毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

ロシア海軍は日本に負けて崩壊した

2015-11-23 12:33:14 | 軍事

 日露戦争でロシア海軍は消耗を続け、日本海海戦でとどめを刺されて全滅し、その後の努力にもかかわらず再建されていない。主力艦を含めた艦隊をほとんど失って、再建できていないうちに、海軍、特に日米の主力艦が空母になってしまったために、時代の変化に追いつくことができなくなってしまったからである。

第二次大戦時に保有していた戦艦、はロシア帝国時代に海軍再建を目指して建造された、ガングート級4隻と英国から貸与されたアルハンゲリスク一隻と言う、帝政ロシア時代とは比べようもない有様だった。最新鋭戦艦として名前だけ有名になった、ソビエツキー・ソユーズは独ソ戦により建造が中止されて、再開されることはなかった。

 その結果、戦後は海軍が対艦ミサイルを武器とする、日本の陸攻のような機種が、米海軍に対抗する海軍の主戦力となってしまい、まともな海軍の艦艇の編成ができなくなってしまった。確かにゴルシコフ元帥らの努力によって、大型艦艇による外洋艦隊や潜水艦の充実に努めた。

 ところが、建造したのは、キエフ級「空母」である。正確には航空巡洋艦と言うのだが、大型の船体にYakのVTOL機やミサイル、艦砲など、あらゆる艦載兵器を満載した中途半端なものとなった。いつ本格的な空母を建造するのかと注目されたが、結局作られたのは、キエフ級を大型化したばかりではなく、スホーイのCTOL戦闘機を搭載した一見まともなクズネツオフ級空母である。

 とはいってもカタパルトが開発できず、英国流のスキージャンプ台を使った。本来スキージャンプ台は、ハリアーのような垂直離着陸機の離陸時の搭載量を増やして短距離離陸できるようにしたものであって、カタパルトほどの能力はない。ハリアーは戦闘を終えて身軽になると垂直着陸できるのである。

 だから垂直離着陸能力のないスホーイの艦上戦闘機の搭載量は、飛行場を使用する場合に比べ、かなり制限される。そもそも陸上機を艦上機に流用して成功した例がほとんどないのは、英海軍の失敗を見ればわかる。予算の制約から、またまた対艦ミサイルまで積んで、航空巡洋艦と呼ばれることとなった。秋月型防空駆逐艦が、不徹底にも魚雷まで搭載させられたことに似ている。結局ソ連はまともな空母を作れずじまいだった。

 中国が、クズネツオフ級一隻を用途を誤魔化して買い、結局は空母遼寧に仕立てた。とはいっても、機関の不良からカタログ値の30ktより遥かに遅い、と言われているから、実戦には使えない。練習用か脅し用くらいにしか使えまい。遼寧の経験をベースにして、本格的な空母を建造中である、と言われるが、いつ完成して、いつ就役することやら。

 潜水艦にしても、タイフーン級などという第二次大戦中の戦艦に近い巨大な排水量のものを建造するなど、ポリシーが不明である。要するに大きな軍艦を数を揃えて、大海軍に見せようとしたとしか思われない。

 多量の対艦ミサイルによる、米空母への飽和攻撃は、イージス艦という新艦種による阻止手段を発明され、潜水艦の充実は日本のP-3Cの大量配備によってブロックされた。結局ゴルシコフの夢だった大海軍は、金食い虫となってソ連の崩壊を早めた一因となったのであろう。ゴルシコフがソ連崩壊を見ずに亡くなったのは、せめてもの幸せだったのかも知れない。

実にソ連を大海軍国にさせなかったのは日本であって、米国を大海軍国にしたのは日本であったのかも知れない。現代の米海軍の主力艦である、空母の艦上機の尾翼に旭日旗が描かれたものを見ることができるのは、米海軍が日本海軍と正面から戦って勝利したことの、誇りの象徴なのであろう。敗れはしたものの、日本海軍はよく闘ったのである。


書評・操られたルーズベルト

2015-11-17 14:21:55 | 大東亜戦争

副題:大統領に戦争を仕掛けさせた者は誰か

 カーチス・B・ドール著・馬野周二訳

 

 奇妙な構成の本である。第一部が外題として、訳者が相当なページを割いて、ドール氏の考えと、それにほぼ同意する馬野氏の考えを書いている。第四部も同様に馬野氏の文章である。従って馬野氏の訳と言いながら、巻末には著者として紹介されている。全般的に中川八洋氏あたりが賛同しそうな、イルミナティなる国際陰謀組織や、国際金融組織などが世界を操っている、というのが大きな筋書きである。また、多くの指摘が具体的な事実関係によって充分に立証されていないように思われる。

