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有名な零戦はご存知だろう。その設計者、堀越二郎技師の名は世界に有名である。しかし彼の考え方を点検して見ると、設計テクニックには素晴らしいものがある反面、技術iについての考え方や軍用機に対する設計思想については疑問を抱かざるを得ない。
戦闘機設計のプロでありながら、戦闘機のあり方に対する見識がなく、与えられた条件に甘んじている設計技能者に過ぎないとしか考えられない。堀越氏自身の著書(*)を中心にこれを検証してみる。
●零戦のエンジン換装
当時の戦闘機設計は、馬力向上の競争でもあった。零戦は性能向上の切り札として、昭和十九年末に千馬力級の栄エンジンから千五百馬力の金星エンジンに換装することになった。堀越氏が認めているように、金星への換装は二年も前に可能だったのであり、もし金星に変えていたら「・・・その後もさらに改良されて、零戦は依然としてその高性能を誇っていたのかも知れない。」(*)というのである。つまり堀越技師は、自らの著書で、昭和18年頃の金星エンジン付きの零戦の誕生の可能性と、その戦局に与える金星装備零戦の重要性を認識していたのである。
ところが大学同期の川崎航空機の土井武夫技師は「昭和17年4月、海軍の空技廠が堀越君(零戦設計者)に、非公式ではあるが発動機を金星とした零戦の性能向上機の打診があったとき、堀越君は設計陣容不足のため断ったと聞いている。私は、あの時期にこそ、金星をつけた零戦の性能向上機を考えるべきではなかったかと思う。」(**)と批判している。つまり、土井技師と堀越技師の見解は一致しており、土井氏は単なる堀越批判をしたのではない。
土井氏の批判は全てを物語っている。土井技師はこの時点での零戦の性能向上が戦局に与える重要性を理解しているのである。これについて堀越技師は「昭和十七年、私は永野治航空部員の私的打診に応ずることができず、・・・」(*P261)と実にあっさり書く。その理由の説明と見られるくだりは次のようなものである。
・・・その幾多の改造が顕著な実効を挙げ得なかったのは、使用者側指導層の技術上の問題や戦局に関する初期の見通しが甘かったせいだと思われる点が多い。なぜなら、開戦当初から日本海軍の戦闘機特に零戦の重大な役割と零戦に要求される改善を予見できたにもかかわらず、機種に応じた重点的人員配置などが適当でなく、担当者としては人手のいることには消極的とならざるを得なかったからである。もしこの点に対する判断処置さえよかったなら、最後型となった五四型丙は二年も早く生まれ、恐らくはその後もさらに改良されて、零戦は依然としてその高め性能を誇っていたかも知れない。
さらに金星換装などはアメリカ人などの外国人には余りにも遅かったように見えただろう(P262)として、次のように弁明する。
これには大きな理由があったのである。これを一口にいえば、日本の産業の規模が全般的には世界第一流の水準から遠い状態にあったということである。こういう規模の小さい産業に支えられる航空機工業では、経験ある技術者の過少とも重なって、着想から実験、設計、試作、実用に至るまでに非常に時間がかかった。
さらに半ページ程にわたって日本の産業構造やそれに対する適切な指導を行わない海軍の技術行政に対する批判が続く。自分が海軍の打診を断ったことに対する悔悟の表明がないばかりか、全ての責任は日本の産業構造の後進性と、海軍の技術行政の不適切によるものだと談じているのである。余りに身勝手ではないか。
二年前、すなわち昭和十八年に誕生していたはずの金星付零戦の誕生を阻止したのは、土井氏の指摘するように堀越技師自身であった。換装作業は早ければ容易だったのである。自身の非を一言も認めず海軍に、日本の工業基盤を責める堀越技師の態度は卑劣でさえある。同じ条件の日本の設計者がもっと難しいエンジン交換を行っている。そして堀越自身も後述のように、烈風という戦闘機のエンジン交換を自発的に行っているから、この弁明はインチキである。これに対して土井氏は飛燕の金星換装が遅れたことに、反省の告白をしているから信じられるのである。
最後まで零戦は海軍の主力であったこと、昭和二十年に登場するのと、五二型の代わりに金星零戦が登場したのでは意味が全く異なることを考えれば、二年の遅れは絶大である。零戦と米国のF4Fの馬力差と性能差を考えれば、金星零戦はヘルキャットと対等に戦えたであろう。これは小生が勝手に言っているのではなく、前述のように、堀越技師自身が言っていることなのである。
