毎日のできごとの反省

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歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

日本の使命は白人支配の打破である

2017-04-26 15:41:45 | 歴史

日本の使命は白人支配の打破である

 大東亜戦争の結果、ともかくも白人の植民地支配を解放した日本が、今後大東亜戦争の目的を完遂するために、残された世界史的使命は、未だに世界に強固に残る白人支配の打破である。大東亜戦争後、世界には有色人種の多数の独立国が生まれ、白人の世界支配は崩壊したかに見える。しかし、かつての植民地支配を蒸し返して批判しようとした、ミャンマーは軍事政権と批判され、こともあろうに宗主国英国に親を殺されたに等しい、アウンサン・スー・チー女史を擁立して批判を封じられた。

 アウンサン・スー・チー女史は少女の頃から英国に連れていかれ、英国の教育を受け、英国人の結婚し、流暢なイギリス英語を話す。それを英国は、いざという時の隠し玉として周到に用意していたのである。女史の父は独立の闘士として国民に絶大な人気があるからである。

事実上の大統領となって国政を運営する、アウンサン・スー・チー女史の政策は成功するかどうかはおぼつかない。しかし、植民地批判を封ずる役者としての女史の役割は、英国にとって終わった。今後ミャンマーの政治がどうなろうと英国は知ったことではないのである。

支那は相変わらず、世界の白人支配には無関心で、時には欧米を利用し、時には欧米と対立する。自国の覇権だけを求めるための便宜主義に過ぎない外交をしている。それを打破できる資質があるのは、日本人しかないと思われる。

 例えば、日本は多年に渡る歴史から、世界に稀な宗教の平等を実現している。それは日本の国家元首は国際慣例から言えば、天皇陛下に他ならない。天皇陛下が行っておられる、在日外国大使の認証は、国際法上は国家元首の役割である。また皇室は神道の総本山と言えるだろう。ところが、皇室には権威はあるが、実際の政治権力を持たない。現在の政治権力は総理大臣をトップとする政府にある。それ以前は、政治的権威は征夷大将軍の率いる幕府にあった。

 だから総理大臣ら政府の構成員が神道ではなく、仏教徒でも何派かのキリスト教徒でもかまわない。この違いは米国と比較すれば、よくわかる。米国は大統領が権威たる国家元首であり、政治権力のトップである。ところが大統領は就任の際に聖書に手を置いて宣誓する。これをイスラム教徒ができようはずはない。

 米国大統領は、キリスト教徒でなければならないのである。従って日本のような宗教の公平は実現していないというのはこの意味でもある。現在、米国でムスリムの比率が確実に増大していることを考えれば、将来、何百年先か分からないが、米国がムスリムの多数国家に成ることは考えられる。すると民主主義の建前から言えば、ムスリムの大統領が出現ことは起こり得る。このとき聖書での大統領の宣誓は問題になるはずである。

ともかくも現代世界で顕在化しているイスラム教による混乱を解決することができる可能性のある民族は日本人しかいない。さもなければ世界はキリスト教徒とムスリムの長い力の抗争の末、最終的に強きものが弱きものを抑え込むことにしかならない。その結果はかつてのようにムスリム優位の世界かも知れない。

 逆に宗教戦争で永年苦しんだフランスは、厳密な政教分離を実現せざるを得なかった。それが本当なら、政治家は一切宗教行事に参加してはならない、という意味である。それなら、葬儀に参加することも不可能なはずである。なぜなら宗教行事ではない葬儀と言うものは語義矛盾だからである。

 無宗教なら、死者単なる物体に過ぎないから、葬儀を行うこと自体あり得ないことである。死体を物体として適当に処分してしまえばいいだけのことである。葬儀を行うのは、何らかの不可知なものを認めるからである。それは広義の宗教である。日本でも戦死者を神道の靖国神社ではなく、無宗教の施設で慰霊すればよいではないか、という意見も散見するが、慰霊という行事そのものが、宗教的なものなのであって、無宗教での施設での慰霊はあり得ない。もし、無宗教と称して戦死者の慰霊施設を作ったとすれば、それは政府が新しいカルト宗教を創設することに他ならない。

 日本は永い間、権威と権力を分離することで、宗教の公平を実現して来たのに、維新で西洋の一神教文明を取り入れたことに始まって、敗戦による精神の混乱により、伝統的な宗教の公平と言う知恵を忘れつつある。だから日本人の使命たる、白人支配の打破は困難を極める。まず日本人の伝統的な知恵を回復しなければならないのである。