 この本の二人の著者の指摘は、国際陰謀説が事実であろうとなかろうと、興味深いものがある。なお、ルーズベルトは愛人と一緒にいたとき死んだ、というのは定説であろうが、「ルーズベルトの死-その真相」という項さえ設けられているのに、小生の不注意でなければ、その点については触れられていない。ルーズベルト夫人は国際陰謀団体の手先となって、ルーズベルトを操っていたかのように書かれており、著者が好感を持っていなかったからであろうか。

 

解題:魔性の二〇世紀

 「最近になって我が国の二、三の評論家から全く別の見方が提出されている。それは攻撃の最終立案者であり、命令者であった山本五十六大将が、実はアメリカに操られていたのではないかとするものである。(P21)」として一見「不遜な売文の徒の根も葉もない奇説に見えるが、私は少なくとも検討に値する見方ではないかと考える。」

 小生は山本が、結果的に英米を利したことになったとしても、少なくとも「直接」操られた、ということは考えられない。この説はドール氏の説ではない。ドール氏は日本を対米戦に追い込んだの者達の一部には、日本人も含まれている、という事は明言していない

 「ヒトラーは操られた」として、ヒトラーは戦争を開始しようと言う意図はなく、単にダンチヒとその回廊と言う旧ドイツ領の回復を意図しただけで、チェンバレンもその真意を知っていた(P38)。そしてドイツとともに、ポーランドに侵攻したソ連に対して奇妙なことに英仏は不問にしていることだ、というのはその通りである。現在の世界史の共通の常識は、ポーランド分割をした独ソのうち、ドイツだけを第二次大戦の開始者としているのは、確かに不公平である。

 氏も言うのだが、ドイツ軍はベルサイユ条約下で、開戦当時軍備は大したことはなかった。戦車の性能も数も不足していたし、海軍に到っては話にもならなかった。確かにヒトラーが英仏と開戦したがる、というのは不可解である。

満洲事変についても、張学良が圧倒的多数の兵士がいたにもかかわらず、日本軍に抵抗させなかったのは蒋介石の命令という説があるが、それを素直に張が聞き入れたはずもなく、この点を究明した者はおらず、「この謎にこそ、東アジアの陰謀を解く鍵があるのだが。(P45)」

つまり、「関東軍の独走は、日本政界の入っている英米の秘密勢力によって抑えられ大したことにならぬ」から抵抗をして兵力を失うな、と指示されていた。ところが満洲事変が成功してしまったのは、関東軍の決意と日本軍の強さを分かっていなかったから、というのである。確かに張学良が本気で反抗したとしても、精強な日本軍は蹴散らしたであろう。ドイツに指導された、後年の蒋介石軍とは違っていたのだろう。

 

第二部:パールハーバーの謀略

 ここからがドール氏の著作である。第二部はヒルダー氏との対談である。ドール氏は日独も米国民も戦争を望んでいなかったのに、「世界金融勢力」がルーズベルトを使って、日独に開戦させた、というのであるが、読む限りでは対日戦と対独戦を切り離して考えている。対独戦参戦のために日本を挑発したとは考えてはいないようである。それどころか米国はドイツのポーランド侵攻から対独戦に入ったかのようである。それは、英独戦が本格化すると、中立法の改正や米駆逐艦が独潜を攻撃したことからも、事実であると言っていい。

 事実関係で十分立証されてはいるとは思えないが、ドール氏の見解で最も興味深いのは、日独がともに敗色が濃くなってかなり早期に和平を望んだのに、ルーズベルトとチャーチルがこれを拒絶して、日独を完全に破壊し軍事力を絶滅させるまで戦った、という考えである。

 日本がソ連に講和の仲介を依頼していた、という話は愚かなエピソードとしてよく知られている。それどころか日本が講和を目的として「独自にアメリカとの接触を試みていた証拠がいまになって、ますますはっきりしてきました。(P95)」としてアレン・ダレス、ハリー・ホプキンズ、フーバー、グルーなどの証言やアドバイスを紹介している。これらは原爆が投下されるまで、トルーマンが無視したのである。

