毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

ルーマニア IAR-80 その1

2021-05-30 20:47:32 | プラモコーナー

 ホビーボスのIAR-80です。72もありましたが、作りやすそうな48にしました。IAR-80は零戦や隼とほぼ同時期の機体です。航続距離がべらぼうな零戦と隼は例外で、零戦や隼と同程度の性能でエンジンも似たようなサイズですから。尾橇を使っているのを除けば、ワンピースのセミバブルキャノピーは魅力的です。何とこの箱絵、スピンナーキャップが真っ黒でした。

前方が、ガンサイト付きのパネル、後方が゜操縦席と操縦桿、インストルメントパネルなどですが、光の当たり方が悪いので、よく見えません(汗)。カラーはC-116です。

 

胴体には左舷だけで接着し、反対側に干渉しないようチェックしながらの片持ちです。摺合せは比較的容易でした。操縦席のサイドパネルのようなエッチングパーツは省略ですから邪魔になりません。

 胴体に組み込んだコクピット、かろうじてガンサイトが見えます。胴体のあわせは良く、パテ要らずでした。

 

 

 


石平氏の誠

2021-05-27 15:29:23 | Weblog

このブログに興味をお持ちの方は、ここをクリックして小生のホームページも御覧ください。世界中のどんな評論にもない奇想天外・荒唐無稽な中国論があります。

産経新聞の平成22年11月23日に曽野綾子氏が書いている。昔の週刊朝日に歌手の加藤登紀子氏がのせた文章である。

 日本という言葉を発するときに、たえず嫌悪の匂いが私の中に生まれ、その言葉から逃れたい衝動にかられる。 

というのだ。加藤氏は日本に誇りを持てないどころか嫌悪すると書いているのである。ところが加藤氏は知床旅情などの、いわゆる日本情緒のあふれた歌を歌っている。私にはここに不誠実を見る。日本にいて日本の歌を歌い、豊かさを謳歌していながら日本に嫌悪を感じている、と言うのだ。これは本心だとは思われない。何故そんなに日本が嫌なら日本にいて日本の国籍を持って日本人として生きているのか、としか言いたくなるではないか。

 加藤氏とは対照的な人物がいる。日本で言論活動で活躍している韓国系の呉善花氏と中国系の石平氏と言う二人である。二人は多年日本で日本人の立場を擁護する言論活動を繰り広げてきた。しまいには自分の出自である韓国や中国の人たちの民族性に疑問を呈するような発言に至ってしまった。これは日本を忌避する加藤氏と同様に祖国を忌避するにいたったのである。だがそこからが加藤氏とは違う。

 とうとう彼らは日本に帰化したのである。つまり日本人になったのである。それはそうであろう。まともな理性があるならば、祖国をあれだけ否定して平然とその国の人でいられようはずがない。私は必ずしも両氏と意見が一致するわけではない。しかし彼らは思想家としても人間としても真似が出来ないほど誠実なのである。翻って日本の自虐史観の人たちは、自国を否定する言動を繰り返しながら平然と日本人でいる。不誠実の極みとしか言いようがない。あるいは加藤氏のために弁じれば、週刊朝日での発言は、そのことがあたかもカッコイイようだったと思えての若気の至りでの発言であって、現在はそんな心情は持っていないのだろう。だから日本人として平気で生活しているのだろうと好意的に解釈してあげよう。


ハインケルHe-280V2 完成

2021-05-23 13:50:42 | プラモコーナー

さて、デカールを貼り、脚をつけてピトー管をつければ完成ですから簡単です。ところが機首左舷のハインケルのデカールを貼って、乾燥を待ちクリヤーでカバーする待ち時間にピトー管の穴を開けました。すると、手が触ったのかハインケルの文字が剥がれて消えているではありませんか。万事休すです。クリヤーデカールでハインケルの文字をでっち上げしましたが、字の印刷の乗りは悪いし、サイズもフォントも合いません。

 そこで、残った右舷のデカールをコピーすればいいことに気づきました。字の乗りの悪さはクリヤーデカールに艶消しのクリヤーを吹くことでカバーします。それで一丁上がり。今度は慎重に待って、クリヤーでカバーします。

 

この角度から見るとV尾翼が映えます。ちなみにデカールは、V2そのままですからインチキのきわみです。なぜか機首には20mmMGがキットにありましたが、埋めてもいません。デカールは素直で、数秒で台紙からはがれるし、クリヤーを吹いてもシルバリングも起こさずなじみます。

