毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

日本のマスコミで戦前にテロで殺された人はいない

2019-10-15 21:45:16 | ジャーナリズム

 

 戦前は、二二六事件などのテロ事件が頻発している。そこでテロの犠牲者について奇妙な事に気付いた。テロの犠牲者を大別すれば、政治家、銀行家などの企業家、軍人と言った人たちが殺され負傷している。だがその中には新聞などのマスコミ関係者はただの一人もいないのだ。

 

 朝日新聞などは現在、新聞などのマスコミは右翼や軍部から言論弾圧を受けたと主張している。元朝日新聞記者の後藤孝夫氏は「辛亥革命から満洲事変へ」と言う大著でこの事件の間に大阪朝日新聞が右翼や軍部から弾圧をうけたことについて多くの紙幅を割いている。その中に書かれている物理的被害とは

1931年頃の在郷軍人会による朝日新聞不買運動

1928年の右翼の編集局乱入騒ぎ

 

 これだけである。「直接行動で右翼恫喝」(P380)という仰々しいタイトルの項を見れば、最大のものは内田良平が大阪朝日の調査部長と会談したことと内田の公言した「民間団体の直接行動」計画が大阪朝日に大きな衝撃を与えた、というものである。計画だけで怯えたというのだから、「勇気を持って真実を書く」などと言うのは大言壮語である。

 

 人間緒方竹虎という本には、二二六事件の際に大阪朝日新聞を襲った軍人たちが、「国賊朝日をやっつけるのだ」と言って帰って行った、また軍人がやってきてカネを貸せと言って何千円か持って行った、活字のケースがひっくり返された、と言う被害である。怪我人どころか発砲もされていないのだ。彼らは僅かな被害を持ちださなければ、自分たちが犠牲者である、と言う証明ができないのだ。

 

私には新聞関係者だけが殺害の対象にすら成らなかったことは奇異ではない。新聞関係者は、右翼や軍部と敵対していたのではないからだ。それどころか軍人や国民を戦争に煽っていたのだ。もっと正確に言おう。当時のマスコミは国民の意向を反映していたのである。そして陸軍も国民の意向を反映していたのだ。当時の不景気や満洲における支那側の相次ぐ暴力行為や条約破りを政党政治は何もしなかったのである。

 

 実際緒方竹虎は戦後「五〇人の新聞人」という本に、満洲事変頃から大新聞が皆で話し合って反戦の運動をすれば軍の暴走を防げたと堂々と言ってさえいる。軍部に弾圧されたのではないと言っているのだ。だから戦後の大新聞は針少棒大に軍部や右翼に弾圧されたという事を言わなければならない。

 

このブログに興味をお持ちの方は、ここをクリックして小生のホームページも御覧ください。


社員の生活を守るための朝日新聞

2019-09-20 20:42:49 | ジャーナリズム

 「死を賭しても堅持すべきは言論の自由である。」


 何と素晴らしい言葉であろうか。これは朝日新聞系の、売れなくて、とうの昔に廃刊となった「論座」なる雑誌で「表現者の戦争責任」と題して、ジャーナリストの戦争責任についての特集にのった言葉である。

 それならば、朝日新聞は言論の自由は死をかけても守ろうという気概があると言いたいのだろう。本当かいな、という者は小生ばかりではあるまい。それでは過去の朝日新聞の幹部の言論をチェックする。朝日新聞の一読者から寄せられた「戦時中は朝日新聞は戦争協力したではないか!」という詰問に対して、当時の大幹部、大阪朝日新聞編集局長、秦正流氏は新聞紙上でこう答えたのである。

 「多数の従業員をもち、多年の伝統をもち、社会的信頼を寄せられている新聞社としては『余程』のことがなければ玉砕は許されない。」

 言うも言ったり。戦争に協力せずに弾圧されて新聞社が倒産すれば多数の社員が路頭に迷うので、そんなことはできないというのだ。どこが死を賭して言論の自由を守るというのか。これは悪意ある解釈ではない。

 秦は更に「新聞がどうして戦争協力に走ってしまったか」と自問して「それは新聞自体が生きのびるためであった。そのような新聞を国民が望んだことも・・・」と弁明する。

 これが本音である。馬鹿正直とはこのことを言うのであろう。言論の自由などどうでもよい。しかも朝日新聞が軍に屈しても存続することを望んだのは国民なのだと、開き直って責任を国民に転嫁するのだ。

 次は戦前の大幹部、副社長にまで上り詰め、さらにリベラルなジャーナリストとして高名な、緒方竹虎は何と言ったか。緒方は朝日新聞副社長までつとめた大幹部である。いわく(出典:五十人の新聞人)。

 「新聞が痛快な文章を出して軍に対抗しようという気持は全然なかった・・・丸腰の新聞では結局抵抗はできない・・・なんとか一つ朝日新聞が生きて行かなければならない」

 これがリベラルでならした朝日新聞大幹部のの言説である。あきれ果てるではないか。左翼的言論人の掛川トミ子氏すらあきれて「正直と言おうか、無感覚と言うか、適切な言葉を探すのに苦しむようなこの無責任極まりない自己表白、集団的エゴイズム」と酷評した。朝日新聞を弁護したい人たちすら呆れたのである。

