毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

東京の災害の碑

2019-10-31 22:05:53 | 東京の風景

 東京都内には、結構、災害の碑が多い。しかも古いものは小生の知るものでも江戸時代に遡る。意外に思われる方も多いかも知れないが、東京の地も数々の災害にみまわれていたのである。小生の見た碑の災害とは地震と津波とそれから空襲である。空襲を災害に入れるのは意外に思う人があるかも知れないが、一晩に10万人の死者を出した東京大空襲は、被害者にとっては理不尽な災害そのものであったのに違いないと思う次第である。

 東日本大震災の後には、災害の痕跡をどのように残すかという議論がなされた。それならば、先人が残したこれらの災害の碑も、もっと大切にされてもしかるべきであろう。というのは、これらの碑の多くは、辛うじて近隣の人たちの好意で保存の努力がなされているだけで、碑の説明文すらないものが多いからである。ここに紹介するのは、そのほんの一部である。

①波除碑:江東区牡丹三丁目の路傍にある。寛政三年の深川辺を襲った津波の碑であるが、空襲と震災による損傷が激しい。

 

②波除碑:江東区木場洲崎神社内にある。①と同じ津波の碑であるが、幕府はこの周辺を買い上げて空き地とし、ここより海側に住むことを禁じたが、その後人々は忘れ、住宅密集地となっている。この碑は都指定の文化財となっており、比較的詳しい説明の看板が設置されている。しかし、肝心の碑は破損して何だかよく分からないのが残念である。

③大正震火災横死者追悼碑:隅田川の白髭橋上流の東白髭公園東北の道端に、日露戦争の記念碑、朝鮮の壬午事変出征の碑とともに何の説明もなく建っている。看板等はないが手入れはされているようで状態は良い。このあたりは、東京大空襲の被害を受けていないと見えて、三つの碑には焼損の痕跡がないことが幸いである。

 これらの3つの碑は身の丈の倍くらいある巨石から削り出したものであるが、ここにまとめられて建っているのは偶然ではなく、何らかの折に近隣から移設してまとめたものと推定するが、残念なことに碑の説明すらないので、皆目見当がつかない。東日本大震災の碑を大切にするのと同様に、これらの碑も大切にすべきと言いたくなる所以である。

④東京大空襲の碑:隅田川の言問橋右岸の北側たもとにある。言うまでもなく、昭和二〇年三月十日の東京大空襲の犠牲者慰霊の碑である。御覧のように、いつも献花などがされているのには感心する。

 

 


西山記者は正しかったのか?

2019-10-29 17:30:21 | 歴史

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 平成24年の3月まで、連続ドラマで山崎豊子原作の「運命の人」がTBS系で放映されていた。このドラマは有名な外務省機密漏洩事件をかなり忠実に模しているとされている。主人公の弓成記者とは実在の毎日新聞の西山記者がモデルである。外務省の機密とは、沖縄返還の際に、当時の地権者に米国が支払うはずになっていた原状回復費を日本政府が肩代わりする、という密約をかわしていたものである。確かに戦争で奪った土地を返すのに、費用は奪われた側が払うということは世間一般の常識では理不尽なことである。

 だが現実には世界にはこのような理不尽なことで溢れている。インドネシアは第二次大戦後、婦女子も含めた40万人の命を奪われる独立戦争を戦ってオランダから独立した。なんとオランダは独立の条件として、多額の賠償金を取ったのである。オランダの植民地支配は、他の欧米食国と同様に現地人を獣扱いした過酷なもので、その結果部族の争いや土地・産業の荒廃、多数の虐殺をもたらした。取り返しのつかない荒廃をインドネシア全土にもたらしたのである。それにもかかわらず、オランダは当然の如く賠償金を取ったのである。未だにアジアのかつての植民地国は白人の宗主国の過酷な支配の過去を公然と国民に教育する事さえ恐れてしていない。一方でありもしなかった日本による占領下の被害を声高に言うのに、である。

 このことに思いを致すことができない現代日本人は何と愚かな人たちであろうか。歴史を見て欲しい。かつて戦争で奪われた土地が外交交渉で還ったことを寡聞にして私は知らない。沖縄は稀有な例外である。戦前はさておき、戦後米国は自由と民主主義の国で侵略戦争は悪である、と言う建前を主張する国になったから、戦争で沖縄が米国領になったとは口が裂けても言えなかったのである。しかし実態は当時沖縄に行くにはパスポートが必要であった、紛れもない米国領だった。 