 

エンジン先端にも錘を入れましたが、 盧だけで機首のだけで十分だったようです。ピトー管はキットのはズンドウだし、資料の図面には、先端の細い棒が線一本引いてあるだけなので、真鍮パイプと棒で適当に仕上げました。だから位置以外はでたらめです。

 

 下面を見ると大変。この機体、P-51のように主脚の出し入れの時だけ主車輪カバーを開けるタイプのようなのです。地上では閉じているはずなのですが、主車輪カバーのモールドがほとんど消えていました。深めに彫り直しておくべきでした。そもそも、主車輪カバーのモールドがあったかすら今では定かではありません。

脚カバーはベロをつけて取り付けるという、実態無視のインチキです。

 

 


書評・海戦からみた太平洋戦争 戸高一成・角川書店

2021-05-16 15:43:15 | 大東亜戦争

 大東亜戦争の海軍の戦いについてコンパクトで適切に書かれているものである。ただ海軍の米内光政、山本五十六、井上成美らが反戦の立場から三国同盟に反対したという常識論を書いている(P35)。その後三人が海軍政策から外れると対米強硬派が三国同盟に賛成した、というのだ。相澤淳氏の「海軍の選択」によれば事はそう単純ではないし、そうであろうはずがない。英米協調派と目される山本ですらロンドン条約の随員であった時、財政が厳しいことを言う大蔵省の賀屋興宣を「黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と恫喝したのであった。この本には山本がむしろ対米強硬派であり、海軍が三国同盟に反対したのも賛成したのも、建艦予算獲得のためであったことが書かれている。海軍幹部は戦後も嘘をついてまで海軍を護ろうとしている人士がいる。陸軍の行動は満洲利権保護による国家安泰と言う明瞭な目的があったが、海軍には国家なく海軍あるのみであった。前掲書は興味ある一冊である。

 閑話休題。昭和十六年七月下旬には海軍中央の対米強硬派の主導によって南部仏印への進駐が行われ、その報復措置として対日石油輸出を全面禁止した(P43)。しかし前傾書によれば米内光政は親ソ反米であり、山本五十六が航空整備に狂奔したのは反米の考え方からである。しかも「大東亜戦争への道」、によれば既に昭和十五年の夏には英米指導者が対日屈伏のために対日石油供給停止について立法まで含めて協議していた(P547)のであり、南部仏印進駐はその口実に過ぎなかった。米国は日本を追い詰める既定の路線を走ったのである。

 同書によれば、米国は欧州大戦の推移を見て、日本の南部仏印進駐より前にアイスランドを占領していてグリーンランドに空軍基地を設けていて、日本の南部仏印進駐を非難する資格はなかった(P570)。アメリカも日本も同様に資源確保や軍事的合理性からこれらの行動をとった。本書も結局は全てが日本の行動だけに原因して英米の対日圧力を正当化する、という愚を犯している。外交上の二国間の争いも、一方の国の行動に目を瞑れば他方の国の行動は理由も無い理不尽なものに見えるのである。

 山本の真珠湾攻撃の意図について、犠牲を顧みず真珠湾を徹底的に破壊し、敵の闘志を根本から萎えさせるという自らの真意を、南雲機動部隊にも軍令部にも知らせていなかった(P52)という。それを半藤一利氏の証言から、越後人の人見知りで口が重い性格に帰している。しかしこれは指揮官としては見当違いの話であろう。そして山本が、第二撃がやれれば満点だが、泥棒だって帰りは怖いんだ、南雲はやらんだろう(P54)、と言った、というがこれは前述の山本の意図に反した無責任な言動であろう。ここに記されたことが事実ならば山本は指揮官としての能力が欠如している。半藤氏も戸高氏も贔屓の引き倒しをしているのに気付かないのであろうか。

 山本五十六は知米派と言われている割に、アメリカの友人に宛てた書簡が全く見当たらない、という秦郁彦氏の指摘を紹介している。他の本でも指摘されているが、山本は何回もアメリカに行っているのにアメリカ人とは付き合わなかったのである。そして攻撃されれば猛烈に反発する米国人気質を知らないから見当違いに士気を阻喪するなどという意図を持ったのである。メイン号を忘れるな、とかアラモ砦を忘れるな、と言ったアメリカの戦史する勉強していなかったのである。だから自ら真珠湾を忘れるな、という標語をアメリカに追加させたのである。