その意味で昭和十七年の堀越技師の断りの意味は極めて大きい。それを知るからこそ、断ったことをこともなげに書き、海軍などの責任をとうとうと追及するのである。だが堀越技師は海軍の命に唯々諾々と従う従順な人ではなく、自己の信念は毅然と主張する人物であることは後述する。
中止を命ぜられた誉装備の烈風への自社発動機への換装を海軍と会社を説得して実行した。にもかかわらず、零戦と烈風の仕様決定の際には、翼面加重の決定や仕様の優先事項決定を迫っている。このことは堀越技師が戦闘機のあり方に自分の意見がないことを示している。堀越技師は優秀な設計「技能者」であって、見識のある技術者ではない。与えられたスペックをいかに実現するかには優秀であったが、ユーザーにスペックのありようを示す見識はない。小生の知る技術者には、顧客の与えるスペックに、顧客の不興をかうことを承知で、自己の技術者としての信念を披歴する人物は多数いる。
そのような人物がどうして海軍の航空行政を批判できるのか不可思議である。航空行政に定見のない者が航空行政を批判できようはずがないのである。土井技師は同一期間に堀越技師より、よほど多くの軍用機の設計と改造を手がけた。
三菱の体制が非能率だとする説もあるが、明らかに土井技師はしかるべく工夫をして能率的に仕事をしている。自分ならできたという自信がさきの堀越批判になったのであろう。堀越技師に伝説の設計者の冠をかぶせるには罪も多すぎる。功罪は正当に評価すべきである。堀越氏の大きな欠点は、前間孝則氏が書くように(***)性格の狭量さにある。前間氏は、多数の証言によって堀越氏の性格の長短をすべて浮き彫りにしているから、興味ある方は、一読されたい。近現代日本では極めて少ない極端な性格である。結論から言えば、凡人には到底付き合いきれない嫌な人物である。アニメ、風立ちぬ、の優しい主人公とは正反対と言っていい。
●戦闘機設計に対する見識
堀越技師が海軍などを批判して自らの失敗を反省することがないことはあまりに身勝手である。零戦の後継の戦闘機である烈風は、海軍の指示した誉エンジンでは性能が出なかった。海軍は烈風に失敗作の烙印を押した。憤った堀越技師は海軍と会社を説得して、会社の経費で三菱のMK9Aエンジンに換装することになり、昭和19年7月から作業を開始して、10月に完成している。一方の零戦五四型は同年11月に指示を受け、翌4月に完成している。零戦は武装の変更があったとはいえ、同じ中島製発動機から三菱製発動機に換装する工事の難易は同程度であったのにこの差がある。
この原因は戦争が後期になるに従って、空襲などにより作業が困難になったことによることは、多くの資料の証明するところでうなずける。ところが堀越技師の主張は異なる。烈風のことはさておいて、零戦が金星に換装するのに手間がかかったのは、日本の近代産業が未熟なため産業構造が脆弱であったことによるということを著書「零戦」で延々と主張している。
烈風のMK9A換装は自ら強行に主張していることと比較すれば、これは堀越技師のエゴというほかなかろう。烈風が当初からMK9Aを搭載して量産されたとしても、昭和17年に零戦が金星に換装した場合のほうが戦局に与えた効果ははるかに大きい。こうなると堀越氏は烈風の失敗でプライドを傷つけられる方を、戦局に与える効果より重視していたというよりほかない。
一方で昭和17年に発動機換装の打診を受けて断ったことを事もなげに書いているからである。烈風が最初から自社製エンジンを積んで量産されていたら、と書いたがこの仮定はあり得ない。実はこれは堀越技師の主張である。試作指示の時点で誉は完成の域に達していたのに対して、MK9Aは完成の見通しすらついていなかった。堀越技師が換装を提案した時点にやっと間に合ったのに過ぎなかったのである。兵藤二十八氏が指摘するように、堀越技師は戦後になって詭弁を使ったのである。
烈風の例を引くまでもなく、エンジンを別系統に換装することは珍しいことではない。寸法も異なる他メーカーへの換装どころか、空冷から液冷エンジンへ、その逆などの例は日本はもとより外国でも多数の例がある。