書評・「カエルの楽園」が地獄と化す日・百田尚樹・石平共著

2017-04-20 17:45:29 | Weblog

 実は、百田氏のカエルの楽園はまだ読んでいないのだが、この日中関係をテーマとした寓話小説について、実際に起きていることが、如何にこの寓話小説の通りになりつつあるか、ということを両氏が対談したものである。カエルの楽園は、中国であるウシガエルの国が、日本であるナバージュというカエルの楽園をいかに侵略していくか、という物語である。

日本の多くのマスコミ、特にテレビでは、中国軍艦や軍用機が尖閣付近で挑発行為をしても、自衛隊を出動させて中国を刺激してはならず、対話をすべきだと一方的に日本の自重を求めるだけなのだが、これらのセリフが、カエルの楽園に登場するディスブレイクというナバージュのカエルの言葉にそっくりで、石平氏によれば、一種の予言の書となってしまっている、という。

国際法では、軍用機がレーダー照射を受けた場合、攻撃を受けたものとみなして、反撃撃墜することが一般的権利なのに、自衛隊は絶対そのようなことをしてはならない、と法的にも政治的にも規制されているし、多くのマスコミもこれに同調している。また、他国の侵略を受けても話し合えばいいし、最後は降伏すればいいのだ、と多くの左派言論人は主張しているし、テレビマスコミも本音はこの論調である。

このことを二人は、日本が米国に負けたときの占領で残虐な行為を行わなかったし、平和憲法という有難いものさえ与えてくれた経験から、中国などの他の国の占領も同様だろうと思っている日本人が多いからであろうというのだ。米軍の占領が比較的平和的だった原因は、特攻隊や硫黄島などの日本人の勇敢な戦いを経験した米国は、非道な占領をすれば日本人は決死の戦いを挑んでくるから、平和的に占領し日本人の精神を改造してしまうしかないと考えたからである。

だが、小生は一見平和的な占領だったかに見えても、米占領軍による強姦、略奪、殺人などの不法行為は今伝えられているよりも、遥かに多かったのだが、GHQによるマスコミ検閲や、嘘の日本兵の残虐行為の宣伝などで、日本人が騙されているために、日本の被害が矮小化されている、というのが真実だと考える。もっとも中国に侵略されたら、これより遥かに非道な行為が行われる、というのは両氏の言う通りである。

その例として本書では、チベットやウイグルで行われ、現在進行形で行われつつある残虐行為を具体的に書いているが、おぞましいものである。これらのことが信じない日本人が多くいる。インターネットでチベットを調べたら、「解放」前のチベットがいかに野蛮な風習に満ちていたことが書かれていたサイトがあった。ダライ・ラマがCIAの手先として働かされている、という本さえ書店にあった。

チベットやウイグルで実際に起きたことを信じない、反日日本人は、常に中共からのこのような情報を教え込まれて、信じこまされているのであろう。中共のプロパガンダと言うのは、昔から物凄いものがあることは自戒しておかなければならない。

「南京大虐殺」などの嘘宣伝がいきわたった結果、日本が反撃さえしなければ、中国は侵略するはずがないし、仮に占領されても中国人による残虐行為もない、というのが「ディスブレイク」のような日本人の精神の根底にあるのだ。侵略や残虐行為をするのは日本人の軍隊だけだ、という思い込みが牢固としてある。

たまたま「歴史群像」平成29年4月号に「尼港事件」の記事があった。シベリア出兵の際に、ニコラエフスクで、白軍兵士や現地ロシア人、日本軍守備隊や民間人などが赤軍パルチザンに数千人が惨殺された事件である。この顛末は日本が自重すれば安全である、というのがいかに間違いかを証明している典型である。

尼港は、主要海産物の鮭を日本に輸出するために、約400人の日本人が居留していた。そこを後のソ連軍となる、赤軍パルチザンが2000人で包囲した。北海道にいた師団長は、救援に行くのはできないので、無理をせずに平和的に解決し赤軍と和平しろ、と現地部隊に命令した。これに対して、日本に味方した白軍の指揮官は、赤軍との合意は必ず裏切られる、と反対したのだが、現地の指揮官は師団長命令を拒否できるわけもなく、尼港を開城し停戦した。

開城の条件は日本軍が白軍の武装を解除すること、白軍元将兵の過去の行動は免責する、市民の財産と安全を保障する、赤軍入城後も日本軍が居留民の保護を続けること等であったそうである。警告通りこの約束はすぐに反故にされた。白軍の将兵の拷問虐殺はもちろん、一般市民も殺害された。

