毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

映画スリーハンドレッド

2020-04-11 15:00:00 | 映画

 本稿は映画をネタにしているだけで、絵画評と呼べるものではないことをまず、一言しておく。この方面の歴史に詳しくはないが、「スリーハンドレッド」はギリシア対ペルシアのテルモピレーの戦いを描いたものだそうである。注目されるのは、映画の内容そのものよりも、その背景である。戦いは、ペルシア帝国とギリシアのスパルタとの戦いである。ペルシア帝国と言えば、エジプトを含み、アラビア半島を除く現在の中東諸国を統一した世界帝国である。これに比べればギリシアなどはちっぽけな存在である。現在もこれらの地域の住人はペルシア帝国の末裔を持って任じている。

 一方でアメリカ人はギリシア人の末裔ではない。しかし、この映画では、わずか3百人で、百万のペルシアの大軍と戦争するに当たって、王レオニダスなどに何回か「自由のため」と言う戦争の意義を語らせている。すなわち、自由のための戦争、と言うのは現在までのアメリカが掲げている戦争の大義である。実際に国王が自由のため、と言ったかは知らない。映画は、自由を戦争の大義に掲げることによってギリシア人をアメリカ人に擬しているのである。

 このような事はアメリカ人が古代ギリシア・ローマの戦争の歴史を映画にするときに、よく行われることである。例えば、ブラッド・ピット主演のトロイなどである。するとペルシア帝国とは何か。現在で言えば当然アメリカに敵対している、アフガンのゲリラやイラン、イラクであろう。その事は作られた時期でも分かる。作られたのは2007年である。それ以前から現在に至るまで、旧ペルシア帝国領にいるイスラムのゲリラやイランの核開発はアメリカを悩ませている。

 北朝鮮の核開発より何よりも、現在のアメリカを悩ませているのは、これら中東の地域である。9.11の自爆テロ、湾岸戦争、イラク戦争、アフガンでのテロリストの掃討作戦などがその象徴であろう。この映画は、アメリカはこれらの苦難を戦い抜く、という決意の表明でもあろう。もちろんこれは国策映画ではない。しかし国策映画ではない事自体が、アメリカの民間にもそのような気分を受け入れる素地がある事を示していると言える。

 ベトナム戦争の後には、戦争関連の映画と言えば、トム・クルーズ主演の「7月4日に生まれて」のような、反戦あるいは厭戦気分に満ちた映画ばかりだった。この映画のように、自由のためには命を賭けて戦うなどという映画はついぞ作られた事がない時期が長く続いた。アメリカはベトナム戦争の後遺症を脱却したように思われる。そのきっかけは湾岸戦争であると私は考えている。もちろん強硬派と考えられるトランプ大統領ですら、イランなどとの地上戦を忌避しているのは、世界的流れでもあろう。

 湾岸戦争が始まったのは、ソ連の崩壊の直後であった。あるいは冷戦に勝利した事による自信の回復が、間接的にはアメリカが湾岸戦争に踏み切る事ができた理由のひとつであろう。日清日露の両戦争の指導者が幕末の戊辰戦争などの実戦に前線で戦った経験があったように、湾岸戦争の指揮官の父ブッシュは大東亜戦争に艦上機パイロットとして参戦している。このこともブッシュ大統領の積極性に関連しているのかも知れない。

 ちなみに父ブッシュはアベンジャー雷撃機に搭乗して日本軍に撃墜され、ようやく救出されるも同乗者を喪失している。他にもケネディーが魚雷艇の艇長として日本軍に撃沈されて、終生も戦傷の後遺症に悩まされた。ジョンソン元大統領も太平洋戦線で爆撃機に搭乗し、撃墜王坂井三郎にあやうく発見され撃墜されそうになった経験がある。このように3人もの元アメリカ大統領が日本軍との戦いでからくも助かった経験がある、というのは偶然ではない。それに対して欧州戦線で際どい戦いを経験した元大統領はいないから、巷間言われているように、日本軍との戦いも楽ではなかったのである。

 閑話休題。湾岸戦争はアメリカ得意の圧倒的な機械化兵力で、イラク軍を蹴散らしてしまった。この時の損害が僅かであった事が、ベトナム戦争で喪失したアメリカの戦争に対する自信を回復させたのだろうと私は思っている。何よりも有力な兵器を惜しみなく使って兵士の損失を減らすと言うのが米軍のポリシーなのだから。それに引き換えベトナム戦争は敵地に進攻できないという足かせの元、ジャングルのゲリラ戦という白兵戦に頼らなければならない戦争に引き込まれてしまったのである。私はSF映画ですらアメリカの戦争映画では、弾丸を惜しみなく打つのを見ると、日本軍にもこんなに豊富に弾薬があったら、と悔しい思いにかられる。

