毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

パネー号事件論争

2019-05-31 00:52:20 | 軍事

 昔話に属するが、雑誌「正論」で、パネー号事件を主題とした、中川八洋筑波大学教授(当時)と海兵出身の元エリート軍人奥宮正武元中佐との論争があった。論争のテーマは中川氏の主張する、①パネー号事件は誤爆ではなく、海軍の上司の命令による米艦船攻撃であり、攻撃部隊の奥宮氏は相手が米艦船であることを、国旗の表示によって視認していたにもかかわらず攻撃した。②奥宮氏は南京にいて、「南京大虐殺」の現場を見たと主張するのはねつ造である。③海軍の多くのエリート軍人の多くは、戦後まで海軍の名誉を守るため、日本民族に不利な偽証をし、それが大東亜戦史の定説となっている。これに対して一般の認識と異なり陸軍のエリートは、一部のコミュニストを除けば、見識ある人物が海軍より多い、といったものだろう。

 最近、この論争をたまたま再読する機会があったが、読後感は、論争は中川氏の圧勝であった。中川氏はエキセントリックな性格であるが、論理は明晰である。これに対して、奥宮氏は中川氏が軍人でない素人だ、という点に依拠して反論しているに過ぎないように思われる。この論争は、旧海軍のエリート軍人のひとつの典型を示すものとして興味があるので触れたい。

 論争は「良識派軍人奥宮正武氏への懐疑」(以下甲1と略す、H12.9号)、これに「中川八洋氏に反論する」(乙1と略す、H12.11号)が続き、「ふたたび奥宮正武氏に糺す」(甲2と略す、H13.1号)、奥宮氏の「ふたたび中川八洋氏の詰問に答える」(乙2と略す、H13.3号)、の4回で終わっている。

 この論争の中で、奥宮氏は信じられない間違いを書いている。それも海兵出身者という頭脳明晰な人物とは思われないミスである。甲1で中川氏は奥宮氏が「さらば海軍航空隊」で当時視程50キロの快晴で、高度500mの低空に急降下して攻撃していたから、甲板上の星条旗がみえたはずだ。(P293)という。

 これに対して乙1で、地上を視認できるのは搭乗員のうちほんの一部だという事実を、軍用機に乗ったことのない中川氏には分からない(P293)、と反論する。ところが甲2で、「さらば海軍航空隊」で、奥宮氏自身が「私は、下方の(パネー号等)四隻の甲板上に濃紺の服装をした中国の軍人らしい人々が満載されているのを見て・・・()内は中川氏による注記。」と乙1と矛盾することを書いていると、中川氏が反論する。

 これに対して乙2で、奥宮氏は何と「私の著書のいずれにも、パネー号上に中国人がいた、とは書いていない。(P321)」というのだ。その上「他人に質問するのであれば、当人の著書をよく読むべき・・・」とさえ書く。小生は図書館から「さらば海軍航空隊」を取り寄せたが、そこには確かに、「私は、下方の四隻の甲板上に濃紺の服装をした中国の軍人らしい人々が満載されているのを見て・・・」と書いてある

 甲板に星条旗が書いてあったのは、パネー号以外の船ではないか、というのは奥宮氏自身によれば、あり得ないという。なぜなら乙1のP295に「最初の爆撃で、パネー号の甲板が破損していたので、ますます甲板上の国旗を見分けにくくなっていた。」と書いているのである。

 中川氏によれば、国旗が分からないほど破損している甲板に、中国兵がいられるはずもなく、搭乗員のほとんどが地上の様子など見えない、というのも真っ赤なウソなのである。

 私には奥宮氏がこのように調べれば簡単に分かる、自らの著書の記述について間違えるのが不可解である。中川氏が指摘した「さらば海軍航空隊」のページと小生の手元の本のページは数ページずれている。このようなことは本の版が変わると珍しいことではない。当然該当箇所を小生ですら簡単に見つけた。

 このような奥宮氏の自著の読み忘れ(?)は軽いものではない。「さらば海軍航空隊」には爆弾投下した瞬間に英国旗のユニオンジャックが見えたので、あせって、友軍機の爆撃をやめさせようとした、と書いている米英は中立国だから艦船を爆撃してはならない、という戦時国際法を準用すべきことを思い出したのである。パネー号は米船だから「英国旗」ではなく、「星条旗」が見えたはずなのに、「英国旗」が見えたと嘘をついた上に、論争では国旗自体が見えなかった、といった矛盾の明白な嘘をついている。乙1では自身が下を見えなかった、といっているのに、著書ではちゃんと国旗や中国人を見たと書いているのである。見え透いた嘘が過ぎる。星条旗を視認しても撃沈してしまったとすれば、それは誤爆ではない。中川氏も小生もそう思う。つまり著書に書いてもいないことをねつ造するな、という勘違い(あるいは嘘)はパネー号事件の本質を指摘されたから慌てたためのように思われる。