尼港の住民の訳半数の6000人が殺害され、そのうち日本人(守備隊も含む)は分かっているだけで、730人が惨殺された。筆者は結局は力の裏付けのない約束は無意味、と結論している。このような赤軍の蛮行は、ロシア各地で行われたが、隠蔽されて白日の下にさらされはしなかった。

この事件だけが有名になったのは、生存した日本人が証言したからである。ひどい話はまだ続く。この蛮行の指揮官のトリアピーツィンは、日本による非難で責任をとらされ、「共産主義に対する信頼を傷つけた反逆者」として銃殺されたそうである。小生は子供の頃、雑誌で尼港事件の顛末を読み、壁に「共産主義はわれらの敵」というような意味の血書が犠牲者によって残されていた、とあったことが忘れられない。これ以来、小生は共産主義は残虐非道なものだと知った。

いずれにしても、日本が反撃さえしなければ、中国は侵略するはずがないし、仮に占領されても中国人による残虐行為もない、というのが「ディスブレイク」のような日本人の言い分が間違っていることは、尼港事件の例でも明瞭である。不可解に思えるのは、同じロシア人でも赤軍(共産党系)が約束を守らず残虐行為を平然とするのに、白軍は必ずしもそうではない、と思われることである。

同じ支那人でも、毛沢東率いる共産党の残虐非道や民族絶滅政策は、必ずしも全て清朝などの王朝の慣行を引き継いだものではない。少なくとも中共以前の多くの支那王朝は残虐行為は珍しくはないが、宗教や民族言語に関しては比較的寛容であったように思われる。ベトナムやカンボジアなど、共産主義の直系政権は、やはり残虐行為をしているから、共産主義教育そのものにも問題があると思われる。

それは必ずしも、マルクス・エンゲルスの主張ではなく、それを敷衍して実現した、トロッツキー、レーニン、スターリンあたりに淵源を発しているのだろう。敢えてトロッツキーを例に入れたのは、彼が亡命してソ連政府により暗殺されたから、日本人はトロッツキーを同じ共産主義者でも、比較的自由主義的である、という誤解があるようだからである。トロッツキーは単に政争に負けたのに過ぎない。

百田・石平の両氏は「反中分子たちの一斉逮捕」と「共産党に入党して、苗字も一字に変えて中国風にし、中国語を操ってうまく生き延びる。いまマスコミで活躍している反日文化人はそうやって転身を図る人が続出するでしょう。」(p246)と書くが、これはあまりに甘い考え方であろう。

確かに日教組や左派知識人や左翼マスコミは、日本侵略の過程では活用できるであろう。支那には漢奸という言葉がある。支那人を裏切った支那人のことであり、平和になれば極刑にされる。同様に日本を裏切った反日本人などは、自らの祖国を裏切る到底信頼できない人物である。中共に言わせれば、漢奸ならぬ日奸というべき、最も信頼できない人たちである。真っ先に処刑しなければならない。

いずれにしても、中共の日本侵略は、日本を不幸(地獄)にするばかりではない。永遠に支那大陸に住む人々も幸せにはしない。中共幹部は子弟や親戚を欧米に送り込んで国籍を取得させている。いざとなったら大陸から逃げ出す算段である。中共の幹部自身が中共政府を信頼していないのである。


何故中共政府は北京語を強制するのか

2017-04-06 16:06:32 | 支那大陸論

 以前、楊海英氏の「逆転の大中国史」を引用して、中共の言う標準語の普通話は、実は満洲旗人すなわちMandarinの話す、北京官話を基にしたものである、と書いた。北京官話とは清朝宮廷で使われていた満洲語だから、普通話とは、広東語などの他の漢語とは少々異なり、非「漢民族」言語の満洲語から生まれたものである。満洲語と普通話の相違は、例えれば江戸弁と日本語の標準語の関係と似たものである。

今、中共政府は、普通話なるものを支配地全土に強制している。つまり満洲語を全国民に強制しているのに等しい。清朝を倒した辛亥革命は「滅満興漢」を合言葉にしていたから、満洲人は「漢民族」ではない、異民族と認識していたのである。「漢民族」を自称する中共幹部が、元来異民族言語と考えられていた、満洲語を強制しているのは奇怪なことである。それは中共が「中華民族」という架空の民族による国民国家である、と主張したいからである。

