毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

顕彰塔誌

2019-07-31 18:40:24 | 大東亜戦争

10ほど前に、実家に帰った時に、かつての母校の小学校に行ってみた。当時すでに、安全対策のために門からは入れない。ところが流石の卒業生である。裏山から堂々と入れる。蛇の道を小生は知っている。卒業当時なかった、「顕彰塔誌」があった。そこに刻まれた全文を掲げる。昭和50年という年代を考慮して、味わっていただきたいと考える次第である。解説はしない。

 

卒業

  霊峰富士を仰ぐ、この地に建立されたこの忠霊塔には、西南の役以来幾多の戦役に従軍し、一命を 皇国にささげられた旧御殿場町在籍の英霊三百九十余柱が鎮まります。

 顧みれば、英霊は明治維新の大業成り、国民皆兵の義務のもと、皇国の防衛と国権の維持に力を注ぎ使命感に徹し忠君愛国の精神を堅持して、西南の役日清日露両戦役に従軍し国威を全世界に宣揚した勇士や続く満州事変日支事変に際して国家の権益擁護に敢闘し一死国恩に報じた列士、更には八紘一宇の大理想と東亜被征服民族を開放し、万邦をして各々その所を得しめんとの、大義名分を旗印とする大東亜戦争に及ぶや感泣勇躍、陸海空を所狭く転戦中忠孝の道きわまり散華した義士であります。この聖戦に散男女青少年学徒、一家の柱石等総力を傾注して戦い、天に三百十余万の生命を犠牲にしましたが昭和二十年八月十五日終に敗戦といふ結果を招きました。

 国破れて山河あり。この冷厳な事実を直視した国民は異口同音に日本を再建しなければならない、その再建は日本人自身の不屈の努力によらなければならない、他人の援助や偶然を期待してはならないとの眞剣な自覚を促すにいたった。この自覚の由来は実に英霊が身を以て実践垂範せられた遺産に外なりません。一度は敗れたとはいえ 外、東亜諸民族は相次いで独立した。正に英霊は身を殺して仁を為すと称せらるべきもの。内にしては、焦土と化した大小都市に高層建築を林立せしめ、剰え今日世界屈指の経済大国を形成せしめた。これまた、英霊各位の遺徳偉勲の賜ものに外なりません。終戦三十周年に当たり顕彰塔詞を建立して、その遺徳を万世に伝える次第である。

 

   昭和五十年十一月十六日


書評・国民の文明史・中西輝政

2019-07-31 15:47:47 | 歴史

 中西氏は小生の尊敬する識者の一人である。その大著のひとつが国民の文明史である。その中でも注目すべきは、日本文明の基底としての「縄文」と「弥生」であり、もうひとつは、日本はアジアではない、ということであろう。

 氏は日本が繰り返す、縄文化と弥生化の発現について考察している。その考察は深い学識に支えられていると考える。ただひとつ気になるのは、氏ですら現代日本の表面的なできごとに過剰に反応し過ぎ、の感があることである。

 具体的にいえば、現代日本の政治状況は江藤淳が論考した「閉ざされた言語空間」に支配されている、特殊な状態にあるにも拘わらず、日本文明の基底より発しているが如き議論をしているように思われることである。もうひとつは、平成元年頃のバブルとその崩壊も日本文明の発現として考えていることである。

 過去の支那の例を見る。支那は①匪賊または周辺異民族による現王朝の崩壊②旧王朝の粛清③安定期④不満分子による混乱というサイクルを繰り返す。戦前の支那は④の時期だった。石原莞爾すらこの時の混乱を見て、支那人には統治能力なしとして、満洲国を作った。これは適正規模による国民国家成立という観点、あるいはモンゴル、ウイグル、満洲による防共国家を支那本土から切り離す、という観点から正しいのであって、支那人に統治能力なし、というのは間違いであることは明らかである。眼前の混乱に幻惑されて大局を誤ったのである。中西氏も現代日本史観察において大局観の間違いを犯している。

 例えば、「いまの日本はまさに『歴史の危機』に立っている(P65)」とか「治安大国から犯罪大国への転落(p67)」といった主張である。今の日本の危機とは、ほとんどが占領政策とそれへの埋没によるものである。憲法問題も変な平和主義もほとんどこれに起因するもので、日本文明の基底から発する要因は僅かである。もちろん江藤氏の業績を氏も大変評価しているのだから不思議である。

 他国による日本の全面的占領支配、といった状況は日本の歴史上かつてなかった特殊現象なのだから、その点も考慮されなければならないが、あまりなされていない。正確にいえば、「・・・チャーチルは、日本はこの約七年の連合国の占領によって、今後百年、大きな影響をうけるだろう(P384)」と言う言葉を引用しているのを始め、占領政策の恐ろしさを繰り返し述べている。にもかかわらず、具体的な現代の問題を論じる時、憲法以外、占領政策との関係はあまり述べられていないように思われる。日本の犯罪が悪質化し増えている、というのも他国と比較し相対化すれば、とてもそうは言えないであろう。マスコミ報道に過剰に反応し過ぎである、と思う。例えば、かつては尊属殺人という特殊な法律があった。これは、親殺しなどの悪質な犯罪が昔から、法律が必要なほど起きていたということである。

 言葉じりを捉えるようだが、戦後の平和主義も「換骨脱胎の超システム」の誤作動によるものである、という(P194)のも妙である。一方で日本の「フランス料理は」フランス人には、こんなものはフランス料理ではないと言わしめる程、換骨脱胎されたものであり、日本では外国の文化文明を取り入れる時、このような換骨脱胎が必ず行われる如く言う。

ところが「日本の戦後の『平和主義』の全貌を知るやいなや、『そんなものは平和主義ではない』と言う。自分の国を自分で守らない平和主義など、世界のどこにもないからである。」すると、平和主義とは世界各国で普遍的一義的であって、換骨脱胎が誤作動したのではなく、換骨脱胎はしてはならないものだと言っているに等しいのである。

これは矛盾である。しかも誤作動によって平和主義が日本で歪められたのは、単なる誤作動ではなく、占領政策によって人為的に作られたものである。つまり普遍的日本文明論を論じるには適切な例ではなく、より慎重に分析すべきと小生は考える。

トインビーの言葉を引用して「成功裏に成長が一定期間続いたあと『指導者たちが、追随者にかけた催眠術に、自分もかかってしまう』(P141)」として、「大東亜戦争やバブル期の日本のリーダーはまさにこの『文明の陥し穴』にはまっていったのである。」という。大東亜戦争とバブルごときを同列に並べる、というのはどうしても納得しかねる

大東亜戦争の原因は日本の国内的要因よりも、遥かに国際的要因があり、小生はマクロに見て大東亜戦争を戦ったのは決して間違いではなかった、と考えるからである。大東亜戦争の原因について左翼の史家と同様に、氏も軍部の国内政治支配などの国内的要因だけで見ているとは信じられないのである。

バブルなどというものは、景気変動のひとつに過ぎず、バブルといわれた好景気は、物の生産などの実体あるものではなく、金融や土地取引などと言う、架空のごときものから発した好景気だから、当時は泡のように中身のないという意味で「バブル」と称したのである。バブル崩壊以後はショックのせいか、マスコミなどでは「好景気」という言葉は使われなくなった。

バブル以後、失われた20年などといい、一度も好景気がなく、日本の経済は停滞していたごとく言うが、平成11年頃には「戦後最長の景気回復」と言われる「好景気」があったのである。最長と言う比較は「いざなぎ景気」のような戦後の「好景気」と比較してのことである。にもかかわらず、「好景気」とは言わず「景気回復」という消極的言葉しか使われなくなった。

この本で欠けているように思われるのは、大東亜戦争によって日本は人種平等という世界史的新天地を開いてしまったという観点である。それに対応する世界観が必要である。過去の経験もいい。しかしそれに匹敵する世界観を中西氏には提示していただきたいと考える次第である。ただ必ずしも文明論にはならないから、欲張り過ぎというものであろうか。

 疑問を桃うひとつ。いまの日本はまさに『歴史の危機』に立っている、と氏はいう。危機が来ると、日本は弥生の特性を発揮し、危機を劇的な手段で回避するというのだ。その典型が明治維新だと言うのだ。しかし、今の日本が本当に危機に立っているのなら、弥生的特性を発揮しているはずである。氏の説は間違っているのだろうか。

