毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

映画・平成狸合戦ぽんぽこ

2019-07-02 15:43:24 | 映画

 かのスタジオジブリのアニメ作品である。恐ろしい場面があったので紹介する。もちろんストーリーはニュータウン開発に反対する狸の物語である。狸たちは工事を妨害するために、色々なものに化けて、資材などを運搬するトラックに事故を起こさせる。その結果運転手三人が死亡する。寺の住職の狸が犠牲者を悼むとして念仏を唱え始めると、初めは神妙にしていた狸たちは、笑いをこらえきれずに涙を流し笑いだし、皆ではしゃいで解散してしまう。

 恐ろしい場面ではなかろうか。いくら自然破壊の開発に反対すると言っても、庶民の代表の労働者を故意で事故死させたのを、悼むどころか喜んでいるのだ。庶民でも権力に使われる者は殺されても仕方ない、という思想があろうかと疑う。これを見たとき同じような場面のコミックを思い出した。

作者は「夏子の酒」の作者であると言えば分かるだろう。「ぼくの村の話」という成田闘争をモデルにしたコミックである。反対派に襲われた三人の若い機動隊員が殺される。これは事実である。一方で反対派の若者が続く闘争を苦に自殺する。不可解なのは、青年の自殺については事細かく描くのに、殺された3人については事実関係しか描かない。平成狸合戦ぽんぽこで3人の権力側の犠牲者が出たというストーリーは、僕の村の話に、出てきたのをまねたのではなく、成田闘争で機動隊員が3人殺された、という事実を下敷きにしたものだろう。

 著者の心持ちには殺された機動隊員を悼む気持ちがないようにしか読めない。三人の機動隊員殺害は成田闘争で本当にあった話で、史実は、計画的に待ち伏せされた上、残虐なやり方で殺されたのである。そうして当たり前だが若い機動隊員にも死を悲しむ親族はいたのである。

  平成狸合戦ぽんぽこの一場面の違和感と殺意への恐怖感で、このコミックを思い出した。日本人は敵対した勢力でも、死んでしまった者については敵味方の差別はせずに悼む崇高な本能がある。その本能が失われた日本人の偶然ではない発生に日本人の変質を感じて恐怖した次第である。

 実は、小生は当時「ぼくの村の話」の編集部に、機動隊員の殺害と闘争の自殺者の扱い方のアンバランスについて異見を送った。すると尾瀬あきら氏本人から返信が来た。この誠意は是とする。しかし、内容はいかに理不尽に権力側が自殺に追い込んだことを一生懸命説明するだけで、機動隊員殺人について一言の言及はなかった。尾瀬氏も日本人の本能を破壊されたのである。尾瀬氏は「夏子の酒」のような日本的情緒のただよう作品を得意としているにもかかわらず、、日本への憎悪を描く。これと共通する人がもう一人いる。加藤登紀子である。彼女は「知床旅情」のような日本情緒に富んだ歌を歌う。しかし、彼女は、かつて週刊誌に「日本という言葉」への嫌悪を表明した。要するに、宮崎駿、尾瀬あきら、加藤登紀子の3人には、民族本能が破壊された、という左翼人士に共通する点がある。

なお、宮崎駿は平和主義を標榜するが、性格的には好戦的人物と推察する。それは、宮崎作品に登場する兵器は、実在のものをモデルにしており、しかもナチスドイツの兵器が多い。また、模型雑誌で空想戦車の模型作品コンテストの審査委員長をしたことがある。宮崎氏は一種の武器マニアである。それも無意識的好戦的信条を内蔵するタイプに思える。

 

 


荒れ野の40年は謝罪ではない

2019-07-02 15:28:42 | 歴史

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◎ドイツ民族には罪がなく、悪いのはヒトラーだけ

 左翼の人士が日本は過去の歴史について比較して、日本は謝罪していないが、ドイツは謝罪していると常に引き合いに出すのが、元西独大統領、ヴァイツゼッカーの演説「荒れ野の40年」である。ところが岩波ブックレット版で仔細にチェックした結論は、実は謝罪などはしておらずドイツ民族の弁明である事が分かる。つまりヴァイツゼッカーが意図した「謝罪しているふりをしながら何も謝罪しない」という事に見事に引っかかったのである。いや引っかかった振りをして日本を糾弾する愚かな人たちである。
 第一にこの演説には謝罪するとか申し訳ないとかいうように、明白に謝罪を意味する言葉はただのひとつも使われていないのである。それだけでも謝罪していないと言う明白な証拠である。だからこの演説によって謝罪に伴う新たな賠償が発生する事はなかった
 全部を通じての特徴はドイツ帝国が行った「悪事」を全てヒトラー個人の責任にしている事である。最大の悪事とされるユダヤ人種の抹殺についてすら「この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。」と断言する。ホロコーストですら、ドイツ国民は何も知らずヒトラーと取り巻きの少数の悪人の犯罪だ、と言ってのけるのである。
 そして「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。」とさえ言う。地下鉄サリン事件は麻原をボスとするオウムの人たちの犯罪であって、日本民族は関係ない、という論理と同じある。ヒトラーを国内犯罪者の一人として追及しているのに過ぎないのだ。
 「今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれていませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。」とも言う。
 ほとんどのドイツ人に罪がないばかりではなく、ドイツ人に罪を認めよなどと言う外国人は人間の情けの欠落した人であるとすら抗議しているのだ。そう自己主張するのは都合が悪いのは充分承知している。だから「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けなければなりません。全員が過去からの帰結に関りっており、過去に対する責任を負わされているのであります。」と言ってみせる。
 ドイツ人は罪がないが、ヒトラーたちの犯罪に対する責任は引き受けてやるというのだ。罪を犯してもいないものが、その責任をとると言うのは謙虚に聞こえるが、自分たちは罪がないと言っているのだから、責任を取ってあげるほどの善人だという傲慢さが隠れている。なぜなら罪がないなら責任を取る必要はないからだ。責任を取るというのはドイツがナチスの被害者に対して個人補償している事をいっているのであろう。
 ところがこの本の解説では、次のような事を村上という日本人の大学教授によって書かれているのだ。

