毎日のできごとの反省

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地球日本史1・日本とヨーロッパの同時勃興・西尾幹二編

2023-10-15 16:17:28 | 書評

 この本のテーマは副題が自ずから示している。何人もの筆者が各テーマで分担しているので、純に紹介していこう。執筆者は必ずしも紹介しない。以下の番号は本書にふられたものであるが引用していない項があるので、番号は抜けている。

①日本とヨーロッパの同時勃興

 日本が有力文明の域に達した時、同時にヨーロッパがイスラム文明を破って海洋に進出したのがほぼ同じ17-18世紀である。(P27)日本の歴史は、明治維新や敗戦などで断絶しているのではない。江戸時代の文明の熟成が維新のヨーロッパ文明の導入を可能にし、戦前の軍需産業が戦後の高度成長を可能にした。農地改革ですら戦前から始まっていたというのである。(P29)

②モンゴルから始まった世界史

 タイトルには4つの意味がある。(P40)モンゴル帝国は、東の中国世界と西の地中海を結ぶ草原の道を支配して、ユーラシア大陸をひとつにまとめたので世界史の舞台ができた。モンゴルがユーラシア大陸の既存の政権を全て破壊して、あらためてモンゴル帝国から新しい国々が独立することによって、今のアジアと東欧の諸国が生まれた。北支那で生まれた資本主義経済が、草原の道を通って西ヨーロッパに伝わり現代社会が始まった。モンゴル帝国がユーラシア大陸の貿易を独占したので、日本と西ヨーロッパが活路を求めて海上貿易に進出したために、歴史の主役が大陸帝国から海洋帝国に変化した。

 意外であったのは、資本主義経済が発生したのは北支那である、ということである。元朝以前の北京は女直の金帝国の都で、以前から中国ではもっとも商業が盛んな地域であった。ところがここでは銅が取れないため通貨が作れない。そこで金帝国では手形取引が盛んになり、信用の観念が発達した。信用は資本主義経済の基礎である(P48)というわけである。

 念を押すように、フビライは中国皇帝の伝統を継いで、中国に入って中国式の元朝を建てたというのは誤解で、元朝はほとんど中国に入っていない。元朝のハーンは一年の大部分をモンゴル高原を移動して過ごし、冬だけ避寒のため大都(今の北京)に滞在したという(P48)のである。これは清朝が首都を北京として常駐し、真夏に避暑のためにだけ故地である、熱河に滞在したのと真逆であるのが小生には興味深い。それゆえ、モンゴルは帝国を倒されても故地に戻り今に至るまで存続し、満洲族はそれ以前に支那本土を支配した外来民族と同様に、支那本土に土着して漢民族のひとつに分類されるに至ったのである。

支那大陸に侵入した外来民族は、漢民族に同化吸収されたのではないことは、元朝の中国に反乱が起きて、ハーンはモンゴル高原に戻ったが、後継の明朝の制度はモンゴル式をそのまま引き継いだ(P50)、というのだから、「漢民族」が変わったのである。東ヨーロッパの森林地帯には、スカンディナビアから来たルーシ人の街が点在するだけであったが、モンゴル帝国の高い文化にはじめて触れて、低かった文化が成長した。ロシア正教もモンゴル人の保護で広まった。モスクワ大公イワン四世は母が多分にチンギス・ハーンの血をひいているといい、ハーンのスラブ語訳のツァーリを自称した(P51)。全てのことが、それ以前から支那本土に住んでいた人々から、野蛮人扱いされていたモンゴル人や満洲人などの民族の文化が高く、「漢民族」もそれを受け入れて発展したことを証明している。

④中華シーパワーの八百年

 現在の中国は大陸国家であり、近年海軍力を増強しつつあるが、長い間の体質は容易には変わらないだろうというのが一般的見解であろう。ところが、本項では、中国は十二世紀から十九世紀の間にはアジアでも傑出した「シー・パワー」であったというのだ。その結果としてアジアの至る所に商業コロニーとしてのチャイナタウンができた。また、中国のシー・パワーの強さについては欧米人はよく知っているというのだ。(P72)

だが小生には、中国は大陸国家であるという常識を簡単に変更することは、数百年単位ならともかく、百年二百年というスパンでは変更する必要はないように思われる。なぜなら、十九世紀までの中国人と今の中国人には文明文化の断絶がある、と考えられるからである。民族のDNAにも習俗にも、海洋民族としての体質が残されているようには思われないからである。それをいうならむしろ日本の方が海洋国家としての体質を残していると考えられる。日本の民族には変化はあれ、断絶はないからである。世界各地のチャイナタウンには既に商業コロニーとしての機能はなく、本国との連携も少ないのである。現在の中共政府が海外の華橋を利用するのは、商業コロニーとしてではなく、同一民族であるというフィクションによって政治利用しているのに過ぎない。

⑥西欧の野望・地球分割計画

スペインとポルトガルが地球を二分割する許可を、ローマ教皇から得たというとんでもない話は有名である。その根拠は、イスラム教徒はキリスト教徒の国土を不当に占拠していて、東洋や南米は、宣教師の現に耳を傾けなかったり迫害し、北米の原住民は布教は妨害しないが、自然法に反する悪習を守っている。従ってこれらの人々に対する戦争は正当である、という(P126)のだから、根源はキリスト教の独善的傲慢にある。

 アジアについては、日本は貧しいが国民は勇敢で軍事力があり征服できないが、支那人は臆病で国は富んでいるから征服する価値がある、という。そして支那は人口が多いから死体で城壁で築いても通さないといっているから、日本人を利用するのがよい、という。そしてある日本人の研究によれば小西行長らの複数のキリシタン大名から、援軍を用意する旨の意思表示があった(P128)、というからひどい話である。

