毎日のできごとの反省

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書評・戦艦「大和」副砲長が語る真実・補遺

2016-06-25 15:25:20 | 大東亜戦争

 前回の本書に関して書き残したことがあるので追加したい。ガダルカナルの飛行場は昭和17年8月4日に完成したとして、設営部隊から「滑走路完成 諸般の事情から考えすみやかに戦闘機の進出を必要と認む」と発信され、ラバウル司令部は翌日零戦12機をガ島に進出させた(p97)。

ところが6日に進出した零戦隊の隊長は、居住施設があまりにお粗末なので、任務に差し支えるから施設が完備するまで、ラバウルに待機するとして帰ってしまったというのだ。常時米軍機の監視下にあるあるガ島飛行場は、いつ空襲されてもおかしくないのに「寝場所がよくない」というだけで900キロも後方に帰ってしまうのは、重大な命令違反である、と慨嘆する。

 深井氏は、このエピソードは他の戦記には記録された例がない、としている。米軍のガ島上陸作戦開始は8月7日、すなわち零戦隊がついた翌日と言う、きわどいタイミングであった。ミッドウェーの敗北の後なのに、日本軍の士気がいかに弛緩していたかを証明するエピソードである。零戦隊はあっという間に上陸米軍に蹂躙壊滅させられていただろうから、結果に変わりはない、という問題ではない。

 次の問題は前回示した雑誌「丸」の記事である。レイテ沖海戦特集として、栗田艦隊の反転は、止むを得ずとする記事(Aと呼ぶ)と栗田艦隊は単に逃げたとする、深井氏や小生と同じ考えの記事(Bと呼ぶ)のふたつが掲載されている。

 特に記事Aを批評してみる。「・・・栗田艦隊は小沢艦隊が米機動部隊の誘因に成功したことを十分に認識していなかった。このためもあり、彼らはサマール沖で遭遇した護衛空母を正規空母と最後まで認識していた。」深井氏によれば、大和では旗艦が大淀に変更したことにより、囮作戦誘導成功と判断できた。しかも、大和には我空襲を受けつつあり、という小澤艦隊からの情報もあった。

 まさか小澤艦隊は「囮作戦成功」などというずばりの無電を発するはずはないから、これらの無電から囮作戦成功を判断するしかない。しかも大和司令部と栗田司令部は別組織で、栗田司令部にだけ情報が行っていないかのように言われる。これはおかしい。深井氏によれば、栗田司令部はこの時大和艦橋にいたから、大和の受信無電も共有していたはずである。

大和の通信科の受電情報を栗田司令部が共有していないことはあり得ない。あり得るとしたら、栗田司令部は、旗艦変更の大和通信科の情報が都合悪いので黙殺したのである。また大和艦橋にいた栗田司令部は、沈没しつつあった護衛空母を間近に見ていた。艦形図などで米艦艇の識別訓練をしていた軍人たちが、わずか300mの眼前の空母を正規空母と誤認していたとしたら、無能力の極みである。

 Aでは第一次大戦でフランス野戦軍を撃破できれば、パリは容易に陥落したことを例に挙げて、敵艦隊主力を撃破すれば、米軍のレイテ侵攻を頓挫させる可能性もあるだろう、としている。筆者は三川艦隊が米艦隊を撃滅しながら、ガ島上陸の米船団を攻撃しなかったために、その後の米軍の跳梁を阻止できなかったことを知っているであろう。

 敵主力艦隊を撃破するのも重要かも知れないが、上陸船団と米上陸部隊を栗田艦隊が、攻撃しなければ、誰が攻撃するというのであろうか。確かに栗田艦隊は全滅したかもしれない。それと引き換えに、少しでも米上陸部隊に被害を与えるのが任務だったはずである。

 Aでは、どうしてもレイテ湾に突入すべきだったという主張は「有力な艦隊を全滅させても作戦目的を実現すべきだと言う、合理性と狂気の共存する発想のように思える」と指弾する。それならば、小澤艦隊全滅を前提で囮にして、栗田艦隊に米上陸部隊を攻撃させる、という捷一号作戦自体を、最初から否定しなければならないのである。