  付言するが、大東亜戦争で陸軍は根本において補給を軽視したわけではない。悪評高い牟田口廉也ですら、最初は補給の困難のためインパール作戦に反対したのである。これにひきかえ海軍は、日露戦争以後、そもそも装備において補給線の保護と言うことに着目した形跡がない。これは、艦隊決戦至上主義であったため、戦闘に必要な弾薬物資は、基本的に戦闘艦艇に搭載していればよいから、補給と言うことを考慮する必要性が少ないと考えられたからである。


映画・スリーハンドレッドとは何か

2019-09-13 15:33:54 | 映画

映画・スリーハンドレッドを歴史から見る

 ギリシア遠征のペルシア軍に300人の精鋭兵士で迎撃するスパルタ王、レオニダスの絶望的な戦いの物語。例によってストーリーはさておく。ギリシアとペルシアの対比は何を意味するか。現代とのアナロジーがそこに隠されている。ギリシアとは西欧であり、ペルシアとは中東のイスラム諸国である。そしてペルシアを迎撃するギリシアの1国家スパルタとはアメリカに他ならない。すなわち現代のイスラム教徒のテロと闘うアメリカを表現している。

 これは考えすぎではない。王に援軍をと議会で演説する王妃は、自由と正義のためにと熱弁を振るう。これは現代アメリカの理想でもある。そして300人の軍団のなかで、王の命令で軍団の戦いを伝えるよう命令されて生還した一人の兵士は、神秘主義と暴君への戦いを民衆や兵士に語り続ける。

 アメリカもキリスト教国家が根底にあるが、表面的には理性化されて宗教は陰を潜めている。それに比べ宗教の教義が即法律であるイスラム国家は、日本や西欧諸国には神秘主義としかいいようがない。そして湾岸戦争当時のフセインのような独裁者。イスラム諸国とは西洋人には神秘主義と暴力の支配する世界である。

 この映画は政府のプロパガンダではない。しかし民間でこのような映画が作られることは、多くの米国民は政府のイスラムとの戦いを支持していることを証明している。その象徴がこの映画である。硫黄島の戦いのアメリカ映画も現代アメリカの戦いを支持していることの証明である。硫黄島の戦いはアメリカにとって苦しい闘いであった。それを勝ち抜いたのは彼らの誇りである。その意気を現代に投影しているのである。ブラックホークダウン、プライベートライアンなども同様である。

 ギリシアは西欧諸国の前身ではない。DNAや文化において断絶がある。しかしルネサンス、文明復興といったように、西欧諸国はギリシア、ローマの末裔と嘘をついている。そこでギリシアより文明文化、あらゆる面ではるかに強大ですぐれたペルシア帝国を世界史の刺身のつまにし、弱小なギリシアを主人公にするというインチキを今もしている。

 そしてこの映画である。レオニダスらの最後の闘いは、明らかに勝つことを目的としていない。盾も兜も捨てて弓矢の前に身をさらして前進する。名誉ある戦死。それはアメリカとの日本軍の絶望的な闘いが背景にあるようにすら思われる。私は希望をつなぐ。この点において日本とアメリカには戦争観において、共通の価値観があるのではないか、と。軍事同盟する共通の価値観があるのではないかと。

 映画スリーハンドレッドのスパルタ戦士は米軍のアナロジーだと前述した。それはディティールでもいえる。むしろ史実として残されていないディティールを想像で描くからこそ、米軍の行動パターンのアナロジーが顕在化する。戦闘のディティールが歴史的記録に残されているものは少ないだろう。つまり映画の脚本家によるディティールは史実ではなく、脚本家自身の考え方そのものであるのだ。


 とりあえず戦闘が休止した場面で、スパルタ王レオニダスは敗れて転がっているペルシア兵に止めを刺すことを戦士に命じる。戦傷で苦悶するペルシア兵に次々に剣を突き立てて殺す。これは合理的ですらある。大東亜戦争の太平洋の島々の戦闘でも、米軍により同じことが行われた。戦争の常識として、戦死者1名に対して戦傷者は2~3名程度発生する。


 ところが日本軍の玉砕では千人の死者に対して数人しか生存しない。これは尋常ではない。たとえバンザイ突撃して機関銃で掃射されても、被弾して戦闘不能になっても、その中で即死しているのはわずかなはずである。致命部分に弾丸を受ける確率は低いからである。まして怪我しても「人道的な米軍」が負傷した日本兵に戦闘後治療を施せば多くが生命だけは助かる。