岩波文庫に「インディアスの破壊についての簡単な報告」という本がある。この本はスペインが南米で行った残虐行為をこれでもかという執拗な調子で書いたもので、これが世界に流布した結果、スペインは自虐的になり、世界一元気のない国になってしまった。スペイン人は自らスペインの悪口を言いたがるというのである。ところが、1985年に「憎悪の樹」という反論の書が出た。それによれば、インディオの殺害数は到底勘定が合うものではないし、当時著者は反論を受けた際に一言も有効な反論ができなかった。従ってかの本は虚偽、歪曲、のでたらめな書であるという(P131)。

ここで思い出すのは日本の自虐史観である。東京裁判や支那から宣伝された「日本軍の残虐行為」は定着してしまい、嘘までついて日本軍の残虐行為を証言する日本人が続々と出るに至った。この状況が続けば、日本も第二のスペインになる恐れが極めて大である。現に政治家でも経済人でも学者でも、中国に対しては必要以上に卑屈になっている。

⑦秀吉はなぜ朝鮮に出兵したか

 秀吉の朝鮮出兵は、昔から彼の征服欲だとか乱心の果てだとか言われている。本項によれば、征服欲説は江戸時代からであり、徳富蘇峰ですらも賛同し批難の言説を述べている。(P139)もちろん朝鮮は明への通路に過ぎない。この項では村松剛の説を引用して、秀吉はスペインとの同盟を考えていたという説を紹介している。同時に明が西欧に支配されれば、将来日本の脅威になるとも考えていた。従って同盟が不可能なら単独でも明を日本の支配下に置くしかないというのである。(P144)

 さらに日本とスペインの思惑が異なるのは、秀吉は明を支配するのは日本であってスペインには布教の自由を与えれば良いと考えていたのに対して、スペインは明の支配権は自分にあり、日本は傭兵扱いであったと論ずる。しかし、秀吉は宣教師は西欧の侵略の尖兵であるという認識があったことを考えると簡単には信じがたい。布教を許すことは脅威の種をまくことだからである。

 筆者の独創は、朝鮮征伐を「ミニ大東亜戦争」だったとする考え方である。(P146)スペイン人が日本を利用したのと北清事変に日本出兵を利用したのとの類似性。満洲の共同経営のハリマンの提案を断って独力でしようとしたこと。そして大陸で衝突して敗れたことである。いずれにしても、朝鮮征伐を偏狭な征服欲に帰すことは、日本が西欧と接触し、世界史の中で動いていたという、巨視的な視点が欠けている、むしろ偏狭な見方である。それと朝鮮征伐の段取りが拙劣であったのとは次元が異なる。

⑧フィリップ二世と秀吉

 ここでは、秀吉のキリシタン弾圧の根拠が明瞭に書かれている。(P160)1596年スペインの貨物船が浦戸に漂着した。積み荷は押収されて乗員は尋問された。彼等は世界地図のスペイン領を示し、国力の大きさで威嚇しようとした。どうして広大な領土を獲得できたかと聞かれると、征服したい国に宣教師を送り込み、住民の一部を改宗させると次は軍隊を送り込み、改宗者と合同して簡単に征服したと語った。この話はただちに秀吉に伝えられ、長崎の26人の処刑に始まるキリシタン弾圧が始まった。

だが秀吉がキリスト教を禁止したのは1587年である。この理由はP143に書かれている。神父コヨリエが外洋航海ができないボロ船に重装備をして秀吉に見せて、軍艦の威力を誇示した、というのである。秀吉が怒ることを恐れて、キリシタン大名がボロ船を秀吉に渡すよう説得したが果たせず、秀吉が激怒して禁教がなされたというのである。神父の馬鹿な行動で禁教が始まったとはにわかには信じられない。そして、船員の証言でキリシタン弾圧が急に始まったというのも同様である。もともと秀吉には宣教師が送り込まれた地域は征服されている、という情報があって、これらのエピソードは、その判断が確定的であると、ダメを押したのだと小生は考える。そうでもなければ、秀吉の行動は過激で素早過ぎる。P141にも書かれているように「・・・秀吉はキリシタンに概して好意的で宣教師たちと親しく交際していた期間が長い」のである。

P175にはキリスト教に関する恐ろしい考察がある。「・・・フィリップ二世時代のカトリックの統治哲学の中に秀吉が直感した狂気への洞察である。ドフトエフスキー「大審問官」が告白した通り、あれはニヒリズムの極北というべき「人神思想」であって、後の世にナチズムやスターリニズムとして再来する政治的狂気とも決して無関係ではないであろう。」というのだが、このグループにはアメリカ先住民の民族抹殺や黒人奴隷化なども入れるべきであろう。彼等は必ずしもカトリックではない。キリスト教を西洋人が纏った時に人神思想は発現したものと考える。キリスト教が根源的に悪いのではなく、キリスト教と西洋人との組み合わせが狂気を生んだのである。

⑩鉄砲が動かした世界秩序

 ここでは、西洋から鉄砲を導入すると瞬く間に日本中にひろがり、世界一の鉄砲保有の軍事力を持った日本が、江戸時代に急速に鉄砲を放棄し、刀剣に立ち返った謎について説明している。城の構造や兵農分離など鉄砲本位の社会になったのにである。(P206)一般には、西洋が火縄銃から更に進化を遂げたのに、日本では火縄銃で停滞したと説明されているが、ここでは刀剣に退化し、「軍縮」がなされたと評価している。藤原惺窩は「治要七条」に戦国の世が終わったので、これからは文治でなければならないとして、徳治を説いた。これは西洋の覇権主義とは対極である。刀剣は武士の魂としての象徴的なものとなり、武士は筆を持って城に詰めるようになった。(P213)

