毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

広島観光スポット1

2007-05-17 20:36:52 | 日本の風景

 広島観光と言えば原爆ドーム。観光のベテランにはそれでは満足しません。広島と言えば猫です。ホテルの脇の飲み屋の階段の下から猫が出てきました。追いかけると階段の下に隠れてしまいます。

 それでコンビニのレシートをまるめて転がすと猫は出てきます。なかなかの器量ではありませんか。


安倍首相よお前もか

2007-05-13 17:16:08 | 政治

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 支那大陸は4000年の歴史があると思っている方は是非上のサイトを見て下さい。あなたは間違っていると分かります。また朝日新聞は反権力の新聞だと思っている方へ、朝日新聞は強きを助け、弱気をくじく正義の新聞だと納得します。芸術は役に立たないものが最良だと考えている方へ、役に立たないものは芸術と呼ぶに値しないと理解していただけます。

さて以下が本文です。

なぜ騒がない安倍首相の榊の奉納

 安倍首相が靖国神社に榊を奉納したと報道されている。靖国神社関連であれば何でも大騒ぎするのが、わがマスコミ、中共政府、韓国である。ところが今回は通り一遍の批判で盛り上がらない。いつもは日本のマスコミ、ことに朝日新聞やNHKが中共政府よ批判して下さいと音頭をとる。

 ところが今回は何も盛り上がらない。これは八百長である。安倍首相は中共政府に、靖国神社を参拝しない替わりに、せめて支持者の顔をたてるために、榊の奉納くらいさせて下さいとお願いする。

 おおよろし、しかし通り一遍の批判くらいはしまっせと中共政府は答える。中共政府の批判が本腰ではないと見抜いた忠実な犬たる、朝日、NHKは今回は本気で批判してはならぬのだと賢くも悟るのである。そこで今回の八百長成立。

 だが安倍首相に言う。たとえ中共政府が喜んだところで、朝日NHKは安倍支持にまわりはしない。野党や国民で反安倍の勢力も支持にはまわらない。しかし安倍首相が靖国神社参拝をやめれば、私のごとき声無き多くの支持者は反対にまわる。

 かくして安倍首相の支持者は減るだけだ。信念を曲げずに支持者が減るのは政治家の真骨頂である。しかし信念を曲げて支持者を減らすのは、政治家として最悪である。

 小泉首相が靖国神社を参拝しなかったために、首脳会談ができずに日中関係が悪化したと多くの批判があった。だがその間に日本の経済は回復して、最長の好況を楽しんだ。日中関係の悪化は何の不利益ももたらしていない。

 首脳会談を開くのは仲良くするためだと日本の外務省は心得ている。国家は小学校ではない。外交は仲良くするためのものではない。首脳会談は国益を増進させるためのものである。

 しからば安倍首相は首脳会談で何を得たか。尖閣諸島の問題は何の進展も無い。不法な日本の経済水域での中共の資源開発は止まらない。首脳会談は単に日中が仲良くするという雰囲気を作ったのに過ぎないなら功罪はない。

 だが、硬派と見られていた安倍首相は、実は圧力をかけさえすれば、信念たる靖国神社参拝をも止めると言う根性なしであることを世界にさらしてしまった。今後の外交的不利益を国民は覚悟すべきである。


わが闘争

2007-05-10 20:02:56 | Weblog

 わが闘争とはご存知の通り、かのヒトラーのベストセラーである。この写真の主はまことのライバル「ろし」である。なぜろしか。まことの1年後にわが家に来たろしはメスである。

 従ってわが家の女どもは冷たい。私が名前を考えたのだが採用されない。実権のない私には命名権がない。そうこうしているうちに名前を登録する日が来てしまった。

 ロシアンブルーだからろしにしとけば、とご主人様はこともなげに言ったのである。この写真が全体を写していないのには訳がある。でぶだから全体を人に見せるには、美形のろしには忍びないのだからだが後日公開することを約束する。