 まだ奥宮氏には奇妙な間違いはある。乙2のP319に朝日新聞の児玉特派員の記事で、海軍機が、陸軍部隊に急降下攻撃を見せる姿勢を示したので、陸軍の部隊長が皆に日の丸の旗を振れ、といって皆で旗を振ると、先頭機は通過していったが、次の機は爆弾を投下していって爆発音が3回聞こえた、と書いている、という中川氏の指摘に対して、奥宮氏は「これも全くのつくり話である。しかも前大戦後に、私の著書をヒントにして書かれたものと思われる。」と説明している。

 ところが、中川氏の指摘するこの記事は、甲2によれば(P282)、昭和十二年十二月二十五日の支那事変の最中の朝日新聞の記事であり、中川氏はそのことを明記している。しかも中川氏は、これに関連する一連の記事が嘘なら、なぜ当時の海軍は「虚報」として抗議しなかったかと言っているのである。

 奥宮氏は昭和十二年当時海軍大尉である。それ以前に奥宮氏が文筆活動をしていたとは寡聞にして知らない。国会図書館のデータベースでは、奥宮氏が世に著作を出したのは昭和26年の淵田美津雄氏との共著「ミッドウェー」が最初である。なぜ児玉特派員が昭和十二年の記事に、奥宮氏の戦後の著書をヒントに「つくり話」の記事を書くことができたのだろう。なお、中川氏が指摘する、児玉特派員の記事が実在することは国会図書館の東京朝日新聞のデータベースで確認した。またしても奥宮氏は中川氏の文章をろくに読まずに嘘の反論をしたのである。

 自著に明白に書かれているものを、書いたことはない、と否定したり、戦前の新聞記事が戦後の著作をヒントに書いた作り話だなどといったり奥宮氏の頭脳には論争以前の問題がある。繰り返すが、海兵出身の明晰な奥宮氏がどうしたことだろう、と首を傾げる次第である。

 また、奥宮氏は国際法に理解がないふりをいるか、知らないかである。国際法に関する奥宮氏の反論について、中川氏はあえて一切触れていないようである。奥宮氏は乙1(P299)で「投降の意志が示された敵兵を捕虜にするか否かは交戦相手部隊の自由である。」という中川氏の説明に「そのようなことを認めている条約はない。」と断言する。

 そのようなことを明記した条約がないことは事実である。だが、国際法とは、条約だけで成立しているものではない。その多くが、その当時確立されている国際的慣習によるものが、国際法のほとんどである。日清戦争当時、東郷艦長が起こした、英商船の高陞号撃沈事件は、東郷が国際法に則って実行したとされているが、英国では東郷の処置にごうごうたる非難が起きた。しかし、当時の英国の国際法の権威が、東郷の処置は国際法上正当である、という見解を発表したとたんに、英国世論は東郷の処置の正当性を認めて収まった。

 もし、国際法が条約だけで成立しているものとすれば、条約の説明だけで済み、権威者の見解など必要ないのである。もとより帝国海軍軍人たる奥宮氏がそのようなことを知らぬはずはない。奥宮氏はためにする議論をしたのである。

 また、奥宮氏がハーグ条約などというものはなく、外務省の正式文書には必ず、ヘーグ条約と書かれている、と中川氏は知識不足である、と断じている。小生の持っている「国際条約集」という本にも確かに「ヘーグ条約」とかかれている。だが、戦前の国際法の権威の一人の立作太郎氏の「戦時国際法論」(昭和6年刊)には「ハーグ」條約と書いてあるし、同氏の「支那事変国際法論」には、ハーグどころか「海牙」と書かれている。「海牙」をハーグと読むかヘーグと読むかは、その時の慣習に過ぎない。ハーグ条約が間違いなら、ヘーグ条約も間違いである。当時は「条約」と書かずに「條約」と書くからである。言葉をあげつらうものではない。