西欧では戦乱により、十七世紀前半にグロチウスが戦争を世界観の中心として国際法の柱とした。従って西欧は覇権に基づく軍拡の道を歩んだ。(P215)要するに西洋はヨーロッパの内戦で、武器の進化が進み、戦争の調停などの手段としての国際法が生まれる必然性があった。国際法の出自は戦争にあったのである。ところが現代日本では戦時国際法は極めて軽んじられて、戦後未だまともな戦時国際法の著述を知らない。以前論考したが支那事変の当時ですら、支那事変の戦時国際法が考察されていた事実がある。敗戦までの日本人は国際法に無知ではなかったのである。

⑪キリスト教創造主と日本の神々

 新井白石と司祭シドチとの対決は有名な話である。白石はシドチの博聞強記に感嘆するが、キリスト教の教義の話になると愚かな事に呆れた。デウスは天地創造したのなら、デウスを作りだした者がいるのであり、もしデウスが自ら成り出ることができたのなら、天地も自成しうることに何の不思議もない、というのである。(P237)なるほど明快な論理である。西尾幹二氏は「江戸のダイナミズム」という著書で、本居宣長が、天の神が占いで教えを請おうと仰ぎ見る神は何者か、と詮索するのは支那にかぶれて歪んでいるのであって、神代の事は疑わしくても、古代の伝承のままに受け止めれば良い、と言っていることを紹介している。これならば、新井白石も納得するのであろう。

⑬日本経済圏の出現

 清朝は17世紀半ばに、銅不足で日本の銅輸入に頼っていた。ところが、中国の膨大な銅需要に応じられないので、信牌を持つ中国人にだけ制限した。信牌には日本の年号が記されているので、信牌は全て寧保で没収されたために、その後二年間は中国船は日本に来られなくなった。しかし、困った清朝は、信牌を政治的な意味のない、商業的手続きであると強引な解釈をして信牌を商人に返し銅を輸入させた。これは結果的には公式の朝貢貿易以外の現代的意味での貿易が成立した、ということである。(P271)中国流の立場からすれば、日本の年号を用いたということは、中国が日本に朝貢したと考えられるのである。


書評・アメリカ・インディアン悲史

2023-05-20 18:39:00 | 書評

藤永茂著・朝日選書

 この本は有名なソンミの虐殺で始まる。それは「ソンミは、アメリカの歴史における、孤立した特異点では決してない。動かし難い伝統の延長線上に、それはある。」(P12)として「アメリカ史上はじめての汚い戦争のぎせい者である」という当時の多くの米国民の一般的な声を否定する。米軍は歴史的に民衆を虐殺するような非人道的な体質を持つ軍隊であると言うことを言いながら、著者の姿勢で不可解なのは、それならば米軍が対日戦でも同様な行為をしたはずであるということを考えもしないで、人道的な米軍と非人道的な日本軍ということを疑いもしないことである。

 この本は確実な証拠はない(P257)、としながらも多くの文献から米国が「西部開拓」に行ったインディアンに対する卑劣で残虐な行為を示し米国の歴史の暗黒面を示している貴重な本である。問題は現在もインディアンに対する迫害は続いている。迫害されないインディアンとは名誉白人としてアングロサクソンに同化した人たちである。もし迫害が終わったとすれば、居留区が崩壊し、インディアンのアイデンティティーを持つものがいなくなっているからである。すなわち民族絶滅が完了したのである。本書によれば「現在、北米インディアンの大半は、各地に指定された保留地区に住んでいる。・・・アメリカではインディアン・リザーベーションとよび、一般に都市の黒人貧民街よりも、一段と悲惨な状態にある。しかし、不毛の荒地に位して、人の目につかない場合が多い。(P74)

 アメリカに入植した白人は「インディアンが、とうもろこしや、七面鳥をたずさえて来て白人たちの空腹をいやした時、白人たちはそこに神の恩寵のみを見た。やがて、邪魔者と化したインディアンの、効率よい虐殺に成功するたびに、彼らはそこに再び神の加護を見出し、あるいは、頑迷な異教徒を多数殺戮することによって、彼等の神への奉仕をなし得たとすら考えた。」(P36)これはアメリカの異民族征服や西部開拓を正統化するマニフェストデスティニー、すなわち明白なる使命と呼ばれるものである。

 マニフェストデスティニーはインディアンから大陸を奪ったのにとどまらない。メキシコを騙して広大なニューメキシコ州を奪ったとき、スペインを挑発してフィリピン人を騙してフィリピンを奪った時も使われた。対日戦のみならず卑劣な民間人の大量殺戮の本土空襲さえ正統化することができる。著者と違い私は嫌米反米ではない。米国にはこのような暗黒面もあるという事実を認識する必要があると思うだけである。長い闘争の歴史で丸くなったヨーロッパにしても、アメリカ人と同じような暗黒面を持つことを知らなければならない。

 独立を約束してスペインと闘わせながら、米西戦争後フィリピンを得たアメリカは、マッカーサーは以下の将軍が「一〇歳以上すべて殺すこと」(P246)を命令した。当時のフィラデルフィアの新聞の一面の現地報告の一部には「アメリカ軍は犬畜生とあまり変わらぬと考えられるフィリピン人の一〇歳以上の男、女、子供、囚人、捕虜、・・・をすべて殺している。手をあげて投降してきたゲリラ達も、一時間後には橋の上に立たされて銃殺され、下の水におちて流れて行く・・・」(P246)。この新聞記事は残虐行為を非難するのではなく、正当化するために書いたと言うのだから、正に「マニフェストデスティニー」を確信していたのである。

 黒人奴隷の扱いについても「アメリカ人が黒人奴隷制度の下で犯した非人道行為は気の遠くなるような規模のものである。ナチによる三〇〇万人のユダヤ人虐殺もその前に色あせる。・・・アフリカからアメリカに向かう奴隷船に全く貨物同然につめこまれた黒人たちが暑気と窒息のために死んだ数は一〇〇〇万と推定されている。」(P248)という。別な本で、黒人は魚を運搬するように詰め込まれ、運んだ人数の半数が死んだと言うことを読んだ。黒人は人間ではなかったし、高率で死んだとしても、ゆったりとしたまともな状態で運ぶよりコストパーフォーマンスがよかったのだ。