 しかも緒方は同じ本の中で、「実際朝日と毎日が本当に手を握って、こういう軍の干渉を抑えるということを満洲事変の少し以前から考えもし、手を着けておれば出来たのじゃないかということを考える。軍というものは、日本が崩壊した後に考えて見て、大して偉いものでも何でもない。一種の月給取りにしか過ぎない。」

 月給取りにしかないものを恐れて膝を屈したあなたは言論人として恥ずかしくはないのですか、とでも言いたくなるではないか。ちなみに秦の文章は朝日新聞大阪版の縮刷版に残されている。緒方の文章は電通が出版した「五十人の新聞人」として公刊されている。古本のたぐいだが国会図書館で見られます。

 言論の自由に命をかけると豪語する、朝日新聞の気概とはかくほどのものでしかない。朝日新聞は社員の生活のためにあるのだ。言論の自由などくそくらえ。戦前と戦後の朝日新聞の大幹部は、揃いも揃ってそう公言している。


このブログに興味をお持ちの方は、ここをクリックして小生のホームページも御覧ください。


報道ステーションの言論の自由とは何か 

2019-08-06 00:03:33 | ジャーナリズム

 令和元年8月5日のテレビ朝日の報道ステーションでは、早速愛知県での芸術祭での「慰安婦像」の展示撤去を口を揃えて、言論の自由の抑圧だ、と報道した。しかし、一方で神戸のデパートでの自衛隊の車両の展示も抗議によって中止された。しかしこちらの方は全国紙では産経しか報道はしてはいないので、報道ステーションでは無視した。好都合なのであろう。報道されない事実は、存在しないに等しいものに貶められるのである。

 そもそも慰安婦問題が、ここまでこじれたのは、朝日新聞が吉田某の、虚偽の従軍慰安婦のひとさらい物語を流布したのに、端を発している。テレビ朝日の親元の朝日新聞による責任大だと言える。しかもその虚偽を朝日新聞は既に認めてしまった。外した梯子の上に残った「慰安婦像」などは虚像である

 そもそも慰安婦像などというものに、芸術だと言う資格はない。作者の政治的意図が透けて見えるからである。例えばピカソのゲルニカである。ピカソはナチスドイツ空軍によるスペインのゲルニカ無差別爆撃に抗議したと言うのだが、大間違いである。ピカソは人道主義で抗議したのではない。人道主義ならば、原爆や一晩で10万人余を焼き殺した東京大空襲への抗議の画の1枚も描いたらよかったろう。ゲルニカを改めて見るが良い。どこに空襲への抗議の意図が見えると言うのか。

かろうじて「ゲルニカ」というタイトルで分かる程拙劣な表現である。あるいは賢しらに言う。愚鈍な大衆には「ピカソの芸術」が分からないのかと。しかし浮世絵があれほど流行ったのは、愚鈍な大衆にも理解できたからである。真の芸術家は芸術評論家を相手にはしない。愚鈍な大衆を相手にするのである

 報道ステーションもピカソも、表現の自由は左翼にしか認めないのである。左翼のお里が知れる、というに過ぎないものである。左翼とは何か。日本共産党によれば、共産主義の前衛である。前衛とは共産主義を理解できない、愚鈍な大衆を教育(洗脳)する高貴な任務を担う者である。一方のピカソは左翼の天才的詐欺師である。生前さっぱり儲からなかったモジリアニやゴッホと違い、生前から何億も稼いだ天才的詐欺師である。

 


「新潮45」休刊と日本ファシズムの影

2018-11-22 20:13:08 | ジャーナリズム

 ファシズムとは、倉山満氏によれば、一党独裁で党が国家の上に君臨する事である。まことに明快な定義である。それによれば、ナチスドイツやイタリアのファシスト党はもちろん、ソ連や中共は明快にファシズム国家であると言える。ソ連などには軍隊にも政治将校と言うのが配備されていて、指揮官に党の命令を伝えていた。

 日本はかつてもファシズムであったことはない。政党が解散させられて、大政翼賛会ができたが、これは政党ではないし、国家の上に立ったこともないからである。党利党略だけを優先し、外交政策に無責任な政党群を緊急措置として、一時的に解散しただけのことである。

 ところが小生は日本ではファシズムを信奉する勢力が、今頃になって威力を増しているように思われる。その典型的な現れたのが新潮45休刊騒動を代表とする、国内の動きてある。これらは、ソ連崩壊以後顕著にあらわれてきた傾向のように思われる。元々共産主義に理想を求めた人たちが、ソ連が冷戦に敗れた結果、共産主義が資本主義より優れている、という信奉が実際には間違いである、という事実を突き付けられたにもかかわらず、それでも共産主義は正しい、という心情は多くの人の中に残り続けたと思われる。