日本では五式戦闘機を空冷エンジンに換装したこと自体を、特筆されることのように評論する向きが多いが、外国ではFw190シリーズやラボアチキン戦闘機のように換装の困難さではなく、換装による性能向上や戦闘能力向上といった面に評価の重点がおかれるが、その方が評価としては健全である。五式戦闘機など日本の場合はエンジンの生産不足という実際面で追い込まれたからであり、性能はむしろ低下しているからである。土井技師は、飛燕の空冷化の遅れを、液冷エンジン改良に奮闘する同僚の努力を無視して、空冷化を主張するにしのびなかったと、正直に自己反省をしている。土井氏の誠意を認める次第である。
堀越技師は零戦の試作指示の際も烈風の際も速度、運動性能、航続距離など、要求仕様に矛盾があるとして優先事項を明確にするように発言している。これは一見担当技術者としては正当に聞こえる。しかしこのことは堀越技師には、あるべき戦闘機の近未来像や相手たる米機の動向から、ベストとするものは何かという主体性が欠けている。確かに堀越技師には与えられたスペックを実現するための、綿密な設計能力があることは零戦の例で証明されている。しかしエンジニヤとしての見識はなきに等しいことを証明している。
海軍側が零戦以上の高速と零戦並みの運動性能を要求したときに答えるべきは、そんなことは実現できないから要求のどれかを緩和してくれ、などということではない。零戦の運動性能は敵F4Fに対してはるかに優れ、後継機はさらに高速化して、さらに運動性能は低下する見通しだから、烈風の運動性能をF4Fより劣る程度に低下させても、その分速度性能を向上させれば、F4Fとその後継機に総合力で勝つことはできると説くべきだったのである。
現にそのような考え方を持つ海軍の用兵者はいたのである。堀越技師は自己の専門とする戦闘機の性能について近未来ですら定見を持たなかったのである。堀越技師はもし定見があれば、主張を控えるようなおとなしい人物ではない。前述のように烈風のエンジン換装の際には、試作中止の決定がなされたのにもかかわらず、海軍と会社を説き伏せて会社のリスクで換装作業を行うことに成功している。むしろ信念のある事項については実行力のある人物であったことがわかる。
●発動機性能の疑惑
烈風は海軍から供給された中島航空機製の誉発動機を装備したが、性能が不足したので発動機の性能不足と推定して、三菱の名古屋工場でベンチテストしたところ、果たして額面値を25%も下回っていたと堀越は書いた。素人ならいざ知らず私にはこの話はにわかには信じられない。
どんなエンジンでも製造者が一台づつ試験して納入する。すると堀越が事前にこのデータを見ていたのなら、性能が額面値を割っていることを知っていたはずである。もし中島の試験値が額面通りであったとするなら、中島は嘘の報告書を提出したのである。私にはこのようなことは技術者の常識として信じられない。中島側は海軍から試作機に搭載されるエンジンだと知らされていたはずである。
それならば中島はベストのエンジンを供給したのである。また技術者の常識として大事な試作機のエンジンの性能試験には設計主任の堀越か彼の部下が立ち会っているはずである。その時には誉発動機の性能は充分出ていたはずなのである。堀越は三菱側が性能試験に立ち会ったことを隠している。そして性能が出ていたことを隠している。私も排水機場のポンプのディーゼルエンジンの性能試験にユーザーとして立会いしたことが何度かある。
特に主エンジンは必ず製造後に一台づつ、工場試験に立ち会って性能試験を行うのは常識である。たかがポンプのエンジンですらこれである。重要な航空機の、しかも試作機のエンジンの納入に関係技術者が立ち会うのはそれ以上に当然と理解すべきである。なお、圧力計などの補助機器であっても、製造会社の試験成績表の提出を求める。
それではこの事態をいかに解釈すべきであるのか。答えは堀越の著書にあった。烈風の性能不足について「零戦」で堀越は他の日本製航空機の性能が試作当時に比べて低下していることを発見したと書いている。その原因は巷間で流布されているような工作技術の低下ばかりではなかった。
「この性能低下の原因は燃料の質の低下、水メタノール噴射量の調整不良その他発動機側に大部分の責任があること、またその現象が誉発動機に特に顕著であることに確信を抱くこととなった。」と書いた。そして戦闘機雷電で87オクタン燃料使用の場合の性能低下について記述している。雑誌「丸」平成18年12月号P75に陸軍一式戦闘機の性能についての記事がある。「この頃の陸軍航空隊ではオクタン価八七の航空八七揮発油を使用しており、海軍の零戦が使用していたオクタン価九二の九二揮発油が使用されていなかった。