氏が正しいとすれば、恐ろしい話だが日本文明の弥生という基底が、占領政策によって破壊されてしまったのではなかろうか、とも考えられる。現実にGHQの政策で、多くの皇族が臣籍降下させられたために、天皇と皇室の継続すら怪しくなっているのに日本人は無策でいる。それどころか、保守を自称する小林よしのりですら、臣籍降下した皇族の皇籍の回復に猛烈に反対し、女系天皇に賛成している。しかも、それを指南している保守系識者がいる。

 だが氏の説により希望もある。日本を破壊したいと言う現代の一部の日本人の自己破壊的情念は、マルクス主義ないし、マルクス主義がソ連崩壊で公然と主張できなくなったことにある。そのマルクス主義は、必ずしもGHQによるものではなく、旧制の帝大において、外国の新奇な物なら何でも正しいと信じた知識人が、無批判に受け入れ大衆にまで拡散したことが淵源である。

そのようなことなら、氏の言うように日本の文明史で繰り返し起されていたことである。つまり、初めての事ではなく、何度も克服してきたことである。ならば、日本の現在は、その危機のレベルに達していない、とも考えられるのである。だが、日本がゆでガエルになる危険なしとは思えない節もあるから怖いのである。

この書評は大局的に氏の業績に納得しているのであって、例証したのはミクロのいちゃもんに過ぎない。だからここで、流石、と言いたい例を挙げる。元通産官僚が中西氏に語った言葉(P398)として「戦後の経済成長というものを、一人当たりGDPをいまの半分くらいにしておいて、もっと精神のしっかりした国をつくるようにすべきだった」と書く。

この対比として「明治の日本を訪れた多くの西洋人が書き残したのは、『たしかに貧しいが、精神の世界をしっかり持った国民だ』との言葉だった。それと比べ、日本の国柄・文明の本質が変わってしまった、ということなのであろうか。」と述べている。これを氏は戦後の日本がおそらく未曾有の経済成長をきっかけにして長い「縄文化」のプロセスに入ってしまったように思われる、と述べている。

確かに氏が指摘するように、「精神の世界をしっかり持った国民」ではなくなってしまっている、としたら、その主因を占領政策だけに帰するべきではないであろう。この指摘は我々が心に刻むべきものであると小生は考える。


伊東深水と田村一村

2019-07-30 01:57:56 | 女性イラスト

伊東深水と田村一村とは大違いである。伊東深水は浮世絵美人画の正統を継いだ者、というのが定説である。しかし、画風を見ていただきたい。浮世絵美人画の系譜であるというのは、油彩ではなく線描である、というにすぎず、高踏的画風が過ぎる。悪い意味で大衆に迎合しないのである。日展での大権威になったもの者である深水の名声は「画壇」によるものであって、大衆によるものではない。浮世絵美人画の名声が大衆によるものであったのとは対極にある。

田村一村は院展に落選すると画壇への道をあきらめた。そして奄美に住み工場で働きながら描き続けて、ひっそりと亡くなった。結果は対極である。小生は画壇に入って権威にならなかった「一村」の方を好む。しかし、大衆に迎合しなかったのは間違いだと思う。奄美にいってごらんください。一村の生前には想像もできなかった、立派記念館がある。それを見ることができたら、一村は悲嘆するだろうか、満面の笑みを浮かべるだろうか。大衆は死しても名声を残さなかった一村を今になって利用しているのである。

 

 


映画評論・地獄の戦場

2019-07-28 20:37:07 | 映画

映画評論・地獄の戦場

 このDVDはたまたま、ホームセンターで100円(!)で買ったものである。お断りしておくが、以前ある「映画評論」をしたら、ある方から映画評論になっていない、と厳しいコメントをいただいた。そうであろう。小生は映画について語るのに、映画をあたかもノンフィクションのように、歴史や民族性の反映を読み取ろうとする、という悪癖を持っているからである。そのことを前提に読んでいただければ幸いである。なお、その方からは、映画評論以外のブログについては過分な評価をいただいたことも付言する。

昭和二十五年即ち、戦後間もなく作られた米国映画だから、戦時の気分が判っていた世代が作った映画であろう。半世紀近く前の映画ながら、「総天然色」で平成の初めの頃のビデオより、余程画質が良いのには驚かされる。

 

 海兵隊の物語で、ガダルカナル、タラワを戦ってきたというし、日本軍のロケット攻撃の偵察任務がテーマだから、硫黄島攻防戦をイメージしていると推察する。日本軍は上陸中の米軍を攻撃せず、上陸部隊をひきつけて戦闘開始していることからも間違いないだろう。

 

 上陸前の指揮官の以下のような全軍への訓示が興味深い。字幕と直訳が著しく異なるところは両方記載した。

 

 字幕:今までは殺すように指示してきた。

 英語の直訳:我々は死んだジャップは良いジャップと言ってきた。

 字幕直訳とも:捕虜獲得作戦に変更する。

 字幕:敵兵から情報を聞き出せ。

 英語の直訳:話の出来るジャップは良いジャップ。(Jap's who tells about things good Japs)

 字幕直訳とも:これは命令だ。チャンスがあれば必ず敵兵を捕らえて来い。

 

 という次第である。いままで、死んだインディアンは良いインディアン、というスラングを小生は「良いインディアンは皆死んでしまって、ろくでなししか生き残っていない」と解釈してきたが、この字幕が正しければ、誤解していたのだ。本当は「インディアンは皆殺しにしろ」という意味だったのかもしれない。

 海兵隊の指揮官やその他のいくつかの証言で、米海兵隊は捕虜を取らない方針、すなわち日本兵は皆殺しにしろと命令されていた、と言われていたが、この映画はそれを公言しているのである。

 

 最後の場面である。主人公の偵察隊長は、7人の部下のうち4人が戦死、1人が失明の重傷と悲嘆にくれる。そして、戦死した作家だった衛生兵が書きかけたメモを部下が発見して、偵察隊長に読んで、最後まで完成させるように言うが、隊長はメモを捨ててしまったので部下が皆に読んで聞かせる。字幕は聖書風にうまく訳しているのでそのまま書いた。以下の通り。

 

 私たちは自問する「なぜ生きるの者と死ぬ者がいるのか」

 答えは「神なる存在にある。生かされるには理由があるのだ。」

その理由を考えてみよう。

戦争体験者として、世界の人々に、語り継ぐ使命がある。

戦争は人類にとって脅威だと。

失った者を心に刻むんだ。

国が弱ると命が奪われる。我々は世界の一部だと自覚しよう。

弱ければ万人が弱る。自由を失えば世界も失う。

海兵隊B中隊はここに誓う。

祖国に帰れた者は苦しみを忘れず、国に力と勇気と知恵を与えるのだ。

恐れることはない。我々のそばに神はいる。

私たちは・・・。(We must・・・.)

 

メモはここで終わっている。書き終えなかったのだ。すると主人公の偵察隊長がメモの残りのようにつぶやく。

 

 わが父よ。御名が聖とされますように。御国(Heaven)が来ますように。

 みこころが天と地で行われますように。

 日ごとの糧を今日もお与えください。

 罪をお許しください。私たちも人を許します。

 試みに会わせずに、悪からお救いください。

 国の力と栄光は限りなくあなたのものです。

 

主人公の言葉はここで終わり、全軍の進撃で映画は終わる。この映画は、この言葉を語るために作られたように思われる。この一連の聖書のような言葉を何と評してよいか小生には分からない。ただこの言葉は、米国の栄光の絶頂期のものであるとともに、クリスチャンの米国人の典型的発想であろうことだけを申し添える。

 

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書評・中国と日本がわかる 最強の中国史・八幡和郎・扶桑社新書

2019-07-26 19:48:58 | 支那大陸論

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 著者は、保守の論客の一人であると思っていたが、本書の論調は全体的に違和感がある。小生は大東亜戦争を太平洋戦争と呼ぶか否かを、ひとつのリトマス試験紙としている。筆者は汪兆銘政権のことを述べた後「(蒋介石は・・・小生注)その後の日本の大平洋戦争での敗北により、満洲や台湾を取り戻しました。しかし、この戦争で疲弊した蒋介石の国民政府は日本との戦いを避けて力を温存しましたが、ソ連から支援を受けた毛沢東との内戦に敗れ、台湾に退き、北京と台北に二つの政権ができました(P36)」と書いている。

