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書評・中国と日本がわかる 最強の中国史・八幡和郎・扶桑社新書

2019-07-26 19:48:58 | 支那大陸論

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 著者は、保守の論客の一人であると思っていたが、本書の論調は全体的に違和感がある。小生は大東亜戦争を太平洋戦争と呼ぶか否かを、ひとつのリトマス試験紙としている。筆者は汪兆銘政権のことを述べた後「(蒋介石は・・・小生注)その後の日本の大平洋戦争での敗北により、満洲や台湾を取り戻しました。しかし、この戦争で疲弊した蒋介石の国民政府は日本との戦いを避けて力を温存しましたが、ソ連から支援を受けた毛沢東との内戦に敗れ、台湾に退き、北京と台北に二つの政権ができました(P36)」と書いている。

太平洋戦争と言う言葉のみならず、この記述全体が奇妙である。蒋介石が満洲と台湾を取り戻した、とか負けたはずの日本との戦いを避けたとか、あまり正確ではない言辞がある。本書には全体として、これに類似した違和感があるのである。

そのひとつだけ指摘しておく。著者の理解に、一見それほどの間違いはないように見えて致命的なものがある。漢文と現代中国語の文字表記と混同してみたり、別個のものだとする混乱がある。だから、予備知識のない読者には、全く違う理解になる可能性があるの的なで大変である。結論から言えば、現代中国人は北京語上海語の漢字表記はできても、漢文は理解できないのである。

 P5にこうある。 

 「漢民族と呼ばれる人たちは、互いに会話は理解できない場合もありますが、書きことばとしては、中国語を共通して使うようになった人たちです。たとえば「私は明日鶏を三羽買いたい」というなら「我想明天買三隻鶏」というように表意文字をほとんど並べただけですから、複雑な文法を勉強する必要もなく、漢字を習得すれば商取引や簡単な指示なら可能です。

 逆にもし複雑なことを表現するときには古典における表現例を学習しないと意味をなさなかったり・・・朝鮮半島の人々は北方系の言葉を話しますが、日本統治時代までは書き言葉はほとんど成立せずに中国語を使っていました。」

 

 ともかくひどい。書き言葉としての「中国語」と言っている。それが間違いの始まりなのである。中国語と総称されるのは、現代では、普通話、広東語、上海語などの何種類かの漢語のことを言う。しかも、これらは話し言葉であり、清朝崩壊前後までは、これらに対応する書き言葉がなかった。普通話とは正確には北京官話(ないしは北京語)から作られた、現在の中華人民共和国(中共)政府が中共支配の全土に強制している、日本語で言えば標準語のようなものである。

 普通話、広東語、上海語などの相違は方言と言う程度ではなく、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語といった程度の異言語なのである。このことを著者は「漢民族と呼ばれる人たちは、互いに会話は理解できない場合もあります」というのだが、前掲の文章では何のことか分からないであろう。しかも清朝崩壊前後から行われた白話運動で「普通話、広東語、上海語など」の漢字表記が作られた。そして普通話、広東語、上海語などの漢字表記は話し言葉が相違することから、漢字表記そのものが異なる。つまりこれらの漢語の漢字表記は各々違うのである。

 それなら著者の言う「中国語」の書き言葉とは何であろう。実は私たちが高校で習った「漢文」の事である。筆者の説明を置き換えて「漢民族と呼ばれる人たちは・・・漢文を共通して使うようになった人たちです。・・・朝鮮半島の人々は・・・日本統治時代までは書き言葉はほとんど成立せずに漢文を使っていました。」とすれば事実に則している。しかし、それでは、朝鮮半島の人々は漢民族と誤解されてしまう。

 しかも漢文は筆者が言うように、「表意文字をほとんど並べただけですから、複雑な文法を勉強する必要もなく、漢字を習得すれば商取引や簡単な指示なら可能です。逆にもし複雑なことを表現するときには古典における表現例を学習しないと意味をなさなかったり」するものなのである。一方で普通話、広東語、上海語などの話し言葉にはちゃんと文法もあるのである。従って漢字表記された、これらの言語にも当然文法もある。

