毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

白い彼岸花

2020-10-03 15:15:57 | 東京の風景

 柄にもなく風景写真である。近所の公園である。大手工場の跡地なので広い。桜、特に八重桜と江東区の花である、サザンカがメインであるが、何年も通って今年初めて気付いたものがある。それが白い彼岸花である。彼岸花は赤いものと相場が決まっているが、白い彼岸花である。

 

 

 白いものばかりではない、ピンクのものすらある。今更ながら驚いた。

 

 この写真では、いくらか黄色っぽく映っている実際は純白に近い。

 

 このようにピンクのものもある。もう彼岸花は枯れ始める季節だが、つぼみすら残っている。

 

 この純白の色合いが実物の色合いに近い。

 


改変される歴史

2020-05-15 14:01:33 | 東京の風景

 隅田川左岸の遊歩道、丁度牛嶋神社の南の外れ当たりに、一連の碑が置かれている、その碑の由来が時によって変遷するのを見るのは、人の世の常とは言え、辛いものがある。まずは「明治天皇海軍漕艇天覧玉座阯」である。

 これが正面である。次が背面である。

 隣に比較的新しい由来が、現代文で書かれている。それを見よう。

 

 この由来は、碑文を要約したものだが、大切なことが抜け落ちている。それは、明治天皇がここに玉座をしつらえて、漕艇を見た所以である。明治天皇は単にボートレースを見学したのではない。海軍の軍人が訓練の一環として、漕艇競争をしているのをまじかに見て、励ましたのである。この説明は戦後の常として、このような軍事的側面がすっぽり抜け落ちている。もちろん隅田川レガッタのはしりともいえるのではあるが。

 

 次は同じ場所に最近新しく建てられた記念碑である。

 隅田川ボート記念碑建設委員会なるものが建てた、記念碑である。明治以来と書かれてはいるものの、玉座の場所であったことはおろか、海軍の訓練場所であったことは微塵も触れられてはいない。そうであろう。委員長は東大ボート部OBの半藤一利氏なのである。この記念碑は、学生ボート競技の記念碑なのである。次の写真には、読みにくいが明治以来、現代にいたるまでの、隅田川のボート競技の歴史がつづられている。しかし、明治天皇が玉座を4回も置かれたことは省かれ、昭和16年には玉座の記念碑が設置されてことも書かれていない。否。無視したのである。

 

 次に奇妙な破壊された碑があるのを紹介する。昭和16年11月とある日付は、明治天皇の玉座の記念碑が建てられた日付である。ところが、左のタイトルが、ノミか何かで見事に削られている。隠ぺいしたのである。目を凝らして跡をたどると「隅田川聖蹟顕彰會」となんとか読める。つまり本来は最初に紹介した「玉座の記念碑」とペアになるはずである。その痕跡を破壊しようとしたのである。

 

 これが全景であるが、何と二本の支柱が錆びたボルトで結合されている、という無残なものである。次に背面を見よう。

 四文字が書かれているが、破壊されて判読できない。ところが左の小さな文字は破壊されていなかったから、判読できたのである。曰く。

 隅田川聖蹟顕彰會幹事海軍中将有馬寛謹書

 とある。想像するに、GHQあたりの眼を恐れて、この碑を破壊しかけたのである。しかも、元々は最初の玉座記念碑とペアであったのであろう。それが、海軍中将の名前があった故に、泣き別れさせられたのである。想像するに、と言ったが、東京都内の神社には、たまに昔彫られていたものをノミで破壊した形跡のあるのを見ることがある。大抵は揮毫したのが軍人なのであろう。勝てば官軍負ければ賊軍、日本人の心の退廃の象徴のひとつであろうと、長々と紹介した次第である。以上のように、玉座阯と有馬中将による碑が分離せられた経緯を知る方は、教えていただければ幸甚である。

 小生思うに、明治天皇が海軍の漕艇競争を天覧されたのは、日々お国のために訓練する軍人の努力を励ますと言う意味があったはず。そのことは、天皇時代の現上皇陛下が東日本の震災のお見舞いにいかれたり、南方の戦地に追悼の行脚をしたことと通底するものと考える。震災へのお見舞いを称揚する一方で、天覧の碑の一部を損壊するという行為に出たのを見ると、日本人もさもしい人も出るようになったものだと、嘆かわしい思いがする。