太平洋戦争と言う言葉のみならず、この記述全体が奇妙である。蒋介石が満洲と台湾を取り戻した、とか負けたはずの日本との戦いを避けたとか、あまり正確ではない言辞がある。本書には全体として、これに類似した違和感があるのである。

そのひとつだけ指摘しておく。著者の理解に、一見それほどの間違いはないように見えて致命的なものがある。漢文と現代中国語の文字表記と混同してみたり、別個のものだとする混乱がある。だから、予備知識のない読者には、全く違う理解になる可能性があるの的なで大変である。結論から言えば、現代中国人は北京語上海語の漢字表記はできても、漢文は理解できないのである。

 P5にこうある。 

 「漢民族と呼ばれる人たちは、互いに会話は理解できない場合もありますが、書きことばとしては、中国語を共通して使うようになった人たちです。たとえば「私は明日鶏を三羽買いたい」というなら「我想明天買三隻鶏」というように表意文字をほとんど並べただけですから、複雑な文法を勉強する必要もなく、漢字を習得すれば商取引や簡単な指示なら可能です。

 逆にもし複雑なことを表現するときには古典における表現例を学習しないと意味をなさなかったり・・・朝鮮半島の人々は北方系の言葉を話しますが、日本統治時代までは書き言葉はほとんど成立せずに中国語を使っていました。」

 

 ともかくひどい。書き言葉としての「中国語」と言っている。それが間違いの始まりなのである。中国語と総称されるのは、現代では、普通話、広東語、上海語などの何種類かの漢語のことを言う。しかも、これらは話し言葉であり、清朝崩壊前後までは、これらに対応する書き言葉がなかった。普通話とは正確には北京官話(ないしは北京語)から作られた、現在の中華人民共和国(中共)政府が中共支配の全土に強制している、日本語で言えば標準語のようなものである。

 普通話、広東語、上海語などの相違は方言と言う程度ではなく、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語といった程度の異言語なのである。このことを著者は「漢民族と呼ばれる人たちは、互いに会話は理解できない場合もあります」というのだが、前掲の文章では何のことか分からないであろう。しかも清朝崩壊前後から行われた白話運動で「普通話、広東語、上海語など」の漢字表記が作られた。そして普通話、広東語、上海語などの漢字表記は話し言葉が相違することから、漢字表記そのものが異なる。つまりこれらの漢語の漢字表記は各々違うのである。

 それなら著者の言う「中国語」の書き言葉とは何であろう。実は私たちが高校で習った「漢文」の事である。筆者の説明を置き換えて「漢民族と呼ばれる人たちは・・・漢文を共通して使うようになった人たちです。・・・朝鮮半島の人々は・・・日本統治時代までは書き言葉はほとんど成立せずに漢文を使っていました。」とすれば事実に則している。しかし、それでは、朝鮮半島の人々は漢民族と誤解されてしまう。

 しかも漢文は筆者が言うように、「表意文字をほとんど並べただけですから、複雑な文法を勉強する必要もなく、漢字を習得すれば商取引や簡単な指示なら可能です。逆にもし複雑なことを表現するときには古典における表現例を学習しないと意味をなさなかったり」するものなのである。一方で普通話、広東語、上海語などの話し言葉にはちゃんと文法もあるのである。従って漢字表記された、これらの言語にも当然文法もある。

 全ての間違いの元は漢文が「古代中国語の漢字表記である」と言う勘違いが前提にあるためである。そして、著者がそのことを理解していないのが問題である。しかもインターネットで「漢文」を調べても、それに似た間違った表現がされていることが多い。つまり筆者は耳学問なのである。著者のいうように「中国語」ではなく「漢文」には文法もなく漢字を並べただけの原始的な表記法であって、古典の用法を参照しなければ正確な意味は理解できないし、厳密な表現はほぼ不可能である。少なくとも話し言葉程度の厳密さも表現できないのである。しかも漢文は音声を出して読むことはあるが、あくまでも書き言葉の朗読であって、話し言葉の漢字表記ではない事に注意されたい。

 著者の奇妙なのは、ここでは中国語、といっておきながらP45で突然「江戸時代に日本と朝鮮と中国のインテリ同士は、互いの言葉は知らないし、漢文も会話だと、日朝ともに独自の発音をしていましたから通じません。」と突然漢文と言い出すのである。著者はかつて「漢文」を習ったから、そう言い出すのである。これも説明不足である。漢字は表意文字であるから、読みは民族によって異なる。このことは重大である。しかも漢文による会話はしないのである。まあ、和歌で問答をするようなつもりなら可能であるが、奇妙なものであることは想像できよう。

 漢民族とひとくくりにしても、普通話、広東語、上海語などの異言語を話す人々であることで分かるように、王朝が変わるごとに支配民族が変わったから、漢字の発音は変わっていくのである。日本では和式の漢字の発音を訓といい、中国由来の発音(もちろん正確なものではなく英語のカタカナ表記の程度のもの)を音、という。

P49には、伝わった時代によって呉音と漢音があると紹介されている。しかしインターネットで「呉音」と引けばわかるように、日本に伝わったのは、呉音、漢音、唐音の3種である。「行」を「あん」と読むのは唐音なのである。3種類の音が日本にあるのは、元々三つの読みがあったのではなく、著者が言うように漢字の読みが伝わった時代が異なることによる。ちなみに昔NHKの漢詩の講座で、漢文書き下し読みの他に、原語の中国語の発音の読みを紹介するラジオ番組があった。だが李白が読んだ漢詩を李白の時代の発音で読んでいなければ、原語で発音した、という意味はなくなってしまうことは理解できるであろう。小生には漢字の発音の知識がないので、当時の漢詩の講座の発音が正しかったか、判断しかねるのだが。

小生は漢文の知識がないので確信はないが、著者が例示した漢文で、日本語の明日を明天と書いているのは、漢文として正しいのであろうか、という疑問がある。インターネットで明天と引くと中日対訳辞書に、日本語の明日のこと、とある。つまり明天とは普通話で使われるもので漢文では使われない可能性大である。漢文なら漢和辞典にあるだろうからと「明」と「天」を調べても「明日」という用法はあるが「明天」なる用法はない。実際、後述する語学入門書によれば、「あした」は北京語で「明天」、上海語で「明朝」と書くそうである。北京語とは普通話の事である。もちろんここでいう北京語と上海語は話し言葉を漢字表記したもので、書き言葉だけの漢文のことではない。従って「我想明天買三隻鶏」と書いても、北京語ネイティブには理解できても、上海語ネイティブには変だ、と思われる可能性大である。まして漢文の日本人専門家に見せれば、偽漢文だと言われるのは間違いない。

漢和辞典の「明治」の意味には「明らかに治まる」という用法だけで、明治時代という用法は示されていない。恐らく漢和辞典は主として漢文用に作られているからだろう。とすれば、著者は普通話での明天の用法を例に使ったのであって、漢文での用法ではないように思われる。著者の意図は漢文(著者の言う中国語の書き言葉)とは漢字を並べたもの、と言いたいだけなのだが罪は大きい。

ただ、話し言葉としての「中国語」にはいくつもの異言語がある、というのは中国語の専門家に聞くまでもなく、以下の「トラブラないトラベル会話 広東語」という広東語の入門書に書かれている下記の監修者の序を読めばわかるであろう。曰く。

 

「私は福建人の三世としてマレーシアで生まれ、福建語、福州語、マレー語、英語で高校まで教育を受けてきました。そして留学した一橋大学では日本語を学び、その後広東に渡り、広東語を学ぶという貴重な経験をしてきました。数多くの外国語に接してきましたが、中でも広東語は、単音節の声調の高低で意味が変わり、また終助詞の使い方も複雑な、難しい言語だと思います。」

 

