毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

小室直樹の教える村落共同体

2019-10-19 23:44:09 | 社会

 小室直樹氏の「中国原論」には小生の体験したにもかかわらず、未だに理解できていない村落共同体が書かれていたので、小生の経験と絡めて本書の、日本の共同体とその崩壊について取り上げる。(P169)まず共同体の定義である。

共同体内外は二重規範となっている。②社会財はまず、共同体に配分され、次に共同体の各メンバーに再配分される。③共同体は敬虔な情緒に支配されている。

 という3条件である。

 小生は子供の頃、まさに、村落共同体の中にいた。しかし、小生の見たものは崩壊寸前の姿であったのに過ぎないのだろう。①と②は辛うじて残っていたが、後述のように③などは無くなっていた。小生の実家は国会図書館で調べると、応仁の乱以前に仕えていた領主が戦乱に負けたために、かつて住んでいた土地に戻り、それ以来土着して百姓となった。同じ字(あざ)の地域のうちでも、原則として10数件の同姓の家としか付合っていなかった。全てが血縁であったと思う。

 当初は敗残したために周囲を警戒し血族同士で固まった、一種の落人であったのに違いない。長子相続であったから、本家の我が家の土地は広大であった。30年位前に町の火葬場ができたが、そこまで行くのにタクシーを使わなければならない。しかし、戦前はそのあたりまで我が家の土地であったそうである。

葬式などは各自の家でするのだか、死者の出た家の人は何もせず、通夜から葬儀までの段取りは、共同体の一族で全てしてしまう。食費や酒代その他の経費がかかると、その家の財布から、断りもなしに持って行って使う。それほど濃密な関係であった。田植えなどの大規模な農作業は共同体の仲間全員が集まって、各家の田圃の作業を順番にして片付けた。毎日の田植えの後の夜は、毎日ちらし寿司などの当時としては目いっぱいの御馳走を出しての大宴会が繰り広げられていた。

 だが委細を見ると、いくつかのグループに分かれて反目していた。不思議なことに本家である我家だけが孤立していた。母は意地っ張りだったから、本家は馬鹿にされてはならないと突っ張っていた。私や兄が他所の子供にからかわれると、馬鹿にされるなと、怒られた。だが却って小生たち兄弟の根性はイジケていったのだと思う。奇妙なことだが、兄が成人式を迎えたとき、曾祖母が近所に兄を挨拶に連れて行った、ということを最近聞いた。本当は本家に分家が皆が挨拶に来るべきなのである。

かく言うように、六〇〇年も経つと村落共同体はほとんど崩壊していた。箪笥に短い刀が隠してあるから聞くと、祖父が大刀を短く折って成形して、鉈代わりに使っていた、と言う。そこには苗字帯刀を許されていた士族である、という誇りはない。既にして心根まで百姓に土着していたのである。

だから小室氏が書く、村落共同体の崩壊の過程は興味深く納得もできた。「戦前、戦中における共同体は、頂点における天皇システムと底辺における村落共同体であり、日本の人々ここに安住していた。しかし敗戦によって、頂点における天皇システムは解消した。・・・致命的な急性アノミーが発生した。それとともに日本人の心の行き場所であった村落共同体も、漸次、崩壊していき、高度成長の進行とともに、ほとんど姿を消した。」(P170)のである。

日本の経済の高度成長というと、昭和三十五年あたりからだと思われているが、実は昭和二〇年代の末期に始まっていたのだと言う。ということは村落共同体も、その頃から崩壊が始まったのである。昭和35年から45年の10年間の社会変動は激しく、それまでの100年間以上の生活様式が変化が起きたと言う。同時に村落共同体も壊滅した。それは小生も体験した。昭和30年台前半は、子供の普段着は和服だった。和服と言えば聞こえがいいが、ボロな浴衣のようなものに粗末な帯を締めて遊んでいた。

日本の共同体は、血縁共同体でも、地縁共同体でも、宗教共同体でもなく、全て一緒に仕事をすることによってできる「協働共同体」のだそうである。その事は前述のような、皆で農作業を協働していた、ということから小生には実感できる。「・・・高度成長によって大量の労働力が都市へ流出し農村過保護政策によって村落における協働システムは解体した。さらに流通経済が村落にまで流入したことがこの傾向に拍車をかけた。」(P173)というのだが、これも小生には実感がある。

小生の知る昔の農家と言うのは自給自足に近かったから、現金は極めて少なくて済む。衣服は継ぎはぎで、兄弟のお下がりやお古を使うから滅多に買う必要はない。市場に農産物を売れば現金は足りた。小生は高校に行くのに中古の自転車を買ってもらったが、半分は現金だったが、半分は米と野菜をリヤカーに積んで行って払った。自家で食べる米は、工場に運んで精米してもらってたが、精米に出したコメの一部しか返してくれない。精米料金は現金で払えないから現物で払ったのである。

ところが教育の程度が進み、農業機械が入るとそうはいかない。現金が必要なのである。その代わり協働作業は必要なくなる。現金はどうするか。田畑を売るのである。こうして村落共同体は消えた。「村落共同体こそ、多数の日本人にとっては心の依り所、故郷であった。都市へ出ても外国へ行っても、『志をとげて、何時の日にか帰る』場所であった。その村落共同体が、消えて無くなった。サアたいへん。一大事だ。・・・そこで、機能集団たる会社(企業)は共同体に成ることによって、巨大な急性アノミーを引き受けることにした。」(P173)その通りである。

ただし、全部の会社ではなく、大中企業であり、中小企業や零細企業は共同体に成りきっていないのだという。その理由の説明はないが、想像するに、中小企業や零細企業は、ある人が入社してから死ぬまで(せめて定年退職まで)存続することが難しいからであろうし、そこまで社員の面倒を見切れなかったのだろう。また、規模が小さいと人間関係が濃密過ぎて現代日本人には耐えられないのであろうか。よくわからない。