従って、これも中川氏の知識不足を印象づける操作に過ぎず、議論の本質ではない。これら国際法関連については、中川氏はばかばかしくもあり、議論の本質にも触れないので無視したと、小生はよきに解釈している。奥宮氏は国際法の本質を知っていることを、中川氏は百も承知しているはずなので、国際法の講義をするまでもないと思ったのであろう。小生もそう思う。

 公平のためにも、1点、中川氏も珍妙なことを書いていることを指摘しておく。甲2のP286に「南雲忠一中将の機動部隊はハル・ノートが手渡される二十五時間前のワシントン時間十一月二十五日に択捉島を出撃した。中学生でも知っている有名な史実である。」と書いている。いくらなんでも「中学生でも知っている」はないだろう。冒頭に中川はエキセントリックな性格である、と述べる所以である。

 以上は、正論誌にかつて載った中川VS奥宮論争の一部を抜き書きした。再読して見て、改めて中川氏の圧勝と感じた。当時日米間では誤爆という事で決着しているが、パネー号事件は誤爆ではなかったのであろう。しかし、全貌は不明である。パネー号事件が誤爆ではない、と奥宮氏が認めれば、歴史の不明点がさらに見えたはずなのは残念である。また、中川氏が甲2で論争を離れて、国家や軍人のあり方について、奥宮氏を真摯に諭しているように見えるのに、奥宮氏が虚言まで使って、弁明に汲々としているのは、奥宮氏が身命を賭して日本のために戦った軍人であるのに、残念だと思う次第である。

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ミッドウェー海戦記1

2019-05-28 14:58:13 | 大東亜戦争

 「半数待機の疑問」に書いたが是本信義氏によれば、陸上攻撃のための第一次攻撃隊は各艦27機の合計108機で、同じく108機が山本長官の厳命により、半数が空母出現のための艦船攻撃兵装で待機していた、とされる、他の資料でも類似の記述がある。しかも待機した攻撃隊は、第一次攻撃隊発艦後、すみやかに艦上に上げられ、空母出現を待っていたというのである。このことの不合理は「半数待機の疑問」に書いた。ここでは文末に示した(1)という文庫本から、各空母の関係者の証言を検証してみた。

 

〈蒼龍の魚雷調整員の証言〉

 この証言によれば、これすら怪しい。蒼龍の魚雷調整員の元木茂男氏の証言である。Wikipediaによれば、蒼龍の第一次攻撃隊の編成は零戦9機と陸用爆弾搭載の艦攻18機である。元木氏によれば、ミッドウェー島攻撃の6月5日の「・・・作業の指示があった。・・・ただちに艦攻18機に、八〇番陸用爆弾を搭載する。そして、搭載終了後、今度は急ぎ魚雷搭載の準備にかかる、というもので・・・攻撃隊が帰るまでに魚雷の準備にかかる。調整場から格納庫へ一本づつあげるのである。」

 つまり、第一次攻撃隊の艦攻は800kg陸用爆弾を搭載して出撃した。そして魚雷は帰ってきた第一次攻撃隊の艦攻への搭載を予定していたのであった。この記述は伝聞ではなく、調整した本人の証言だから、この点に関しては間違いないであろう。すると飛行甲板上にはWikipediaの記述のように、零戦と対艦戦用の爆弾を搭載した艦爆が待機していた、という記述とは必ずしも矛盾はしない。矛盾はしないが、第一次攻撃隊が帰ってくるまでに、これらの対空母戦の攻撃隊は一旦、格納庫に全機戻さなければならないから、作業効率が悪い上に、対空母戦の攻撃隊が出撃可能な時間は極めて短いことになり、対空母作戦効率も悪い。換言すれば、敵空母攻撃のチャンスは極めて少なくなる、ということである。

 だが、元木氏は7~8波の空襲を切り抜けたため調整場の待機を交代して、飛行甲板に出た。すると昼食のにぎりめしを二、三個食べ終わった瞬間に隣の加賀に命中弾があり、蒼龍にも対空戦闘のラッパが響いた、というから、この時に三艦にとどめを刺した艦爆の攻撃が始まったのである。この時元木氏は飛行甲板後部に10機の艦攻が待機していたのを見ている。直後に艦攻群に第一弾が命中した。