 どぶねずみ色だから、まことはろしをめす猫と思わず、ねずみと思っているのに違いない。1日一度はなぜか耳を三角に立てたまことが、ろしにギャオーという蛮声をあげておそいかかる。

 ねずみにおそいかかる猫である。だから家族が誰もいなくなるときはまことをトラバコに入れる。トラバコとはわが家では、刑務所に等しい猫のケージである。ろしにおそいかかるまことであるが、必ずろしのカウンターパンチを喰らう。それでもろしは平気でまことの後を追いかける。ろしは遊びだと思っているのに違いない。

 今日もまことのあごには2箇所毛が抜けて穴が開いている。ろしにやられたのだ。だがしばらく前のきずとみえて、既に血の塊はついていない。そんな目にあってもまことは、ろしにおそいかかるのを止めない。まことにとっては、永遠の我が闘争なのに違いない。


戦うアメリカ

2007-05-06 11:54:46 | Weblog

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 最近のアメリカ映画にはひとつの傾向があるように思われる。例えばプライベートライアンである。漫画家の小林よしのりは、この映画を反戦映画と誤解していた。上陸中に腕を吹き飛ばされた兵士が自分の腕を持って彷徨するシーンを映すことなど、悲惨な戦闘シーンがリアルに描かれているからである。小林氏はときどきこのような即物的誤解をする。

 戦闘シーンをよりリアルに描くのは、世の趨勢である。三匹の侍という時代劇は、チャンバラで肉を切る効果音を初めて取り入れて注目された。小林流に言えばチャンバラ反対映画と言うことになってしまう。

 プライベートライアンのメインテーマはストーリーをマクロに見れば分かる。ライアン家の4人兄弟のうち3人までが戦死したことに気がついた軍は、残りの一人までが戦死してしまえばライアン家の血統が絶えてしまうとして、ライアンを帰国させるための救出隊を派遣する。

 多くの犠牲を払ってライアンを発見するのだが、ライアンは途中で仲間を捨てて自分だけ帰るわけにはいかないと最後の任務につく。その結果救出隊の隊長は戦死してしまう。帰国して家族に恵まれたライアンは、年老いて子供や孫たちと隊長の墓地を訪れる。最後に星条旗がかぶさる。

 こうみればこの映画のテーマは明瞭であろう。アメリカは国民の血統を守るためにいかなる犠牲も払う。そして国民たる兵士もそれに答え、任務に忠実で仲間をすてて逃げるような臆病者ではない。すなわち国家と国民の連帯がテーマである。国家とはここでは政府のことではないのはもちろんである。

 ここでクイズ。救出隊はドイツ兵を捕まえるが足手まといなので、別な米軍に投降することを条件に解放する。ところがドイツ兵は再びドイツ側に帰って戦闘に参加するが敗色濃くなると、投降しようとする。

 一旦は射殺されそうになったのを、戦時国際法違反だということでドイツ兵を解放することを主張した通訳の米兵がいたからである。味方が苦境にあっても銃を討てないようないくじなしの通訳だったが、約束違反に怒って射殺してしまう。捕虜の保護を定めた戦時国際法があるのにである。

 クイズです。通訳の行為は国際法違反であるか否か。答えはそう、違反ではありません。まして味方の軍法会議では絶対に無罪。完全に武装解除して身柄を確保して初めて捕虜になるのですから、かのドイツ兵は捕虜ではなく、通訳は戦闘の継続行為として射殺したのですから。

 約束違反などは何の関係もないのです。だから白旗を持って停戦交渉に来た軍使を発見した兵士を射殺しても、卑怯だとはいえ違法ではないのです。あえて味方の軍法会議と言ったのは、味方の行為に対しては最大限有利に国際法を適用するという暗黙の了解があるからです。そして日本の識者の多くが、いわゆる南京事件について、最大限日本に不利な解釈をするのが当然と言うおろかなことをしているからです。