平成二十五年「奴隷解放」で有名なリンカーンの映画が上映された。奴隷解放を讃えているのだ。そのことが善であるにしても、その前に言語を絶する規模の非人道的行為が国家の常識として行われていたことが問題にされず、廃止した人の功績だけが異常に讃えられていることは普通ではない。連続殺人犯をある警官が逮捕した事件で、連続殺人犯の罪が不問に付され、警官の功績だけが讃えられている、と言ったら分かりやすいだろう。それもアメリカの奴隷の場合は、連続殺人犯は一人の異常者ではなく、連続殺人の犯罪にはには政府も国民もが参加していたというのだから。慰安婦を「性奴隷」と簡単に言う米国人は、奴隷があるのが当然だから、それになぞらえたのである。その上、奴隷解放を美点として、奴隷を使ったことに良心の呵責があるから、ことさらに批難して見せるのだ。そもそもリンカーンですら黒人奴隷を所有していたのだ。

 白人は土地の所有についてインディアンと協定し、ことごとく裏切って土地を全て奪った。「・・・条約、協定は、三〇〇を超えたが、そのほとんどすべてが、白人側から一方的に破られた。・・・この事実の証拠隠滅をほとんど企てなかったアメリカの白人達の天真らんまんさを、たたえるべきであろうか。」(P42)アメリカ人の狡猾さはハワイ王国を乗っ取った時にも発揮されたのは明白である。

 「涙のふみわけ道」(Trail of Tears)とはチェロキー・ネイションの強制移住である。単に白人達に邪魔だと言うだけで、着の身着のままで1300kmも移動させられ、死者は四千人、四人に一人が死に、死者を出さなかった家族はいなかった(P208)。単に移動だけではない強姦殺戮も行われたのである。しかし大統領はインディアンの了解にもとづいて行われて幸福な結果をもたらした(208)と国会に報告するほどの恥知らずである。アメリカ人はありもしない「パターン死の行進」を日本軍の残虐行為をでっちあげているが、その米人ですら、「涙のふみわけ道」にくらべりゃ、パターンの死の行進なんざそんじょそこらのピクニックみてえなもんだ(P152)」と評したのだ。要するに「バターン死の行進」とは自分たちの行為を日本人に投影して発明した嘘である。嘘をつく人間は自分がしそうな悪事を人がやったと言うのだ。

 ニューヨーク州のダム建設で、ワシントンが条約で保護を約束した土地の強制立ち退きを拒否して最高裁にまで行ったとき、当時のケネディ大統領は立ち退き判決に黙っていた、つまり黙認した。ケネディ神話は黒人にも信じるものがいるが、インディアンにとってははじめから落ちた偶像であった(P92)と書く。インディアンの迫害は、過ぎた昔話ではない。昔話になるとすれば、インディアンが絶滅する時である。

 インディアンが頭の皮を剥ぐ、と西部劇ではいう。だがこれは白人が始めた行為である。「・・・スカルプとは、動詞としては、頭髪のついた頭皮の一部をはぎ取ることを意味し、名詞としては、ボディ・カウント用の軽便確実な証拠としてのその頭皮・・・」(P13)だそうである。本書のどこかに、インディアン同士を争わせて褒美を与えるとき、殺人の証拠として白人がインディアンに他部族の頭皮を要求したことから、インディアンの頭皮狩りが始まったとあった記憶があるが頁を失念した。

アメリカ人の残虐行為は対日戦での残虐行為に類似したものがみられる。「・・・累々たるインディアンの死体に殺到した。ホワイト・アンテロープのなきがらを、彼等はあらそって切りきざんだ。スカルプはもちろん、耳、鼻、指も切りとられた。睾丸部を切り取った兵士は、煙草入れにするのだと叫んだ。それらの行為は女、子供にも及んだ。女陰を切取って帽子につける者もいた。・・・死体の山からはい出た三歳くらいの童子は、たちまち射撃の腕前をきそう、好個の標的となった。・・・インディアンの総数は約七〇〇、そのうち二〇〇人が戦闘員たり得る男子であり、他は老人、婦女子、幼児であった。その六、七割が惨殺されたのである。デンバー市民は、兵士達を英雄として歓呼のうちにむかえ、兵士たちはそれぞれ持ちかえったトロフィーを誇示した。」(P14)

トロフィーとは切り刻んだ死体のことだから、市民は残虐行為を知った上で英雄扱いしたのだ。死体を切り刻むというのは以前書評で紹介した「我ら降伏せず」という本で米兵が行った行為と同じである。さきの本を読んだ時、わさわざそんなことをするのかと不可解に思ったが、ルーツはあったのである。

細菌戦のルーツもある。「また英軍側は・・・司令官アムハーストはフォート・ピッツの病院から天然痘菌を得て、これを布地、毛布につけ、インディアン達に配布して、その大量抹殺を試みた。おそらく、細菌戦術実施の最初であろう。」(P96)西洋人は合理的なのである。

白人の名誉のためにひとつだけエピソードを取り上げる。セミノール戦争と呼ばれる戦いで、セミノール・インディアンの頭目として闘ったオセオーラである。父はスコットランド人であるとされ、「・・・彼が混血であったという確かな証拠はない。たとえそうであったにしてもオセオーラ自身はそれを言葉激しく否定した。(P222)」東京裁判の日本側弁護士となったアメリカ人は、祖国に抵抗し信念を以て被告を弁護した。オセオーラもその類の人物である。結局は騙されて捕まり病死した。しかし軍医が首を切って記念品として自宅の壁にかけた、(P234)というのだ。まさに鹿などの動物の剥製の首を展示する感覚なのだ。混血であろうとなかろうと、インディアンに味方した白人はインディアンなのである。