 余談になるが、沖縄が交渉で還ってきたことから、多くの日本人は北方領土が交渉でかえってくるとの幻想を抱いている。断言する。ロシアが余程ひどいことにならない限り、北方領土が交渉で還ってくることはない。いや、ロシアが内乱でめちゃくちゃになろうと、外交より戦争で奪い返すしかない公算の方が高い。外交交渉では二島返還でさえありえない。かく考えれば西山記者の機密漏洩とは何だったのだろうか。日本政府が密約を結ぶのを拒否して沖縄返還が反故になれば良かったのだろうか。たとえ基地付きとは言え返還自体が歴史的なできごとである。西山記者はそれを妨害しかねないことをしていたのである。 

 言論の自由・報道の自由を守るとドラマは言っていた。確かにそれは恐ろしく勇気のいることであり犠牲を伴うことである。だがこのケースでは何のためにそれらの自由を守ると言うのだろうか。報道の自由が守られた結果、沖縄が返還されなくても良いと言うのだろうか。沖縄の人たちが米軍基地の犠牲になっている事は極めて遺憾なことである。しかし一方で沖縄の地政学的な位置の問題がある。さらに日本が米国に代わって自らを守る、あるいは東アジアの安定に寄与しようとはしない、という怠慢のせいでもある。沖縄から米軍基地を撤去して代替の軍事力を置かなければ、東アジアには大規模な動乱が起きる。 

 他のドラマや映画にもあることだが、まだおかしなことはある。沖縄の人が、記者に米軍もひどかったが日本軍はもっとひどかった、と語るシーンである。実際にこう語る沖縄の人は多くいるのだろう。しかし「天王山」と言う米国人が書いた本に、沖縄における米軍の残虐行為が多数書かれている。戦時中の沖縄における強姦事件は一万件を超えていると言うのだ。投降した日本兵を殺害するのはほとんど当然のことだった。連れていた4人の沖縄女性を強姦した上に川に投げ込んで殺したと言うのもある。その他の恐ろしい残虐行為が多数書かれている。つまり米軍は人道的な軍隊などではなかったのである。何故現代の米軍兵士は小学生すら強姦する恐ろしい人たちなのに、沖縄戦当時の米軍が残虐非道な存在ではなかった、と言えるのであろうか。残虐な日本軍、と言う教育のために、日本兵は米軍よりひどかったと言い、反基地闘争のために、現代米兵はひどい、というのではないか。多くの目に監視されていた現代に比べ、やりたい放題だった沖縄戦当時の米軍の方がひどかったのは当然であろう。 

 「天王山」には疑問のある記述もある。ふらふらしている日本兵の胸に煙草の火で合衆国海兵隊という文字を焼き付けた上に、担架で運んでいる最中にわざと落として骨折させたと言う。だがこの日本兵は女性を強姦した後に二人の子供と一緒に咽喉を切って殺したと言うのだ。これは実に奇妙なことである。担架で運ばなければならないほど怪我などで衰弱していた人が、どうして強姦などできたのであろうか。米軍の強姦事件の大半は熾烈な戦闘が行われている地域ではなく、戦闘が収まって落ち着いた場所で起きたと言うのだから。多分このエピソードを語った米兵は、遊び半分に行った残虐行為の言い訳をしたのである。この本には、この手の遊び半分としか思われないような残虐行為が多数書かれている。後に日本通で有名になったドナルドキーンですら、当時の手紙で「アメリカ人が日本人をまだ人間として評価できないからだ」と書いた位だと紹介している。日本人は米国人にとって獣であったのである。獣が人道的な扱いを受けるはずがない 

 この著者が自虐的日本人と違ってまともなのは、数々の米兵の残虐行為を書きながら一方的に断罪するのではなく、「武装していない住民に対する故意の残虐行為は、日本兵によるものよりはるかに少ない。」と一言だけ同胞のために弁明していることである。ただしこのことを著者はこの本では立証してはいないから勝手な自己正当化に過ぎない。主観的な弁解だけで、事実を立証していないのは、ノンフィクションとしては、重大な瑕疵である。米軍とソ連軍との相違はソ連軍が強姦略奪を上官までが推奨しているのに対して、米軍は公式には禁止していたのに過ぎない。やっていることに大差はないのである。しかも、この本に書かれている多数の強姦殺人、虐待などの戦時国際法に明白に違反する行為については、ただの1件でさえ処罰されたケースがあったとは書かれていない日本軍では日本兵自身による、戦時国際法違反相当の行為について自ら処罰した例はある。日本軍の軍紀が厳正であったと言うゆえんである。 

