毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

米海兵隊は捕虜を取らない

2019-08-22 13:01:47 | 連合軍の残虐

 米海兵隊は、少数の情報入手用の日本兵を除き、捕虜を取らない方針だったから、その旨命令を出していた。このことは当時の海兵隊将校の証言や戦後の証言によって確実である。ただし欧州戦線では確認できてはいない。米陸軍も大差ないと思われる。捕虜をとらない(=殺しちまえ)というのに死んだジャップは良いジャップ、と表現することもあったのである。

 それに気付いたのは、スーパーの特売で売っていた昭和25年頃のアメリカの戦争映画のDVDを買って見て、原語と字幕を比較したから分かったので、随分と迂闊な話である。これは「死んだインディアン良いインディアン」という言葉を想起させるから、対独戦とは違う、人種差別観を思い起こさせる。このDVDでは、最後の戦いが始まる時、司令官が、「情報が必要だから、英語ができるジャップは生かしておけ」と命令したのである。

 ある黒人水兵は、日本人パイロットの死体に、白人水兵たちが、死体を突き刺し金歯を抜き取った残忍な攻撃を目撃している(人種戦争・ジェラルド・ホーン著)。すると黒人水兵は、南部でリンチされた数々の黒人の写真を想いだした、というのだ。ドイツ人に対するのとは違う人種差別観があるのです。チャールズ・リンドバーグら米国人自身が、戦争初期には多くの日本兵が投降しても、残虐に扱われるのを知った日本兵は、段々投降しなくなったと認めている。バンザイクリフで投身した日本人も、鬼畜米英の所業を知っていたのである。

 万歳突撃して機銃掃射を受けても、即死者の二倍位は負傷して人事不省などで生きている日本兵はいたはずである。米兵は呻いて転がっている日本兵にとどめをさしたのである。こうして太平洋の島々では、皆「玉砕」となってしまった。戦闘中の行為ですから国際法上は合法ではあるが、常識からは非人道的である。

 他には、赤十字マークの野戦病院を襲って、動けない傷病兵を皆殺しにした例も少なくなかった。これは完全に違法行為であった。また赤十字マークをつけた病院船が負傷者や女子供など民間人を本土に移送するのを、潜水艦が潜望鏡で赤十字を確認したのに撃沈してしまいました。米海軍は武器を搭載していたから正当だ、と主張していますが、沈没してしまった船なのに、どうして武器があるのかわかったのでしょうか。

 


なぜクマラスワミ女史はスリランカ人か

2015-03-16 15:25:01 | 連合軍の残虐

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 「慰安婦問題」で国連にクマラスワミ報告を書いたクマワスワミ女子は、スリランカの出身でインターネットを調べたら1953年生まれで、ハーバード大学などの米国の大学で学士号などを取得している。現在はニューヨーク大学教授であり国連で活躍したこともある。スリランカは1948年にセイロンとして英国から独立したから、彼女は英国の支配は知らない。

 それにしても、スリランカはインドと共に、英国から過酷な支配を受けたから、彼女のように人権活動家であって、過去の人権問題を告発するなら、まず祖国と隣国の英植民地時代の英国による過酷な支配を告発すべきであろう。小生は、彼女がそうしないで、アジアで独立維持のために唯一戦った日本の「慰安婦問題」の虚偽報告まででっちあげた理由を考えたいのである。

GHQ焚書開封10「地球侵略の主役イギリス」から英国の過酷な支配をざっと見る。インドの紡績産業をつぶすために、紡績工全員の指を切断した。拷問殺害は当たり前、態度が反抗的だという口実だけで投獄あるいは殺された者は、何万何十万か知れない。インド人を徴兵して関係ない国の戦争に参加させ、徴兵に応じない者は苛烈な拷問にかける。

 農業を破壊し尽くしたために、人口の3分の1の一億人は常に飢餓にある。学校は壊されて60%あった識字率は7%に激減した。これらのことは、全てイギリスがインドから収奪して冨を得るためである、というからひどいというより恐ろしいものである。植民地とはそのようなところを言うのである。

 そこでクマラスワミ女史である。前述のように女史の教養と働き場所は全て欧米である。元英国植民地の常として上流社会の彼女は英語のバイリンガルであろう。つまり、アウンサン・スー・チー女史と同じでメンタリティーは欧米人なのであろう。

 このような人たちの常として、かつて父祖が欧米の苛酷な植民地支配を呪詛し、独立を渇望したことを忘れている。欧米流教育によって忘れさせられている。そして、わずか数年の日本の軍事占領を声高に批判することを無上の喜びとしている。日本は東アジアの欧米の領土を軍事占領しただけで、植民地支配したのではない。女史らが宗主国を批判しない根本的原因は、欧米の支配により恐怖が骨身にしみているのであろう。欧米は出て行ったとはいえ、彼らに屈服したのではなかった。