小生は体験から村落共同体が崩壊してしまい、その代わりに会社が村落共同体の代わりを引き受けている、ということはぼんやり思っていた。さすがの小室氏は、そのことを明快に説明してくれたのである。しからば中国の社会は、というとそれで村落共同体にはならないそうである。それは血縁共同体、すなわち宗族が存在し、急性アノミーを吸収するから中国解体にはいたらないそうである。文化大革命での大量虐殺、洗脳、毛思想の否定が急性アノミーの発生を示唆しているが、結局共同体が吸収したのだと言う。

 日本の知識人で共同体についてここまで明快に述べたのは、他には知らない。小室直樹氏の観察眼は天才的だと思う所以である。


地球温暖化のまやかし

2019-08-25 00:45:16 | 社会

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 平成22年の10月の初め、あるところで広報雑誌とおぼしきものを手に入れた。その中に「地球温暖化について考える」という連載があったのでありがたくいただいてきた。京大名誉教授の芦田和男氏の論文である。この中に地球温暖化について考える貴重なヒントがあった。気候感度である。CO2が二倍になった時の気温上昇を気候感度と言うのだそうである。芦田論文によれば気候感度は2から3度で、最近の衛星を使っての観測では1.6度である、との事である。

 日本のCO2削減の話を聞いている、普通の知能の人はこれを読んで驚くだろう。つまり鳩山前首相が20%削減、と世界に発表して大騒ぎになったのに、CO2が倍になったところで、気温は1.6度から最大3度しか上がらないのである。数学を忘れていない人は気付くだろうが、横軸をCO2濃度として、縦軸を気温上昇としたグラフを書けば、これは対数関数である。

 つまり気温をT(℃)としCO2濃度(ppm)をGとすれば

T=C1logG+C2

と表わされる。ここでC1とC2は定数である。数学のコーナーではないので説明は省略するが、この定数C1が気候感度である。気候感度をC1を2とすれば、現在のCO2濃度を300ppmと仮定して、それが倍の600ppmになると気温は現在より2度が上がる。それが、さらに現在より4度気温が上がるためにはCO2濃度は、900ppmではなく、さらに倍の1200ppmにならなければならないのである。僅か2度の気温上昇がCO2の排出増加だけによっておこったとすれば、空気中のCO2濃度は劇的に変化していなければならないことになる。そんなことはないのである。


  逆にわずか2度程度の温度上昇を止めるには、排出量の削減どころか、人為的なCO2の排出を止めるしかないという事である。そのためには人間の工業活動を一切止めなければならないのである。わずか、2度の温暖化防止のために!!現在の世界情勢ではわずか20%の削減すら絶望的である。全世界の人為的なCO2排出量を20%削減したところで、現在よりCO2濃度は確実に増加しているのであって、増加率がわずかに減少すると言う事に過ぎない。

 以上の事は全てCO2濃度の上昇が工業化などの近代の人間の活動によっている、と言う事を前提としているが、芦田論文が引用しているグラフによれば、CO2濃度は確かに1970年度以降急に上昇しているが、それ以前の1740年から1970年の間にも直線的以上の上昇を示している。つまり人間の工業活動がなくてもCO2濃度は確実に上昇しているのである。こう考えてみると日本が工業や経済活動まで犠牲にしてしようとしている排出量削減とは何か、と言う気がしてきませんか。

芦田氏は他の著名な学者のように、CO2削減活動の支持者かと思っていたが、最後の方でこう述べていることから、バランスのとれた考えの持ち主だと分かった。
 
 さまざまな研究者や過去のデータにあたった結果、人為的な要素と自然現象が重なって起きている問題ではあるが、CO2によるものではなく、自然現象の変動がこの温暖化の大部分を占めているのではないかと考えるにいたったからである。過去に置いても現在の温暖化と同じような変動がみられ、それは太陽活動の変化によって説明されているからである。

そしてこう警鐘を鳴らしているのには考えさせられる。

・・・温暖化であろうと寒冷化であろうと、気候が変動すれば雨の降り方が変わり、洪水や渇水として生態系に大きな影響を与える。

これは至極妥当な指摘であって、人間の工業活動によるCO2排出増加による温暖化だけに集中して大騒ぎしている世界、特に日本の無知な現状には肌寒いものを憶える。最後に、地球の気温はマクロな変動とミクロな変動があり、ミクロな変動では気温上昇をしているが、マクロな変動では気温低下していることである、と言う事だけを言っておく。つまり地球は確実に氷河期に向かっているのである。

 氷河期よりも、気候が温暖な方が、食料生産に有利であることは言うまでもない。現代人の生きている間は、愚かな温暖化騒ぎは続くのだろう。現に半世紀前には今よりよほど雪が降ることが多かったから確かに寒かった。温暖化は事実である。しかし、今現在を生きている人々が死に絶えたころ、食糧危機を引き起こす、地球寒冷化騒動が起きるだろう。その時人類はCO2排出を増加させて地球の寒冷化防止をしよう、などという愚挙は行わないだろう。
 
 ちなみにこの広報誌とは「近畿建設協会」の「水が語るもの」である。色々な観点からの地球の気象データが紹介されていて無償ではもったいない位である。興味ある方は入手されてはいかがでしょう。同協会に問い合わせたら、この広報誌は同協会のホームページにすべてPDFで公開されて無料入手できるそうです。


利権社会日本

2019-08-09 14:52:00 | 社会

利権社会日本

 現代日本は利権社会である。ひとつの典型が農協である。農協は、農地改革によって急に小規模自作農が増えたことから、その農業指導と経営支援を行うためにできた組織である。だから適切な化学肥料を選択して販売する、精米などをして買い上げる等々をしたのである。自作農となった小規模農家は、いわば個人経営で組織力が無いから、近代農業を行うためにはこのような支援が必要なのである。

 多くの組織がそうであるように、発足当時は必要性から出発したのだが、農業が衰退する半面、農協は肥大化した。農協は健全な農家の育成から自身の組織の維持拡大が最大の目的に転化した。そのためには農協から自立した大規模経営の農家は不都合で、旧来の弱い小規模農家のままでいた方が都合が良いのである。だから農協の繁栄は農業の衰退である。戦後は、多くの組織がこのような利権集団と化していった。郵便局しかり、電電公社しかりである。しかもこの利権集団は選挙の時の集票マシーンとなることによって政党と結託し政党を利用する。