 A論文は、ろくに搭載機のない空母群を犠牲に、栗田艦隊の成功を期する、という小澤部隊の行動は始めから徒労だったと言っているのである。B論文では、ジブヤン海の対空戦闘でレイテ湾突入の予定時刻が遅れることとなったにも拘わらず、なぜ西村及び志摩艦隊に予定時刻の変更を指示しなかったかと、疑問を呈している。

 Bでは「うがった見方をするならば、同時突入による戦果拡大を狙うのではなく・・・偵察機によりレイテ湾に所在が判明した敵水上部隊を西村・志摩両艦隊に向けさせておき、我にその脅威を及ぼさないよう離しておくつもりだったのではともとり得るであろう。」とまでいう。

 だが、栗田司令部が偽電をねつ造までして逃亡した、という事実が判明した以上、この見方も真実味を帯びてくる。西村艦隊は任務を確信して絶望的な進撃をし、わずかな生存者しか残さず全滅したのに、である。マリアナ沖海戦で、空母航空戦力を喪失し、残りは航空支援の期待できない有力な水上部隊でフィリピン戦を支援するしかない、連合艦隊最後の組織的作戦だと軍令部は判断していたのに違いない。

 現にその後は、帰還した艦艇は瀬戸内海で次々と米艦上機の攻撃で無力化されて、組織的作戦行動をとることができていない。何のために大和は生還したのだろう。大和と乗組員は、戦果を期待されず水上特攻として死にに行かされた。レイテ湾で沈没した方が、まだ米軍に被害を与える可能性はあったのである。

 


書評・戦艦「大和」副砲長が語る真実・深井俊之助・宝島社

2016-06-18 18:18:37 | 大東亜戦争

書評・戦艦「大和」副砲長が語る真実・深井俊之助・宝島社

 レイテ沖海戦の栗田艦隊の謎の反転について、当事者であった著者が明白な結論を出している、貴重な証言である。深井氏は単なる一乗組員ではなく、「『大和』の兵科将校のうち、軍令承行令に定められた『大和』の指揮権を継承する資格のある士官(P258)」だった。

つまり艦長以下が次々と死傷して、指揮能力を失った時に、大和を指揮する軍人の順番が規定されている。深井氏は、その序列に含まれる重要な士官だった。だからこそ、謎の反転命令が下った時、驚いて艦橋に走って、栗田中将、宇垣中将以下の艦隊司令部におけるやりとりの一部始終を目撃したのである。そこで深井氏が見たのは宇垣中将が誰に言うでもなく「南に行くんじゃないのか!」とただ一人繰り返し怒鳴っているが、他は無言である、という異様な光景だった。

深井氏の推測は衝撃的なものである。栗田艦隊の反転の根拠となった有名な「ヤキ一カ」電は栗田司令部の大谷参謀が捏造したものだというのだ。「ヤキ一カ」電とは、北方に敵機動部隊がいる、という情報電報で、栗田艦隊はこの機動部隊を追撃する、と称してレイテ湾突入を断念し、帰投してしまった。

しかも深井氏が抗議すると、大谷参謀は「敵 大部隊見ゆ ヤキ一カ 〇九四五」と書かれた電報を見せたが、発信者も着信者も記されていない、奇妙なものであった(P218)。深井氏が捏造と断言するのも当然であろう。しかも電報に記載されていたのは、通説で言われる「敵機動部隊」ではなく間違いなく「敵大部隊」であったという。

雑誌「丸」平成27年11月号「栗田は結局はいずれかの情報を理由としてレイテ湾突入を放棄して反転したであろう」と書いてあったが、深井氏の証言は、そのことを裏付けている。同じ記事に、「栗田司令部内での正確な状況は残念ながら今日に至ってはどこからか新たな資料でもひょっこり出てこない限り、直接の関係者の死去と共に永遠に未解明のままとなるであろう」と嘆いているが、深井氏の著書はまさにその、栗田司令部での内部の状況の直接の関係者の証言である。栗田が逃げたと言う真実は、ほぼ確定したのである。