玉ノ井異聞

2020-05-08 17:26:47 | 東京の風景

 以前の話だが、平成27年9月26日のテレビ番組の、アド街ック天国は、向島百花園だった。9月半ばに萩のトンネルがピークで、見に行ったばかりなので、期待していた。東武線の東向島駅下車で、番組でも紹介されていたが、旧駅名は玉ノ井である。玉ノ井といえば永井荷風が通って、墨東奇譚の舞台となった、往年の花街である。

 東武線、東向島駅(当時玉ノ井駅)

 

ここは、玉ノ井の近く、墨田区の鳩の街である。ここも玉ノ井と同じく花街だったが、売春防止法施行とともに普通の商店街に生まれ変わったのである。

 

 歌手の木の実ナナが、地元だと言って話し出した。近所に玉ノ井の女郎が住んでいたのである。ご出勤のときは、真っ赤な口紅を塗って出ていくのが羨ましくて、早く大人になりたい、と思ったそうである。

それが昭和30年代の売春防止法の施行で、花街が閉鎖になる当日の話である。閉鎖の時間になると、蛍の光の音楽が流れてきて、ご近所の女郎たちが泣き出した、というのである。性風俗を全く知らない小生でも、ホロリとくる話である。嫌な職業から解放されるなら泣く者はいまい。この逸話だけで日本の女郎、すなわち売春婦がいかなる身分か分かる。

 女郎は決して性奴隷ではない。日本に奴隷がいたことはない。米国にまで行って慰安婦を性奴隷と言いつのる、反日日本人はよく考えるべきである。米国人は、奴隷が人間扱いされない、如何に悲惨な人たちか、歴史的記憶があるはずである。まして性奴隷とは奴隷の中でも最低である。性奴隷と言う言葉によって米国人に日本人は残酷な民族だと言う間違いを広めると同時に、いいつのる自分自身をも貶めていることに気付かないのである。おそらくこれら日本人は、性奴隷と言う言葉を、もののたとえとして使っているのに過ぎない。彼らにとっては、現代の性風俗嬢も彼らにいわせれば、「性奴隷」なのである。これほどの言葉のすれ違いもなかろう。

  永井荷風は向島界隈の女郎部屋に入り浸っていた。荷風が晩年、現金と預金など金融資産一切を入れた鞄を常に持ち歩き、その鞄を落としてしまったと言うエピソードは有名である。小生がママチャリで玉ノ井周辺をうろうろしているとき、なぜかスーパーに、その事件の詳細を記したパンフを見つけたのである。総額二千万円余の落とし物を、占領軍米兵が発見して届け出て、多額の返礼を期待したら、数十万しかもらえなくて吝嗇にあきれて憤慨した、というようなエピソードが書かれていた。

 戦後も玉ノ井周辺の娼家で散財して、年老いてからは娼婦たちから、金回りのいいお爺ちゃんと好かれた荷風は、結局、今ならば何億のカネを鞄に常に持ち歩いて残して、孤独死したのである。遊び人永井荷風の面目躍如と思う次第である。荷風の遊びは半端ではない。若い頃落語家に弟子入りして、朝寝坊夢之助の名で一年ばかり高座に上がっていたのを、親にバレてやめさせられたことさえあったのである。小生は漱石全集と、二葉亭四迷全集は読破したが、荷風は読みたいと思いつつ文庫本で済ましているから限界がある。終生鴎外の漢籍を師として博識に依拠した、永井荷風の現代口語文は、鴎外漱石をも越える名文と思うのある。はて玉ノ井から脱線しました。丁度時間もよろしいようで。

 


忘れられた碑(表忠碑)

2020-02-12 16:26:45 | 東京の風景

 隅田川の両国橋を渡れば、この巨大な碑がいやでも目につく。久しぶりにママチャリで両国橋を渡ったのである。しかし、この辺りには、隅田川や両国橋についての観光案内看板はあるが、表忠碑に関する説明はない。それどころか、近くに建てられたエリアマップにさえ、表忠碑の記載はない。忘れられた碑、と嫌味を言う次第である。

 