 利権集団はどんな国家にも生ずる。戦前の日本も例外ではない。これはまだ仮説であるが、戦前との違いは、戦後は利権の対象が経済に特化したことである。例えば海軍は、艦隊の充実と言う利権に特化した官僚集団であった。しかし軍人たちは経済的利益を追求したわけではなかった。軍人が互いに地位を争った形跡もないし、自己の収入を増やそうと言うのでもなかった。陸海軍が政党と結託して自己増殖に努めた形跡もない。この点も現代日本の利権集団と大きく異なる。

 戦後も旧海軍の幹部が、大東亜戦争の海軍の失策を糊塗しようとして虚言を弄するのも、この延長線上の惰性であるともいえる。既に亡くなった海軍の名誉を守ろうと言うのである。確かにそれは何らの経済的利益を目的としない純粋なものではある。戦後は国防が忌避されてきたことから、日本人の努力は経済成長に集中せざるを得なかった。従って日本の利権集団は経済的権益に集中する事になった、と言うのが私の現在の仮説である。

 これは政治も例外ではない。政治家は権力を欲するのが本質であろう。ところが日本の政治家の権力把握の目的は、経済的利益獲得のためである。例えば元首相の娘で口八丁で人気のある国会議員がいる。彼女は政策に何の定見があるわけではない。ただ演説が面白いだけである。それだけで多数の票を集めいているのはいかにも不可解であろう。謎を解く鍵は利権にある。元首相は地元に多くの会社を持ち、公共事業を分配してきた。彼女はその利権の象徴なのである。

 彼女の取り巻きにとっては、利権の配分を適切に行うに当たって、彼女は元首相の正当な後継者たる国会議員である、と言う「黄門さまの印籠」なのである。だから彼女が政治家として無能であろうが構わないのであって、せいぜい、面白いパフォーマンスができることが求められているに過ぎない。彼女は充分にその役割を果たしているから、西欧の価値基準からいえば無能な政治家であるにもかかわらず支持者が集まり当選するのである。

 アメリカマスコミによって「お馬鹿」のレッテルを張られた元首相様も同様である。何の定見もなく、せいぜい、その時限りの口当たりのいい言葉を話すだけの人間であるのにもかかわらず当選するのは、彼がある利権の象徴だからである。彼はいい年をして親から何億もの「小遣い」を貰う事ができる大財閥の御曹司だからである。日本の政治は国家国民を護るのではなく、経済利権を守るためのものになり果ててしまった。大部分の政治家の支援者と言うのは、政治家が支援者の利益のために口利きをしてくれるから支援者になっているのである。

 もちろん労働組合も経済的利権集団である。末端の組合員ですら賃上げという利益を受け取ることができる。幹部ならなおさらである。彼らが組織の維持拡大に狂奔するのは、その功績により組織内の地位が上がり、地位が上がれば報酬も増える。組合のトップは組合費を納める末端の労働者からすれば、驚くほどの高額報酬を得ている。何せ彼らには、会社や官公庁の幹部と対等に渡り合うにはそれと対等の給料をもらわなければならない、という論理がある。もちろん大多数の末端の労働者は誠実にボランティアとして働くのはもちろん、選挙の時期にはプラスアルファの組合費まで喜んで納めているのである。

 消費税が導入されたころ、当時の社会党の党首は、消費税が高いことをアピールするために、買いものをしているところをテレビで映させた。彼女が買って見せたのは、何と2万円のブラウスであったのは忘れない。現実に消費税で家計が圧迫されて困る人たちは、2万円のブラウスは間違えても買わないのである。金銭感覚が違うのである。はしなくも彼女が大金持ちで多額の組合費をいただく労働貴族であることを証明した。

橋下元大阪市長が無党派層に人気があったのは、彼が経済的利権と無関係に見えるからである。彼は定見があるのではない、その時に合理的と思ったこと、大衆受けすることを喋るだけである。この点で、案外小泉元総理と、その息子にも似ている。郵政民営化は、アメリカの指示によってやったのをカッコよく見せただけのことである。国民のうち政党に所属して支持している人たちは、結局、政党によって自身の経済的利権を保護拡大してくれていることを期待しているのである。

 無党派層、というのはこのような経済的利益の配分にあずかれる立場にない人に過ぎない。早い話が政党によるおこぼれにあずかることのできない人たちである。日本のあらゆる組織が経済利権集団化している限り政治はその利権を維持拡大する事が目的なのだから、無党派層は政権の中心には存在し得ない。結局日本の政治は国家国防を考えるものにはならない。

自民党の堕落は保守合同を果たして、共産勢力の支配の危機が消えた時から始まった。党是であった自主憲法制定は忘れられたばかりではなく、平和憲法擁護の自民党議員すら例外ではなくなった。共産主義勢力の危機が解消されたために、自民党は族議員として、各分野の利権勢力の代弁者になっていった。全てではないが、国防族と言われる人たちですら、○○重工と言った国防産業の利益代弁者さえ含まれると言う具合である。真の政治改革とは、政治家をこれらの利権集団から切り離すことであるが、私にはまだその方法が分からない。

戦前の日本は二大政党政治であったが、政権獲得に汲々とするばかりで国家国防外交に資する事はなかった。野党政友会は統帥権干犯、と唱えて与党から政権奪取するために国防すら政局に利用したのである。その歴史を閲すれば日本では二大政党政治などは幻想にすぎないのは既に証明済みである。満洲で排日と言う言葉では表現できないほどひどい暴力によって日本および日本人の利益や、生命財産が失われつつあるとき、政党政治は何の対策もせずに対中融和策を行ったために、かえって排日は悪化した。結局現地居留民と日本権益保護の義務を負わされた当事者である関東軍が立ちあがらざるを得ないはめに陥った。

 日本では国家存亡の危機に際して、二大政党以前に、政党政治自体が何の役にも立たなかったのは既に歴史が証明済みではないか。大政翼賛会は政党政治の終焉だと批判するのは現代の常識である。しかし事実は国家存亡に際しても権力闘争を続ける政党政治の愚にあきれ果てた日本人の最低限の知恵であったとも考えられるのである。日本では「民主主義の本家」と考えられている米英ですら、第二次大戦はルーズベルト政権とチャーチル政権の独裁で乗り切ったではないか。