 最後に筆者の偏見と幻想について一言する。アメリカ建国について「ここには、サバタも、ホー・チ・ミンも、毛沢東いなかった・・・(P95)」という。ワシントン率いるアメリカ人のインディアン迫害を非難しながら、自国民を大量に殺戮し、飢餓に追い込んだ毛沢東、反ベトコンの村のベトナム人を見せしめに容赦なく殺害する戦法を命令したホー・チ・ミンを人道主義者のように言う無知は皮肉である。毛の犯罪を告発する本は何冊も支那人によって書かれている。ホー・チ・ミンを告発する本が一冊もベトナム人によって書かれていないのは不可解である。恐らくは、毛は支那人同士の殺し合いである内戦で勝利したのに過ぎないのに対し、ホー・チ・ミンはソ連や中共の支援を受けたとはいえ、フランスや米国と言った外国勢力と戦って勝ったのは事実だからであろう。


GHQ焚書図書開封4「国体」論と現代・西尾幹二

2023-03-26 21:31:04 | 書評

 この本の場合にも、ひとつの論究にかなりの紙面を費やしているために、飽きる部分があるのは仕方ないであろう。

 国体論だから、民族の出自が問題にされる。辻善之助という人の「皇室と日本精神」という本の引用である。「或る時代に大和民族が出雲民族を併合して、或る程度の文明を持つてゐたらしい。出雲民族の文明といふのは即ち朝鮮の文明であるが、大和民族はその文明を受入れ、更に石器時代であつた時から、直接に支那文明を受入れて支那文明の非常に優秀なものを受取つて居る。かやうにして我が大和民族は比較的早くより、かなりの文明を作つて居たらしい。(P19)」と引用して、今の歴史書にもこういうことが書かれていて納得できるだろう、というのだが、そうだろうか。

 支那の文明を朝鮮経由ではなく、直接に受け入れていた、という話はともかく、出雲文明が朝鮮の文明だと言うのは一般的に書かれていることだろうかとは疑問に思う。出雲の人たちの出自は朝鮮系であると言うのではあるまい。天皇家が朝鮮から渡ってきたと真面目に言う人がいるが、それもあるまいと思う。元寇や鑑真の例に見るように、日本海を渡るのは至難の業である。大量の人間が日本海を比較的短期間に渡ってくるのは無理だろう。石器時代から支那の高度な文明を受入れていたとすれば、少数の渡来人が日本を支配するに至るのは、極めて困難であると思う。

 皇位継承の三条件(P90)の項は西尾氏にしては意外であった。山田孝雄の国体の本義にある、皇室の純一性を守るための三条件を紹介しているのだが、「・・・中断を認むべからず。一旦中絶して皇位をつぐ系統を除かれ、後に復興する如きはこれ純一系の本義にそむくものなり。(P91)」と引用して、GHQによる臣籍降下の強制があったのを復帰させよとの意見があるが、山田の意見では、駄目だと説明する。単に山田の意見をそのまま説明して自分の意見は述べないのだが、暗に賛成しているように思われるのが意外であった。

 しかし、かつての臣籍降下というのは皇族が増え過ぎる、などの事情によるものではなかろうか。少なくとも皇室を根絶しようとの外国勢力の強制によるものはなかったのである。しかも皇族に復帰した例は少なくはない。これらのことを考慮すれば、私は旧皇族の復帰を杓子定規に否定するべきではないと考える。少なくとも女系天皇への道を開こうという遠謀深慮の女性宮家の創設とは全く異なる。山田氏とて、存命で皇位継承の危うくなった現状を見たとき同じ意見に固執するとは思われない。

 中国には宗教がない、と思っている。ある人は、アメリカ人からキリスト教を取ったのが中国人だと言った。彼らには到底信仰心がある、とは思われないのである。西尾氏は「・・・中国には神話がありません。神話があったのを全部孔子が無しにしてしまった。・・・天子は「天」という概念に依拠します。それはややキリスト教の神に似たようなものでありますが、天は抽象概念であって人格神ではない。・・・天に祈ることができるのは皇帝一人なのです。(P142)」確かに1神教であれ、多神教であれ人格神がないところに宗教はない。

 だがその原因が孔子一人だけとは合点がいかない。神話を否定する素地があって、孔子はそれを整理しただけなのではなかろうか。部族社会の初めは神話があった。だが支那大陸の部族闘争で統一への過程で、人間不信の社会が生じ、その結果神話などという他愛もないことは信じられなくなったのではなかろうか。そういう現実的な支那の理論として儒教が生まれる素地があったのではあるまいか。

 これに対して、西洋、中国、日本のうちで「・・・神話と直結する点で日本の王権だけは違うのだ、ということをしっかり書いた本が必要だと思います。(P143)」といって新しい「国体論」が書かれるべきだと言う。その通りである。今の日本の混乱は皇室を中心とした新しい国体論が議論できないことに原因がある。GHQの策謀と、戦時中の過激な国体論への反発から、国体を論じる事すら忌避されている。西尾氏の言うように戦時中の過激な国体論は、追い詰められて戦争をせざるを得ないために勃興したもので、英米でもソ連でも、戦争遂行のため国民を鼓舞する宗教を利用した。(P143)

 私は兵頭二十八氏の本を批評して法輪功は民主化運動ではなく、支那の歴史に繰り返し見られたように、現体制から権力を奪って政権を簒奪する革命運動に過ぎないと書いたが、西尾氏も全く同様の見解を述べている(P146)。天安門事件での民主化運動の指導者も同様である。彼らの民主化要求は権力の奪取が目的であり、日本人や欧米人が考えていの用民衆とは関係もない。その証拠に、チベットやウイグルで行われている虐殺や民族浄化について彼等は何のコメントもしない