なんとこの本の監修者は、福建語を母語としながら、福州語、マレー語、英語、日本語を学び、これらと並列して、広東語を外国語すなわち、異言語と言っているのである。著者はこの事実を知らないから、とんでもない間違いをするのである。つまり漢文を中国語の書き言葉、と言って見たり、普通話、広東語、上海語などを説明なしに、ひとくくりに中国語と呼ぶのも「中国史」を解説する本としてはおかしいのである。これらの「中国語」なる言語はいくつもの異言語のグループであって、方言にとどまるものではないことを銘記されたい。

つまり、中国語とは、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語などの西欧の言語をひとくくりに、ヨーロッパ語、と呼ぶに等しいのだということを理解できるであろう。著者は、「民族とは言語集団でDNAではない(P39)」といいながら、日本民族と対置して、多数の異言語集団を含むグループを「漢民族」とひとくくりにしているのは矛盾である。本書には数多く傾聴すべき記述がある。しかし、根底にこのような矛盾が潜んでいることは、内容を理解するうえでも注意が必要である。

ちなみに、明日香出版社に「はじめての○○語」と言うシリーズがあるが、漢語の系統には「はじめての中国語」「はじめての広東語」「はじめての上海語」という三種の本がある。本シリーズの中国語とは「普通話」のことを言う。現在普通話が使われていない地域でも、普通話が強制されている、それは、香港のみならず、チベットでもウイグルでも同様である。香港では普通話強制反対のデモがあった位である。

共産党政権以外の、過去の清朝などの王朝では、このようなことはほとんど行われていない。著者が言うように民族とは言語集団、であるならば、まさに共産党政府は民族抹殺政策を行っている。共産党による殺戮を含む民族抹殺の規模はナチスドイツのそれをはるかに上回る。その意味でもP239に書かれたチベットやウイグルの記述は承服できるものではない。

「中国はチベットやウイグルを侵略した」というのは言い過ぎだ、というのである。「少なくとも近代になって外国を侵略して領土にしたのではありません」というから驚きだ。「チベットやウイグルはいちおう国際法の上で認められた中国の領土です」とも断言する。これはものごとの順を間違えている。中華民国内の一匪賊に過ぎなかつた中国共産党は、支配地域を拡大(侵略)して中華民国を追い出し、清朝の支配地域まで侵略を拡大した。

その中共を国際連合に加盟させたから、国際法で認められたことになるのである。つまり国連は中共政権の侵略を是認したのである。どんな方法で獲得した領土でも、国際社会が追認すれば、国際法上合法となるのであるのは確かに事実である。そして筆者は、チベットやウイグルでナチス顔負けの民族浄化が行われていることには、一言も言及しないのである。

小生は中国共産党政府に媚びてのことだろうと邪推するが、最近の図書館では以前に比べ普通話(中国語)以外の広東語、上海語のテキストが激減しているようである。福建語のテキストなどは元々見たこともない。

本書は中国史について、詳細な記述がなされている本であるが、縷々述べたような、大いなる間違った記述が多いのは、誠に残念である。果たしてアメリカ政府が、ウイグルには百万人規模の強制収容所がある、と発表した現在でも、筆者の考え方は変わらないのだろうか

 


左翼全体主義考(3)左翼は全体主義である(最終版)

2019-07-25 16:05:44 | 共産主義

(3)-1 戦後の共産主義

 戦後日本の共産主義は、政府がGHQに抑え込まれたことにより、拡大した。一つは無力だった刑務所にいた共産主義者の釈放による登場と、戦前の潜伏共産主義者や偽装転向者との合流による共産党と社会党という共産主義政党の結成。二つ目は共産主義学者やジャーナリストの復活である。学者の中には家永三郎のように、戦前は皇道主義を唱えていたものが、時局に乗って、共産主義的言動をするようになった者も少なからずいた。朝日新聞などのジャーナリズムは、元々いた隠れ共産主義者が復活すると同時に、GHQの弾圧によって朝日新聞のみならず、一般スコミは左傾化していったのは、時勢に阿っていたのだが、世代が変わると左傾言論は「社是」となっていった。

 三つめは共産主義系労働組合である。共産主義労働組合の主力は、国鉄、国家機関、公教育者の労働組合である。これらを官公労とすれば、民間会社は自社が潰れたては困るから過激な左翼運動はあまり出来ず、官公労が主体となったのは自然な成り行きである。こうしてGHQによる自虐史観が、マスコミや政党に跋扈し、公然とした言論は自虐史観しかなかった。子供の頃の小生の周囲は、残虐な日本軍のイメージとは程遠い人たちばかりであったから、自虐史観にあまりの不自然さを感じていて、戦前の日本人の行動の弁明を求めた。

 従って、自虐史観しかなかったとしても、常に疑問を持つことが多かったため、自虐史観にどっぷり浸かることはなかったと思う。しかし、維新以後の戦前日本の行動を具体的事実を持って、肯定的に評価するには二十年は要したと思う。大平洋戦争という、教科書の用語から脱したのも時間はかかった。父母が決して「太平洋戦争」とは言わず大東亜戦争、と言っていたのを子供心に不可解に思っていた。

小生は「大東亜戦争」が自然と言えるように、逆洗脳を自らかけていたのである。従って、今では「太平洋戦争」と言うか「大東亜戦争」と言うかを、ある人物の歴史観を判定するリトマス試験紙にしている。いかに立派な論を説こうとも、太平洋戦争と表記する限り、GHQの洗脳の呪縛から解けきれていないと判定する

閑話休題。敗戦から長い間、マスコミもジャーナリズムも公に出るものは左翼的であったにも拘わらず、保守と目された保守合同後の自民党政権が、共産党や社会党などの官公労の共産主義の者の支持する政党に政権を譲ることはなかった。戦前の事情を知っていた日本人が、大勢を占めていた時代には、表面に現れていた左翼的思潮に騙されることはなかった。時に自民党が腐敗すると社会党に票が流れることがあっても、国民の投票結果は、共産主義政党に政権を渡そうとはしなかったのである。ただし西尾幹二氏によれば、自民党は保守主義者だけの政党ではなく、自民党議員の思想の配分が、国民全体の思想配分に等しいから、大勢として結果的に保守政党であった、という。これは正しい分析だと思われる。自民党にも加藤紘一のような共産主義もいたのである。

その後、昭和四〇年代頃からであろうか、「諸君」などの雑誌等によって、戦前の日本に対する弁明が始まるようになって、小生は貪るように読んだものであったが、世間の表層に現れた思潮は相変わらずであった。しかも徒弟制度で凝り固まった日本の学会は、自虐史観に席巻されていたと見え、一方で学問の府である大学は左翼思想で非ずんば、人に非ずという風潮であったろう。

 政界の決定的な転機はやはり、ベルリンの壁の崩壊に続く、ソ連の崩壊であろう。ここで思潮の流れをはやまって読んだ、重要な転機をもたらす人物がいた。小沢一郎である。今でも小沢の行動を軽視する傾向が強いが、現在に至る日本の政界を混乱に陥れている、という意味で小沢の存在と罪は大きい。自民党の一党政権を一党独裁と批判する輩には、自民党に対抗できる保守政党は必要不可欠である。

ソ連の崩壊とともに、共産主義は死んだに等しいと小沢は思ったのである。共産主義が死んだということになれば、共産主義政党はいずれ消滅する。とすれば自民党に類した保守政党による二大政党政治の実現が現実になる、と踏んだのだ。そこで、自民党が共産主義政党を圧する前に、自民党を割って、保守政党を作って政権の受け皿にすることにした。

ところがどっこい、共産主義政党は消滅しなかった。小沢は見切りが早過ぎたのだ。国民一般は共産主義は間違いであることを実感したのだが、共産主義政党の支持基盤である、官公労は健在であった。社会党はほとんど崩壊したが、共産党は健在で官公労の票を集めた。官公労の票の受け皿は、民主党、民進党、立憲民主党などと名前が変わっても、官公労が堅固な支持基盤であるのに変わりはない。

看板だけ自由主義で、支持組織は共産主義であった民主党は、一時国民の眼を欺いて、政権を獲得するに至ったが、あまりの拙劣さで失敗し、自民党以外の健全な保守政党を求めた無党派層国民は離れていって現在に経っている。結局立憲民主党は、官公労などの共産主義の支持に等しいだけの勢力しか得られないのである。小沢は今や、選挙に強いという都市伝説の主となって、反自民の頼みの綱になっているに過ぎない。政治生命は終えたし、政治信念は何も残っていない。