  ところが太平洋の島々での戦闘では圧倒的多数の日本兵が死んでいる。とすれば米軍は、スパルタの兵士と同じく、戦傷した日本兵に止めを刺したのである。これは想像ではない。米軍、ことに海兵隊の指揮官は、日本軍の捕虜は取らないという方針を明言した記録がある。国際法では厳密には、敵兵は武装解除されて収容されてはじめて捕虜と認められる。だからレオニダスの行為も米軍の行為も、国際法違反かと言えばグレーゾーンである。戦闘の継続として負傷者を刺殺したと言えなくもない。国際法では、グレーゾーンは自国に有利に、が原則である。だが、戦闘不能となった戦闘員を殺すのは、世間の常識では残虐行為である。


  人道的な米軍を信じさせられている現代日本人はおろかである。支那人やロシア人の残虐は常識である。だが米軍も、それよりまし、という程度である。スパルタの兵士の負傷兵刺殺の行為の詳細については米国人の想像に負うものである。それは米国人のセンスが投影されている。だから多くの戦傷した日本兵は米兵にとどめを刺されたのである。それが大東亜戦争の島嶼戦での日本軍の玉砕である。

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猿を自覚しない日本人

2019-09-11 17:31:48 | 映画

○猿の惑星
 テレビの洋画劇場で、猿の惑星のシリーズが再放送されることがある。私には猿の惑星という映画を日本人が喜んで見る理由が分からなくなってきた。初回の作品では気付かなかった。だが皆様、変に思わないだろうか。日本人を西洋人は何と蔑称するか考えたことがあるだろうか。

 そう。イエローモンキーである。猿が西洋人より武力を持って支配する。それでも文明は西洋人から借りたものなのだ。短い期間だがそんなことが現実に起きた。第二次大の初期に西洋人は日本人に負けて捕虜になった。

 それでひらめいたのである。そう、猿の惑星で白人に野蛮な支配をする猿とは日本人である。文明人たる西洋人が武力だけに優れた野蛮な猿に捕まる。

 それは第二次大戦初頭、日本軍に負けた西洋人の姿そのものである。このことに気付いたのは三作目あたりだった。原作者ピエール・ブール。彼は東南アジアの植民地にいて日本軍の捕虜となったフランス人である。かの「戦場にかける橋」の原作者でもある。

 「戦場にかける橋】は戦時中、泰緬鉄道でクワイ川にかける橋の工事を連合国の捕虜を使って架橋する、という物語である。この映画で描かれる、日本軍の捕虜虐待はブール自身の経験である、とされる。
 
 彼は文明人たる自分がが未開の猿たる日本人につかまった屈辱を小説にしたのである。中には良心的な猿もいる。そう。日本人だって少しは西洋人らしい良心を持ったものもいるといいたいのだ。だが大多数は野蛮な猿だ。日本人たる猿が文明人の兵器を持ったときの恐怖。それがテーマである。

 猿の惑星とは西洋人の人種偏見の産物である。後で聞くと、上映前、猿の惑星は日本ではごうごうたる非難の声が上がるのではないかと心配したという。心配は杞憂に終わるほど日本人は愚かであった

 やはりピエール・ブールは正しい。日本人は自分たちを世界に向けて侮辱されても気付かないほどおろかな猿だった

 象徴的なのはエピローグである。猿は核兵器を唯一神として扱うおろかな生物であった。それゆえ賢明な白人は核兵器の信管をたたいて炸裂させ、世界は終える。日本人に核兵器を持たせると世界の破滅になるというメッセージである。

 日本人は強くて、文明の利器を持たせるとコントロールできず、何をするか分からない野蛮人だという意識がそこにある。そのメッセージに気付かない日本人はやはり猿である。

 中国人も黒人も、インカ帝国も、インドもことごとく白人に従った。日本人だけが、白人の発明した兵器を活用して、白人の支配に抵抗した。一時的であれ白人に勝利し、結果的に、ことごとく植民地をなくしてしまった日本人は、白人の憎悪の対象である。

 日本人と同じように白人ともなかよくしようと思っているのは思い込みである。白人の憎悪に気付かぬおろかな日本人。

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映画評論・地獄の戦場

2019-07-28 20:37:07 | 映画

映画評論・地獄の戦場

 このDVDはたまたま、ホームセンターで100円(!)で買ったものである。お断りしておくが、以前ある「映画評論」をしたら、ある方から映画評論になっていない、と厳しいコメントをいただいた。そうであろう。小生は映画について語るのに、映画をあたかもノンフィクションのように、歴史や民族性の反映を読み取ろうとする、という悪癖を持っているからである。そのことを前提に読んでいただければ幸いである。なお、その方からは、映画評論以外のブログについては過分な評価をいただいたことも付言する。