 ルーズベルトがチャーチルに、「私は決して宣戦はしない。私は戦争を作るのだ。」(P71)と言ったのは結構日本でも流布されているが、本書が出典であろうか。またチャーチルが議会で「アメリカは自身が攻撃されなくてさえも、極東の戦争に加わり・・・私がルーズベルト大統領とこれらの問題を語り合った太平洋会談(一九四一年八月一四日)(P72)」でルーズベルトが約束した、という指摘は現在なぜ注目されないのであろうか。

これは米国が対独戦の裏口から参戦する為に日本からの攻撃を望んでいた、という説を真向から否定している。米国が先に日本を攻撃すれば、それが対独戦参戦の理由になるはずはなかろう。それどころか、戦争をしないと約束したはずのルーズベルトは嘘つきだ、と自ら言っているのである。

 本書にはある米国の上院議員がこれについて、米国は真珠湾攻撃以前から対日参戦をしようとした、と指摘していると書かれているが、この指摘は文脈から明らかに開戦後のものである。なぜ戦争に反対していたはずの米国民は、チャーチルの演説に注目して、ルーズベルトを非難しなかったのか、と小生は思う。米国のマスコミは間抜けではなかったし、米国民も同様であったはずである。

 

第三部 操られたルーズベルト

 ドール氏は次々とアメリカの悪事を書いている。しかし「わが国民の他の国民に対する博愛精神は疑いようもなく、世界の歴史を見ても並ぶものがない。(P108)」と述べているように、無邪気な愛国者である。

 ドール氏によれば、1929年の株の大暴落(大恐慌)でさえ陰謀である。「ヨーロッパやアメリカの有力資本家グループが、一時的な儲けのため、いわば利益を『刈り取る』ために、各地の取引所で株式相場を崩壊させる絶好の時期と考え、それによってハーバート・フーバー大統領を排除する決意をした(P230)」

 そして陰謀には大統領夫人まで加担している。ルーズベルトは「どんどん『ロボット』になっていった。だが夫人は始めから終りまで、国際主義者のゲームをあからさまに演じた。(P266)」ウィルソン元大統領ですら国際組織に利用されていて死の直前に、ある軍人に「私は一番不幸な人間だ・・・知らず知らずに自分の国を破壊してしまった」(p267)と無念の気持ちを漏らした。

 ドイツとの和平工作は1943年の春に既にイスタンブールで行われていた。(P272)アール中佐はイスタンブールでドイツ諜報部長と会って、アメリカがドイツ軍の降伏を受け入れると示唆するだけで、降伏しドイツ軍は「西洋文明の真の敵(ソ連)」の進撃から西洋を守る、と語った。これにはパーペンドイツ大使も絡んでおり、背後にはヒトラー暗殺を計画した反ナチグループがいたのである。結局はこの会談もヒトラー暗殺も失敗した。

 それどころかイスタンブール会談とそれに対する大統領の拒絶の回答を知っていたパットン将軍、フォレスタル国防長官は早死にしたが、それも陰謀の一部であるように書かれている。「・・・マッカーサー将軍は確実に知っていた。(P279)」のだが、殺されなかったのは、マッカーサーが戦争の早期終結を望んでいなかったから、とでも言いたげである。

 真珠湾軍港は厳重に守られていて攻撃は困難だった、という説がある。リチャードソン提督は「真珠湾は現在ある兵力だけで防御するのは難しい。三六〇度海に囲まれ、艦隊の補給も難しく、潜水艦の攻撃にも弱いし、陸軍の対空砲火も足りない」(P290)とスターク海軍作戦本部長らに言ったが埒があかないとして、ルーズベルトに「太平洋艦隊にもっと安全で戦略的な態勢をとらせるよう」言ったが無視されて、テーブルを叩いて怒って帰ると、まもなくリチャードソンは解任された。このことも真珠湾の太平洋艦隊への警告を遅らせたのとセットの陰謀になっている。

 ドール氏によれば、国連ですら国際陰謀団(ここではイルミナティ)のによる超世界政府への布石だという。(P309)その過程で共産主義者を利用する為に、東欧をソ連にくれてやったというのである。そのために、後にソ連スパイとして告発されたアルジャー・ヒスが国連憲章の起草者の一人になっている。(P309)

 

第四部 本書に寄せる私の思い

 これは馬野氏による総括である。氏はドール氏と同じく、国際陰謀組織である、「統一世界勢力」なるものの存在とその陰謀によって近現代史が動かされている、ということを信じている。前述のように、その真偽はさておき、本書に書かれたことは、陰謀説を別にしても面白い指摘が多い。本書におけるドール氏と馬野氏の違いは、米国における黒人差別の問題を取り上げないか、取り上げているかのように思われる。それはドール氏が米国民を世界一博愛精神に満ちていると信じていることによるのであろう。

