毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

皇紀とは

2014-06-28 12:55:38 | 歴史

 戦前の日本政府は、昭和十五年を皇紀二千六百年と定めた。現在ではこのことは、国粋主義に基づく軽率な行為だと批判されている。確かに長い間使われてきた従来の年号に比べれば、軽率の誹りを免れない。しかし、年号と皇紀とは共通点がある。共に、日本より優れていると考えられていた文明のやり方を日本風に取り入れたのである。

 元号は支那の王朝の真似で、皇紀は西暦の真似である。支那大陸の元号は、多くの場合、何かの区切りをつけるために改元していたから、それを真似たのである。朝鮮は大陸の王朝の元号をそのまま採用していた場合が多かったから、固有の元号を制定した日本の独自性がある。

 元号は明治維新から、一世一元に改められて、それまでのように頻繁に変えられないにしても、西暦は一貫しているから、経過年数の計算などに便利に感じられたのであろう。それでも、そのまま採用せずに、天皇を起源としたところに工夫がある。しかし、元号を廃止しなかったから、結局は廃れることになった。日本が戦争に勝ったとしても、元号は廃止されることはなかっただろう。

 結局皇紀は、高揚した日本の気分の象徴となった。都内の神社巡りをすると、多くの神社の陸海軍軍人が神社の名前を揮毫した、石碑が見られる。その年号はほとんどが皇紀二千六百年と記されていて、それ以前のものは見られない。正に時代の反映である。しかし、ある神社では石碑の表の社名だけはそのままなのに、裏の揮毫の部分を削ってコンクリートで埋められていたのは、卑屈としかいいようがない。皇紀を使ったのが軽率ならば、戦争に負けたからと言って、隠してしまうのも同様に時代に迎合した軽率さの現れである。削らずに残している神社の方を範としたい。欲を言えば揮毫の由来などの説明文があれば申し分ない。


やる気のない栗田の水偵放棄

2014-06-23 15:25:22 | 大東亜戦争

 左近允尚敏氏の捷号作戦はなぜ失敗したのか、は著者の経歴によって類書とは隔絶した評論となっている。全般については、別途述べるとして、ここではひとつだけ考えてみたい。それは、栗田艦隊が、故意に艦載の偵察機を射出して基地に帰してしまったことである。「栗田艦隊司令部は二十三日午前と二十四日の朝、艦隊の水上偵察機四〇機以上を手放してしまった。」(P319)とあり、草鹿参謀長は、その理由をブルネイから出撃する際には警戒を厳重にしなければならないので、水偵のほとんどをミンドロ島に進出させ、艦隊の航路の対潜警戒にあたらせることになった、という。

 ところが対潜哨戒は行われず、逆に米潜に自由に跳梁されているから話にはならない。栗田の参謀としてこの指揮をとった小柳少将は、戦後の著書でサマール沖海戦について「惜しいことに飛行機皆無の栗田艦隊はこれ(レイテ湾)を確かめる方法はない、と書いて著者に「手放した責任者の『惜しいことに』は驚かされる。」(P320)と無責任さに呆れている。他人事のような無責任の言動に腹が立ったのである。戦死せずレイテ湾から逃げ帰った艦隊の幹部には、このような人物が多数いる。

 著者は水偵がいれば危険な任務だが、スコールと煙幕を利用すれば米護衛空母艦隊の状況はかなり把握できたろうと惜しんでいるが、その通りで、これこそが艦隊に艦載機を搭載した本来の任務だからである。艦載機は海戦中に弾着観測や敵艦隊の状況把握のために搭載されているのである。その艦載機のほとんどを出撃直後に手放したのは、栗田艦隊の司令部が初手から海戦をやる気がないことを証明している。

 善意に解釈すれば、栗田艦隊は艦載機搭乗員の命を惜しんだのであろう。水偵は複座の零式観測機か、零式三座水偵だから、四〇機ならば、搭乗員は100人前後にもなろう。搭乗員としてはかなり大勢である。海戦中に敵艦隊に向かって行った艦載機は敵戦闘機の迎撃を受け、帰還できる見込みは少ない。まして、このときは、水偵をカバーする零戦は一機もいない。海戦中に帰還したところで、停止できる艦はいないから、見捨てられる。それならば、いっそ帰してしまえと考えたとしても不思議ではない。不思議ではないが、何としても敵艦隊に勝つという戦略が感じられない。


日本海軍の年功序列

2014-06-22 11:05:28 | 軍事

 「捷号作戦なぜ失敗したのか」を読んでいるのだが、以前書評で「ミッドウェー」を紹介したが、運命の五分間が全くの嘘であることを単純明快に証明していたので、期待していた。著者の左近允氏は海兵出身だが、尉官までしかいっていないので、日本海軍に対して公平な眼とプロの眼が感じられる。