そのために零戦二一型とほぼ同等のハ二五発動機を装備していても、隼はその性能を十分発揮できなかったが、昭和十六年夏には陸軍機も航空九二の使用を開始したのである。」とある。これらの記述を総合すると答えは自ずとわかる。
その前に、別項でも述べたが、オクタン価に知識のない人のために簡単に説明する。オクタン価は燃料のアンチノック性能、つまりノッキングを起こしにくさを示し、オクタン価が高ければノッキングを起こしにくい。オクタン価はイソオクタンとノルマルヘプタンの混合燃料と被試験燃料のノッキング性能が同等になるときの、イソオクタンのパーセンテージを言う。
92オクタンとはイソオクタン92%のものと同等のアンチノック性能を持つということである。だからオクタン価は100以上はないとも言えるのだが、100以上の場合、別な試験方法で代替してこれをパーフォーマンスナンバと言うが、通常「オクタン価」と称してしまうこともある。オクタン価は一般的に火花点火機関、すなわちガソリンエンジン燃料に適用するものであって、ディーゼルエンジン燃料には適用しない。
ところでオクタン価への誤解は、オクタン価が高いものを使えばエンジンの性能が良くなるということである。ガソリンの単位重量あたり発熱量はオクタン価に関わらず一定であるから、エネルギーの観点からはオクタン価が高いから、高性能を発揮するとは言えないのである。ノッキングとは、エンジンの燃焼室内の圧力や温度が高すぎるなどして、異常燃焼を起こしてシリンダやピストンを損壊してしまう現象である。
だからエンジンはノッキングを起こさない範囲で運転する制限をする。オクタン価の高い燃料を使えばノッキングを起こしにくいから高い吸入圧力や圧縮比を採用できる。つまり運転制限は緩和される。高い吸入空気圧や圧縮比を採用できるから単位排気量当たりの出力の高い高性能エンジンが設計できるというわけである。
逆にそのようなエンジンは設計の前提としたオクタン価のガソリンを使わなければ、ブースト圧や回転数などの運転条件を使用制限して行わなければならないから、性能は確実に低下する。これで理解いただけたと思う。納品の際に92オクタンで試験されたエンジンに、飛行試験の際には87オクタンの燃料を使用していた形跡が、堀越の記述からうかがわれるから、エンジン性能が低下するのは当然である。だが92オクタンで設計したエンジンに100オクタンの燃料を使っても性能はよくはならない。ハイオクガソリンはエネルギー量が多いわけではないからである。
水メタノール噴射も同様で吸入空気の冷却効果があるから、過給によって上昇した吸入温度を下げる効果などによってノッキング対策となる。だからオクタン価が下がり、水メタノール噴射がうまくいかなければ性能が低下するのは当然である。堀越はこのことを指摘したのに過ぎない。
堀越の指摘が正しいとすれば、陸海軍ともに昭和19年当時では燃料の不足から87オクタンの低品質燃料を使わざるを得なかったのである。そして中島の納品検査の際には92オクタンの燃料を使い、烈風試作機の飛行試験では87オクタンの燃料を使っていたとしたら辻褄があう。中島としてはエンジン側としては本来の設計に使用された92オクタン燃料で試験するのは、エンジン技術者としては当然であったろう。誉は100オクタンの設計であったと言われるから、100オクタンでエンジン性能試験をしていた可能性もあるが、それを示す資料は見当たらない。もちろん100オクタンで設計したエンジンを87オクタンガソリンを使っていたら、使用制限(ブースト圧や回転数等)が甚だしくなるから、性能低下はひどい。
そして飛行試験で海軍側が実際に使用される予定の87オクタン燃料を使用したのもおかしな話ではない。誉の性能不足が主としてオクタン価の低下であると指摘した以上、堀越がこの経緯に気付かないはずはない。もしも100オクタンで設計し性能試験して、飛行試験で87オクタン燃料を使っていたとすれば、性能低下は甚だしいのである。
エンジンの性能低下は、燃料の性能低下が主原因と言っているのに、92オクタン燃料を使用せよと主張しなかった堀越に私は疑念を抱く。それならばなぜ三菱製のMK9Aに換えれば性能は回復すると見通したのであろうか。案外忘れられているのが誉とMK9Aとの性能差である。10%も出力差があったのである。エンジン換装だけによって性能差が出る可能性は高い。
