毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

書評・やがて哀しき憲法九条・加藤秀治郎

2019-12-31 16:04:48 | 政治

 タイトルに惚れ込んで衝動買いしてしまった。GHQにより日本国憲法が制定された過程について、従来の本とは別な視点で説明を加えている。これを読んでも狂信的憲法九条護持論者の意見は変わるまいが、まともな理解力を持っていれば、日本国憲法なるものが、いかにインチキで日本に有害か分かる。

 GHQが言論の自由と民主主義を唱えながら、戦前より徹底して厳しい検閲をしていたことは、江藤淳らの研究により、広く知られるようになった。皮肉なのは昭和天皇がマッカーサーを訪問した写真のエピソードである。かの写真は翌日掲載されず、二日後掲載された。(P18)それは外務省が掲載差し止め命令を出し、日本政府の検閲に気づいたGHQが外務省に抗議して掲載されたから遅れたのである。

 「不思議な話はさらに続きます-その間の事情を知らなかった日本政府の情報局が、なんと写真を掲載した朝日、毎日、読売の三紙を発禁処分にしたのです。もちろん新聞社側も黙っていません。GHQに事情を説明して、救済を求めると、GHQがすぐに日本政府の発禁処分を取消すように命じた、というのが顛末です。」という情けない話である。

 情けないのは新聞社がGHQに頼った、ということばかりではない。日本政府が差し止めすれば掲載を止め、GHQに命じられれば掲載する、という姿勢が第一である。そればかりではない。新聞社の営業に関係のない指示には、外務省にでもGHQにでも唯々諾々と従うが、発禁処分という営業の死活問題となると、なりふりかまわずかつての敵国のGHQに泣きつく、という新聞社の姿である。

 検閲されようが、掲載を強要されようが、真実はどうでもよい。ただ新聞の営業が第一なのである。まさに緒方竹虎の言う「新聞は生きていかなければならない」のである。

 戦後、検閲が廃止され自由になった、という感想の例証として高見順の「敗戦日記」が挙げられる。(P18)GHQが政府の検閲を廃止したことを知り、昭和20年9月30日に「これでもう何でも自由に書けるのである」と書いていることを示す輩が多い。ところが高見はそのすぐ後の10月3日には、米軍の非行を批判した「東洋経済新報」が没収になったことを知り「アメリカが我々に与えてくれた『言論の自由』はアメリカに対しては通用しないこともわかった」と書いている。

 護憲派の主な人士は、高見のGHQによる検閲批判を知っていて無視し、米軍の検閲がなかったかのように振る舞っているのは、自己欺瞞も甚だしい。しかし彼ら護憲派の自己検閲は「紫禁城の黄昏」の翻訳で、溥儀が自ら強く清朝復活を望んでいた箇所を大量に削除して出版したなどの事実を知れば、彼らの考え方と違う事実を隠ぺいする悪癖があることは知れる。

 しかし、小生は、根本的に高見は軽薄であると言わざるを得ない。結局のところGHQが日本政府の検閲を廃止したことを手放しで喜んでいるからである。これではGHQが作っても日本国憲法は内容が良いから改正すべきではない、という護憲派と同様である。

 日本国憲法は芦田修正によって、自衛権を放棄しないことになった、という通説も本書によれば真相は複雑である。マッカーサーノートには、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。」という文章があったが、マッカーサーの部下がGHQ草案をまとめる際に削除した。(P45)これをマッカーサーも黙認しているから、芦田修正以前にGHQ草案は自衛戦争を認める意図があった、というのである。

 「前項の目的を達するため」という芦田修正を提案していた時点では、実は芦田には自衛戦争肯定という変更になる、という含みは考えていなかった、というのである。(P59)ところが、この文言を見た法制局官僚が、自衛戦争肯定という変更になるという考えを持ち、芦田に話したところ、それを認めて憲法公布の際にその解釈を公にした、ということだそうである。

 結局のところ芦田修正は、GHQの意図を明示したに過ぎない、ということになる。芦田は自らの発案で芦田修正をしたのではなかった。後に吉田首相は、軍隊絶対不保持の見解を示しているからややこしい。

 かの白洲次郎は、昭和27年の文芸春秋に再軍備の問題で「・・・憲法制定当時の米国の対ソの見通しは、日本に関する限りまちがっていた」としアメリカ人らしく「率直大胆に政策の失敗を認めて貰うわけには行くまいか」と書いているそうである。直言居士と言われる白洲らしい発言である。

 ところが実は米国は白洲が書いた翌年、明白に謝罪している。(P67)当時のニクソン副大統領は「もし非武装化が1946年(制定の年)においてのみ正しく、1953年の現在、誤りだとするなら、なぜ合衆国はいさぎよくその誤りを認めないのでしょうか。・・・私は合衆国が1946年に過ちを犯したことを認めます。」と演説した。