 もうひとつは記者が報道の自由を権力から守ろうとした大義についてである。彼は当時の佐藤政権に対して戦ったのである。だがそれ以前にGHQによって日本は徹底的に言論統制が敷かれていた。西山氏はその時代に育ったはずである。言論の自由が奪われたから戦争になるのを止められなかった、と言う反省から、権力の弾圧から言論の自由を守ろうとした、と語る。しかし戦後行われていた米軍による厳しい言論統制については言及さえしない。米軍は自らへの批判を許さなかったばかりではない、公職追放によって、米軍に都合の悪い人物を政界、言論界、教育界から追放して米軍が去っても事実上言論統制の効果が継続するよう仕組んだ。

 その結果戦前戦中の言論統制を声高に批判する人はいくらでもいるが、戦後の米軍の言論統制を批判するのは例外的である、という米国が望んだ事態が生まれた。西山記者の行為が個人として勇気のあるものだと言う事はそのとおりだろう。しかし米軍による徹底した言論弾圧に触れさえしないことに、その勇気に大きな疑問を持つのである。彼にとって戦前戦中の日本政府の弾圧は存在しても、戦後のGHQによる過酷な言論弾圧は存在しなかった如くである。ちなみに事件を起こしたのは毎日新聞の記者であったが、放送したTBSは毎日新聞の系列である。 

 


ミラージュF1-CG・スペシャルホビー1/72

2019-10-27 18:37:56 | プラモコーナー

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 ミラージュF-1はハセガワにもあるのですが、何せ古いので、スペシャルホビーにしました。塗装は素直に箱絵のものをご採用です。組み立てに問題はないのですが、機首のピトー管のパーツが折れてしまったので、0.5mmの真鍮棒で代用しました。それと、脚カバーがやたらに多いのですが、接着しろがないので、付けたそばからポロリポロリ。それで見えないところにプラバンを貼って、しっかり取り付けました。写真でも全く見えません。

 

 他のミラージュシリーズが尾翼なしのデルタ翼にこだわっているのに対して、ミラージュF-1は下の写真のように平凡なクリップトデルタ翼と尾翼の組み合わせが意外です。元々外部装備は機体の美しさを壊すので取り付けたくはなかったのですが、パイロン用の穴が開いていたので、落下タンクとミサイルのパイロンだけ取り付けました。

 もっともミサイルの部品が沢山あるのに、説明書には取り付けの指定が見当たらないので、取り付けようがありません。説明書の一部を失くしたのかもしれません。それでミサイルのパーツがごっそり余りました(;^_^A

 


共産主義国の私有財産の不思議

2019-10-25 23:18:11 | 政治

 昔話だが、平成21年の暮、こんなニュースが国際面の片隅に載った。「立退き抵抗排除モスクワ」、という見出しである。モスクワ市当局が、1950年代に菜園要地として河川労働者に分与され、小家屋の建築が認められたのが始まりで、ソ連崩壊後に土地が転売されたり、一戸建て住宅が建てられたと言う。その後モスクワ市が1998年にこの一帯を自然公園に指定して、違法建築として住宅の強制撤去を始めたと言うのだ。長年住んでいるのを一方的に自然公園に指定して、強制撤去するのが通用するというのはロシアらしいでたらめである。

 だが小生が不思議に思うのはその点ではない。私有財産、つまり土地や家屋などを個人で保有する事が禁止されているはずの共産主義で、土地が労働者に与えられていたと言う事実である。だからこそ今頃になって強制立ち退きなどと言う問題が発生したのである。しかし一方でこの話で納得する事がある。皆が不思議に思わない不思議である。単純な小生は、ソ連が崩壊して資本主義になった時、ロシアには大混乱が起きるだろうと思った。

 ソ連では、土地や家屋などを個人で保有しておらず、全てが国の資産で、現在住んでいるのは、仮に国から割り当てられているだけのはずである。するとソ連が崩壊すれば、土地や家屋を誰が保有する事になるかについて、奪いあいの大混乱が起こるのに違いない、と予想したのである。つまり誰の土地でもない、と言う事は体制が変われば誰にでも権利がある、と言う事だからである。

 ソ連は平等のはずだから、誰も平等に財産を受ける権利があるはずである。例えばソ連崩壊にあたって、国有のはずの土地の配分について、こういうルールを定めたとしよう。一家の人数の頭割でその家族がもらえる総割り当て面積を決める。モスクワとシベリアでは人気が違うから、面積の比率を決める。次に各地の土地の保有の希望を募り、抽選で配分していく、などなどである。だがどのようなルールを決めても皆が公平だと納得できるルールなど作れまい。