 よく言われる話だが、捕虜になった時に日本人だけが団結しない。敗戦時の満洲では、朝鮮人でも満洲人でも、仲間の一人がやられると、守ろうとして大勢が押し寄せてくるが日本人だけは、仲間を置き去りにしてこそこそ逃げてしまう。シベリアのラーゲリでも、抑留たちはソ連当局に媚びて、むしろ日本人が日本人を虐待しているケースが多かったという(P157)。国体の本義には、「和」と「まこと」が書かれているが、まさにこの和が村八分の論理であり、ラーゲリで日本人が日本人を虐待した論理である、と西尾氏は言う。まことも日本人だけに通用する論理である。日米貿易交渉でも、米国は自分でルールを決めて日本に押し付けると、日本の外交官は善処しますと言って結論を先延ばしにするが、しきれずにアメリカに押し切られて、自動車の輸出は年間○○万台に制限しますと押し切られた。結局まことも和もしたたかさがなければ世界には通用しない(P158)。

 日本民族の起源を探る(P230)という白鳥博士の説を引用した項は興味深い。西尾氏の言うように、天孫降臨について、戦後は高天原は朝鮮であり、日本を最初に支配したのは朝鮮民族であるという説が有力視されている。しかし、白鳥博士は、アイヌもギリヤーク族もツングース族も朝鮮民族も、文化レベルが低いから、日本民族の祖先とはなりえない(P233)という。文化が高いことから高天原が外国であるとするなら支那しか考えられない。すると、日本語は中国語に似ていなければならないし、思想も似ていなければならないが、そのようなことはないから高天原は支那でもない。結局高天原は外国ではなく、「心の世界」「信念の世界」であるという。そして出雲民族、天孫民族、熊襲といっても列島の中の部族のようなものであって、外国から突然来たものではない。もちろん元々は大陸や南方など色々な方面から来たものであっても、それは日本の歴史や神話以前の三万年あるいは十万年前というずっと古い時の事である(P236)と説明する。すなわち神話が形成された時から日本民族が始まったのではなく、神話が形成されるはるか以前から日本民族は存在した、というのである。日本人の言語や考え方、性格などを考えると小生にはこの説は真に腑に落ちる話なのである。騎馬民族だの天皇家は朝鮮から来て大和朝廷を作った、などという説は到底納得できるものではない。

 日本人の宗教は「万世一系の皇室」である(P244)というのも白鳥博士の説である。キリストは神の命令で生まれ、仏陀は法身仏の化身として生まれたのと同様に、天照大御神の命令によって、その子孫がこの世にあらわれた。それが天皇の系譜である。だから日本の宗教は皇室であると言うのである。仏教などの他の宗教には経典があるのに、日本にはないのは、キリストや仏陀は一回生まれただけなのに、天皇は連綿と続くから必要がない、それが長所であるというのである。強いて言えば五箇条の御誓文などの聖旨勅語が経典に相当するのだと言う。西尾氏は、そのことには賛同するものの、経典を持たない「天皇教」というべきものは、それゆえに弱点を包含している、というのだ。白鳥博士がそこに弱点を見なかったのは、皇室が盤石だと信じられていた時代に生きたのに対して、西尾氏は皇室の安泰に懸念がある現代を見ているからであろう。

 宗教については、キリスト教や仏教は「普遍宗教」と言われ、国境を越えた広範なものである(P118)といわれる。これはどちらも発生の地から外国に展開して行く間に普遍性を獲得したと言うのである。これに対して神道は日本の国内でしか通用しない閉鎖的なものである、という。しかし、日本人も普遍的な宗教を求める心があるので、仏教を受容したというのである。その結果、神仏習合という宗教となったと言う。これは神道と仏教が日本に併存するということの説明としては合理的であろう。しかし、神道に似た土着の宗教は元々世界中にあったのであって、それが普遍宗教に駆逐されたと言うのが世界の宗教事情であろう。小生には、日本だけが神道が追い出されなかったところに特殊性を見ることができるのであるし、その原因は恐らく宗教としての皇室が連綿と続いていたために、追い出されなかったということであろうと思う。

 戦前の国体観も、ある時期すなわち満洲での権益の喪失の危険性が発生した時期から、国民の団結の必要性から、バランスがとれた知的な意見が語れなくなっていった。西尾氏は戦後の言説として、逸脱した思想があったから日本は間違った道を歩むことになったと言うものがあるが、これは本末が転倒しているというのだ(P316)。「・・・思想が人を逸脱させ、国家を誤らせることはありません。」として思想などというものは灯篭のようなもので、必要があれば火を点け、なければ消すだけで、国体論というものは灯篭自体のようなものでなくなることはない、というが言い得て妙な喩ではないか。

 「大義」という言葉は戦後忌避されていているのだが、その結果「・・・あの時代の青年たちはどうして死を選ぶことができたんだ、なぜ死地に進んで赴くことが可能だったか(P366)という頓珍漢なテーマ設定になってしまうのである。そこで西尾氏は「戦前の日本人は『歴史』が自分たちの運命だということを知っていたんです。だから死ぬことができたのです。死ぬことは生きることだったのです。」と語る。特攻隊が志願であったのか強制であったのか、などという議論はこの点をわきまえないから発生するのである。周囲の制止を振り切って、妻とともに出撃した特攻隊員がいた、ということはそうでもなければ説明はできまい。我々は大義ということを忘れてしまったのである。大義ということに生きなければならない時代があった、ということを忘れてしまったのである。