ところが変わらないのは新聞マスコミである。相変わらず朝日新聞は自虐さを増した。それどころではない。新たなマスコミの旗手となったテレビは、反権力を装った、共産主義者の牙城になったのに等しい。例えば意味のないモリカケ問題では、地デジ全局が何の根拠もないのに「安倍夫妻疑惑」を垂れ流した。一方で、テレビ離れした層のメディアである、インターネットの世界でも左翼的言論が拡散した。ネトウヨと呼ばれる層も根強いが、ヤフーニュースは徐々に左翼的傾向を増しているように思われる。また学者層では、公的に登場する憲法学者は全員が、自衛隊違憲論者である、というように学問の徒弟制度から、左翼の牙城となっている。

 

(3)-2 左翼全体主義による言論弾圧

さて本論である。マルクス主義の前提のひとつは、共産主義に至る道は普遍的な歴史的経過であって、共産主義社会は必ず到来し、そこで歴史は終わる、ということである。それから類推して、「ソ連」を成立させたマルクス・レーニン主義は科学的社会主義であると言った。その意味は、科学だから「絶対的に正しい」ということである。これは20世紀初頭の誤謬である。科学だから「絶対的に正しい」とは限らないことは、現代の科学者なら誰でも知っている。ニュートン力学は相対性理論から見れば、近似解を与えるに過ぎないことが分かっているのである。

しかしマルクス主義においては、そのことが勝手に独り歩きしていった。ソ連ではマルクス・レーニン主義以外の思想は禁じられた。唯一全体正義のマルクス・レーニン主義以外の思想を信じることは、罪であるとされた。コミンテルンの支部として作られた各国共産党においてもマルクス・レーニン主義だけが正しい思想だとして、それ以外は排除された。ソ連においては、非マルクス・レーニン主義は弾圧された。内心の自由はないのである。

日本でも同様であった。宮本顕治は仲間とともに裏切り者を粛清した。これがマルクス・レーニン主義における正義である。テレビのインタビューで、共産主義の日本の泰斗である故向坂逸郎は、共産主義政権が出来たら共産主義思想以外の思想の者をどうしますか、と聞かれた。向坂は「弾圧する」と断定した。向坂は正直で共産主義に忠実だったのに過ぎない。共産主義すなわち極左思想を持つ者は異論を許さない全体主義者である。

 

①  戦前の状況

 戦前は自由主義的思想が弾圧された、とされている。天皇機関説や自由主義者の河合榮治郎らの大学からの排除である。この厳しさは安政の大獄以来のことで、日本で苛烈に思想によって弾圧するのは例外であったように思われる。中川八洋氏によれば、戦前に弾圧に回った側は、実は多くが共産主義者である。ゾルゲ事件はスパイ事件であって、思想弾圧ではない。

 しかもゾルゲや尾崎秀実に連なるはずの多くの人々、すなわち共産主義の群れは、逮捕されずに闇に消えた。ゾルゲ事件の全貌は明かされていない。キーマンであった近衛文麿は自殺して、全てを隠して死んだ。しかし、これは共産主義ネットワークによる隠ぺいのための殺害であると言う説がある。これらを要するに、戦前の極端な思想弾圧は、実は右翼に偽装した共産主義者の仕業ではないか、という仮説に小生はたどりついた。

 思想的に比較的寛容な日本人による、苛烈な弾圧は他に説明がつかないのである。安政の大獄は攘夷派と佐幕派のテロルの応酬であり、権力闘争であって思想弾圧ではない。信長の宗教弾圧も思想問題ではなく、武装仏教の解体による政教分離であった。これらすら欧米や中国の宗教弾圧や権力闘争に比べれば可愛いものである。これに比べ、戦前の極端な思想弾圧は、非日本的な匂いがする。そこで現代に移る。

 

②  現代の左翼全体主義

①  では戦前の思想弾圧が、右翼に偽装した共産主義者の仕業ではないか、という仮説をたてた。マルクスは愛国心を肯定した国際的労働組合、すなわち第二インターナショナルの綱領作成に関与したと言われている。従って、必ずしもマルクス自身は当面は国家を否定してはいなかった。しかし、マルクスの共産主義と労働者の国際的連帯と言う発想は、元々世界はひとつである、という夢想的アナーキズムにつながってしまう要因があったのではなかろうか、と思う。

 それはソ連による第三インターナショナル、すなわちコミンテルンとして利用されてしまった。世界の労働者は各国において、ソ連を祖国とする共産主義に忠誠を誓うと言うものである。つまり各国の共産主義者と労働者は、ソ連に利用されることとなった。ソ連が崩壊した結果、忠誠を誓うべき祖国はなくなったのである。恐らく日本の共産主義者に支配される労働組合はとりあえず、中共に忠誠を誓うことにしたのではなかろうか。

 日本を否定する以上、ソ連に代わる国外で従うべき国家権力が必要となったからである。反日である以上、帰属する国家権力が必要なのである。マルクス主義に胚胎していた、共産主義絶対視の傾向は、マルクス・レーニン主義により確固たるものとなった。小生の知己のある共産主義者は、若い頃雑談で、「俺達は正しいのだから、手段は悪であっても良い」、という意味のことを言ったので唖然としたことがある。ところが昨今のジャーナリズムやインターネットの状況を見ると、この言葉は真実味を帯びてきたのである。

 例えば杉田水脈氏は、ある雑誌でLGBTは生産性がない、という意味のことを書いてバッシングされ、その雑誌が翌月号でその特集を組むと、雑誌もバッシングを受け廃刊を余儀なくされた。ひどいことに例の菅直人氏は似たような発言を何年も前にしたのに、何の問題にもされなかったのである。杉田氏は保守で菅氏は左翼と看做されたからである。ジャーナリストや学者、政治家などで保守ゆえに左翼からバッシングを受けてひどい目にあった、例はいくらでもある。小川榮太郎氏などは、新聞社から、言論ではなく言論機関にあるまじき、裁判という報復を受けている。

 かつては改憲をいうだけで非難される状況があったが、さすがにそのような状況はなくなった。しかし、左翼による言葉狩りのような傾向は、特にテレビマスコミにおいてひどくなっているように思われる。繰り返すが、マルクス・レーニン主義に淵源を持つ日本の左翼は本質的に、言論の自由を認めない全体主義的傾向が強い。彼らの言う言論の自由とは、左翼思想の範囲内での言論の自由なのである。

 百田直樹氏や櫻井よしこ氏などが講演をキャンセルされたことがあり、そのような例はいくらでもある。ところが、左翼論者が同じような目に遭ったことは極めて少ないし、そんなことがあれば、テレビマスコミが一斉に唱和して思想弾圧だと騒ぐから、できないのである。令和元年の参議院選挙の際には安倍首相の演説の際に集団でやじを飛ばし、演説を聞かせなかった。警察も止めないので、ある人がスマホで動画を撮ったら、集団の一人が、携帯を奪って壊した。ここに至って、初めて警察は動いたのである。その後の安倍首相の演説でも集団がヤジで妨害したので、警察が排除した。前回の件で学習したのである。ところが、朝日新聞はこのことを「警察による言論弾圧」と記事にした。朝日新聞も、ヤジ集団も左翼である。自分たちは悪い安部の言動を阻止した正義の行動をしたのである。選挙妨害ではなく「絶対正義」なのである。

何度でも言う。左翼・共産主義者は思想統制を是とする、全体主義者である。そのことは、実は戦前から続いているのである。インターネットは大丈夫と言うなかれ。中共の例でわかるように、インターネットは、言論の自由にも寄与するが、全体主義の思想統制には最適な道具なのである。

自由主義者は言う。「君たちの言論は間違っている、しかし君たちの言論の自由は生命を賭して守る。」と。共産主義物は言う。「君たちの言論は間違っている、だから君たちの言論を弾圧する。」と。

尼港事件の犠牲者は壁に共産主義は我らの敵と血書して絶命した。その叫びを今聞くべき時である。

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左翼全体主義考(2)日本の共産主義

2019-07-25 16:05:27 | 共産主義

左翼全体主義考(2)日本の共産主義

(2)日本の共産主義

(2)-1 共産主義と社会主義

ここで、便宜上共産主義と社会主義の概念の相違について書く。本稿全てにおいてそうであるように、これらの定義は全て小生によるものである。皆さんは既にご存知と思うが、後の議論のためと、小生の頭の整理のために書くのである。