 ところがそんなルール作りも行われず、混乱も起きなかった。その理由は、全ての国民が先の河川労働者のように、土地を配分されてそこに住んでいたのである。つまり土地の国有などと言うのは建前で、実際にはそこに住んでいた者の所有になっていたのである。もし住人が仕事の都合で転地すれば、その土地は不要になるから売って、その金で転地先の土地を買ったのであろう。

 ソ連にも貨幣はあったのである。貨幣があれば土地にも自然に価格がついたのである。そもそも貨幣の保有だって私有財産である。しかし建前では土地は国有だから、あまり公然とはできなかったのには違いない。だから土地の転売で騙されても裁判には持ち込めないから、裏では色々な問題が鬱積していたのに違いない。つまり資産の国有の建前は、国民に不便を強いていたのに過ぎない。ノーメンクラツーラと呼ばれた赤い貴族、つまりソ連の政府高官一家が世襲の豪邸に住んで、豪勢な暮らしをしていた事はソ連末期には広く西側世界にも知られていた。

 彼らは大資産を事実上私有していたのである。ソ連崩壊後、彼らは公然とそれを私有したのである。共産主義の実際とはそんなものだったのである。ソ連の初期には国営農場などが作られて、農民は土地を奪われて、かつての自分の土地を共同で耕させられていた。これが資産私有の禁止と言う、共産主義を厳格に実現する唯一の手段であった。しかしまもなく農民は共同農場では真面目に働かないために、能率が低下して個人農園が認められるようになった。

 そして国営農場は崩壊したのである。昔の中学の社会科の教科書には、ソ連のコルフォーズ、ソフォーズと言った国営農場で大規模農業があたかも理想の農業であるかのように、写真入りで紹介されていた。その後の経緯をみればそんな事は幻想であった事が分かる。つまり資産の私有禁止、つまり共産主義などと言うのは実際には運営できないのである。単純に考えてみるがよい。ソ連にだって貨幣はあった。貨幣の保有は私有財産の保有である。貨幣の保有なしに日常の生活ができようはずはない。だから、共産主義の絶対原則たる、私有財産の禁止、などというものがそもそも夢想である

 だから世界中で共産党が消え、中共ですら資本主義化した。いや、中共ですら人民元という通貨はあるのだから、初めから私有財産の禁止などというものは、有名無実だったのである。そう考えると日本にある「日本共産党」なるものに所属する人たちの知能はどうなっているのだろうかと、小生は思うのである。

 西欧諸国では「共産党」なるものはフランスにしか存在しない。現在のドイツでは、共産主義とナチズムは、ファシズムである、ということで政党の結成は事実上禁止されていることは有名な話である。日本の戦前はファシズムであった、などと見当違いの批判をする人士が、日本共産党の存在を支持している場合が多いことは、小生には奇怪なこととしか思われない。


女性イラスト(芸術家の技量のピーク)

2019-10-25 18:36:54 | 女性イラスト

 生前評価が確定した多くの著名芸術家の場合、案外閑却されているのが作品個々の出来の良し悪しの評価と、どんな作家にも技量のピークがあるということである。ピークに向けて作品の品質は向上して、ピークを超えると明らかに衰えるということである。例えば東山魁夷の作品を時系列的にならべた個展を見たことがある。晩年の魁夷の作品は明らかに技量が落ちていることが見て取れる。晩年は素人目にも粗雑になっていったのである。恐らく筆の技量は年月により、さえてきても、眼が悪くなっているのが根本的原因と、勝手に想像したと言う次第である。 

 年齢による視力等の体力の衰えが、経験による技量の向上を超えてしまったことなどの原因があるのであろう。しかし主催者側では誰が見てもわかるはずのこの事実に触れない。鑑賞者も何故か気付きもしない。芸術の制作には技量を必要とする。従って年齢その他の原因によるおとろえはある。芸術家の制作能力にはピークがある。多くの美術評論家が、あまりに当然なこの事実に触れないのを不可解に思う次第である。

 


侵略という言葉の二義性

2019-10-23 14:31:43 | Weblog

 平成27年4月14日の産経新聞の正論欄は古田教授の「『侵略』といえなかった朝鮮統治」であった。教授は、明治期までの李氏朝鮮はまるで平安時代のような古代の世界で、商業も技術も無きに等しい国家で、その状態が何百年続いていたと言う。併合した日本は近代化に成功したのだから「侵略」とは言えないという。教授の言うことは常識的には納得がいくものである。

 一方雑誌「正論」27年5月号で近現代史研究家の関野氏が、米国の贖罪史観植え付け計画のいわゆるWGIP(War Guilt Information Program)の文書を発見して実在を証明した。その中で関野氏は、日本の侵略をパリ不戦条約を根拠にするには、そもそも条約で侵略の定義がされておらず、当時のアメリカやイギリスの明示的考えからすれば、満州事変以来の日本の行動は「侵略」と見なすことができない、と説明している。