 

 


書評・石原莞爾・渡辺望

2015-11-08 15:14:05 | 大東亜戦争

 よく整理された石原莞爾論である。一読を勧める。石原に知己のある人物の書物は貴重だが、結局、石原の思想を十分整理しているとは言えないものが多い。

 二二六事件で石原は、討伐論を唱えた数少ない陸軍軍人として知られているが、事はそう単純でない。二十六日当日深夜、「・・・反乱軍にきわめて好意的な橋本欣五郎大佐と満井佐吉中佐の二人と帝国ホテルにおいて時局収集についての話し合いの席をもった(P206)」のだが、石原の考えは「・・・政局混乱に乗じて、石原の理念にとって有利な政治体制を作りあげようとした。」のであって、「天皇の鎮圧意思が強固なのを知るや否や」鎮圧派の急先鋒になった、という日和見なものであった。

 ただし、天皇の意思を杉山元に告げられた時、事件の首謀者が天皇や宮廷に事前に手を打っていないと悟って計画の稚拙さに驚き、方針の転換をしたのであろう(P210)というのである。石原には天皇の政治的利用、という思想があるため、もし、このことを最初から知っていれば、当初から鎮圧を主張し、真崎排斥にも利用したであろうという。

 満州事変の英雄となった石原は、二二六事件によって、さらに名声を高め、陸軍の影の実力者となった(P213)。その結果、「国防国策大綱」を作り上げ「世界最終戦争論」の具体化に前進した(P221)。具体的には、対ソ戦の準備をし、戦争によらずソ連に対日戦を断念させる、東亜諸民族を独立させるが米国とは中立状態を維持する、対中関係は満洲国建設に邁進するに支障ないようにする、ということである。

 それらの結果、日本はアメリカとの最終戦争に勝てるよう、対外環境や軍事力を涵養することができるようになる、というのである。著者の論によれば、最終戦争論とは石原にとっては夢物語ではなく、実現すべきものであったということになる。

 これに関連して石原は「重要産業五カ年計画」をまとめたが、「これはもはや軍拡計画というより、産業革命計画というべきもので(P224)」膨大な予算を必要とする途方もないものであった。産業界は呆れるかと思いきや、結城豊太郎や鮎川義介らの財界人は非常な関心を示したのは、石原のスケールの大きさを理解したのである。

 その結果石原は前にも増して、言いなりになる軍と内閣が必要だ、と考えるようになった。ところが石原のロボットたる広田内閣が総辞職すると、宇垣一成に大命が降下する。宇垣内閣は宇垣軍縮に懲りた陸軍が反対して流産となった、というのが小生の知る定説である。

実際に宇垣が行ったのは、四個師団削減と言う一見軍縮だが、この予算を陸軍の装備開発にまわすという策をとり、実は陸軍の予算は増加していて、軍縮と見せかけて、「実は軍の近代化を進めるのに成功した(P227)」というしたたかなものであった。

 ところが石原は宇垣内閣阻止にはしる。石原は宇垣の政治的有能さを嫌い、ロボットを好んだ、というのである。「石原は軍事面についての謀略・策略については天才であったが、政治力に関しては多分に凡庸だった(P239)」ことが石原の凋落を招いた。無能なロボットは結局、トップであるが故に、愚かな結果を招く、と言うことに思いをいたすことができなかったのである。

 宇垣の代わりの林内閣は無能ですぐに退陣し、近衛内閣が登場して、発生した支那事変は長期化し、それが世界最終戦争構想をだめにした。石原が有能な宇垣を利用する懐の深さがあれば、「・・・宇垣・石原連合のパワーにより短期で解決できたろう・・・この想像はおそらく間違いではない(P238)」というは、小生は初めて聞く説である。

 一般の世評は単に宇垣を政治的野心家、としか見ていないのだと思う。だが宇垣が如何に有能だとしても、支那事変の解決はもちろん、適切な陸軍の大陸政策が可能であった、というのには、小生は無理があると考える。宇垣内閣以前から、英米ソは日支の争いを計画していて、その意志は変化していない。しかもソ連は日本の南進による日米戦争を企図していた。要するに非白人の唯一の大国日本は、白人国家に常に狙われていたのである。

