毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

石平氏の誠

2021-05-27 15:29:23 | Weblog

このブログに興味をお持ちの方は、ここをクリックして小生のホームページも御覧ください。世界中のどんな評論にもない奇想天外・荒唐無稽な中国論があります。

産経新聞の平成22年11月23日に曽野綾子氏が書いている。昔の週刊朝日に歌手の加藤登紀子氏がのせた文章である。

 日本という言葉を発するときに、たえず嫌悪の匂いが私の中に生まれ、その言葉から逃れたい衝動にかられる。 

というのだ。加藤氏は日本に誇りを持てないどころか嫌悪すると書いているのである。ところが加藤氏は知床旅情などの、いわゆる日本情緒のあふれた歌を歌っている。私にはここに不誠実を見る。日本にいて日本の歌を歌い、豊かさを謳歌していながら日本に嫌悪を感じている、と言うのだ。これは本心だとは思われない。何故そんなに日本が嫌なら日本にいて日本の国籍を持って日本人として生きているのか、としか言いたくなるではないか。

 加藤氏とは対照的な人物がいる。日本で言論活動で活躍している韓国系の呉善花氏と中国系の石平氏と言う二人である。二人は多年日本で日本人の立場を擁護する言論活動を繰り広げてきた。しまいには自分の出自である韓国や中国の人たちの民族性に疑問を呈するような発言に至ってしまった。これは日本を忌避する加藤氏と同様に祖国を忌避するにいたったのである。だがそこからが加藤氏とは違う。

 とうとう彼らは日本に帰化したのである。つまり日本人になったのである。それはそうであろう。まともな理性があるならば、祖国をあれだけ否定して平然とその国の人でいられようはずがない。私は必ずしも両氏と意見が一致するわけではない。しかし彼らは思想家としても人間としても真似が出来ないほど誠実なのである。翻って日本の自虐史観の人たちは、自国を否定する言動を繰り返しながら平然と日本人でいる。不誠実の極みとしか言いようがない。あるいは加藤氏のために弁じれば、週刊朝日での発言は、そのことがあたかもカッコイイようだったと思えての若気の至りでの発言であって、現在はそんな心情は持っていないのだろう。だから日本人として平気で生活しているのだろうと好意的に解釈してあげよう。


アカボシゴマダラ夏型

2020-05-22 20:29:52 | Weblog

 クラキンさん(自己満足日記)が、珍しいアカボシゴマダラの春型の写真を載せておられたので、小生が4年位前、神田川沿いの江戸川橋の緑道で見た、アカボシゴマダラの夏型の姿をのせます。蝶には、オスとメスの区別の他に、春型、夏型、秋型、のように季節による分類があります。通常は、ツマグロヒョウモンやウラギンシジミのように、オスとメスで色や模様が違う場合が多く、春型、夏型、秋型の区別では、大きさだけが違う場合が多いようで、アカボシゴマダラのように、季節によって模様が違う場合は少ないと、小生は思っております。

 ところで、小生が見たのは10月でしたので、実は秋型で、夏型と秋型は模様が同じなのだと思います。東京は都会の割には緑道公園など、案外緑が多いので、蝶が見られるのです。先日も近所の公園をジョギングしていたら、アオスジアゲハがコースをよたよた歩いていて踏みつぶされそうだったので、木の葉の上にのせたら、間もなく飛んでいきました。多分サナギから蝶になったばかりだったのでしょう。

 アカボシゴマダラは確かに珍しいのですが、緑道公園など緑のある場所を一時間も散歩していれば、4~5種類の蝶は見られるものです。例えば、ヤマトシジミ、モンシロチョウ、モンキチョウ、あとはカラスアゲハのたぐいなどはどこにでもいます。注意して観察すれば楽しいものです。

 


書評・売国奴・黄文雄・呉善花・石平 ビジネス社

2020-02-16 20:31:56 | Weblog

 売国奴とは皮肉なタイトルを付けたものである。呉善花と石平の両氏は、祖国の痛烈な批判をし日本を擁護しているからである。だから当時は祖国からみれば売国奴と言うべき人たちであった。このタイトルの真意は別なところにあるのだろう。三氏とも嫌いな日本人の筆頭に大江健三郎をあげている。大江は民主主義以外の一切の価値を認めないと国内で公言しながら、北京にいくと非民主的なことや人権侵害を批判せず、民主主義を一言も言わない。それどころか、民主主義を弾圧するボスの前でおそろしく媚を売っている。石氏は父親が共産党や毛沢東の乱脈政治で苦しんでいたのに、朝日新聞は毛沢東礼讃、文化大革命礼讃をしていたと憤る(P187)。彼らが真の売国奴であるというのだ。

 中国では汪兆銘などのように、人民のために平和を求めた人が歴史上売国奴と呼ばれるから平気である、と石氏が言うのに対して呉氏は、意識の上ではやましさを感じていなくても、売国奴だと言われると、自分が虫けらであるかのような気持ちになってしまうような気持ちになってしまうのが韓国人である、と言っているのは切ない。

 その後石氏も呉氏も日本に帰化した。当然であろう。祖国の民族性自体を信じられなくなって日本人の人間性にしか信頼をおけないのであれば、それが最も人として誠実な行為である。日本を侮蔑しながら、日本国籍を捨てない大江健三郎の不誠実さとは真逆である。両氏が祖国に決別したのには深い思いがあろう。今の中華人民共和国という国家自体に正当性がないと思い、個人としても中国人としても今の中国を決して自分の国とは思っていない(P43)。また、石氏は日本人か中国人か、と聞かれると関西は落ち着ける場所で、「私は関西人です」と答える(P167)。だから当時の石氏は、まだ祖国を捨てたのではなく、中共という体制を否定していた段階で、まだ中国と日本の中間の関西という場所にいたのであろう。