 比島沖海戦での栗田艦隊の「謎の反転」について、「視界内にある『機動部隊』との決戦は打ち切り、どこにいるか分からない新たな機動部隊を求めてこれと決戦するのでは理由になっていない。」(P347)と断ずる。これは小生と全くの同意見だが、日本人が書いた図書では初めて見た。また「栗田艦隊の『敵機動部隊との決戦を求めて北上』は本音であったら夢であったし、本音でなければ撤退の言い訳であろう。」(P351)と酷評するが、実態は後者に間違いない。何度でも言うが、栗田は逃げたのである。

 閑話休題。捷号作戦において、弱体とはいえ戦艦二隻の西村艦隊と、重巡と駆逐艦しかいないさらに弱小の志摩艦隊をわざわざ分けて別行動をさせた上に、同時にスリガオ海峡を突破し、レイテ湾に突入させたかが、疑問であった。同時突入は成功するはずはなく、志摩艦隊はわずかな損害を受け、西村艦隊が全滅したらしいと判断すると、反転離脱してしまうのである。

 本書によれば、連合艦隊が両艦隊を一つの部隊として突入させるなら、指揮系統はひとつにしなければならならず、志摩長官は西村司令官と同期だが半年先に中将になっているから、合同部隊の指揮官は志摩長官となる。「・・・突入の直前になって戦艦二隻を基幹とする部隊の指揮官を、重巡二隻を基幹とする部隊の指揮官の下に入れることは、連合艦隊司令部としてはできなかったのではないか。」(P260)というのである。

 要するに先輩の方が小部隊を率いているから、後輩であれ大部隊を率いると、捻じれが生じるというのである。志摩は西村と同期なのに、わずか半年先に中将になっているから先輩扱いなのである。これは作戦の成否よりも、年功序列やメンツを重んじる発想である。日本海軍は、機動部隊をマリアナ沖海戦で喪失し、エアカバーのもとで艦隊行動して勝利する、という見通しは完全に無くなった。

残っていた艦上機すら陸上に挙げて、台湾沖航空戦で失って、空母搭載機を喪失した。そこで乾坤一擲、いままで上陸作戦に対して主力艦隊による反撃をしてこなかった方針を捨て、連合艦隊の全力で出撃した。にもかかわらず、作戦の遂行の有利さより、年功序列とメンツを重んじたのである。

 だが、これに一理なくもない。日本人の勇猛果敢な精神は、このように安心して働ける年功序列とメンツに基盤を置いていると言えなくもない。まして、明治以来建軍の伝統が確立すると、軍人の、特に幹部は官僚的になったからである。海軍は特にハンモックナンバーを重視した。軍人として武人らしさを残していたのは、兵学校出身者のエリートでは、山口多聞など、わずかしかいなかった。

 指揮官の配置を急に変えるのが不都合なら、後輩となる志摩長官を、西村司令官の指揮下に入れるべきではなかったか。まして戦勝のゆとりがあるどころか、連合艦隊ひいては、国家存亡の一戦である。もし、連合艦隊司令部が事情を説明せずとも、志摩長官は士官を集めて、国家存亡の危機打開のため、西村部隊の指揮下に入ることを諄々と説明すればよいのである。

 だが本書は志摩艦隊と西村艦隊が合同して突入できたとしても、両部隊は大した戦果もあげず全滅したであろう事を説明している。せめて、志摩艦隊が帰還しただけよかったというのである。結局連合艦隊の作戦計画そのものに無理があったのである。しかし、批判する者は無数にいるがマリアナ沖海戦に敗北し、フィリピン上陸した米軍に、日本海軍は捷号作戦をいかに立案すべきか、という計画を提示した者はいない。小生は、日本海軍は正攻法にこだわり過ぎたのではないかと考える。日本海軍が優勢であった、開戦直後に米海軍が行った、ゲリラ的作戦しか残っていなかったと思うのだが、素人の小生には具体的な案はないのが情けない。

 捷号作戦に勝機はなかったにしても、マリアナ沖海戦に勝機はあったのだろうか。航空攻撃するならば、艦上機による先制攻撃しか戦法はしなかったにしても、そもそも艦上機による敵艦隊攻撃があの時点では無理があった。南太平洋海戦でも、ろ号作戦でも米艦隊の艦隊防空は鉄壁で、ますます強化されていることは戦訓として知られているはずである。そこに正面きって強襲しても、マリアナ沖海戦の時点では、状況はますます不利になっているのは知れている。いや、末端の将兵はともかく、幹部が彼我の防空体制の隔絶した能力差に気付いた節はない。

勝機があったとすれば、空母搭載機を零戦と偵察機だけにして、水上部隊のエアカバーと索敵だけに徹し、その保護の下に戦艦群は射程内に肉薄し、攻撃は戦艦と巡洋艦による砲撃と、駆逐艦による雷撃に徹するしかない、と考えられる。海軍はハワイ・マレー沖の勝利以来、攻撃は航空攻撃しか行わなくなっていた。