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少子化で何が困る。

2019-07-21 17:33:54 | 社会

 少子化というのは本当に困った問題なのだろうか。答えのひとつは中共にある。中共は一人っ子政策をとっている。人口の膨張をふせぐためである。あたりまえだ。人口が際限なく増えたら困るのは当然である。

 いくら科学技術が進んで養える人口が増えようとも、そこには限界がある。一体人口減少を憂う人たちは、どこまで人口が増えたら満足するのか。日本の国土に見合った適正人口があるはずである。それを私はある資料で四千万と書いているのを見たことがある。これは極端にしても、すでに過剰なのは間違いない。

 なぜ日本は少子になったのか。自分の胸に手を当てれば、実は答えは皆知っているのである。逆説的に昔はなぜ子供が多かったのかが答えである。答えは簡単である。避妊技術の問題である。昔でもたくさん子供が欲しくはなかった。そして現在では教育に金も手間もかかる。だから子供は最低限となる。たとえ国からいくら金をもらっても、手間はどうにもならない。第一、2 ~3人もいれば子育ての満足感もある。

  次は結婚観の推移である。昔は大部分が見合い結婚であった。社会だから年頃の男女がいれば年寄りが面倒を見て見合い結婚させてしまうのが当たり前で、当人たちも疑問を持たなかった。疑問を持たないことは幸せである。

 しかし日本の社会は崩壊し会社社会に移行した。近隣への帰属感より会社への帰属感が強くなる。ところがの年寄りのように会社の上司が結婚の面倒を見ることは少ない。すると手段は社内恋愛結婚が主流となる。早い話が、同じ会社の中で自主的に見合いをしているのである。

 そしてテレビや洋画などの普及に伴い、若者は恋愛結婚にあこがれる。だが恋愛などというものは心の病気である。若者に特有な一種の脅迫神経症である。あるいは惚れたり惚れられているに違いないと勝手に思い込む加害妄想ないし被害妄想である。一対の男女が精神病的妄想に陥ったのが恋愛である。

 だから恋愛は青年の特権で、いい年をして恋するなどというのは尋常な神経の持ち主ではない。見合いは日本では本来、健全な結婚システムなのだ。そもそも恋愛結婚などというものは遊牧民族社会に特有な、略奪結婚を基礎にしている。だから西洋には見合いというシステムがないそうな。民族のシステムは民族の必要が開発するものである。

 だから日本人で恋愛結婚などというものをするものはろくでなしである。情におぼれて本来の社会のあり方を忘れたろくでなしである。だが今は親も見合いをすすめない。

 そもそもこの頃は、親が子供の見合い相手をさがせない。しかし本来日本では恋愛結婚は例外なのだから、誰でも恋愛結婚するわけではない。だいいち恋愛をしても結婚するとは限らない。だいたい昔の見合いは即結婚である。恋愛はそうではない。

 自由である。だから結婚率が低下する。夫婦当たりの子供の数が減り結婚する率が減るのだから子供が減るのは当然である。だが以上のような説明を公然としたら袋ただきにあうことは目に見えている。だから誰も本当のことは言えない。

 言えないから対策は減税だとか、報奨金だとか見当違いなことになる。だから効果はない。効果はなくても何かしなければ批判されるから、効果がないと分かっている対策を次々と打ち出す。報奨金や減税は教育費に比べたらすずめの涙にもならない。金を与えて子供を生ませるなどとは人権無視もはなはだしいではないか。

 はなから効果がないことを皆暗黙のうちに知っているから誰も無意味な対策を批判できない。人口減少はいつか止まる。適正人口になったときに必ずとまる。少子化が困るのは人口減少によって人口の年齢構成がいびつになることである。適正人口まで減る過程が問題なのである。

 年金なら少数の若者が多数の年寄りを支えるから困るのである。すると人口が適正になって安定すれば支障はなくなる。ものごとは変化があるから困るのである。江戸時代のような変化のない安定社会は永続できる。だが日本は世界に門戸を開いた途端に、社会に変化を起こすことになったために支障をきたしている。

 だから現在なすべきは少子化対策ではなく、変化に耐える方法を考えることである。例えば年寄りになればどんなに収入があってもためた年金はもらえる。高齢の政治家でうん千万円の収入があるのに、一方で90万円の年金だけをもらっていると所得番付の発表があった。

 この90万円は無収入の人には大切だが、この政治家には何の意味もない。高収入の年寄りに年金はいらない。彼らには税金だと思ってもらって、年金を受ける権利を放棄してもらうのである。例えばの話である。

 とにかく少子化は止まらない、日本の人口は過剰であると自覚することが必要である。夫婦当たりの子供の数が少ないのも、若者が結婚したがらないのも天が仕組んだものである。

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少子化異見

2019-07-19 22:17:38 | 社会

 私には少子化は世間で論ぜられているほど絶対悪だとは思えないし、少子化そのものの対策があるとも思えない。少子化についての意見が見当違いなのは、突き詰めれば少々品のない言葉を使わなければならないこと隠すからである。この点はご容赦願いたい。

○少子化の原因
 少子化の最大のものは誰も口にしない。昔の子だくさんだって、そんなに子供などほしくはなかったのである。だから江戸時代などは間引きなどというものが行われたという。現代の日本では子供がたくさん欲しくなければ、そのようにコントロールできるようになっただけのことである。

 第二の原因は若者が結婚しなくなったことである。私は昔の社会と現代の核家族あるいは会社社会と言われる両方の状況の経験者である。昔なら相応の年齢の男女は近隣で面倒を見て見合いさせてしまった。昔の見合いは、結婚前に顔合わせをするだけのことだから、即ち結婚である。

 狭い体験による偏見かも知れないが、このような結婚は多くの不幸な女性を生んだと私は考えている。昔は結婚は義務であったのである。多くの女性は不幸に甘んじて、年老いてやっと不幸を忘れることができる。社会のなくなった現代社会にはこのような義務はない。だから多くの男女は結婚しないという自由を選択できるようになったのである。