社会主義とは、共産主義と比較すれば、広い概念である。現実に存在する共産主義国家から、共産主義のうち計画経済と私有財産の否定を基準として考えると分かりやすい。社会主義の最も左翼を、計画経済と私有財産の否定と考えれば、共産主義は社会主義の一部に含まれる。現在の資本主義社会では、全く国家統制のない自由勝手な経済政策はあり得ない。例えば賃金においては最低賃金制度があり、国家が推奨する分野においては補助金を出したりする経済政策も、一歩計画経済に近づいたという意味においては、社会主義的であるといえる。

私有財産の否定の中間はないかといえばそうではない。高額の相続税や固定資産税である。資産家から取ったこれらの税金は福祉などという形で低所得者に配分される。資産家の財産は、相続税として奪われるのである。税率が高くなればなるほど共産主義的であると言える。要するに共産主義に近ければ左翼的ないし、より社会主義的となる。

だから社会主義とは相対的な概念である。だから資本主義国家においても民主社会主義、というような理念を党是とした社会主義政党が存在するのは、そのような理由である。自由主義とも言われる資本主義と共産主義を除いた社会主義とは何か、である。上記の説明と共産主義の定義を比較すれば分かるであろう。信教の自由と思想の自由というふたつの「自由」があるのが、共産主義を除いた社会主義である。思想の自由からは、結社の自由が導かれ、結社の自由からは政党の自由が生まれる。

政党の自由からは議会制民主主義が生まれる。こうして、資本主義国家においては、議会制民主主義国家が生まれる。ところが、運営の実態上からは、ロシアは本当に資本主義国家なのか、という疑念がある。民主的な手続きを経てエリツィンから権力を得たプーチンは、長期間権力を維持し続けているばかりではない。私有財産保有の自由はあるものの、建前上言論統制がなく議会はあるものの、ジャーナリストの暗殺という形で、実質的に言論の自由が奪われているに等しい。つまり資本主義ではあるものの自由主義とは言えない。

ここに、資本主義と自由主義の乖離する例がみられる。このような例は、発展途上国では多く見られる。ロシアは科学技術はともかくとして、政治的には前近代的な要素の残滓が多い例である。結局国家体制と言うものは、支配民族の性格のくびきから逃れられないものであるとだけ言っておこう。中共についてはさらにややこしいが、深入りの必要がないので、やはり支配民族の性格によるものとだけ言っておこう。

 

(2)-2 戦前まで

 日本の共産主義はもちろん、欧米の思潮の影響を受けたものである。概括的に述べれば、マルクスの著作が日本に入ってきたのが、共産主義の始まりだと言える。日本においては共産主義は、皇室を否定する危険思想として、政府は一貫して排除する姿勢をとってきた。検閲や、かの治安維持法である。こうして共産主義は危険思想として禁止された、ということになっている。

ところが不可解なことに、日本人による社会主義色の濃い、あるいは共産主義に基づく出版物は、共産主義と名を付けない限り、ほとんど野放しにされたに等しい。例えば「改造」などという雑誌がそうである。改造はマルクス主義思想家の巣窟となり、廃刊させられたのは、なんと終戦直前であった位、野放しにされていた。輪をかけて不可解なのは、マルクスの著作が堂々と出版されていたことである。コミンテルンの地下活動と相まってマルクスなどの著作を読んだ帝大生などのエリート層にも共産主義しそうははびこっていった。

この乖離は不可解と言うよりは、大間抜けに等しい。アメリカが言論思想の自由の建前から、共産主義者が跋扈していたのは理解できない訳ではないが、国策として日独防共協定まで結んで、共産主義を天敵扱いしていた日本では、矛盾の極致である。しかもゾルゲ事件という大事件を経た後でも、軍や政治家、思想家の中には、共産主義者が残ったのである。米国がレッドパージ後、政治における共産主義者が徹底排除されたのとは著しい違いである。

ここで特筆すべきは、北一輝である。彼は大川周明とともに、民間右翼のボスと言われた存在である。これはかの中川八洋氏の示唆と小生の読書の結果から言う。大川はいざ知らす、北は共産主義者だったのである。書架に見当たらないので記憶で書くが、「日本改造法大綱」によれば、骨子はふたつ、「国民の天皇」と「私有財産の上限を何万円(現在なら数億円)かにする」というものである。

国民の天皇ということは、カモフラージュである。よく考えれば天皇は国民のものだと言うのだから、国民が廃止しようとすればできるのである。現代の日本共産党と変わりはない。私有財産の上限と言うのは、私有財産の禁止を合理的に実施する手段である。前述のように完全な私有財産の廃止と言うのは、日常の生活を考えれば不可能だから、制限すれば生活に支障のない範囲で私有財産が禁止できる、という訳である。

北は軍人の一部と組んで統制経済を推進すべきと主張していた。しかも統帥権の干犯などという統制的言辞を発明して、政党を持って政党を弾圧せんとしたのである。これらを総合すると北は「天皇制廃止」「私有財産の禁止」「言論弾圧」「計画経済」と言うソ連の真似事を日本に導入しようとしたのが本質と言わざるを得ない。北は共産主義者である

 

北ばかりではない。スパイ尾崎秀実ばかりではなく、陸海軍の幹部にもソ連の計画経済のインチキな成果に魅惑されて、統制経済を推進する者は多かった。統制経済とは、ソ連の計画経済と同じではまずいと思ったカモフラージュであろう。そして言論統制が強まった。不思議なことに言論統制は、自由主義者である、河合榮次郎にも及んだのである。国体明朝として行われた言論弾圧には、結果からすれば共産主義者よりも、河合榮次郎のような天皇の崇敬者の方が被害が大きかったのではなかろうかと疑う。

つまり計画経済をベースに陸軍の一部の地下にも潜った、共産主義者の活動家に都合のよい言論弾圧ではなかろうかと疑うのである。ゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実らのソ連のスパイは人身御供であって、親ソ共産主義の御本尊は政治家や軍人の中に公然と残されていたのである。徳田球一らの共産党員ら幹部は、根こそぎ逮捕されて、皆が戦地で戦死傷する中、刑務所で不自由なく暮らしていた。実は「転向者」とされる人物の多くは公然と社会に出て活動をした。

ここで整理すると、戦前の共産主義者には、三種類の系統があったように思われる。ひとつめは、コミンテルン日本支部として創設された共産党だが、逮捕拘留されて戦後GHQが釈放するまで実質的に活動はできなかった。ただし、逮捕されたが転向を誓約して、釈放されたもののうちの一部が隠れ共産主義者として活動している。

ふたつめは、尾崎秀実らゾルゲなどのコミンテルンの指示を受けて活動をしていたグループで、政権中枢に食い込んで支那事変を煽動するなどしていたグループである。三つめはソ連の計画経済にあこがれた軍人グループや、民間浪人や学者などのグループである。このグループには、第二のグループと連携をしていたものとそうではないものがいたであろう。例えば米内光政は、陸軍の大勢が支那事変拡大反対であったにもかかわらず、突如強硬意見を主張して、支那事変を拡大した。彼はロシア通であったために、ハニートラップにかかって籠絡されていた、という説さえある。

第二のグループは、特に近衛内閣の中枢に食い込んでいて、支那事変から対米戦争へと誘導したとみられている。しかし、ゾルゲ事件で一部が逮捕処刑されたものの、戦後、近衛が自殺したために全貌は明らかになっていない。そのため近衛は殺害説すら出ている始末である。

戦前の厳しかったと言われる思想統制の大本は共産主義者で、思想統制の対象は巧妙に自由主義者に対して行われていたのではないか、という仮説を小生は持つに至った。これについては最後に述べたい。

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左翼全体主義考(1)共産主義とは

2019-07-25 16:04:26 | 共産主義

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左翼全体主義考(1)共産主義とは

(1)-1 共産主義とは

 日本における左翼の全体主義的傾向と、それに起因する言論の抑圧の甚だしさについて、共産主義とはいかなるものか、ということから始めて、言論抑圧の必然性を考えてみよう。特に近年、日本において左翼による言論抑圧の傾向が強まっているように感じられるからである。まずは共産主義とはいかなるものか、である。

