毎日のできごとの反省

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書評・未完のファシズム・片山杜秀

2014-02-22 14:23:11 | 歴史

未完のファシズム・片山杜秀

 昭和の陸軍軍人たちは必ずしも今考えられているように、武器の質や量より精神主義を重視したわけではない、ということを立証している、という書評につられて読んだが、期待は裏切られなかった。

 第一次大戦の青島攻略は一般に、弱い防備のドイツ軍に勝った、と信じられているが、そう単純ではないというのである。(P52)そして指揮官の神尾将軍は、「慎重将軍」と呼ばれ、弱敵の攻略に時間をかけ過ぎたと言われるが、そのゆえんは、総攻撃前に徹底的に砲撃し、ほとんどかたをつけてから歩兵を突入させる、という近代戦を先取りする攻撃をしてみせた、というのである。

 その反対に第一次大戦前の独仏両軍、特にフランス軍に甚だしかったのが、歩兵による突撃主義であった。(P86)その原因は何と日露戦争での日本軍の戦い方であった。つまり日本軍歩兵の勇敢な肉弾攻撃に幻惑されたというのである。その逆に第一次大戦を観察した日本軍参謀本部はその戦訓として書いた書物で、「火力対肉弾の戦法は、今日より見る時は其不合理なること、敢て喋々を要せずと雖、大戦前に於ては之を不合理と認めざりき」(P87・カタカナを平仮名に変換)と断じているほどの合理的精神であった。

 そしてこの精神は本質的には昭和の陸軍にも共有されていた、というのである。著者は、この事実を認めた上で、その対応は3派に分かれたいったと分析しているようである。その3派に共通する認識は、青島攻略は小規模な戦闘であったから充分な大砲と弾丸を存分に使えたのであって、ソ連や欧米のように圧倒的な国力差がある国との戦いには通用しない、ということである。この点でも日本陸軍は今考えられているような不合理な夜郎自大な軍隊ではなかったのである。

そこで第一のパターンの典型は小畑敏四郎らの皇道派である。小畑は表向きは、即戦即決で小兵力でドイツ軍が勝った、タンネンベルグの戦いを範として、外交など顧慮せずに将帥の独断専行によって短期戦で勝つべきである、と主張し(P123)がこれが「統帥綱領」となった。ところが小畑ら皇道派の本音は、「持たざる国」日本は、精神力と奇策で勝てる弱い敵としか戦うべきではない、というのであった(P140)。さらに「勝てる筈のない米国に宣戦布告するなど、小畑将軍の眼から見れば、まさに「狂気の沙汰」であった(P151)。

第二の主張は石原莞爾その人である。石原は有名な「世界最終論」を講演した(P193)。実は戦争は第一次大戦に見られるように、軍需産業ばかりではなく民間の経済力や生産力がいざ戦争という時には、軍事力に転換する。だから日本自体が持たざる国から持てる国に進歩しなければならない。それには数十年の時間がかかり、その基礎は満洲にある、というので満洲事変を起こしたと言うのである。小畑らの合理性は、日本が経済発展しているのならその間に「持てる国」も経済発展するから追いつけない、と考えた所にもある。(P250)これに対して石原は持てる国にしようと言うのである。

第三が中柴末純というあまり有名ではない軍人である(P247)。陸士出身の工兵出身者である。第一次大戦の観察から、近代戦は物量戦であると書いた本を出版している理性がある(P248)ところが中柴は、小畑も石原も、戦いを選んだり、国策に口をはさんだりする思想の人物で「政治に容喙するとは、天皇大権を干犯し、国体を破壊し、軍人の本分を滅却する」者たちで断じて許されない、と考えるのである(P251)。これは正論であろう。軍人が政治に干渉するのを反対すると言う点で、シビリアンコントロールに近いとも言える。軍事の輔弼は軍部が行い、政治の輔弼は政治家が行うのである。

総力戦を知りぬいているにも拘わらず、中柴は、結局戦えと命じられれば、今の兵力で戦わなければならない、として精神力を最大限に発揮すべきである、という結論に至る。その思想は仔細に論じられているがここでは省略する。結局は全滅するまで戦う、つまり玉砕の思想に到達した。