昭和二十五年即ち、戦後間もなく作られた米国映画だから、戦時の気分が判っていた世代が作った映画であろう。半世紀近く前の映画ながら、「総天然色」で平成の初めの頃のビデオより、余程画質が良いのには驚かされる。

 

 海兵隊の物語で、ガダルカナル、タラワを戦ってきたというし、日本軍のロケット攻撃の偵察任務がテーマだから、硫黄島攻防戦をイメージしていると推察する。日本軍は上陸中の米軍を攻撃せず、上陸部隊をひきつけて戦闘開始していることからも間違いないだろう。

 

 上陸前の指揮官の以下のような全軍への訓示が興味深い。字幕と直訳が著しく異なるところは両方記載した。

 

 字幕:今までは殺すように指示してきた。

 英語の直訳:我々は死んだジャップは良いジャップと言ってきた。

 字幕直訳とも:捕虜獲得作戦に変更する。

 字幕:敵兵から情報を聞き出せ。

 英語の直訳:話の出来るジャップは良いジャップ。(Jap's who tells about things good Japs)

 字幕直訳とも:これは命令だ。チャンスがあれば必ず敵兵を捕らえて来い。

 

 という次第である。いままで、死んだインディアンは良いインディアン、というスラングを小生は「良いインディアンは皆死んでしまって、ろくでなししか生き残っていない」と解釈してきたが、この字幕が正しければ、誤解していたのだ。本当は「インディアンは皆殺しにしろ」という意味だったのかもしれない。

 海兵隊の指揮官やその他のいくつかの証言で、米海兵隊は捕虜を取らない方針、すなわち日本兵は皆殺しにしろと命令されていた、と言われていたが、この映画はそれを公言しているのである。

 

 最後の場面である。主人公の偵察隊長は、7人の部下のうち4人が戦死、1人が失明の重傷と悲嘆にくれる。そして、戦死した作家だった衛生兵が書きかけたメモを部下が発見して、偵察隊長に読んで、最後まで完成させるように言うが、隊長はメモを捨ててしまったので部下が皆に読んで聞かせる。字幕は聖書風にうまく訳しているのでそのまま書いた。以下の通り。

 

 私たちは自問する「なぜ生きるの者と死ぬ者がいるのか」

 答えは「神なる存在にある。生かされるには理由があるのだ。」

その理由を考えてみよう。

戦争体験者として、世界の人々に、語り継ぐ使命がある。

戦争は人類にとって脅威だと。

失った者を心に刻むんだ。

国が弱ると命が奪われる。我々は世界の一部だと自覚しよう。

弱ければ万人が弱る。自由を失えば世界も失う。

海兵隊B中隊はここに誓う。

祖国に帰れた者は苦しみを忘れず、国に力と勇気と知恵を与えるのだ。

恐れることはない。我々のそばに神はいる。

私たちは・・・。(We must・・・.)

 

メモはここで終わっている。書き終えなかったのだ。すると主人公の偵察隊長がメモの残りのようにつぶやく。

 

 わが父よ。御名が聖とされますように。御国(Heaven)が来ますように。

 みこころが天と地で行われますように。

 日ごとの糧を今日もお与えください。

 罪をお許しください。私たちも人を許します。

 試みに会わせずに、悪からお救いください。

 国の力と栄光は限りなくあなたのものです。

 

主人公の言葉はここで終わり、全軍の進撃で映画は終わる。この映画は、この言葉を語るために作られたように思われる。この一連の聖書のような言葉を何と評してよいか小生には分からない。ただこの言葉は、米国の栄光の絶頂期のものであるとともに、クリスチャンの米国人の典型的発想であろうことだけを申し添える。

 

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映画・平成狸合戦ぽんぽこ

2019-07-02 15:43:24 | 映画

 かのスタジオジブリのアニメ作品である。恐ろしい場面があったので紹介する。もちろんストーリーはニュータウン開発に反対する狸の物語である。狸たちは工事を妨害するために、色々なものに化けて、資材などを運搬するトラックに事故を起こさせる。その結果運転手三人が死亡する。寺の住職の狸が犠牲者を悼むとして念仏を唱え始めると、初めは神妙にしていた狸たちは、笑いをこらえきれずに涙を流し笑いだし、皆ではしゃいで解散してしまう。

 恐ろしい場面ではなかろうか。いくら自然破壊の開発に反対すると言っても、庶民の代表の労働者を故意で事故死させたのを、悼むどころか喜んでいるのだ。庶民でも権力に使われる者は殺されても仕方ない、という思想があろうかと疑う。これを見たとき同じような場面のコミックを思い出した。