証言を続けて聴こう。深井氏は大谷に「・・・さっきは追いつけないから敵空母の追撃をやめたんじゃないですか。追いつけると思っているんですか!?」と怒鳴り、喧嘩になったが、どうにもならない。空襲が始まったので、深井氏は持ち場の指揮所に帰ったが、司令部の決定が覆るわけもない。

深井氏は捏造説の根拠として、以下のことを証言する。まず、「ヤキ一カ」電は、各部隊の戦闘詳報、発着信記録などのあらゆる記録を精査しても、存在せず、栗田艦隊司令部だけにある不可解なものである。大和は通信施設が充実しており、50~60名の要員がいる。さらに大和には、栗田艦隊司令部専用に同じ通信機器をもう1セット搭載しており、ヤキ1カ電はこの通信機器で受信していたということになっている。

しかし、栗田艦隊司令部は旗艦愛宕沈没のため、通信要因のうち、大和に移乗できたのは、15、16名しかいなかった。これに対して大和の通信科は優秀で、敵潜水艦の通信を楽々傍受していたと言うほどだった(P222)。これで大和の艦内に、栗田艦隊司令部の通信科と「大和」通信科が別個に独立して存在していたことの意味が分かる。

大和通信科の機材と通信要員以外に、栗田司令部用の別の通信機材がワンセットあって、これを愛宕から移乗してきた栗田司令部の通信要員が使用していたのである。だが栗田艦隊司令部の通信能力より遥かに充実しているはずの大和通信科は「ヤキ一カ」電を受け取っていない

だから捏造なのである。大谷参謀は飛行機からの発信と主張したのに対して、深井氏らは「大部隊は我々のことで、飛行機乗りは新米だから見間違えたんです」と反論したが、大谷は「そんなバカなことはない」と言ったきり黙ってしまった(P224)。大谷参謀はさらに嘘を重ねて、嘘をつきとおしたのである。ということは、丸の記事のように機会を見て逃げ出そう、というのは単に栗田個人ではなく、栗田司令部の総意だったのに違いないのである。

一般には栗田艦隊司令部は、小澤艦隊の囮作戦成功を受電していなかったから、作戦成功か否か不明だったと言われている。しかし「小澤艦隊については、『旗艦を軽巡『大淀』に変更』との電報から、空母が沈められた代償に囮任務をまっとうしたと私は確信していた(P217)」というのだからしようもない。当初の小澤艦隊の旗艦は空母瑞鶴である。囮作戦成功の判断はできたのである。

さらにばかばかしいのは、栗田艦隊はサマール沖海戦の空母が護衛空母に過ぎなかったのを正規空母と誤認していた、というのも嘘だった可能性が高いと言うことである。「置きざりにされた『大和』『長門』は・・・各部隊に合流すべく一路東南東へと走り続けていたが、途中『大和』の砲撃を先刻受けた空母『ガンビア・ベイ』を300メートルほどの近距離に見ながら通過する場面があった。(204)」

沈没寸前だったが、「この空母は商船を改装した護衛空母であることは一目瞭然たる事実であって・・・この空母集団は護衛空母集団であることは容易に推察できたのである。」正確には、ガンビア・ベイのカサブランカ級は初めて最初から護衛空母として建造されたものであるが、それまでの型は全て商船等を元に空母になっているから、深井氏の認識はほぼ正しい。少なくとも正規空母ではない、ということは分かるのである。そう考えれば、航空支援のない栗田艦隊に、空母が補足されてしまったという、間抜けな米空母部隊の状況は、栗田司令部でも納得できたはずである。

蛇足をふたつ。武蔵の猪口艦長は、他の艦とは違い、敵機は対空射撃で墜せるから、対空射撃の妨害となる転舵を極力避けたために、初期被害が大きくなって、被害担当艦になってしまった(P189)という。小生は他の資料でも同じ意見をみたが、逆にそんなことはなかった、という資料も見た。真相はどちらであろう。