 一方では常識的に侵略ではない、と考えることができるという意見があり、他方では侵略など定義されていない、という意見がある。明らかに「侵略」には二義性がある。侵略が定義されていないのなら、侵略だと断言できないのである。それは古田教授が言うのは、国語的常識から言っているのであり、関野氏は国際法を問題にしているからである。それでは巷間で日本の近代史を説明するとき、この区別が裁然となされているのだろうか。実はそうではない。

 保守系の論者の一部には、大航海時代以降の欧米のアジア・アフリカの植民地支配を、苛酷な侵略と断ずる一方で、日本の満州事変以後の戦争を語るときは、侵略という言葉は当時の国際法で定義されていないのだから、日本を侵略国と断罪はできない、という主張をする人がいる。この混乱は侵略という言葉が幕末以来、欧米の苛酷な植民地支配を恐れ、かつ非難する言葉として使われるようになったため、国語的には道義的色彩を帯びたから、生じたように思われる。

 「侵略」には本来は他国を攻撃して領土を占領ないし、取ること、という物理的意味しかなかったはずである。戦国時代には日本国内では互いに侵略が常態化していて、他国の領土を取ることはむしろ善だったのである。有名な「風林火山」の「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」の侵掠は侵略と同義である(広辞苑)。泥棒一家ではあるまいし、悪事をスローガンとして押し立ててゆくはずはないのである。だから条約のwar of aggressionという先制攻撃によることを意味する言葉を侵略と訳したのは、本来の日本語の意味では間違いではなかった。だが既に一方で、日本人自らが道義的悪の意味を付与していたのだから、戦後になって自虐史観の立場から大いに悪用される結果となってしまったのである。

 それでは大航海時代以降欧米諸国が、世界各地を植民地を求めて荒らし回ったことは、国際法違反なのであろうか。そうではないのである

米国人ブロンソン・レーが書いた「満洲国出現の合理性」という本に1841年にジョン・キンシー・アダムスという米国人の国際法に対するコメントが紹介されている。

「国際法とは地球上の凡有る国家を一様に拘束する法則ではなく関係当事国の性質及状態の異なるに従って異なる所の法律制度である。基督教国の間に行はるる国際法がある。其の国際法は米国憲法に於て米国と欧州諸国及植民地との関係を律する上に於て米国の義務的のものとして認められて居る。其の外に亦米国と阿弗利加の土人との関係を規律する国際法もあれば、米国と野蛮国との関係を規律する国際法もあり、更に又「花の園」即ち支那帝国との関係を規律する国際法もあるのである。」(P25)と。

幕末に国際法を知った時、日本人の国際法理解は、アダムスの言う「基督教国の間に行はるる国際法」だけであった。正確にいえば「キリスト教国」間にだけ適用される国際法を「キリスト教国」でなければならないという前提を忘れて、世界中に適用されていると誤解していたのである。しかし、不平等条約を結ばされたことに気付くと、ようやく「国際法」にはキリスト教国、すなわち文明国と、非文明国に適用されるそれは異なる、ということを思い知らされたのである。

 非文明国においては国際法は、米国による、アフリカ黒人の奴隷化を正当化するものである。さらに米国の中南米支配を正当化するものである。もちろん適用地域が違っても欧州と野蛮国の間にも適用されるはずである。そして支那における欧米の権利を正当化するものである。

当時の国際法では、キリスト教国と野蛮国の区別がある以上、そこに住む住人も対等ではない。効率よく植民地から収奪するためには、植民地の人間は獣並に扱う必要がある。だから国際法の植民地の是認は、植民地支配が苛酷であるという道義的非難を拒絶している。

国際法の淵源は、ヨーロッパの国家間の戦争におけるルールであったことを忘れてはならない。国際法とは発生の過程からして、キリスト教国間のルールであり、その他には別のルールが適用されるはずであった。すなわち、文明国は非文明地域を無主の地として植民地にすることが当然とされたのである。しかし、大東亜戦争の終結と、それに伴うアジア・アフリカ諸国の独立によって、時代は劇的に変わった。

植民地の大部分は独立し、国際法には適用する国の「文明」のレベルによって同一ではない、などというダブルスタンダードは建前上はなくなった。世界に一律に同じ国際法が適用されることになったのである。そうである以上、帝国や植民地というものは国際法上、本来的には存在を否定されるべきものになったのである。