このような国際情勢が不変である限り、国防国策大綱すら始めから画餅であった。そもそも、国防国策大綱は外国が日本の都合よく動く、と言う無理な前提に立っている。

 石原に比べて、著者が政治力を評価するのは梅津美治郎である。梅津は高く評価する識者がいると同時に、存在を無視する者が多いのである。梅津の功績は「後始末」にあるという。

満洲事変の決着としての梅津・何応欽協定、ノモンハン事変後の関東軍の下剋上の風潮の後始末、終戦工作などである。ノモンハン後の関東軍の件と終戦工作に関しては藤井非三四氏の説を引用している(P241)。

 石原は理想としていた、満洲建国大学を開設するにあたって、教授候補としてオーエン・ラティモア、パールバックなどの親中反日人士をあげ、トロツキー、ガンジー、胡適、周作人などを招聘することを主張した。後世の我々は、こんなところに石原の天才とスケールの大きさを見るのだが、同時代人としては、危険人物に映ったのに違いない。石原は著作が多い割に説明的ではないからでもある。小生の読後感としては、石原は自己の才能に適した時代に生まれ、それ故大成することもなかったということにある。

 本書評は敢えて二二六事件以後に限定したが、本音はそれ以前を語ると長くなることであるが、満州事変についても仔細な点に独創的な見方がある。また小生は石原の宗教関係については興味が薄い者であり、石原観としては偏波であるが、本書にはよく書かれている

 余談であるが、国際関係から無理としても、元々軍事力としては世界に冠たるものがある日本だから、もし、日本が対米戦に勝てば、世界最終戦争論は正解となり、世界に恒久平和がきた可能性はある。その場合、欧米の植民地の日本の助力による解放と言う必要性がある。ただし、イスラム問題について日本が解決する能力があるかは大いに疑問である。救いとしては、キリスト教徒と違い、日本にはイスラムとの対立の経験がないことである。これは現在の対イスラム国家群への対応の際にも顧慮すべきことであろう。


航空記事の怪2

2015-11-07 16:05:13 | 軍事技術

 日本の航空誌などの記事には、たまに、その方面に常識がある人が書いたとは思われない不可解なものがある。以前もいくつか紹介したが、その続きである。

 イ.キ-67

 これは昔話である。「日本航空機総集」などのキ-67、すなわち四式重爆、飛龍の解説には必ず、プロペラの回転でパイロットの視界が妨げられないように、操縦席の位置はプロペラ回転面より前に配置されている、と説明されている。今では、そんなことはなくなったが、長い間、飛龍の図面は回転面より後ろに操縦席が書かれていた。明らかなミスが何十年も指摘されていなかったのは不可解である。

 

ロ.キ-74

 かの試作長距離爆撃機であるが、この主翼は未公認長距離飛行記録を作った航研機、キ-77の主翼を流用したと書かれている。しかし、流布されている図面を一瞥すれば分かるように、平面図で主翼前縁の後退角が異なっていて同一のものとは見えない

 スペックを見ると、キ-74は全幅が27m、翼面積が80m2で、キ-77が各々、29.43m、79.56m2である。ただし、キ-74の翼端はキ-77のものから詰められている、とされている記述もある。

主翼面積は胴体と重なる部分まで含めて計算されるので、違う幅の胴体を持つ両機の主翼面積の比較は単純ではないが、全幅が2.43mほど切り詰められているのに、主翼面積がほとんど同じなのは理解しにくい。主翼付け根の部分を延長していると考えなければ辻褄が合わないが、その説明がなされた文献を知らない。

 

 ハ.キ-66

 キ-74と同様な話がキ-66にも言える。川崎のキ-96双発戦闘機の主翼は、ほぼ完全にキ-66の流用であると言うのが定説である。ところが、日本航空機総集など世間に流布されている両機の主翼平面形はテーパー比やアスペクト比などが一見して異なっている。どうみても同一の主翼とは考えられない

ところが、日本航空機総集のデータを見ると、キ-44が全幅15.5mで主翼面積34m2に対して、キ-96が全幅15.57mで主翼面積は全く同じである。全幅の相違が僅かであることを考えると、同じ主翼を使ったと言うのは事実であろう。

それにしても土井技師は爆撃機と戦闘機の主翼に同じものを使うという、思い切ったことをする人である。土井技師が次々と設計をこなしていった秘密は、こんな合理性にもあろう。

 