作者は「夏子の酒」の作者であると言えば分かるだろう。「ぼくの村の話」という成田闘争をモデルにしたコミックである。反対派に襲われた三人の若い機動隊員が殺される。これは事実である。一方で反対派の若者が続く闘争を苦に自殺する。不可解なのは、青年の自殺については事細かく描くのに、殺された3人については事実関係しか描かない。平成狸合戦ぽんぽこで3人の権力側の犠牲者が出たというストーリーは、僕の村の話に、出てきたのをまねたのではなく、成田闘争で機動隊員が3人殺された、という事実を下敷きにしたものだろう。

 著者の心持ちには殺された機動隊員を悼む気持ちがないようにしか読めない。三人の機動隊員殺害は成田闘争で本当にあった話で、史実は、計画的に待ち伏せされた上、残虐なやり方で殺されたのである。そうして当たり前だが若い機動隊員にも死を悲しむ親族はいたのである。

  平成狸合戦ぽんぽこの一場面の違和感と殺意への恐怖感で、このコミックを思い出した。日本人は敵対した勢力でも、死んでしまった者については敵味方の差別はせずに悼む崇高な本能がある。その本能が失われた日本人の偶然ではない発生に日本人の変質を感じて恐怖した次第である。

 実は、小生は当時「ぼくの村の話」の編集部に、機動隊員の殺害と闘争の自殺者の扱い方のアンバランスについて異見を送った。すると尾瀬あきら氏本人から返信が来た。この誠意は是とする。しかし、内容はいかに理不尽に権力側が自殺に追い込んだことを一生懸命説明するだけで、機動隊員殺人について一言の言及はなかった。尾瀬氏も日本人の本能を破壊されたのである。尾瀬氏は「夏子の酒」のような日本的情緒のただよう作品を得意としているにもかかわらず、、日本への憎悪を描く。これと共通する人がもう一人いる。加藤登紀子である。彼女は「知床旅情」のような日本情緒に富んだ歌を歌う。しかし、彼女は、かつて週刊誌に「日本という言葉」への嫌悪を表明した。要するに、宮崎駿、尾瀬あきら、加藤登紀子の3人には、民族本能が破壊された、という左翼人士に共通する点がある。

なお、宮崎駿は平和主義を標榜するが、性格的には好戦的人物と推察する。それは、宮崎作品に登場する兵器は、実在のものをモデルにしており、しかもナチスドイツの兵器が多い。また、模型雑誌で空想戦車の模型作品コンテストの審査委員長をしたことがある。宮崎氏は一種の武器マニアである。それも無意識的好戦的信条を内蔵するタイプに思える。

 

 


映画評・集団左遷

2019-06-26 22:45:17 | 映画

映画評・集団左遷

 テレビドラマ評であるが、評論に便乗して政治風刺をするので、全くドラマ評にはなっていないことをお断りしておく。このドラマは比較的人気が高かったのに、何となく福山雅治のかっこ良過ぎで、見るのに抵抗があり、ようやく途中から見始めて面白いと思ったのである。

 三上博史演じる横山が、銀行の経営改善のために、外資系会社との提携を画策し、国会議員に賄賂を贈り実現直前にまでにこぎつけ、副頭取に就任しようとする。福山演ずる片岡は、横山の副頭取就任を阻止するため、銀行の裏金の受け取りリストを入手するのだが、役員会で公表するとリストから横山の名前が消えていて、片岡は失敗した。事前に頭取にリストを見せたものだから、頭取は外資系会社との提携の方が社のためになると判断して、もみ消したのだ。

 次に片岡は、同期の梅原から政治献金の証拠の手帖を入手し、マスコミに告発しようとする。しかし横山から、社内改革をするなら会社を立て直すことが必要で、政治献金は必要悪だと言われる。片岡は告発を共謀した真山の出向を取消すことと、片岡を新プロジェクトメンバーに入れて、今後出世し、横山と同じ土俵に立って社内改革をすべきではないか、と説得され、告発断念に傾く。これは少々の不正は目をつぶらなければならない、現実社会では、間違っているとは断言できない。この場面が現実味を帯びる所以である。

 しかし、不正を温存したままでの社内改革は意味がないから、俺たちの世代で断ち切ろう、と真山が片岡を説得した。社会正義あっての社内改革でなければ、お客様にも後輩行員にも申し訳ないではないか、という真山の熱誠に片岡は決断する。不正阻止一直線だった片岡が、最後に人参をぶら下げられて、心が揺れるとところが最後の見所だった。政治疑惑がマスコミに告発されて以降は、お決まりのハッピーエンドである。