 だから、表忠碑の意義を知るには、碑自体に刻されたものを読み解くしかないのである。漢字は全て現代表記とした。碑の表の文字を墨書したのは、日露戦争の英雄の大山巌元帥である。

 

 碑の裏の頂点には「明治三七八年役戦病死者」と大書されている。当時は日露戦争を明治三七八年戦役などとも言いならしたことが分かる。

 

 その下には、「本所区陣没者弔魂祭兼凱旋軍人歓迎会 会長 海軍中将 榎本武揚」とある。いわば、この碑は当時の東京市本所区からの出征者の栄誉を記念するとともに、戦没者を弔うために建てられたものである。榎本武揚は当時は隣の向島区(今は本所区と合併して同じ墨田区となった)に住んでいたから、その縁であったのだろうか。

 

 このような碑を見るたびに、戦争に関する記念碑は、現代日本では故意に無視されている、ということが悲しい。厄災を故意に忘れてしまおうとする者は、再び同じ厄災に会うであろう、というのは小生が勝手に発明した箴言であるが、箴言が正しからざることを祈る。

 


醫學士須田君之碑

2019-12-22 15:54:13 | 東京の風景

 隅田川のほとりにある、名前も隅田川神社がある。ほとりと言っても、高速道路などに遮られているので、隅田川が背景に見えないのが残念であるが、ともかくも隅田川神社である。「隅田川神社」と書かれた石柱の文字は、日本画家の伊東深水の書によるものだと神社の人に聞いたが、不思議なことに深水の名前は刻してはいない。その近くにこんな碑がある。すぐ近くなのだが、鳥居の外なので、神社の外なのであろう。

 やたらに背が高く目立つのだが、観光地によくある、碑の由緒などの看板は一切ないから、内容は漢文の碑文を読むしかない。漢文の素養のない小生でも、大まかな意味は理解できた。それを書き下して大意を読んでみた。不可解なのは同じ字でも略し方が違ったり「従」は旧字ではなかったりすることである。また、漢文不如意の故に、何行か訳出できないところもあった。神社の人が、石碑は水をかけると写真で文字がはっきり写る、と言って親切にも水をかけてくれた。

碑文の大意は下のとおり。

 東京には、医者は数百あるが須田君は眼科で、評判を聞いた客が毎日争うようにして来る。

 須田君の名は哲造で幼名を哲三郎と言う。信濃の国の伊那郡福与村に生まれ、本姓は細井であるが、徳島藩医須田経哲氏の養子となり、初めは漢方医学を学ぶが、その後西洋医学書を学ぶ。

 慶応二年江戸に出て、明治初年に官立医学校で英書を学び、数か月で教官補に推薦されたが君は固辞した。

 明治四年独逸医学の官位を得、明治九年医学士となり、大学東校教官となる。明治十一年広島病院に転じ、医学校長を兼任し、医学生に名声を得た。

 三年を経て、明治十五年に帰京し、大学校の助教に任じられた後、十九年には辞職し、小石川春日町に病院を開くことを許可された。眼科に優れ手術機械も10数種を保有していた。

 君は嘉永元年八月二十日に生まれ、明治二十七年四月二十五日に享年四十七歳で没す。

 

 誤読もあるとは思うが、大意はこんなもので間違いはなかろう。その後に四言の漢詩が八句続くが、小生には全く読み解けない。五言の絶句とか七言の律詩などというが、その手で言えば四言の律詩というのであろうか。

 実は小生が注目したのは「陸軍軍医総監従三位勲功三級男爵石黒忠悳」とあったことである。石黒軍医総監と言えば、他でもない鴎外・森林太郎がドイツ留学時にドイツ娘と恋に落ちた時の上司で、結婚してはならぬ、と命じて生涯鴎外に恨まれた人物である。その石黒が、地位に拘泥せず市井の医師とならんとして早逝した、優秀な医師のために碑文を書いたのである。

 鴎外は、ドイツ娘との恋に職を捨てて投ぜんとしたが、石黒と母に恫喝に等しい説得を受けて恋を捨て、軍医としての立身出世に邁進したのである。鴎外の恋を禁じた酷薄な石黒をのみ想像していた小生は、これを見たとき不思議な感慨にとらわれ、敢えてくだくだと読めもせぬ漢文を読みくだしてみたのである。