もし日本が一時間前に宣戦布告をしていたところで、アメリカ国民は激高したのは疑いが無い。アラモ砦は奇襲されたので怒ったのではなく、守備隊が全滅したから怒ったのである。しかも守備隊は勝手にメキシコ領に侵入して砦を築いたのである。他国の領土に作った砦を全滅させられても怒る国民が、どうして自国の軍港の艦艇が全滅させられて怒らないと言えるのだろう。宣戦布告の遅れについて重箱の隅をつつく人たちの料簡が知れない。

真珠湾攻撃でもミッドウェー海戦でも事前の特別図演では日本側空母は全滅する、という結果が出たのに、それを抑え込んで作戦を強行したのは山本自身であった(P80)。戸高氏は反戦の人として山本を描こうとしているが、本書が並べた事実をつなぎ合わせれば、山本の重大な欠陥が浮かび上がる。

 ブーゲンビル島沖航空戦で、高性能レーダーと戦闘情報センターによる防空戦闘機隊の支援システム、近接信管を備えた高角砲弾を持つようになったため、従来に比べ隔絶した防空能力を持つようになった(P99)、と書く。実際にはそれ以前に射撃指揮装置の能力の差から昭和十七年の珊瑚海海戦でも南太平洋海戦でも日本の攻撃隊は大きな損害を受けている。防空システムにしてもレーダーにしてもこの時突然登場したのではなく、逐次進歩したのである。艦隊の防空能力に大きな差があったのは大戦以前からで、差が広がったのに過ぎない。近接信管の登場はマリアナ沖海戦からで、それも少しが使われたのに過ぎない。

 後半では艦隊航空を使えなくなった海軍が陸上機による攻撃を実施したが、それも次々と失敗に終わったことが書かれているが、この戦訓を考慮しない単調な攻撃はもっと批判されてしかるべきである。酸素魚雷の高性能が日本海軍から突撃精神を奪い、実戦での戦果が僅かであった(P128)と書くがその通りである。酸素魚雷も航続距離を短くすれば高速になる。従来の攻撃砲と同じ距離から発射すれば命中率は上がる。酸素魚雷が恐ろしく遠距離で命中した戦果の自慢が戦記にが散見されるが、そんな戦果は期待するものではない。

 武蔵の主砲の方位盤が魚雷一本の命中で使えなくなった(P165)と言って、大和型のメカニズムは複雑繊細でわずかな被弾で戦闘能力を失う、と書くが、繊細で脆弱ではあったが複雑だとは思われない。システムの全てが米海軍に比べ改良がはるかに遅れシンプルだったにもも拘わらず脆弱だったのである。である。大和型の欠陥は船体防御にも砲弾にも、いくらでもある。猪口艦長は武蔵が被害に強いことと、射撃に自信があったので射撃精度を高めるため雷爆撃に対する回避行動を行わなかった(P163)、とあるがこれは何かの間違いであろう。

 栗田長官は海軍を輸送船と刺し違えて終わらせることに躊躇してレイテ湾突入を放棄した(P174)と同情するが、戦後黙して語らなかった栗田が「疲れていた」とだけ語ったことが象徴するように、そんな立派なものとは思われない。米軍にすらあった、見敵必殺、肉を切らせて骨を切る、の敢闘精神が大戦前から日本海軍では少数派になっていた。被害を恐れるあまりアウトレンジで戦う指揮官が多過ぎたのである。

 最後は特攻の話で終わるが、人間魚雷を発案進言したのが中尉、少尉クラスであったように(P181)桜花などの特攻専用の兵器の多くが、下からの必死の提案でなされたのである。形式的にはともかく、根本的には上意下達の精神が少ない日本では兵士たちに、やむなしの気持ちがなければ特攻は実施できない。

 総評だが、これだけの大きく幅広いテーマなので、この倍以上の紙幅を費やして書きつくしてほしかった。これだけのページにまとめるならテーマを絞った方が良かったのではないか。


He280 V2 その2

2021-05-11 14:19:14 | プラモコーナー

 主翼は取り付けようがないので、2mmのプラ棒を胴体に埋め込みました。

 