 その人たちがよりどころとして求めたのが、東京裁判史観、あるいは自虐史観、と保守の側から批判される思想である。本稿で述べる東京裁判史観について定義しておこう。もちろん東京裁判の判決で示されたように、支那事変、大東亜戦争は日本の愚かな指導者が起こした、東アジア諸国に対する侵略戦争であり、南京大虐殺などを行った日本軍は、人道的であった連合国軍に対して、非人道の極みの軍隊であった、という基調が根底にある。

 東京裁判史観の基調はこのようなものであるが、さらに日本の侵略史観が原因となって、北朝鮮、韓国、中国に対する贖罪意識が強い。いわゆる「従軍慰安婦の強制連行」についてみれば分かる。「吉田清治」証言の嘘がばれたにもかかわらず、東アジアの人たちの軍による「性奴隷化」はあった、と言う立場は崩してはいない。もちろん東京裁判史観の持ち主と言っても、単に東京裁判の判決を多少受けているのに過ぎない程度など、程度の差はあるが、ここで問題にしたいのは、徹底的に明治維新から敗戦までの日本を暗黒の国として、日本が悪い、という材料があれば何でも飛びつき、日本を貶めようとしている反日日本人である。以上のような考え方を、ここでは東京裁判史観という。その人たちは、根底が共産主義の信奉者やそのシンパである、と考えられる。

ソ連が理想の国だとは今更言えないから、かつて日本は東アジアを侵略したから謝罪すべきだ、などということを声高に言う人達である。その結果、チベットやウィグルへの弾圧は無視し、北朝鮮による拉致問題には冷たく、「従軍慰安婦」問題で日本政府を追及する、という具体的な行動をとっている。

 その真逆の立場も近年、実証的な立場から強化されている。朝日新聞による「吉田清治」証言の誤報の謝罪や、「南京大虐殺」の捏造、日米戦争はルースベルト政権やコミンテルンの陰謀であったこと、日本の植民地解放などが次々と検証され始め、日本擁護論が論壇の一方の雄になりつつある。昭和20~30年代には、戦争を知る世代が中心だから、多くの国民の内心としては、日本の戦争は間違ってはいなかった、というものであったろうが、表に出るジャーナリズムや論壇は東京裁判史観が席巻していた。GHQの検閲の影響が強かったからでもある。しかし多くの国民は、真実はいつか分かる、と耐えていたのである。

 実際、政界では憲法改正などというものなら、袋叩きにされたものである。ところが当時の多くの国民の内心は必ずしもそうではなかった。現に昭和30年代の漫画やラジオなどでは、ジャーナリズムに叩かれるのを恐れながらも、消極的ながらも戦争を日本人擁護の立場から描くものもあったのを覚えている。「怪傑ハリマオ」という、日本人の反欧植民地の英雄のテレビドラマもあったのである。

しかし、明快に日本の戦争にも理があった、と論証するマスコミやジャーナリズムは例外であった。読売新聞の「昭和史の天皇」という連載は、東京裁判史観に配慮した、おずおずとしたものだった。この連載ですら、今常識になりつつある、「バターン死の行進」の嘘などは書かれていない。この連載に、大東亜戦争の日本の正義を証明することを期待こしていた小生は幻滅した。林房雄の「大東亜戦争肯定論」程度のものが画期的である時代が敗戦後からずっと続いた。

 「保守」という言葉を肯定的に変えたのは、かの西部邁氏の言論の影響が強かったように記憶する。その結果か、保守を自称する思想家が輩出してきた。その少し前から、明治維新以降の日本の立場を一貫して肯定する史観が、ジャーナリズムに続々と現れた。

一方でソ連が崩壊して、共産主義の間違いが明白になったにもかかわらず、東京裁判史観をベースとした思想は、ことにテレビを中心とするメジャーマスコミに既に確実に定着していた。テレビは東京裁判史観の公然とした支持者に成り代わってしまったのである。朝日新聞に対峙している産経新聞の系列であるはずのフジテレビですら、ワイドショウから報道までが、東京裁判史観にどっぷり浸かっている

 現在は、小生の見るところ書店の棚においては、東京裁判史観の立場に比べ、これに対峙する保守の立場の書籍の方が優位である印象が強い。かつて左翼雑誌の旗手だった「世界」など見る影もない。しかし、新潮45廃刊事件に見られるように、公然たる社会的影響力においては、東京裁判史観派が圧倒的影響力を持っているように思われる。そう考える根拠は、杉田水脈論考をのせた新潮45と、その擁護論を特集した翌月の新潮45本はヘイト本扱いされたあげく、社長が謝罪して廃刊せざるをえないほどの攻撃を受けたからである。廃刊と社長の謝罪に際しては、社内での突き上げが決定的だったようであるが。

 これは、個人なら到底耐え難いほどの誹謗中傷もあったのだと想像する。ところが、保守側がそのようなことを仕掛けるのは、ほとんどないのである。例えば反東京裁判史観の雄である、櫻井よしこ氏や百田直樹氏らをイベントの講演に招聘しようとすると、主催者が脅迫や恫喝に等しい攻撃を受けて、招聘を中止せざるを得なくなった事件があった。このことをテレビは、実質的には何の問題にもしないのである。