フィリピンは米国から独立を与えられ、インドネシアは40万人もの犠牲を出す独立戦争に勝ちながら、オランダから独立のための賠償を奪われた。インドのガンジーが非暴力の独立運動を讃えられるのは、英国に都合がいいからである。インド独立はガンジーの非暴力運動で得られたのではない。

かつての欧米の植民地だった国の人々は、未だに宗主国を恐れている。だから英語のバイリンガルであることを誇りに思い、欧米流の歴史観を持つことを自然であると、上流社会の人々が思うのは当然であろう。だからクマラスワミ女史が韓国や反日日本人の嘘を容易に受け入れ、日本が性奴隷を使ったと報告することに信念すら抱いているのである。

今の日本人の情ない状態はさておく。日本人はガンジーやネール、スカルノといった東アジアの強い指導者は戦前にも戦後にもいなかったと嘆く。ならば、どうしてそのような指導者を輩出する、かの国々は容易に植民地になり、日本は欧米の植民地にならなかったのであろう。答えは自ずから明らかであろう。


バターン死の行進はなぜ起きたか

2015-03-15 12:45:24 | 連合軍の残虐

バターン死の行進はなぜ起きたか 

 私はバターン死の行進と言われる捕虜虐待がなぜ発生したかを問うているのではない。以下は「インディアン悲史の書評の一部の再掲載である。 

「涙のふみわけ道」(Trail of Tears)とはチェロキー・ネイションの強制移住である。単に白人達に邪魔だと言うだけで、着の身着のままで1300kmも移動させられ、死者は四千人、四人に一人が死に、死者を出さなかった家族はいなかった(P208)。単に移動だけではない強姦殺戮も行われたのである。しかし大統領はインディアンの了解にもとづいて行われて幸福な結果をもたらした(P208)と国会に報告するほどの恥知らずである。アメリカ人はありもしない「パターン死の行進」を日本軍の残虐行為をでっちあげているが、その米人ですら、「涙のふみわけ道」にくらべりゃ、パターンの死の行進なんざそんじょそこらのピクニックみてえなもんだ(P152)」と評したのだ。要するに「バターン死の行進」とは自分たちの行為を日本人に投影して発明した嘘である。嘘をつく人間は自分がしそうな悪事を人がやったと言うのだ。 

 と書いた。戦争にあたっては政府は自国民自身をも欺く宣伝戦も行う。「民主義国家」も例外ではない。第一次大戦の際には、英国はドイツびいきが意外に多い自国民に、ドイツ軍の残虐行為をでっち挙げて、国民をドイツとの戦争に駆り立てた。米国は、それを更に上を行って、日本軍の残虐行為をでっちあげたのである。日本軍は収容施設に捕虜を移送する、という当然のことを行ったのに過ぎない。それは、第二次大戦で初めての大規模なものであったが半分は鉄道輸送だったから、距離からすれば、涙のふみわけ道の20分の1に過ぎない。しかし米国人にとって、自ら行った、距離から言えばはるかに大規模で、内容からも残忍な、涙の踏みわけ道、と同じものでなければならなかったのである。そんな大嘘のプロパガンダを、愚かにも、現代日本人は信じているのだ。

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戦犯虐待の記録・佐藤亮一・国書刊行会

2015-03-01 12:50:09 | 連合軍の残虐

 文字通り、大東亜戦争後に練護国の捕虜となった方たちの虐待の記録である。もちろん戦犯などと言うのは、嘘でっち上げであり、捕虜を虐待するための口実である。連合国は、緒戦で敗北した姿を植民地の人々に見られる屈辱を味わい、その結果、植民地が独立してしまったための復讐をしたのである。有名な会田雄次氏の「アーロン収容所」とは桁違いの連合軍による残虐行為が書かれている。

 それも戦中、怒りや恐怖に駆られての虐待なら、心情として理解できなくはない。だが戦後冷静になってから平和な時期の非道を極めた虐待である。虐待のあげくの殺人などは珍しくもない。これらの行為は、欧米の植民地で日常に行われていたことと同一であろう。欧米の植民地支配に対する、現代日本人の無理解には、とんでもないものがある。結局、辛くて読破できなかったのは、著者や犠牲者の方々に申し訳ない次第である。

 だひとつ「旧来の国際慣例からいっても、講和成立とともに戦犯者に対しては大赦が行われ、たとえ大赦条項が適用されなくとも、当然のこととして戦犯は放免されるのが常であった。第一次大戦後のベルサイユ条約でも、ドイツ戦犯者の引渡し要求は事実上空文と化し、ドイツみずから、国内裁判で、きわめて少数のものを軽い刑に服させたのみである。(P31)」と指摘しているのも重要である。結局第二次大戦後は、連合国はこの慣例を無視するという時代に逆行することを行ったことが書かれていることを指摘しておく。