 あの城山三郎さえも、「大義の末」という本を書いている(P353)。ここに紹介されている皇太子のエピソードはユニークなものである。城山らしき主人公の大学に皇太子つまり今上天皇陛下がやってきた。まだ少年である。帰り際皇太子は手を挙げて挨拶しようとしたが、学生たちが反応しそうになかったので、手を小刻みに震わせながら下げてしまう。「人ずれしていない素朴な一少年-その当惑のさまが、また烈しく迫ってくる親しみを感じさせた」と書いて、それが城山に残した気持ちは「・・・柿見の胸にあたたかなものがぐんぐんひろがって行った。何ひとつ解決されてはいない。だが『大義』つづく世界を考えていく上で安心できるきめ手を与えられたのだ。・・・いまとなってみると、皇太子を見るまでの心の混乱が、涙が出そうなほど滑稽に思われた。・・・『大義』の世界は仮構でも空虚でもなかった。・・・いま、あの皇太子に危難が迫れば、身を賭けるかも知れない。理屈ではない。」というものであったというのである。この時の城山はまだ、戦時の気持ちを忘れていなかったのである。

それを西尾氏は「説明できないものを皇太子殿下に感じた。・・・日本人は皇室に何かを感じているんですよ。それが信仰なんです。」と説明する。私も若き皇太子殿下を目の当たりにしたことがある。中学生のころあるイベントに参加するため皇太子殿下が車でゆっくり眼前を通った。イベントに行けなかった小生は近所の同世代の子供と自転車で道路の端をうろうろしていたらパレードに偶然出会った。当時はそれほど警戒も厳重ではなかったから、車に手が届く距離であったと思う。手前に美智子妃殿下が載っていたのは光の具合でよく見えた。皇太子殿下は奥にシルエットだけが見えた。その瞬間何とも言えない感情が走った。その気持ちは後にも先にも感じることはなかった。それが西尾氏の言う信仰なのであろう、と今は思っている。

城山三郎の落日燃ゆ、に死刑着前の皆が天皇陛下万歳、をしたのを主人公の広田弘毅が「今、漫才をしたのですか」と聞く場面がある。これは広田が天皇陛下万歳をしたのを皮肉ったのだという意味で書かれている。一方で博多訛りでは万歳をマンザイと発音するのだ、ということから間違いだという説もある。いずれにしても城山は広田が故意に万歳をするのを皮肉ったのだということを言いたいのである。ここには既に皇太子殿下に大義の根拠を見る城山は消え失せている。戦後日本人の変節の典型としか言いようがない。まこと皇室は危ういのである。

 


帝国海軍の勝利と滅亡・別宮暖朗著

2023-02-12 21:34:01 | 書評

 別宮氏は頑固なのだろうか。自説を唱えるときに有力な反論があっても無視する癖があるように思われる。例えば「作戦計画(国策)にもとづいて第一撃を放てば、先制攻撃を禁ずるパリ不戦条約に違反する。(P175)」先に攻撃した方が侵略者だと言う言い方は、別宮氏が他の著書でもくりかえしている持論であるし、これを根拠に日本は米国を侵略したと言い続けている。不戦条約には正確には「・・・相互関係に於いて国家の政策の手段としての戦争を抛棄することを其の各国人民の名に於いて厳粛に宣言す。」(国際条約集・有斐閣)と書かれている。国策をカッコ書きにして作戦計画を前面に出しているのは、条約の文言には忠実ではなく、別宮氏の解釈を優先しているのだから、正確ではないがこれはどうでもいいことである。

 問題はアメリカが公文として「不戦条約の米国案は、いかなる形においても自衛権を制限しまたは毀損するなにものも含むものではない。この権利は各主権国家に固有のものであり、すべての条約に暗黙に含まれている。・・・事態が自衛のための戦争に訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ。」(前掲書)と公表していることである。つまり不戦条約は自衛戦争には適用されないし、自衛戦争か否かは自国に決める権利がある、と言っているのである。このことには英国も追従している。さらにアメリカは、戦争を始めるのが自国内かどうかを問わない、とし、経済制裁も戦争を構成するとさえ声明している。日本を擁護する人々は、これを根拠として対米戦が不戦条約違反ではないと主張するのは当然であろう。不可解なのは、博学な別宮氏はこんな主張はとうに知っているのに、何故無視し続けているかである。米国などは、不戦条約は、中南米の米国の影響圏には適用されない、とさえ言明しているのである。不戦条約は理想の言葉だけ高く、始めから形骸化していたのである。

 また軍事を論じている割には兵器に関する誤記もある。九六式艦戦の構造などの設計思想が零戦に引き継がれたのは事実であるが、長大な航続距離を誇ったと言うのは間違いである(P186)。九六艦攻が同時代のソードフィッシュやデバステーターをはるかにしのいだ(P187)というのは九七艦攻の間違いである。もちろん九六艦攻は実在した。雷撃機は複座であり、急降下爆撃機(艦爆)は単座である(P196)というのも思い込みを確認しなかったためのミスであろう。「駆逐艦は対空兵装が全くなかった。主砲は立派であったが、仰角があがらず高角砲として使えなかった(P193)」とあるが、艦砲は仰角を上げれば高角砲に使えると言うものではない。米海軍の駆逐艦は対水上射撃用主砲だけを積んだ駆逐艦の建造は一九二一年まででほとんど止めて、それ以後は大部分が、対空射撃兼用の両用砲を積んでいる。もちろん両用砲搭載艦は対空火器管制装置を搭載しているから防空能力は高い。

 日本の駆逐艦で本格的な対空火器管制装置の九四式高射装置を搭載したのは防空駆逐艦と称した秋月型だけである。別項で論じたが、日米の対空火器管制装置の性能による命中率の差異は格段の差がある。だから、旧海軍関係者が自慢する秋月型の防空能力は、第二次大戦で米海軍が最も多用したフレッチャー級の足下にも及ばない。対空射撃能力は高角砲の発射速度とか初速と言ったカタログデータだけでは判定できないのである。

