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地球日本史1・日本とヨーロッパの同時勃興・西尾幹二編

2023-10-15 16:17:28 | 書評

 この本のテーマは副題が自ずから示している。何人もの筆者が各テーマで分担しているので、純に紹介していこう。執筆者は必ずしも紹介しない。以下の番号は本書にふられたものであるが引用していない項があるので、番号は抜けている。

①日本とヨーロッパの同時勃興

 日本が有力文明の域に達した時、同時にヨーロッパがイスラム文明を破って海洋に進出したのがほぼ同じ17-18世紀である。(P27)日本の歴史は、明治維新や敗戦などで断絶しているのではない。江戸時代の文明の熟成が維新のヨーロッパ文明の導入を可能にし、戦前の軍需産業が戦後の高度成長を可能にした。農地改革ですら戦前から始まっていたというのである。(P29)

②モンゴルから始まった世界史

 タイトルには4つの意味がある。(P40)モンゴル帝国は、東の中国世界と西の地中海を結ぶ草原の道を支配して、ユーラシア大陸をひとつにまとめたので世界史の舞台ができた。モンゴルがユーラシア大陸の既存の政権を全て破壊して、あらためてモンゴル帝国から新しい国々が独立することによって、今のアジアと東欧の諸国が生まれた。北支那で生まれた資本主義経済が、草原の道を通って西ヨーロッパに伝わり現代社会が始まった。モンゴル帝国がユーラシア大陸の貿易を独占したので、日本と西ヨーロッパが活路を求めて海上貿易に進出したために、歴史の主役が大陸帝国から海洋帝国に変化した。

 意外であったのは、資本主義経済が発生したのは北支那である、ということである。元朝以前の北京は女直の金帝国の都で、以前から中国ではもっとも商業が盛んな地域であった。ところがここでは銅が取れないため通貨が作れない。そこで金帝国では手形取引が盛んになり、信用の観念が発達した。信用は資本主義経済の基礎である(P48)というわけである。

 念を押すように、フビライは中国皇帝の伝統を継いで、中国に入って中国式の元朝を建てたというのは誤解で、元朝はほとんど中国に入っていない。元朝のハーンは一年の大部分をモンゴル高原を移動して過ごし、冬だけ避寒のため大都(今の北京)に滞在したという(P48)のである。これは清朝が首都を北京として常駐し、真夏に避暑のためにだけ故地である、熱河に滞在したのと真逆であるのが小生には興味深い。それゆえ、モンゴルは帝国を倒されても故地に戻り今に至るまで存続し、満洲族はそれ以前に支那本土を支配した外来民族と同様に、支那本土に土着して漢民族のひとつに分類されるに至ったのである。

支那大陸に侵入した外来民族は、漢民族に同化吸収されたのではないことは、元朝の中国に反乱が起きて、ハーンはモンゴル高原に戻ったが、後継の明朝の制度はモンゴル式をそのまま引き継いだ(P50)、というのだから、「漢民族」が変わったのである。東ヨーロッパの森林地帯には、スカンディナビアから来たルーシ人の街が点在するだけであったが、モンゴル帝国の高い文化にはじめて触れて、低かった文化が成長した。ロシア正教もモンゴル人の保護で広まった。モスクワ大公イワン四世は母が多分にチンギス・ハーンの血をひいているといい、ハーンのスラブ語訳のツァーリを自称した(P51)。全てのことが、それ以前から支那本土に住んでいた人々から、野蛮人扱いされていたモンゴル人や満洲人などの民族の文化が高く、「漢民族」もそれを受け入れて発展したことを証明している。

④中華シーパワーの八百年

 現在の中国は大陸国家であり、近年海軍力を増強しつつあるが、長い間の体質は容易には変わらないだろうというのが一般的見解であろう。ところが、本項では、中国は十二世紀から十九世紀の間にはアジアでも傑出した「シー・パワー」であったというのだ。その結果としてアジアの至る所に商業コロニーとしてのチャイナタウンができた。また、中国のシー・パワーの強さについては欧米人はよく知っているというのだ。(P72)

だが小生には、中国は大陸国家であるという常識を簡単に変更することは、数百年単位ならともかく、百年二百年というスパンでは変更する必要はないように思われる。なぜなら、十九世紀までの中国人と今の中国人には文明文化の断絶がある、と考えられるからである。民族のDNAにも習俗にも、海洋民族としての体質が残されているようには思われないからである。それをいうならむしろ日本の方が海洋国家としての体質を残していると考えられる。日本の民族には変化はあれ、断絶はないからである。世界各地のチャイナタウンには既に商業コロニーとしての機能はなく、本国との連携も少ないのである。現在の中共政府が海外の華橋を利用するのは、商業コロニーとしてではなく、同一民族であるというフィクションによって政治利用しているのに過ぎない。

⑥西欧の野望・地球分割計画

スペインとポルトガルが地球を二分割する許可を、ローマ教皇から得たというとんでもない話は有名である。その根拠は、イスラム教徒はキリスト教徒の国土を不当に占拠していて、東洋や南米は、宣教師の現に耳を傾けなかったり迫害し、北米の原住民は布教は妨害しないが、自然法に反する悪習を守っている。従ってこれらの人々に対する戦争は正当である、という(P126)のだから、根源はキリスト教の独善的傲慢にある。