 この書の多くはメンバーからして日中韓の比較論である。中韓に共通点が多いのに対して、大抵の場合日本は異質である。中韓は父系血縁共同体で農耕村落を形成していたのに対して、日本は父母双系の非血縁で血統ではなく、家の存続を目的とする疑似血縁社会であるという(P29)。私事であるが私の実家は、つい最近までの数百年間、田植えや冠婚葬祭は特定の血縁グループだけで行っていた。労力だけではなく金銭も互いに出し合う濃密な血縁コミュニティーであった。甚だしい場合は近隣の二軒の家で婚姻を続けている場合さえあった。今考えてみればこのコミュニティーは私の生家を本家とする同姓だけの親族であったから、日本では例外の血縁共同体であったのに違いない。

兄も私もこのコミュニティーから逃げる事ばかり考えて、その心理から未だに近隣のコミュニティーに参加することを嫌っている。深読みすれば日本人として最も不自然なコミュニティーを本能的に嫌っていたのではなかろうかとも思えるのである。実際このコミュニティーは、付き合いは極度な濃密な関係にありながら、精神的には各家ごとに仲たがいしていた。やはり日本人の精神風土には合わなかったのだろう。ある資料を調べたら、我が家の祖先は主君が戦争に負けたために元の領地に逃げ帰って定住した、とあるから一種の落人であったのに違いない。防衛本能から周囲から遮断して一族だけで生活すると言う不自然なコミュニティーを形成したのである。

 閑話休題。中国と韓国の共通点は、建前は儒教的な血縁の倫理道徳でありながら、モラル崩壊によりお金のためには血縁すら騙すのようになったという(P141)。石氏はそれどころか中国では血縁から騙す(P143)と言っている。特に中国は毛沢東が倫理道徳を破壊した後に鄧小平が資本主義を導入した。だから西洋がプロテスタンティズムの精神が、日本では武士道精神が資本主義の倫理を支えているのに、中国では騙し合いの資本主義になってしまった(P143)というのは理解できる話である。

中韓の反日には、道徳的には両国が上だから反日になる、という共通点があるものの、根本的に違う部分が多いという。中国では元々共産党に正統性がない上に、天安門事件で学生たちを多数殺して弾圧して、共産党に対する信頼が完全に失墜したから、その後政権についた江沢民は愛国主義を高める必要があり、そのために反日を利用した(P197)というのが石氏の見解である。だから共産党政権が崩壊して言論の自由を回復して、嘘から作られた反日がばれれば、時間はかかるが反日は消えるという(P219)。

韓国の場合は、民族主義そのものが反日の原因だから、民族主義がいらない国家システムができるまで続くと呉氏は言う。経済力が日本を超えれば蔑視は残るが反日は少なくなるという。本当に反日を捨てるのは、日本の敗戦に相当する大敗北をする時であろう、ともいう(P219)。いずれにしても両国に共通するのは、反日が国益に反するようになれば反日はおのずと減る、ということは日本人は理解しておいた方が良い。また、毛沢東・周恩来・鄧小平らの世代は日本と戦った経験があるから日本の凄さが分かっており、当時の江沢民は知らない世代である(P204)。そんなことにも反日の根底にあるのだろう。だが現在の習近平は反日を都合により適当に使い分けている。それが支那人の本質であろう。

朝鮮には伝統的にハヌニム(天様)という唯一絶対神に似たものがあるから一神教のキリスト教を韓国が受け入れやすい(P147)、という指摘は中国とも日本とも異なる事情である。

韓国は外国を侵略したことがない、という韓国人についての呉氏の見解は面白い。李氏朝鮮時代には、対馬侵略の計画があり、元寇のときにも朝鮮は大々的に派兵した。また、済州島にたてこもって、日本の協力でモンゴル軍と対決しようとした高麗の武人を高麗朝はモンゴルと一緒に攻め滅ぼした(P119)などというのは侵略以上の恥ずべき歴史である。その時日本が頼られていた、というのは面白い事実である。現実にはその後の韓国は日本の竹島を敗戦のどさくさにまぎれて侵略した。これが朝鮮人というものである。

ハングルというのは作られた当時からの正式名称は「訓民正音」と言い、漢字を知らない民衆でも使える文字として出あったが、知識人は侮蔑して四百年間使われていなかった、とここまでは良く知られている。しかしハングルという言葉自体は日本統治時代に作られたものである(P137)というから呆れる

中国にもインチキな話はある。現在の中国では中国人は黄帝の子孫だと言っているがこれは日本が明治維新を成功させたのは、万世一系の神話が重要な役割を果たしたので、清朝崩壊以後に民族のアイデンティティーを作るため日本の真似をしたと言うのだ(P60)。確かに石氏の言う通り、中国は易姓革命の世界で、新王朝は歴史を書き改めて自分たちの祖先を始祖としていて、旧王朝とは断絶している。王朝間の歴史は断絶しているから、遥か昔の皇帝が自分たちの祖先であるなどということは清朝以前は考えてきていなかったのである。中華民国にしても滅満興漢のスローガンのもとに異民族王朝を否定するところから始まったのだ。つまり中国は変質したのだ。檀君神話というのも同様なのであろう、というのも理解できる。


重光葵・連合軍に最も恐れられた男・福富健一・講談社

2019-11-22 20:31:46 | Weblog

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 現実的に見れば、連合国から云々という副題は適切ではなかろう。連合国が敗戦国の政治家を恐れようもないし、本人もそんなことに価値を認めない人物だろうからである。ともかくもこれだけ外交官として適切な日本人はなかなかいない、という著者の称賛は当然であろう。マッカーサーが軍政を敷こうとしていたのを止めさせた(P28)というエピソードは、よくてせいぜいうまくGHQと妥協する、というのが当時の日本人の最善策であった実態に比べれば画期的な事である。