 蒼龍で出撃したのは艦攻で、艦爆しか残っていなかったから、艦攻の目撃が事実なら、第一次攻撃から帰投したものとしか考えられない。すると飛行甲板で待機していた、空母攻撃隊は既に格納庫に収容されて、攻撃隊の着艦をさせたのである。格納庫への収容には相当時間がかかるうえに、この間敵機の攻撃を受けて、防空の艦戦を発着艦させながら雷爆撃の退避運動をしていたのだから、攻撃隊の着艦は困難であったろう。すると、米艦爆隊攻撃時点では、対空母攻撃隊が飛行甲板に待機していた、ということはましてあり得ない。

 それにしても、着艦した艦攻が格納庫に収められずに、10機も飛行甲板上にいた、ということの解釈は難しい。ひとつ考えられるのは、これが艦爆の見間違いで、第一次攻撃隊の格納庫への収容は終えて、ミッドウェー基地攻撃か空母攻撃か分からないが、発艦準備をしていたという解釈である。それにしては他の証言から考えると時間的に早すぎて、そこまでの作業が終えていた、というのも考えにくい。

 もう一つの可能性だが、零戦を艦攻と見間違えたのではないか、ということである。見間違えたとすれば、固定脚の九九艦爆より引込み脚の九七艦攻の方が可能性は高い。そうだとしても、艦隊護衛に発着を繰り返していたはずの零戦が10機も飛行甲板上にいた、というのも不可解である。

 

 話は元に戻るが、米艦爆隊の攻撃中に、飛行甲板上に艦攻がいたということを正しいとすれば、残る解釈は、その前から雷爆撃を受けていたから、第一次攻撃隊の着艦収容作業が遅れていたのである。零戦は最後に着艦するから、艦攻が着艦し、格納庫への収容作業中で、収容待ちの艦攻約10機が残っていた、ということであろう。零戦は着艦待ちか他の艦に着艦したかのいずれかであろうとするのが、証言と最も矛盾しない。

 

時間的にも収容された第一次攻撃隊の艦攻が格納庫に降ろされて、雷装を施されて飛行甲板に上げられた、ということは考えられない。魚雷調整員の元木氏は、7~8波の敵の攻撃を受けている間、魚雷調整場に待機していて魚雷装着作業はしていないうちに、交代して飛行甲板に上がってにぎり飯を食べ始めたときに、10機位の艦攻を目撃したと同時に米艦爆の直撃を受けたと証言しているから、やはり目撃した艦攻は着艦したばかりの空装備の、第一次攻撃隊機だとするのが、最もつじつまが合う。 

 

 

〈赤城の制空隊の証言〉

 赤城の戦闘機隊の木村惟雄氏の証言である。第一次攻撃隊の制空隊に参加し、午前4時に攻撃を終え帰途につき、五時頃母艦に達すると、敵雷撃機の攻撃の最中で、雷撃機を撃退して着艦した。午前六時二十分に対空戦闘が始まり、敵雷撃機を撃退すると同時に、艦爆の攻撃を受けた。これが問題の攻撃である。

 赤城に初弾が命中し、全艦が火災になったが、艦が風上に向かったので、エンジンが始動されていた、自機ではない隊長用の機であったが、飛び乗って発艦すると次々に爆弾が命中した。これが、よくミッドウェー海戦記に書かれている、「敵空母攻撃隊の最初の一機が赤城から発艦すると、直後に次々と急降下爆撃に攻撃され被弾した」という問題の一機である。この機は補助翼が味方の対空砲火で壊れ防空戦闘ができず、仕方なく飛龍に着艦したが投棄された。

 つまり攻撃隊の発艦どころか、敵襲であわてて反撃に発艦したのである。別の資料には最初に発艦したのは赤城の艦隊直掩機だったという記述があるが、全くの間違いではないものの、着艦した第一次攻撃隊の一人が、攻撃にさらされて慌てて再度発艦したのであって、直掩のために発艦したという計画的なものではなかったのである。この証言では第一次攻撃隊は、敵襲の合間をぬって収容された機もあったということである。

恐らく艦戦は最後に着艦するだろうから、攻撃隊の多くの機が着艦できていた可能性はある。いずれにしても先の元木氏の証言と同じく、第一次攻撃隊が着艦可能であったから、飛行甲板には、山本長官の命令で飛行甲板上に敵空母攻撃隊の機が待機していたとしても、その時には飛行甲板上に既にいなかったということである。このことは時間的に無理があるから、第一次攻撃隊発進後、ただちに敵空母攻撃兵装の攻撃隊を飛行甲板上に待機させていた、ということの信憑性を疑わせる。

 

