毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

専守防衛とは本土決戦である

2013-11-23 12:31:26 | 軍事

 現代日本の防衛戦略は専守防衛であるという。専守防衛とは何であろうか。敵と考えられる軍艦が領海に侵入して、明らかに射撃の照準が行われても自衛隊は攻撃しない。自衛隊は敵艦が発砲してからでないと反撃できないのである。こんな状況では上陸地点確保のための支援射撃も容易にできるから、敵軍の上陸は容易である。航空攻撃に対しても同様である。敵の攻撃機が爆撃や対地ミサイルを発射しない限り戦闘機は攻撃しないのである。これでは本当の戦闘は敵軍が上陸してから始まることになる。

 大東亜戦争末期に、沖縄まで奪われた日本軍は本土決戦を呼号した。米軍の上陸地点は九州南部と関東平野であると予測され、米軍の計画とも大きな食い違いはなかったと言われる。本土決戦は、上陸前に一応の攻撃はするが、決定的戦闘は敵が上陸してからを想定している。相当な被害は与えても上陸はされると想定して、本格的戦闘は上陸後に始まるのである。

 つまり専守防衛とは本土決戦に他ならないのである。むしろ上陸前の反撃は最低限度しか許されないから、本土決戦を徹底的に純化したのが専守防衛である。本土決戦をシミュレーションした小説はいくつも書かれている。それらに共通しているのは民間人を巻き込んだ凄惨な戦闘になる、ということである。民間人の死者は一千万、二千万人とも予測されている。例え国際法を厳守して民間人が戦闘に参加しないとしても、戦域と居住地の区分はほとんどできないから、民間人に大量に被害が出ることは間違いないのである。

 政府が敵のミサイル基地を先制攻撃することを許容するような発言をすると、マスコミや政治家は専守防衛を盾に批判する。だがこの人たちは、旧日本軍が本土決戦を計画したことを強く批判していた人たちと重なるのである。彼らはそのことに矛盾を感じないのであろうか。

 いやそんなことは百も承知である。日本が海外に侵略しない限り、日本には戦争は起こらないという妄想に深く囚われているのである。専守防衛を止めて外国からの攻撃が予測されたときに先制攻撃をすると、日本の侵略になるというのである。それどころか、外国が日本攻撃の準備をするということさえないと考えているのであろう。だから専守防衛による凄惨な本土決戦は起き得ないと考えているのである。

 確かに戦後日本は直接戦闘をしたことはない。だが朝鮮戦争でもベトナム戦争でも戦争特需に沸いていた。軍需物資を売ってもうけていたからである。これは明白な中立違反である。だから両戦争の当時の日本国内の自衛隊や日本の船舶、領土を北ベトナム軍や北朝鮮軍が攻撃をすることは国際法上の正当な権利である。ただ両国とも現実的にはできなかっただけのことである。日本は両戦争には事実上参加していたのである。

 また李承晩ラインによって竹島を奪われた。領土も侵略されたのだ。しかも多数の国民が北朝鮮に拉致されている。憲法擁護論者は、憲法九条があったから日本は戦争に巻き込まれずに、侵略もされなかった、と主張する。だが現実は戦争には参加してもいたし、領土も国民も侵略されていたのである。


大東亜戦争は昭和50年4月30日に終結した・佐藤守・青林堂

2013-11-11 11:17:44 | 大東亜戦争

 要するに、大東亜戦争は昭和50年の南ベトナムのサイゴン陥落で終結したというのである。日本軍は米軍には負けたが、東南アジアに日本軍兵士が残り、各々の地で独立戦争を指導し戦い欧米からの独立を果たして大東亜戦争が終結したという意味である。筆者の指摘するように、戦後の日本人は米軍との戦いにだけ注目し、本土空襲の惨禍などから惨敗したとしか考えないが、ビルマやインドネシアに残った日本軍は終戦まで負けをほとんど知らずに健在だったのである。

 つくづく思うのだが、日本は戦後嘘で固められた戦史を教えられている。例えば、日本軍がマニラを占領した時撤退した米軍は市内を砲火破壊した上に、土民の略奪が横行していたが、日本軍の侵攻と共に、治安と秩序は回復されたのに、米軍とフィリピン人は破壊の全てを日本軍の行為にしている。(P28)蒋介石が国民に「徳を以て怨みに報いよ」と言ったとされるが、蒋介石の演説には、そのような文言はなく、後日意図的にすり替えられたものである。(P36)