 この本には重光の矜持と拮抗する西欧のエピソードがいくつか書かれている。このようなことは支那や朝鮮では考えられないであろう。例えば、第一次大戦で日本の英国船団護衛で殉死した66人の日本兵の名前がマルタ島の英海軍基地の墓碑に刻まれている(P79)という話である。反対に宋子文、王正廷、顧維欽ら戦前の中華民国外交官は中共が成立すると外国に逃れそこで客死している、という支那の冷たい現実がある。

 重光は幣原喜重郎の軟弱外交とは違っていたが、「当時の中国は群雄割拠の状態にあったが、北京政府は馮玉祥の軍隊を背景に段祺瑞がかろうじて政権を保持していた」(P96)というのが支那大陸の実情であって、国際連盟に登録されていた中華民国というのは、誰が首班の政府であったのか不明である、という当時の支那の実態を記憶しておくべきである。

 ワシントン条約体制について、幣原外相は忠実に守ろうとしていたが、重光は、この体制が事実より理想を求めたものであり、支那の共産勢力が排日を激化させていたこと、英米の目的は支那に進出した日本を妨害する目的であったことから、ワシントン体制は有名無実だと考えている(P98)。このことは九カ国条約のワシントン体制違反を口実に日本を弾劾した東京裁判と真っ向から対決するものである。

 日本人が大陸で心底から貢献した事実も示されている。福民病院は、日本人医師の頓宮寛が国籍・人種を問わず人命を救う事を理想とした病院である。頓宮は五ヶ国語を話し、魯迅とも親しく、魯迅の妻はここで出産している(P149)。こういった日本人の献身は例外ではない。日本の侵略を宣伝する中共はいかに非人間的な政府であろうか。それに騙される現代日本人はいかに愚かであろうか。平成24年の尖閣国有化の際の中共政府が行った、民衆による反日暴動の野蛮な行動を見てもまだ目が覚めないのであろうか。

 吉田茂を重光と比較して、戦略がない、として経済優先の短期的戦術には成功したが、アジア解放を志向した重光のような戦略がない(P171)として憲法改正による再軍備をしなかった吉田を批判するがその通りである。未だに憲法改正をできず在留邦人の海外救出すらできない日本の現実を考えれば、吉田路線による高度経済成長はあだ花にすぎない。それどころか経済大国への執着が国民精神の堕落さえもたらしている。

 共産主義については、初めより無理ある理論の実現に直進するのであるから、目的達成のためには手段を選ばぬことになる。共産革命は、常に闘争の観念がともなう(P173)、という。そして筆者は「西ドイツの憲法裁判所は憲法を破壊するような政党の結社はできないという理由から、共産党の活動を禁じた」と西独のアデナウアーが吉田に語った言葉を紹介している。観念的な日本の結社の自由など本当は意味をなさないことを論証した言葉である。GHQが共産党を容認させたのは日本を弱体化させるためであって、自由主義の普及のためではない。

 吉田批判はまだ続く。重光が一時的にしろ英国の援蒋ルートを閉鎖させることができたのに対して、英国政府が吉田駐英大使の構想に次第に懐疑的になったことを紹介して、外交官の加瀬俊一が「ハムレットはいつしかドンキホーテになった」と酷評しているのを紹介している。平成24年にも「負けて勝つ」と題してNHKが吉田を持ち上げたドラマを作った。GHQ路線を走るNHKがよいしょするのだから、吉田の功績は推して知るべしであろう。

 広田内閣が、軍部大臣現役武官制を復活させたのは、二二六事件の関係軍人を予備役に編入させ軍への関与を排除させるためであった、と単純に書いている(P207)。軍部による同制度復活のための口実だとするのが一般的であるが、軍を悪者にするための勘繰り過ぎないのかも知れない。重光は軍部が日本を支配して日本を破滅に追い込んだ、という史観を持たない

 重光の最大の功績は、やはり大東亜会議を構想実現したことであろう。会議ばかりではなく、実現しなかったが大東亜国際機構という組織まで構想していた。筆者も特筆しているが、これを最も支持したのは東條首相であった。小生が東條を単なる有能な官僚だと考えないのはそのためである。東條は重光と同じくきちんとした歴史観があったのは、東京裁判の宣誓供述書が如実に示している。資料もないどころか筆記具の入手にすら苦労した牢獄の、極めて不便な条件であれだけの歴史観を語れるのは今でも多くはいまい。

 大東亜会議に関連して英国がアジアをいかに分断支配していたかも語られている。植民地ビルマは英国人、インド人と中国人、ビルマ人の三階層に分けて支配し、搾取されるビルマ人の怨嗟はインド人と中国人に向けられるシステムを作った。このため大東亜会議はビルマとインドの関係を考慮しなければならなかったのである。日本にビルマから放逐されたイギリスは、インドのベンガル地方を食糧徴発し、数百万の餓死者を出し、ナチスのごとき大量殺人を行った(P246)。現代日本人は日本の行った植民地解放までの、欧米の植民地支配がいかに残忍で非道だったかを認識すべきである。彼らが宗主国を非難しないのは世界で欧米の力がまだ圧倒的に強いからに過ぎない。

 歴史学者のトインビーの「第二次大戦において、日本は戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である(P253)」という大東亜会議についての言葉を紹介している。日本がアジアを解放した、というのは夜郎自大ではない、日本人が誇るべき事実である。この意識を多くの日本人が共有しない限り、経済的繁栄はあり得ても国際社会における日本の存在感はない。

 


カタカナ語の乱用

2019-11-03 21:48:25 | Weblog

 幕末以降、西欧文明が入ると日本人はそれを漢字で表記してきた。経済、哲学などなど数えたらきりがない。ところが最近の日本人専門家はそれを怠りはじめているように思われる。その典型的な例が倉山満氏の「2時間でわかる政治経済のルール」という本に示されている。