 アジアについては、日本は貧しいが国民は勇敢で軍事力があり征服できないが、支那人は臆病で国は富んでいるから征服する価値がある、という。そして支那は人口が多いから死体で城壁で築いても通さないといっているから、日本人を利用するのがよい、という。そしてある日本人の研究によれば小西行長らの複数のキリシタン大名から、援軍を用意する旨の意思表示があった(P128)、というからひどい話である。

岩波文庫に「インディアスの破壊についての簡単な報告」という本がある。この本はスペインが南米で行った残虐行為をこれでもかという執拗な調子で書いたもので、これが世界に流布した結果、スペインは自虐的になり、世界一元気のない国になってしまった。スペイン人は自らスペインの悪口を言いたがるというのである。ところが、1985年に「憎悪の樹」という反論の書が出た。それによれば、インディオの殺害数は到底勘定が合うものではないし、当時著者は反論を受けた際に一言も有効な反論ができなかった。従ってかの本は虚偽、歪曲、のでたらめな書であるという(P131)。

ここで思い出すのは日本の自虐史観である。東京裁判や支那から宣伝された「日本軍の残虐行為」は定着してしまい、嘘までついて日本軍の残虐行為を証言する日本人が続々と出るに至った。この状況が続けば、日本も第二のスペインになる恐れが極めて大である。現に政治家でも経済人でも学者でも、中国に対しては必要以上に卑屈になっている。

⑦秀吉はなぜ朝鮮に出兵したか

 秀吉の朝鮮出兵は、昔から彼の征服欲だとか乱心の果てだとか言われている。本項によれば、征服欲説は江戸時代からであり、徳富蘇峰ですらも賛同し批難の言説を述べている。(P139)もちろん朝鮮は明への通路に過ぎない。この項では村松剛の説を引用して、秀吉はスペインとの同盟を考えていたという説を紹介している。同時に明が西欧に支配されれば、将来日本の脅威になるとも考えていた。従って同盟が不可能なら単独でも明を日本の支配下に置くしかないというのである。(P144)

 さらに日本とスペインの思惑が異なるのは、秀吉は明を支配するのは日本であってスペインには布教の自由を与えれば良いと考えていたのに対して、スペインは明の支配権は自分にあり、日本は傭兵扱いであったと論ずる。しかし、秀吉は宣教師は西欧の侵略の尖兵であるという認識があったことを考えると簡単には信じがたい。布教を許すことは脅威の種をまくことだからである。

 筆者の独創は、朝鮮征伐を「ミニ大東亜戦争」だったとする考え方である。(P146)スペイン人が日本を利用したのと北清事変に日本出兵を利用したのとの類似性。満洲の共同経営のハリマンの提案を断って独力でしようとしたこと。そして大陸で衝突して敗れたことである。いずれにしても、朝鮮征伐を偏狭な征服欲に帰すことは、日本が西欧と接触し、世界史の中で動いていたという、巨視的な視点が欠けている、むしろ偏狭な見方である。それと朝鮮征伐の段取りが拙劣であったのとは次元が異なる。

⑧フィリップ二世と秀吉

 ここでは、秀吉のキリシタン弾圧の根拠が明瞭に書かれている。(P160)1596年スペインの貨物船が浦戸に漂着した。積み荷は押収されて乗員は尋問された。彼等は世界地図のスペイン領を示し、国力の大きさで威嚇しようとした。どうして広大な領土を獲得できたかと聞かれると、征服したい国に宣教師を送り込み、住民の一部を改宗させると次は軍隊を送り込み、改宗者と合同して簡単に征服したと語った。この話はただちに秀吉に伝えられ、長崎の26人の処刑に始まるキリシタン弾圧が始まった。

だが秀吉がキリスト教を禁止したのは1587年である。この理由はP143に書かれている。神父コヨリエが外洋航海ができないボロ船に重装備をして秀吉に見せて、軍艦の威力を誇示した、というのである。秀吉が怒ることを恐れて、キリシタン大名がボロ船を秀吉に渡すよう説得したが果たせず、秀吉が激怒して禁教がなされたというのである。神父の馬鹿な行動で禁教が始まったとはにわかには信じられない。そして、船員の証言でキリシタン弾圧が急に始まったというのも同様である。もともと秀吉には宣教師が送り込まれた地域は征服されている、という情報があって、これらのエピソードは、その判断が確定的であると、ダメを押したのだと小生は考える。そうでもなければ、秀吉の行動は過激で素早過ぎる。P141にも書かれているように「・・・秀吉はキリシタンに概して好意的で宣教師たちと親しく交際していた期間が長い」のである。