しかし、著者はアッツ島などで現実に日米戦で玉砕が行われたとき「本当におののいてしまったのは・・・中柴本人だったのでしょう」(P293)。と書くのは中柴の合理的精神を理解しているからであろう。ただし、中柴が戦陣訓作成にかかわったことを持って日本兵が玉砕していった(P276)と書くのはどうだろうか。玉砕は戦陣訓のゆえんではない。紙に書かれたもので人が死ぬと考えるのは浅薄である。日本兵が国を故郷を家族を思い、火器兵力の圧倒的な差の中で必死に闘った敢闘の結果が玉砕である。また、別項でも述べたが米軍、特に海兵隊は日本兵の捕虜をとるのを嫌い、傷病兵を殺戮した結果も玉砕を生んだ。いくら銃弾の雨の中を突撃しても、多くの兵士は怪我をおい人事不省に陥ったはずである。九分九厘の兵士が死亡するはずはないのである。米兵は、死体の山の中で生存していた日本兵にとどめを刺していったのである。

あらゆる日本の矛盾を承知で戦い、戦死した象徴が東條英機であり、大西瀧治郎である。もちろんそのもとには、数百万の素晴らしい日本人が闘っていた。曾祖父母、祖父母、父母の時代の日本人は、世界史に冠たる人たちであった。その意味で私は東條英機を昭和史で、昭和天皇に次いで尊敬する人物と言うことを躊躇しない。東條英機を単なる思想なき優良な官僚という歴史家の気が知れない。小生は、東條英機の百分の一の見識と胆力を持たない人間であることを百も承知しているからである。 

戦前戦中の陸軍軍人が、軍事的合理性を百も承知の上で、精神主義を鼓吹しなければならなかった苦衷を詳述した好著である。戦前戦中の日本人の置かれた世界に冠たる、孤独な地位も証明している。


書評・凡将 山本五十六・生出寿

2014-02-15 13:31:00 | 大東亜戦争

 軍人としての山本五十六を評価しないのは生出氏の持論である。海兵出身の氏だから意外である。山本や海軍を強引に贔屓にするのは、海兵出身でも戦時に高官であった人が多いようである。生出氏の結論は、山本は軍政家に適していて、軍人としての資質はない、ということであろう。

 真珠湾の工廠や重油タンクを破壊しなかったのは失敗であったというのは間違いで、燃料はタンカーで運べばいいし、艦艇の修理や整備は工作艦でかなりできるから、不自由するのは3,4カ月に過ぎない(P89)、というのだがどうであろう。これは日本海軍が真珠湾への補給阻止、ということを全く考えていなかったことを是認するからである。

 山本は戦艦無用論に近い発言をしながら、戦艦を狙ったのは、日米両国民に戦艦に対する尊敬新があるから、これを屠った際の心理的効果が大きい(P94)といったが、山本の心理としては納得できる話である。ただし、真珠湾にいたのは旧式戦艦ばかりで、アメリカは、開戦後ノースカロライナ級、サウスダコタ級、アイオワ級と次々と建造し、大和級2隻しか完成させえなかった日本とは戦艦戦力が違う。

 珊瑚海海戦では多くの戦訓が得られた。米海軍機攻撃精神は強い、索敵が重要である、米軍の迎撃戦闘機と対空火器の威力は大きい、雷撃機は遠距離から攻撃するので回避が容易である半面、急降下爆撃機は突然出現し命中率は低くない、などである。これについて、意見具申したにも拘わらず山本や伊藤軍令部長は無視した(P136)。山本が戦訓を全く取り入れようとはしない、というのは戦死するまで続いた。ハワイ・マレー沖海戦、珊瑚海海戦というのはいずれも、日本海軍にとって史上初めての航空機による艦船攻撃だから、必死に戦訓を得ようとするのが普通の軍人である。それをしなかった山本は指揮官失格である。