 「地政学の五つのキーワード」(同書P38)を見てみよう。地政学の理解で重要な五つの語を挙げている。アクター(関係国)、パワーズ(大国、列強)、ヘゲモン(覇権国)、チャレンジャー(挑戦国)、イシュー(争点)である。倉山氏はこれを列挙した上で次のように述べる。

 「日本語があるなら何もわざわざカタカナにする必要はないと言われそうですが、馴染みのないカタカナ語のほうが、一般的によく使われる日本語より地政学用語として規定された概念を表現するには適しています。例えば「アクター」は主体性のある国のことで、国家としての意思や能力のない国はアクターではありません。「関係国」と言う言葉は普段から使っている一般的な単語なので、漠然と「関係している国全部」と考えがちですが、「アクター」と言うことによって、その混用が避けられます。・・・」として残りの四つの用語も説明がされている。

 日本人なら、一瞬なるほどな、と思うであろうが、よく考えるとこの説明は実に珍妙なのである。これらの概念は欧米人によって作られたものである。その欧米人の立場に立つとどうなるか。いや高校生程度の英語の知識があれば、ヘゲモンを除く四つの言葉は、一般的な英単語として知っている。ましてや英語のネイティブの人間ならば、例えばアクターという言葉は多義に渡り「「アクター」は主体性のある国のことで、国家としての意思や能力のない国はアクターではありません。」ということは、そのような地政学的用語の説明を聞かなければ分からない。

 英和を引いても「俳優、役者、行為者」とあるから、欧米人にしてもアクターとだけ言われれば、「俳優、役者、行為者」など全然関係のないことを漠然と思い浮かべるだけで「その混用が避けられます」ということにはならない。要するに欧米人にとっても地政学上のアクターとはいかなるものか定義されなければ、役者などととんてもないことと混同されてしまうのである。まだ日本語の「関係国」の方がはるかにましである。

 日本人が専門用語としてカタカナ語を使うと意味不明だから、きちんと定義をしないと分からない、というだけのことである。小池都知事が、例えば「都民ファースト」などといって、簡単な意味のことをカタカナ語にして、偉そうに煙に巻いている、というレベルの話なのである。

 工学用語で、この例を説明して見よう。材料力学には、応力とひずみ、という重要な概念がある。いきなり応力、といわれても普通の国語ではなく材料力学用語だから調べるであろう。しかしひずみと言われれば、国語辞典にも出ているから、その意味だと誤解されるが、材料力学用語としては、きちんと定義しなければ分からないのである。手元に材料力学のテキストがないのでウィキペディアをひいてみる。次のような意味である。

 元の長さLの物体が荷重によって長さがℓに変化した場合、ひずみeは

 e=(ℓ-L)/L

 の式で表される無次元の数値であり、荷重が引っ張りの時eは正の値、圧縮の場合は負の値となる、というものである。ひずみは英語では、strainという普通に使われる言葉だから、欧米人にとっても定義がなければ工学上の意味が分からないのである。なお工学用語では「歪」という漢字は使わずに「ひずみ」と書く。

 ちなみに、応力の原語はstressだから日本人にとっても欧米人にとっても、「ストレスによって病気になった」などという場合のストレスと、工学上でストレスと言った場合には意味が全然違うのである。特に最近では、一般に英語での専門用語は造語せずに、原語の一般的な英語がそのまま用いられることが多いから、専門の範囲での言葉の定義をしないと、とんでもない誤解をすることになる。ところが、欧米の文明を取り入れた日本人の先人たちは苦労して、国語にない新しい翻訳用語を発明した。それが「応力」のような言葉となったのである。

 だからカタカナ語をそのまま使えば混乱しないで済む、などということがいかに珍妙か分かるだろう。ちなみにISO規格などの欧米発の規格では、まず最初にterms and definitionsと書いてある。これは「用語と定義」と訳される。つまり規格の最初には用いられる専門用語を列挙して、その定義を明確にする必要があるのである。

日本の規格や技術基準類もかなり前から、この方式を取り入れている。カタカナ語だから混用を避けられるのではなく、定義を明確にしなければ混用は避けられないのである。だから、地政学用語で「関係国」という言葉の定義を明確にしておき、英語ではアクターと言う、という説明なら筋が通るのである。

こんなことをくだくだ述べたのは、近年工学でも社会科学でも、果ては日常の言葉ですら、英語そのままのカタカナ語を使い、日本語に翻訳する努力を怠っている傾向が著しいからである。特にIT業界用語にはその傾向が甚だしい。昔の人はピストンエンジンの部品でも、英語をカタカナ語にしただけでそのまま使うのではなく、全て漢字に当てはめる努力をしたのである。クランクシャフトを曲軸と訳したのを、素直にクランクシャフトと言えば分かりやすいではないか、と揶揄する者すらいるから本末が転倒している。

 


侵略という言葉の二義性

2019-10-23 14:31:43 | Weblog

 平成27年4月14日の産経新聞の正論欄は古田教授の「『侵略』といえなかった朝鮮統治」であった。教授は、明治期までの李氏朝鮮はまるで平安時代のような古代の世界で、商業も技術も無きに等しい国家で、その状態が何百年続いていたと言う。併合した日本は近代化に成功したのだから「侵略」とは言えないという。教授の言うことは常識的には納得がいくものである。

 一方雑誌「正論」27年5月号で近現代史研究家の関野氏が、米国の贖罪史観植え付け計画のいわゆるWGIP(War Guilt Information Program)の文書を発見して実在を証明した。その中で関野氏は、日本の侵略をパリ不戦条約を根拠にするには、そもそも条約で侵略の定義がされておらず、当時のアメリカやイギリスの明示的考えからすれば、満州事変以来の日本の行動は「侵略」と見なすことができない、と説明している。