本書P223の輪形陣には何気なくアトランタ級軽巡が描かれているが、これは、駆逐艦と同じ両用砲と対空機銃を多数装備した、防空巡洋艦である。単に陣形が優れているだけなのではない。日本の重巡は主砲の仰角が艦隊決戦用のために上げられなかったが、上げることができれば対空射撃に効果を上げたと予想される(P221)。実際には75度まで仰角を増やした重巡もあったが、実用上は55度に制限されていた。それでも対空射撃可能であるとしていたのだが、効果があったと言う戦訓はない。それどころか20cm以上の大口径砲弾の射撃は機銃による対空射撃を妨害する。

主砲発射の際はブザーで警告して機銃手は艦内に退避するが、大和級ではこの手順が適切に行われずに主砲の爆風で機銃手を殺した例すらある危険なものである。遠距離は大口径砲、中距離は高角砲、近距離は機銃と分担する方法はある。しかし、大口径砲は危険で機銃とは同時使用できないから、大口径砲が使用できるのは、空襲の最初の射撃に限定される。だから日本海軍以外に大口径砲を対空射撃に使った国はないのである。

以上問題点をあげたが、本書の価値を減ずるものではない。本書では陸軍のボスとされる山県有朋が、通説に反して柔軟な人物であることが書かれている。明治26年の山本権兵衛の海軍の将官整理に疑問を持った山縣は山本を呼び付けて趣旨を問うたが、納得すると「その後も陸海対立が生じると常に山縣は権兵衛の意見を聞いて、陸軍を譲歩させ妥協させる方向で動いた。」(P63)日露対立すると「山縣有朋は戦争に反対した。陸軍に必勝の策はなく・・・」(P98)。反戦だからといって褒める必要はないが、理性的に考えることが出来る人物なのである。

東郷平八郎も秋山真之もジュットランド海戦を、英海軍の被害が大であるが、制海権を保持したために勝利であった、と述べた。筆者はそれに納得して「帝国海軍は彼我の損害の点では勝利しても、決戦海面から逃げるのを常とした。(P153)」と酷評するがその通りである。昭和の海軍は制海権の思想がないことの延長として、船団護衛も通商破壊戦も上陸作戦阻止も行わなかったのである。

本書の最大の眼目である山本五十六批判の要点は、山本が典型的軍官僚であって(P285)ハワイ攻撃計画を作成し、戦略眼のない官僚的作文の実行に固執し日本を敗北に追い込んだ経緯は、第一次大戦のドイツのシュリーフェンプランに酷似している(P285)ということに凝縮される。旧海軍の幹部は戦後山本を親米反戦家のように称揚するがそんな単純なものではない。山本は真珠湾攻撃で主力艦隊を撃滅すれば戦意喪失すると、「勝敗を第一日において決する覚悟を要する(P241)」という意見書を及川海相に提出したのだ。結果はその正反対であり山本の知米派と言う評価は間違いである。

真珠湾攻撃が成功した同日の昼、山本長官の指揮する連合艦隊主力が小笠原方面に向かったのは通説のような論功行賞の為ではなく、残りの太平洋艦隊が大挙出撃するのを迎撃する「暫減邀撃作戦」の実行であった(P266)というのは確かに一日決戦論と符合する。山本はそれが生起しないと見ると、次の艦隊決戦の機会の為に航空機による暫減邀撃作戦暫減邀撃作戦を続けてラバウル方面で貴重な艦上機を陸に上げて消耗し尽くした。山本は航空主兵論者ではなく、著者の言うように戦艦による艦隊決戦論者なのである。

筆者は対米戦は避けられたという考え方のようであるが、賛成しかねる。「岩畔豪雄陸軍省軍事課長と野村吉三郎駐米大使の対米交渉がようやく実を結んだ。「四・一六日了解案」と呼ばれる協商案で、満州国承認から八紘一宇までを認めたもので、アメリカができる最大譲歩であった。アメリカは苦境にあるイギリスを日本が攻撃する可能性をみて譲歩した。(P249)」というのだ。これは松岡外相によりつぶされたのだが、成功したところで米国は、開戦を先延ばしにしたのに過ぎない。別項で述べたように、米政府は対日戦を欲していた。スターリンも毛沢東も日米戦争を望んでいた。これらの勢力の暗躍により日本は確実に戦争に追い込まれていたのである。

かの清沢洌は、当時の昭和十年危機説が、軍縮条約会議の決裂が原因だと言うことを批判した。軍縮条約がなくなったからすぐ戦争は起こらない、建艦競争が始まって戦争の危機が来るとすれば、それがアメリカの現在の建艦計画が完成する昭和十三、十四年頃であろう(清沢洌評論集P281)時期が正確かどうかは別として、米国は対日戦備ができるまで戦争はしない、と断言しているのだ。後知恵ではない卓見ではないか。

残りは注目すべき指摘をいくつか。「英仏と違ってアメリカには、合衆国法が国際法や現地法より優先するという域外適用といわれる独善性がある(P17)」その通りで、パナマのノリエガ大統領を麻薬取締法違反でパナマに侵攻して逮捕して米国内で裁判して懲役にした。信じられない話である。第二次大戦で日本海軍がソ連の脱落を狙うインド洋作戦をさけたのは、ロシアが知性的に弱いという戦略的判断が欠如していたため(P141)であると言うのだが、イギリスを脱落させるためにインド洋作戦が必要だったと言う説は、多くの人が唱えている。「独ソ戦勃発前、東條陸将を筆頭に陸軍には三国同盟について懐疑する意見の持ち主が多かった。(P255)」独ソ戦前なら三国プラスソ連の同盟論が松岡外相にも陸軍にもあったはずなのだが。何を根拠に言うのであろうか。氏は多くの資料をよく読んでいるのに綿密な考証に欠けるところがあるように思われる。少なくとも考証の過程を提示しないことが多く断定的である。