 かくいう私は見合いの経験がない。一緒にいたいという女性がいて、一緒に暮らし始めたというだけのことである。私は好きでもない女性と一緒に住むという傲慢に神経が耐えられない。だから多くの男女が結婚するかしないかということを自由に選択することを望む。何も職業に専念するためにキャリアウーマンになるからなどという屁理屈をこねなくても良いのである。

 それに私のような自堕落な世代の人間は、支えて叱責してくれる人がいなければ、今日まで生きてきたかあやしい。世評と逆だが、それに比べれば現代の青年ははるかにしっかりしているように思える。おとなしい私ですら、独身寮の窓ガラスを割って自室に帰ったなどという野蛮をした。酔っ払い運転は公認だったのである。とにかく結婚は減るべくして減った。これらの理由により少子化は当然である。

○愚かな少子化対策
 以上のように少子化の原因を考えれば、少子化対策なるものが全くだめとは言わないにしても、焼け石に水であることは間違いない。子供がたくさんいれば減税するとか、教育費の補助をするとか、そんなことで子供を増やす家庭がどれほどいるか、胸に手を当てて考えればわかる。

 産休を長くするとか、男にも産休を取らせるとかすることがどの程度実効性があるか。経営が大変な大多数の会社ではこのような対策は迷惑であろう。そのためにリストラがでかねないのである。実現可能なのは、このような対策がなくても困らないような企業に勤めている人たちがほとんどではないか。つまり必要のない会社に対策をしているのではないか。また産休が充分取れるからもう一人子供を、などという家庭があるとも思えない。このような対策で子供が増えるという発想こそ、子供の生命を軽んじているように思う。

○少子化は悪か
 人口が減ると困るという人に聞きたい。日本の人口は増え続けたらどうなるのかと。日本の国土では既に人口過剰であろう。日本の適正人口は四千万人であるという説を聞いたことがある。これが正しいか否かを別にしても、適正人口はあるはずである。色々な原因があろうが、日本で少子化が起きているのはマクロの意味で人口過剰に対する自然の摂理のように思われる。日本の人口が一方的に減り続けて適正人口も割り、しまいに日本人がいなくなるような日は来ないと思うのである。

○少子化対策その1
 少子化を防ぐ対策はないと言った。それは少子化対策がないの意味ではない。現在が過剰人口であるとすれば、適正人口に近づくのはむしろよいことである。問題は人口が減少するという変化が起きていることである。初めから人口が今の半分でも、その状態で変化しなければ困らないのである。

 つまり人口が減少する過程では、若年に対する高齢者の割合が増えていることが障害を起こすのである。つまり労働人口に対して、働けない被扶養者が増えることが問題なのである。

 少子化の最大の問題は年金対策であろう。これには二つのことが考えられる。現代の高齢者は三十年前に比べれば、10年は肉体的にも精神的にも若い。昔の60才は、今の70才に相当するというのが一般的であろう。しかし60才定年である。再雇用の道はあるが役員などを除いて嘱託で、しかも給料は大幅に下がる。

 団塊の世代が定年となって困るといわれているが、実際働けるのなら正職員として働いてもらえば良いではないか。定年をあくまで変えないというのは、企業のエゴである。定年を変えずに嘱託にすることによって、団塊の世代の技能や知識を生かせる上に、大幅減給することによってコスト削減ができる。しかし当人はかつての部下に使われるという、屈辱を味わうが仕方ないとあきらめる。

 このような議論がでないのが私には不思議でならない。働けるのに60才定年でしかも、年金は出ないというのは理不尽である。国策でせめて65才定年を基本にすべきである。そうすれば国民年金の支払いも増えるのである。人によっては70才定年でも良い。その場合、給与条件が良ければ年金は支払わないのである。

 もうひとつは、年金受給資格年齢になっても高収入の人には年金を支払わないことである。高齢で高収入の人は意外にいる。1500万円の年収の人には年金が必要とは思われない。しかし一方的に権利を剥奪するだけでは困る。高齢になり収入もあるとなると人は名誉が欲しくなるものである。

 従ってこのような人には叙勲などの名誉を代替措置として与えればよい。公務員に偏る現代の叙勲制度は、多くの民間人の高齢者にも年金を受給しない条件だけで、叙勲を与えることにより不公平が是正できる。

○少子化対策その2
 少子化で困るのは労働人口の絶対値の減少である。そこで外国人労働者の雇用が考えられる。実はこれは不公平である。外国人労働者しか働かないというのは、言いたくはないが、3Kであったり少ない給与しか支払えない仕事である。国際貢献などときれいごとを言っても、事実は日本人がやらない仕事を薄給でやらせるのである。体のいい差別である。

 この原因は必ずしも少子化ばかりではない。3Kでも何でも日本人がやっていた時代がある。父もその時代の人であった。専業農家で現金収入が少ないため、建設労働者として農閑期に働いていたのである。このような時代は、実は日本の給与水準が欧米より低かったのである。根本の原因は日本人の高所得化にある。

 日本人の給与水準が世界のトップ水準になると、一面で不都合が出るのは当然である。輸出産業ですら全てが高給に耐える、高付加価値のものばかりではない。工業製品は外国の工場の安い労働力に頼れるが、商店や建設産業はそうではない。あくまでも国内で働かなければならないからである。

 最初の対策はパート化であった。付加価値の少ない仕事はパートにやらせる。そうすると正職員に比べ、社会保険などの諸経費がかからない。露骨に言えば正職員なら暇でも給与を払わなければならないが、パートなら仕事があるときだけ時間給でやとえばよい。これは差別の極致である。

 それもこれも国内外の給与格差の拡大が原因である。農家でも家電製品は買いたい、子供は大学にやりたい。現金は高付加価値産業労働者と同じく必要である。私の祖父の時代のような、自給自足で現金のいらない農家は今はない。しかし花や果実など特殊なものでない限り、高く売れない。だから安い野菜は外国産なのは、一面から言えば当然である。

 そこで対策である。日本人の給与水準を時間をかけて下げることである。高付加価値の製品を開発し続ける努力も必要である。しかし国内で働かなければならない産業には、高付加価値が不可能なものも多いのである。また国内でしか働かなければならない産業は、必要なのだから給与を上げるべきである。