 一方では常識的に侵略ではない、と考えることができるという意見があり、他方では侵略など定義されていない、という意見がある。明らかに「侵略」には二義性がある。侵略が定義されていないのなら、侵略だと断言できないのである。それは古田教授が言うのは、国語的常識から言っているのであり、関野氏は国際法を問題にしているからである。それでは巷間で日本の近代史を説明するとき、この区別が裁然となされているのだろうか。実はそうではない。

 保守系の論者の一部には、大航海時代以降の欧米のアジア・アフリカの植民地支配を、苛酷な侵略と断ずる一方で、日本の満州事変以後の戦争を語るときは、侵略という言葉は当時の国際法で定義されていないのだから、日本を侵略国と断罪はできない、という主張をする人がいる。この混乱は侵略という言葉が幕末以来、欧米の苛酷な植民地支配を恐れ、かつ非難する言葉として使われるようになったため、国語的には道義的色彩を帯びたから、生じたように思われる。

 「侵略」には本来は他国を攻撃して領土を占領ないし、取ること、という物理的意味しかなかったはずである。戦国時代には日本国内では互いに侵略が常態化していて、他国の領土を取ることはむしろ善だったのである。有名な「風林火山」の「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」の侵掠は侵略と同義である(広辞苑)。泥棒一家ではあるまいし、悪事をスローガンとして押し立ててゆくはずはないのである。だから条約のwar of aggressionという先制攻撃によることを意味する言葉を侵略と訳したのは、本来の日本語の意味では間違いではなかった。だが既に一方で、日本人自らが道義的悪の意味を付与していたのだから、戦後になって自虐史観の立場から大いに悪用される結果となってしまったのである。

 それでは大航海時代以降欧米諸国が、世界各地を植民地を求めて荒らし回ったことは、国際法違反なのであろうか。そうではないのである

米国人ブロンソン・レーが書いた「満洲国出現の合理性」という本に1841年にジョン・キンシー・アダムスという米国人の国際法に対するコメントが紹介されている。

「国際法とは地球上の凡有る国家を一様に拘束する法則ではなく関係当事国の性質及状態の異なるに従って異なる所の法律制度である。基督教国の間に行はるる国際法がある。其の国際法は米国憲法に於て米国と欧州諸国及植民地との関係を律する上に於て米国の義務的のものとして認められて居る。其の外に亦米国と阿弗利加の土人との関係を規律する国際法もあれば、米国と野蛮国との関係を規律する国際法もあり、更に又「花の園」即ち支那帝国との関係を規律する国際法もあるのである。」(P25)と。

幕末に国際法を知った時、日本人の国際法理解は、アダムスの言う「基督教国の間に行はるる国際法」だけであった。正確にいえば「キリスト教国」間にだけ適用される国際法を「キリスト教国」でなければならないという前提を忘れて、世界中に適用されていると誤解していたのである。しかし、不平等条約を結ばされたことに気付くと、ようやく「国際法」にはキリスト教国、すなわち文明国と、非文明国に適用されるそれは異なる、ということを思い知らされたのである。

 非文明国においては国際法は、米国による、アフリカ黒人の奴隷化を正当化するものである。さらに米国の中南米支配を正当化するものである。もちろん適用地域が違っても欧州と野蛮国の間にも適用されるはずである。そして支那における欧米の権利を正当化するものである。

当時の国際法では、キリスト教国と野蛮国の区別がある以上、そこに住む住人も対等ではない。効率よく植民地から収奪するためには、植民地の人間は獣並に扱う必要がある。だから国際法の植民地の是認は、植民地支配が苛酷であるという道義的非難を拒絶している。

国際法の淵源は、ヨーロッパの国家間の戦争におけるルールであったことを忘れてはならない。国際法とは発生の過程からして、キリスト教国間のルールであり、その他には別のルールが適用されるはずであった。すなわち、文明国は非文明地域を無主の地として植民地にすることが当然とされたのである。しかし、大東亜戦争の終結と、それに伴うアジア・アフリカ諸国の独立によって、時代は劇的に変わった。

植民地の大部分は独立し、国際法には適用する国の「文明」のレベルによって同一ではない、などというダブルスタンダードは建前上はなくなった。世界に一律に同じ国際法が適用されることになったのである。そうである以上、帝国や植民地というものは国際法上、本来的には存在を否定されるべきものになったのである。

帝国のひとつであったソ連は崩壊した。倉山氏の嘘だらけの日露近現代史によれば、ロシアはソ連という帝国に支配されていたのであって、ロシアもウクライナ同様にソ連の支配下にあったのである。いわばソ連帝国の植民地といったところであろう。東欧諸国のほとんどはソ連の間接支配の植民地だったのだろう。そう考えれば非ロシア人即ちグルジア(ジョージア)人のスターリンがソ連の支配者だったことも、「ソビエト連邦」という地名や民族名を含まない奇妙な国家の名称だったことも理解できないわけではない。

ソ連が崩壊した後の帝国は中共だけとなった。漢民族と自称する人たちが、はるかに大きい面積の「少数民族」地域を植民地として支配する帝国である。昔から漢民族が支配する中原(中共の領土の一部)はその周辺の地域を含めて、統一と分裂を繰り返してきた。特に中原は、それ以外の地域とは異なったルールを勝手に作ってきた。従って欧米流の国際法など適用されるとは考えてはいないのである。

さて、侵略という言葉に戻ろう。現在の国語でいう侵略という言葉が道義的悪、の概念を付与されていることは、いまさら変更しようもない。一方で国際法上の侵略とは、時代によって国際法の変遷とともに定義が変化していったと考えるべきなのである。国際法上の侵略には、善悪の概念を含むべきではなく、その時代において禁止されていたものであったか否かだけを論ずるべきなのである。