 全ての間違いの元は漢文が「古代中国語の漢字表記である」と言う勘違いが前提にあるためである。そして、著者がそのことを理解していないのが問題である。しかもインターネットで「漢文」を調べても、それに似た間違った表現がされていることが多い。つまり筆者は耳学問なのである。著者のいうように「中国語」ではなく「漢文」には文法もなく漢字を並べただけの原始的な表記法であって、古典の用法を参照しなければ正確な意味は理解できないし、厳密な表現はほぼ不可能である。少なくとも話し言葉程度の厳密さも表現できないのである。しかも漢文は音声を出して読むことはあるが、あくまでも書き言葉の朗読であって、話し言葉の漢字表記ではない事に注意されたい。

 著者の奇妙なのは、ここでは中国語、といっておきながらP45で突然「江戸時代に日本と朝鮮と中国のインテリ同士は、互いの言葉は知らないし、漢文も会話だと、日朝ともに独自の発音をしていましたから通じません。」と突然漢文と言い出すのである。著者はかつて「漢文」を習ったから、そう言い出すのである。これも説明不足である。漢字は表意文字であるから、読みは民族によって異なる。このことは重大である。しかも漢文による会話はしないのである。まあ、和歌で問答をするようなつもりなら可能であるが、奇妙なものであることは想像できよう。

 漢民族とひとくくりにしても、普通話、広東語、上海語などの異言語を話す人々であることで分かるように、王朝が変わるごとに支配民族が変わったから、漢字の発音は変わっていくのである。日本では和式の漢字の発音を訓といい、中国由来の発音(もちろん正確なものではなく英語のカタカナ表記の程度のもの)を音、という。

P49には、伝わった時代によって呉音と漢音があると紹介されている。しかしインターネットで「呉音」と引けばわかるように、日本に伝わったのは、呉音、漢音、唐音の3種である。「行」を「あん」と読むのは唐音なのである。3種類の音が日本にあるのは、元々三つの読みがあったのではなく、著者が言うように漢字の読みが伝わった時代が異なることによる。ちなみに昔NHKの漢詩の講座で、漢文書き下し読みの他に、原語の中国語の発音の読みを紹介するラジオ番組があった。だが李白が読んだ漢詩を李白の時代の発音で読んでいなければ、原語で発音した、という意味はなくなってしまうことは理解できるであろう。小生には漢字の発音の知識がないので、当時の漢詩の講座の発音が正しかったか、判断しかねるのだが。

小生は漢文の知識がないので確信はないが、著者が例示した漢文で、日本語の明日を明天と書いているのは、漢文として正しいのであろうか、という疑問がある。インターネットで明天と引くと中日対訳辞書に、日本語の明日のこと、とある。つまり明天とは普通話で使われるもので漢文では使われない可能性大である。漢文なら漢和辞典にあるだろうからと「明」と「天」を調べても「明日」という用法はあるが「明天」なる用法はない。実際、後述する語学入門書によれば、「あした」は北京語で「明天」、上海語で「明朝」と書くそうである。北京語とは普通話の事である。もちろんここでいう北京語と上海語は話し言葉を漢字表記したもので、書き言葉だけの漢文のことではない。従って「我想明天買三隻鶏」と書いても、北京語ネイティブには理解できても、上海語ネイティブには変だ、と思われる可能性大である。まして漢文の日本人専門家に見せれば、偽漢文だと言われるのは間違いない。

漢和辞典の「明治」の意味には「明らかに治まる」という用法だけで、明治時代という用法は示されていない。恐らく漢和辞典は主として漢文用に作られているからだろう。とすれば、著者は普通話での明天の用法を例に使ったのであって、漢文での用法ではないように思われる。著者の意図は漢文(著者の言う中国語の書き言葉)とは漢字を並べたもの、と言いたいだけなのだが罪は大きい。

