毎日のできごとの反省

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ミッドウェー半数待機の疑問

2016-10-09 16:01:19 | 大東亜戦争

 ミッドウェー海戦では山本司令長官の命令で、搭載機の半数を敵空母出現に備えて待機させた、ということであった。ウィキペディアによれば、真珠湾攻撃の時点での搭載機合計は、補用機を含め、255機である。一方是本信義氏によれば(1)、ミッドウェー攻撃隊は108機で、対機動部隊待機も山本大将の厳命により108機とある。また是本氏による日本側航空機330機には、戦艦などの艦載機も含むのであろう。

 255機との差は39機となるが、これは補用機、艦隊防空機などであろうか。ウィキペディアによるミッドウェー島第一次攻撃隊の編成は各艦の出撃機数は赤城27(9,0,18)、加賀27(9,0,18)、飛龍27(9,18,0)、蒼龍27(9,18,0)、となっている。カッコ内は、各々零戦、九七艦攻、九九艦爆である。これは是本氏の合計と一致する。すなわち赤城と加賀は搭載の艦爆の全機、飛龍と蒼龍は搭載の艦攻の全機が出撃したことになる。

また、赤城の項には、待機の九七艦攻は全機が魚雷を搭載しており、第一次攻撃隊出撃後飛行甲板上に上げられ、機動部隊攻撃待機をしていたとされている。加賀も同様であったろうし、飛龍と蒼龍の九九艦爆は全機が対艦用爆弾を装備して、飛行甲板上に上げられたのであろう。

真珠湾攻撃の際には第一次攻撃隊は第一波と第二波に分け、半数づつ攻撃隊を発進させている。これは飛行甲板に全機を揃えて発艦させられないための処置である。第一波が発艦し始めて、飛行甲板にスペースが出来始めると格納庫に待機していた第二波の機が上げられ、第一波全機発艦後しばらくすると、第二波全機が飛行甲板上に整列できて一斉に出撃したのだろう。

 ミッドウェー攻撃では、これに準じて、真珠湾攻撃の第一波と類似の編成で、地上攻撃の第一次攻撃隊を出撃させた。そして、是本氏によれば、第二次攻撃の要あり、という無電(〇五三〇)により待機機の兵装を対艦用から陸用に転換したが、利根四号機からの敵機動部隊発見の報(〇六三〇)により、混乱したが、結局第一次攻撃隊収容後、待機機を再度対艦用兵装に転換して一番機発進の直前に急降下爆撃を受けた(一〇三〇)と言うのである。

ウィキペディアの言う、第一次攻撃隊が発艦したらすぐに待機していた機動部隊攻撃隊を飛行甲板に整列させた、というのは運用上煩雑となる。こうすると、待機機が飛行甲板上にいる限り、帰還した第一次攻撃隊は着艦できない。第一次攻撃隊は往復約二時間しかかかっていないから、飛行甲板に待機機を上げてから、二時間以内に、待機機を全機発艦させるか、全機格納庫に戻さなければならない。

一機平均発艦には一分は要するから、全機発艦には20分以上かかるし、格納庫から飛行甲板への出し入れは、それ以上かかるだろう。森村誠一氏によれば(2)、格納庫から飛行甲板からに引き上げて発艦体制を完了するのに40分はかかるという。話はそれるが、森村氏の著書には他にも貴重なことが書かれている。(P453)兵装転換は平常の訓練時でも、魚雷から八十番で一時間半、艦船用徹甲弾だと二時間半かかかり、逆は一時間半から二時間だという。

しかも、兵装転換は格納庫で行われているという。格納庫からの上下は、エレベータの速度で最短時間は推定できるが、兵装転換時間は推定方法がないので、関係者の証言を聞いたのであろう。

閑話休題。敵機動部隊発見の有無、兵装転換の有無にかかわらず、敵空母出現のための待機機が、飛行甲板上にいられるのは、元々1時間程度しかないことになる。

それどころか第一次攻撃隊が帰ってくると、収容のために飛行甲板を空けなければならない。すると発艦体制の40分より短くて30分で待機機を格納庫に収容できるものとしても、その間帰投した攻撃隊を空中待機させるか、帰る時間を予測して、あらかじめ待機機を格納庫に戻すかしなければならない。帰投した攻撃隊は多くが傷ついているから、空中待機させる、というのは、かなりリスクがある。つまり各艦から半数づつ攻撃隊を出す、というのはかなり運用上面倒かつ作戦上のリスクがある。