 演説は来日した際に日米協会で行われた。演説の原文は「日米関係資料集」に掲載されている。ところが「定訳がないらしく、そこにも日本文はありません。・・・ただ当時はそれなりに知られていたようでして・・・丸山眞男が同じ年の講演でこう語っています。ニクソンが『戦争放棄条項を日本の憲法に挿入させたのはアメリカの誤りであった、という有名な談話を発表した』と」あの丸山の言だから不思議なものである。当然護憲派はこのエピソードを知っても無視するであろう。

 なお、国会図書館で、「日米関係資料集」を確認したら間違いなく、ニクソンの演説の原文があり、内容は筆者の指摘通りであったことを付言する。

 ただ本書では西ドイツの「憲法」が再軍備を想定していた内容となっていたことについて、制定が遅れて米ソ冷戦が起きてからの作業であったこと(P65)と書いているのは単純すぎる。さらに憲法改正への関与を米国は日本には検閲で隠したことについて、ドイツではもう少し穏便にやっていたとして「ドイツについては法治国家の伝統がありますから、そういう小手先の方法は通じない(P27)」という判断だとしているのもいただけない。日本を法治国家と認めず、検閲も強引にしていて、憲法も強制した、ということについては、日本人に対する人種偏見という観点もあることが欠けているように思われる。要するに日本に対するのと異なり、西独に対しては、対等の文明国として対処していたのである。

 納得できない点をもうひとつ。侵略戦争の定義である。(P40)筆者の言う通り国際法の問題として考える。すると「侵略はインヴェイジョンだと思うでしょうが、・・・アグレッショョンだという」というところまではいい。「単純化して言いますと、侵略戦争は領土などを奪うため、他国に攻め入る戦争です。」と述べているのはいただけない。

インヴェイジョンではない、と言いながら「領土などを奪うため」という道義的判断を使っている。アグレッションは文字通り「先制攻撃して開始された戦争」のことを言うだけであり、意図とは何の関係もないのである。「不戦条約」の侵略戦争の概念の反対の自衛戦争とは当事国が自衛か否か判断する、という留保がつけられている、有名無実なものであることはよく知られていることを付言する。

さらに「交戦権が認められ、捕虜となった場合、人道的待遇を受けることができる(ゲリラなどはそうではない)。(p87)」と書かれているが、これも間違いである。1977年のジュネーブ条約の追加議定書で現在はゲリラも、武器を公然と携行することを条件として捕虜となることが認められている。

すなわち同議定書第四三条の1に「紛争当事国を代表する政府又は当局が敵対する紛争当事国により承認されているかいないかを問わない」とされている。(出典:国際条約集、有斐閣)正規軍と非正規軍との区別をなくしたのである。これは条件付きであるが、ゲリラも捕虜となる資格のある戦闘員とみなされると解釈されている。侵略の記述といい、これだけの知識のある筆者がこのことを知らないという事は不可解である。正確に言えば、正規の政府軍に対する、反政府軍も、条件さえ満たされれば、交戦法規が適用される、と言うことは立作太郎氏によれば、戦前から慣習として認められていたのである。

面白いのは人の変節である。安保法制の議論で立憲主義に反する、として反対論を展開した小林節慶応大学名誉教授は護憲派学者として有名になったが、平成8年頃「憲法守って国滅ぶ」と言う本が改憲論として出された。(P88)この気の利いたタイトルで護憲派を揶揄したのが、小林節氏だったのである。

ドイツの憲法学者のヘッセの「憲法は、平常時においてだけではなく、緊急事態および危機的状況においても真価を発揮すべきものである。憲法がそうした状況を克服するための何らの配慮もしていなければ、責任ある機関には、決定的瞬間において、憲法を無視する以外にとりうる手段は残っていないのである」(P94)と書く。

至言であるが護憲派は、日本が侵略戦争をはじめない限り「危機的状況」すなわち戦争は起こらない、と考えているのである。瀬戸内寂聴氏はクェートに侵攻したイラクを撃退しないと、クェートはイラクに併合されるがいいのか、と質問されると答えは、かまわない、とのことであった。その理由はソ連に併合された東欧諸国も、現在は独立をしている、ということであった。彼女にはソ連に併合された東欧の辛酸と、未来にまで残る東欧の苦しみに思いをはせることはできないのである。小生は湾岸戦争に賛否はあっても、東欧の例を引く彼女の無神経は信じられない。