 ミッドウェー作戦の主目的は敵空母の誘出撃滅で、攻略はその方便だったというのは、連合艦隊司令部の責任回避の方便で、後からのメイキングだったろう(P153)というのはいつもながらあきれた話である。山本は搭載機の半数を敵空母出撃に備えよ、と言ったという証言は怪しいというのである。そもそも山本ら連合艦隊司令部は、米海軍は珊瑚海で2空母を喪失し、空母の主戦力は豪州方面にいた、という判断であったのである(P154)。海軍の幹部は当時も戦訓を取り入れようとしなかったばかりではなく、戦後も嘘をついて事実を隠ぺいしようとしている。

 そればかりではない、巷間言われる、山本が半数を敵空母に備えさせろ、という指示をしていたが南雲艦隊が無視したと言うことを言われる。それが事実なら、南雲艦隊にそれなりの体制を事前にとらなければならない。単に陸上爆撃を実施する各艦の艦上攻撃機の半数に常に雷装をさせよ、というのでは爆撃作戦中も空母攻撃実施時にも混乱が生じる。空母攻撃には艦戦も艦爆も待機していなければならない。山本の指示が出ているのなら、空母の編成を陸上爆撃用と、空母攻撃用の二部隊に分けなければならない。山本は事前に艦隊の編成を確認しているから、そのようになっていないことを知っていたのである。指示に違反した艦隊編成にしていたのなら山本は激怒して直させたはずである。つまり山本は半数を空母出現に備えさせよなどという、指示など出していないのである。この言葉は山本シンパが後からでっち上げたのに違いない。

 米海軍はウェーキ島攻略でとらえた監視艇から暗号書を捕獲し、暗号を解読していた。同じ暗号書前海軍で使われていたから、それ以後の作戦は全部ばれていた。これに対し陸軍では、トイレットペーパー方式といい、暗号のキーも使用規定も一度限りであった。海軍から海軍の暗号方式を聞いたある陸軍将校は、必ず解読されるとあきれていた。陸軍の大演習の時は甲軍と乙軍の暗号書をちがえ暗号解読も演習に含まれていたが、海軍では敵味方とも同じ暗号書を使っていたから暗号解読の必要はない。

結局米軍も陸軍の暗号は解けなかった。さらに陸軍では、士官学校の成績優秀者を暗号担当将校にし、海軍では兵学校の成績の中くらいのものをあてていた。(P159)不合理の塊のように言われる陸軍はここまで情報を重視していたのである。戦前、山本は駐米大使館付武官をしていたとき、補佐官たちに「成績を上げようと思って、こせこせ、スパイのような真似をして情報なんか集めんでよろしい」といっていた(P160)位だから山本の情報軽視の程度が分かる。

ミッドウェー作戦に対して軍令部作戦第一課が、攻略はできても、ミッドウェーは直近の日本軍の基地よりハワイの方が近く、機動部隊で簡単に奪還されると理路整然と主張し反対した。これを軍令部にも山本長官にも伝えたが相手にされなかった(P113)。結局山本は山勘や思い込みでものごとを決定する人であったのだ。緒戦の大戦果に海軍軍人は慢心していた。その頂点に山本がいた。しかし、緒戦ですら米機動部隊は、ゲリラ的に出現して意外な戦果を挙げている。海軍がその点に不安を持った節はない

山本は、ミッドウェーの敗戦で司令部の南雲、草鹿、源田らの幹部を馘首どころか責任追及もしなかった。生出氏は、山本が部下たちの責任を追及しなかったのは自身も問われない道を選んだ(P180)、と酷評しているが当然であろう。

米国側は、日本の行動を知り意表をついて攻撃し、運もあり勝てないはずの作戦に勝利した、という元防衛研修所職員の、ミッドウェー海戦の評価を紹介している(P181)がどうだろう。艦上機数ですら米海軍より圧倒的に戦力が大、というわけではなく、陸上機まで含めた航空戦力は米軍の方がかなり優勢だったのである。氏も南雲艦隊の練度に幻惑されているように思われる。小生は南雲艦隊が空母攻撃隊を全機発進させることに成功したところで、相打ちに近くなっていたと考える。前述のように米軍の迎撃戦闘機と対空火器の威力は大きく、明らかに日本海軍を上回っていたからである。