 新潮45の廃刊について、平成30年12月号の雑誌WiLLに曽野綾子氏が取り上げている。それも極めて控えめで、せいぜい「別に放火や殺人や詐欺をすすめたりしたのでもない雑誌をつぶした人たちは、この時代にはっきりとした汚点を残した。」と述べるだけなのだ。もっと過激に反論せよ、といっているのではない。これがまともなもの言いなのである。

 ところが東京裁判史観の側の人たちは、遥かに過激なものいいをするにもかかわらず、社会的制裁は何等受けない。安保法制反対デモの際に、法政大学の山口二郎教授は時の首相を「安倍に言いたい。お前は人間じゃない!たたき斬ってやる!」と発言した。新潮45論文の杉田氏に対しては、殺害予告がされた。曽野氏の言う、殺人をすすめた、どころか、殺人を宣言したのである。水田氏の新潮45における文章どころではない、とんでもない暴言である。ところが一部新聞等で報じられただけで、山口氏は法政大学を馘首されたどころか、謝罪もしていない。事実上黙認されたのである。むしろ東京裁判史観側からは、よくぞ言ったというのが本音であろう。

 また、ネットで保守的言動を書き込むとネトウヨ、と悪罵を浴びせる。このように社会的影響力においては、東京裁判史観に立つ側の方が異常に強い。彼等は異常に強い自己正義の絶対的塊である。言論の自由を標榜しながら、異論を絶対に許さない。言論の自由は自己主張絶対化の口実に過ぎない。

 保守の言論が出版界で多勢を占めているようなのに、社会的影響力では東京裁判史観の側が圧倒的に強いのは何故か。確たる自信はないが、テレビマスコミで大勢を占めている他、保守の側は団結力が少なく、東京裁判史観の側は、団結力が極めて強くかつ攻撃的であることによるものだと小生は推測する。保守の側は僅かな意見の相違で仲間割れするのに対して、東京裁判史観の側は、例えばターゲットを水田氏に絞れば少々の意見の相違は無視して、団結して攻撃的姿勢で一致するようである。

 逆に保守の側では、例えば櫻井よしこ氏を営業保守、すなわち金儲けのために保守的言論をしているといちゃもんをつける、保守論客の文章を読んだことがある。この人は櫻井氏とさほど意見の相違はないのに、考え方の相違ではない、話にならない事で強く批判をするのである。またかつての「新しい教科書を作る会」での内紛騒動も仲間内の争いである。

共産主義者の根源的恐ろしさを思うたびに想起するのは、共産主義の絶対的信奉者の故向坂九州大学名誉教授である。生前の向坂氏の、テレビでの発言を見たことがある。インタビューアーが「日本に共産主義国家が成立して、それに反対する意見が出たらどうしますか」という主旨の質問をすると向坂氏は、明瞭に「弾圧する」と断言した衝撃は忘れられない。言論の自由などとい考え方は、そもそもなかったのであろう。彼は戦前、大学を馘首される、という弾圧を受けた。その経験は言論の自由を主張するのではなく、思想の異なる者を弾圧するのは当然、という思想を補強したように推察する。

東京裁判史観の持ち主(つまり隠れ共産主義者)は、自分の意見に賛同する人間の「言論の自由」しか認めないのである。現在の中共が言論弾圧しているから言うのではない。「マルクス・レーニン主義」の本質がそうなのである。カール・マルクスは英国における苛酷な工場労働の実態をあばき、労働者による革命政権の成立を予言しただけで、共産主義となった政治の運用方法について言及してはいなかった。

暴力革命の実現(実態としては、帝政ロシアを倒した白色革命に対して、これを倒したクーデターであるが)と共産主義国家の運営方法を実践したのは、レーニンであった。だからマルクス・レーニン主義というのである。だが、レーニンとその後継のスターリンが世界に拡散させた共産主義国家群、というのは理想国家どころか、帝政ロシアや資本主義英国より遥かに悲惨なファシズム国家群であった。

こと今に至っても、ソ連は本当の共産主義国家ではない、と「真の共産主義」を擁護する人々はいる。しかし、レーニンが実践した方法でしか、共産主義国家は実在し得ないことは歴史が証明している。レーニンが実現した共産主義国家の悲劇は、実にマルクス自身の言った、私的財産所有権の否定に胚胎しているのである。私的財産所有権の否定は、現実政治の実践においては、国家による個人資産の略奪に他ならない。「共産主義黒書」に記述されている、世界戦争の惨禍より悲劇的な共産主義国家群の成立は、マルクスの思想そのものに淵源がある。

 共産主義国家はファシズム政府となる。共産党による国家支配である。日本には共産党以外、ファシズム志向の政党はなかった。一般国民の考え方とは反する、東京裁判史観支持者の、社会的影響力の増大は、ファシズムの臭いを感じる。

 

 