 

このブログに興味をお持ちの方は、ここをクリックして小生のホームページも御覧ください。


東京の災害の碑

2019-10-31 22:05:53 | 東京の風景

 東京都内には、結構、災害の碑が多い。しかも古いものは小生の知るものでも江戸時代に遡る。意外に思われる方も多いかも知れないが、東京の地も数々の災害にみまわれていたのである。小生の見た碑の災害とは地震と津波とそれから空襲である。空襲を災害に入れるのは意外に思う人があるかも知れないが、一晩に10万人の死者を出した東京大空襲は、被害者にとっては理不尽な災害そのものであったのに違いないと思う次第である。

 東日本大震災の後には、災害の痕跡をどのように残すかという議論がなされた。それならば、先人が残したこれらの災害の碑も、もっと大切にされてもしかるべきであろう。というのは、これらの碑の多くは、辛うじて近隣の人たちの好意で保存の努力がなされているだけで、碑の説明文すらないものが多いからである。ここに紹介するのは、そのほんの一部である。

①波除碑:江東区牡丹三丁目の路傍にある。寛政三年の深川辺を襲った津波の碑であるが、空襲と震災による損傷が激しい。

 

②波除碑:江東区木場洲崎神社内にある。①と同じ津波の碑であるが、幕府はこの周辺を買い上げて空き地とし、ここより海側に住むことを禁じたが、その後人々は忘れ、住宅密集地となっている。この碑は都指定の文化財となっており、比較的詳しい説明の看板が設置されている。しかし、肝心の碑は破損して何だかよく分からないのが残念である。

③大正震火災横死者追悼碑:隅田川の白髭橋上流の東白髭公園東北の道端に、日露戦争の記念碑、朝鮮の壬午事変出征の碑とともに何の説明もなく建っている。看板等はないが手入れはされているようで状態は良い。このあたりは、東京大空襲の被害を受けていないと見えて、三つの碑には焼損の痕跡がないことが幸いである。

 これらの3つの碑は身の丈の倍くらいある巨石から削り出したものであるが、ここにまとめられて建っているのは偶然ではなく、何らかの折に近隣から移設してまとめたものと推定するが、残念なことに碑の説明すらないので、皆目見当がつかない。東日本大震災の碑を大切にするのと同様に、これらの碑も大切にすべきと言いたくなる所以である。

④東京大空襲の碑:隅田川の言問橋右岸の北側たもとにある。言うまでもなく、昭和二〇年三月十日の東京大空襲の犠牲者慰霊の碑である。御覧のように、いつも献花などがされているのには感心する。

 

 


正義の女神

2019-07-12 23:58:52 | 東京の風景

時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には
また理性が虚偽から
その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを
要求するであろう

 このせりふをテレビで見た記憶のある人は、それなりの年である。最近リメイク版が出たが、テレビの連続ドラマ「逃亡者」の最初か最後に必ず、このせりふが出てくる。話はご存知のように、妻殺しの冤罪を受けた医師が、逃亡して犯人を追い詰める、という話である。

 つまりこのせりふは、冤罪はいつか晴れるといいたいのである。そこで上の写真である。靖国神社の比較的目立たないところにある「パル判事」の碑である。パル判事は東京裁判で、米軍に訴追された日本の指導者に全員無罪の判決を下した人である。

 その判決書の最後に書いてあるのも、この文章であり、碑には和英両文が刻まれている。朝日新聞などはパル判決のことを、単に法的に裁けないというだけで、パル判事は日本軍を道徳的にも無罪としたわけではない、などとパル判事の息子まで利用して主張している。

 朝日新聞の主張が見当違いなのはこの碑文でも分かる。パル判事は日本の指導者を勝手に裁いたこの裁判を、熱狂と偏見により正義が失われたといっている。東京裁判そのものに怒っているのである

 当然である。植民地インドの住民として、インドが独立するかしないかの瀬戸際である。アメリカにもイギリスにも怒っているのである。それにしても、二日の発効停止で米軍に犬のごとくしっぽを振った朝日新聞に対して、決然と無罪を主張したパル判事の勇気は稀に見るものである。