 日本の左翼とは、共産主義者ないし、そのシンパである、と定義する。共産主義とは何か。この点に関してはソ連と言う「共産主義全体主義国家」が崩壊した今となっては、原点にかえって考えるしかない。というのは、ソ連はマルクス(マルクスとエンゲルス:以下省略)の共産主義を現実化するために、マルクス・レーニン主義という理論を考え、実践した。これは政権奪取においては暴力革命を、暴力革命の実施にあたっては、プロレタリアートは共産主義の前衛たる共産党の指導を仰ぐ、というものである。

国家の運営に当たっては、共産党一党独裁体制における、宗教の否定、私有財産制の否定と計画経済によることとした。これがソ連およびその「衛星国家」と言われる東欧諸国の基本原則であった。アジアにおいては、中共その他の「共産主義国家」が誕生したが、元々はソ連の傀儡政権であったが、誕生以降はアジアにおける古代からの専制王朝の様相を呈して現在に至っている。そしてソ連が崩壊して以来、日本の左翼が故郷と仰いだ、共産主義の御本尊が消え、一般大衆からも共産主義に対する幻想が崩壊したから、左翼も崩壊したはずであるが、そうはならなかったのである。

マルクス・レーニン主義とは、マルクスのいう共産主義国家を実現するために、マルクスから逸脱したものである。マルクスは革命とは言ったが、合法ではないにしても必ずしもレーニンが行ったような殺戮をも当然とする革命とは明言はしてはいなかった。マルクスは共産主義者がプロレタリア階級を指導することを示唆したが、労働者を愚民扱いするに等しい「前衛」などという言葉は使ってはいない。

確かにマルクスは、私有財産制度と宗教を否定した。この点は明らかである。しかし、共産党一党独裁については、論理的必然性からしてそうなることは明らかだが、共産党一党独裁についても明言はしてはいない。まして計画経済だとか、統制経済など言うものについては、マルクスはむしろ否定的であるとさえ思える。労働者「階級」が、生産用の資材を保有し、自由に働くことを求めていたようでさえある。

結局のところ、現実の共産主義国家、ソ連邦を実現するために、レーニンはマルクスにはない発明をしたのである。しかし、現実の共産主義国家を実現運営するには暴力革命も、共産党一党独裁も、計画経済も必然となった、と考えざるを得ない。たとえマルクスが生きていてそれらを否定しようが、これらの悲惨な現実は実にマルクス自身が考えたことに淵源を有すると言わざるを得ないのである。

唐突だが、後々のため、皇室と共産主義体制の関係について一言する。天皇は権力を分離して、権威として存在するようになった。だから武家政治でも明治の中央集権的国家体制にも矛盾なく適合した。維新国家は事実上立憲君主制となったが、それとも矛盾はしない。その意味で天皇をいただいた共産主義体制は天皇の側からはあり得る

しかし、共産主義は、絶対君主を否定する。従って、共産主義者から見れば、天皇は認められないのである。マルクスの理論の帰結は、権威と権力の分離などということは認められない。マルクス主義が科学的社会主義として、宗教を否定したから、宗教と同じく権威の源泉である天皇は認められないのである。結局のところ共産主義体制は、天皇制を否定しなければならないのである。たとえ天皇の側から共産主義を受け入れられても、共産主義者は、それを認めない

 

(1)-2 マルクスの理論

 順は逆になってしまったが、なぜマルクスは私有財産の否定などに至ったかを示したい。マルクスの共産主義への道や共産主義について考えていた事は、端的に「賃労働と資本」と「共産党宣言」の二著がもっとも理解に適切であろう。資本論は、英国の資本主義社会の悲惨を描いたものであって、共産主義の理論を書いたものではないからである。

マルクス主義理論のエッセンスは「賃労働と資本」に書かれている。それは剰余価値説である。その理論は単純なもので、全ての工場生産品の価値は、労働者による労働のみによってだけ生まれる、というのが理論の絶対的前提である。価値が労働だけからしか生まれないとすれば、それによって収入を得る、資本家は労働者が生み出した価値を搾取している、ということになる。

労働者の生み出した価値とは何か。価値とは、労働に要した時間に相当する労働者の生活費である。マルクスの理論からは、資本家は労働者の生み出した価値の全てを労働者に分配すべきであるが、資本家が雇用しているために、そうとはならない。しかも労働者は生活のために、より低い賃金でも雇用されることを求める。あくまでも資本家の地位は揺るがないので、搾取はより多くなるようにしかならない。

労働者の窮乏は激しくなる一方である窮乏が際限なくひどくなって、頂点に達すると革命が起き、労働者が権力を奪取する。従って、革命は資本主義が高度に発展した社会においてだけ起きる。それを媒介するのが共産主義者である。あけすけに言えばマルクスの考えた理論の根幹はこれだけの事なのである。

このことからマルクスはいくつかの事を敷衍する。革命は歴史的必然から生まれるものである。従って、この歩みは絶対的真理である。このことを後の共産革命の実践者は科学的社会主義であると呼んだ。科学のように普遍的真実だ、というわけである。これを否定する者を弾圧する、という考え方はここに起因する。また宗教は労働者の窮乏を、精神的に救済するものである。だからマルクスは宗教をアヘンに等しいものである、と言った。宗教は否定された。

資本家は資産によって工場を経営し、労働者を搾取するから、私有財産は搾取の手段である。従って財産の私有は禁止し、労働者の共有であるものとする。注意を有するのは価値を生むのは、工場の労働者によってのみ生まれるから、マルクスの言う労働者とは、一般に言うところの工場労働者だけである。農民も商人も価値を生み出さないから、マルクス理論においては労働者ではないという帰結となる。ソ連において、医師や技術者が低賃金におかれたのは、その実践である。レーニンはマルクスの理論に現実を合わせようとしたのである。

 

(1)-3 マルクスの理論の現実との乖離

 これだけシンプルにマルクスの理論を見ると、今の目で見ると現実と甚だしく乖離しているのは分かるであろう。明瞭なのは、労働者には工場労働者以外の、農民、商人などは労働者としてカウントされない、ということである。現代の共産主義者はそのことは語らない。現実と乖離しているから都合が悪いからである。農民はや商人は労働者ではなく中産階級であると、マルクスは明言している

 このことをレーニンは徹底して悪用した。ソ連は西欧諸国より工業部門で立ち遅れた。近代兵器生産ができないのである。そこで行われたのが飢餓輸出である。重化学工業に投入する資本を得るために、農民から農産物を奪って資金を得て、あたかも計画経済が大躍進したように宣伝した。しかし、そのために農村では餓死者が出たのである。

 マルクスの言う資本家とは、自ら資本を持ち工場を経営する者のことである。現実にはこのような者が大勢を占めたのは資本主義社会においては、ごく初期の段階だけであった。その後の大資本においては、経営者自身が工場などの資産を自ら保有することなど不可能な規模に発達したのである。現在社会で経営者が自ら資産を持って工員を雇う、などというのは規模の小さい町工場でしかない。

 現在の日本の共産主義者が応援する中小企業とは、マルクスの言う、労働者を搾取する資本家そのものである。マルクスが見た当時の英国での資本家とは、その程度の発展段階のものでしかなかった。マルクスは、それが全てである、として理論を組み立てたからこのようになってしまったのである。そして科学的社会主義として、宗教を否定したから、このような矛盾はなきものとされた。

 共産主義社会の最も不可解なのは、私有財産の否定である。私有財産とは何か、を考えれば分かる。金銭、不動産、その他の資産である。金も家もなければ、人間はどうやって生活すればいいのだろうか。食料を買うのにすら金が要る。金がなくて生活できる、近代社会とは何であろうか。どんなに単細胞が考えても不可解極まりない。現にソ連にも金銭はあったのである。

 このようにマルクスの理論ですら、普通に考えるだけで、現実に適合しない事ばかりである。ところがこれを多くの学識あるはずの人が大真面目に信じたのである。否、ソ連が崩壊した今でも信じている人がいる。マルクス主義批判をする人ですら、マルクスの理論は巧妙精緻であるという。どうしたことだろう。それは数学を考えてみればわかる。

