦争当時の代表的人物で言えば、東條首相も米内海軍大臣も山本五十六連合艦隊司令長官も薩長閥ではない

 著者はひとつ奇妙なことを言っている。「・・・学校教育で受けた印象として、徳川幕藩体制とは、幕府が強力な軍事力=力で統御していた中央集権政権体制であったように受け取られているようだが、それは明白な誤りである。中央集権体制とは、幕府を倒した薩長新政権が目指した体制である。」(P247)

 小生は子供の頃どういう歴史教育を受けたか記憶はないが、幕藩体制は藩の独立性が比較的強い封建体制で、明治政府はこれに対して中央集権政府を目指した、というのは小生を含め通説である、と思っている。ちなみに、学術的に正しいか別に置くとして、通説の代表格である、Wikipediaで中央集権を調べると、日本については明治政府を代表格としている。著者の認識は不可解としかいいようがない。

 

 著者は出自に依拠してものごとを判断する傾向が強い。例えば「・・・薩摩の田舎郷士であった西郷という男の・・・」「もし、西郷という男が上級の士分の者であったなら、こういう手を打っただろうか。」という繰り返される出自を根拠に人物の良し悪しを評価する記述がある。このシリーズに共通するが、西郷のみならず、薩長の維新に参加した人物に対して、品性の悪さを出自の悪さに起因しているとしていることが多い。小生は建前で出自の悪さと品性の悪さの相関を否定しているのではない。

出自が悪いために、品性の悪い人各となった人物もいる。逆に出自が悪いために、高潔な人格となった人物もいる。ケースバイケースである。ある人が出自が悪いために品性が悪いと言いたければ、それを証明しなければならないが、本書にはその論証は薄弱のように思われる。出自は変えられないのだから、著者のような単純な論理なら、出自の悪い者に救いはないのである。

 これに類似した記述がある。「・・・私のような浅学の徒が『子分』と表現してもさほど重みもないが、博士号を持つ学究の徒である先の毛利氏でさえ『子分』という表現を用いている。(P263)」という。「博士号を持つ学究の徒」であれば言説の信頼性は高まるものなのだろうか。

著者のように「博士号を持つ学究の徒」ではなくても、きちんと知識を重ねて論証をしていれば、小生は納得するし、西尾幹二氏のように専門がドイツ文学であっても、その歴史など専門外の論考には小生は信を置くことができる。逆に、専門家としての博士号を持つ大学教授に専門の範囲の論考で、全く信頼のおけない人物は山といる。繰り返すが、著者には出自と肩書きで人を評価していると言われても仕方のない記述が目立つ。

 

 「・・・西欧近代というものを金で買いまくった(P252)」というが、例えば技術にしても金で買いまくれるものではない。これは技術の深みを知らない言説である。清朝末に軍艦などを買っただけで使いこなせなかった清国艦隊と、日本海軍が国産化の努力と運用をしたのと比較すればよい。技術は金で買いまくれるものではない。受け入れる側の組織や教育などの努力と素地が必要なのである。

 その素地は多くの識者が指摘するように、江戸時代に準備されていたものである。著者が幕藩体制の人材の豊富さを強調するように、幕藩体制と明治政府は全く異なる外見をしていても、日本と言う国は江戸時代やそれ以前から連続して断絶がないのである。

 「戦後、オランダがヨーロッパの中でも有力な反日国家となった(p138)」原因として、大東亜戦争時の捕虜の扱いばかりではなく、文久三年のオランダ船砲撃が根にある、という。永年の友好国であったにもかかわらず、突如砲撃されて四人が死亡したからだ、というのだ。

 だが戦後、というのは大東亜戦争後のことであろう。日本兵捕虜の虐待については、オランダ人が連合国で最も残虐非道だったことが書かれていない。オランダ兵の日本人捕虜虐待は、虐待などと言う程度ではない恐ろしいものであった。このような反日は、幕末の事件より大東亜戦争の緒戦で敗北し、欧米人が人間扱いしていなかったかつての植民地の民の前で恥をかかされた上に植民地大国から三流国に転落した、という説の方が妥当であろう。小生はこの説の方がよほど腑に落ちる。