日本の共産党の便宜主義は昔から有名である。元々共産党は憲法九条改正派であったが、今は護憲派のごとく振る舞っているのに、天皇制廃止論はあくまで捨てていない。ご都合護憲である。日本の共産主義の大御所だった向坂逸郎氏は、非武装中立論を唱えていた。ところが雑誌「諸君」でのインタビューで、社会主義政権でない間は非武装でいくべきか、と質問され、イエスと答え、本音は軍備を持つべきだが、当面は非武装でいくべき、という本音を言った。(p143)

共産党と同じ便宜主義である。向坂氏は恐ろしい人である。昔小生が見たテレビのインタビューで、共産主義政権になると政治思想がひとつだから、共産主義以外の思想を持つ人がいたらどうしますか、と言う質問に対して向坂氏は「弾圧する」と断言したのが忘れられない。共産主義者の本音である。共産主義国家の思想弾圧は、共産主義の本質からきていることの証明である。


施政権と領有権

2019-12-28 15:27:19 | 政治

 以前にも言及したことがあるが、尖閣諸島の日米安保の適用について「尖閣諸島には日本の施政権が及んでいるから、日米安保が適用される」と明言した。多くの保守の論客もこれを聞いて安心したようである。これは奇妙なことである。決して「日本の領土だから」とは言わないのであるから。

 このことが明確になるのは、竹島問題を考えた時である。「尖閣諸島は日本の領土だから、日米安保が適用される」と明言したらどうなるのか。日本は竹島を日本固有の領土たと主張している。米国がそれに同意すれば「竹島にも日米安保が適用される」ということになる。すると日米は共同して竹島の防衛、すなわち、竹島を奪還しなければならない、という仕儀になるのである。だからといって「竹島は日本の領土ではない」とは米国は言えないのである。

 つまり米国は日本が竹島を領土たと主張するのは勝手だが、施政権が及んでいない、すなわち韓国が実効支配しているから、安保の対象ではない、と暗に言っているのである。北方領土しかりである。一度奪われた領土が安保適用となり、奪還作戦ができるなら、竹島の奪還作戦も行わなければならない。米国はこれらの領土問題に言辞を明確にできない理由がここにある。

 その結論は尖閣諸島についても、跳ね返ってくるのである。もしも、中共の「軍人なり民間人」が尖閣諸島の一部に上陸したとする。すると元々無人島なのだから、存在するのは支那人だけとなる。実効支配は中共のものとなり、施政権は中共が及ぼしていることになる。つまり自動的に「日米安保の適用外」ということになる。尖閣の奪還作戦などと言うものはあり得ないのである。

 中共が「公船や漁船」を毎日大挙して尖閣の周辺をうろうろしている理由はここにある。一度中共の漁船が大量に出現して、あわや上陸しそうになったのを米国が裏で制止した、という情報さえある。尖閣は安保の適用外になりかけたのである。それなのに日本の国会や報道は「モリカケ」騒動や「花見」騒動を追求することしかしない。多くのジャーナリズムも同断である。

 尖閣は風前の灯なのである。スキャンダルを追求している多くの野党議員には国会議員の資格はない。日本国民の大多数は、野党議員の大多数ほど愚かではない。ごくつぶしのようなスキャンダルを野党がメジャーマスコミとタッグを組んで追及しようと、野党の支持率は少しも上がらないのである。


ユンカースJu88A-4(日欧のエンブレム)

2019-12-25 21:43:53 | プラモコーナー

このブログに興味をお持ちの方は、ここをクリックして小生のホームページも御覧ください。レアものは飛行機倶楽部に載せています。

 最初はハセガワの72を作っていたが、透明パーツに接着の曇りができて気に入らなくなったので、思い切ってドイツレベルのを買って再チャレンジしたら、全体的にかっちりとしたドイツ機らしい雰囲気があって成功だった。さすがドイツ製である。ただし操縦席内が精密過ぎて、機体に収まらなかった(小生の技術未熟)のでちょん切って押し込めた。

 このプラモの機首を見ていただきたい。黄色のエンブレムがある。これはKG30の部隊のマークである。エンブレムを紋章と訳せば、家や団体を表す図柄(国語辞典)と言うことになる。次に示すのがJu88の代表的エンブレム(世界の傑作機No.7:ユンカースJu88:文林堂、P12)である。ドイツ機の場合、エンブレムは機種に描かれる。

 エンブレム(紋章)とは日本では家紋として知られている。実はエンブレムを家紋のように、集団の印として使うのは、歴史的に日本とヨーロッパにしかみられない習慣であるとされる。これはかつて藩のような封建的制度を持ったことの名残りである、とされる。西尾幹二氏の言うように、日本とヨーロッパの歴史にはパラレルなものがある、ということの証明である。