ニ.溶接の開先

 「アナタノ知ラナイ兵器三」P67に航空機ではないが、こんな記述がある。米海軍のギアリング級駆逐艦について、「・・・強度確保と怪我防止に溶接開先(かいさき)が90度とそれ以下の箇所はアールをつけたさりげない気遣いも光る・・・」というのである。これは開先角度のことを言っているとしか読めない。

図に示したのはAとBの鋼板を180度の角度、つまり一枚板になるように溶接接合する、突合せ継手のX形開先の例である。

 

開先とはこの図ではX型に開いた空間を言うのであって、開先角度とは図の板Aと板Bの角度(図では180度)を言うのではない

 開先の角度とは図で矢印で示した角度を言う。この本の説明は、AとBの角度が90度以下の鋭角の開先角度では、溶接した板の角が尖ってしまうので乗員がぶつかると怪我するから角を削って丸みをつけている、と言っていると読める。つまり開先の意味を知らないのである。不思議なのは、開先と言う溶接の専門用語を知りながら、その意味を知らないことである。

 ちなみに「開先角度」とインターネットで検索すれば、開先角度の定義が説明されている。


溥儀と呼ぶおかしさ

2015-11-03 15:21:13 | 支那大陸論

 ラストエンペラーこと、清朝最後の皇帝は溥儀と呼びならわされている。この方面に知識がなければ、姓が溥で、名前が儀だと思うのに違いない。少し知識があれば分かるように、清朝皇帝の姓は愛新覚羅という長ったらしいものであり、溥儀は名前なのである。姓は満州語読みでアイシンギョロと読むのだそうだが、溥儀を満洲語で何と読むのか知らない。

いずれにしても、愛新覚羅溥儀とは満州語の音の漢字表記である。溥儀、とだけ言うのがいかに変かは、毛沢東を沢東と呼ぶのが一般的である、と想像すればわかる。日本人なら、家康、信長、秀吉と呼んで平気でいるが、これは徳川、織田、豊臣のように言うと該当者が何人もいて、誰を指しているのか分からなくなってしまうからであって、歴史書ならフルネームで呼ぶであろう。

また中国人の名前を日本人が呼びならわすときは、フルネームか、姓だけである。例えば、毛沢東なら毛、袁世凱なら袁と言っても通じるのは分かるであろう。その一方で孫文のことを孫とはまず日本人は言わない。どこかにありそうだし、フルネームでも二文字だから略すこともないのである。

このように歴史上の人物を、日本人が呼称する場合の慣例を、日本人の名前と中国人の名前を表記することを例示すると、溥儀、と呼ぶのがいかに不自然か分かる。なぜそう呼ぶかの答えは、今書いたばかりの一文に含まれている。今「中国人」と呼んでしまったが、溥儀は中国人ではない。

漢民族という意味での中国人ではないのである。あくまでも溥儀は満州人なのである。それを中国人と思わせるために溥儀、とだけ言うのではないか、というのが小生の邪推である。それならば愛新覚羅と呼べばいいのではないか、と言ったとすればこれも混乱する。日本でも案外有名なのが、弟の溥傑だからである。

そこで溥儀、溥傑と並べると、うまい具合に、溥が共通するから、ますますもって、溥が姓だと錯覚しかねない。いちいち愛新覚羅溥儀などと呼ぶのが面倒だという事で、日本流に溥儀、と呼ぶのが落ちになるのである。善意に解釈すれば、信長、秀吉と呼ぶようなものであろう。

前記のように、溥儀は中国人ではない、と言ったがこれもそう単純ではない。日本は昔から漢民族が支配する地域を支那と呼んだが、戦後になって敗戦国民の悲しさで、中国と呼ばされている。戦前使ったから蔑称だ、という訳である。ところが蒋介石政権は中華民国と自称し、共産党政権は中華人民共和国と自称したから、どちらも中国と略せる、という向こうに好都合なことになっている。

だから保守の日本人は民国と略したり、国交回復以前は中共と略すことが多かったが、この方がまともであろう。清朝崩壊後中華民国が成立し、国際的な承認を受け、戦後は中華人民共和国が成立したから、清朝の後は中国だと言い、今では過去の非漢民族王朝まで中国だというようになった。ご存知のように、各々の英語名はRepublic of ChinaとPeople’s Republic of Chinaだから日本語に直訳すれば支那共和国と支那人民共和国である。

日本語も中国語も漢字表記が共通するから、日本人は中国の漢字表記をそのまま使うのは当然だと思っているが、国際標準から言えば当然ではない。例えばドイツである。英語表記はFederal Republic of Germanyで略称Germanyである。ドイツ語では Bundesrepublik Deutschland である。略称はDeutschland である。そして日本ではドイツと言う。