 それには海外労働者の参入を段階的に減らすことである。3Kであろうと単純労働であろうと必要なのである。労働力が不足するなら給与は上がるのが必然である。そうすれば日本人が働けるだけの給与水準でバランスがとれる。つまりそれなりの賃金が払えない企業は淘汰されなければならない。以上のようにして労働力不足は解消できるというわけである。
 
 労働組合の幹部にいいたい。労働者の給与向上は聖なる任務だと思っているのに違いない。しかしベースアップによる外国との給与格差の拡大は、実は日本国内でも新たな労働者間の差別を生んでいるのである。

 このブログには不穏当な発言があると批判されるのは覚悟している。しかし専業農家に生まれ、父は3人の子供を大学に行かせるために、広かった田畑をほとんど売ってしまった家に生まれた私の実感でもある。そして今の少子化論議はきれいごとのうそが多いと思わざるを得ないのである。

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地球温暖化騒ぎの不思議

2019-06-26 20:26:10 | 社会

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 一時は疑問が出されていたと記憶するが、昨今では二酸化炭素排出による、地球温暖化対策の必要性への疑義は影をひそめているように思われる。地球温暖化が騒がれ始めたころ、科学者ともあろうものが、北極の氷が温暖化によって融けて、海面が上昇する、と言ったのである。

 北極大陸は海に浮かぶ氷の塊だから、この問題はコップの中の水に浮かべた氷が融けると、水面の高さはどう変化するか、ということに等しい。中学で習うアルキメデスの原理さえ知っていれば、水面高さは何万分の一ミリたりとも変化しないことは分かる。学者が間違えるはずはない。為にする嘘をついたのである。だから今はそんなことを言う者はいない。

 偶然手に入れた「水が語るもの」2010年3月(社団法人近畿建設協会発行)に芦田和男京都大学名誉教授が「気候変動の観点から」という記事を書いておられる。二酸化炭素濃度が倍になったときの地上気温の上昇量を気候感度というそうである。気候感度は2~3℃程度であるが、衛星を用いての観測値から求められた気候感度は1.6℃であることがわかった。

 何と、二酸化炭素の濃度が2倍になったところで、気温上昇は高く見積もって3℃、観測値では1.6℃上がるのに過ぎないと言うのである。逆に言えば、空気の二酸化炭素濃度を半分にしたところで、せいぜい気温は1.6~3℃下げることが出来るのに過ぎないのである。

これは対数の関係である。さらに半分、すなわち濃度を4分の一に下げても、温度は3.2~6℃下がるだけである。だから二酸化炭素濃度を減らしても、その割に地球温暖化防止はごく少ないのである。それどころではない。世界中で人為的な二酸化炭素の排出量を半分に減らしても、大気中の二酸化炭素濃度が半分になるわけではない。

既に大気中には一定の割合で大量の二酸化炭素があるからである。地球温暖化の議論で不可解なことがある。例えば日本が何年か後までに、排出量を25%削減します、と目標を掲げたとする。そうすると世界の大気の二酸化炭素濃度が何ppmに減り、前述の気候感度から温暖化防止効果が何度あるか、という計算ができるはずである。

ところが、削減目標を掲げたとき、温暖化防止効果の温度の数値が発表されたことを、小生は寡聞にして知らない。議論は、一方でそんなに削減するとコストがかかるだけだとか、反対に地球温暖化防止はコストがかかっても人類の生存に必要だとか、感覚的な議論を聞かされるばかりである。

兵頭二十八氏の「地政学は殺傷力のある武器である」に興味あることが書かれている。現在は地球公転の周期の関係で、太陽から地球が受ける熱量が減る時期にあり、あと一万年位は寒冷化が続く(P95)、というのである。そして地球が数万年サイクルで寒冷化が進んでも、その間に数百年サイクルの温暖化の時期が挟まっている、という。

実は小生も相当以前に、現在は氷河期に向かっていて、ミクロには温暖化と寒冷化を繰り返してもマクロには寒冷化していて、今は短期の温暖化の時期であるという説を聞いたことがあるから、容易に納得したのである。西暦紀元一年から現在までの歴史を考えても、何回も温暖化と寒冷化のサイクルを繰り返していて、温暖期には食糧生産が容易で生活は安定し、寒冷期には食糧不足による争いが頻発した、のだそうである。

考えてみればそうであろう。温暖化すれば、寒いところでも農業が容易になる。食料生産と言う観点から言えば温暖化は良いことなのである。それどころか現在は氷河期に向かっているのだとしたら、人間は食料が得られなくなるばかりではなく、凍え死ぬことになる。なぜ温暖化の短所ばかりを問題にするのであろう。

ただ、温暖化の議論の救いは、二酸化炭素の排出を減らすために、化石燃料の浪費を防止し、無駄なエネルギー消費を減らそうとしていることにある。科学技術の活用の方向性としては間違っていないのである。もし、地球が寒冷化しても、暖房や食糧確保のために、無駄なエネルギー消費を減らし効果的にエネルギーを使う、という技術的努力は生きてくるからである。


シャッター通り商店街考

2016-03-05 14:44:19 | 社会

 地方に行くと、確かに、俗に言うシャッター通り商店街が多い。その点だけ見れば地方の商店街は疲弊しているように見える。東京でも同じ景色が見えるが、都心などの地価がべらぼうに高そうなところを見るとそうではない。これは地方でも同じで、博多などの大都会の駅前周辺に行けばシャッターが下りている店は少ない。これは、大都会の地価の高い所では、うまくいけば儲かる可能性はあるが、失敗して利潤をあげられなければ撤退せざるを得ず、その後に成功をもくろんだ新規参入者に入れ替わるからである。

ところが駅から少し離れて地価が低そうな所に行くと、やはり商店街は活気がない。数年前に見た、阿波池田駅前の目抜き通りの商店街は典型的なシャッター通りであった。ところが、商店街の住民やその周辺を見ると、貧しくて困っているようには見えない。都会でようやく一戸建てに住んでいる住民の方が、よほど窮屈で貧相な住生活をしているとしか思われない。地方のシャッター通り商店街の住人の方が実態としては、よほど豊かではなかろうか。