日本の敗因は、航空過信、偏重であったと言うが(P203)まさに山本五十六はその通りであった。昭和九年に駐米武官をした山口多聞はスパイのデータから、米海軍の36センチ砲以上の大口径砲の命中率は日本の1/3であり、他の調査でもこれは裏付けられている。その他零戦隊が制空権を奪って日本だけが艦載機による弾着観測ができる、などの有利な要因がある。従って対米6割の兵力でも艦隊決戦には勝利できる(P205)、という。

結局海軍は伝統の邀撃作戦で戦った方がよかったというのだが、そうだろうか。氏も、戦争は陸軍による陣取り合戦で、海軍はその補給や補給阻止をする補助者である、ということを忘れて単純かつ抽象的に艦隊決戦なるものが生起すると考えている。日本海海戦もバルチック艦隊がウラジオに回航されて、日本が大陸への補給線を断ち切られるのを防止するために、艦隊の回航を待ち伏せた結果として起こったのである。米海軍もその後、指揮統制システムや火器管制システムの飛躍的向上によって、大東亜戦争当時は主砲弾の命中率は向上していた。ただし、航空偏重よりは艦上戦闘機により制空権を握って敵空母機の攻撃を阻止している間に、主力艦の砲撃力で攻撃する方がましであった、という説には賛成である。なぜなら航空機による敵艦船攻撃による損失は米海軍に比べ日本海軍の方が大きく、損失の補充も困難であるのに対して、当時は砲弾自体を迎撃するのは不可能だからである。

山本の機上戦死に関する記述は実に奇妙なものである。なんと、「山本は後頭部から額に抜ける銃弾で即死していた」(P218)というのである。検死その他の調書では、頭部に傷があっても僅かなものである、と言う点では全て一致している。そもそも撃墜したP-38の機銃はほとんどが12.7mmで、少しの20mm機銃もある。12.7mm機銃弾が頭部を貫通したら、頭部は粉砕されている、というのが武器の専門家の一致した見解である。小生のごとき素人の知る知識を元軍人の生出氏が知らぬはずはないのである。

また、山本のラバウル視察は、戦争の前途に悲観したために、故意に少数の護衛でわざと危険なところに行ったという「自殺説」が案外根強い。だが、この計画は宇垣参謀長が強く主張して実現したもので「・・・陣頭指揮ということがはやっているようだが、ほんとうをいうと、僕がラバウルに行くのは感心しないことだ。むしろ柱島に行くなら結構なのだがね。・・・」(P213)と語っているから、視察は本意ではなかったから自殺ではない。結局山本はい号作戦の成功の誤報を信じて楽観していた。小沢、今村、城島のような実務家が視察中止か護衛を増やすように行って聞かせなかったのを聞かなかったのも、いちどこうと思いこむと他人の意見を無視する性格が表れたのだ(P221)という。

 


ワシントン軍縮条約とロンドン軍縮条約

2014-02-11 14:46:32 | 軍事

 両条約に関し、戦後流布されている説はこうである。両条約で日本は希望の対米七割を得ずに、対米六割で抑えられた。しかし、現実には日本の建艦能力に比べ、米国の方が遥かに勝るから、この比率は問題ではなく、対米六割で妥協しようと、それだけの数を充足できない。妥協したのは対米協調の所産であり賢明であった。条約を締結せず、無制限の建艦競争になったら、日本の財政は破綻していたであろう。条約に賛成したいわゆる条約派は国際協調派で、反対した艦隊派は軍国主義者である、と。そしてその神輿に乗って海軍軍縮条約反対を唱えた東郷元帥は、時代錯誤であるというものである。

 これは原則論からして、既に破綻している。同じ主権国家同士が軍縮を話しあう場合、経済規模に合わせて比率を決めると言うことは、主権の大小を認めることであり、国家主権の対等の原則を認めていないことになる。実は日本側は経済規模で決めたつもりでも、米英はそうではない。覇権の権利が米英より日本の方が小さいと考えているのである。いずれにしても、国家主権の対等の原則を認めていないことに変わりはない。