朝日新聞の社是fは恥も外聞も捨てて、会社をつぶさない

2018-05-21 20:41:58 | ジャーナリズム

朝日新聞の社是

 朝日新聞の社是は、打倒安倍内閣だ、と朝日新聞の幹部が言ったとか言わないとかで、裁判沙汰になっている。朝日新聞の大幹部には、戦前の緒方竹虎、戦後の秦正流がいる。この二人の言葉を検証してみる。

 緒方竹虎は副社長までなった人物で、リベラルの評価が高い。緒方は「五十人の新聞人」という本で、戦前の新聞界を振り返って、こう書いた。

 「これは丸腰の新聞では結局抵抗はできない。只主筆とか、編集局長が自ら潔しとする意味で、何か一文を草して投げ出すか、辞めるということは、痛快は痛快だが、朝日新聞の中におってはそういうことも出来ない。それよりもこれは何とか一つ朝日新聞が生きていかなければならないという意識の方が強くなり・・・」

 

 結局、新聞で権力に抵抗するよりは、社員は朝日新聞の存続を図るため、筆を曲げろ、というのである。この自分勝手な一文は、当時の左翼人士からも侮蔑された代物である。

 

 一方、朝日新聞大阪版では、一読者が「新聞も戦争に加担した」ことにはならないか、と投書したことに対して元大阪本社編集局長の秦正流氏が連載記事で答えた。そこにはこうある。

 

 「多数の従業員をもち、多年の伝統をもち、社会的信頼を寄せられている新聞社としては『余程』のことがなければ玉砕は許されない。」

 

 意味は明快である。何のことはない、戦争に協力せずに弾圧されて倒産すれば、社員が路頭に迷うので、多数の社員を抱えた大新聞としてはそんなことはできなかった、ということを品良く言ったのである。

 

更に秦は「新聞がどうして戦争協力に走ってしまったか。」と自問して次のように答える。

 

 「それは新聞自体が生きのびるためであった。そのような新聞を国民が望んだことも、つまり鶏と卵の関係が生じていたことも忘れてはならぬ。鶏と卵のどちらかはともかく、新聞だけがその原因をなしたのではなく、最大の責任は軍部を抑え切れなかった政府にある。その政府を支援してきた財界にもあったということだ。今も。」

 

 秦はついに開き直った。マスコミは正しいと信ずることを報道することが、健全な政治の重大なひとつの要素であるという自負はない。恥も外聞も捨てて、他に責任を転嫁する。新聞社がつぶれたら俺たちは困る。国民が望むから戦争に協力したのだ、お前たちに非難されたくはない。そもそもの責任は政府と財界にあるのだ。露骨に言えばそう述べたのだ。

 

秦の責任転嫁は更にエスカレートする。

 

 「言論界の外でも、歌謡曲が情緒に訴えて国民の戦意を高揚した。小説、映画にも干渉が加わり、軍国の母、軍国の妻が称揚された。作家も画家も動員された。そして、この流れに乗ったのが、まず今日も現存している著名な出版社をはじめとする大小の御用出版雑誌社。」

 

 秦は調子に乗りすぎたのである。新聞ばかりではない、あらゆる階層が戦争に協力したではないか。新聞だけ批判されるいわれはない、と開き直ったのである。他のジーナリズムを御用出版雑誌社と言うなら、朝日新聞社自身は御用新聞社ではないか。よくも言えたものだと呆れるしかない。

 

 この二人の朝日新聞幹部は戦前戦後と時期は違うにもかかわらず、「ジャーナリズムとて真実の報道に固執して社がつぶれるよりは、何よりも朝日新聞紙が生き延びることが肝心である、と見事に同じことを書いている。秦はこれに加えて社員の生活がかかっているからつぶれては困る、とさえ明言している。安倍内閣打倒が社是である、というのは言ったの言わないのと物証のない水かけ論である。しかし、彼等二人の「朝日新聞がつぶれないよう、筆を曲げるのもやむなし」と言う言葉は、自ら書いた記録が残されている。まぎれもない朝日新聞の社是である。


反権力マスコミの嘘

2016-09-03 14:56:52 | ジャーナリズム

 現代日本のマスコミは何かと、反権力と言論の自由を振りかざす。世の中にこれほど胡散臭いものはない。有名なジャーナリストは、日本の首相を何人も辞職に追い込んだと、反権力を自慢げに語ったのを、ある評論家に、それなら最も反権力の監視の対象となるべきは、その男自身だと揶揄していた。図星である。

 日本のマスコミの反権力とは、攻撃しても徹底的に反撃できない都合のよい権力者攻撃である。それも基本的に対象者は日本人だけである。日本の政治家が失言すれば、よってたかって叩く。それも外国の批判を招くから、という外国頼みのものすら多い。しかもその外国と言うのは反権力の言論の自由が全くないから、自己矛盾も甚だしいのである。

 現代も含めて、支那の歴代王朝には、公式史観という言論統制の枠がある。現在の王朝の正統性を保証する歴史観である。これに対する批判は許されないから、反権力の言論の自由はない。日本のマスコミが反権力を言う時に最もよく持ち出すのが、現代中共王朝の歴史観に日本の政治家の言動が反していた時である。曰く、中国から批判をされるぞ、である。