 総武線のある駅から100m余りの、商店街の入り口の一等地に八百屋があって、お年寄りが老猫と一緒に店番をしていた。不思議なことに、この店に客がいたのを見たことがなかった。これはシャッターを下ろしているのと同じだが、このお年寄りは裕福そうであった。こんなところにシャッター通りの秘密があるように思える。

 シャッターを下ろしてしまった店は、後継者がいないとか、儲からないとかの理由で確かに、商店の営業を維持することが不可能になったのであろう。その場所で商店という業形態を維持できなくなったのである。大規模店舗法が改正されて大規模店舗が出店しやすくなったために、小規模店が維持できなくなったから、というのが定説であるが、果たしてそうだったのだろうか。

 小地方都市に住んでいる消費者の立場になって考えてみよう。大規模店舗が制限された小地方都市では、小規模店でしか買い物ができないとすれば、極めて限定された商品しか手に入らない、魅力のない街になってしまう。マスコミの発達した現在では、大都市の消費生活の華やかさが、全国津々浦々でも見えてしまうのである。

 商品の選択肢が狭い上に、都会なら高い者から安いものまであるのに、価格の選択肢まで狭くなる。都会にいれば必ず物価が高いと言うわけではない。その上に何とかモール、というのは単なるスーパーではなく、買い物ばかりではなく、飲食や映画、ゲーム施設などのレジャー施設もある。

要するに街の商店街に代わって新しい商店街が、それも都会に準じた商店街が登場したのである。消費ばかりではない。雇用も創出している。このような商店街の形態がベストだと言っているのではない。ただ旧来の駅前個人商店街形式にだけこだわるのは、消費者にとっても働く者にとっても、現代の日本では得策ではなかろうと思うのである。

変化の波に倒されたのは小規模店舗だけではない。日本のスーパーのはしりであった、ダイエーすらイオンに子会社化された。世の中は変化する。変化こそ、社会のエネルギーのひとつの源泉なのである。もちろん一方で変化しないものが価値のある場合もあるのだが。シャッター通り商店街、というものをいろいろ見た小生の、とりとめのない雑感である。


常勤の派遣社員は矛盾

2008-09-19 19:50:22 | 社会

http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/index.html
 今や日本の企業は、派遣やパートに支えられている。それはコストが正社員に比べて安いからである。それでは、派遣やパートのコストを安くできるのは何故か、皆さん考えたことがあるだろうか。例えばある会社で一年のうち、忙しいのが二ヶ月あり、その時期に必要な人数を正社員として雇っていたら、残りの10ヶ月は正社員が大量に余る。

 ある食堂で昼と夕しか、客が多くないとすれば、忙しい時期に合わせて調理人やウェーターを雇うと残りの時間には客より従業員が多い状態になり、これもコストの無駄である。さて一般には前者の場合には二ヶ月だけ派遣を雇い、後者の場合には昼と夜の忙しい間だけパートを雇えばよい。

 だがこれは、雇う側に都合が良く、派遣やパートをする側には、残りの期間や時間帯に仕事がなくなるのだから、年収が少なくなり生活が困難になる。そこで派遣の場合には、人材派遣会社に登録しておけば、残りの時期は別の会社に派遣されていれば、一年通しで働くことが出来る。パートの場合には、子育ての終わった主婦などで、一日働くのはいやだが、少しは働きたいというニーズがある人を雇えばよい。あるいは学生アルバイトである。ちなみに英語でアルバイトはパートタイマーという。

 これで雇う方も雇われる方も、両方ハッピーである。これが派遣やパートが始まったそもそもの論理のはずである。ところが実態はそうではない。派遣の多くが通年どころか、同じ会社で何年か働いているケースが圧倒的に多い。派遣が常勤化している。これは派遣の本来の姿ではない。派遣がいつもいるような必要がある仕事の量が常時あるなら、派遣でなく、正社員を雇うというのが本来の姿である。

 ところが現在の多くの企業では、派遣と正社員が区別がつかない状態で働いている。派遣は必要な短期だけではなく、正社員がやるべき常勤の仕事をしている。当初延べた理屈によって派遣社員の雇用がコスト削減になるなら常勤の派遣はコスト削減にならない。そんなことはない。コスト削減になるからあえて正社員を採用しないのである。

 最近は色々な圧力により改善されているものの、派遣には会社の経費を払わないことにより、諸経費が減らして正社員よりコストがかからないから、安上がりになる。以前は保険のたぐいもほとんどかけられていなかった。要するに正社員より悪い労働条件が可能なため安上がりになるのである。

 それでも改善されない事はある。派遣は一定の期間いると別な人に代わる。つまり同じ数の派遣がいるにもかかわらず、同じ人が定住する事は少ない。これにもからくりがある。正社員は年をとるから、年功序列で昇給する。しかし派遣は交代するために年をとらないのである。そうではなくても、派遣は技能で時間給が査定されるから、実際には年齢は考慮されない。

 いずれにしても、派遣はいつまでいても年功により昇給しないから、派遣の給料は低いまま抑えられる。このように派遣の存在は、現代の日本の矛盾を凝縮している。繰り返すが、常勤の派遣は正社員そのものである。最近、このようなケースで派遣を正社員にする動きがあるのは当然のことである。


地球温暖化による海面上昇はない

2008-01-12 21:26:32 | 社会

 コップに水を入れて氷を浮かべて水の高さを計る。氷が全部溶けるまで待ってもう一度水位を計る。氷が溶けると水位は上がっているのだろうか?答えはアルキメデスの原理にある。いわく「液中の物体は自己と同体積の液の重さと同じ浮力を受ける。」

 コップの水に浮かべた氷の水中部分の体積は、水中水上の氷の全部の重さに等しい水の体積である。つまり氷が溶けて水になってしまえば、氷の体積は減って最初の水中部分の氷の体積になってしまう。氷が溶けても水位は上がらないのである。これは中学の理科の知識があれば分かる。

 さて世界最大の氷の塊は北極大陸である。大陸とはいうものの岩や土で出来ているのではなく、巨大な氷の塊が海に浮いているのに過ぎない。アルキメデスの原理によれば、地球が温暖化して北極の氷が全部溶けても海面は1mmたりとも上がらない。南極も海水が陸地の周囲で凍ったのだから、ことは北極と同じで、南極の氷が全部溶けても海面は上昇しない。