 朝日は戦前は軍に媚を売り、負けると米軍に媚を売り、次はソ連。ソ連が怪しくなると中国様と、次々に強きものに平身低頭して恥じない、朝日新聞はジャーナリズムだろうか。ちなみに「日本軍を道徳的にも無罪としたわけではない」ということは実は後日、パル判事自身が述べた言葉でもある。パル判事の息子は、そのことを繰り返したのに過ぎない。この言葉はパル氏の法律家としての誇りを言ったのである。
 


亀戸水神様に残された惨劇の跡

2019-07-03 00:19:06 | 東京の風景

このブログに興味をお持ちの方は、ここをクリックして小生のホームページも御覧ください。

 亀戸天神様は有名です。しかし亀戸水神様は中々ご存じないでしょう。場所は東武亀戸線の亀戸水神駅下車です。そこから東京スカイツリーまで、乗車時間15分余りの便利なところにあるのです。しかし、亀戸水神駅のホームには、ここは亀戸天神ではありません、亀戸天神に行くには亀戸駅下車です、と書かれています( `ー´)ノ。マイナーなのです。水神様には鳥居と社殿はありますが、無人の神社です。

 しかし、この駅から徒歩20分あれば楽に亀戸天神様には行けます。さて亀戸水神駅で下車してしまって、亀戸天神に行くには、果たして再度電車に乗るべきか、歩くべきか、思案のしどころです。

 さてこの無残な写真は「水神森若人の歌」の碑です。水神様信仰を素朴に歌ったものです。赤茶けているばかりでなく、子細に見ると、角が破壊されて三角になつてしまい、碑の名前がかろうじて残っています。これは、昭和20年3月10日にB-29爆撃機が行った、10万人をこえる無辜の民衆を焼殺した東京大空襲の惨劇の痕跡です。東京都内には、注意すれば東京大空襲の痕跡は至る所にあります。古い石碑が赤茶けていれば、空襲で焼けたものと考えて間違いないのです。日本人は、広島・長崎の原爆投下の被災とともに、心に刻むべきでしょう。

 ちなみに3月10日というのは、日露戦争の奉天会戦でロシア陸軍に勝ったことに由来する、「陸軍記念日」です。この日を選んで大惨劇を起こしたアメリカ人の執念たるや凄まじいものです。小生は日米同盟堅持を主張する者ですが、このような事実は忘れ得ません。海軍記念日は5月27日ですが、この規模の空襲はおこなっていません。精強日本陸軍憎し、の心根が伝わってきます。戦後「海軍善玉論」がまかり通った淵源のひとつでもありましょう。

 


アキバです

2007-09-16 14:12:24 | 東京の風景



 後楽園ホールの寄席に行った帰りに、例によって秋葉原の電気街で降りました。もちろんメード喫茶のちらし配りのおねーさんです。今日は休みだけあって、10人くらいたむろしていました。

 以前はただちらしを配り、オタクのにーちゃんと会話するだけだったのですが、最近では写真を撮らせます。最初はカネをとるのかと思っていたのですが、そうではありません。

 でも写真をとったにーちゃん、おじさんは大抵律儀にちらしをもらっていきます。そこでおとーさんもデジカメぱちり。もちろん、ちらしももらったのです。コメントをひとつ。メードコスプレは何といっても色白が一番。元ガングロ風はちょっと・・・。でも今日も暑かった。


靖国神社みたままつり19

2007-07-14 21:16:20 | 東京の風景

 今日は平成19年7月14日。知る人ぞ知る、靖国神社のみたままつりの2日目です。提灯は献灯。1ヶ一万円なりです。で、境内にいくとぼんぼり。右のが小林よしのり、左が横綱朝青龍の直筆であります。

 靖国神社のまつりといえば、知らぬ人は硬い行事だと思っているのでしょうが、実態は違います。実態は単なる典型的な日本の夏祭りです。はやりの、はにわの姉ちゃんや、ハイソックスのへそだし姉ちゃんもごろごろ。

 クライマックスは、みこしではなく芝居小屋、今年は蛇女はいませんでしたが、見世物小屋はありました。ただし、おばけ屋敷は本日雨天のため中止。祭が好きな人行くべし。ちなみに、みたままつりは16日までです。