英独ともに、アルファベットが共通文字であるにもかかわらず、ドイツと言う国の表記は、ドイツが使うものが使われていない。だから、日本が中国と言う先方の自称をそのまま使う必然性はない。

ある戦前の訳本で、支那共和国という言葉が使われていた。実は一般に言う中華民国のことである。訳者はわざわざ、英語表記の直訳を使ったのである。脱線したが、溥儀と言う表記を使うのは構わないが、一度は愛新覚羅溥儀、と書いておいてから、次から省略として溥儀、と言わなければ誤解される。織田信長と言っておいてから、略として信長と書くようなものだろう。一貫して苗字を省略して、溥儀と表記するのは奇妙なのである。


フィリピン沖海戦考

2015-11-01 19:07:54 | 大東亜戦争

 雑誌「丸」平成27年11月の特集では、フィリピン沖海戦の栗田の評価がほぼ真逆な論考が載っている。これを閲することは、フィリピン沖海戦の評価について、興味ある問題である。

 まず「史上最大の海戦『捷一号作戦』考」で小高正稔氏は、栗田艦隊は小沢艦隊が米機動部隊の誘因に成功したことを十分認識していなかったこと、上陸作戦を防ぐには上陸船団攻撃だけではなく、艦隊主力である機動部隊を撃破して制海権と制空権を確保することが最重要であると指摘する。

 そのために、サマール沖にいた正規空母(間違いであったにしても、そう認識していた)を叩くこと、北方にいると通信情報で認識していた機動部隊を叩くことは、「リスキーなレイテ湾突入」より選択肢としては正しい、という。だから反転は「謎ではなく、常識的思考の範疇である選択であったかもしれ」ず「・・・栗田の決断を『謎』とする考えは、有力な艦隊を全滅させても作戦目的を実現すべきだという、合理性と狂気の共存を許容する発想」であって「栗田の思考は、実はだれより正気であったかも」知れない、と結論する。 

これは、レイテ湾に突入しても上陸部隊を阻止することができる可能性が全くなければ、反転帰投する、という判断は氏の言うように正しいのかもしれない。しかし、一方で全滅を覚悟して北方に米機動部隊を誘導しようとした小沢艦隊からすれば、失敗しても全滅は免れなかったつもりだろうから、情報収集の努力もせずに成功しなかった可能性大、と判断されたのではたまったものではない。現に西村艦隊は、小沢からも栗田からも情報を得なくても予定通り突っ込んだのである。眼前でそれなりに有力な西村艦隊が全滅するのを見た、極めて弱小な志摩艦隊が逃走したのは仕方あるまい。

 もうひとつは桐原敏平氏の「『栗田艦隊反転のナゾ』に迫る」、という論考である。これは小生が過去に論じたものに近い。氏はまず、下記の疑問を提示する。

1.現に目の前にいた護衛空母を正規空母と判断していたのにこれを追いかけず、なぜ不確実な電信情報による敵機動部隊に向かったのか。しかも電信情報を受けてから三時間もたって機動部隊に向かったのだ。その電信も大和艦上において受信したのを記憶する者がいないなどの疑問が多く、捏造の可能性すらある、という。

2.西村艦隊を迎撃した有力な水上部隊がレイテ湾付近にいて、作戦命令は明確にそれを攻撃することを指示していたのになぜ無視したのか。

3.湾内に輸送船団がいなくても揚陸直後の上陸部隊を攻撃するのは有効かつ作戦命令にあったのになぜ実行しなかったのか。

4.レイテ湾突入が遅れるのが明白なのに、なぜ、西村と志摩艦隊に予定時刻変更の指示を出さなかったのか。これは同時突入の効果を狙うどころか、偵察機によりレイテ湾にいることが分かったため、敵水上部隊を西村・志摩艦隊に向けて、自分は脅威を避けるつもりだったと言われても仕方ない、という。

 以上の疑問は、かなり栗田艦隊の意図に疑義を持たせるのに十分である。氏は栗田は愚直に命令に従うとか、勇猛果敢である、という資質に欠けている、という。指揮官としての栗田はバタビア沖海戦やミッドウェー海戦において特異な行動をとったことからも明らかである、という。

 結論としては、どの時点でも栗田は何らかの情報を理由として、レイテ湾突入を放棄反転帰投したはずだ、ということである。このことは、栗田が最初から計画的に逃げ帰ることを考えていたのではなく、性格的に色々な情報から、そういう決断をするような性向があったというのである。