 白人が有色人種に惨めに負ける、という驚天動地のできごとがあったのである。第二次大戦初頭に政府は亡命したうえに、蘭印の植民地まで奪われたのである。

著者は明治維新の日本の行動を、誤った海外膨張としている。それ以上の言及がないので判然としないが、日清日露戦争、大東亜戦争をそのような観点だけから見ているのであろうか。だとすれば、結局著者も維新以後の戦争を侵略戦争と考え、維新以後の戦争は対外膨張と言う国内的要請から発生した、と考えているのであろうか。

 

 「明治維新という変革が創り出したものは国民であったのか、そうではなく皇民であったのかという問題は明治維新解釈の前に現れた二つの道である。今日の市民社会を構成する市民に通じる道を歩むと・・・(P11)」としている。明治維新は大日本帝国と言う国民国家を作り出し、その国民が同時に皇民であっても矛盾はしない。日本は天皇を基底に持つ国家である。吉田茂は臣茂と称した。自分は皇民である、という意味である。

 気になるのは市民と言う言葉である。これは左翼の使う「国家」を消去した、地球市民と言う言葉につながる。国民国家であればいいのであって、ここに市民と言う抽象的な言葉が登場するのは不可解である。A町に住めばA町民であり、B市に住めばB市民であって、固有名詞をなくした抽象的な「市民」と言うのは考えにくいのである。それに対して国民国家における国民、という抽象概念は存在するから、市民と国民と言う言葉を対等に並べるのは変である。

 氏は左翼どころか昔は右翼と呼ばれた、と何度か言う。しかしこういう言説は左翼の影響から逃れていないように思われる。

 

 イギリスに利用されて明治政府は成立し、有能なパーストマンが急死しなければ、日本は英国に支配される属国となっていた可能性が大である、という。(P153)これには中西輝政氏の説を以て答える(国民の文明史P442)。英国の国際戦略研究所を務めた大学教授は、アジアで日本とタイと中国だけは完全には植民地化できなかった、とソウルで講演したという。

タイは外交手腕によって独立を保ちえた。中国は広大すぎて部分的な支配にしかならなかった。日本はタフだったから、というのである。「日本列島のこの南の島(九州)のその先端を攻めるだけでも、こんなに手こずったのだから、この国を占領するのはまったく容易なことではなく、ほとんど不可能に近い、とそのとき多くのイギリス人は感じたという。そこでイギリスの対日政策として植民地化することを諦めて、『文明開化』させ、イギリスと親密な関係を持つ国として近代化に協力し利用する、という方向に持ってゆく、と決めたといわれる」のである。こちちらの方が事実に近いのではあるまいか。

パーストマンは英国にとって有能な政治家であったことは認める。ただ著者はパーストマンの存否と日本の植民地化の可能性という重大な指摘について、何の論証もしていない。

 

 最後にこのシリーズの全般的な印象を言う。以上に繰り返し述べたように、肝心の論点における論証が少ない。意外なことだが、日本人らしいことを強調しているにもかかわらず、氏は郷土に対する強いシンパシーを持つ反面、「日本」に対するシンパシーが何かしら薄いように小生には感じられる。これらの矛盾がある以上、氏の説が発展性を持つことあり得ないように思われる。

 

 


書評・第二次大戦の〈分岐点〉・大木毅

2016-12-04 13:52:41 | 大東亜戦争

 第二次大戦の分岐点の定説について、独自の観点からとらえている、というような趣旨の書評につられて読み始めたが、よく調べられているのは流石だが、衒学と情緒的書きぶりに少々嫌気がさして放棄した。読み込めば価値はあるとは思うのだが、気分的にどうにもならない。また簡単な間違いや思い込みが目につくのも気になる。