 それで旧ドイツ空軍のエンブレム、と言うことになるのであるが、日本陸軍も、航空部隊の戦隊ごとに「部隊マーク」を垂直尾翼に記すのが一般的であったのと類似しているのが面白い。日本海軍機は部隊の表示を小さなアラビア数字やアルファベットだけで示すので面白みがなく、部隊マークの図柄の面白さとバリエーションの多さが陸軍機のプラモ作りの魅力のひとつである。ちなみに小生の生家の家紋は「三つ蕨」という家紋の辞典にもないマイナーなものである。

 


醫學士須田君之碑

2019-12-22 15:54:13 | 東京の風景

 隅田川のほとりにある、名前も隅田川神社がある。ほとりと言っても、高速道路などに遮られているので、隅田川が背景に見えないのが残念であるが、ともかくも隅田川神社である。「隅田川神社」と書かれた石柱の文字は、日本画家の伊東深水の書によるものだと神社の人に聞いたが、不思議なことに深水の名前は刻してはいない。その近くにこんな碑がある。すぐ近くなのだが、鳥居の外なので、神社の外なのであろう。

 やたらに背が高く目立つのだが、観光地によくある、碑の由緒などの看板は一切ないから、内容は漢文の碑文を読むしかない。漢文の素養のない小生でも、大まかな意味は理解できた。それを書き下して大意を読んでみた。不可解なのは同じ字でも略し方が違ったり「従」は旧字ではなかったりすることである。また、漢文不如意の故に、何行か訳出できないところもあった。神社の人が、石碑は水をかけると写真で文字がはっきり写る、と言って親切にも水をかけてくれた。

碑文の大意は下のとおり。

 東京には、医者は数百あるが須田君は眼科で、評判を聞いた客が毎日争うようにして来る。

 須田君の名は哲造で幼名を哲三郎と言う。信濃の国の伊那郡福与村に生まれ、本姓は細井であるが、徳島藩医須田経哲氏の養子となり、初めは漢方医学を学ぶが、その後西洋医学書を学ぶ。

 慶応二年江戸に出て、明治初年に官立医学校で英書を学び、数か月で教官補に推薦されたが君は固辞した。

 明治四年独逸医学の官位を得、明治九年医学士となり、大学東校教官となる。明治十一年広島病院に転じ、医学校長を兼任し、医学生に名声を得た。

 三年を経て、明治十五年に帰京し、大学校の助教に任じられた後、十九年には辞職し、小石川春日町に病院を開くことを許可された。眼科に優れ手術機械も10数種を保有していた。

 君は嘉永元年八月二十日に生まれ、明治二十七年四月二十五日に享年四十七歳で没す。

 

 誤読もあるとは思うが、大意はこんなもので間違いはなかろう。その後に四言の漢詩が八句続くが、小生には全く読み解けない。五言の絶句とか七言の律詩などというが、その手で言えば四言の律詩というのであろうか。

 実は小生が注目したのは「陸軍軍医総監従三位勲功三級男爵石黒忠悳」とあったことである。石黒軍医総監と言えば、他でもない鴎外・森林太郎がドイツ留学時にドイツ娘と恋に落ちた時の上司で、結婚してはならぬ、と命じて生涯鴎外に恨まれた人物である。その石黒が、地位に拘泥せず市井の医師とならんとして早逝した、優秀な医師のために碑文を書いたのである。

 鴎外は、ドイツ娘との恋に職を捨てて投ぜんとしたが、石黒と母に恫喝に等しい説得を受けて恋を捨て、軍医としての立身出世に邁進したのである。鴎外の恋を禁じた酷薄な石黒をのみ想像していた小生は、これを見たとき不思議な感慨にとらわれ、敢えてくだくだと読めもせぬ漢文を読みくだしてみたのである。

 

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支那事變國際法論

2019-12-20 20:46:03 | 軍事

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書評・支那事變國際法論・立 作太郎・松華堂・昭和13年5月

 神田の古書店でタイトルに惹かれて買った本である。何年も放置した後に一気に読んで読み終えた。読み飛ばすと面白くないが、意味を正確に読み取るように精読すれば、国際法が理解でき腑に落ちることが多いので面白く読めることが分かった。もっとも法律の素養がない小生には、読み切れていない部分も多いはずである。同じ論旨の繰り返しに思える部分も意味があるのであろう。繰り返しに思えるのも小生が素人であるのが原因である。読んでいる最中に論理の展開の仕方が、パール判事の東京裁判の判決書に似ている事に気付いた。同じ国際法の専門家であることがなせるわざである。面白いのは、外国の都市や国名の漢字表記が一部に一般的なものではないと思われるものが使われていることである。これは単に当時の外国の都市や国名の漢字表記が現在よりバリエーションが多く、それらの一部が現在では忘れられたと言うことなのだろう。