数学とは現実を数量化した普遍的なものである、と考えがちだがそうではない。数学とはいくつかの仮説(公理)を立てて、仮説を論理的に展開して、公理系を作る。公理系の中で矛盾が生じなければ、その公理系は成立することになる。

例えば、負の数の二乗は必ず正の数になる。これが一般的常識である。ところが数学者は二乗すると、負の数となる「虚数」という概念を発明した。これを加減乗除した数学を展開しても、矛盾が生じないことを発見した。これが虚数の世界である。現実から直観すると奇異だが、このような数学の世界は存在する。しかも、虚数を使った数学は、流体力学や伝熱工学といった現実を理論的に解析するのに有効なのである。

マルクス主義批判をする人ですら、マルクスの理論は巧妙精緻であるといったのは、このようなことではなかろうか。理論の中では矛盾のない体系が構築できるのである。しかし、  虚数を使った数学が、流体力学や伝熱工学といった現実を理論的に解析するのに有効なのに対して、マルクスの作った理論体系は、現実世界に適用は出来なかった、それだけのことではなかろうか、と思うのである。それで現代のマルクス主義者は、マルクスの作った架空の世界に生きているのであろう。それどころか、日本のマルクス主義者は現実をマルクス理論に合わせることを夢見ているのではなかろうか。その一端が言論抑圧という形で露呈しているのだと小生は思う。


零戦はギリギリに設計されているため発展性がなかったという神話

2019-07-23 21:00:13 | 軍事技術

 一般に、第二次大戦当時の日本の軍用機、特に戦闘機はぎりぎりまで切り詰めて設計されて余裕がないため、改良発展の余地がなかったと言われる。例えば零戦が十二試艦戦の時の瑞星を除き、栄系統のエンジンで通し、沢山の型を生産した割にはエンジン出力も最大速度もたいして向上していないことについて、多くの本が、ギリギリに設計されているので発展性がなかったからだ、とコメントしている。それは本当のことだろうか。

 飛行機の機体は、空気力学上の要素を除けば設計上は構造物である。ギリギリに設計されていた、と言うのはどういう意味だろうか。構造設計の考え方のうち応力について概観してみよう。構造物は、発生する応力が許容応力以下であることが必要である。応力とは、荷重により物体内部に発生する力を単位面積当たりの力(N/m2)で表わしたものである。許容応力とは、材料が設計上許容できる応力(厳密な表現ではないがお許し願いたい)だから、計算上発生する応力は許容応力以下でなければならない。許容応力は材料の種類と設計対象の構造物の種類によって技術基準等によって決められている。

 最も良い構造設計は、発生する最大の応力が許容応力に等しいことであると考えられるが、構造物は複雑な構造をしていることや、他の要素もあるので、全ての部材をそのようにすることは現実的には不可能である。しかし一般的にギリギリの構造設計をする、というのは応力の観点からいえば、できるだけ多くの部材の応力を許容応力に近くする、と言うことである。構造設計上の応力の観点からは、できるだけ多くの部材の応力を許容応力に近くする、と言う努力をしない設計者、というのはありえない。与えられたエンジンと設計仕様に対して、構造設計上ギリギリの設計をするのは当然のことなのである。

 零戦より何年も設計が古く、最後まで改良され続けたドイツのMe109や英国のスピットファイアは構造上ギリギリの設計をしていなかったから、改良が続けられたのであろうか。もちろんそうではない。改良によって重量が増加すれば、それに見合った強度となるように部材の厚さを増やすなどの設計変更をしているのである。両機とも、将来の改良をみこんで、計算上の応力が許容応力を大きく下回るような「ゆとりのある」設計をするはずがない。そんな者は設計者失格である。

 機体設計上のゆとりのもう一点はエンジン出力に対する機体のサイズ、と言うものがある。簡単に言えば、重量と寸法の小さい機体に過大な出力のエンジンを積めば、トルクにより機体が振り回されてしまう。十二試艦戦は全幅12m、全長8.79m、自重1.65t、全備重量2.34tである。Me109の試作一号機は全幅9.87m、全長8.58m、自重1.5t、全備重量1.9tである。寸法も重量も零戦の方が大きいのである。Me109はエンジントルクの影響を解消するために、垂直尾翼の断面を非対称にさえしている。他にもそのような例はあるが、Me109の場合は高性能をねらってエンジンサイズに比べ機体サイズを切り詰めた結果によるものであると考えられる。つまり機体の大きさから言えば、Me109は零戦よりゆとりがないギリギリの設計なのである。それにも拘わらず、原型1号機から最終型に至るまで、大幅なパワーアップをしている。

 著書による限り、設計者の堀越技師自身は零戦はギリギリに設計されていたため発展性がなかったとは言ってはいない。それどころか「零戦」(朝日ソノラマ昭和五十年版)で「・・・最後型となった五四型丙は二年も早く生まれ、恐らくはその後もさらに改良されて、零戦は依然としてその高性能を誇っていたかもしれない。」(P262)と書いている。これは昭和十七年に海軍に金星エンジンへの換装の指摘打診を受けた際に応じていれば、五二型が登場したのと同じ昭和十八年に大幅に出力向上した高性能の機体が出来ていたはずだと言っているのである。

 同じ著書で「・・・たとえば金星換装などは外国人、特にスピードの速いアメリカ人には余りにも遅かったように見えたようであるが、これを、日本は外国の模倣ばかりしていたから戦争のために外国の資料が入らなくなるとよい知恵が出ない、とするには当たらない。・・・これを一口にいえば、日本の産業の規模が全般的には世界一流の水準からは遠い状態にあったということである。・・・経験ある技術者の過小とも重なって、着想から実験、設計、試作、実用に至るまで非常に時間がかかった。」と言っている。機体がギリギリに設計されていたから改良できる余地がない、とは設計者自身が考えてはいなかったのである。

 海軍の早期の私的打診応じることができなかったのは、堀越技師が過労で倒れる位忙しかったからである。ちなみに役所というものは、事前に「私的打診」をして可能性を見極めてから公式指示することが多いから私的打診と軽視はできないことは一言しておく。堀越が応じられなかったのは日本航空工業一般の基盤の貧弱さによることがあるかもしれないが、三菱の設計体制の非効率によるものである、という説もある。いずれにしても種々の要因が重なったのであろう。

 今となっては判然としないが、昔の雑誌で、零戦に誉エンジンを積むことはできなかったのですか、という質問に、堀越技師が、できた、と答えたのを読んだ記憶がある。これが小生の記憶違いであるにしても設計上は可能だったのである。もちろん翼断面の再設計まですることになったのかも知れないが、誉がまともなエンジンであれば大幅な性能向上が期待できたであろう。現実には烈風にさえ零戦五二型丙なみの低い翼面荷重を要求する海軍は受け入れなかったのに違いはないのだが。

なお、陸軍では隼にさえ、誉搭載の試算を行っていた(雑誌丸2019.6月号)とされている。この記事で筆者は、隼の機体に誉を積んで、再設計をするなら、新設計のほうが早かった、と書くがこれは一面の事実に過ぎない。誉換装で、最低限の設計変更したほうが、機体の特性は分かっているし、生産用の治具も極力流用すれば、生産の遅滞は新設計より少なく、現実的である。新設計では絶対的に時間がかかる。このような発想が、現在の自衛隊に至るまで、既存設計装備の活用を妨げている。ソ連のT-64,72戦車シリーズを見よ。1964年の設計が現在まで改良され続けている。車体規模は小さいし、ディーゼルエンジンをガスタービンに積みかえたものすらある。

 余談になるが、日本の発動機技術は決定的に遅れていた。そして機体設計においてもセミモノコック構造のの中で、既存の設計手法の範囲内で多くの努力を費やしていた。従って開戦前に輸入したDC-4にさえ、同じセミモノコック構造ながら、新しい設計手法を学ぶことが大きかったのである。最も得意であったはずの空力設計においてさえ、米国が直面していた急降下時に生ずる遷亜音速領域の現象など、至るべくもなかった。これらのことについて、当時の日本人技術者から素直に語られることはなく、抽象的に工業基礎構造の遅れとしてでしか語られないのは残念である。今でも最先端技術分野においては、類似のことが見られるからである。

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