 また、この説は実際の環境や米国の意図を無視した抽象論でもある。軍縮条約を持ちだしたのは米国である。それならば、その意図を考えなければなるまい。検討には二冊の本が参考になる。西尾幹二氏の「GHQ焚書図書開封6」と岡田幹彦氏の「東郷平八郎」である。ワシントン軍縮条約は極東の特に支那の問題を9カ国での討議とセットで行われたのだから、軍縮条約の意図は九カ国条約の内容にある。ワシントン会議で締結された、九カ国条約の眼目は

①支那の独立と主権の保持の尊重

②支那における各国の機会均等と門戸開放

である。

 西尾氏によれば、支那大陸にある程度の権益を保有している日英仏に対して、全く進出の余地がなかった米国が、俺にも分け前をよこせ、と主張したのである。その証拠に米国は「支那解放決議案」として、それまでの各国の条約の特権を廃止した上で、機械均等を認めよ、という提案をしたが、他の国に反対されて成立しなかった。門戸開放や機会均等と言えば聞こえがいいが、実際には支那を守るものではなく、単に米国も分捕りたい、というものである。そもそも多くの国がある国に進出することについて話し合う、ということ自体が、その国の主権を全く尊重していない。

外交の相互主義の原則から言えば、支那も残りの国に機会均等や門戸開放を主張できるはずなのである。それと併せて軍縮条約を結ぶのは、太平洋を越えて海軍力で支那に進出するための邪魔者、すなわち日本を抑え込もうというのがアメリカの意図である。

岡田氏によれば、ロンドン条約で実質的に軍縮したのは日本であり、アメリカは軍拡の結果をもたらした(P233)というのである。大型巡洋艦は、日本は対米6割とされたが、その結果の保有量は現有8隻プラス、ほとんど完成状態にある4隻に等しいから、条約がある限り新規建造はできない。

反対にアメリカに許された保有量は、現有保有量の9倍となる。アメリカにも建造中のものが幾隻かあったが着工したばかりで完成率は低い。小型巡洋艦も同様である。駆逐艦だけが日米とも削減となる。しかし、日本の駆逐艦は第一次大戦後に作られた新鋭艦がほとんどだから、これらの新鋭艦を削減することになる。アメリカは第一次大戦中に作られた旧式艦がほとんどであり、多く見える現有保有量も戦時体制の過大な量である。

だから、これらの不用なボロ船を廃棄して、平時体制に必要な制限枠で新造できるのである。つまり米国は無駄をなくすというおまけまでついている、と言うのであ。これらを閲するに、なおさら平時であることを考えれば、無制限の建艦競争に巻き込まれて日本経済が破綻する、などということは杞憂である。まして条約反対の急先鋒であった東郷は対米6割ではなく、7割を守れ、というのだから、これが実現したところで巡洋艦はわずかな建造量が認められ、駆逐艦は廃棄量が僅かに減る、ということに過ぎず、経済的負担は少ない。恐らく、米国がワシントン条約に続き、ロンドン条約を締結したのは、このままでは日米の補助艦艇兵力の比率が日本に有利になっていってしまうことを考慮したタイミングで行ったものであろう。米国はあくまでも狡猾なのである。

砲雷撃戦主体の当時の海戦に置いては、ほぼ単純に艦艇の数量の差が勝敗を分けるものであったと、誰かの文章を読んだことがある。典型的なものがその時までの最大の海戦である、ジュトランド沖海戦である。呉の海軍兵学校のツアーだったと思うが、元海上自衛官の解説では、砲数等のデータ比較を詳細にするとバルチック艦隊より連合艦隊の方がかなり優勢だったから勝って不思議はない、ということであった。圧倒的に完勝したのは秋山真之の述懐通り天佑だったのではあるが。

米国が軍縮に海軍兵力にしぼったのは、日本海海戦での日本の圧勝への恐怖の他、戦車も航空機も未発達な時代であり、整備に時間がかかる艦艇に軍縮の的を絞ったのであろう。指揮官さえいれば歩兵は戦時には急速動員可能なのである。このように考えて行くと、ワシントン条約やロンドン条約に対する現在の日本で流布している通説は、怪しいものである。