また是本氏が、機動部隊攻撃隊発艦開始直前に急降下爆撃を受けた、という定説をとっているのは間違いと考えて差し支えないであろう。米軍による日本兵への聞き込みによれば、母艦被弾中に攻撃機はまだ格納庫にあった、という。急降下爆撃機に襲われた時に、発進し始めたのは、防空戦闘機であったというのである。まだチェックを終えていないが、海軍の戦闘詳報には、敵空母攻撃隊発進開始、という記録はないと思われる。

また、艦爆の被害から幸運に免れた飛龍も、攻撃隊を発進させたのは、赤城らが被弾してから30分もたっているのも不可解である。少なくとも4艦が一斉に的空母攻撃隊の発艦を開始したと言うわけではないことははっきりしている。

また、前記のように、各艦での半数待機というのは、極めて困難である。待機させるなら4隻のうち二隻を機動部隊攻撃用にあてる方が効率が良いのである。このようなわけで、ミッドウェー攻撃隊の編成をきちんと調べないときは、山本大将の言う半数待機を実行したのなら、当然半数の空母が待機に回されていたはずだと小生は考えていたのである。

それをしなかったのには、いくつか理由が考えられる。第一に空母ごと全機待機にまわされれば、乗員や搭乗員に大きな不満が出る。真珠湾攻撃の際も攻撃隊に入れず、艦隊防空任務に回された搭乗員には不満があったと言われる。搭載機が大幅に減ったにも拘わらず、大した攻撃目標でないため、搭載機の半数で済むとしたら、各艦一斉に攻撃隊を出す方が、第一波と第二波とのタイムラグが生じなく、集中して攻撃できる、などであろう。

実際、艦上機数は真珠湾の六割程度しかない、翔鶴型の不参加による搭載機の不足と、ミッドウェー攻略と敵空母撃滅の二股をかけたことが、作戦をいびつにしたのである。だが空母がなかったわけではない。戦闘には参加していないが小型とはいえ、鳳翔(19機)と瑞鳳(30機)が随伴していた。また、ミッドウェーの牽制として行われたダッチハーバー攻撃には隼鷹(53)と龍驤(38機)を無駄遣いしている。

4艦の搭載機数合計は140機になるが、出所はウィキペディアによるものであり、補用機も含み、ミッドウェー海戦時かの確認はしていない、目安と考えられる程度である。このように翔鶴型がいなくても、空母と艦上機は余っていたのである。

(1)日本海軍はなぜ敗れたか・是本信義

(2)ミッドウェー・森村誠一


ウラナミシジミ

2016-10-06 14:52:21 | Weblog

 運に見放されない日と言うものはあるものです。ある休みの日の、午後一番に出かけると、駅の途中の花が植えているところに舞っているシジミチョウを見て、ただのヤマトシジミではないと直感しました。花にとまったのを観察すると、珍しいシジミチョウです。見覚えはありますが、図鑑でだったか標本か、はたまた実物か記憶が定かではありません。ところが、いつものデジカメがありません。それどころか携帯すらありません。残念無念と思って電車で出かけると、降りた街のビルの間に、何と同じ蝶がいるではありませんか。

 しかもさっきの蝶のように翅が痛んでいないし、二匹です。ますます残念です。三時間ほどして家に帰ってから、まだ明るいのでデジカメを持って最初の場所に行くと・・・もちろんいるはずがありません。しかたなく、いつもの公園のキバナコスモスの畑に行くと、二人のオジサンが蝶を撮影しています。ツマグロヒョウモンのオスメスが乱舞とはいかないまでも、けっこういるのです。散々撮ったものですが、仕方なく撮影しました。