ただ、話し言葉としての「中国語」にはいくつもの異言語がある、というのは中国語の専門家に聞くまでもなく、以下の「トラブラないトラベル会話 広東語」という広東語の入門書に書かれている下記の監修者の序を読めばわかるであろう。曰く。

 

「私は福建人の三世としてマレーシアで生まれ、福建語、福州語、マレー語、英語で高校まで教育を受けてきました。そして留学した一橋大学では日本語を学び、その後広東に渡り、広東語を学ぶという貴重な経験をしてきました。数多くの外国語に接してきましたが、中でも広東語は、単音節の声調の高低で意味が変わり、また終助詞の使い方も複雑な、難しい言語だと思います。」

 

なんとこの本の監修者は、福建語を母語としながら、福州語、マレー語、英語、日本語を学び、これらと並列して、広東語を外国語すなわち、異言語と言っているのである。著者はこの事実を知らないから、とんでもない間違いをするのである。つまり漢文を中国語の書き言葉、と言って見たり、普通話、広東語、上海語などを説明なしに、ひとくくりに中国語と呼ぶのも「中国史」を解説する本としてはおかしいのである。これらの「中国語」なる言語はいくつもの異言語のグループであって、方言にとどまるものではないことを銘記されたい。

つまり、中国語とは、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語などの西欧の言語をひとくくりに、ヨーロッパ語、と呼ぶに等しいのだということを理解できるであろう。著者は、「民族とは言語集団でDNAではない(P39)」といいながら、日本民族と対置して、多数の異言語集団を含むグループを「漢民族」とひとくくりにしているのは矛盾である。本書には数多く傾聴すべき記述がある。しかし、根底にこのような矛盾が潜んでいることは、内容を理解するうえでも注意が必要である。

ちなみに、明日香出版社に「はじめての○○語」と言うシリーズがあるが、漢語の系統には「はじめての中国語」「はじめての広東語」「はじめての上海語」という三種の本がある。本シリーズの中国語とは「普通話」のことを言う。現在普通話が使われていない地域でも、普通話が強制されている、それは、香港のみならず、チベットでもウイグルでも同様である。香港では普通話強制反対のデモがあった位である。

共産党政権以外の、過去の清朝などの王朝では、このようなことはほとんど行われていない。著者が言うように民族とは言語集団、であるならば、まさに共産党政府は民族抹殺政策を行っている。共産党による殺戮を含む民族抹殺の規模はナチスドイツのそれをはるかに上回る。その意味でもP239に書かれたチベットやウイグルの記述は承服できるものではない。

「中国はチベットやウイグルを侵略した」というのは言い過ぎだ、というのである。「少なくとも近代になって外国を侵略して領土にしたのではありません」というから驚きだ。「チベットやウイグルはいちおう国際法の上で認められた中国の領土です」とも断言する。これはものごとの順を間違えている。中華民国内の一匪賊に過ぎなかつた中国共産党は、支配地域を拡大(侵略)して中華民国を追い出し、清朝の支配地域まで侵略を拡大した。

その中共を国際連合に加盟させたから、国際法で認められたことになるのである。つまり国連は中共政権の侵略を是認したのである。どんな方法で獲得した領土でも、国際社会が追認すれば、国際法上合法となるのであるのは確かに事実である。そして筆者は、チベットやウイグルでナチス顔負けの民族浄化が行われていることには、一言も言及しないのである。

小生は中国共産党政府に媚びてのことだろうと邪推するが、最近の図書館では以前に比べ普通話(中国語)以外の広東語、上海語のテキストが激減しているようである。福建語のテキストなどは元々見たこともない。

本書は中国史について、詳細な記述がなされている本であるが、縷々述べたような、大いなる間違った記述が多いのは、誠に残念である。果たしてアメリカ政府が、ウイグルには百万人規模の強制収容所がある、と発表した現在でも、筆者の考え方は変わらないのだろうか