〈加賀の飛行長の天谷孝久氏の証言〉

 氏は戦闘時、発着艦指揮所にいたから、加賀が攻撃されていた状況を見ることが可能な位置にいたことになる。第一次攻撃隊発進後しばらくすると「艦上機らしい小型の二機編隊を認めた。」とあり、この攻撃により「・・・敵機動部隊が、この飛行機の行動半径内(二〇〇カイリ以内)にいることは確実であった。」というは当然の判断であった。氏は索敵機が敵空母を発見しないことにやきもきしているが、この時点で兵装を対艦戦用にしておくのは当然であろう。もし、この機が陸上から発進したアベンジャーでも、艦上機が来たのだから、敵母艦攻撃機を意識していたなら、母艦の存在を勘ぐるのは当然である。

 所在が見つからなかろうと、兵装転換には時間がかかるのだから、艦上機の攻撃を最初に受けたときに、兵装転換だけでも行って、攻撃態勢を整えておかない、というのは大間抜け、というものであろう。ところが赤城から、空母攻撃司令信号が来て爆装から雷装への転換を始めると同時に、第一次攻撃隊が帰って来て着艦させようとすると、雷撃機が来襲して着艦は中止される。しかも雷撃機を撃退して収容をしようとすると、急降下爆撃機の攻撃が始まったという。

それならば、おそらく加賀は全く攻撃隊の収容ができなかったのである。何度も言うが、敵空母攻撃隊の発艦直前に急降下爆撃機の攻撃により、赤城、加賀、蒼龍が被弾した、などという通説はでたらめである

加賀の第一次攻撃隊は零戦と艦爆たから、次の攻撃隊に残っているのは零戦と艦攻である。第一次「・・・攻撃隊発進後『加賀』艦上は、上空直掩機の交代機発進、第二次攻撃隊の準備も終わり・・・」とある。直掩機が交代で発着艦を繰り返しているから飛行甲板には準備が整った第二次攻撃隊はおらず、格納庫にいたことになる。

しかも前述のようにその後索敵機の報告により雷装に切り替えていた、というのだから、少なくとも加賀の第二次攻撃隊の艦攻は陸上機兵装で、格納庫にいたのである。このことから、少なくとも、加賀は第一次攻撃隊発進後雷装の艦攻隊を飛行甲板に上げ発艦体制にあったというのではない。

 

〈加賀艦攻隊の松山政人氏の証言〉

 松山氏は第一次攻撃隊発進より前に、早朝暗いうちに朝飯も食べずに3時間位索敵して加賀に帰投した。そこで聞いたのは対一次攻撃隊が発進していくらもたたないうちに、小型の艦上機の攻撃を受けて撃退した。氏はミッドウェー島に訓練のためいた艦上機だろうかと推定している。艦上機なのだから近くに敵空母がいるはずだ、という天谷氏の判断とは異なる。事実は最新のアベンジャー雷撃機は少数がミッドウェー島から発進し、旧式のデパステーター雷撃機は母艦から攻撃している。両方あったわけである。

 その後氏が飛行甲板に上がると艦上機の攻撃が始まったが、零戦に撃退された。その時索敵機から敵機動部隊発見の報が入った。「私はいそいで甲板下の格納庫にかけつけ、愛機へ魚雷を装備した。ところが、これらの装備もおわろうとするとき、今度は雷撃中止、爆撃用意という命令である。しかたなく、いま装備したばかりの魚雷を取りはずし、いそいでいるため、魚雷を魚雷庫へもどす暇もなく格納庫においたままで、今度は爆弾庫から八〇〇キロ爆弾を運んできて、爆弾装備に変更したのである。」

この証言では、加賀の艦攻は雷装に転換する前には、爆弾装備をしていたのか、空だったのかはっきりしない。しかし、兵装がない、ということは考えにくいから、陸用爆弾を装備していたのであろう。八〇〇キロ爆弾が爆弾庫にあったのは、雷装への転換時にはゆとりがあったため、外した爆弾を爆弾庫に戻していたと考えればよいのである。

ただし、森村氏の「ミッドウェイ」によれば、兵装転換には雷装から爆装で二時間半もかかるというから、爆装→雷装→爆装などしっかり終えている時間はない可能性が高い。被爆時のいずれの機の兵装は中途半端でばらばらだっただろう。

 