 主翼もエンジンも簡単に接着できました。ただし、資料や説明書の図面と異なり、エンジンには明らかなダウンスラストがついてしまいます。修正のしようがないので諦めました。もっと変なのは、座席の位置で、前の写真ではどう考えても後ろ過ぎるので、引っ剥がして可動風防中央の位置に変更しました。資料には案外座席の位置がはっきり分かるものは少ないのです。

 

 さて問題は垂直尾翼です。双垂直尾翼で、一度は水平尾翼を取り付けましたが、双垂直尾翼は不安定な感じがしたので、インチキなのですが、V尾翼にすることにしました。半乾きの水平尾翼を無理やり引っぺがしてV尾翼を取り付けましたが、案外スムースにいきました。V尾翼のテストはされたのですが、V2には使われていないので架空機になってしまいました。この方が塗装や磨きの時も楽なのです(笑)

 

キャノピーのマスキングですが枠が少ないので楽でした。固定平面風防丸枠は手塗りにします。

 

 塗装はRLM02一色で簡単です。汚しはウォッシングとアルコールペンでちょちょいです。武装はV2にはないはずですがキットには、20mmMG2丁らしき穴が機首に開いているので、実態を無視してそれらしく整形しました。どうせ架空機になってしまいましたから。

 


山本長官の真意

2021-05-07 14:03:11 | 大東亜戦争

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 真珠湾攻撃の図上演習で日本空母は全滅に近くなる、という結果が出たのに平然と無視して強行したのは、誰あろう山本長官である。これは、自分の都合がいいように解釈する日本海軍の悪癖に帰されているが、不利な対米戦に反対した合理主義者として持ち上げられている山本長官にしてこのていたらくである。しかしそれだけだろうか。そして山本長官は真珠湾で米艦隊を全滅させて早期講和に持ち込むつもりだったとされている。しかし早期講和論者であるにしても真珠湾攻撃だけで講和に持ち込めると考えるほど単純だったのだろうか。

 山本長官は条約派と言われているが、実際には主力艦の制限の軍縮条約に賛成する大蔵省の官僚を怒声で恫喝するほどの艦隊決戦派であった。航空機の威力は認めても最後の決戦は戦艦同士で決すると考えていた、こう考えると謎が解けるのではないか。もし真珠湾で徹底的に太平洋艦隊を殲滅するつもりなら、空母を使うにしても最後は戦艦の主砲でとどめを刺すはずであるが、戦艦は遥か後方において海戦に参加させなかった。

 つまり真珠湾攻撃は日露戦争開戦直後の旅順港攻撃と同じで、敵主力の勢力を減殺するつもりだったのではないか。旅順港攻撃には主力艦を使わず、水雷艇の魚雷攻撃を行ったのと同様に空母を使ったのである。旅順港攻撃はほとんど戦果を上げることはできなかった。真珠湾では航空機を使えば空母は全滅するにしても、旅順港よりはるかに大きな戦果を上げることができる、と考えたのではなかろうか。図上演習で空母が全滅すると出ても、主力艦たる戦艦は残るから強行したのである。

 そうすれば来るべき戦艦同士の艦隊決戦で有利に戦え、本当の勝利を上げることができ講和ができると考えたのである。旅順港の体験からは、どのみち真珠湾内では徹底した戦果は得られず、洋上での艦隊決戦によって勝利は得られると考えた。だから真珠湾攻撃では空母を犠牲にして戦艦を温存しようとしたのである。山本長官は図上演習の結果を無視したのではなかった。真珠湾攻撃で日本側の艦艇の損失は零に等しく、航空機だけで大戦果を上げるという予想外の結果に、山本長官は舞い上がってしまった。ミッドウェー攻略でも山本長官は空母の全滅のシュミレーションを無視したが、これは真珠湾攻撃の成功のために、今度こそ自信過剰のために図上演習を信頼しなくなったのである。

 山本長官に躁鬱の気質があったというのが正しければ舞い上がり方は激しい。そのためそれ以後航空機を重用するようになった。だが珊瑚海海戦でもミッドウェー海戦でも戦艦を活用しなかったのは、基本的にはそれが艦隊決戦だと考えなかったためではなかろうか。両海戦ともに、島嶼の攻略作戦であり艦隊決戦ではないと考えたのである。日本海海戦で勝利した日本海軍の首脳は、山本も含め艦隊決戦とは上陸作戦等の具体的な作戦が決行される際に、それを阻止しようとする敵艦隊との衝突のために起こるという、現実的な考え方はなかったのである。