 たとえばわが国の「教科書問題」その他においても明らかになったように、国や民族の罪責は、威信や面子のために覆い隠されるのがふつうである。・・・ヴァイツゼッカー大統領の、この無防備ともいえる(それだけに一層心にしみる)率直さはどこから来たのか。

と書く。この人の読解力はどうなっているのだろうか。ヴァイツゼッカーははっきりと、一民族に全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません、とドイツ民族の罪を否定しているのに。無防備どころがドイツ民族をホロコーストの罪の責任から防備しようとしているのは明瞭ではないか。ドイツは謝罪していると言う絶対的な先入観念に囚われると、こうも間違ったことを平気で言えるものなのだろうか。

謝るとは言わない、ただ思い浮かべるだけ
・・・ドイツの強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人を思い浮かべます。・・・から始まって、戦いに苦しんだ全ての民族、虐殺された人々、銃殺された人質、レジスタンスの犠牲者、などをあげて、これらの人たちに「思い浮かべます」と言っているのに過ぎない。これらの人たちに「謝罪する」とは決して言わない。
 思い浮かべるだけなのだ。それに対して、済まないとか悲惨だとか具体的に、どう思うかは絶対に言わないのだ。それどころか、これらの犠牲者のうちにドイツ人も入っているとさえ言っている。そしてドイツ人だけに対しては、単に思い浮かべるのではない。

 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で、捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス・・・これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。

 つまり外国人に対しては単に思い浮かべるのに過ぎないのに、ドイツ人には悲しみや敬意という感情を持って思い浮かべるというのだ。何という自国民だけに対する贔屓であろう。何とホロコーストの犠牲者に対しては何の感情も表明しないのにドイツ人には最大限の同情を表明している。なんという事だろう虐殺されたユダヤ人に対して哀悼の意さえ表明しないとはどういうことだ。思い浮かべる、と言うのは最大限の表現だと、かの教授なら言うかもしれない。それならば、同胞に限って、哀しみのうちに思い浮かべる、などと余計な形容詞を付ける必要はないのだ。
 この演説には「ナチスの悪事」に対するコメントは必ず「思い浮かべる」とか「心に刻む」という言葉が使われているのが特徴である。これらは単に記憶している、という事実を言っているのであって、それに対する何の感情も表明してはいない。謝罪どころか遺憾であるとさえ言わないのである。
 ドイツ人は論理的な民族であると言われる。だからヴァイツゼッカーの言葉はこのように論理的に解釈すべきなのだ。聞いた国民もそのように正確に解釈したのに違いないのである。
 唯一罪を認めている箇所がある。

・・・第二次大戦勃発についてのドイツの罪責が濠も軽減されることはありません。

 第二次大戦が起きたのはドイツが悪いと言っているのだ。せいぜいそれだけなのである。戦争による犠牲に対してドイツが悪いとは言わない。その事は、色々な犠牲者を例示する時に必ずドイツ人の犠牲者もあげていることからもわかる。そして開戦の罪があるといいながら、独ソ不可侵条約に言及して、きちんとソ連も一緒にポーランド侵攻を行ったと、ソ連を非難する事を言っている。これは開戦の原因になったポーランド分割について、ソ連にも同等の責任があると、言っている。つまり戦勝国のソ連の責任にも言及している。

◎連合国だって悪い事をしている
 そしてイギリスの一教師の例を挙げる。この教師は英爆撃機に搭乗して、教会と民間住宅を爆撃したとの告白の手紙をこの教会に出して、和睦の証を求めたと言うのだ。つまり戦争ではドイツばかりでなく、連合国も民間人を不法に爆撃するという悪い事をしてるぜ、と言っているのだ。このように相手には容赦なく批判しているのだ。言辞は穏やかだが内容は痛烈である。
 狡猾なのは、他の箇所では言及の対象をドイツ民族とか、ドイツ人とか対象を明瞭にしているのに、唯一罪責と言って罪と責任に言及している箇所では、ここでは国だか民族だかはっきりしない、ドイツとだけ言っている事である。このドイツとは当時のドイツ国家つまりナチスの支配するドイツであるから、結局開戦の罪責もヒトラーにかぶせているのに過ぎない。
 そしてドイツの被害についてもちゃんと言及する。