帝国のひとつであったソ連は崩壊した。倉山氏の嘘だらけの日露近現代史によれば、ロシアはソ連という帝国に支配されていたのであって、ロシアもウクライナ同様にソ連の支配下にあったのである。いわばソ連帝国の植民地といったところであろう。東欧諸国のほとんどはソ連の間接支配の植民地だったのだろう。そう考えれば非ロシア人即ちグルジア(ジョージア)人のスターリンがソ連の支配者だったことも、「ソビエト連邦」という地名や民族名を含まない奇妙な国家の名称だったことも理解できないわけではない。

ソ連が崩壊した後の帝国は中共だけとなった。漢民族と自称する人たちが、はるかに大きい面積の「少数民族」地域を植民地として支配する帝国である。昔から漢民族が支配する中原(中共の領土の一部)はその周辺の地域を含めて、統一と分裂を繰り返してきた。特に中原は、それ以外の地域とは異なったルールを勝手に作ってきた。従って欧米流の国際法など適用されるとは考えてはいないのである。

さて、侵略という言葉に戻ろう。現在の国語でいう侵略という言葉が道義的悪、の概念を付与されていることは、いまさら変更しようもない。一方で国際法上の侵略とは、時代によって国際法の変遷とともに定義が変化していったと考えるべきなのである。国際法上の侵略には、善悪の概念を含むべきではなく、その時代において禁止されていたものであったか否かだけを論ずるべきなのである。

もちろん禁止されるか否かには、理由として善悪が含まれる場合もあるし、政治上あるいは運用上の理由によるものもある。例えばダムダム弾の使用は、被弾者の苦痛を不必要に強める、非人道的なものであるとの判断により禁止されている。しかし、同様に非人道的兵器があったとして、国際法上ダムダム弾のように明示的に禁止されていなければ、使用は可能であると主張することもできる。戦時国際法のような戦争法規は、禁止されていないことならば、何でもありのネガティブリスト方式だからである。

侵略については、国際法上は満州事変当時は定義されていなかった、とも言うことはできる。また当時の米英は厳密な意味でのパリ条約に対する留保ではないにしても、各種の発言等で、中南米地域には適用されない、その他の条件をつけている。前掲の関野氏が当時のアメリカやイギリスの明示的考えからすれば、満州事変以来の日本の行動は「侵略」と見なすことができない、と述べているのは、この意味なのである。

米英の明示的考えとは主として「自衛」に含む地域と内容について述べられている。すなわちパリ条約当時は「侵略」の定義を強いて言うなら、「自衛ではないこと」ということである。


小室直樹の教える村落共同体

2019-10-19 23:44:09 | 社会

 小室直樹氏の「中国原論」には小生の体験したにもかかわらず、未だに理解できていない村落共同体が書かれていたので、小生の経験と絡めて本書の、日本の共同体とその崩壊について取り上げる。(P169)まず共同体の定義である。

共同体内外は二重規範となっている。②社会財はまず、共同体に配分され、次に共同体の各メンバーに再配分される。③共同体は敬虔な情緒に支配されている。

 という3条件である。

 小生は子供の頃、まさに、村落共同体の中にいた。しかし、小生の見たものは崩壊寸前の姿であったのに過ぎないのだろう。①と②は辛うじて残っていたが、後述のように③などは無くなっていた。小生の実家は国会図書館で調べると、応仁の乱以前に仕えていた領主が戦乱に負けたために、かつて住んでいた土地に戻り、それ以来土着して百姓となった。同じ字(あざ)の地域のうちでも、原則として10数件の同姓の家としか付合っていなかった。全てが血縁であったと思う。

 当初は敗残したために周囲を警戒し血族同士で固まった、一種の落人であったのに違いない。長子相続であったから、本家の我が家の土地は広大であった。30年位前に町の火葬場ができたが、そこまで行くのにタクシーを使わなければならない。しかし、戦前はそのあたりまで我が家の土地であったそうである。

葬式などは各自の家でするのだか、死者の出た家の人は何もせず、通夜から葬儀までの段取りは、共同体の一族で全てしてしまう。食費や酒代その他の経費がかかると、その家の財布から、断りもなしに持って行って使う。それほど濃密な関係であった。田植えなどの大規模な農作業は共同体の仲間全員が集まって、各家の田圃の作業を順番にして片付けた。毎日の田植えの後の夜は、毎日ちらし寿司などの当時としては目いっぱいの御馳走を出しての大宴会が繰り広げられていた。