 ベトナムで戦時中二百万人の餓死者がでた、とされるが、当時はヴィシー政権下であるから責任があるのであり、仏軍の規制と天災が食糧不足の原因であった。ところがホー・チ・ミンはそれを日本だけのせいにする演説をした。(P280)筆者は弱肉強食の世界にあることを自覚しない、気の優しい日本人の特性であるとする。しかしそれと同時にやさしいホーおじさんのイメージがあるホー・チ・ミンも残虐非道の共産主義者であることは間違いない。ホー・チ・ミンは偽りのイメージで真の姿が隠されているとしか思われないが、毛沢東のように実態があばかれることはないだろう。

 インドネシア独立に対する日本の貢献は有名である。単に軍事的ばかりではない。「当時のインドネシアには、一二〇種類の言葉があり、・・・そこで日本軍は全力を挙げてインドネシア語の普及をやりました。そして三年半でインドネシア語がどこでも通じるようになった」(P85)というのだから、日本はインドネシアという国家・民族を作ったに等しい奇跡を短期間に成し遂げたのである。

 知られていない一〇〇年前の日米戦争(P116)には米国のフィリピンにおける悪辣な行為が書かれている。米西戦争でアメリカはフィリピンを独立させると騙し、戦後裏切り米比戦争が始まったが日本政府は公式には支援できない。そこで何人かの壮士がフィリピンに渡り支援し、三〇〇人の在比日本人が戦闘に参加している。これを日米戦争といっているのである。この戦争でフィリピンの人口は一〇分の一に減ったというから恐ろしい。米国が本当に恐ろしいことをしたからこそ、独立した現在でもその恨みを言えないのである。戦後の中共も日本軍と戦った人たちは強さを知っていたから文句を言わなかったが、今の指導者は知らないから平気で過去に因縁をつけていると小生は思う。

 似たようなエピソードが書かれている。(P192)ある研究会で韓国人ジャーナリストが日本人に、日韓友好は絶対あり得ない、と言った。その理由は「日帝の支配三六年、米帝の支配五〇年、しかし、支那による支配は一〇〇〇年、その恐怖はわれわれの血の中にDNAとして組み込まれているからです。」と言ったというのである。

 さて日本が昭和十八年にフィリピンの独立を承認したのだが、当然日本の学者を呼んで憲法を起草した。この憲法には、戦争終結後一年以内に普通選挙を実施し、六〇日以内に新憲法の起草および採択の会議を開催すると謳っている。米国によって作られた日本国憲法にはこんな規定はない。(P126)日本人は国際法に律儀に従い、占領下で起草された憲法の無効を織り込んでいたのに対して、米国はあたかも日本人が日本国憲法を作ったかの如く嘘をついたのであ。その尻馬に乗った愚かな日本人は占領が解かれても日本国憲法を破棄しなかった。それどころか、米国製憲法だということが常識となった現在でも、憲法破棄どころか改正すら行えないで立ちすくんでいる。

 東南アジアの共産主義国家成立には残念なことが書かれている。「日本は開戦前の北部仏印進駐以来、ベトナムに関わってきた。しかし『明号作戦』までは、〈親独的な〉ヴィシー政府との協定に縛られて、直接的に日本の政策が反映されることはできなかった。」(P210)というのである。すなわち、フィリピン、インドネシア、ビルマのように自由行動をとって現地人と共にフランス軍を一挙に壊滅させ、PETAなどのような義勇軍を作って独立の礎を築いていた。そうすればベトミンのような共産主義勢力はこの中に吸収されてしまい、ベトナム、ラオス、カンボジアなどが共産化することもなかった。そうすれば、凄惨なベトナム戦争もなく、ポルポトの虐殺もなかった。一党独裁の政権下で国民が呻吟することもなかった。実にフランス領であった地域が、親中ソの共産主義独裁国家となったのは偶然ではなかったのである。


書評・日米開戦の人種的側面・アメリカの反省1944

2013-11-04 12:22:19 | 大東亜戦争

 戦時中の米国人の著書である。内扉には、真珠湾攻撃以後の日系アメリカ人の強制収容所の詳細な経緯を示すとともに、日系人への激しい偏見を描きだし、人種偏見による日本との戦争は1900年にカリフォルニア州との間で始まっていて、それが国家的規模に発展したことを詳説した書であると書かれている。確かに戦争中に自国の批判をするのは大変な事であろう。そこで読み始めたがうんざりした。素人の読む歴史本ではなく、学術書に近いのである。

 だが少し読んだだけで、やはりアメリカ人らしい嘘と偏見を発見したのでそれだけ記しておく。アメリカ政府が強制収容所を作って日本系アメリカ人を隔離したことについて「わが国の歴史上初めて、わが国民の一部にひどい仕打ちを加え、それを人種が違うという理由のみで正当化したのである。(P21)」という。そして同じ敵であってもイタリア人やドイツ人にはこのような扱いはなされなかったというのである。