 タイトルからして、支那事変の日本軍の行動を国際法を援用して弁明しようとする本だろうと言う予想は外れた。むしろ戦時国際法の教科書にしてよい位であろう。それこそ国際法の創成期から当時の国際法の説への変遷まで引用しているのである。小生にとってのポイントの一番は、事実上の戦争と国際法上の戦争の区分である。日本が戦時の中立条項によって、アメリカから石油やクズ鉄などの物資の輸入が止まらないように宣戦布告をしなかったのはよく知られているが、支那事変のような事実上の戦争に置いても交戦法規は適用される、という点である。

  同時に、意外にも思われる事実は、当時は宣戦布告した国際法上の戦争は少なく、ほとんどが事実上の戦争であったと言うことである。事実上の戦争が常態化している、という事により真珠湾攻撃が宣戦布告なしに行われた、ということは何ら国際法違反ではなく、交戦法規さえ守れば良いということが論理的帰結である。ちなみに本書は冒頭に記した通り、真珠湾攻撃の3年以上前に出版されているから、真珠湾攻撃の擁護のためではなく、当時の戦争の実態を述べたものであることは言うまでもない。

 アメリカの中立法についての記述も時代を反映したものである。アメリカは時々国際法を無視した行動や立法をするが、中立法もその典型である。アメリカの中立法は、必ずしも国際法の中立の概念とは相いれない、身勝手なものである。欧州大戦が始まってからも中立法を改正して、参戦していないのにもかかわらず米国はヨーロッパに大量の武器援助をするという国際法上の中立義務違反をした。この時の中立法についての立氏の見解を聞きたいものであるが、残念な事にまだ大戦は始まっていなかった。中立法については、著者は淡々と解説をしているだけであり、特定の国を批難する言辞はなく、著者が純粋に法律的立場から論じていることが分かる。

三章の支那事変における空中爆撃問題は、解釈を拡大すれば米国の日本本土空襲を国際法違反としない見解も生まれかねない危険なものである。例えば、

1.P75「・・・政庁の在る建物・・・の中央幹部の置かれる建物の如きは、支那軍作戦の中枢と緊密の関係あるを以て、之が破壊又は毀損を為し得ると為すの説は有力であると言わねばならぬ。(以下すべて新仮名遣いに直した。)

2.P91「・・・将来の戦争に於いて人民の大聚団(great center of population)に爆弾を投下することが行わるべく、国際法は之を禁ずること無く、倫敦の如き都市が無防守の都市として空襲を免かるるためには、敵の航空隊に降参するの外なしと説けるに端を発し、ホランド教授も参加するに至れる論争に関連して、スペート自身の説を著者中に於いて述べた際、無防守とは軍により占拠されず、其他武力的抵抗を為すの地位に在らざることを意味すると為し、倫敦の如き都市は、陸戦条規又は海軍力を以てする砲撃に関する条約に依りて攻撃を受けざるを得ることとならぬ旨説いたのである。

 その後に、国際の慣行が教授の説く所に一致するに至らざることは云々と書いてはいるものの、2.の説はまさに東京への空襲を是認したごとくである。1.にしても、天皇が大元帥であるを以て国会議事堂のみならず、皇居の空襲をも許容されるごとくである。日本軍は誤爆を除き支那の民間施設を破壊したことはないのだから、このような説は日本軍の弁護のためではない。しかもこの本の説くところは、交通機関は軍事利用されるを以て空爆の対象となる。

 次の興味は七章の九カ国条約と支那事変である。米国のフェンウィック教授が国際法専門誌に、宣戦布告があろうとなかろうと支那と戦争をしているのは、九カ国条約違反である(P219)と書いたのは九カ国条約と不戦条約を混同しているばかりではなく、不戦条約も自衛戦争を禁止していない、と説くのは当然であろう。しかも自衛戦争か否かの判断は国家主権に属するとの留保をしたのは他ならぬ米国である。しかも九カ国条約の言う門戸開放とは、元来「支那に於いて領土を占領せる者が、従来支那の行へる如く、自由に其門戸を開放すべき」(P237)であったのが、支那の全土に適用されるように変更されたのが九カ国条約である、というのである。九カ国条約は、要するに日本をも含む欧米諸国が支那で自由勝手に行動して良いというひどいものなのである。

九カ国条約の義務については、結論から言えば、支那の赤化に伴う抗日運動の激化は、国際法の言う事情変更の原則によって、条約義務が消滅している、と説く(P259)。もちろん事情変更の内容によっては義務が消滅する内容は限定される。いずれにしても支那の抗日運動は現在想像される範囲を超えたテロの連続、と言うべきものであった。イラク戦争終結後のイラクでのテロと同然であった。これに対して日本は国際法上の正当な権利を行使すべきであったのに、日本の政治家はしなかったのである。日本政府は支那の在留邦人をテロから守るために国際法上の権利を行使すべきだったのである。英米は支那の外国人への暴行に対して一致して砲撃した。しかし共同行動を要請された幣原外相は断った。