 世界で代表的な氷が全部溶けても海面は上昇しないのである。何故か地球温暖化の危機を説く学者たちはこの事実は言わない。彼らが中学の理科が理解できないはずがない。中学の理科を理解していない者が、地球温暖化というはるかにむずかしい現象を解明できるはずがないのである。私はここに地球温暖化論者の大きな不誠実を見る。

 さて残りはシベリアの凍土や氷河期にできた氷が溶けることである。これとて地図を見れば分かるように、地球全体の広大な海に比べればわずかなものである。これらが全部溶けたところで海面上昇は微々たるものであろう。私は寡聞にして地球温暖化論者が海面上昇の計算根拠を明示したものを見たことがない。ここにも疑問を感じる。

 先日のテレビで南方の島が温暖化による海面上昇で、海岸線が陸地に後退して面積が減り水害による被害を受けているという放送をしていた。これを見て不思議に思わないのだろうか。この島で海面が上昇するなら日本はもちろん、世界中で海面が上昇して大被害が出ているはずである。ところが海岸線の長い日本の砂浜で、海面上昇による海岸線の後退という被害はない。

 海岸に巨大なテトラポットが置かれているのを見たことがあるだろう。これは波によって砂浜の砂が浸食されて海岸の砂が削れて、海に持っていかれて海岸線が後退するのを防止するためである。つまりテレビで映された島の海岸線が後退したのは、海面上昇によるのではなく波による侵食である。テレビは地球温暖化被害を証明するために、いい加減な話に飛びついたのである。

 地球温暖化で海面上昇しているのなら、日本の海岸は後退して日本の国土の面積は目に見えて減っているはずである。日本は遠浅の海岸に恵まれているから、海面上昇の影響を受けやすい。また東京周辺には高さのごく低い埋立地が多い。だから海面が上昇すると、これらの埋立地はすぐ水中に没するはずである。

 ところが教科書によれば日本の国土の面積は、50年前も今も37万平方キロメートルである。マクロにみれば国土面積の変化はないのである。あえて言おう。地球温暖化による最大の被害である、海面の上昇は嘘なのである。

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おお長嶋巨人軍

2007-09-23 13:36:41 | 社会

 ここはどこでしょう。一番下の写真の通りバラが咲いています。そう、千葉県民にはメジャーな谷津のバラ園です。昔の谷津遊園がつぶれて一部を習志野市営のバラ園にしたのです。

 なんで長嶋巨人軍だ。そう中段の写真を見ればわかるように、ここは戦前の巨人軍発祥の地です。場所はバラ園の正面入り口の左側の目立たないところにあります。ですから入場料はいりません。

 何でもメジャーリーグが日本に遠征に来ることになったとき、相手がいないというので、学生野球の選手を集めて、この地で結団練習したのだそうです。

 そこで一番上の写真です。かつての巨人のスター選手のサインと手形。中央に鎮座ましますのが、わが長嶋選手です。ここでも長嶋はわがままです。他の選手が手形を押しているのに、きたないと言ってサインしかしませんでした。

 ちなみに私の奥さんは長嶋の佐倉高校の大後輩です。奥さんのために弁じます。奥さんは大学には行っていませんが、当時から佐倉高校は有名進学校です。なぜ馬鹿の長嶋が有名進学校に言ったのかと、いぶかる意地悪のあなた。長嶋は地元佐倉市の出身で、奥さんは隣村。当時は県立でも地元枠があり、佐倉市出身者は有利だったのです。

 それでは長嶋は佐倉校の後輩の野球を指導したか。奥さんによると、佐倉校にはバックネットと野球道具一式を寄付しただけ。母校にはきませんでした。当時の先生の話では練習に疲れた長嶋は毎日授業で居眠り公認。放課後になるとさわやかに目覚めたそうです。巨人ファンのあなたならご存知のように長嶋は佐倉校にうらみがあるのです。甲子園にも行っていません。

 なぜ中央に長嶋のサインか。誰か忘れてやしませんか。そう9連覇の伝説の川上です。川上がいないから中央は長嶋の指定席。長嶋と川上は両雄立たず。互いに同席するのを避けたのです。その伝統は巨人軍発祥の地にも生きていました。長嶋は千葉県人だから千葉の名所観光に協力するのは当然。熊本出身の川上は居る場所がないのは仕方ないのでありました。

 物知りの私はうんちくをもうひとつ。谷津遊園は地元ではメジャーでも全国ではマイナーな京成電鉄の施設。東京ディズニーランドができると同時に廃止になりました。京成電鉄はディズニーランドの有力な出資者だからです。

 いばるんじゃねー。ディズニーランドは谷津遊園のなれの果て。といって悪ければ、ディズニーランドのルーツは谷津遊園。私は独身時代奥さんと一度だけ谷津遊園でデートしました。唯一印象に残っているのが、意味なく、でんと展示されていた「ロッキード・スーパーコンステレーション」という旅客機。

 スーパー・コンステレーションすなわちコニーを知っているあなたは偉い。終戦直後ダグラスDC-4とシェア争いをした4発の旅客機です。レシプロエンジンの限界に挑戦したターボコンパウンドのシリンダとシリンダの間にゆとりのない恐ろしいエンジンを剥き出しに展示していたのが印象的でした。

 というわけで東京ディズニーランドは、ルーツも千葉、場所も千葉県浦安市、千葉ディズニーランドです。千葉県民のために弁じます。奥さんの実家の周辺の田畑は30数年間景色が変わっていないそうです。こんなところ日本でも土佐の高知の山の中とか釧路湿原くらいしかないじゃありませんか。土佐県の人、怒っちゃいけません。私は自慢しているのですから。

 何の話しでしたっけ。そう千葉県の名物は谷津のバラ園と巨人軍発祥の地。とりは千葉ディズニーランドでありました。というわけで全国の巨人ファンの皆様、北海道でも沖縄でも、遠路はるばる巨人軍発祥の地をたずねなければ、あなたは本物の巨人ファンではありません。なにせ無料で聖地が見られるのですぞ。