反権力を標榜するときに、批判が絶対許されない他国の歴史観に則っているから、矛盾も甚だしい。井の中の蛙と言ってもいいだろう。

欧米にしても日本人が考えているほどに、反権力の自由も、言論の自由もあるわけではない。言論弾圧もある。戦前米国のミッチェル准将は、戦艦に対する航空機の優位を主張していた。そこで戦利戦艦を演習で爆撃して見事に沈めてしまった。デモンストレーション見学に居並ぶ海軍の幹部は色を失った。ところが、海軍はダーティーなマスコミに金を渡してスキャンダルをでっち上げ、ミッチェルは屈辱の中で退役に追い込まれた。

「東京裁判」で何人もの米弁護士が真摯に日本人を弁護した。大統領を非難する言論すら展開した。その結果、弁護士で米国での職を失った者もいた。大西洋無着陸初横断飛行で有名なリンドバーグは欧州戦争への参戦に対して、ラジオ放送などを通じて反対運動をした。そのため多くの中傷と非難をあび、脅迫までされた。かくほどに米国の言論には、自己の信念を貫くための不利を覚悟の上で戦う人士がいることである。

ロシアや支那でそのような人士がいないこともない。ただ違うのがロシアや支那では例外であり、欧米では例外とは必ずしも言えないことである。さらに違うのはロシアや支那では言論弾圧の程度が違うことである。ソ連崩壊後といえども政権批判をしたために、不可解な死をとげたロシア人はけっこういる。

中共では政権にわずかな批判をしただけで、行方不明になったり、ひょっこり現れて突然前言を翻す、という「事件」が最近頻発している。欧米でも同様な弾圧はないことはないが、ロシアや支那に比べれば例外的と言えることが違う。

これらに比べれば、現代日本のマスコミの反権力とか言論の自由はままごと遊びの類であろう。そもそも日本のマスコミは維新以後、常にその時々の最も強い権力に追従していたのは事実が証明している。戦前のテロで多くの人が暗殺された。暗殺されたのは、どういう人士であったか。政治家、軍人、資本家、金融家である。この中に欠けている有力な職業がひとつある。ジャーナリストである。その原因は、ジャーナリストが常に最大権力に阿っていたことである。同時にジャーナリストが世論を形成する最大権力者であったことすらある。


何故日本のマスコミは、日本の歴史には辛辣か

2015-07-25 16:13:59 | ジャーナリズム

 平成25年8月12日のNHKで世界遺産ドリーム対決・コロンブスVSバイキングという番組があった。基本的にはは彼らを英雄視している。しかし多くは悪辣なカッパライ殺人強盗の類である。バイキングとは海賊のことではないか。もし彼等が日本人なら思い切り批判するのに、なぜ西洋人なら英雄なのか。大英帝国博物館の所蔵品などは、英国が世界から略奪したものである。バルト三国の紹介番組では、歴史を語っても、第二次大戦のどさくさにまぎれて、ソ連に侵略併合されたとは決して言わない。蒙古襲来についても、単に事実関係を言うだけで、決して侵略してきたなどとは言わない。

 これが日本となると、全く反対の態度を取る。朝鮮征伐は侵略戦争であり、秀吉は年老いて判断力を失い、非道な侵略戦争したという。もちろん韓国併合は悪しき植民地化である。大東亜戦争の東アジアの攻略は、これらの国々への侵略といういい方になる。ところが、東アジアの国々を侵略したと言うのは事実関係から言えば、間違いである。当時、フィリピン、インドネシア、ベトナム、ビルマ(ミャンマー)という国は無かった。無かった国々は侵略できない。

日本が攻撃したのは、これらの宗主国である、アメリカ、オランダ、フランス、イギリスである。東アジアの国々を侵略した、と言ってしまうのは、フィリピン、インドネシア、ベトナム、ビルマ(ミャンマー)が、欧米諸国から侵略されて、植民地になっていたことを間接的に隠蔽してしまっている。

このように、現代日本のマスコミは、欧米諸国の国々の行為については寛容で、日本の行為に対しては極度に辛辣である。これは、欧米の過去の歴史に対して寛容、というよりは事実関係を淡々と説明する、というのが比較的正常であるのであって、日本のマスコミが日本の歴史について、常に極度に批判的であるのが、異常なのである。


朝日新聞の敗戦の初心とは

2015-06-21 13:42:32 | ジャーナリズム

 このブログに興味を持たれた方は、ここをクリックして、小生のホームページもご覧下さい。

 国会図書館の縮刷版は貴重である。朝日、毎日、読売の各新聞の縮刷版が、戦前どころか新聞によっては、創刊当時からそろっている。何故か産経だけは縮刷版がない。パソコンで検索するか、マイクロフィルムを見るしかないから、手軽にパラパラ見ることができないのは残念である。縮刷版がないのは、新聞社が作っていないからである。

閑話休題。終戦近辺の新聞の縮刷版を書架に調べてみた。驚いたのは、敗戦直後の朝日新聞の論調のまともなことだった。8月15日のコラムには「何故ここに至ったか、責は何人が負うべきか、などといふ勿れ。顧みて他をいふをやめよ。各人、静かに思ひをひそめて、自ら反省すべきである。」とある。