射撃盤の構造である。氏は大和の副砲長であったが、砲撃のデータは「数万個もの歯車を用いたアナログコンピュータである射撃盤」が処理する(P134)。つまり日本海軍の射撃盤は機械式のコンピュータだったのである。主砲の射撃盤もそうだったのであろうか。

世界初のコンピュータは弾道計算のために作られたアメリカのENIACであると教わった。終戦直後に完成した真空管式のデジタルコンピュータである。しかし、それ以前にも米国にはデジタルコンピュータの萌芽はあったという。またデジタルコンピュータ以前に電子式か電気式のアナログコンピュータはあったはずである。

従ってコンピュータ先進国の米国の戦時中の射撃盤には、電子式ないし電気式のアナログコンピュータは、部分的にでも使われていなかったのであろうか、というのが目下の疑問である。少なくとも機械式よりは、遥かに演算速度や精度も良いと思われるからである。


十二月八日の記

2016-06-09 16:31:59 | 大東亜戦争

 大東亜戦争が始まったとき「これは大変な事になったと不安に思った」あるいは「アメリカのような大国と戦って勝てるわけがないと考えた」という文章は現在では珍しくないが、これは大方嘘である。

 もう散々このコラムでは「大東亜戦争」という言葉を使っているので抵抗はないと思う。実は私自身も子供のころ、両親が大東亜戦争と言っていたので、何と古臭いと思っていた。しかし、正式の呼称としてはこれが正しいことを理解してからは、自ら洗脳したのである。だから今は、太平洋戦争と言う言葉の方に違和感を感じるまでになった。

 今ではよく、知られているように「太平洋戦争」というのは占領軍の検閲によって昭和二十年の秋頃から新聞やラジオを通じて普及された名称で The Pacific Warの直訳である。米国にとっては、この戦争は太平洋の覇権を争うという政治的意義があったのであるから、太平洋戦争とは米国の都合による名称である。米国が太平洋戦争と呼ぶのは勝手であるが、だからといって日本人が追従することはない。二国間の歴史的事件は双方の国で呼称が異なる場合の方がむしろ多いのである。

 ところで昔母に「戦争が始まったときにどう思ったの」と聞いた事がある。意外にも「ついに来るものが来た、と思って晴れ晴れとした気持ちがした」と言った。当時の小生には大いに意外だったので、忘れもしない。母は関東大震災の年の生まれだから当時十八歳位で、充分ものごとのわかる年齢であった。当時の世間の雰囲気はよくわかっていたのである。

 戦後に書かれた回想ではなく、当時刊行された新聞や雑誌などを見れば母の感想が例外ではなかったことは明らかである。

 例えば詩人の高村光太郎は開戦にあたって次のような文章を雑誌「中央公論」に発表している。当時五十八歳である。

 

「十二月八日の記」

 箸をとらうとすると又アナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行つてみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈といふやうな思ひもかけぬ捷報が、少し息をはずませたアナウンサーの声によつて響きわたると、思はずなみ居る人達から拍手が起こる。私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担つた海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思つた時には悲壮な感動で身ぶるひが出たが、ひるがえつてこの捷報を聴かせたまうた時の陛下のみこころを恐察し奉つた刹那、胸がこみ上げて来て我にもあらず涙が流れた。    (仮名遣は原文のまま)

 

 この文章の意味するところは明快であるが、戦後世代がこの感覚を実感するのは不可能に等しい。しかし、これは自然な感情の発露と解するより他ない。「軍国主義者」の脅迫で無理矢理書かされたものであり得ようはずはない。高村光太郎は他にも「彼らを撃つ」と題する、現在からみれば過激としか思えない詩も発表している。室生犀星、佐藤春夫、草野心平、太宰治、坂口安吾、高浜虚子その他、開戦に感動した詩や文章を発表した文人人士は数え切れない。

 余談だが、マレー沖海戦で、山本五十六は、英戦艦を二隻とも撃沈するか、一隻だけかで幕僚とビールを賭けた。山本には高村光太郎の「・・・私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担つた海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思つた時には悲壮な感動で身ぶるひが出た」という精神はなかったのである。しかもこの時敵将フィリップ提督は自決して、乗艦と運命をともにしたのである。