 注意して見ると、最初に見たシジミチョウが二匹ちょこんとおとなしくとまっていたのには驚きました。もちろんこの写真がそれです。飽かず撮り続けること約20分。その中のベストがこれです。二人のオジサンはマニアと見えて一眼レフの立派なもので、羽ばたいていても連写してしまいます。小生の安物とは桁が違うのです。帰ってインターネットで検索すると、ほぼウラナミシジミに間違いありません。この名前に憶えがあるのは、子供の頃、飽かず蝶の図鑑を見ていたせいでしょう。デジカメを忘れてきた時は、正直二度と見ることはできないとガックリしていました。ともかく諦めないことです。いつかアサギマダラを撮影しそこなってから、何十回も同じところに通いましたが、未だに見られません。ところが今回はその日のうちです。運に見放されない、いい日でした。


支那は変質した

2016-10-02 17:46:45 | 支那大陸論

 支那の歴代王朝になぞらえて、中共のトップを皇帝に擬する向きが多い。最もそれらしいのが、毛沢東である。後宮のように若い女性を侍らせて、国民が餓えていても贅沢食三昧。気に入らないものは次々と粛清した。ある書によれば、あえてNo.1を狙わなかった周恩来ですら、癌の治療をさせてもらえず、死期を早めたとされている。

 しかも毛沢東が後継に指名したのは、息子どころか親戚縁者ですらない、華国鋒だった。世襲をしなかったのである。かつての支那王朝で世襲をしなかったのは、臣下に帝位を簒奪されたケースや易姓革命で王朝自体が倒されたケースであろう。中共になってシステムは変化したのである。変化したのは共産党という統治システムを取り入れたからであろう。

 現在の習近平主席にしても、早くから後継者である、という噂が公然と流されていた。共産党の後継者選びとは何か。支那には伝統的に幇(パン)という秘密結社に類する集団がある。支那は長い間の激しい闘争から血族しか信じない、と言われるが例外的に強い結束を持つ集団が幇である。

 皇帝ですら元々幇のボスだったといわれる者がいる。中国共産党は大規模な幇と言ってよいだろう。だからボスが選ばれるのは幇のシステムによるものだろう。もちろん形式的に行う全人代の推挙によるものである。こうして幇のボスの交代、すなわち国家主席の交代はシステマチックに行われる。

 毛沢東以来、外に見える特色は、一度ボスになったものは、ボスを退いても抹殺されない、ということである。世襲ではなく、途中で交代しながら生涯を全うできるのである。華国鋒は毛沢東から後継指名されながら途中で失脚した。それでも、粛清されることなく、天寿を全うした

 これが中共が続く秘密なのであろう。とすれば中共の崩壊は外部(ウィグルのような国内の非漢民族を含む)か、内部から反逆者が出て、ボスを粛清することによって権力を奪う時である。その時王朝は交代する。新しい幇のボスが新皇帝となる。しかし、それが世襲となるか否かは王朝を倒した幇の性格によるものだから予測は不能である。

 ひるがえって日本のことを考えてみよう。日本が江戸時代までの、幕藩の世襲制度が選挙になったのはなぜだろう。選挙は西欧の真似であるにしても、受け入れる素地がなければ定着しない。中共や北朝鮮の選挙は、投票するという形式を真似ただけで、実質は伴っていない。これらの国では選挙は受け入れられないのである。

 日本の商家でも、入り婿の制度があり、血族に適切な者がいなければ、実力のある血縁のない者を養子にして家を継がせていた。確かに最近の日本の政治家は、特に上位にいくと世襲が多い。それでも、一代で成り上がる人物もいる。矛盾しているようだが、世襲が多いのも、一代で成り上がることができるのも、選挙と言うシステムが正常に機能しているからである。例えば江戸時代でも、実力のある者が周囲から推挙されるという伝統に基づく。

これに対して中共、歴史的にいえば支那は、王朝の易姓革命による断絶を繰り返していた。それでも、同一王朝内での世襲と言う伝統は、中共では放棄されている。それにより中共の次の王朝も世襲はしなくなるのかも知れない。清朝滅亡以後支那は変質したのである。明瞭に現われているのは「皇帝」という称号がなくなったことである。