細かくなるが、エンジン性能を比較しよう。誉は高度6850mの1570PSに対して実際には高度6000mで1300PSしかでないと測定された。高度差があるが比率は0.83。MK9Aは高度5000mで1800PSが公称性能である。1800PSに先の低下率を乗じればMK9Aの性能低下後の5000mの出力は1494馬力であり、高度6850mにおける誉の出力に近い。空気抵抗が同一とすれば誉装備の推算値と同程度の性能は、燃料が悪くても出る。
そして「零戦」に奇妙な記述がある。最大速度343ktの計算値は要求性能に釣られて空気抵抗等を過少に見積もった過大な性能であると言うのだ(P304)。MK9Aに換えれば332ktは保証されると堀越は踏んだのだ。そして性能低下は特に誉にひどかったと言うから、先の推算での公称高度差がMK9Aに有利であったのはキャンセルできる。実際には試作機は吸入系統の抵抗の改善などの完成後の改良が可能であったから、332ktより向上していてもおかしくない。
MK9Aに換装した場合の試験値は337~339ktであり、数ノットの向上でしかない。それでも343ktの「嘘の」計算値には達していない。以上のように推定すれば、エンジン換装後の性能回復は説明できる。MK9Aによる性能回復は、もともとMK9Aが誉より大馬力であったことと、性能低下が少ないことを見越した堀越技師のマジックではなかったか。
しかも、この性能の過大計算は本文に書かれているものではなく、性能一覧表の中の「短評」欄にさりげなく書いてあるだけなのである。その記述は「・・・要求性能に釣られた傾向あり」というふざけたものである。到底性能を要求値に合わせて胡麻化したことの反省は微塵も見られない。このように、堀越はインチキな性能計算書を海軍に提出したのである。つまり性能を偽装したのである。このことをこっそりと表の末尾に嘘の告白を忍び込ませる堀越の技術者としての良心を疑う。
設計時点では、立場上嘘をつかなければならなかったとしても、戦後の著書にはその反省の弁があってしかるべきである。エンジン交換の時期を誤ったことはひとのせいにし、嘘の性能計算には何の反省もしない。これで済んだら耐震偽装などは罪に問われなくてもよいのである。ただし、堀越の著書に書かれているように、最大速度はエンジン最大出力に比例するものではなく、三乗根に比例し、影響が一番出やすいのは、上昇性能である。また三乗根に比例するというのは、プロペラ効率など他の条件が一定で出力だけが変化する、という架空の条件下であることを付言する。
●最近の戦闘機の性能解析比較表(出典*による)について
比較表に入る前に興味あるデータがある。烈風に搭載されていた誉エンジンのベンチテストの結果は興味深い。「第二速公称馬力はブースト+250mm、回転数2900/分において、6000m付近で、一三〇〇馬力内外(地上出力から修正)(出典*による)」とある。ところが、昭和18年の四式戦・疾風のテストで(世界の傑作機No.19のP15)、「高度6120m、ブースト+350mm、回転数3000rpm」で631km/hを出したと記録しているのだ。
この違いは大きいのは、自動車マニアの方なら分かっていただけるだろう。つまり烈風の誉は不具合以前に、疾風のテスト時に比較すると、ブースト圧と回転数に使用制限がかけられていたのだ。このことは後述の「最近の戦闘機の性能解析比較表」にも、エンジンの「使用制限現況推定」と書かれていることに符合する。使用制限の現況とはベンチテストでのブースト+250mm、回転数2900/分のことを示している。
使用制限とは、主として使用燃料のオクタン価低下によるもので、最初から海軍は分かっていたし、堀越技師も遅くともベンチテストに立ち会った時点では分かっていたのだ。 疾風のように、ブースト圧+350mm、回転数3000rpmでは運転できなかったのである。
既に述べた「最近の戦闘機の性能解析比較表」(以下比較表という)は副題に、昭和19年7月15日航空本部および航空技術廠に提出と書かれてある。要するに烈風の性能不足に対する堀越技師の発注者に対する説明である。これについてさらに検討してみる。
実は、烈風(A7M1)の性能不足、特に最大速度の不足は誉の性能不足だけでは説明できなかった。この性能比較表では、A7M1現況(飛行試験結果)とA7M1性能計算書以外に烈風だけで三種もの性能計算書が書かれている複雑なものである。そこで、A7M1現況とA7M1性能計算書の主要点だけ比較してみる