もちろん禁止されるか否かには、理由として善悪が含まれる場合もあるし、政治上あるいは運用上の理由によるものもある。例えばダムダム弾の使用は、被弾者の苦痛を不必要に強める、非人道的なものであるとの判断により禁止されている。しかし、同様に非人道的兵器があったとして、国際法上ダムダム弾のように明示的に禁止されていなければ、使用は可能であると主張することもできる。戦時国際法のような戦争法規は、禁止されていないことならば、何でもありのネガティブリスト方式だからである。

侵略については、国際法上は満州事変当時は定義されていなかった、とも言うことはできる。また当時の米英は厳密な意味でのパリ条約に対する留保ではないにしても、各種の発言等で、中南米地域には適用されない、その他の条件をつけている。前掲の関野氏が当時のアメリカやイギリスの明示的考えからすれば、満州事変以来の日本の行動は「侵略」と見なすことができない、と述べているのは、この意味なのである。

米英の明示的考えとは主として「自衛」に含む地域と内容について述べられている。すなわちパリ条約当時は「侵略」の定義を強いて言うなら、「自衛ではないこと」ということである。


本能が壊れた日本人

2019-09-09 17:35:12 | Weblog

 人間は本能が壊れている動物だと言われる。普通の動物は本能に従えばまっとうにいきていられるが、人間はそうではない、と言うのである。例えば昔英国でこんな実験をしたと言う話を聞いた記憶がある。ジョークなのか実話なのかは知らない。囚人と豚をずっと飢えさせておいてから、急に美味しいものを山のように出す。すると豚は腹いっぱいになる前に食べ終わるが、人間は食べ続けるというのである。挙句は咽喉にまで食料を詰め込んだから、窒息して死んだ、と言う話である。

 動物は生活のリズムも食事の加減も本能が導いてくれるが、人間は食べたい楽をしたい遊びたい、と言う本能に従えば健康を損なったり生活苦になったりして、まともに生きてはいけない、と言うのである。しかしこれは間違いなのではないか。現に大多数の人間は本能に負けて不健康な生活はせず、努力もして健全に生きているではないか。健康ブームと言うのさえある。

 これは人間の「本能」と言う言葉の定義に問題があるからである。つまり人間の思考力、つまり理性も本能の一部として捉えればいいのである。人間はおいしいものを食べたいと言う本能がある半面、それだけでは不健康である、と言う思考による反省の本能もあるのである。楽をしたい、と言う気持ちがある半面、辛くても努力して成功したい、と言う理性がある。つまり人間は猿から進化して理性を持った時、理性も含めて人間を生存させ人間社会を繁栄させる、と言うトータルでの本能で生きるようになったからである。

 こう考えて思い出すのは、いわゆる自虐史観の人々である。彼らは北朝鮮の拉致事件が判明しても、日本だって朝鮮人を強制連行して働かせたから仕方ない、とまで考えている節がある。つまり日本国民の安全な生活まで平気で否定しているのである。いわゆる従軍慰安婦問題でも日韓基本条約の枠内で解決済みであるのに、できるだけ補償しなければ気が済まない。中国や韓国、北朝鮮にできるだけ有利に取り計らい、日本に不利になる事が正義だと信じて止まない。

 彼らはその点に関して、理性による本能が壊れているのである。実際には世界の各国の政治家も国民も、嘘をついても自分の国に有利にしようとしている。それが正常な本能である。なぜなら、そうしなければ結局自分の国、ひいては自分自身にに不利になるし、さらには自分の子孫が多大な不利益をこうむる。そうはさせまいと頑張るのが、理性と言う本能が導く本来の姿である。そのくせ自虐史観の人たちは自分自身まで犠牲にしてよいと言うお人よしや、極度の善人ではない事は彼らの行動を見ればわかる。

 例えばかつての民主党政権の仙谷元官房長官である。在任中は、どんな手をつかっても中国や北朝鮮に有利にしよう行動していた。それでは彼は自分自身を犠牲にするようなお人よしなのだろうか。そうではない事は皆さんご存知であろう。自分が直接非難されると恫喝的言動や詭弁まで使って自己弁護している。お人よしどころか、自己中心の典型である。ところが日本対東アジア諸国と言う事になるとこの自己中心をかなぐり捨てる。

 人間はまず自己中心である。次に家族中心である。次に所属するコミュニティーや地域中心である。次に自国中心である。最後に人間中心である。この逆ではない。これが人間の理性による本能が構築した社会構造への帰属意識である。確かに自分や家族を犠牲にしても他人を助けると言う人はいるかもしれないが、例外である。立派だと口では褒めても、真似する人は少ない。自国より他国が優先されると言う事は正常な本能ではない。自分の子孫や文化の繁栄から言っても他国より自国優先なのが正常な本能である。

 では正常な理性の本能の人の例を見よう。日本において言論活動で活躍している韓国系の呉善花と中国系の石平氏と言う二人を例にとろう。二人は多年日本で、あたかも日本人の立場を擁護するような言論活動を繰り広げてきた。しまいには自分の出自である韓国や中国の人たちの民族性に疑問を呈するような発言にまで至ってしまった。しからば彼らは仙谷のように本能が壊れてしまったのだろうか。

 そうではない。結局彼らは日本に帰化したのである。つまり日本人になったのである。それはそうであろう。まともな理性があるならば、祖国をあれだけ否定してその国の人でいられようはずがない。彼らは思想家としても私たちが真似が出来ないほど誠実なのである。翻って仙谷氏のような日本の自虐史観の人たちは、自国を否定する言動を繰り返しながら平然と日本人でいる。これは大なる矛盾である。理性が壊れている、と言うゆえんである。