その他は紹介しないが、いかに当時の日本人がいかに真面目に戦時国際法を研究していたか良く分かる。戦後大東亜戦争について、この本の程度に於いて戦時国際法上の研究をした論文を知らない。日本の侵略をあげつらうものが、戦時国際法をつまみ食いして利用した程度のレベルが低いものしか見ないのである。今の日本ではまともな戦時国際法の図書を寡聞にして知らない。まだまだこの本に教えてもらえることはある。例えば国際法は、国際的慣習と国家間の条約により成り立つものとされている。しかし、条約にも、国際法となるべき慣習をなすものと、単に条約関係国相互の約束に過ぎないものがあると教えている。

何かの本で、戦前は、ゲリラ等の政府ではない団体は交戦団体と認めなかった、と書いたものを読んだ記憶がある。しかしそれは間違いであった。本書によれば、「・・・内乱の現在の事態および内乱後の将来の事態に関して利害関係を有する第三国は、政府と叛徒との間の闘争に関して対等の地位を認むるの必要を感ずることあるを以て、国際法は、特に交戦団体の承認の制度を認め、・・・(P19)」と書いてある。つまり反政府ゲリラは無条件ではないにしても、当時より戦時国際法の交戦団体と認められることがあったことが分かる。

 さてこの本は今では国会図書館位でしか見られないから、皆様読みたくなっても、入手不可能に等しいから( ^^;)と考える次第です。


甲標的(シドニー港攻撃の貴重な教訓)

2019-12-17 20:58:25 | プラモコーナー

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 昭和十七年日本海軍の甲標的(写真は甲標的の1/72のプラモ)がシドニー港を雷撃した。目的の軍艦には命中せず、宿泊船を撃沈したにとどまった。甲標的とは秘匿のための名称で、実際は魚雷二本を装備した、小型潜水艇である。シドニー港攻撃の甲標的は3隻皆帰還できなかった。全乗員戦死である。

問題はその後である。当然のことながら市民の反対があったにもかかわらず、現地のオーストラリア海軍の司令官は戦死した日本海軍の乗員を海軍葬にした。のみならず、遺骨を日本側に引き渡したのである。

 米海軍においても、特攻機の戦死者の遺体を傷つけた事例もあるが、やはり海軍葬にした事例もある。ひるがえって支那人ならどうするだろう、日本兵の遺体を損壊した、という事例は枚挙にいとまがないが、荼毘にふしたという事例を寡聞にして知らない。それどころか、中華民国成立後、清朝の墳墓をあばくという蛮行すらしている。支那人には死した敵を弔うと言う精神は無きに等しいのである。

 プリンス・オブ・ウェールズとレバルス撃沈の翌日、海軍の中攻は沈没海域に花束を投げて弔っている。ここに小生は欧米と日本の共通するメンタリティーと支那との異質さをみる。今の日本の国防は敗戦によって米国に従属するしかない。米国の行った日本本土空襲は国際法違反の蛮行だと考えるものである。しかしながら、シドニー港その他の教訓は米国との同盟にひそむ可能性を示唆しているのではなかろうかと思いたいのである。

*資料:甲標的と蛟龍・歴史群像No.35


彩色ができました

2019-12-15 14:38:07 | 女性イラスト

 原画には少女の面影が残っていたつもりでしたが、原画よりかなり小さめに模写しているうちに、すっかり大人びてしまいました。しかも左右のアンバランスが、ひどくなりましたが、ともかく完成でアップします。

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ワシントン、ロンドンの両軍縮条約が海軍をだめにした

2019-12-13 21:38:27 | 軍事技術

  大東亜戦争の海軍の最大の愚行は、世界に類を見ない陸攻なる機種を発明して対艦攻撃に多用したことである。陸上から発進した双発の雷撃機が長躯敵艦を雷撃撃沈する。大雑把にいえば陸攻とはそのような目的で開発された機種である。もちろん陸攻も爆撃は可能であるが、水平爆撃では航行する艦艇に命中させることは困難である。命中したところで致命傷を与えて撃沈することは困難である。命中率がいい艦爆による急降下爆撃でも致命傷は与え難い。

 実績における例外は真珠湾で九七艦攻が使った800kg徹甲弾とティルピッツを破壊したランカスターの超大型爆弾である。兵頭二十八氏が言うように、米海軍が雷撃機より艦爆を多用したのは空母により敵艦に致命傷を与えることを期待しなかったからである。これには、爆撃で相手の反撃能力を奪っておいて、とどめは雷撃機による攻撃か戦艦の主砲弾によればいいという合理性がある。