〈証言の総括〉

 阿川氏などによる通説は、待機機は敵空母攻撃兵装をしており、ミッドウェー島第二次攻撃の要有、との無電により、陸上攻撃兵装に転換している時に、索敵機から敵空母発見の報があったため、空母攻撃兵装に戻し攻撃隊を飛行甲板に上げ、発艦を始めた瞬間に被爆した、というものである。

 しかし証言によれば、三空母とも被爆時に、敵空母攻撃隊が発進準備中ではなく、格納庫内にあったということにしかならない。残りの飛龍も三空母の一部の第一次攻撃隊も収容しているから、第二次攻撃隊は格納庫で待機していたのである。

 本項で引用した証言から三空母の状況を推理する。赤城は、米機来週の合間をみて、第一次攻撃隊の多くを収容した直後に被弾した。加賀は連続攻撃をうけていて、ほとんど第一次攻撃隊を収容できなかった。蒼龍は第一次攻撃隊の艦攻だけ収容できたのかもしれないが、防空戦闘機が発着艦している最中に、艦攻が飛行甲板にいた、というのは不可解である。。

 加賀の二人の証言は矛盾している。天谷氏は艦攻への雷装中に被爆し、松山氏は雷装にした後、爆装に転換しているときに被爆したというのである。ただ、天谷氏は発着艦指揮所にいて、松山氏は兵装転換のために格納庫に行った、というから格納庫の様子については松山氏の証言の信憑性が高い。いずれにしても、米軍機の四空母攻撃から、三空母の被弾までの経過は真相がつかみにくい。

 だがこれらの証言で共通しているのは、通説とは異なり、被爆時に敵空母攻撃隊は飛行甲板上ではなく、全て格納庫内にいた、ということである。

 

(1)証言・ミッドウェー海戦・NF文庫


倉山満氏の馬脚

2019-05-13 00:04:50 | Weblog

 雑誌WiLLの2019年6月号の令和特集号の倉山満氏の元号についての小文には、小生ならずとも、多くの読者は唖然としたことだろう。小生は「嘘だらけの」シリーズ以来、倉山氏の著書にはまって、教えられること多大であった。今も国際法の本を読み返している位である。ところが、この小文は、倉山流に言えば、突っ込みどころ満載、なのである。逐次批判していく。

 冒頭から「国語辞典を取り出して」「令」の意味を云々する手法は、命令の令と言おうが令嬢の令と言おうが、辞書で「完結すると思うなど不真面目だ」という。そうだろうか。見識のある人物なら、辞書を引用するのは、単に辞書に依拠しているのではなく、辞書の意味がまともであることをチェックした上で、説明の便のために辞書を引用しているのに過ぎず、辞書で完結していると考えているようなレベルの人物でマスコミに論評する者は論外であろう。

 例えば、広辞苑の何版からか「従軍慰安婦」と言う言葉が登場した。そのことをもって、保守の論客で、従軍慰安婦と言う言葉を、国語として正しい、と断言する人はいまい。必ず、慰安婦なり従軍慰安婦と言う言葉の使われ方の経緯をひもとき、従軍慰安婦なる言葉の国語としての正当性がなく、広辞苑に国語として掲載することが不当であることを論ずるであろう。このようにまともな人なら、辞書を根拠としても、自己の識見により批判した上で使うのである。このように辞書を引用しただけで「完結すると思うなど不真面目だ」という、というのは、倉山氏の衒学に過ぎないと思われても仕方ない。

 以上はイントロである。次に「現代の漢文においても、『令』はレ点で読む使役の文字の典型例として登場します。」と言う。不可解なのは「現代の漢文」という言葉である。現代日本でも高校などで漢文は教えられているから、教科書などは多数出版されている。しかし、漢文の用法の根拠たるべき、漢文で書かれた現代の新しい書物、すなわち現代の漢籍というべきものを小生は寡聞にして知らない。だから現代には用法の「典型例」の出典たるべき漢籍が存在しない。高校で教える漢文も、古い漢詩や四書五経などの漢籍に拠っている。現代でもこれらの古い漢籍に用法を求めるのが漢文であって、漢文の使用が廃れた今では「現代の漢文」と言う言葉は存在し得ない。現代の北京語や広東語の漢字表記を「漢文」と誤解している人は論外である。