 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万人のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく・・・
不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合わせをしてあげるわけにいかない人びとなのであります(拍手)。

 これはソ連がポーランド領を奪い、その代わりにポーランドにドイツ領を与えてドイツ人を追放したことを言っている。移動させられたロシア人もポーランド人も被害者だと言うのだろうが、ここでもドイツ人だけが、強いられた、と被害を強調している。この侵略行為をしたソ連の罪は補償できないほど大きいと言っているのだ。そして聴衆からは拍手である。聴衆はソ連の罪をきちんとヴァイツゼッカーがきちんと糾弾したのを理解して、喜びの拍手をしているのである。

◎ヒトラーの悪事の原因は彼を選んだドイツ人ではなく、脆弱な民主主義
 そのヒトラーを民主主義の手続きにより選んだのは、ドイツ国民であった。そして次々と領土を回復しさらに拡大したヒトラーを拍手喝采して迎えたのはドイツ国民であった。しかし演説は、

 脆弱なワイマール期の民主主義にはヒトラーを阻止する力がありませんでした。そしてヨーロッパの西側諸国も無力であり、そのことによってこの宿命的な事態の推移に加担したのですが、チャーチルはこれを「悪意はないが無実とはいいかねる」と評しております。

 という。つまりドイツにあってヒトラーを誕生させ悪事を働かせたのは、ドイツ人ではなく、脆弱な民主主義であると責任転嫁する。反面、チャーチルの言葉を引用して、ヨーロッパ諸国はヒトラーの悪事に間接的に加担したと糾弾するのである。見事な責任転嫁と回避であるではないか。これがどうして自らを悔いるものの言であり得ようか。

◎ドイツ人がユダヤ人を嫌うのは当たり前
 ヴァイツゼッカー演説の最後は実に奇異である。若い人にお願いしたい。他のひとびとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることにないようにしていただきたい。と前置きしてひと語りする。敵意や憎悪の対象とはだれだろうか。ロシア人、アメリカ人、ユダヤ人、トルコ人、黒人、白人だと言っているのである。
 つまり今のドイツ人はこれらの人々に悪感情を抱いているというのである。でなければ憎悪するなとドイツ国民に説得する事はありえない。なんとこのなかにはホロコーストの被害者のユダヤ人も含まれている。奇異だと言ったのはその事である。ドイツ民族はユダヤ人を憎悪する理由があると言っている。ヴァイツゼッカーはこれらの人たちに謝罪していると言われるのだが、なぜわざわざ憎悪するなと言うのだろうか。
多くのドイツ人はこれらの人たちを憎悪する理由があると考えているからだ。ヴァイツゼッカーはドイツ人がこれらの人々に憎悪を抱くのは理由のある当然の事だが我慢せよ、と説いているのである。謝罪ならどうして最後に、わざわざこんな事を言わなければならないのだろうか。そしてしめくくりの言葉は「今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。」と言うのだ。
真実を直視することが謝罪する者ばかりにではなく、常に正しい事を行っている者にも言える真実である。つまりヴァイツゼッカーは謝罪しているのではなく、高見に立って教訓をたれているのだ。
 
◎不見識な日本の政治家に比べ、政治家として立派なヴァイツゼッカー
 私はヴァイツゼッカーを非難しているのではない。むしろ政治家として賞賛している。戦後ドイツは侵略とホロコーストのひどい民族として非難にさらされてきた。それに対して、謝罪しているかのような体裁をとりながら、実はドイツ民族の弁明をしているのである。日本の政治家のように一方的に日本の過去を弾劾して得意になっている愚かな者たちと違い、ドイツ民族を狡猾な言辞を持って保護しようとしているのだ。
 ヴァイツゼッカーの深謀遠慮が成功した事は、その後の経過から分かる。村山元首相の謝罪談話はその後も日本を非難する材料として、国内外から蒸し返されるが、ヴァイツゼッカー演説はそのような利用はされていない。しかも愚かな日本人と違い、賢いドイツ国民は、この演説をドイツ非難の言葉として利用する事は皆無である。
 このような狡猾さは、正に危機にある民族の政治家に求められる資質である。愚かな日本の政治家はできるだけ誠実に謝罪しさえすればよいと、小学校の級長さんより愚かな事を考えている。だが現実には謝罪すればするほど日本の立場が悪くなっているのは現実ではないか。この状態が続く限り、日本民族は滅びの道を歩んでいる。ドイツ民族は絶望からの脱出の道を歩んでいる。まさにこの点こそ日本はドイツに見習うべきなのである。

 ドイツは日本と違って謝罪していると主張する人に言う。岩波ブツクレットのヴァイツゼッカーの演説「荒れ野の40年」を子細に読むがよい。