 これに対して日本海軍は、主力艦の撃沈を目的として雷撃を重視した。日米とも手法は目的にかなったものである。日本海軍はさらに艦上機ばかりではなく、陸上機にも雷撃させることを考えた。それが陸上攻撃機である。それはマレー沖海戦のプリンス・オブ・ウェールズとレパルス撃沈として見事に結実した。

 日本海軍が陸上攻撃機、という海軍としては当時世界にも類例をみない機種を発明したのは何故か。それはワシントン及びロンドンの両軍縮条約の結果である。最初のワシントン条約では、戦艦のみならず空母の保有量まで制限の対象となった。日本は米海軍に勝てる最低限度とした7割の保有量を確保できず、6割に抑えられた。しかし、巡洋艦以下については制限がない。そこで海軍は巡洋艦の建造に邁進することになった。

 その結果、大型巡洋艦(重巡洋艦)は昭和五年のロンドン条約交渉時点では、日本六万六四〇〇トンに対して、米国二万トンであり、日本はさらに四万トンが完成直前にあった。主力艦の不利を巡洋艦で補完しようとしたのである。ところがロンドン条約では、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦とほぼ全ての戦闘艦艇に制限が課せられ、潜水艦が対米同量である他は全て対米六から七割に抑えられた*。

 昭和七年当時海軍航空本部長であった山本五十六少々自らの発案で爆弾2トン、航続距離2,000浬以上という、大型陸上攻撃機の試作指示が出された。山本と海軍の想定はあくまでも陸攻は陸上から発進して敵主力艦を攻撃し、艦隊決戦のための暫減作戦に使用するものであるから、艦隊に随伴して動く空母の艦上機に比べて航続距離が長くなければならない。山本五十六は海軍の陸攻の発案者であったのである。その前に九三式陸攻というのがあるが、双発の艦攻の試作に失敗した少数機を陸攻として採用したのに過ぎない。

 実は山本が発想した九五式陸攻には雷装はない。九七式大艇は雷装がありながら、大型鈍重で被弾の危険が大きいとして魚雷の使用は試験段階で断念されている。九五式陸攻は全幅三〇mという一式陸攻より大きく四発の連山に近い大型機であったから同様に考えられたとも推定できるが真相は不明である。九五式陸攻が大型となったのは航続距離を大きくするためであったから、大航続距離の必要性と、雷装による被弾の危険性の矛盾に陥ったのかもしれない。九五式陸攻には400kg爆弾という日本海軍としては変則な爆弾の搭載が予定されていた。

 250kg爆弾の上は500kg爆弾であり、400kg爆弾というのは標準的ではない。九七艦攻の800kg爆弾は戦艦撃沈用に、長門級の40cm徹甲弾を改造した。もしかすると、400kg爆弾は旧式戦艦に多く用いられていた30cm徹甲弾の改造かもしれない。真珠湾攻撃用800kg爆弾と同じ発想で戦艦の徹甲弾改造の400kg徹甲弾を山本が九五式陸攻用に考えていても不思議ではないが、皆さんの中で御存知の方は教えて下さい。ちなみに後の深山、連山と言った四発の大型の陸攻には雷装は考えられていない。いずれにしても、九五式陸攻の後の九六式、一式陸攻と言った双発の陸攻は雷撃爆撃両用であり、艦船攻撃にも両方が使われている。比較的大型である一式陸攻は双発機としてはかなり軽快な操縦性を持っている。

 かく言うように、日本海軍の陸攻という機種は軍縮条約の生んだいびつな落とし子である。それはマレー沖海戦の大戦果として結実した。しかし、誰が論じたか失念したが、マレー沖海戦の大戦果は英海軍が戦闘機の護衛を付けないと言う大チョンボをした幸運の結果だった。当時の英海軍は立派な空母を持ちながら、まともな艦上機を開発できないほどの、航空機運用に関しては大間抜けだったのである。九五式陸攻の発案以後の成果が実って、敵戦艦を洋上で、それも次々とニ隻も撃沈したのである。それを実力と誤解した山本五十六は、それ以後、い号作戦などで艦船攻撃に陸攻を多用して戦果少なく機材、ベテラン搭乗員ともに多大な犠牲を出し続けているのは悲劇としかいいようがない。山本は、ハワイ・マレー沖海戦の大戦果に舞い上がって、これで大東亜戦争は艦隊決戦で勝てるとそれまでの持論に確信を得たのであろう。

やはり海軍が大型陸上機を艦船攻撃に大量に運用する、というのは軍縮条約による制限からの焦りが生んだ邪道であるように思われる。ガダルカナル争奪戦の元となった飛行場も、陸攻の基地として海軍が設営したものである。日本海軍は機動的に動ける空母があるのに、陸上に飛行場を建設する、という無駄を行った。艦隊と共同して敵前上陸をして陸戦を専門とする米海兵隊が陸上機を持っていたのとは事情が異なる。海兵隊と日本海軍の陸戦隊とは、戦闘の練度において隔絶の差があるのは常識である。