 閑話休題。ところが戦争に負けると、何故か多くの日本人は開戦時から戦争には勝てないと思ったり、内心戦争に反対であったかのような言動をすることになった。学者や芸術家などで、戦後になって全集から戦争を賛美するような文章や作品を削除したり、目立たないように編集した人は多い。筆者が故人となってしまったために、後の編集者が削除などした例もある。「君死に給うことなかれ」で反戦詩人のように言われている與謝野晶子は開戦にあたって

 

  水軍の大尉となりて我が四郎み軍にゆくたけく戦え。

 

という短歌を発表している。反戦詩人というキャッチフレーズは後の世代により意図して作られたもので、晶子本人の本意とするところではあるまい。ちなみにフランス在住が長く、高名な藤田嗣冶は、戦時中帰国して、戦争画を多数書いた。それがたたって、戦後一転して世間から指弾され、嫌気がさしてフランスに戻ってフランスに帰化してしまった。藤田の戦争画を見て感動した人も、戦後指弾した人も同じ人物たちに違いないのである。ひどい話である。

 最後にクイズ。「天声人語」というコラムのタイトルは昭和二十年九月六日から復活しています。それまでの戦時中のタイトルは何といっていたのでしょう。

答え「神風賦

 


書評・最後のゼロファイター・井上和彦

2016-06-07 16:54:15 | 大東亜戦争

 最後まで生き抜いたエースの本田稔少尉の戦記物語である。痛快な話ばかりで、素直に読んでいただきたいが、意外な指摘をひとつだけ挙げる。海軍での体罰の話である。特に海軍の暴力による制裁は甚だしいと言われている。

 それについて、本田氏も「海軍精神注入棒」で尻を叩かれて気合をいれられた(P10)のだが「・・・こうした制裁は、士官連中のわかったような説教よりも打てば響くものがあり、リンチのような私的制裁とは全く意味が違うとのことだった。したがって、こうした体罰に対して反感を持つものはいなかったはずで、いたとすればそれは進路を誤った者であろう」とまで断言する。

 本田氏も戦後の多くの戦記が、ほとんど軍隊はつらく厳しいところだと実例で批判しているのを知っている。それに対して「・・・戦闘に参加してここぞ精神力という場面に出くわした。根性がなかったら命はいくつあっても足らなかったであろう。その根性こそこの予科練の間にみっちり叩き込まれたのである。」と反論している。

 命のやりとりをする軍隊の訓練が厳しいのは当然なのである。私見だが、軍隊の制裁を批判する者の多くが、大卒者ないし学徒兵であるように思われる。今より遥かに進学率の少ない時代の彼らには、無意識にエリート意識があり、制裁に反感を持ったというケースが多いように思われる。もちろん学徒兵にも勇敢な戦いをした者も多くいたことも承知している。

 父は旧制の中卒で出征したが、厳しい訓練に耐えられないのは、平素楽をしていたからで、百姓上がりの自分には少しも辛くなかった。今でも若者は一度は軍隊に行って根性を養うべきで、軍隊は金持ちも貧乏人も区別なく公平なところだと、どこかで聞いたようなことを言う癖があった。

 もちろん小生も、「注入棒」で骨折して一生まともに歩けない体になって帰省させられた兵隊がいる、という悲惨なエピソードも読んだことがある。西欧列強に囲まれて、日本は苦しい時代を生き抜いてきたのだ。既に戦後育ちの我々には、当時の厳しい世界情勢を実感できないのである。

 ひとつ苦情を言わせていただくと、イージーミスがこの手の本にしては多いように思われることである。一例だけ挙げる。昭和17年の8月から9月にかけて、日本の潜水艦が、米空母サラトガとワスプを雷撃し、サラトガは米軍によって海没処分された(P30)とある。沈没したのはワスプであり、サラトガは雷撃されただけで沈没してはいない。このことは、日米海戦史を少しでもかじっていれば常識なので、不可解なミスだと思った次第である。一体、井上氏はこの手の本を書きなぐっていて、編集者のチェックも甘いのだろう。