 何故なら、そのような人たちが多数を占めたら確実に日本は崩壊する。そうなった時彼らの子孫は塗炭の苦しみを味わうのである。それでは石平氏らのような正常な人と、仙谷のような異常な人の差は何故できたか。石平氏らは自分が色々素直な気持ちで考え抜いて今の考えに至ったのである。つまり自分の理性を駆使して考えたのである。これに対して仙谷氏らの自虐史観は外から強制的に与えられたものである。GHQの検閲やマスコミ操作や教育によって意図的に作られた日本の否定である。

 これを洗脳と言う。洗脳とは本人自身にとって本来都合の悪い考えを強制的に注入して、あたかも本来の考え方のようにしてしまうものである。だから洗脳が完成すると、自己保存の本能の一部たる理性は破壊されているのである。自虐史観の人たちは平気で論理の矛盾を犯す。詭弁を弄する。そして自分自身の事になると極度に自己中心的である。この好例が朝日新聞記者の本多勝一氏である。本多は自著に後日間違いが見つかると、何の断りもなく書き換えを行う。ポルポトの虐殺は全くのウソだと断定していながら、後日には平然と、それを修正している。極度の自己保身でそこには一片の誠意も見られない。彼らは洗脳を理性の力で食い止める事ができなかった哀れな人たちである。彼らの子孫は彼ら自身のおかげで多大な損害を被るのである。

 私自身の経験で言うなら、中学の頃から何となく、何故日本とドイツだけが悪い事をした国だと世界から非難されるのだろう、と言う素朴な疑問を抱いたのである。その結果日本とドイツはともに敗戦国であったと考えた。それから日本が戦争をしたのには「日本の言い訳」があるはずだ、と探し始めたのである。私の理性は子供心の素朴な疑問にかろうじて守られたと信じている。当時の日本の言論には「日本は過去に悪い事ばかりした」と言うものばかりだったのである。

 もちろん日本人にも誠実な人はいた。岡田嘉子とその愛人の杉本良吉である。二人は日本の現状に絶望して宣伝されたソ連を信じて亡命してしまった。愚かである、とは言われても誠実ではある。その結果は、杉本良吉は日本のスパイとみなされて銃殺された。殺される瞬間に彼は何を思ったのであろうか。自分のとんでもない間違いに気付き絶望したのであろうか。間違えられたのだから仕方ない、と相変わらず祖国ソビエトを信じて逝ったのであろうか。


書評・談合文化論」・宮崎学著・祥伝社刊

2019-08-30 22:57:42 | Weblog

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 タイトルに興味があって書店で偶然買ったが、タイトル通り単なる談合肯定論ではなく、むしろ文化論としても優れている。著者はもちろんプロの談合屋だったが、それを日本社会のありようまで研究している点が興味深い。私自身が子供の頃田舎の緊密な共同体に悩まされたから実感は強い。私の実家は調べると戦国時代に主君が敗れて帰農して土着したのだった。

 そのため近隣は同姓の親戚ばかりで、その本家だったから気の弱い小生は強いプレッシャーを感じていた。冠婚葬祭のあらゆる付き合いは血縁の内輪だけで行われていたものだった。落人に近かっのであろう。同じ大字でも、他の地区の人たちの付き合いはなかった。地方議会の選挙があると、夜は我が家に血縁の近所の家長さんが集まり、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ。そこに、議員候補さんが来て、一升瓶と何やらを置いて帰っていく。そんな村社会も、今はすっかり消えた。昔からの村の自治の残滓を強く知っていたから、私には著者の言う「ムラの自治」の意味を体感できる。現代日本人で、ムラの自治を体感したことのあるものは、どれほどいようか。

 閑話休題、著者はムラの自治を基層として、建設業界の自治としての談合が発生したのだと言う。それが戦時中の統制経済による上からの談合、政官財癒着としての談合に変化するに従って歪みを生じているのだと言う。現在の建設業は独占禁止法の強化により、談合が排除された結果、自由競争により地方の建設業は大手ゼネコンに負けて悲惨な状況になっている。

 その癖、大手ゼネコンは政治家の集金組織として談合が続けられているのだと言う。そう言えば以前は摘発される談合と言えば、地方の中小業者によるものだったが、平成5年頃に摘発されたゼネコン汚職以来、最近のリニア新幹線談合等は、大手ゼネコンばかり摘発されている。昔知人の父が実は談合屋だった、と言う話を聞いた。もちろん故人である。

 ゼネコンに入っていつの間にか見込まれて、談合屋にされたのだが、付き合うのは社内の人間ではなく、社外の談合屋同士だった。談合社会に慣れたとき、会社で言われたのは、警察に引っ張られて本当の事を言いたくなったら窓から飛び降りろ、残った家族は一生面倒を見るから、というものだったそうである。血の結束があるからかつては談合がばれなかったのである。

 なぜ談合が内部告発等によってばれるようになったのか。著者の説を敷衍して言えば、ムラの自治の延長としての談合ならば、生きる世界はそこにしかないから、命を賭ける価値はあったのだが、政官財の癒着に利用されているだけのものならば、命を賭ける価値は無いからなのだろう、と私には思える。ムラの結束とはそれほど強いのだ。

 著者は良い談合と悪い談合に分けて、良い談合は復活せよ、と言う。ムラの自治の延長としての談合が良い談合で、悪い談合とは政官財の癒着に利用されているだけのものである。ある建設業界紙に、かの山本夏彦氏のインタビュー記事が載った事がある。山本氏は平然と、建設業に談合はあるんでしょ、いいじゃありませんか、と発言すると、インタビューアーは、そういう話はどうも、と逃げてしまった。