機名 A7M1現況 A7M1性能計算書
発動機出力 使用制限現況推定 正規額面推定
プロペラ効率 現況推定 記載なし
機体表面 現況最悪に推定 記載なし
風洞試験Cxmin 0.0048 0.003
に対する付加抵抗
Cxmin 0.0147 0.0147
最高速度(ノット) 300/6150m 343/6000m
(排気ロケット効果含む)
付加抵抗とは、冷却空気抵抗とか、機銃の抵抗だとか、風洞試験では試験できない、いくつもの項目の抵抗の増加要素を係数にしたもので、精密な計算に代わる手法として有効なものだったのである。見ていただくと分かるが、発動機出力をベンチテストで試験した結果を反映したばかりでなく、プロペラ効率や機体表面の平滑度を悪く推定し、付加抵抗を風洞試験に対する比率で30%も高く見積もらないと、実機の性能低下を説明できない、というのは明瞭である。
工学にとって係数とは実に便利なものである。現に係数等をいじれば性能低下は充分に説明できたのである。それはこの表の「A7M1性能計算書」の短評欄(備考欄に相当)に「計画要求書の要求性能に釣られた傾向あり」と書かれているからである。海軍の担当者はこれを本当に見たのなら頭にきただろう。性能計算で「鉛筆をなめました」と言っているのに等しいのだから。いくら海軍が無理な要求をしたとしてもである。
つまり堀越技師は最初からプロペラ効率や付加抵抗の数値が楽観的過ぎることを承知していたのである。堀越技師は七試艦戦から烈風まで、5機種もの戦闘機を設計している。経験は充分なのである。現に烈風の機体本体重量は予定内に収まった(*P301)と書いているのである。付加抵抗などを経験的にそれほど見誤ることは考えにくい。にもかかわらず、本文には、これらについての説明は一切なく、全ては発動機に原因を帰しているのである。この比較表は、誉エンジンの性能がいかに額面値を割っていたかを説明した資料である。ところがはしなくも、自分が鉛筆をなめたことをばらしてしまった結果となる。名著「零戦」を批評した公刊物で、このことに言及した筆者を小生は寡聞にして知らない。
そして元々誉エンジンよりエンジン出力が高いエンジンに換装して、ようやく誉の時の計算値に近い(それでも若干下回る)性能を出したのである。それは烈風のカウリング寸法が、誉エンジンに対しても、換装したエンジンに対してもゆとりが、あり過ぎる程あったから、対応が容易であった。
ちなみに堀越技師の同級生の木村秀政氏は、設計の実務経験が少ないにもかかわらず、航研機A-26設計にあたっては、正規額面のエンジン馬力は、理想的条件での結果だから当てにならないというのが設計者の定説であると、わざわざ割り引いて性能計算をしていたのである(科学朝日・昭和20年11月号)。それを受け入れた陸軍側技術者も立派である。A-26も戦時中の完成で、しかも世界新記録樹立(非公認ながら)という難条件であったことを付言する。
最後に堀越技師の名誉のために一言する。海軍は翼面荷重130kg/㎡に固執した。ところが機体は予定通りの重量に収まったが、エンジンなどの官給品や装備の増加で、試作機は143kg/㎡になってしまった。最終的に堀越技師の主張する、MK9Aに換装したところ、性能が向上して海軍は喜んだのだが、そのときの翼面荷重は153kg/㎡と、当初議論していた数値まで上がっていたのである。海軍の無定見も甚だしい。ただ翼面荷重の指定はBf-109の試作の際にも行なわれている。ただしウィリー・メッサーシュミットは、はなからこれを守る気はなかった節がある。
★このブログには、アクセスが多いようなので一言します。当初多数のブログへの「反論が」がありましたが、それに対する回答はしていません。よく読んでいただければ分かることと思うからです。従って掲載当初からの修正点や追記はありますが「反論」による修正はしていません。また、堀越技師の人となりを知るには、前間孝則氏の「技術者たちの敗戦」(草思社文庫)が最適です。
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*零戦、堀越二郎・奥宮正武共著・朝日ソノラマ(初版)、国会図書館位にしかない昭和50年版であることはご容赦願いたい
**世界の傑作機NO.23、文林堂
***技術者たちの敗戦・草思社文庫