 だが委細を見ると、いくつかのグループに分かれて反目していた。不思議なことに本家である我家だけが孤立していた。母は意地っ張りだったから、本家は馬鹿にされてはならないと突っ張っていた。私や兄が他所の子供にからかわれると、馬鹿にされるなと、怒られた。だが却って小生たち兄弟の根性はイジケていったのだと思う。奇妙なことだが、兄が成人式を迎えたとき、曾祖母が近所に兄を挨拶に連れて行った、ということを最近聞いた。本当は本家に分家が皆が挨拶に来るべきなのである。

かく言うように、六〇〇年も経つと村落共同体はほとんど崩壊していた。箪笥に短い刀が隠してあるから聞くと、祖父が大刀を短く折って成形して、鉈代わりに使っていた、と言う。そこには苗字帯刀を許されていた士族である、という誇りはない。既にして心根まで百姓に土着していたのである。

だから小室氏が書く、村落共同体の崩壊の過程は興味深く納得もできた。「戦前、戦中における共同体は、頂点における天皇システムと底辺における村落共同体であり、日本の人々ここに安住していた。しかし敗戦によって、頂点における天皇システムは解消した。・・・致命的な急性アノミーが発生した。それとともに日本人の心の行き場所であった村落共同体も、漸次、崩壊していき、高度成長の進行とともに、ほとんど姿を消した。」(P170)のである。

日本の経済の高度成長というと、昭和三十五年あたりからだと思われているが、実は昭和二〇年代の末期に始まっていたのだと言う。ということは村落共同体も、その頃から崩壊が始まったのである。昭和35年から45年の10年間の社会変動は激しく、それまでの100年間以上の生活様式が変化が起きたと言う。同時に村落共同体も壊滅した。それは小生も体験した。昭和30年台前半は、子供の普段着は和服だった。和服と言えば聞こえがいいが、ボロな浴衣のようなものに粗末な帯を締めて遊んでいた。

日本の共同体は、血縁共同体でも、地縁共同体でも、宗教共同体でもなく、全て一緒に仕事をすることによってできる「協働共同体」のだそうである。その事は前述のような、皆で農作業を協働していた、ということから小生には実感できる。「・・・高度成長によって大量の労働力が都市へ流出し農村過保護政策によって村落における協働システムは解体した。さらに流通経済が村落にまで流入したことがこの傾向に拍車をかけた。」(P173)というのだが、これも小生には実感がある。

小生の知る昔の農家と言うのは自給自足に近かったから、現金は極めて少なくて済む。衣服は継ぎはぎで、兄弟のお下がりやお古を使うから滅多に買う必要はない。市場に農産物を売れば現金は足りた。小生は高校に行くのに中古の自転車を買ってもらったが、半分は現金だったが、半分は米と野菜をリヤカーに積んで行って払った。自家で食べる米は、工場に運んで精米してもらってたが、精米に出したコメの一部しか返してくれない。精米料金は現金で払えないから現物で払ったのである。

ところが教育の程度が進み、農業機械が入るとそうはいかない。現金が必要なのである。その代わり協働作業は必要なくなる。現金はどうするか。田畑を売るのである。こうして村落共同体は消えた。「村落共同体こそ、多数の日本人にとっては心の依り所、故郷であった。都市へ出ても外国へ行っても、『志をとげて、何時の日にか帰る』場所であった。その村落共同体が、消えて無くなった。サアたいへん。一大事だ。・・・そこで、機能集団たる会社(企業)は共同体に成ることによって、巨大な急性アノミーを引き受けることにした。」(P173)その通りである。

ただし、全部の会社ではなく、大中企業であり、中小企業や零細企業は共同体に成りきっていないのだという。その理由の説明はないが、想像するに、中小企業や零細企業は、ある人が入社してから死ぬまで(せめて定年退職まで)存続することが難しいからであろうし、そこまで社員の面倒を見切れなかったのだろう。また、規模が小さいと人間関係が濃密過ぎて現代日本人には耐えられないのであろうか。よくわからない。

小生は体験から村落共同体が崩壊してしまい、その代わりに会社が村落共同体の代わりを引き受けている、ということはぼんやり思っていた。さすがの小室氏は、そのことを明快に説明してくれたのである。しからば中国の社会は、というとそれで村落共同体にはならないそうである。それは血縁共同体、すなわち宗族が存在し、急性アノミーを吸収するから中国解体にはいたらないそうである。文化大革命での大量虐殺、洗脳、毛思想の否定が急性アノミーの発生を示唆しているが、結局共同体が吸収したのだと言う。

 日本の知識人で共同体についてここまで明快に述べたのは、他には知らない。小室直樹氏の観察眼は天才的だと思う所以である。


日本のマスコミで戦前にテロで殺された人はいない

2019-10-15 21:45:16 | ジャーナリズム

 