 山本氏は談合肯定論者ではあったろうが、著者ほどに談合のあり方に深く突っ込んではいないそこがこの本の価値である。談合は日本の風土である。もちろん建設業ばかりではなくあらゆる民間取引にもある。新聞業界だって談合している。新聞の価格、休刊日である。全国紙で唯一安い産経は夕刊がないのと、ページ数が少ないので安くてもよいと言う、談合仲間のお墨付きをもらっている。休刊日は他の社が休んでいる間に、抜けがけで売って儲けられると困るから談合して決めているのである。果たしてこの本、ムラ社会の経験のない者に理解できるものか、と私は思うものである。


なぜ中国は北朝鮮の核武装を放置しているか・パート2

2019-08-29 20:35:56 | Weblog

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 さて本題は、なぜ中国が北朝鮮の核武装を放置しているかである。北朝鮮はミサイルの射程を逐次延伸している。従っていつかはアメリカに届くミサイル、つまり大陸間弾道ミサイルを開発する。これは米国の脅威にはなり得るが、中国の脅威にはならない。ただし、米国の本当の脅威となるのは、核弾頭を搭載した場合である。

 中国は北朝鮮から核ミサイル攻撃を受けて、少々の被害を受けても動じない。国民の被害を無視できる政治体制である。しかし米国はそうではない。北朝鮮から核の恫喝を受ければ民心は動揺する。つまり核ミサイルは一方的に米国への脅威となる。何よりも北朝鮮が中国を核攻撃すれば、地上軍でも核兵器によってでも北朝鮮は、瞬時にして全滅させられる。

 必要ならば、地上軍を派遣して、北朝鮮中枢を壊滅させられる。北朝鮮は、国民がいくら殺されても、何の痛痒も感じないが、中枢の人間は殺されるのには耐えられない。北の核は中国とって何の脅威でもない。

 しかも中国は北朝鮮が米国の核攻撃を受けたところで何の痛痒も感じない。ところがさすがに中国といえども、米国が大量の核兵器で全力で核攻撃をすれば、壊滅の危機を感じる。つまり中国は北朝鮮の核兵器で米国に脅威を与えることで、自らは安全圏にいて、米国を恫喝できるのだ。北は体のいいバッファである。

 もちろん隣国である北朝鮮は、地上から中国から蹂躙されるから、中国のいうことを最後には聞く。つまり北朝鮮は中国の核の手駒なのである。いざ台湾問題などで米中が緊張すれば、中国は、北朝鮮の核兵器を使って、米国の介入を阻止できる。それには、必ずしも、米本土に核弾頭が到達する必要はない。グァムや南シナ海に派遣される空母打撃群に脅威が与えられれば良い。
 
 かく説明した理由から、中国は世界の常識に反して、北の核ミサイルの開発を望んでいる。だから中国は、本気になれば北朝鮮の核武装を阻止できるのに、あえてそれをしないのである。中国人はメンツを重んじるなどというのは幻想である。

 ちなみに、そう簡単には問屋が卸しそうもない。北の核爆弾は、地上実験段階では完成しつつあるが、ミサイルに搭載する弾頭は、そう簡単には開発はできない。その状況証拠はある。中国は核弾頭を完成したら何をしたか。時は第一回の東京オリンピックの成功直後である。中国はミサイルに核弾頭をミサイルに搭載し、地上数百メートルで爆発させた。

 これで中国は米ソのみならず世界に、核ミサイル保有国であることを認めさせたのである。北が核ミサイル保有国であることを全世界に認めさせるためには、北朝鮮国内でいいから、数十キロトンの核弾頭をミサイルで空中爆発させなければならない。北朝鮮は、トンネル坑内の核実験しかできていないのである。

 もちろんトランプ大統領には、第一正面は中国、第二正面はイランだから、北朝鮮にかまけているゆとりはないのであろう。二正面作戦すらタブーなのだから、三正面などは軍が認めようはずがない。だから弾道ミサイルを打たれても、金正恩さんはいい人だと言っている。それでも、北の核弾頭が真に米国に脅威をもたらすなら、米本土への脅威のみならず、台湾情勢にも脅威となるから、北対策の優先度は必然的に上がるだろう。


なぜ中国は北朝鮮の核武装を放置しているか

2019-08-29 17:27:19 | Weblog

 中国が制止しているはずなのに、北朝鮮は核実験したり、ミサイルの実験をしたりしている。米朝の首脳会談により、一時中断したが、協議が進展しないと見るや、ミサイル発射を再開している。これをもって、北朝鮮は中国のメンツをつぶしたと主張するむきがある。これは中国がメンツを重んじる国だという誤った思い込みによる誤解である。中国人はメンツなど重んじはしない

 それは過去の行動から明白である。小平は、黒い猫でも白い猫でも、餌を取る猫はいい猫である、とか何とか言った。そしてあっさりと毛沢東の自力更生路線を放棄した。これはメンツを重んじる者の行動ではない。儲かれば何をしてもよいと言うのだから。メンツを重んじるなどと思うのは支那の古典の世界であって、現実の中国人の話ではない

 中国人は大人(たいじんと読んで下さい)などと言うのも同様である。かつて賠償を放棄すると日本に約束したのに、平然と中国は被害を受けたから、中国にODAなどの支援をするのは当然であると言って、日本の援助について、国民にも知らせず日本にも感謝しない。

 パンダを友好と称して貸し出すのに、賃貸料を取るがめつさである。これでは大人でもメンツを重んじるのでも、プライドが高い民族でもないことは明白である。

 だいいち北朝鮮にメンツをつぶされたと考えているのなら、かつては日本が提案した北朝鮮非難決議を議長声明に後退させるようなことをするはずがない。メンツをつぶされて怒ったのなら、北朝鮮に侵攻しても不思議ではない。多くの識者の意見に反して、中国は北朝鮮のほどほどの核武装を密かに望んでいるふしがあるからである。

 

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