 小生は社会人になって長いから、官庁でも民間でも、少々の裏があることは想像できる。このドラマにあったような不正行為や隠ぺいは、数限りなくあるのかも知れないのである。それに直面しなかった小生は幸運であったのに過ぎない。というよりは、そんな場面に出会うような地位にまで登らなかったのかもしれないのである。

 しかし、これから言いたいのは、どこにでもあって良いような些末なことではない。この番組の描いた不正は、会社の提携に関して、賄賂をもらった政治家の介入である。このようなことは一般的に、自民党の政治家がする、とイメージされるであろう。実際に諸外国よりは比較的清廉であるとされる日本の政治家は、自民党に限らずこの程度のことはしているだろうと、多くの国民は思っている。

 否、政治献金を受けて口利きをすることは違法ではないのである。現に石破議員らは獣医師界から献金を受けて、加計学園等の獣医学部の新設反対工作を続けたが、合法的活動である限り問題はないのである。

 小生が感じたのはこのようなことではなく、日本の崩壊を企てる勢力や裏社会との、政治家の危険な癒着である。このようなものは、片岡のような一直線の正義では解決のつかない問題である。しかも「大企業との癒着」ではないために、この手の政治家はむしろ清廉な人士として評価されているから恐ろしいのである。しかも、大手マスコミは、知っていながらむしろ問題にしないのであろう。二人例示する。

 一人は立憲民主党の枝野党首である。令和元年6月20日の産経新聞の「阿比留瑠比の極限御免」に大方次のように書かれている。平成23年自民党の平沢勝栄氏が当時の枝野官房長官に、極左暴力集団、革マル派に影響力を受ける浸透を受けていて、JR東労組からも献金やパーティー券購入を受けている、と指摘した。枝野氏は、そうした浸透をしている勢力の影響を受けないように留意していることと、献金などは合法的に処理していると答弁した。これは、はぐらかし答弁の典型である。スキャンダルとはならず、それでことはお終いとなった。

 JR東労組は「暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史」に書かれるような危ない面を秘めた組織なのである。枝野氏は、日本の暴力革命を企図する革マル派や、国鉄を悪くしようとしたと公言した組合の系譜の労組と癒着し、献金までもらっていたというのである。これほど危険な政治家がどこにいようか。極論を言えば、日本国を破壊しかねない組織との癒着に比べれば、賄賂をもらって会社の便宜を図る政治家など可愛いものである。そもそも議会制民主主義の否定に等しいのだから。

 多くの国民は労働組合と言えば、労働者の権利を守る良心的組織だと思っている。ところが一部の左翼組織化された労働組合はそうではなく、労働者を左翼運動に利用しているだけである。小生はその暗部を少しだけ垣間見たことがあるから体感している。

 次は辻元清美氏である。今裁判で係争中の小川榮太郎氏の「森友・加計事件」朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪、に次のようなことが書かれている。

 「辻元疑惑(P100)」である。森友事件の例の籠池淳子氏は「辻元清美議員が幼稚園に侵入しかけ、私達を怒らせようとしました嘘の証言をした男は辻元と仲良しの関西生コンの人間でした・・・作業員が辻元清美が潜らせた関西なんとか連合に入っている人間らしいです。」と言ったというのだ。

 そして小川氏は「民進党は、辻元は幼稚園の敷地に近づきもしていないと説明したが、実際にはこの日、辻元は視察団の一人として幼稚園の敷地に入っており、本人も認めている。民進党の抗議は虚偽だったのである。」これらを総合すると、辻元清美議員は「関西生コン」とは関係が深いようである。それでは関西生コンとは何か。

 ジャーナリストの須田慎一郎氏のニッポン放送での解説が、インターネットに出ている。それによれば、関西生コン事件があった。平成30年8月、滋賀県内の倉庫建設工事を巡る恐喝未遂事件で関西生コンのドンが逮捕された。ドンとは武健一氏である。正式な名称は「全国建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部」だそうである。この逮捕は大阪府の公安が行い、強制捜査には四府県警察が動いていた、というのである。

 関連業者に組合に入ることを強要し、入ると上納金を納めさせ、うちから生コンを買えと脅す、組合を名乗っているが、実態上は暴力団組織と変わらない、というのである。辻元氏はボスの武健一と個人的に仲が良いばかりか、政治献金まで受け取っている、というのである。このような人物が清廉潔白を装ってきれいごとを言い、政府を追及している。

 日本の世も末ではないか。「集団左遷」で社内での立場も顧みず、勇気ある告発をした片岡とその仲間たちの勇気は是とする。見ごたえのあるドラマであった。しかし、テレビドラマのみならず日本のジャーナリズムは、例示した枝野氏や辻元氏のような日本の暗部には触れようとはしない。