 三つ目は早川幸夫氏の「幻の勝利 もしもレイテ湾に突入していたら」というイフの論考である。これは従来のものと大きな違いはない。レイテ湾のオルデンドルフ艦隊は、全体的には必ずしも旧式な戦艦ばかりでなく、西村艦隊を撃滅した後でも、砲弾の残量は一海戦を戦う分は残っていて、栗田艦隊にしてもそれまでの海戦で、砲弾艦艇を消耗していたから、勝機はないであろう、という。

 勝機があるとすれば、西村艦隊と協働して突入したときであるが、それでも、別のアイオワ以下の米艦隊が海戦後に追いつき、ハルゼーの機動部隊が参戦し、最終的には日本艦隊は壊滅する、ということになる。海戦に限ってみれば、レイテ湾に突入すれば、確かに日本艦隊はフィリピン沖で壊滅する、というのは確実であろう。ただ早川氏は、栗田の判断が正しかったかどうか、という点には言及していない。

 三氏の論考を比較すると、小高氏は桐原氏が疑問視する北方の機動部隊の存在について、何も考慮していない点に無理がある。早川氏は艦隊の海戦の勝敗については正しいが、作戦の根本目的である、米軍の上陸阻止の可能性には言及していない。桐原氏はレイテ湾突入により上陸部隊を効果的に攻撃できる、と結論しているのだが、その後の陸戦の帰趨については論究していない。

 堤明夫氏は「サマール沖海戦の栗田艦隊砲戦実力」として栗田艦隊の攻撃の有効性を詳細に検討している。結論から言うと、砲弾の命中率については、混乱した実戦であることを考慮すると、まずまずであるが、水上戦の戦闘陣形が全くなっておらず、各艦が勝手に敵を追い回していただけで、艦隊司令部が全く機能していなかったとする。大艦隊が、低速の護衛空母と駆逐艦を相手に苦戦したのを見れば、当然の評価であろう。日本海軍は艦隊指揮官に砲戦の戦闘陣形を考えるトレーニングをしていなかったのではないか、とすら思える。

 この点は勇猛果敢にスリガオ海峡を突破した西村艦隊も、その士気は称賛に値するが、絶望的な戦いなら、少しでも戦果を挙げるための、積極的な艦隊行動が必要だったのであろう。例えば、結果論であるが、レイテ湾にはオルデンドルフ艦隊が並んでいたのは分かっていたのだから、まず水雷部隊を突入させ、全魚雷を一斉にレイテ湾に向けて発射することもできたのではなかろうか。酸素魚雷はやたらに射程距離が長かったから、めくら打ちしてもレイテ湾内の艦船に命中する確率は高かったのである。

 以上四氏の論考を総合すると、栗田司令部の戦闘指揮さえ適切ならば、サマール沖でも、レイテ湾でも日本艦隊は、より大きな戦果を挙げたであろうが、最終的には全滅する可能が高かったであろう。

 すると大きな疑問が残る。艦隊を全滅させてでも、米軍の上陸を阻止する行動を取り、米艦隊にかなりの打撃を与えることが出来た、として、その後のフィリピン戦の帰趨はどうなったであろうか、ということである。この点については、悲観的な論者が多い。それならば、捷一号作戦を発動しないか、日本海軍には別な戦い方があった、ということでなければならない。

 考慮しなければならないのは、何とか帰投した栗田艦隊であるが、大和は絶望的な出撃をし、多くの乗組員とともに沈没した。他の戦艦以下も呉に係留されて生かされることなく壊滅した。つまり、栗田が生きながらえさせた艦隊は、その後なすすべなく結局全滅したのである。

 小高氏の言うように、レイテ湾突入は狂気の沙汰であろう。だが、桐原氏の言う戦士の資質としての「命令を愚直なまでに忠実に実行し、かつ勇猛果敢に戦う気質」というのは戦闘には指揮官や兵士に共通する、必要な資質であるが、狂気の沙汰と紙一重である。日清日露、支那事変、大東亜戦争と、日本軍の将兵はそうして戦い、あるときは勝利したのである。日本軍が強い、と言われたのはそのためである。これらの論考には、台湾沖航空戦による海軍の戦果大誤認の嘘をつき通して、米軍のフィリピン上陸迎撃作戦を、陸軍に誤らせた海軍の罪も考慮されるべきだろう。