もちろん、チベットやウイグルなどの異民族を支配している、植民地帝国が国民国家の概念にあてはまるはずはない。それどころか、漢民族と言われている人々の間にさえ、広東語などは北京語と異なり繁体字という伝統的な漢字を使い、話し言葉ばかりか文字表記すら異なるという「民族性」の相違がある。実は問題はそこにある。

もともと話し言葉である漢語の文字表記はなかった。それにもかかわらず、支那大陸で使われていた文字表記は、漢文であった。漢文によって、読みはともかく、支那全土で表記法を統一してきた。福建語、広東語などいくつかの異言語を話す人たちが、漢文と言う共通表記を使う「漢民族」という概念でくくられていたのである。ところが、辛亥革命以後、話し言葉の漢字表記が行われるようになった。そのトップランナーが北京語だったのである。

その後広東語なども漢字表記が行われるようになった。だから、これらの漢字表記の文章はかつての漢文とは全く異なる。現代「中国人」は北京語、広東語などの漢語の文字表記は読めたとしても、四書五経の漢文は読めないのである。それどころか、北京語からできた普通話は従来の漢字を省略した「簡体字」に移行してしまった。普通話標記の文章を読む人は、表意文字たる漢字の伝統的な意味すら忘れつつある。

それでも普通話を強制しているのは、かつて「漢民族」の統一の象徴である漢文を全国民に強制することは、物理的に不可能だからである。元々「漢民族」といっても漢文を読めるのは、ほんの一部の知識階級に過ぎず、大多数の「漢民族」は文盲だったから、漢字を使うから「漢民族」であるということすら奇妙なのである。逆に「異民族」たるモンゴル人や満洲人は話し言葉の文字表記がある。モンゴル語はモンゴル文字、満洲語は満洲文字と言う表音文字で文章が書ける。

全ての問題は漢字が表音文字ではなく、表意文字であることにある。だから同じ四書五経を読んでも漢王朝時代と、唐王朝では発音が全く異なる、という奇妙なことさえ起る。アルファベット表記のドイツ語、英語、フランス語などと比較してみれば、その不思議さがよくわかる。ともかくも漢文自体が、話し言葉の文字表記ではないことと、読解の難解さから、中共は全国民に統一した言語を使わせるのには、習得が容易な普通話を強制せざるを得なかったのである。そればかりか、漢字自体が文字として複雑すぎるという事で、漢字を省略した「簡体字」さえ作った。

広東語などではなく、北京官話に基を発する普通話が選ばれたのは、辛亥革命を起こした中心人物たちの多くや教養人が首都北京にいて、北京官話とその漢字表記に習熟していたからであろうと想像する。それ以前から支那北部の人々は、北方民族の影響を受け、北方言語化していたから、北京官話はさほど違和感なく習得できたのだ、とも言われている。

ちなみに、最初の国家元首たる毛沢東は、江南の言葉を話したので、彼の演説はほほとんどの国民に理解できなかったのだ、という。当然である。そこで彼の演説を理解させるために、漢字表記のペーパーが配られたのだ、という。毛沢東が国民に自分のネイティブな言語を強制しなかったのは、あまりにマイナーな言語だったからであろう。スターリンはグルジア(ジョージア)人である。だが国民にグルジア語を強制せず、ロシア語を使わせたのと同じことであろう。

ジャッキー・チェンは香港の人である。そこで彼の映画には、広東語が使われる。かなり以前だが、ジャッキー・チェンのレンタルビデオの箱を見たら、日本語字幕以外に「中国語字幕」とか「簡体字字幕」とか書いてあった。要するに彼の映画は、広東語を理解できないほとんどの人には、普通話の字幕が必要なのである。この例で普通話と広東語の相違は方言レベルではなく、異言語のレベルだと理解できるだろう。

それでは、中共全土を普通話で統一する試みは成功するであろうか。もちろん小生は成功すべきではないと思う。普通話による統一は、日本での方言を標準語で統一するのとはわけが違う。チベットやウイグルの民族絶滅(エスニック・クレンジング)政策である。絶滅されるのは、これらの民族だけではない。福建語や広東語を話す民族をも絶滅させる恐ろしい政策である。

だが、結果は時間の経過による。かつての王朝と同様に、いずれ中共は崩壊する。それまでの時間の問題であろう。かつての歴代王朝は王朝の支配民族言語を強制はしなかった。それが支那大陸にいくつもの言語が保存されたひとつの原因であろう。中共は巨大な帝国の言語を統一するという、古今東西行われなかった試みをしつつある。