日本の大手ジャーナリズムはことあるごとに、反権力を標榜し、自民党政権を追及する。しかし、日本は三権分立の国である。野党議員と雖も、三権のうちの立法権者である。権力者なのである。彼らは権力に対峙して、国民の側にいると見せかけて、実は絶大な権力をふるうのである。それも危険な暴力集団や、反社会的勢力と関係がある。日本の議会制民主主義の危険は、単なる政治家の賄賂汚職にとどまらないであろうことを、人気ドラマ「集団左遷」から思いを巡らせた次第である。


映画評論・ソルジャー

2017-09-14 18:18:37 | 映画

映画評論・ソルジャー

 近未来の話であろう。映画で想定した軍隊は、米陸軍なのか、海兵隊なのか分からない。とにかく、強い歩兵を作る為に、才能のありそうな子供たちを集めて、大人になるまで激しい訓練を行う。そのために落命する子供たちがいる位である。それとは別に、遺伝子操作で優秀な歩兵を人工的に作り出す、ニューソルジャープロジェクト行われている。当然のことながら、ニューソルジャーの方が強い。

 兵頭二十八氏の説だと思うが、海兵隊は日露戦争などでの日本陸軍歩兵の強さに驚嘆した米軍が、日本軍歩兵を目標に訓練して造り上げたものだという。とすれば「ソルジャー」とは日本軍歩兵を模範として徹底したものだと言える。特に遺伝子操作で作ったニューソルジャーは、それを米国らしい科学的合理性で徹底したものであろう。

 主人公のソルジャーと最強のニューソルジャーとが対決するところが、メインテーマになるのだが、小生は米国はまだ日本陸軍の強さに、潜在的な怖れを抱いているのだろう、ということの方に興味を持った。

 米国はベトナム戦争の凄惨なゲリラ戦で地上戦を恐れるようになったが、それも冷戦の勝利後の湾岸戦争である程度癒えたと思われるが、その時期の映画である。ヒットしなかったの原因のひとつは、やはり地上戦恐怖症は完全に克服されたのではなかったことであろうと思う。もし、ゲリラ的攻撃で、歩兵が一人また一人とじわじわ歩兵が戦死するイラク戦争の後なら、この映画は作られることはなかっただろう。

 


映画評論・バイオハザード ファイナル

2017-01-15 13:01:58 | 映画

映画評論・バイオハザード ファイナル

 もちろんバイオハザードシリーズの完結編である。ストーリーを説明するつもりはない。画面に何回か出る、荒廃した大都市の風景には、どこか見覚えがある。そう、原爆などの米軍の無差別爆撃で焼け野原になった、日本の都市の風景の写真にそっくりなのである。

 猿の惑星の「猿」のモデルが実は日本人で、原作者は、大東亜戦争当時、東南アジアで日本軍に収容されていたピエール・ブールというフランス人である。ブールは、無力な白人たちと白人が開発したはずの兵器で白人を支配する猿たちの関係と、大東亜戦争で捕虜となった白人兵士と日本兵の関係にアナロジーを見たのである。

 小生も最初はそれに気付かなかった。何年かして、ようやくこのアナロジーに気づいた。知人に話してみたが、笑って取り合ってもらえなかった。その後、ある雑誌で、実は想像は正しかったばかりではなく、この映画が日本で公開される際に、米国人は日本人が、この映画を嫌って見に来ないのではないか、と恐れたという。しかし、ほとんどの日本人は気付かないどころか、ヒット作になった。

 ニューヨークにはハーレムという地区がある。その昔、アメリカ出張の際の休日の観光で、ハーレム見学とメトロポリタン美術館見学コースがあって、小生は後者を選んだのを一時後悔した。当時のハーレムは浮浪者などが占拠するひどく荒廃した地区で、一人で入ったら出てこられない、という話だった。

 観光もバスに乗ったままで、危険だから絶対外に出るな、という注意があった。テレビで見たハーレムの光景は、ハリウッド映画で見る核戦争などで荒廃した街とそっくりであった。これはハーレムをモデルにしたのだと勝手に想像している。それを実見しなかったのを後悔したのである。その後ハーレムは徹底的に治安改善が行われ、普通の街になったそうである。

 これらは、フィクションであっても、実体験や見聞が映画などの元になることがありがちだ、という見本である。バイオハザードで見る、ウィルスの被害で荒廃した光景は、米軍の無差別爆撃で破壊し尽された日本の都市がモデルに違いないと思う。そればかりではない。ぞろぞろと行進する「アンデッド」の群れは、空襲で焼かれた日本の民衆の死体がモデルであろうと邪推する。