 何という厚顔であろう。筆者にとって黒人とインディアンはアメリカ国民ではないのだろう。インディアンは無毛の荒地を選んだ居留区に隔離され、その後インディアンは事実上絶滅され、民族浄化されてしまった。第二次大戦後20年もたって公民権運動が成功するまで、参政権がなかったばかりではなく、白人が気に入らなければ切り捨て御免の如くリンチで殺されても警察は何もしてくれない。米国籍の黒人が人間扱いすらされていなかった時代にこの本は出されたのである。

また、「およそ五十年前までさかのぼって、日本の軍関係者が反米感情を日本の民衆に植えつけたことを示すのが本書の意図である。日米両国のあいだには、それ以前に培われた深い友好の絆があり、日本国民もアメリカには好感情を抱いていた。・・・こういった日本の軍関係者の企みに、わが国の軍国主義者や人種差別主義者の言動がどれほど役に立ったか示すつもりである。彼らは日本のゲームに加担したともいえるのだ。」(P25)本書を読む気が無くなったのは理由のひとつには、筆者のこれらの嘘と偏見がある。

筆者は、日本人への人種差別の根本原因は、日本の軍関係者の企みがあり、米国側の一部が、結果的にこれを後押ししたのに過ぎないと考えているのだ。換言すれば、日米戦争のスタートは日本の軍関係者によるものであるというのだ。これが米国人らしい傲慢ではなくて何であろう。戦時中に刊行できたのも、こんな特色があるからであろう。ただし、本書は読むに値しないものではなく、日系米人に対する差別の事実関係を子細に検証しているものである、という価値はあろうということは付言する。嘘と偏見のベールをはぎとれば事実は明らかになると思うからである。


書評・日中戦争・戦争を望んだ中国 望まなかった日本・北村稔・林思雲

2013-11-02 12:30:30 | 歴史

 本書は中国人の林氏が中国軍が青年を拉致して兵士を調達することを書いている、と紹介されているから読んだのである。小生は太平洋戦争と書くものを信用しない。太平洋戦争はアメリカ側の呼称であり、アメリカの作った史観を受け入れている証拠だからである。ところが本書では一貫して「太平洋戦争(大東亜戦争)」と書く。確かに内容は中途半端なのである。例えば鉄道王ハリマンが日本との共同経営を提案したのを、一旦は受け入れたのを破棄した。もし、この時受け入れていれば、アメリカが蒋介石をコントロールして満州開発しただろうから、日中戦争は起こらず、日米戦争もなく中共の支配もなかっただろう(P54)と書く。

 だがアメリカは一貫して満洲の経済支配をねらっていた。日本の大陸権益は早期にアメリカに奪われていたのに違いない。筆者はアメリカの支配欲に鈍感過ぎる。ただ、捏造された「南京大虐殺」という項(P39)を設けているように、南京大虐殺は、ナチスのホロコーストと対比するために連合国がでっち上げたと語るのだが、戦闘に伴う民間人の被害を誇大にとりあげた、としているのは感心しない。南京での民間の被害はほとんど全部が支那軍人の掠奪、殺人、放火などによるものであり、味方の軍人さえ殺している。

せっかく、南京市内で日本軍が米と小麦を支給している時期を、東京裁判の判決では「南京大虐殺」の最中であったとされている(P37)と書いているのにである。平和的人道的とされる米軍の日本占領でさえ、東京、神奈川では初期の一年に何万あるいは何十万という婦女子が強姦され、多数の殺人も行われた。その実態は分からないのである。日本軍の南京占領は、これに比べてはるかに平和的なものだったのである。

1900年代初めにの満洲の人口の9割以上が漢人種だから、五族共和を唱えて満洲人の皇帝を立てるという論理は根拠が薄弱となる(P56)という意見は首肯しかねる。シンガポールがその見本であるが、これは力の論理であって、領有権の主張の正当性があるわけではない。固有の領土であったものを異民族が押し掛けて多数になったからといって、固有の領土という主張が根拠薄弱になるわけではない。戦乱に明け暮れた支那本土とは別に、満洲族の故地に五族協和の国を作るというのは、日本人が初めて考えた壮大な理想であった。

 清国滅亡当時の支那は、国際的には中華民国と呼ばれているが、一つの政府により統一されていたわけではないことが書かれている(P58)。袁世凱が大統領となった中華民国を本書では中華民国北京政府と呼ぶ。蒋介石が率いる国民党は南京を首都として中華民国国民政府と呼ぶ。その後北京には張作霖による中華民国軍政府が立てられる。(P60)その間も実態として支那全土は軍閥の割拠する世界であり、統一政権など無い。辛亥革命以後の支那を、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の対立だけと見るのは、単純化などというものではなく、実態を全く反映していない。