現在の朝日新聞が、「日本の戦争責任」などと言って、軍部の責任、誰々の責任と言っているのとは、反対である。後年のこのような言動について、当時は戒めていたのである。ところが今は、自から戒めを破って恥じないのである。

 翌日の社説には「死せず亜細亜の魂」と題して「この戦争の結果は恐らく、外面的にはアジアの奴隷化に拍車をかける点、にもかかわらず内面的にはアジアの覚醒に偉大な貢献をなした点に存するであろう」といい、「かつて日露戦争後、同じく解放の熱望に燃える支那の国民的要請を我々が正確に把握しなかったところに、その後における東亜の悲劇の発端があった」という。

 すなわち、日本が負けることによって、欧米の植民地支配は強化されるであろうが、植民地の民族には、日本が戦ったことによって、独立への気概が強くなるだろう、というのであって、暗に将来の植民地解放の実現を示唆している。ただし、支那に関する認識は依然として甘い。清朝崩壊以後の支那は、過渡的な混乱期であって、真面目な日本が巻き込まれたのに過ぎないのであって、「支那の国民的要請」などというものは存在しないのである。ただこれらの弁は、当時の国民の多くの気持ちを代弁していたのも事実であろう。

 そして、縮刷版を丹念に見ていくと、一ヵ月もすると、この新聞のコラムは「神風賦」から「天声人語」とタイトルを変えて、論調も急速に変わってしまった。元々朝日新聞のコラムは天声人語であった。それが紙面が戦時色が強くなると、神風賦と改題した。時節に迎合したのである。

 そして、9月に、GHQによってまる二日間の発行停止にされた。米国等への批判的論調が逆鱗に触れたのである。すると、論調は180度変わった。同時にコラムも天声人語に戻ったのである。常に時節に迎合する。論調が変わろうが、これは朝日新聞にとっては不変のポリシーである。

 だが朝日新聞は、戦前は政府や軍部の検閲で自由がなかったとは言うが、戦後は平和国憲法に検閲の禁止が書かれていたのに、GHQの検閲で筆を曲げたとは書かない。それは、未だにGHQの検閲が終えても、検閲方針に従っているからだ、GHQの検閲がなくなったから自由に書ける、と言ってしまったら、どう論調を変えたらいいか、分からないからなのだ。


マスコミは時の空気に流されているだけ

2015-05-24 15:30:30 | ジャーナリズム

 最近の報道で言えば、集団自衛権問題を例にとろう。特にテレビの報道であるが、真剣な顔をして、「日本が戦争ができる国になる危険がある。」ということをキャスターたちは真顔で言うのであるが、彼らのスタッフが国際法上の自衛権について検討し、その上でコメントしているとは思われないのに、なぜあんなに自信を持って言えるのか、不思議ではないだろうか。

 彼らは野党などの反対勢力が言うこと、朝日新聞が時の安倍政権に反対して書いていること、などを要約して言っているだけである。しからば、なぜ彼らは自分の頭で考えもしないことを自信をもって言い、戦争になる、などと怒って見せることができるのだろうか。そう、彼らは、その時の言論界で多数派に寄り添っているから、もし言っていることが間違いであっても窮地に陥る心配がない、と知っているからである。

 反対に集団的自衛権の保持は必要である、などと言えば抗議の電話が鳴り続けるであろう。それは嫌なのである。特にテレビ報道などは、世の中の空気を読んで一番言いやすいことを言っているのに過ぎない。産経新聞とついこの間まで、フジサンケイグループであったフジテレビですら、朝日新聞のように、集団自衛権には疑義を呈している。つまりテレビマスコミが一番世の中の言論の支配的空気に乗りやすいのである。

事実をろくに確認もせずに、戦時中は日本が負けるなどと言えば、憲兵に追いかけられるとか、非国民と言われる、と彼らはいうのであるが、彼らの言うのは、その時代はそういう風潮が支配していた悪い時代であったと言っているのに過ぎない。

 もし戦時中がそのような時代であったと仮定すれば、彼らは戦時中に生きていれば、非国民、と非難する側にいるのに間違いはない。小生は戦時中に反戦的な言動をする者を非国民として非難することを悪い、と言っているのではない。ましてや本当にそのような風潮があったことを確認したわけでもない。

 しかし、当時のマスコミが非国民という言葉を多用していたとすれば、彼らの多くは、その意味を真剣に考えて言っているのではない。時の空気がそうだから便乗しているのに過ぎないのである。そういうメンタリティーにおいて、今集団的自衛権反対を怒ったように叫ぶテレビキャスターは、非国民とかつて叫んだとされるマスコミと同じである。もっと正確に言おう。