 東京都内では、空襲で焼けただれた民衆が、灼熱に水を求めて隅田川や旧中川などに飛び込んで折り重なって死んでいった、と聞く。アンデッドにはそのイメージがあるのではないか。アメリカ人が日本の無札別爆撃を表向き、いかに正当化しようとも、意識の下では罪悪感があるのだと思う。


シネマ紹介・戦火の馬

2016-01-19 16:41:34 | 映画

 第一次大戦に軍馬として使われた英国の馬の話である。原題はWar horseというのだから、直訳すれば、軍馬というのになるので、味気ないから工夫したのだろうが、最近のようにウォー・ホースなどと直訳されるより、よほど気が利いている。監督はかのスティーブン・スピルバーグである。昔、「激突」というスピルバーグの映画があったが、ストーリーは全く異なるものの、同様にスピルバーグらしい、味わいある映画になっている。

 元々原作に人気があるらしく、スピルバーグの目の付け所が良かったというところであろう。ろくに金もない父が、高値で馬を競売で落札したので、農耕馬として育てると言った、息子アルバートは馬にジョーイと言う名をつけて訓練した。ところが、英軍騎兵に目をつけられて、軍馬として買われることになった。

 そこからジョーイの運命の変遷が始まる。ドイツ軍に引き取られたり、少女に飼われたり、気性の激しい馬との友情が芽生えたり、ジョーイの生活は次々と変わる。数々の戦場を駆け抜けたジョーイは、終戦とともに結局少女の祖父に競売で落札されたが、彼の好意でアルバートのもとに戻った、というハッピーエンドの物語である。馬は多くの苦労をしたので、ハッピーエンドは有難い。

 何故かジョーイに出会った青年たちはジョーイに惹かれ、一種の友情が芽生える。ジョーイを象徴するのは、最初にアルバートにつけられた赤白の三角布である。日本でも馬と人間との情愛は知られている。西洋人にも同様な感情があるのだと実感させられた。靖国神社にも戦火に倒れた軍馬を象徴するブロンズ像が飾られている。

 馬は犬以上に人間になつき、時には死を賭して働くそうである。小生の家は農家だったから、小学生の途中まで農耕馬がいた。馬を扱ったことはないが、副収入を稼ぐため、山羊や牛も飼っていた。山羊や牛を放牧の為に連れ出すのだが、強情で素直について来ないので、苦労した覚えがあるが、馬はそんなことはなかったろうと思う。

 だから牛が食用として売られていくときに、何の感傷もなかった。だが馬が売られていった時のことは鮮明に覚えている。当時最新の耕耘機を買ったので、馬がいらなくなったのだ。夜、裸電球で照らされた下で祖父が、最後の餌として、桶に切った干し草や、糠を入れて水でこねたのだ。

 電球に照らされた馬の、パッチリした大きな目は、潤んでいたが悲しかった訳ではあるまい。今でも馬を見ると、目が気になる。当時は珍しい、競馬馬を運ぶような箱形のトラックに乗せられて行ってしまった。馬は若くはなかったので、どうなったか見当もつかない。悲しかったかどうか記憶はないが、その時の光景は、よく覚えている。

 


SF映画「黒い絨毯」・・・支那人は黒蟻の大群

2015-05-31 16:17:13 | 映画

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 随分昔の映画である。主演のチャールトン・ヘストンが若い。実はある本で、この映画に出てくる黒い絨毯、こと、人食い蟻は中共軍兵士を表わしているのだ、と読んで、ビデオ店で購入した。要するに猿の惑星が、日本人を模したのと同じ手の映画である。

 製作が1954年だから、朝鮮戦争で米軍が闘った直後で、殺せども殺せども湧いてくるように襲ってくる支那兵を、何十キロにも及ぶ人食い蟻の大群に見立てた、ということだろう。犠牲をいとわない人海戦術に対する米国人の恐怖を表わしている、のであろう。

 ただし映画は、手紙のやり取りだけで決めた見合い結婚、というアメリカ映画らしくない話がスタートである。日本人移民の写真結婚を嫌ったアメリカ人らしくないのである。この美男美女が、最初は反発するのだが、時間をかけて次第に愛するようになって、共に襲ってくる毒蟻と闘う、といった話である。

二人の心の駆け引きが長く、蟻との戦いは付け足し、としか思われない。猿の惑星は、いかにも戦時中の日本人を皮肉った、というのが前面に出ているのとは、やはり違う。しかし、いずれも主演がチャールトンヘストン、というのは偶然ではあるまい。それにしても、古い映画でDVDで再販されているのだから、二人の主人公の描き方が良かった、ということなのだろう。画面も綺麗だから、支那兵云々、ということを忘れて見た方が良い。