義勇軍が戦車‼

2014-06-15 14:04:06 | 軍事

 平成26年6月13日の産経新聞によれば、ウクライナにロシアから国境を越えて戦車や軍用車両が運び込まれている、と報じた。記事はプーチン大統領が国境警備の厳格化を命じたのにもかかわらず、ウクライナ東部には、ロシアからの武器や義勇軍の流入が続いていることになる、と続けている。

こんな馬鹿な記事はあるものか。戦車を運用するのに必要なのは戦車の乗員ばかりではなく、整備員や各種の補給が必要である。それを民間人であるはずの義勇軍にできるはずがない。そんなことを言わずとも、戦車や武器をどこから持ってきたというのだ。義勇軍がロシア軍の武器庫からかっぱらってきたとでもいうのか。もし、プーチン大統領が禁止しているにもかかわらず、これらの武器や兵士が搬入されているとしたら、死刑ものである。プーチン大統領の指揮の下に行われているのは間違いがない。

昔アメリカも似たようなことをしたのは有名である。義勇軍と称して、戦闘機とパイロットが支那事変に参戦した、空軍のフライングタイガースである。当時、最新の戦闘機とパイロットや整備要員その他を派遣するのは、アメリカ政府にしかできるはずはない。現在は色々な証拠から、大統領命令により陸軍航空隊のパイロットと整備員や戦闘機が支那に持ち込まれたことは明らかにされている。

 ロシアの侵略のターゲットは、クリミヤ半島だけなのか、現在紛争中の東部と南部までなのか、ウクライナ全土なのか。いずれも可能性があり、欧米諸国の様子を見ながら柔軟に対応するであろう。最低限度でも東部と南部での内戦は、これを収める代わりにクリミヤ半島の支配を確実にするための取引材料としても使える。


日本は集団的自衛権を行使していた

2014-06-07 13:59:39 | 国防

 日本は集団的自衛権を行使したことがある、と言ったら意外だろうか。そもそも、日本が昭和二十年の八月十五日以後戦争に参加していない、というのは国際法に無知な所以である。参戦とは、直接に戦闘に参加するだけではない。参戦国への軍需物資の提供、基地の提供はもちろん、参戦国の軍隊の通過を許してしまうことさえ、国際法では戦争に参加していると見做される。

 戦争に参加しない中立国の要件とは、中立を守れること、すなわち交戦国の軍隊の通過をすら排除できることである。永世中立国のスイスが実は重武装である原因のひとつが、中立を守るためである。こう考えれば、日本が朝鮮戦争やベトナム戦争に参加していなかった、とは言えないのである。両戦争で日本は基地提供と軍需物資の提供を行っている。戦闘に参加していなかっただけのことである。朝鮮戦争においては、機雷の掃海という準戦闘行為にさえ参加している。

 朝鮮戦争は国連決議による国連軍対中共と北朝鮮の連合軍との戦争である。米軍すなわち国連軍であったから、日本は国連憲章の集団的自衛権に基づき参戦した、と国際法上は解釈するしかないのである。それでは、北朝鮮も北ベトナムもなぜ日本を攻撃しなかったのか、と。皆さん勘違いしてはいませんか。両国とも日本を攻撃したくても攻撃する能力がなかっただけなのです。

 米国民は、真珠湾攻撃が行われるまで、第二次大戦への参戦に反対であった、というのは常識であるが、大間違いである。ルーズベルト大統領は、英国が危機に追い込まれると武器貸与法を作り、大量の武器弾薬を英ソなどに供給した。それ以前から英国に大量の駆逐艦を提供するなどして、援助していた。それどころか、軍需物資を輸送する船団を攻撃しようとする独潜水艦を攻撃した。これらのことは、米国内秘密でも何でもなかった。公然と報道され、議会でも議論されていた。しかし、マスコミも米国民も戦争になるから反対だと言わず、大勢は政府を支持していた。これは反戦国民のすることではない

 日本が戦後高度成長をすることになった切っ掛けは、朝鮮戦争による「朝鮮特需」であることは常識である。特需とは「軍需物資」の隠語として発明されたものであるのは、いかにも日本的です。経済大国日本も朝鮮戦争、ベトナム戦争のおかげなのである。ちなみに、戦前の米国の国際法の大家は、経済制裁は戦争行為であると公言していた。イラクがクェートに侵攻し、クェートから撤退しなければイラクを攻撃すると、米国が宣言すると、反戦団体は経済制裁で充分ではないか戦争はするな、と言っていたが、戦争と経済制裁は五十歩百歩なのである。北朝鮮に対する経済制裁もかく考えなければならない。戦争する覚悟なくして、経済制裁などしてはならないのである。