繰り返すが、戦時中に戦争を批判すると非国民と言われた、と言われたのが事実であったかどうか、ということではなく、そういうことがあったと事あるごとに主張する人たちこそ、時の空気に流されて、一番気楽な言論を語ると言っているのである。例えばテレビ番組で、戦時中の隣組などの場面を作るとき、そんな事実があろうとなかろうと、善良な人を非国民と非難する場面をねつ造するのである。そういう場面を作ることが現代日本での空気に適しているからである。後で嘘八百だとばれたとしても、非難される恐れもないのである。ドラマをでたらめにしないためには、「善良な人々が非国民と非難される」場面が当時一般的だったか否か検証しなければならない。希なできごとを一般化してドラマの場面にすることは、故意にする印象操作である。

政府がマスコミを批判すると、言論の自由を守れ、と言う。戦前のような言論の自由のない社会に戻すのか、と言う。それならば彼らは、政府に批判されただけで筆を曲げるような人たちなのであろう。それならば、彼らはもっと強い圧力がくればもっと平気で筆を曲げる。彼らが言う言論の自由とは、好き放題無責任なことを言っても、日本国内くらいは許される社会にしておいて下さいと懇願しているのに過ぎない。彼らにとっては、言論の自由の為に闘う、などということは論外で、言論の自由はそこいら中に転がっていて、ニュース営業が勝手にできるものでなければならないのである。

朝日新聞が昭和20年九月にGHQの逆鱗に触れて、2日間の発刊停止を命じられた。自民党の新聞への抗議などとはケタの違う、正真正銘の言論弾圧であった。彼らはGHQの言論弾圧と闘ったか。そうではない。唯々諾々として検閲方針の通りの報道をしたのである。それどころかGHQが去って自由になってもGHQの検閲方針を墨守した。それどころか、朝日新聞は未だに、GHQによっていかなる言論弾圧があったかを一切検証しない。戦後米国に占領されて、日本には戦前のような検閲がなくなり、自由と民主主義の国になった、とさえ言いきるのである。これでも朝日新聞が、言論の自由のために闘う、と断言できるのが不思議である。

だから日本より遥かに言論の自由がない、北朝鮮や支那の政府の言論弾圧は批判しないのである。批判すれば支局を閉鎖されるとか、脅されるという脅威がまっているからである。その脅威の前には言論の自由などは、どうでもいいのでる。日本のほとんどのジャーナリストには、普遍的価値としての言論の自由という考え方はない。商売として日本国内で言いたい放題言うことのできることが、彼らの言論の自由の意味なのである。 

  言論の自由のためにジャーナリストはどう闘っているのだろう。以前、安倍首相がNHKに圧力をかけた、と報道して言論の自由を守れ、と連呼した。これが彼らの闘い方である。僕たちは首相に圧力をかけられたと世間にいいふらして、世間を味方につけるだけなのである。マスコミの幹部が政治家に圧力をかけられたら、断乎拒否するだけで、言論の自由は守られる。彼らのしているのは、「政治家にいじめられたよう」と叫んで世間に助けを求めている子供同然である

 


朝日は反日が問題ではなく、反日で他国のために働くのが問題

2015-01-18 16:41:26 | ジャーナリズム

  雑誌WiLL平成27年の2月号で、朝日新聞の誤報問題について、櫻井よしこ氏と元朝日の山田氏が対談していた。もちろん山田氏は朝日を擁護するのだが「・・・権力が暴走していくのをぎりぎりで止める大きな役割を果たしてきたと思います。」というのだが、その権力とは警察などの国家権力である。ジャーナリズムが国家権力を監視する、というのはよかろう

 だからそれが、朝日新聞が反日になる理由である。ある人たちに言わせると一般の記者などは、イデオロギーに染まって反日になるのではなく、反国家権力と言う立場から、反日になるのだそうだが、山田氏の見解はそれに符合する。反国家権力、それもよかろう。全ての権力に対してなら、である。

 ところが問題は、北朝鮮や中国の権力に対しては、反権力ではないことである。朝日は反米である、と言われるが、反日に比べれば程度が軽い、とすら言いうる。あらゆる国家権力に比べると、日本の国家権力に対するのが、一番ひどいのである。日本について評価すべきものは黙殺して、批判するネタがあると誇大に書き連ねる。

 原爆投下や東京大空襲は明確に民間人をターゲットにした、残虐行為であり、国際法に明白に違反している。それですら残虐行為の張本人の米国を非難せず、日本が戦争を始めたから仕方ない、という見解である。朝日が反米であるより、より反日である、というのは、この例で明白であろう。 吉野作造であったと思うが、愛国者であるが故に政府を批判する、と言った。しかし、外国と敵対している時は、無条件に日本政府の味方をするというのだ。

当然であろう。反政府が利害の一致しない外国を利することになっては、いけないのである。ところが現在の朝日は違う。反日であるばかりではなく、反日の結果、日本と利害の一致しない外国の味方をすることである。竹島は日本の固有の領土あることは明白であり、実効支配している韓国と日本政府は争っている。

ところが、朝日のコラムには、竹島を韓国にくれてやった方がいいかのごときことを書いた。反日が高じて、とうとう韓国を利することまで言いだしたのである。朝日の反日は、それ自体が問題ではなく、意図しているか否かには関係なく、明白に利害を異にする外国を利していることである。