P175にはキリスト教に関する恐ろしい考察がある。「・・・フィリップ二世時代のカトリックの統治哲学の中に秀吉が直感した狂気への洞察である。ドフトエフスキー「大審問官」が告白した通り、あれはニヒリズムの極北というべき「人神思想」であって、後の世にナチズムやスターリニズムとして再来する政治的狂気とも決して無関係ではないであろう。」というのだが、このグループにはアメリカ先住民の民族抹殺や黒人奴隷化なども入れるべきであろう。彼等は必ずしもカトリックではない。キリスト教を西洋人が纏った時に人神思想は発現したものと考える。キリスト教が根源的に悪いのではなく、キリスト教と西洋人との組み合わせが狂気を生んだのである。

⑩鉄砲が動かした世界秩序

 ここでは、西洋から鉄砲を導入すると瞬く間に日本中にひろがり、世界一の鉄砲保有の軍事力を持った日本が、江戸時代に急速に鉄砲を放棄し、刀剣に立ち返った謎について説明している。城の構造や兵農分離など鉄砲本位の社会になったのにである。(P206)一般には、西洋が火縄銃から更に進化を遂げたのに、日本では火縄銃で停滞したと説明されているが、ここでは刀剣に退化し、「軍縮」がなされたと評価している。藤原惺窩は「治要七条」に戦国の世が終わったので、これからは文治でなければならないとして、徳治を説いた。これは西洋の覇権主義とは対極である。刀剣は武士の魂としての象徴的なものとなり、武士は筆を持って城に詰めるようになった。(P213)

西欧では戦乱により、十七世紀前半にグロチウスが戦争を世界観の中心として国際法の柱とした。従って西欧は覇権に基づく軍拡の道を歩んだ。(P215)要するに西洋はヨーロッパの内戦で、武器の進化が進み、戦争の調停などの手段としての国際法が生まれる必然性があった。国際法の出自は戦争にあったのである。ところが現代日本では戦時国際法は極めて軽んじられて、戦後未だまともな戦時国際法の著述を知らない。以前論考したが支那事変の当時ですら、支那事変の戦時国際法が考察されていた事実がある。敗戦までの日本人は国際法に無知ではなかったのである。

⑪キリスト教創造主と日本の神々

 新井白石と司祭シドチとの対決は有名な話である。白石はシドチの博聞強記に感嘆するが、キリスト教の教義の話になると愚かな事に呆れた。デウスは天地創造したのなら、デウスを作りだした者がいるのであり、もしデウスが自ら成り出ることができたのなら、天地も自成しうることに何の不思議もない、というのである。(P237)なるほど明快な論理である。西尾幹二氏は「江戸のダイナミズム」という著書で、本居宣長が、天の神が占いで教えを請おうと仰ぎ見る神は何者か、と詮索するのは支那にかぶれて歪んでいるのであって、神代の事は疑わしくても、古代の伝承のままに受け止めれば良い、と言っていることを紹介している。これならば、新井白石も納得するのであろう。

⑬日本経済圏の出現

 清朝は17世紀半ばに、銅不足で日本の銅輸入に頼っていた。ところが、中国の膨大な銅需要に応じられないので、信牌を持つ中国人にだけ制限した。信牌には日本の年号が記されているので、信牌は全て寧保で没収されたために、その後二年間は中国船は日本に来られなくなった。しかし、困った清朝は、信牌を政治的な意味のない、商業的手続きであると強引な解釈をして信牌を商人に返し銅を輸入させた。これは結果的には公式の朝貢貿易以外の現代的意味での貿易が成立した、ということである。(P271)中国流の立場からすれば、日本の年号を用いたということは、中国が日本に朝貢したと考えられるのである。


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2 コメント

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こんにちは! (小平次)
2023-10-16 14:50:24
>>もともと秀吉には宣教師が送り込まれた地域は征服されている、という情報があって、これらのエピソードは、その判断が確定的であると、ダメを押したのだ…

同意です、その上で

>>この項では村松剛の説を引用して、秀吉はスペインとの同盟を考えていたという説を紹介している。同時に明が西欧に支配されれば、将来日本の脅威になるとも考えていた。従って同盟が不可能なら単独でも明を日本の支配下に置くしかない

と言う説には、

>>秀吉は宣教師は西欧の侵略の尖兵であるという認識があったことを考えると簡単には信じがたい。布教を許すことは脅威の種をまくことだからである。

という猫の誠さんのお考えに同意です

私は、秀吉はこの時すでに、白人キリスト教国の横暴へ対抗するために、日本主導の大東亜共栄圏のような構想を描いていたと思っています

最悪、失敗しても、陸軍力の強さを示せれば、スペイン他の西欧の国に対し抑止力が働くことまで想定していたのではないか、と思っています

実際その後幕末まで日本には手出しができませんでしたので

フェリペ2世に宛てた書簡などを見れば、スペインとの同盟というのはやはり腑に落ちない気がします


ありがとうございました

とても面白かったです
悩み深い問題です (コメントありがとうございます。)
2023-10-28 16:03:36
実は小生も、明への欧米湖侵攻対抗説については大いに関心することある次第です。今の大勢は秀吉の老齢による酔狂説しかないようです。問題なのは、秀吉による意図や世界情勢を見られないから秀吉の粋狂に帰し。世界情勢を公正にみないことです。

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