 倉山氏は、令和とは現代の漢文では「和に令す」すなわち、「日本国に命令する」の意味であると主張する。漢籍を典拠とすれば、これが間違いであることは、令和元年五月十二日付けの支那古典の専門家の加地伸行氏の一文が証明している。「令」と「和」の漢字を接続しての使っている漢籍は「礼記」で、元の漢文は「和令」だそうである。訓読すると「令を和らぐ」で、意味は、徳を布き禁令・法令を和らげる、というのだそうである。漢籍による用例を絶対とする漢文の世界では、倉山氏の「令和」解釈は「間違い創作漢文」の典型例に他ならない。

 もっと根本を言えば日本の近代の元号は、古典書物から漢字を二字を取り出して並べたものに過ぎず、そもそも漢文ではないのである。令和とは万葉集の文書の途中に「令」と「和」が順に出てくるから、その二字を出現順に並べたものに過ぎない。仮に、文字の出現順が、和が先で令が後なら「和令」と表記しなければならなくなってしまう。「令和」の出典の万葉集自体も中国の漢籍の出典がある。従って、漢文の多数の漢字の羅列の中から「令」と「和」のふたつを順に取り出してくっつけたものに過ぎない。つまり「令和」自体が漢文ではあり得ない。元号は漢文ではないのである。「令和」を漢文として延々と批判するのは無駄の限りである。倉山氏ともあろうものが何をとちっているのだろうか。

 例えば現代国語の「経済」は漢籍の「経世済民」という漢文、すなわち「世を経(おさ)め民を済(すく)う」から二字を拾いだし発明したもので、すでに漢文ではなくなっている。哲学などの明治日本で発明された二字熟語は、それ自体は漢文ではないのである。元号も同様である。

 ついでに倉山氏は、令和を幕末に元号案となった、「令徳」になぞらえている。朝廷が元号案とした「令徳」が「徳川に命令する」の意味だとして、幕府が拒絶したという悪しき前例を紹介している。これは豊臣末期に方広寺の鐘の「国家安康」の文字が、家康の名前の間に「安」の字を入れて、家康の体を分断する意味だ、と徳川方が豊臣方にいちゃもんをつけたことに類似している。この事件は大坂冬の陣の遠因となっていると言うからただごとではない。方徳や国家安康の命名の意図はどうあれ、その文字を理由として強い側が弱い側にいちゃもんをつける口実としたのに過ぎない。

 倉山氏の言うように、令和に悪意が秘められていたと仮定しよう。反対に、多くの保守の識者が主張するように、良きに解釈することも可能なのである。倉山氏の論は、すでに令和の元号が決した後に登場した。解釈に関する保守と左翼の論争の最中である。従って倉山氏の批判は左翼を利する結果となる。愛国者ならば戦争反対でも、始まった戦争には協力するものである。倉山氏の態度は戦争が始まった後に、敵国に味方するのと同然である。

 倉山氏は「国際法で読み解く世界史の真実」で、国際法の要諦の第一は「疑わしきは自国に有利に」と説いている。まさにそうではないか。新元号は決した。それにもかかわらず、左翼は令和の意味にいちゃもんをつけて、元号の廃止すら意図している。倉山氏の疑義がもっともな面があるにしても、疑義があると考えるならばこそ、愛国者であるならば、元号「令和」に有利になるように解釈すべきなのではないのか。

 なおWiLLの本号は実に皮肉な構成となっている。倉山氏を含む8名の「令和評」に続いて、資料編として「発言集 令和を貶める人々」というものが掲載されている。主として左翼系と考えられる人々による、令和批判の一覧を、「悪癖を一部抜粋したので紹介、永く記憶に止められたい」として掲載している。共産党の記者会見が典型である。WiLL誌が執筆依頼して掲載された令和評は、倉山氏以外は、令和を歓迎するものばかりであり、倉山氏が唯一の例外である、という体である。

 繰り返すが、WiLL本号は、令和を歓迎するために組まれた特集であるのに、倉山氏の論評だけが異様である。なお「発言集 令和を貶める人々」のなかには左翼以外に、自民党の石破氏が載っている。石破氏は今や、安倍内閣何でも反対の、党内極野党だからさもありなん、とはいうものの、たちが悪い。小林よしのり氏も保守を気取っているようだが、女系天皇を声高に言うなど、最近は支離滅裂な発言で、今や思想の根本がどこにあるか分からなくなってしまっている、不可解な人物である。小林よしのり氏は所詮芸術家であって、論理的に思想を論じることが出来る思想家ではないと思う。

 倉山氏の論は、本当に保守を憂い皇室を敬っていることだけは読み取れるだけに、残念至極である。