 「満洲事変後の一九三一年十一月に、中国共産党は江西省の瑞金で中華ソビエト共和国の成立を宣言し、ソビエト共和国政府の名義で日本に宣戦布告した(P85)」というのだから、もし支那事変を抗日戦争として一貫して中共が戦ったと言うなら、支那事変を開始したのは中共であった、ということになる。日本では盧溝橋事件が中共の仕業だとか、盧溝橋事件開始直後に毛沢東が全国に抗日を宣言したことが計画的であった状況証拠にしているが、国際法上は1931年に支那事変は中共により開始され、盧溝橋では軍事衝突がスタートしたのに過ぎない。この間の戦闘なき空白の期間は、朝鮮戦争が国際法上は終わっておらず、休戦状態であるのに類似している。

 支那事変は、陸軍が事態を拡大したという軽薄な定説があるが、トラウトマン工作で、中国側の煮え切らない回答で、交渉打ち切りを主張したのは政府であり、陸海軍は反対した。特に陸軍は参謀次長が安易に長期戦に移行することの危険を力説し、政府を追及した。これが大本営による政府不信任の表明だという議論にまで発展した(P109)和平追求が逆に批難されたのである。結局譲歩ぜざるを得なくなったのは大本営であったというのだから、どこが軍部の横暴だというのだろうか。陸軍における不拡大派と拡大派との対立というのは、慎重に対応すべきか一挙に大兵力で決着をつけるかの相違である。事変の長期化を望む陸軍軍人はいなかったのである。

 父は大東亜戦争中、北支に出征した。村民は日本軍が来ると日の丸を掲げて歓迎し、国民党軍が来ると、国民党政府の旗を掲げて実にいい加減なもので、日本軍を外国の軍隊と思っていなかったのではないか、と言った。本書にも「農民の中には、日本軍は何処かのく先発の軍隊だろうと思う者までおり、ある地方では日本軍は東北(満洲)の張作霖の軍隊の一部だと思われていた。(P131)」というのだから、父の直感は正しかったのである。漢民族同志ですら言語が通じないのだから、言葉が通じないと言って外国人だとは思わなくても不思議ではない。

 さて四章は、期待の林氏が担当している。「ナチスの悲惨を極める状況が伝わってきたころ、中国では徴兵がクライマックスに達していた。当時、徴兵された壮丁たちを収容する施設である、成都の壮丁営に勤務していた医者たちは、ドイツでの恐ろしいやり方に驚くどころか、「ナチスの強制収容所の様子は、我々の所と全く同じである」と語っていた。成都のすぐ近くにあった壮丁営の一つでは、四万人を収容して兵士にする訓練をほどこすはずであったが、多くの人間が連れて来られる途中で死んでしまい、生きて訓練を受けたのは八千人であった。」(P139)その後の本書には、いかに兵士にするために拉致された若者が悲惨な待遇を受け、同胞に殺されていくか延々と書かれている。何も毛沢東だけが残忍な殺人鬼なのではない。

 林氏は、劉震雲の小説を引用にして国民党のやり方を非難している(P156)が、日本軍をも批難している。それでも、河南省が干ばつで五百万人が被災し、三百万人以上が餓死したと言われるが、国民党は納税と軍用食糧の負担は変えなかった。この頃河南省に進出した日本軍は軍用食糧を放出し、多くの人が餓死を免れたというのだから、何をかいわんやである。劉は共産党を持ち上げているが、これは現代作家の建前で仕方なかろう。それでも日本軍の人道的措置は書かざるを得ないのである。林氏は中国の色々な小説や資料をチェックした結論として「・・・日本軍占領下の大都市で餓死者が発生したことを示す資料はない。」と断言している。

 袁世凱の系統の中華民国北京政府は、蒋介石に滅ぼされた。これを林氏は旧北洋政客という。林氏に言わせると、満洲人、蒙古人と旧北洋政客たちは、「中国近代史上全ての厄災は孫文の三民主義が作りだしたのであった。中国共産党の誕生であり、蒋介石政権の樹立であり、欧米の利益に屈して抗日を行うなど、これらの根源は全て三民主義にあった。」と考えている(P167)。三民主義にそんな威力があったとは思われないが、欧米に利用されたのは確かである。それにこれらの三つは中国近代史上の厄災であることも事実である。ただひとつ蒋介石政権は、大陸から逃亡することによって、蒋経国と李登輝を経て民主義国家になったかに見える。適正規模であれば、漢民族も国民を幸福にできる国家を作れる可能性があるという証明である。ただし金美齢氏が台湾に絶望したように、台湾の民主化の成功はまだ歴史の検証を経ていない。