日本海海戦の勝利に酔った日本海軍にとっての艦隊決戦とは、競技場のスポーツのように、互いに艦隊を並べてヨーイドンで戦闘が始まるものであった。だからガダルカナルの攻防で山本長官は艦隊決戦に主力艦を温存するために、艦上機を陸上に上げたり陸攻を使ったりして艦船攻撃をさせて敵兵力の損耗を図った。来るべき艦隊決戦のために。ところが1000kmにもなる途方もない長距離攻撃を漫然と繰り返して大量の航空機を消耗した。戦艦を使って飛行場砲撃を行うにしても、艦齢が最も古い旧式な金剛型を使用した。万一損失しても艦隊決戦への影響は少ないからだ。海戦に空母を活用するのなら、むしろ最も高速の金剛型は温存すべきで、同じく旧式でも主砲の数が金剛型の五割増しの扶桑型の方が陸上砲撃に適しているが、やはり金剛型より砲力と防御力に優れた扶桑型は艦隊決戦に残したかったのであろう。

山本長官はやはり艦隊決戦の勝利による講和に固執したというのが本項の仮説である。航空戦力さえ整えれば対米戦には自信がある、と山本長官は考えていたとされるが、それは根本的に戦艦より航空を戦力として重視したのではなく、航空機による敵主力艦の減耗によって米艦隊との主力艦による艦隊決戦に勝利する自信があると考えていたのではなかろうか。艦隊決戦に勝つことが対米戦争に勝つための唯一の戦略である、というのが日本海軍の戦略なき「戦略」だったのである。 

小生の疑問を付記すれば、何故海軍がそうなったか、である。闘将として知られる山口多聞中将ですら艦隊決戦主義以上の戦略を持っていたようには思われない。こうなった原因のスタートは、日本海海戦の勝利とそれによる講和の成立である。当時の国際法上の戦争は、戦況の有利不利によって最終的に停戦して講和する。日本海海戦が圧倒的勝利に終わり、そのことが講和をもたらしたのである。

だから艦隊決戦に勝利することが講和と言う戦争の決着に直結する、と言う発想が生まれ兵学校や海大などで教育され海軍中枢に引き継がれていったのである。しかも海軍にとって都合がいいことに、艦隊決戦が講和をもたらしたのは海軍が陸戦のサポートや補給の保護と言った、陸軍の支え役であるという補助的本質が否定されたのである。だから海軍は艦隊決戦こそ国軍の最大任務であると、陸軍と張り合ったのである。このことから艦隊兵力の予算獲得だけが海軍政策の最大任務となった。海軍の戦略は艦隊充実のための予算獲得である。

石原莞爾も自覚していたように、日露戦争の陸戦は辛勝であった。建前はともかく、このことは士官学校や陸大に行って真面目に資料を研究すれば分かったはずである。だから陸軍は、日本海海戦は、グロッキー寸前の日本が最後にラッキーパンチを当ててロシアをノックアウトしたのに過ぎなかったことを知っていたのである。奉天の会戦の勝利も、まともに戦えば勝てるロシア陸軍が、ナポレオン戦争と同じく、退却して日本軍を奥地に引っ張り込んで、補給線が伸びきったところを叩くつもりだつたのである。その上大陸に進出した陸軍は満洲鉄道とともにロシアや支那と対峙して統治の一環として軍事を位置づけざるを得なかったのである。だから陸軍には石原莞爾のような戦略家はいても、海軍に戦略家はいなかった。これが本項の仮説である。


He280 V2 RSモデル 1/72その1

2021-05-04 14:39:16 | プラモコーナー

  Me262より先に飛んだので有名なハインケルのHe280でV2を選びました。He280のHeS8aは耐用時間1時間しかなかったそうですが、爆撃機迎撃には十分ではなかったかと惜しまれている機体です。

 

 ところがこのキット、気付かずに買ったのですが、原型のHeS8aではなく、ユンカースJumo004Bに換装されたものでした。なるほどキットには無使用パーツとして小型のエンジンがあったのですが、これがHeS8aなのでしょう。

 

 

 座席は、ようやく錘が押し込めるだけのスペースが確保できましたが、座席の位置が風防後端に納めましたが、間違っていたようで後で修正しました。