 典型は第三章の「プリンシプルの男」である。書評にはならないが、本項ではこの点の批判だけする。「プリンシプルの男」とは零戦の設計主任の堀越二郎のことである。設計者として必要な資質としての、自分の立てた原則を曲げないという性格を持っているというのだ。本書に書かれている頑固さの例は、安全率の規定を部材によっては緩和すべき、と主張して担当官をねばり強く、説得したというものである。

 本書にはないが、類似の例では堀越氏が、艦上戦闘機烈風が要求性能に達しないことが判明したとき、色々な実機のデータから、設計より以前に、誉エンジンに問題があることを立証して、ついに会社のリスクでエンジンを換装することで海軍を説得したのであった。官が民に対して高圧的であった当時にあって、その行動力は物凄いものである。だがこれらの例はプリンシプルと言えるのだろうか。自分が正しい、ということを主張したのであって、何かの原則に基づいて主張したものではない。

 逆に、海軍の要求仕様について、戦闘機の性能では格闘性能か高速力が優先すべきか、というような議論を軍のパイロットが議論を始めたとき、堀越は傍観者として見ていた。正否はともかく、二人のパイロットには、戦闘機のあるべき「プリンシプル」があったのに、堀越は持ち合わせていなかったのである。堀越のプリンシプルは別なところにあった。それは重量軽減である。本書にも書かれているが、その執念は尋常ではない。

 戦後防衛大学で堀越から航空工学の講義を受講した人物が、堀越教授は重量軽減についてばかり講義して、毎回機体の重量計算ばかりさせていた、ということを小生はある資料で読んだ。それだけで一年の授業が持つのかと不可思議であるが、別な資料でもう一人の同様の証言があり、両人とも堀越を尊敬している風はあっても、非難する様子ではなかったから、事実なのであろう。

 堀越自身が、「一キロの重量軽減は多量生産時の工作時間三十時間に値する」(零戦)と述べている位である。当時は一万機に達する大量生産は予期していなかったから、仕方ない、という説もあるが、千機であっても工数低減の影響が大きい多量生産の部類である。その程度の生産量は想定内だし、堀越の言わんとするのは工数が増えても重量軽減の方が大事だ、ということだけである。現に堀越自身の著書によれば、生産工数比較では零戦は、かのP-51の三倍である。

 工員の賃金をドル-円換算して比較すると、コストにすれば、零戦の方がP-51より安い、と堀越は言うのだが、人的資源の消費という観点からすれば、工数の大小が問題である。工数が多ければ、他の軍需物資の生産に回せる人員を零戦の生産が食ってしまうことになる。人口が余っていれば問題とはならないが、当時でも人口は日本の方がアメリカよりずっと少ない。

 マスタングは生産中にも工数低減の努力をしているから、この差は縮ってはいなかったどころか広がっていたであろう。堀越は七試単戦から5種の戦闘機設計をしており、海軍の要求のシビアさから戦闘機設計のプリンシプルとして、重量軽減に到達したのだろう。しかし、戦後航空工学の講義でそれを教えた、ということは飛行機一般の設計の原則としたということだろう。

 しかし、飛行機が空を飛ぶ以上、どんな設計者にとっても重量軽減は原則のひとつであるのは当然である。そして、飛行機設計には他にも色々な要求があり、機種によっても要求の優先順位は異なるので、それらのバランスが設計の妙であろう。それを、重量軽減しか教えない、というのは余りにバランスを欠いている。それは技術者に必要なプリンシプル、というものではなかろうと思うのである。

 また、零戦の技術的特徴をいくつか列記しているが、引込み脚や翼の捩じり下げなど、そのほとんどが日本でも外国でも既知のものである。捩じり下げの効果の説明は間違いであるし、沈頭鋲を「ネジ」としているのもいただけない。簡単に確認できるミスである。

零戦は客観的に見れば、隼などの同時期の日本機に比べても格段に優れたものではない。大東亜戦争緒戦の日本戦闘機の優位は、支那事変で実戦を経験した、熟練パイロットの技量に負うところが多い。また隼の戦果さえ米軍は「ゼロ」と恐れていた節さえある。要するに著者は零戦神話に眩惑されている。前述のように書評にはなってないが、これでやめておく。