陸攻は三座の艦上攻撃機に比べ二倍以上の搭乗員を必要とする。九七艦攻と一式陸攻を比較すれば、ジュラルミンの使用量に至っては四倍である。同機種で比較すれば飛行距離当たりの燃料消費量は2倍以上違う。にも拘わらず積める航空魚雷は同じく1本である。あらゆる資源の使用量が大きく違うのに実質的攻撃力は同じであるという効率の悪さである。

余談だが、ビスマルクはよたよたの複葉機に容易に雷撃を許し、英戦艦二隻は鈍重な陸攻の攻撃を対空砲火で撃退できなかった。日英独海軍とは同時期の米海軍の対空火器の威力と大きな違いがあるように思われる。さて陸攻なる機種は現代にないかと言えばそうではない。ロシア海軍が引き継いだのである。バックファイア爆撃機は現代の一式陸攻である。多数の対艦ミサイルを艦隊防空陣の防衛圏外から発射して行う飽和攻撃は日本海軍の理想を実現した

 貧弱な艦艇しか保有しないロシア海軍には、手軽に米空母機動部隊を制圧する手段は他になかったのである。キエフ級航空巡洋艦のように、船体に所狭しとばかりに各種兵器を満載しているのも日本海軍の艦艇と似ているようにも思われる。いずれにしてもいびつな海軍は日ソともに陸攻という愚かな機種を生んだ。飽和攻撃に対処するためにイージス艦という対抗手段が生まれた。 矛と盾の関係である。

*東郷平八郎・岡田幹彦・展転社


Bf109K-14(プラモのタブー)

2019-12-10 20:12:30 | プラモコーナー

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AZModelの1/72のBf109K-14である。特段に組み立てに難はなく、ドイツ空軍特有のインクスポット迷彩がないので、塗装も比較的樂である。K-14は最終生産型で、ごく初期型以外はずっと3枚プロペラであったが、最後のK-14だけが、4枚プロペラを使用しているのが、売りである。少数ながら実戦に参加したとか、4枚プロペラの109を見たパイロットの証言がないとか、謎につつまれた機体である。塗装は301機撃墜の超エースの、ゲルハルト・バクホルンを擬したものである。

 

 ところで下の写真は、機体に貼るデカールであるが、何かお分かりだろうか。ナチス党のマークを示すハーケンクロイツを二つに切断したもので、垂直尾翼に接着するとき、二枚を合わせて、ハーケンクロイツになるという仕組みである。多分20年位前からだろうか、プラモでナチスの象徴たる、ハーケンクロイツが忌避されるようになった結果、デカールがこんなに面倒な仕掛けになったのである。それどころか、プラモの箱絵には、実際にはあるべきハーケンクロイツが描かれていないものばかりになった。

ナチスの非人道的行為は、いまだに追及されつつある。この奇妙なデカールはその一環なのであろう。不思議なことに戦後長い間、フランス製のプラモですら、箱絵には堂々とハーケンクロイツが描かれていて、タブーがきつくなったのは最近になってのことだ、ということである。このことは、慰安婦問題などが、戦後長い間問題にもされていなかったのに、近年「慰安婦像」なるものが設置されるなどの騒ぎになっているのと、軌を一にするように思われる。不気味な時代になったものである。

 

 

下の写真はロールスロイスケストレルを装備した、Bf109の試作一号機のプラモで、試作のコンペは昭和8年に始められたから、後の96式艦戦となる9試単戦より早いから驚きである。K-14型といかに違うことか。最初の量産機のA型は離昇出力610馬力(最大速度460km/h)であり、最終型のK-14では緊急出力で2000馬力を出している(最大速度710km/h)。

 ちなみに零戦11型は離昇出力920馬力(最大速度533km/h)で実戦化しなかった64型ですら、離昇出力1560馬力(最大速572km/h)にとどまる。この性能向上にかける努力は零戦のはるかに及ぶところではない。しかも、Bf109は実用戦闘機で初めて、低翼単葉引込み脚、密閉風防、全金属構造と言う、近代レシプロ戦闘機の嚆矢だったのである。

 

 


原画です

2019-12-06 22:04:38 | 女性イラスト

 女性イラストですが、これはスケッチです。これに彩色するために、原画は残したまま、フリーハンドでコピーして、仕上げたいと思います。しばらく日数がかかりますが、お待ちを。原画はコンビニのA3コピー機でスキャンしましたが、原画が大き過ぎて、はみ出た上に、画像処理しやすいJPEGの白黒機能がないため、ぼやけてしまいました。ぼやけた分だけ良く見えるとあきらめました(;^_^A