 戦前は、二二六事件などのテロ事件が頻発している。そこでテロの犠牲者について奇妙な事に気付いた。テロの犠牲者を大別すれば、政治家、銀行家などの企業家、軍人と言った人たちが殺され負傷している。だがその中には新聞などのマスコミ関係者はただの一人もいないのだ。

 

 朝日新聞などは現在、新聞などのマスコミは右翼や軍部から言論弾圧を受けたと主張している。元朝日新聞記者の後藤孝夫氏は「辛亥革命から満洲事変へ」と言う大著でこの事件の間に大阪朝日新聞が右翼や軍部から弾圧をうけたことについて多くの紙幅を割いている。その中に書かれている物理的被害とは

1931年頃の在郷軍人会による朝日新聞不買運動

1928年の右翼の編集局乱入騒ぎ

 

 これだけである。「直接行動で右翼恫喝」(P380)という仰々しいタイトルの項を見れば、最大のものは内田良平が大阪朝日の調査部長と会談したことと内田の公言した「民間団体の直接行動」計画が大阪朝日に大きな衝撃を与えた、というものである。計画だけで怯えたというのだから、「勇気を持って真実を書く」などと言うのは大言壮語である。

 

 人間緒方竹虎という本には、二二六事件の際に大阪朝日新聞を襲った軍人たちが、「国賊朝日をやっつけるのだ」と言って帰って行った、また軍人がやってきてカネを貸せと言って何千円か持って行った、活字のケースがひっくり返された、と言う被害である。怪我人どころか発砲もされていないのだ。彼らは僅かな被害を持ちださなければ、自分たちが犠牲者である、と言う証明ができないのだ。

 

私には新聞関係者だけが殺害の対象にすら成らなかったことは奇異ではない。新聞関係者は、右翼や軍部と敵対していたのではないからだ。それどころか軍人や国民を戦争に煽っていたのだ。もっと正確に言おう。当時のマスコミは国民の意向を反映していたのである。そして陸軍も国民の意向を反映していたのだ。当時の不景気や満洲における支那側の相次ぐ暴力行為や条約破りを政党政治は何もしなかったのである。

 

 実際緒方竹虎は戦後「五〇人の新聞人」という本に、満洲事変頃から大新聞が皆で話し合って反戦の運動をすれば軍の暴走を防げたと堂々と言ってさえいる。軍部に弾圧されたのではないと言っているのだ。だから戦後の大新聞は針少棒大に軍部や右翼に弾圧されたという事を言わなければならない。

 

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海軍特別攻撃機・桜花

2019-10-15 19:57:10 | プラモコーナー

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この写真は、桜花を搭載した一式陸攻二四型丁の1/72スケールモデルである。桜花は155機が完成し、部品は約600機分完成していたというから、相当なものである。集中して使用されたのは、昭和20年3月の神雷特別攻撃の16機であるが、戦果なく一式陸攻とともに全機が撃墜された。その後は散発的に使用されただけである(以上「日本航空機総集による)。

 

 その後散発的に出撃したが、戦果は撃沈が駆逐艦、マナート L エイブルの一隻だけである。弾頭部に1.2tもの爆弾を搭載しているのにしてはあまりに少ない戦果である。米軍のコードネームはBakaである。人間爆弾、という発想に驚きあきれたのだろう。

 陸軍は、電波誘導の無人ミサイルとして、四式重爆用と九九式双発軽爆用に、それぞれイ号一型の甲と乙を開発にほぼ成功したが、射程距離が短いため、射点につく前に撃墜されるだろうとして、使用されなかった。桜花が簡便な火薬ロケットを使用したのに対して、イ号はともに液体燃料ロケット使用していた。

 これらの日本軍の兵器は、後に空対艦ミサイルとして各国で実用化されることとなった。特にソ連海軍は、Tu22Mという大型爆撃機に対艦ミサイルを多数搭載して、米空母の攻撃を可能にするに至った。結果的に日本海軍の陸攻の思想は、魚雷や桜花に代わって、ロックオンして最終誘導をミサイル自身が行う方法で、旧ソ連に継承されたのである。

 旧ソ連海軍はまともな空母が運用できないため、陸攻と同様に大型爆撃機を使用することにしたのである。その方法は飽和攻撃である。多数の爆撃機から多数の対艦ミサイルを発射して、迎撃能力を飽和させて、打ち漏らした対艦ミサイルで空母を撃沈する方法である。大型雷撃機を陸上から発進させて、敵主力艦を撃沈しようとする陸上攻撃機を推進した山本五十六らの日本海軍の幹部も、まさかソ連海軍が後継となろうとは、夢にも思わなかっただろう。