 閑話休題。最近テレビでも放映されたブラピのトロイは、一見自己中心的だが勇敢で祖国につくしたアキレスの物語である。古代ギリシアを舞台にしながら、登場人物はアメリカ人の思想や性格を反映しているように思われる。

 去年公開されて話題になった硫黄島からの手紙は、日本側から描きながら、故郷のため、同胞のため、そして祖国のために勇敢に戦う兵士一般の物語であるように思われる。米国人が日本の戦争を描くのはそこに意味がある。かなりましになった男たちの大和ですら、日本映画では祖国のためという視点を忌避しているように思われる。

 ほかにもいろいろな米国の映画はあるが、最近の映画には祖国と国民との連帯とか自己犠牲という視点が強くなっているように思われる。アメリカですらベトナム戦争の後遺症が強かった頃には、ロバート・レッドフォードの「追憶」だとかトム・クルーズの「7月4日に生まれて」などは反戦色があった。

 しかし1985年のいわゆる冷戦が本当に西欧にワルシャワ条約機構軍が攻めてくるのではないか、といわれた時期を過ぎた頃からこのような風潮は陰を潜めるようになった。SFですらエンド・オブ・デイズでは最後にシュワちゃんの主人公が、世界を救うために剣に身をなげて死ぬという典型的な自己犠牲を演じている。

 私はこの傾向に、戦うアメリカ、を感じる。ソ連の崩壊で1国覇権となったと言われるアメリカ。しかしこの覇権の維持には国民は多くの犠牲を強いられている。そして中国と違って米国には言論の自由がある。

 ハリウッド映画にも自由がある。たとえ政府の希望があるにしてもこれらの映画は国策映画ではない。つまり多数の映画がひとつの傾向を示し、観客動員がそれなりにあるというのは、アメリカ国民の空気を繁栄しているとみなければならない。

 その空気とは何か。多くのアメリカ国民は現在、アメリカが覇権を維持していることに誇りを感じている。そして覇権の維持に多くの犠牲が必要であることも知っている。だからアメリカ文化の根源のひとつたる映画が多数これを表現している。

 祖国と国民との連帯と自己犠牲である。アメリカ国民はイラクでの犠牲にも耐えようとしている。軍学者を自称する兵頭二十八は米国が、戦争に対して物的損害より人的損失を恐れているとした。これは神風攻撃やベトナム戦争で証明された。

 だからこそ、自己犠牲を誇示しなければならないのである。米国はベトナムの後遺症があったが、冷戦への勝利により覇権を獲得したことから再びよみがえった。米国民はイラクでの苦痛に耐えている。日本ですら支那事変での犠牲は厭戦気分をもたらして、大東亜戦争の開戦は国民に暗雲の晴れた心持をもたらした。

 私はこの気分を母から直接聞いた。覇権への誇りのために米国民は耐えている。多くの日本人はベトナムでの米国の敗因を知らない。ベトナム国民の連帯は勝因の一部にしか過ぎない。

 ひとつはソ連と中共からの無尽蔵ともいえる軍事物資の支援である。もうひとつも誰もいわないが、計画された反戦キャンペーンである。反戦キャンペーンを北ベトナムだけで出来るはすがない。

 反戦を盛り上げたのは北ベトナムはもちろん、多くはソ連と中共である。ソ連はスパイ網がある。中共にはチャイナロビーがある。いくらベトナムが戦闘を持ちこたえたところで、米国内の反戦運動がなければ米国は容易には屈しなかった。イラクで米国が持ちこたえるか。どういう帰趨になるか私は知らない。しかしそれを予測するのはベトナムの教訓がある。戦う米国民の精神がめげるか否かである。


今日からブログを公開します。

2007-05-04 17:17:38 | Weblog

 今日からブログを公開します。これがわが家のスコティッシュフォールドです。立ち耳です。猫は素直ではありません。ペット用のカップでは水を飲みません。必ず水道から飲みます。だからこの光景は珍しくありません。日常です。水が飲みたくなると水道のところに行って、鳴きます。